1 「関係ないね、お前に」「関係ないことばっかしね」「お前に関係あること、何にもないよ」
舞台は下町の上宿商店街。
3年前に家族を置いて出て行った浜中康一(以下、浜中)が、足を怪我して杖をつき、街に帰って来た。
浜中 |
その目撃情報や伝文から、商店街の一角にある大沢たみ(以下、たみ)の“喫茶大沢”に集う商店街の常連客たちが、浜中の噂話に花を咲かせている。
「今回まだ、早い方だね」
「帰って来たら、またどっか急にいなくなる。なんか忙しい人ですよね」
たみが席を立ち上がり、注文の品を調理する。
たみ |
「上海に行ってるんだっちゅうなこと、いつだったか聞きましたけどね」
「この間、新宿で見かけたんでしょ?」
「どうせ、女のとこにでもいるんだろ」
囲碁を指しながら、熱心にその話を聞いているのは、浜中の妻・久子に思いを寄せる作家志望の朝倉定二(以下、朝倉)。
「何だかんだやってるうちに、お縄になったんだよ、きっと」
「それ、ほんとですか?」
朝倉 |
朝倉は、そんな噂話を真に受ける。
「しかしまあ、こうして我が商店街の仲間が帰って来たわけだからな、一つ宴(うたげ)を催(もよお)さんといけねぇかな。ねえ、たみさん」
浜中の出奔に慣れている両親と息子は、何事もなかったように浜中と会話し、朝食を摂る。
3年ぶりで帰宅し、俳句を詠む浜中 |
久子が庭の野良猫にエサをやろうとしていると、朝倉が回覧板を届けに来て挨拶し、「お帰りになったんですね」と久子に言葉をかけるが、軽く肯くのみ。
浜中は、喫茶大沢の真向かいにある家業の電気店に出勤し、その様子を伺うたみが浜中を見、浜中も店からたみの方を見る。
朝倉は、写真館で写真を撮ってもらいながら、館主に「なんで久子さんがあんなヤクザなみたいな男と別れないんだろうと思うんですよ」とストレートに疑問をぶつけた。
館主は、昔はあんなじゃなかったと言い、緊張して目を瞑ってしまった写真の数々を見せながら、「これが浜中」と示す。
「全然違うな」
「あいつが29くらいの時かな。初めて家を飛び出したのは」
「どうしてですか?」
「さあ、何があったんだかね」
「この人、覚えてる?」
館主がたみの死んだ夫の大沢の写真を見せた。
「たみさんが、27か8の時だったね。大沢さん亡くなったの。あの人が死んですぐだよね。浜中が出ちゃったのは」
そこから朝倉は、たみと大沢の関係について探ろうと、父親からも聞き出そうと試みる。
「たみさんと大沢さんって、お見合い結婚?」
「お見合いなんかじゃないよ」
病院を出たり入ったりしている大沢を、たみが看病に行っていたからだろうと話すのだ。
久子に連れられ病院へ行き、ギブスが取れた浜中は嫁に行った妹に呼び出され、東京湾を眺望するホテルのレストランで落ち合う。
「お兄ちゃん、今度は落ち着くつもりなんでしょ?」
「知らないよ」
「お兄ちゃんがいない間は、お兄ちゃんの話、禁句だったからね。久子さんも淡々としてるし…」
「何なんだよ。話って」
「お父さんのね、借金のこと」
ここまでの会話だった。
一方、朝倉と久子が川沿いを歩きながら会話する。
「定(てい)ちゃん、いい人いないの?」
「探さないのがいけないんでしょうけど…久子さんは、どうやって浜中さんと知り合ったんですか?」
「忘れた、そんなことは」
「そういうことって忘れちゃうものですか」
久子が開く創作アクセサリーの教室で生徒に教えたあと、頼まれたアクセサリーをたみに届け、たみにもプレゼントする。
「なんでくれんの?」と嬉しそうな表情を見せるたみ。
昼時の忙しい喫茶大沢に、浜中がふらっと入って来て、カウンター席に座った。
振り返ったたみが、浜中がいるので驚く。
「なんか食べんの?」
「そば食ってきた」
「じゃ、コーヒーね…こないだ、誰としゃべってたの?駅前の公衆電話でずっとしゃべってたでしょ」
「関係ないだろ、お前に…」
「あんた、変な縁、切った方がいいわよ」
「お前に関係ないだろ」
「足、どうした?」
「関係ないね、お前に」
「関係ないことばっかしね」
「お前に関係あること、何にもないよ」
程なくして、浜中は一家揃っての夕食の場で、一大決心を話し始めた。
「ちょっと、皆いいかな。あの店、俺、変えるからね。電気屋なんてダメだからさ。変えるからね」
皆、無反応のまま食事を続けるのみ。
早速、浜中はファミコンソフトのショップを始めるや、店には多くの子供たちが集まり盛況を博すのだ。
たみの義母が見合い写真を見ながら、「良さそうな人じゃない」と、たみに勧める。
「あたしたち、真剣なのよ」と義妹が言うが、たみは「やめてよ」と相手にしない。
「あたし、そんな全然ないですから」
「ほんと、籍を抜いてくれてよかったんですよね。ずっと店を押し付けっぱなしで」
「お兄ちゃん、亡くなってから、もう20年だものね」
姪の遊び相手をしながら、「あっという間にね」とたみ。
江戸川の土手で、朝倉が川向こうの病院を眺めながら、久子に訊ねた。
「あの病院に大沢さん、入院してたんですよね」
「ほんと、長いこと入院してたのよ」
「たみさんも、あそこ通ってたんだ。その頃、浜中さん、何してたんですか?」
「何してたっていいじゃない」
朝倉は古本屋の店主にも浜中のことを聞き出そうとする。
「昔の話だからな。と言っても20年か。たみさんのお父さんもお母さんも、いずれは結婚するんだろうって考えてたからね」
「浜中さんとたみさんが?」
「…結局、浜中は、あんなガタイがデカいくせして、はっきりしねぇんだよね。俺なんかも、そう思ってたもん。たみさんと浜中は、絶対に結婚するんだってね」
朝倉は、今度は不動産屋の店主に話を聞き出す。
「大沢には、大沢のことをずっと思ってた人がいたみたいなんだけどね。でも、大沢が惚れてたのは、その人じゃなくて、たみさんだった。大沢って男は、どっか影の薄い子でね。あんまり、お似合いとは言えなかったな。たみさんとは」
「でも、大沢さんとたみさんは、結婚したんですよね」
「まあ、そういうことに関しちゃ、たみさんは折れるような人じゃないんだけどね。ある時、ふっと結婚しちまったんだよな」
「どうしてですか?」
「あの頃、どんどんヤツれていったからね、大沢は。そんな大沢を見てるうちに、同情というか、憐れみみたいなものを感じるようになったんじゃないのかなぁ、たみさんは」
「憐れみ…憐れだから結婚したんですか?」
「いや…いけないかい?そういう理由じゃ。浜中は、だから、そういう二人の気持ちが理解できた分、きつかったんだろうな」
浜中夫婦に関心を持つ朝倉の心が揺れていた。
2 「あいつは死んでから、色んなことやってくれたな。余計なことをな」
風邪で熱を出した浜中が、たみの店のソファに横たわっている。
「たみさんよ、お前さん、いつまでこんなところにいるつもりなの?おいちゃん、おばちゃん、あっち(岡山)行って何年?」
「5年かな」
「元気なの?2人とも」
「元気なんじゃないの。近所の人に手伝ってもらって、桃作るとか言ってるんだって。空気いいからね」
浜中は認知症の症状が目立ってきた父親が、病室で「ヒッパレー♪ヒッパレー♪みんなでヒッパレー♪」と大声で歌うのを廊下で聴き、かなり進行している姿を目の当たりにする。
浜中の店で働く野村と喫茶大沢でウェイトレスをするニンが結婚し、店で披露パーティーが開かれた。
野村とニン |
多くの商店街の仲間たちが集い、久子はたみの手伝いをしている。
たみが、ニンに皆が話したがってると呼ばれ、浜中の隣に座る。
朝倉は二人がごく自然に並んで座っているのを思わず凝視し、その視線に気づく二人と目が合い、朝倉は立ち上がって去って行く。
いつもの野村の遊び仲間で密かに野村を慕っていたレコード店の娘の智美が、寂しそうな顔をして座っているのを浜中が手招きすると、笑顔を作る智美。
智美 |
店を出た朝倉は帰宅する久子に、単刀直入に疑問を投げかけた。
「久子さん、たみさんと大沢さんの昔のこと、知ってるんですよね。恋人もいて、たみさんも大沢さんのこと好きでもなくて。そんな息の合わない二人がどうして結婚したのか、僕には分かりません」
「何でそんなこと、私に話すの」
「それは、正直に言うと、浜中さんがそのこと、引き摺ってるんじゃないかって、思ったからです。だから、あの人、あんな生活してたんだ」
「定ちゃん、あたしね、浜中がどういう生活を送ろうが、構わない気がするの。あたしだって、随分気ままに生きてきたし、こんなこと言うの、変だけど、ちょっと悪いくらいに思ってるのよ、本当は」
「悪いって、何が悪いんですか?」
「あたしも、浜中も、勝手に暮らしすぎた気がして。みんなは、どう思ってるか知らないけど」
「久子さん、もし間違ってたら許してください。大沢さんのこと、すごく好きだった女の人って、あなたじゃないんですか?」
「そうだったら、どうだって言うの?」
「いや、ただ何となくそんな気がしたから…」
結婚披露パーティーがお開きになり、店に残った浜中と、酒を飲みながら大沢が端役で出演している古いビデオ(「あらかじめ失われた恋人たちよ」)を観て語り合うたみ。
カウンターで水を飲みながら、たみの後ろ姿を見つめ、「じゃ、帰る」と言ってドアに向かい、たみは「おやすみ」と声をかける。
ドアを開けたところで、たみの「ねえ、康ちゃん」と呼びかける声に振り返り、浜中はたみを真っすぐ見据える。
「お茶漬け食べてかない?」
東京の下町の夜の街の風景が広がり、二人は肌を合わせながら、長年胸に秘めていた大沢への思いを語り合う。
「気を使ってもらうほど、あの人好きだったことなんてなかったような気がする」
「いつも、少し笑った顔で、聞き役に回るんだ。そんな顔だね。あいつの顔で一番よく覚えてるのは」
「玉ねぎ切って、小麦入れて、そういうここの暮らしって、なんか答えになるようなもの、探してみたけど、こんな暮らしの中に落ちてるものって、ガラクタみたいに使えないものばっかりでね。でも、そういう退屈さがね、ある時、幸せだったのよね」
「俺が死んでも、どうなることってこともないんだろうなって言ったんだよ。あいつ。気の毒なくらい現実味があってさ。でも、ほんとは逆で、あいつは死んでから、色んなことやってくれたな。余計なことをな」
帰り際、浜中がたみに訊ねる。
「どうしても行くのか、岡山へ」
浜中を見つめながら、黙って頷(うなず)くたみ。
上宿商店街の朝の風景。
朝倉が久子を訪ね、川向こうのアパートを借り、引っ越すると告げ、上梓した本を手渡す。
「さようなら」
久子に別れを言われた朝倉は、神妙な面持ちで黙って、頭を下げ去って行く。
喫茶大沢は、ノムラと店名を替え、野村とニンが引き継いだ。
たみのいない「ノムラ」を見る |
まもなく、岡山のたみから桃が送られてきた。
桃の匂いを嗅ぎ、嬉しそうな顔をする久子を見つめる浜中の笑み。
縁側で新聞を読みながら、突然、浜中が久子に呼びかける。
「今度、岡山へ行こうか。たみんとこ」
たみはその頃、ジャガイモを自転車の籠にたくさん入れて、岡山の田舎道を疾走していた。
3 大人の恋の複雑な心理の綾を精緻に描いた秀作
狂言回しの役割を担う朝倉によって解明されていく物語は、写真館に目を瞑った画像だけ残された「死にせし者」(大沢)が、「生きせし者」(浜中、久子、たみ)の、20年にも及ぶ〈生〉と〈性〉の振れ具合を支配していくという構造を成している。
新しい世界に向かう朝倉が、最後まで会話がなかった浜中と会釈する |
ここでは、人の噂話が絶えない程に物理的距離が近接した、昭和の下町の商店街で呼吸を繋ぐ男(浜中)と女(たみ)の捻れた恋の行方に特化して、批評を結びたい。
「あいつは死んでから、色んなことやってくれたな。余計なことをな」
ピロートーク(睦言)での浜中のこの物言いが、「死にせし者」によって「生きせし者」が図らずも抱え込んだ、不安定な関係の安定化の本質を衝いていた。
「生きせし者」が被弾する「余計なこと」の要諦にあるのは、言わずもがな、浜中の繰り返される逃避行(出奔)。
病弱で存在感の希薄なる「死にせし者」大沢の想いの強さに、彼を看護する女・たみの中枢が引き摺られ、心を惑わせながらも結婚するに至る。
男女の感情以前に、病弱な男への憐憫の情を覚えたと思われる。
「あの人、好きだったことなんてなかったような気がする」
たみの吐露である。
それでも、入退院を繰り返す病弱な男の絶対的な弱さを身近で感じる女は、男の想いを受け止めた。
この二人の直接的な情態を視界に入れた浜中は、親が認めたほどの恋人の仲だった女の振れ具合に口を挟めない。
何より友人であり、死の影が忍び寄っているような男を看護する女の献身性を責めようがないのだ。
浜中への想いが変わらない女・たみもまた、複雑な心理の漂動をコントロールできずに迷妄の時間の只中で震えている。
「弱者利得」を押し付けることがなかっただろう男に対する「生きせし者」たちの関係構造のうちに、突出したエゴイズムを拾えないのである。
だから切ないのだ。
たみが27、8の時だった。
そして、まるで約束された運命の如く、男は不帰の旅路に出る。
「死にせし者」が期せずして撒いた現象は、男に関わった者たちの関係にさざ波を立て、彼らの〈現在性〉を攪拌 (かくはん)し、泡立たせていく。
「死にせし者」に想いを寄せていた久子の喪失感を浮き彫りにし、浜中の出奔を決定づけていくのである。
久子の喪失感と浜中の出奔には微妙な意味が含まれていた。
大沢の死による久子の喪失感を埋めたのが浜中であると思われるにも拘らず、相互に強い異性感情を拾えないのだ。
単に、「死にせし者」と関わった人間関係の延長上にあったに過ぎないようだった。
相互に思い思いの〈生〉を繋いでいく。
それでも夫婦の体裁を整えて、特段の不満なく家族を保持している。
だから、浜中の出奔を朝倉に単身赴任であると説明する久子。
「久子さんて、どうっやって浜中さんと知り合ったんですか」
「忘れた、そのことは」
こんな会話も拾われていた。
こういう夫婦だったが、別れることがなかった。
嫌い合っていないという理由だけで、夫婦関係を繋ぐことができるのである。
ではなぜ、浜中は出奔したのか。
もとより、浜中は繰り返し出奔する男である。
最初の出奔は29歳の時。
大沢の死の直後である。
この出奔後も、繰り返し街を捨てていく浜中がいる。
そして、冒頭で商店街の面々が「杖を持った浜中の帰郷」を話題にするシーンは、最初の出奔から20年後のこと。
浜中康一49歳の〈現在性〉である。
杖を持っていたことで、浜中の最後の出奔であることが暗示されている。
この暗示は、認知症になり負債を抱える浜中家にとって、自らが家を守る責任を負う覚悟を迫られた浜中康一自身の立場を決定づけている。
もう、出奔できないのだ。
この覚悟を括った男の時間の只中に、たみが自らを投げ出してきた。
実家の岡山に帰る意思を固めていたから、迷いなく浜中の懐に飛び込んでいったのだ。
「お茶漬け食べてかない?」
「あんなガタイがデカいくせして、はっきりしねぇんだよね」と古本屋の店主に言われるほど、自ら動くことがない浜中の性格が分かっているからこそ、たみは意を決して誘ったのである。
この睦みの映像提示によって浜中の出奔は終焉する。
出奔の因子となった居づらさから解放されたのである。
自分の方から誘うことができない男の〈生〉と〈性〉の収束点が、そこに読み取れるのだ。
居づらさから解放された男は、岡山のたみが贈ってきた桃を見て、「今度、岡山へ行こうか。たみんとこ」と久子に言葉をかけるのである。
浜中の出奔が過去のものであったことが、このラストの言葉で明示されていた。
浜中の出奔がたみとの関係の中で推量できる所以である。
だからこそ、浜中の最初の出奔の意味が重要になる。
「死にせし者」によって、独り身になったたみを意識せざるを得ない心境が浜中の中枢を刺衝(ししょう)してくるのだ。
大沢とたみの気持ちが理解できたからこそ沈黙を貫いた浜中の苦悶が、「生きせし者」という認知を生み、この認知が増幅していくと居づらさだけが加速してしまうのである。
この心の苦しさを処理するために出奔する。
そして帰郷する度に、再婚していないたみの視線を受け、耐えられず出奔する。
そういうことだったのではないか。
「死にせし者」が「生きせし者」を追い詰めていく時間の重さ。
この重さが辛くなって、もう、動かなくなるまで追い詰められた男の悲哀だけが虚空にぶら下がっていた。
再鑑賞して、感動の余韻が消えない。
大人の恋の複雑な心理の綾を精緻に描いた秀作である。
(2024年12月)
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