検索

ラベル イングマール・ベルイマン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル イングマール・ベルイマン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年2月16日火曜日

仮面ペルソナ(‘66)     イングマール・ベルイマン

<映画作家の煩悶が集中的に外化し、模索する稀有なアーティストの映画論>



1  海辺の別荘を拠点にした女の真摯な「内的会話」の結晶点



「3カ月間、そのままで、あらゆる検査も受けた。精神的にも肉体的にも全く問題はなかった。ヒステリー発作でもない」

これは、舞台女優として地位を築いていたエリザベートが、突然、舞台の出演中、セリフが発せられず、「失語症」になった旨を、25歳の婚約中の看護婦・アルマに説明し、その看護を依頼する精神科医の言葉。

エリザベートの射抜くような目が怖くて看護を断ったアルマだが、精神科の女医の要請で、引き続き看護を担当する。

病床から、ベトナム戦争で焼身自殺する僧侶のテレビ画面を見ながら、すっかり怯(おび)え切ってしまうエリザベート。

そのエリザベートは、善良な夫からの手紙に同封されていた自分の息子の写真を、思わず破り捨ててしまうのだ。

「本当の自分でありたいと思っているのね。いつも自意識に縛られている。他人の目に映る自分との大きなギャップ。”曝け出したい”という激しい欲望。裸にされ、切り裂かれ、無になってしまいたい。何を言っても嘘になり、あらゆる仕草が演技。自殺する?それは、誇りが許さない。でも、身動きせず、沈黙すれば、嘘をつかずに済む。自分を外界から守れる。もう、心にもない演技をしなくてもいい。現実は残酷よ。割り込んで来る現実を完全には遮断できない。誰も、あなたの真の姿など、気にかけてくれない。安心できるのは、演技している時だけ。だからこそ、わざと口をつぐんだのね。自分の弱さを逆手に取った」

この女医の言葉こそ、エリザベートの「失語症」の背景にあることを雄弁に示唆していると思われる。

かくて、この女医の勧めによって、海辺に面した彼女の別荘への転地療養が具現する。

エリザベートの看護を担当するのは、言うまでもなくアルマだった。

エリザベートとアルマの二人は、短期間で良好な関係を築いていく。

「こんなに満たされた関係は初めてよ」

自分の婚約者・カテリーナとの「愛の縺れ」や家族について、一方的に話しかけるアルマの言葉である。

ある日、そのカテリーナによって、少年とセックスさせられたばかりか、素姓も分らぬ男たちと戯れた挙句、妊娠し、堕胎した過去の過ちを、泣きながら告白するアルマ。

「あの時の私は、何だったのかしら。普段の自分の理性が、どこかに消えてしまう。私の中に二つの人格があるのかしら」

どちらが看護婦だか分らないようなアルマの身の上話を柔和に聞くエリザベートにとって、アルマが言う、「二つの人格」という含みのある言葉こそ、まさに自己を投影する何ものかだった。

エリザベート(左)とアルマ
それは次第に、エリザベートとアルマという「二つの人格」が溶融し合う現象でもあったのか。

しかし、この関係に亀裂が生じる

「こんな静かな生活を送るのが夢だった。傷ついた心が、息を吹き返すみたい。彼女も楽しんでいるみたい。どうやら私を崇拝しているようなの。観察するのは面白いわ。過去を嘆くこともある」

これは、エリザベートに投函を頼まれた女医宛ての手紙文面の一部。

の手紙を盗み読むアルマが、先日、エリザベートに告白した事実を、「過去を嘆く」と書かれた文面に怒りを覚えたのは当然だった。

「あなたの声が聞きたいの。一言だけでもいいの。冷たい人だわ。芸術家の心は、温かいものだと信じてた。私の言葉も、何もかも、自分のために利用した!」

アルマの怒りが、相変わらず「失語症」に陥っているようなエリザベートに対して、直截(ちょくせつ)に吐き出したのも当然だった。

叩き合いの喧嘩になり、アルマは出血する始末。

それでも口を開かないエリザベートは、笑みで返すのみ。

それを見て、益々、自分の感情が抑えられないアルマは、「あなたの心は、ひどく病んでいる。健康である演技をしているだけ」とまで言い切って、エリザベートへの言語的暴力を重ねていくのだ。

このアルマの言語的暴力に不快な反応を示したエリザベートは、その場を立ち去っていく。

それを追うアルマ。

必死に謝罪するのだ。

アルマの謝罪に反応を示さないエリザベートを視認し、アルマはいよいよ傷ついていく。

エリザベートの夫が妻を見舞いに来たのは、まさに、そんな状況下だった。

ところが、出迎えたアルマをエリザベートと思い込むエリザベートの夫に、「奥さんではありません」と答えるアルマだが、「息子が会いたがっている」という男には全く通じない。

この時点で、二人の女性がエリザベートの分裂した人格であることが判然とする。

なぜなら、この男の前に二人の女性が立っているにも拘わらず、その現実を視認できないからである。

これが、エリザベートとアルマの人格の入れ代わりの本質である。

「何もかも、嘘と芝居よ!」

アルマのこの叫びは、本質的に、エリザベートの心の叫びなのだ。

この把握をベースにして、物語を繋いでいく。

この直後、アルマはエリザベートに対する難詰(なんきつ)を連射し続けていく。

エリザベート(右)とアルマ
エリザベートが舞台女優の仕事を中断したくないが故に、妊娠しても、赤ん坊への憎悪から死産を望むが、望まない我が子を産んでしまう。

以来、産んだことを後悔し、息子を憎み続けていく。

そんなアルマの苛酷な非難を拒否するエリザベートと、非難を止めないアルマとの応酬がピークアウトに達したとき、エリザベートは「失った言語」を復元させていく。

以上の二人の深刻な対峙は、詰まるところ、エリザベートの「内的会話」であったのだ。

「失語症」にまで至ったトラウマを克服したエリザベートが、舞台女優に復帰していくまでの一連の苛酷なエピソードの意味は、海辺の別荘を拠点にした彼女の真摯な「内的会話」の結晶点であったという事実によって検証されたのである。



2  映画作家の煩悶が集中的に外化し、模索する稀有なアーティストの映画論



これは、ベルイマン監督の映画論である。

そのことは、当初、本作に「映画」というタイトルをつけようとした事実によっても判然とする。

更にそれは、映写機が起動するフィルムから開かれる冒頭のシーンが、映写機のフィルムが燃え尽きていくショットで閉じていくシーンの挿入によって、より鮮明になるだろう。

だから本作は、「私たちが映画を見ていることを意識させる映画」(「ベルイマン」小松弘著 清水書院刊より)なのである。

ここで、冒頭のシーンを再現してみたい。

甲高くて、こめかみに響く金属音のような不快なBGMが誘導する映像が提示するのは、異常なカットの連射だった。

剥き出しのペニス、蜘蛛、鳥の内臓、眼、羊の解体、釘で打ちつけられる手、今にも死にそうな老婆の顔と、遺体と思わせる少年が目覚ましの音で起き上がる姿、そして、その少年がスクリーンに大きく映し出された女性の顔を、右手でまさぐっている。

この間、オープニング・タイトルが提示されるが、ベトナムの焼身僧や女の顔が映像に挿入される。

そして最後に、少年がまさぐって映し出された女性の顔が少年の母であるエリザベートである事実を提示する。

この事実は、物語の中で明らかにされる、エリザベートの記憶・妄想の総体である。

焼身自殺するベトナムの僧侶や、少年が手を挙げる「ユダヤ人移送」の例の有名な写真に象徴されるように、エリザベートはテレビ画面に映されたネガティブな映像を見て、恐怖に怯(おび)えているのだ。

この極めつけの構図は、「舞台監督=芸術家=映画作家」としてのベルイマン監督の内面世界の反映である。

「舞台監督=芸術家=映画作家」としてのベルイマン監督が、自分の内面世界の葛藤を的確に表現する文化フィールドこそ、オリジナリティ溢れる独特の映像世界以外ではない。

その内面世界の葛藤が、「映画」というタイトルをつけようとした、この狂おしくも悩ましい〈映像〉のうちに表現されていく。

そこで表現された物語は、狭義に言えば、前述したように、「失語症」にまで至ったトラウマを、エリザベートの真摯な「内的会話」によって克服していく内実であるが、私は本作を、もっと広義な解釈で読み取りたい。

その意味で、「人間の外的側面=ペルソナ」というユング心理学の概念と無縁でないが、「アニマ」(男性の中の女性像)・「アニムス」(女性の中の男性像)という有名な概念とは、特段の関連性を持ち得ない。

思うに、「舞台監督=芸術家=映画作家」というベルイマン監督が、社会的ポジションから離れた私的な日常性の渦中に侵入する、社会や世界のネガティブな現実に付き合わされる時間を累加させていくと、どうしてもそこに、ごく「普通の社会人」としての無力感を感受せざるを得なくなるだろう。

この不快な現実の様態を、自分の中で浄化し得る手段として、映画作家は、その本来の芸術家としての相貌性に仮託させ、そのイメージの総体を、映画の嘘の「物語」である事実を認知しつつ、全人格的に表現し切っていく。

この映画では、ベルイマン監督に内在する二つの相貌性、即ち、「芸術家=映画作家としての表の顔」と「社会人としての裸形の人格」を分裂させ、葛藤し、融合しつつ、本来の芸術家としての姿に立ち返っていく自己像を、監督自身の映画論として「主張的自己呈示」したものと考える。

「映画作家」を排除した、「芸術家としての表の顔」はエリザベートに自己投入し、「社会人としての裸形の人格」はアルマに自己投入させるのである。

だから、エリザベートもアルマも、ベルイマン監督に内在する二つの相貌性が分裂的に表現された人格である。

映像表現に行き詰まって、ユング心理学に依拠し、大傑作「81/2」(1963年製作)で「主張的自己呈示」したフェデリコ・フェリーニ監督のように、「神の沈黙」三部作を撮り終えたベルイマン監督もまた、最後まで、正確な原因が特定されない「失語症」になったエリザベートに、映画作家・ベルイマン監督の煩悶が集中的に外化し、模索しているのだ。

それ故、本作が「映画」であることを敢えて見せるばかりか、「映画」とは何か、自分が創るべき「映画」とは何かという根源的課題を、突き詰めていくように思えてならないのである。

【参考資料】  「ベルイマン」(小松弘著 清水書院刊)   「教育心理学Ⅱ」(下山晴彦編 東京大学出版会)

(2016年2月)


2016年2月9日火曜日

第七の封印(‘56)     イングマール・ベルイマン

<虚無の地獄に喰い尽くされた者たちの、その終息点の風景の痛ましさ> 



1  「ヨハネの黙示録」 ―― その冥闇の世界が開かれていく



ベルイマン監督の映画は、いつ観ても素晴らしい。

経年劣化しないのだ。

常に、人間の普遍的テーマを問題意識のコアに据えて、それを的確に表現するアーティストとしての力量が、一頭地を抜いているからである。

不良少女モニカ」(1953年製作)から、最高到達点とも思える「秋のソナタ」(1978年製作)を経て、「ファニーとアレクサンデル」(1982年製作)、「サラバンド」(2003年製作)に至るベルイマン映像は、世界映画史上の宝である。

無論、オリジナリティ豊かな「第七の封印」も、その例外ではなかった。

―― 以下、梗概と批評。

「小羊が第七の封印を解いた時、天は静寂に包まれた。それは半時間ほど続いた。そして、ラッパを持った七人の天使がラッパを吹く準備をした」

タピスリー「ヨハネ黙示録」アンジェ城所蔵 フランス
「ヨハネの黙示録第8章」から開かれる冒頭のナレーションである。

従者・ヨンスを随行する騎士のアントニウスが、自らを「死」と呼ぶ死神に出会ったのは、全ては神の名のもとに、「蛇に咬まれ、虫に刺され、獣に襲われ、異教徒に切られ、酒に毒され、病気をうつされ、熱に浮かされてきた」(ヨンスの言葉)、10年間にもわたる十字軍の虚しい遠征から疲弊し切って、帰国の途に就いているときだった。

「ずっと傍らにいた」と言う死神が、「用意はできているか?」とアントニウスに問う。

「体はいいが、心はまだだ。少し時間をくれ」と答えたアントニウスが、死神にチェスを挑んだのは、自らの死に対する猶予期間を持ちたいからだった。

「勝負がつくまで私を生かし、負けたら解放しろ」

かくて開かれたチェスのゲームを中断し、アントニウスとヨンスの帰国の旅は継続されるに至る。

そんな中で、道の傍らに馬車を止め、骨休めしている陽気な旅芸人一家(夫のヨフ、妻のミア、幼児ミカエル)がいる。

夫のヨフが、幼いイエスを連れた聖母マリアを見たことをミアに話しても、「想像力が豊かね」と言って全く取り合ってくれないが、夫婦愛に満ちた二人の会話には、アントニウスの煩悶と無縁な光景だった。

一方、ペストが蔓延し、一切を神の罰であると考える民衆の悲惨な光景を見て、教会に入り、懺悔室で神父に告白するアントニウス。

「鏡を覗き込めば、映るのは、その虚無感です。見るだけで胸が悪くなり、恐ろしくなります。人と交わらず、社会の外に身を置きました。今や、己の幻想の中に生きる囚われ人です。死にたいです」
「なぜ、引き伸ばす?」
「体験したい」
「確証を得たいのか?」
「そうとも言えます。神の存在を感じることは不可能ですか?我々が信じるのは、空約束と真偽の分らぬ奇跡。不信心者はどうなるのです?我々は、神を信じられなくなった。なぜ、神を消せない。いくら心から追い出そうとしても、あざ笑うかのように居座っている。幻想に過ぎない存在を、なぜ消し去れないのです?」
「主は沈黙される」
「呼びかけても暗闇の中には、誰もいない気がします」
「それが事実なら?」
「人生は空しいものに。そうと承知で死と向き合い、生きてはいけない」
「皆、死も空しさも考えない」
「でも、いつかは死の淵に立つ。我々は恐怖を偶像化し、それを神と呼ぶのです」
「何を怖れている?」
「今朝、死が訪れたのでチェスを挑み、目的を果たす猶予を得ました」
「目的とは?」
「生涯、私は神の姿を求め、神に問いかけてきました。実りのない行為でしたが、己を恥じていません。誰の人生も、そんなものだ。ですが、私は最後に一つ、意義ある行いをしたい」
「そのために死に挑んだ?」
「奴は戦略家です。ですが、私も負けてはいない」

死神アントニウス
途中、背後からの死神の問いに騙され、チェスの作戦を教えてしまうアントニウス。

アントニウスが死神を認知しても、後の祭りだった。

アントニウスがヨンスを連れ、教会の外に出るや、そこには、明日、その悪行によってペストがもたらされたと断定され、火焙りの刑に処される「魔女」が縛られていた。

その魔女に「悪魔を見たか?」と聞くアントニウス。

苦悶の叫びしか拾えなかった。

水を汲みに来たヨンスが小屋の中で見たのは、死者から腕輪を盗む男の忌まわしき光景だた。

この男こそ、アントニウスらを十字軍に参加させた、神学者・ラヴァルであった。

その成れの果ての姿を視認し、ラヴァルに恫喝された一人の娘を救い出すヨンス。

そして、「死の舞踏」をイメージさせる民衆が、ラインを成して進む姿を視界に収めるアントニウスとヨンスたち。

「終末がやって来たんだ」と怯(おび)える者もいる。

妻に逃げられた鍛冶屋は、必死に妻を探し回っている。

役者と駆け落ちした妻を、「殺してやる」と息巻くのだ。

一方、死神とチェスを継続しているアントニウス。

アントニウスミア
そのアントニウスは、旅芸人一家の妻・ミアがミカエルをあやしている平和的な光景を見て、柔和な会話を繋ぐ。

「今日、舞台に立っていただろ?」
「ひどかった?」
「化粧をせず、今の姿の方がずっと綺麗だ」
「そうかしら。ヨナスが途中で消えたっきりで、困っちゃうわ」

ヨナスとは鍛冶屋の妻と駆け落ちした旅芸人の座長であるが、その事実を知らずに、元の軽業師に戻る不安を抱えるミア。

そのミアに「憂鬱な顔をしている」と言われ、「同伴者がいるから」と応えるアントニウス。

リアリストのミアには、アントニウスが「同伴者」と呼ぶ死神の姿が見えないのである。

そこに、酒場に行って喧嘩に巻き込まれたヨフが戻って来て、相変わらず、円満な家族の風景が再現する。

旅芸人一家の安全を思い、共に森に逃げることを提案するアントニウス。

既に、ヨフと見知りのヨンスもその輪に加わって、長閑(のどか)な時間を過ごすのだ。

「ここにいると、苦しい現実が嘘のように思える。この静寂と夕闇。ごちそうになった野いちごとミルク。夕日に映える君らの顔。この思い出を大事にしよう。ミルクが入った器をそっと運ぶように。きっと思い出すたびに、心が満たされるだろう」

映像の中で初めて見せるアントニウスの穏やかな表情は、彼にだけ見える死神の出現で、一転して暗欝な表情に戻されるのだ。

チェスを続ける二人。

チェスとは無縁なヨンスは、「俺は治りそうもない」と言う鍛冶屋の嘆きを受け止めていた。

「愛で死ぬバカはめったにいない。この不完全な世界で、愛ほど完全なものはない。その不完全さにおいてはな」

かくて、森の中を通って、城への旅を続けるアントニウスと旅芸人一家、そして鍛冶屋。

その森で、駆け落ちした鍛冶屋の妻とヨナスと出会い、鍛冶屋の妻は夫のもとに戻って来るが、死神を見たヨナスはその場で命が絶えてしまうのだ。

そして、「魔女」の火焙りの刑に立ち会い、再び、アントニウスは彼女に、「悪魔と会ったのか?」と問いかけていく。

「私の目を見て。何が見える?悪魔がいるでしょ」
「見えるのは、君が抱く恐怖だけだ。あとは誰もいない」
「何もない?誰もいない?」
「ああ」
「では、お前の背後か?」
「いや。誰もいない」
「でも、悪魔は常にいる。今も一緒よ。私は火に包まれても平気。処刑人は怖くて私を触れない」

そう言った女は、まもなく処刑されるに至る。

その傍らに、死神がいたのは言うまでもない。

「あの娘は気づいたんだ。虚無しかないことに」

アントニウスヨンス
このヨンスの言葉が、女の心理を的確に表現していた。

鍛冶屋夫妻を一行に加えた城への旅で、死神とのチェスを繋ぐアントニウス。

その異様な光景を視界に収め、驚愕するヨフ。

それは、旅芸人一家にも死が近づいていることのシグナルである。

妻子を連れ、森を脱出していく一家。

旅芸人一家の脱出を目視し、彼らを救済したアントニウスは、チェスでの敗北を認めざるを得ない状況下で、無事、妻の待つ城に帰還する。

すっかり疲弊し切った夫を労(いた)わりながらも、笑みの拾えないアントニウスの妻。

旅芸人一家を除く客人を招いた朝食の場で、「ヨハネの黙示録第8章」を読み続けるアントニウスの妻。

「第一の天使が、ラッパを吹いた。すると、血のまじった雹(ひょう)と火が地上に投げ入れられた。そして、地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった。第二の天使が、ラッパを吹いた。すると、火の燃え盛る山のようなものが、海に投げ入れられた。そして、海の三分の一が血に変わり、第三の天使がラッパを吹いた。すると、たいまつのように燃える星が天から落ちてきた。その星の名は、『苦よもぎ』と言った」

中央がアントニウスの妻、左が鍛冶屋夫妻
ここまで読み上げた時、迎えがやって来た。

「終わりなのですね」

ヨンスに助けられた娘のこの一言が、彼らが口々に繋ぐ言葉の最後になって、死神に誘(いざな)われていく。

「ヨハネの黙示録」 ―― その冥闇の世界が開かれていくのだ。

ラストシーン。

ヨフが「死の舞踏」を踊るアントニウスらを視界に収めたのは、既に命を繋いだ旅芸人一家が、いつものように休息しているときだった。

「嵐の暗い空の下、並んで進んでいくよ。死神に導かれて踊っているよ」

ラインを成して手を繋ぎ、「死の舞踏」を踊っているアントニウスらは、朝日の向こうに去っていくのだ。

行き先は闇の国。

「死の舞踏」
彼らの頬に雨が降り注ぎ、涙の跡を洗い流すのだ。

「また、幻覚を見たのね」

これも、いつものように、ミアの言葉である。

極限状況下にあっても、糧を得るために生きる旅芸人一家の旅だけは、まだまだ続くだろう。



2  虚無の地獄に喰い尽くされた者たちの、その終息点の風景の痛ましさ



イングマール・ベルイマン監督の一代の傑作であるこの映画を、私は以下の3点のうちに要約したいと考えている。

①拠って立つ観念系が穿たれた者の崩壊現象
②統治能力を超えた人間が、想像を絶する恐怖を感じた時の「防衛的自己呈示」
③曇りなき心で見る者の迷いのなさ

まず、①について。

「神の存在」への問いかけであることは自明だが、このテーマでの初作品の狙いが、生に対する肯定的姿勢をもって、牧師の実父の欺瞞性への反発にあると、私は見ている。

この反発が、「主張的自己呈示」(自己像の積極的な呈示)に昇華された作品であるが故に、極めて凄惨で鮮烈な映像に結ばれていた。

これは、イングマール・ベルイマンが脚本を書き、イングマールの息子・ダニエル・ベルイマン監督の「日曜日のピュ」(1994年製作)という映画を観れば判然とするだろう。

確信的であったはずの自分の人生を悔い、赦しを求めてさえいる重い病床にあるイングマールの父に対峙して、イングマールはこう言い切ったのだ。

「感情的な強請(ゆす)りは軽蔑する。自分で悟るべきだ。理解してくれ、許してくれというのなら、相手を間違えている。過去は既に解けない謎の彼方だ。もう、いじくり回したくない。友だちではいよう。実際的な問題には手を貸すよ。話し相手にもなる。だが、感情的になるのは止めてくれ」

以下、「ベルイマン Century Books―人と思想)」からの引用。

イングマール・ベルイマン監督
「ベルイマンは女友達と半同棲のような生活を始め、何日も家に帰らなかった。それ以前から厳格な父エーリックに対する彼の憎しみは増大し、爆発寸前にまで達していたが、ある日、父エーリックに女友達との関係を咎められるや、父と子の間の緊張感は絶頂にまで達した。ベルイマンは父を殴り倒し、家を飛び出て、スヴェン・ハンソンの所に駆けこんだ。それから何年もの間、ベルイマンは父エーリックと会うことはなかった」(「ベルイマン」小松弘著 清水書院刊)

ベルイマンと牧師の実父との確執が、ベルイマン自身の生き方の総体を懸けた深刻なものであったことが、ひしひしと伝わってくる一文である。

無論、アントニウス=イングマールではないのものの、アントニウスの煩悶は、イングマールの父の煩悶を印象づけて、切っ先鋭く、観る者に突き付けてくるのだ。

「でも、いつかは死の淵に立つ。我々は恐怖を偶像化し、それを神と呼ぶのです」

アントニウスのこの言辞は、見事なまでに宗教の本質を言い当てている。

死を宣告する死神に対して、アントニウスがチェスでの対決を申し入れたのは、彼自身が拠って立つ、生まれついての観念系(信仰心)が穿(うが)たれた経験によって、深刻な崩壊現象からの再構築の可能性の有無を確認し、それを切実に希求したからである。

だから、火焙りの刑に遭う女に、「悪魔と会ったのか?」と問いかけるのだが、「あの娘は気づいたんだ。虚無しかないことに」と言い切ったヨンスの言葉に、アントニウスは「違う!」と叫ぶだけだった。

それは、ヨンスの言葉が女の心理を的確に表現していたことを、暗に認めている証左である。

「鏡を覗き込めば、映るのは、その虚無感です。今や、己の幻想の中に生きる囚われ人です。死にたいです」

この懺悔室でのアントニウスの告白が、彼の内面世界の本質を代弁しているのだ。

虚無しかない現実を突きつけられたアントニウスの、その中枢の崩壊現象が極まった時、死神から得た彼のモラトリアムは終焉するに至る。

今や、彼にとって残された選択肢が、旅芸人一家を救済する行為に結ばれるのは必至だった。

「私は最後に一つ、意義ある行いをしたい」と言う、懺悔室での彼の告白に嘘はなかったのである。

拠って立つ観念系に支えられた、生まれついての人生観・宗教観の再構築は、あまりに困難であるとしか言いようがないのだ。

思えば、一切の手立てが封じられ、「死の舞踏」に誘導されていったのは、虚無の地獄から逃れ得ない心境に捕捉された者たちだった。

アントニウスらを十字軍に参加させた神学者・ラヴァルに、暴力的復讐を加えたヨンスには、火焙りの刑にされる女の虚無の地獄が理解できていた。

神の名の下に行なわれた十字軍のトラウマが、ヨンスの人生観・宗教観をも喰い尽くしてしまったのである。

ヨンスに助けられた娘が、「終わりなのですね」という言葉を残したのも、神学者が黒死病で逝った者から盗みを働くほど、人の心が荒廃する現実を見て、未来を切り開く意欲など、とうに削り取られてしまっていたのだろう。

鍛冶屋夫妻は心身ともに疲弊し切っていて、熱量の自給もままならないようだった。

そして、世界の終末をイメージする、「ヨハネの黙示録第8章」を読み続けるアントニウスの妻もまた、黒死病(ペスト)の蔓延と、神に救いを求めても手に入れられない民衆の惑乱する姿に接したのか、信仰心を失っているように見える。
 
まさに、虚無の地獄に喰い尽くされた者たちの、その終息点の風景の痛ましさを感受させられるラストシーンだった。

③について言えば、簡単に把握できるだろう。

アントニウスの中枢の崩壊現象と、構造的に対極を成していることが明らかであるからだ。

信仰心の厚さの有無とは無縁に、曇りなき心で見るヨフの迷いのなさが、自らに降りかかってくる危険を鋭敏に察知する能力を保持し得ていたのである。

一言で言えば、この映画は、虚無と無縁な旅芸人一家だけが、「ヨハネの黙示録」に記された「ハルマゲドン」の恐怖への誘導に、丸ごと喰い尽くされていなかったという物語だったのだ。

先の「ベルイマン」の著者・小松弘によれば、旅芸人のリアリストのミア=聖母マリア、その夫のヨフ=神の意思を知る予言者、即ち、母・マリアとイエスの姿を見る啓示能力を持つ予言者で、幼児・ミカエル=イエスというメタファーが内包されていると読んでいるが、当然の如く、こういう解釈もあっていい。

そして同時に、旅芸人=芸術家である故に、芸術だけが世界を救うというメッセージであり、ヨフに芸術家・イングマール・ベルイマンの自己像を重ねていると言うのである。

最後に、②について言及したい。

統治能力を超えた人間が、想像を絶する恐怖を感じた時の「防衛的自己呈示」。

これが、私の問題意識のコアにある。

「我々は黒死病に消し去られるのだ」という映画の中の台詞に象徴されるように、「邪教」に感染した人々の「死の舞踏」をイメージさせるシーンが出てくる。

恐怖が広がりを持つことによって、ペストなどの不治の病の特定の対象から、いつしか、「神の天罰」という妄想を生み、本来、そこに心を浄化させ、信仰の対象としての神を怖れる感情を過剰に作り出してしまうのである。

集団ヒステリーであるこのシーンは、まさに、自分たちの力で何も為し得ない絶望的な状況下で、その恐怖感の塊が、一見、解放的な形で身体化された現象なのだ。

十字架を抱え、自らを鞭打ちながら、ラインを成して進む民衆たちの歌や踊りは、恐怖が駆り立てた、「これ以上、苦しめないでくれ」という、彼らにとって、それ以外にない「防衛的自己呈示」である。

ミヒャエル・ヴォルゲムート 『死の舞踏』
即ち、信仰の対象としての神に「弁解」し、「謝罪」する行為を繋ぐことで、死の恐怖からの束の間の解放感を得る「防衛的自己呈示」なのである。

死の恐怖から逃れられない極限的な不安感情が、脆弱なる人間を、このような行動に駆り立てるのだ。

考えてみるに、人間が前頭葉を持つことによって、豊かな想像力を獲得する。

逞しくし過ぎた想像力は、快感の対象と共に、恐怖の対象を広げていく機能を果たしていく。

これは、扁桃体によって無意識のうちに条件づけられた防衛的反射行動である。

人類が生き延びるための環境への適応プログラムとして発達した感情の本質が、時として、継続的に恐怖の情動刺激に晒されることで、過敏に反応してしまう恐怖を発症する現象に下降していくのである。

以上が、本作に対する私流の解釈である。


【参考資料】  「ベルイマン Century Books―人と思想)」(小松弘著 清水書院)
  拙稿・人生論的映画評論「日曜日のピュ」(1994年製作)
  

(2016年2月)