検索

2025年1月27日月曜日

かくしごと('24)  それでも止められない疑似家族という脆さ  関根光才

 


1  「私のこと、お母さんって呼べる?」「うん」「呼んでみて」「お母さん」「拓未…お帰り」

 

 

 

父・里谷孝蔵の介護認定のために、長野の山奥の故郷に7年ぶりに帰って来た娘の千紗子(ちさこ)。 


千紗子の顔をまじまじと見て、「誰?」と孝蔵。 

孝蔵


「何その言い方。久しぶりに会ったのに、いきなり嫌味?」

千紗子


「どこかでお会いしましたかね?」

「あたし、しばらくあなたのお世話をすることになったから」

 

部屋に溜まったゴミや洗い物を片付け、孝蔵の幼馴染で、主治医である村で唯一の医者・亀田の元を訪ねた。

 

亀田が徘徊中の裸同然の孝蔵を見つけ、千紗子に連絡したのである。

 

「父は自業自得なところもあると思います」

「奥さんが亡くなられてから、孝ちゃん、急に山の上に引っ越して来てね。その時言ってたんだけども、奥さんには何もしてやれなかったって」

「死んでしまってから懺悔しても遅いと思うんです。今さら、仏像なんて彫ってみたって…」

亀田

「…考ちゃんが、仏像の彫り方が分からなくなったら、そこからが正念場だよ」

「私は介護認定が下りたら、すぐに東京に戻りますから」

 

認知症が進んだ孝蔵に何度も同じことを訊かれ、汚らしく食べ散らかす姿にうんざりする千紗子。

 

孝蔵は千紗子だけでなく、既に妻の写真を見せても分からなくなっていた。

 

絵本作家の千紗子は、携帯で編集者と仕事の相談をする。

 

地元の友人で福祉課に勤める久江が訪ねて来た。 

久江


久江は、小学3年の息子の学を女手一つで育てている。

 

千紗子にも息子がいたが、水難事故で亡くし、夫と離婚していた。

 

互いの事情をよく知る二人は、居酒屋で飲んでいたが、携帯に学から近くの家のガラスを割ってしまったとの連絡を受け、急遽、久江は謝りに帰らなければならなくなった。 


ビール2杯を飲んでいたが、久江の運転の車に千紗子も同乗し、昔話に花を咲かせていると、突然、何かに衝突して車を止めた。

 

車を降りると少年が横たわっており、千紗子は救急車を呼ぶように久江に促したが、公務員の久江は、自分の立場や学のこともあり、更に飲酒運転でもあるので激しく拒絶する。 

「何やってんの!」


「私が捕まったら学が一人になっちゃう」 



二人は少年を千紗子の自宅に運ぶと、少年の身体には事故とは関係のない傷があることを発見した。 


足にはロープが巻かれ、明らかに虐待を受けていたと分かる少年は 意識を取り戻しつつあった。

 

安堵する久江は、車は逆光で見えないはずで、このまま親元に帰せば誤魔化せると話すが、千紗子は虐待が明らかなこの少年をそのまま親に帰すわけにもいかないからと、とりあえず久江には自宅に戻るように指示する。

 

千紗子は少年に寄り添って眠り、海の事故で喪った息子・純の夢を見て、泣きながら目を覚ますと、既に起きていた少年と目が合った。 


「悲しかったの?」と少年。


「うん、もう大丈夫」

 

部屋を見回す少年に、「ここね、私のお家なの」と千紗子。

 

「でも、心配しないで。ここは安全だから。あなたが道で倒れているのを見つけて、ここに運んで来たの」 


少年に痛い所を訊くと、顔を横に振った。

 

千紗子が昨晩のことについて訊ねるが、少年は悉(ことごと)く覚えておらず、自分の名前すら忘れていた。

 

久江からの電話でテレビを点けると、川に流され、行方不明の男児を捜索する映像が映し出されていた。

 

男児は犬養洋一という名前で、町田市に住む9歳の男児と判明した。 


「昨日の夕方から、犬養さん一家がバーベキューをしていたところ、洋一君が橋からバンジージャンプをしようとしているのを両親が見つけ、止めようとしましたが、洋一君は飛び降り、その際にロープが切れて、川に転落したということです…」

 

ニュースの男児が昨日の少年で、千紗子から少年が何も覚えていないと聞いた久江は、このまま警察に届ければいいと話す。

 

「私たちにとっては、ありがたい話じゃん」

 

久江は早く通報しようと言うのだ。

 

「信じられない。あの子の傷、見たでしょ。あの子、親元に帰ったらどうなるの」

「…じゃあ、千紗はどうするつもり?」

「考える」

「何を?」

「あの子にとって、何が一番いいのか」 


少年を見た孝蔵から「あんたの子供かえ?」と訊ねられた千紗子は、「まあ、うん」と曖昧に返答すると、孝蔵は採ってきたトマトが足りないと、また畑に向かった。

 

食べ散らかす孝蔵に注意する千紗子は、少年が零しても優しく接するのである。 


「あのおじいさんは、家族じゃないんですか?」

「私の家族。でも、それも忘れちゃってるみたい。ちょうど君と一緒だね。何も思い出せないのって、ちょっと不安だよね」 


少年は首を横に振るのみ。

 

千紗子が高い所が好きかと訊くと、少年は怯えたような表情をしたので、もう高い所へは行かないからと言って安心させる。

 

買い物に車で向かうと、まだ少年の捜索が続いており、消防団員に車を止められた際の会話で、少年の両親は既に東京へ帰ったことを知らされる。


 

スーパーで少年の服を買って帰ると、寝ていたはずの少年は孝蔵と粘土作りをしていた。


 

服を渡すと、嬉しそうに「ありがとう」と言い、買ってきた玩具で千紗子と遊び、一緒に笑い声をあげる少年。

 

そこに、久江が様子を見に来て、これは「誘拐だ」と千紗子に忠告するが、千紗子は親元に帰す方がよほど犯罪的だと主張する。

 

「日本ではまだ、親権は強力なの。実の親には勝てない」

「…だから、あの子のこと放っておけないの」

「ダメだって千紗、ヤバいよ」

「親の住所調べられない?…協力してくれないなら、警察に全部話す」

「信じられない」


「もし手伝ってくれるなら、久江には絶対迷惑がかからないようにする。もし私が捕まっても、久江のことは絶対しゃべらないし、私が一人であの子を見つけて、連れて帰って来たって言う」


「なんで千紗がそこまでするの?…もし、あの子の記憶が戻ったらどうするの」

「本当のことを話す」

「あの子が帰りたいって言ったら?」

「あの子がそう望むなら…」

 

千紗子は少年に自分の書いた絵本を読ませると、すごく面白いと言う。

 

絵本の少年の名前を訊かれ、「拓未」(たくみ)と答える千紗子。

 

千紗子は少年に留守番させ、久江に見守りを頼んで少年宅へ行き、「助け合い親の会」というNPOの調査員を騙って訪問する。 

少年に留守番を頼む


古いアパートの一室から出て来た洋一の母親に、支援金を出せる可能性があると言って入り込む。

 

「私共は、子供を亡くすなど困難な状況にある親同士で作られた市民団体でして、洋一さんの事故をお聞きして、お伺いしました」

「支援金ってなんですか?」

「私共の団体では、会員になった親同志の助け合いにより、支援が必要だと認定されれば、援助が受けられるんです。いくつか質問していいですか」 

マキ


千紗子は母親のマキに家族構成を聞き、洋一が母親の連れ子で、下の妹は、現夫の安雄との子供であることを聞き出す。

 

事故の経緯を聞き、ロープは夫の仕事で使ったものが車にあったこと、それを洋一が自分で持っていき、バンジージャンプをしたなどと、マキが説明する様子を聞いていた奥の部屋で妹と遊んでいた安雄が出て来て、支援金のことを具体的に尋ねたあと、詐欺ではないかと、帰ってもらうようにマキに促す。 

安雄


そのまま追い出された千紗子は見守りを頼んだ久江に電話をして、虐待は間違いないと言い切り、自分で児相(児童相談所)に匿名で電話すると話す。

 

「危ないよ」

「あの子の妹もいたの。匿名にする…あの子は、私が育てる」


「ちょっと…無茶だよ。だってこの先、血縁関係とか、証明しなければいけなくなるかも知れないし」

「ほら、戸籍ない子っているじゃない…」

「…あの子だって記憶が戻るかもしれないじゃん」

「きっと大丈夫。嫌な記憶は忘れようとするんだし」

「自分は嫌なこと、ずっと覚えていようとするじゃん。あの子は、純君の代わりにはならないんだよ…ちょっと、冷静じゃないよ」


「そうかも知れない。でも、もう決めたことだから…この先何があっても、あなたのことは絶対にしゃべらないから」

 

翌朝、目が覚めた千紗子は、大事な話があると少年(洋一)の手を握り、目を真っすぐ見ながら語りかける。

 

「あなたは私の子供なの。名前は拓未。あなたが読んでいた本の名前と同じ名前」 


メモ帳に「里谷拓未」と名前を書いて、少年に渡す。

 

「私がお母さんで、がっかりした?」

「ううん」

「あなたはね。悪い人たちに攫(さら)われてたの。それで記憶を失くしてしまった。でも、私が見つけて連れて帰って来たの。でも、もう、そのことは忘れていいから。嫌なことは思い出さなくていい」

 

頷く拓未。

 

「その代わり、楽しかった思い出を、ちょっとずつ思い出して行こう…私のこと、お母さんって呼べる?」


「うん」


「呼んでみて」

「お母さん」

「拓未…お帰り」

 

千紗子は拓未を抱き締め、涙を流す。 


千紗子がネグレクトされた少年の母になった瞬間である。

 

孝蔵に「僕の名前」と言って「拓未」というメモを渡した後、一緒に彫り物をする「祖父」と「孫」。 


その様子を見る千紗子。



そこへ主治医の亀田が訪れ、孝蔵の様子を見に来た。

 

突然の訪問に戸惑う千紗子だったが、拓未が息子かと訊かれ、そうだと答える。

 

亀田は、孝蔵はコンパスを自分で探せなくなっている様子を確認して、認知症が進んでいることを確認する。 


帰り際に、拓未を釣りに誘う亀田。 


孝蔵は介護認定士の審査を受けたが、久江によると結果が出るまでに時間がかかるということ。

 

「やだぁ。あの人の面倒なんか見れない」

 

拓未は彫り物をしている孝蔵から、マキリという小刀をもらって喜ぶが、それを見た千紗子が危ないと取り上げた。

 

直後、千紗子は拓未を自宅から離れた病院へ連れて行き、脳の検査を受けるが異常はなく、喜び合って自宅へ帰ると、財布がなくなったと言って、孝蔵が手当たり次第に引き出しを開けて散らかしていた。 


千紗子を泥棒扱いする孝蔵に腹を立て、思わず頬を叩いてしまった。 


それを拓未が見ていたことに気づいた千紗子は、その場で拓未を抱き締め、謝るのだ。

 

「もうしないから。怖かったね。ごめんね」

 

編集者から電話が入り、千紗子の絵本の書籍化が決まり、インタビュー記事も再来週に出るとの報告を受ける。

 

「良かったぁ!これで少しは売れてくれるといいけれど…」

 

千紗子は話の途中で、空のやかんが焦げている匂いで電話を切り、台所へ行って火を消し、孝蔵を叱りつける。

 

「分かってるわ!」と大声を出す孝蔵。


「何でそんな言い方しかできないの?いっつもそう。自分が絶対正しいと思ってる!」

 

孝蔵は工房から出て行き、その様子を外から見ていた拓未は千紗子と目が合って、気まずそうにおどおどして、孝蔵の後を追う。

 

千紗子は孝蔵の件を亀田に相談に行った。

 

「考ちゃんは、元々頑固だに。認知症で更にひどいんだで…」

「あの人は教師でしたし、私を人の見本になるような娘にしたかったんだと思います。でも、私はダメでした。あの人は、いつも立派で、いつも正しくて、だから、父の顔を見ると、いつも苦しかった。だから反対されても、東京の学校に行きました。そこで前の夫と出会って、学生の間に子供ができてしまって。父は怒って、子供を抱こうともしてくれませんでした。だらしない自分を責められてるみたいで。ますます、父とは疎遠になりました。それからしばらく経って、息子が5歳の時に海に行ったんです…」 


その海へ行った際、千紗子が仕事の電話に出ている間に、息子の純が海で溺れて死んでしまった。 


「その子は、拓未君のお兄ちゃん?弟さん?」

 

はっとした千紗子は、「拓未の兄です」と答える。

 

「それから、葬儀が終わってから父から電話がありました。少しでも慰めてもらえると思っていた私がバカでした。父は私に言ったんです。親としての自覚がないまま子供を作り、死なせた。お前は無責任すぎるって。言われなくても分かってました、でも、息子を亡くした後、このことは、本当につらかった。だから私、あの人とは縁を切ったんです。そうしたら、母が倒れて…」


「考ちゃんは、昔っからクソ真面目だでな」

「小さい頃からですか?」

「そりゃもう、大変なものだったで。だで、認知症にもなるんだわ…認知症は、堅物で真面目な人間ほどなりやすいで。成長しなきゃ、失敗しちゃいけないと思ってる人は、現実から逃げられない。それを解放してくれるんだわ。一種の救いかいね」

「救い?」

「考ちゃんも辛かったんじゃないかや。どうしても弱いところを人に見せられないだよ」

「でも、だからって、嫌なこと全部忘れちゃうなんて、卑怯じゃないですか。辛くても、忘れちゃいけないことだってある」

「やっぱり親子だな。千紗子ちゃんも認知症の素質、十分だわ…千紗子ちゃんの気持ちも分かるで。けんどもう、彼らも苦しんでるんだわ。自分が分からなくなって、人生も失って、まるでたった一人で漂っているようなもんだ。信じられないほどの孤独だと思うで。周りにひどいこと言ったり、暴力を振るったりすることもあるだに。そん時、彼らは闘ってるんだわ。目の前の僕らではなくて、目に見えない何かと」 

「そん時、彼らは闘ってるんだわ」

夜、原稿を書いていると、隣の部屋で音がして戸を開けてみると、畳の上で孝蔵が立ち小便をしていた。

 

千紗子は怒ることなく、着替えをさせてやり、畳を拭いた。


 

すると、孝蔵は仏壇に向かって語り出す。

 

「母さん、千紗子が帰って来たよ。なのに、知らん振りをした。バカだなぁ、俺は…母さんから、もう一度帰って来るように、言ってくれんかや」 


その言葉を聞いて、千紗子は涙する。 



「お母さん!」という拓未の呼び声がして、工房へ行くと、孝蔵がもう彫れないと、並べてあった仏像を払い倒しているところだった。

 

千紗子が止めるが収まらず、拓未が粘土を持ってきて孝蔵に「僕に教えて!」と渡すと、それを練り始めた。

 

拓未と千紗子も粘土を持ってきて、孝蔵に教えてもらいながら、3人で粘土を練るのだった。 


久江が連れて来た息子と、拓未は楽しそうに遊ぶ。

 

介護認定は降りたが、施設が空いていないと話す千紗子に、何もできないことを謝る久江。

 

「ううん、大丈夫。私、もうちょっとだけ頑張ってみる」

 

同じような年頃の子と楽しそうに遊んでいる拓未を見て、千紗子はしみじみ話す。

 

「久江、ありがとうね…久江のお陰で、私、あの子とこうしてられる」

「そんなことないよ。今から考えると、あの時、自分たちのことしか考えてなかった。ほんとに最低。ごめんね、千紗。だから、あの子にとっては、ほんとに良かったなって。このまま、記憶戻らないといいね」 


亀田と千紗子と久江の家族で川へ釣りに行き、釣った魚で夕餉(ゆうげ)を囲むのである。
 



そこで、久江が千紗子のインタビューが載った雑誌を出して、皆に見せる。

 

嬉しそうに千紗子の写真を見る拓未。

 

介護認定のためだけに帰郷した千紗子は今、思いも寄らない出会いを得て至福のひとときを過ごしていた。

 

 

 

2  「僕のお母さんは、あの人です」

 

 

 

工房で仏像をハンマーで壊そうとする孝蔵に、拓未が粘土を渡して気を逸(そ)らし、再び千紗子と3人で練り始め、孝蔵がそれを一つのオブジェとして作り上げると、ペイントをしようと千紗子が言い、3人は絵の具だらけになって作品を作り上げた。 


夜、孝蔵が今度は便を畳に漏らし、千紗子が風呂場で体を洗ってあげると、孝蔵は「こんなことやらして、すみません、すみません」と声を振り絞る。 


それを聞き、号泣する千紗子。 


拓未が仏像を彫り、すっかり大人しくなった孝蔵に粘土を渡すと、それを食べてしまい、慌てて千紗子を呼ぶ。

 

孝蔵に麦茶を飲ませてあげるように言われた拓未が立ち上がると、そこに突然、犬養安雄が現れた。

 

「お前、こんなところで何やってる」 


すぐに千紗子がやって来た。

 

「あんた、大変なことしてくれたね」

「どちら様ですか?」

「ふざけんなよ!あんた、バカだろ。こんなことしでかしておきながら雑誌に載るなんて。うちのが偶然目にしてね、雑誌に載るくらいの作家さんが、裏で詐欺みたいな真似してるって思ったらムカついてさ」

 

安雄はポケットから出した雑誌の切り抜きを丸めて投げつけた。

 

「ちょっと調べたら、住んでいるのがあの川の近く。こりゃ、おかしいなって思ったよ。俺のこと舐めてんの?洋一、お前、よくこんなところに潜り込んだな」

「僕は拓未です」

「は?お前、頭おかしくなったのか?」

「僕の名前は、拓未!」 


そう叫ぶや、安雄は思い切り拓未の頬を叩き飛ばした。

 

転んだ拓未を助けようとする千紗子の腕を掴む安雄。

 

「一億でいいよ。よかったな、洋一。こいつがお前を買ってくれるってよ。俺も子供の頃、そんな風に親父から逃げられたらなって思ってたよ」

 

「そんなお金、あるわけない」という千紗子の体を手荒に柱に押し付け、安雄は脅す。

 

「だったら、闇金でもなんでも行けよ!助けたいんだろ。クソが!」 


千紗子の胸倉を掴んで揺さぶっていると、孝蔵がマキリを手に安雄に襲いかかるが、蹴飛ばされてしまう。

 

なおも千紗子の頬を叩いて、「助けてやれよ、この野郎」と体を揺さぶって脅す安雄の背後から、拓未がマキリを突き刺した。

 

振り向いて崩れ落ちた安雄が拓未を倒して血を吐き、拓未の頬に触れながら声を絞り出した。

 

「お前は、いいよな」


 

横たわったまま泣く拓未の手から、千紗子はマキリを取り上げ、既に絶命した安雄の胸に突き刺した。 


「拓未。おじいちゃんに麦茶飲ませてあげて」

 

ここで、一人息子の純を海で死なせた記憶が、千紗子の中でフラッシュバックする。

 

4カ月後。

 

「…犬養安雄さんが殺害された事件から4カ月。この事件で殺人などの容疑に問われている里谷千紗子被告の初公判が今日行われます。記憶を失くした少年を誘拐し、自分の子であると思い込ませ、更には連れ戻しに来た少年の父親を殺害するという、この衝撃的な事件。今日始まった審理に大きな関心が集まっています」

 

介護施設で椅子に座り、テレビニュースを見ている孝蔵。 


裁判の審理。

 

被告人・千紗子の正当防衛の成立に関して、検察側と弁護側が対立する。

 

「僕は洋一じゃない。拓未だ」との安雄の妻・マキの証言に対し、検察は千紗子が誘拐・洗脳したことを追求する。 


「残された家族の心までも踏み躙られることになりました。長きに亘(わた)って、洋一君が家族の元に戻る状態を困難にせしめた。被告人は、被害者家族を肉体的にも精神的にも立ち直るのが難しいほどに破壊したのです」 


一方、弁護人が、住んでいたアパートから暴行と見做(みな)される音が聞こえ、何度か近隣住人に通報されたり、児相の訪問もあり、虐待の傾向が疑われる事実を示して、虐待への加担をマキに問うと否定されたが、安雄が躾と称して時々虐待を行っていた事実をマキは認めざるを得なかった。

 

「犬養安雄は、あなたにも暴力を加えた。あなたはそれが怖くて、一緒になって暴力を振るったのでは…あなたが辛かったことは理解します。けれど、あなたが夫の暴力を見過ごしていた時、少年の絶望はいかばかりだったでしょう…」


「今でも分からないんです。どうしたらよかったのか…」
 


久江が面会に来た。

 

「千紗、嘘をついてない?あの子が刺して、あの男が死んだ。その後、千紗がもう一度刺した。でしょ?」

「あいつは、私が殺したの」

「あの子は少年法で罪に問われない。これからずっとあの子は、自分のしたことから目を背けて生きることになるだよ。それに、千紗はどうなるの?千紗が自分の身代わりになるなんて、そんなの望んでいるわけない」


「あの子が私を慕ってくれたのは、私が嘘をついたから。私の嘘を信じてくれたから」

「そうかも知れない。あなたたちが親子だった時間は、絶対に嘘なんかじゃない。あの子が、証言するって言い出したの」 


ガラス越しに千紗子は目を瞑り、ため息をついた。

 

「最後かもね。拓未を見られるの」 


拓未が証言台に座っている。

 

弁護人に名前を聞かれた拓未は、それには答えず、いきなり「僕が殺しました」と証言したのである。 


どよめく法廷。

 

「ちょっと待ってください。まず、あなたの名前を教えてください」

「僕の名前は、犬養洋一です」

「いいですか?あなたは記憶を失くしていたんですよね」

「僕は嘘をついていました。全部覚えています」


「本当に、覚えてる?」

「本当は、ずっと分かっていました。僕の名前は拓未じゃないって。でも、僕のお母さんは、あの人です」

 

そう言って、拓未は千紗子の方を真っすぐに見つめる。 


拓未を見返す千紗子の頬を涙が伝うのだ。 


ラストカットである。

 

 

 

3  それでも止められない疑似家族という脆さ

 

 

 

ほぼ常識的でフラットな日常を繋ぐ者が、自らに落ち度がある厄介な事態にインボルブされた時、その日常を壊されないために非常識な行為に振れていくことが往々にしてある。

 

不注意な運転で少年を撥(は)ねて混乱する久江救急車を呼ばず、千紗子の家に運んだ行為は非常識であり、十分に犯罪的である。 



自宅で少年を介抱する千紗子が、少年にネグレクトの痕跡を見て、そのまま親に戻す行為に振れなかったのは理性的であったが、警察に通報しなかったこともまた同様に非常識であり、十分に犯罪的だった。

 

と言うより、犯罪そのものである。

 

父・孝蔵の介護認定を受けるために帰宅した千紗子が、思いも寄らず、久江が起こした厄介な事態にインボルブされ、少年が怪我なく覚醒し、且つ、その少年が置かれた状況をニュースで知ることになるのは事件の二日目。 


この日、少年が記憶喪失の症状を知った久江が「私たちにとっては、ありがたい話じゃん」と吐露し、今度は通報を促す行為には、どこまでも自己基準で動く彼女の脆さが浮き彫りになっている。

 

一方、消防隊員から少年の両親が既に東京へ帰ったことを知った千紗子が、その足で少年の服をスーパーで買っって来る。 


明らかに、少年を自ら育てる決意をしたのである。

 

様子を見に来た久江が、千紗子に「誘拐だ」と忠告するが、千紗子は逆に恫喝紛いの物言いで反駁(はんばく)する。

 

「もし手伝ってくれるなら、久江には絶対迷惑がかからないようにする。もし私が捕まっても、久江のことは絶対喋らないし、私が一人であの子を見つけて、連れて帰って来たって言う」 


ここで、二人の間に「罪の共有」が形成されるのだ。

 

三日目。

 

千紗子は思い切った行動に打って出る。

 

少年の自宅アパートをNPOの調査員を騙って訪ねるのである。 


何のためか。

 

拓未の家族構成を知ることでネグレクトの有無を確かめるのだ。


そのことで、自らが犯す行為に倫理的根拠を与えたいのである。

 

かくて、実母の連れ子である洋一がバンジージャンプをした経緯を知ることで、ネグレクトの実態を確信する千紗子。

 

言うまでもなく、彼女の振る舞いは、深く同情の余地があれども、完璧に刑事犯罪である。

 

この千紗子の犯罪行為の心理的推進力に垣間見えるのは、自らの管理の落ち度によって喪った我が子・純に対する贖罪意識である。 


同時に代償行為でもある。 


拓未の救済によって、生涯にわたって取り憑く心的外傷を癒さんとするのである。

 

自らが負った負の記憶が事件によって思いがけずにフラッシュバックされ、もう、後戻りできなくなってしまった。 



然るに、非合理的な千紗子の犯罪の継続性が保障される術がないことは明白だった。

 

それでも止められない疑似家族という脆さ。 


より深刻な刑事事件の出来によって、何もかも壊されていく。

 

「あなたは、私の子供なの。名前は拓未。あなたが読んでいた本の名前と同じ名前」 


だから、この決意に結ばれるのだ。

 

「戸籍ない子っているじゃない…きっと大丈夫。嫌なことは忘れようとするし」

「自分は嫌なこと、ずっと覚えていようとするじゃん。あの子は、純君の代わりにはならないんだよ…ちょっと、冷静じゃないよ」


「そうかも知れない。でも、もう決めたことだから…この先何があっても、あなたのことは、絶対にしゃべらないから」

 

千紗子を案じる久江との「罪の共有」も延長されるのだ。

 

この間、孝蔵の認知症が進み、畳の上で放尿して「千紗子が帰ってきたよ」などと亡妻に独言し、拓未を交えた疑似家族3人が粘土を練るというアットホームな寛ぎの時間が経過していく。 


そこに、父に関する亀田医師の話を耳にして、父に対する独善的な視野の狭さを実感する千紗子の変容が読み取れる。

 

血縁で結ばれたはずのこの父娘の関係は、頑固で寡黙な父の思いを忖度できない娘の、相手を断定化するラベリングの誤謬が招来したものであって、その間の擦れ違いの時間の束が抱える負の行程の産物だったということ。

 

これに尽きるだろう。

 

アットホームな寛ぎの時間はあっという間に崩壊する。

 

犬養安雄の出現と、あってはならない事件の出来。 


全て梗概で書いた通りだから詳細に触れないが、涙が止まらないほど感動的なラストで鮮烈に想起されるのは、千紗子の罪の重さを決定づけるシーンがある。

 

「あなたは、私の子供なの。名前は拓未。あなたが読んでいた本の名前と同じ名前」と言って、その名を記したメモを見せた後、少年を救済した経緯を簡単に説明する千紗子は「嫌なことは思い出さなくていい」と言い添えて、少年に対して「私のこと、お母さんって呼べる?」とまで促すのだ。 


「拓未」という名を受容し、素直に反応する少年の心理が予め読めているから、「呼んでみて」「お母さん」「拓未…お帰り」という決定的な会話に収斂されるのである。

 

感動的なシーンだが、これが深い心的外傷を負った千紗子が、そのトラウマを埋めるための代償行為であることを理解すべきである。

 

「拓未…お帰り」=「純…お帰り」として受け止める彼女の代償行為だったのだ。

 

拘置所の接見で、「あいつは、私が殺したの」と久江に吐露し、自らが「拓未」が犯した罪(実際は、義父に対するバンジージャンプによる殺害未遂への憎悪の身体化でもあった)を被(かぶ)る行為もまた、「もう、(我が子を)失いたくない」という母・千紗子の強い思いが投影されたものと考えるのが自然である。

 

だからこそ、「これからずっとあの子は、自分のしたことから目を背けて生きることになるだよ」という久江の言辞に説得力があると言える。 


映画を簡単に総括すると、こういう風に捉えることができるだろう。


即ち、自分の落ち度で我が子を喪ったことによって父親と完全に縁が切れた千紗子が、意想外に出会った少年・拓未を助け出し、ここから意を得て疑似家族を形成することで束の間の至福を手に入れる。

その疑似家族の形成にあって、認知症の中核症状(注)に罹患する父が時間の闇に完全に覆われるぎりぎりのところで、皮肉にも、父と娘の関係が復元し得た物語。


それがたとえ、疑似家族が内包する脆さであったとしても、千紗子が手に入れた時間限定の至福感は、本来的に彼女の内的人生が目指すべき何かだったということだろう。



(注)【「記憶障害」・「見当識障害」(人・場所・時間が分からない)・「認知機能障害」(日常的な動作の障害である失行・身体の状態の障害である失認・失語・合理的な行動の障害である実行機能障害)

認知症の中核症状


ーー 複雑に揺動する人の心の難しい遷移を描き、それを見事に演じた杏に喝采を送りたい。 


同時に、認知症患者を完璧に演じ切った奥田瑛二。 


添える言葉が見つからない。


【本作には、認知症の問題も重要なテーマとして提示されていたが、複数の拙稿で言及してきているので、敢えて取り上げませんでした】

 

(2025年1月)

0 件のコメント:

コメントを投稿