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2026年1月26日月曜日

天国の日々('84)  約束された悲劇の哀しい物語の収斂点  テレンス・マリック

 


1  「マジックアワー」という技法が映像を埋め尽くす

 

 

 

際立つ映像美によって、最も印象に残る鮮烈な映画。

 

とりわけ、自然の情景描写が抜きん出ていて、殆ど溜め息が出るほどだった。

 
だから繰り返し観る。

 

その撮影手法は、日の出前と日没後の僅か数十分間、太陽光が淡い紅色になり、色相が暖かく、黄金色に輝いて見えることで作り手自身が命名した「マジックアワー」と呼ばれ、空が幻想的な色彩に染まる最も美しい風景を見せてくれるので、何より観る者への格好のギフトとなっていた。

 

「マジックアワー」という技法が画面を埋め尽くすのだ。 



 

見渡す限りの大農場には、黄金色の麦の穂が大きく揺れ、遥か地平線の向うでは、日没の赤がいつもと変わらぬ律動性の中に燃えている。

 

朝靄の川面には、周囲の風景と調和したかのような淡い黄葉が映えていた。

 

広大な農園の中心に、そこだけがオアシスのようにぽつんと天に向かって聳(そび)え立つ孤高の館。 


そこに差し込む季節の光彩が目眩(めくるめ)く変化し、芸術的な輝きの中で踊っている。

 

一幅の絵画である。

 

そこには多くの種類の動物が棲み、其処彼処(そこかしこ)で生命の鼓動を伝えている。 


自然は緩やかに、今までもそうであったような素朴な律動を刻みつつも、しばしば、悠久なる時間と戯れるかのようにして暴れて見せる。

 

しかし、そんな尖った振る舞いも、彼らにとっては自然なる生命展開の極めて日常的な様態でしかないのだ。

 

イナゴが一匹、二匹、三匹… 


次第に数えられない位の群れが、城砦と化した邸の中に侵入し、農園の収穫期に襲いかかってくる。

 

やがてそこに火が放たれ、小麦畑が無残に散っていった。 


この壮絶な自然への屈服のさまを、まるでドキュメンタリーのように手慣れたカメラが、パンフォーカスな映像を鮮烈なまでに表現して見せた。

 

高度な芸術表現の域に達したこの構図の連射を、スクリーンのパノラマで堪能することができなかった無念さ。

 

それが悔やまれるほど素晴らしい映像美だった。

 

この映像美を創り出したのは、孤高の映画作家テレンス・マリック。 

テレンス・マリック監督

「地獄の逃避行」という鮮烈なニュー・シネマでデビューして、これが二作目となるアメリカ映画界のカリスマ監督。

「地獄の逃避行」より

そのカリスマ性は、本作の公開から二十年後の作品、「シン・レッド・ライン」(ガダルカナル島の戦い)という最高傑作のうちに全開し、その衝撃の大きさに震えが走った。 

「シン・レッド・ライン」より


アクション軽視で、内的言語を静かに繋いでいくのだ。

 

ある者は自分に問い、ある者は愛する者に問い、また狂気の前線を去る者は「あなた」という名の神に問うていく。 

「母さんのように死を迎えたい。母さんのように・・・穏やかに生命の不滅はきっとそこに隠されている」(ウィット二等兵)

「俺には見えない世界だ・・・俺たちの世界は自滅にまっしぐら。人間は眼を瞑り、必死で自分を守る。それしかできん・・・・」(ウェルシュ曹長)

「聞いて下さい。あなたを裏切らぬよう、部下を裏切らぬよう、私をあなたに預けます」(スタロス大尉」)

「僕ら・・・君と僕。僕らは一体。水のように流れて二人の区別はなくなる。僕は君を呑む。今・・・今・・・」(ベル二等兵)(左)

【「この大きな悪。どこから来たのか。どこからこの世に?どんな種、根から生まれたのか。背後に誰が?俺たちを殺し、生と光を奪っているのは誰か。幸せを奪い面白がっているのか。俺たちの死が地球の糧に?草を生長させ太陽を輝かせるのか?あなたの中にもこの闇が?あなたにも苦悩の夜が?」(スタロス大尉」)】


極限状態に捕捉された兵士の精神を描き切って、史上最強の戦争映画に昇華した「シン・レッド・ライン」が内包する哲学性の重量感覚。

 

正気と狂気の境である「一本の細く赤い線」 ―― 即ち、「シン・レッド・ライン」を超えた者たちの、苦悩や絶望や危うさに答えられる者など果たしているだろうか。 

【一人の米兵が、死を待つばかりの日本兵を挑発する。「八つ裂きにしてやろうか?お前は死ぬ。鳥が見えるか?お前の肉を食う。お前は旅立ち、もう戻れない」死の際(きわ)にあるその日本兵(画像)も、恐らく、地上での最後の言葉を吐き出した。「貴様、貴様もいつかは、必ず死ぬ。死ぬんだよ・・・」言葉が分らない者同士が、同時に「死」という、永遠なる未知のテーマについて、その思いをぶつけ合ったのである】


「シン・レッド・ライン」における「神の沈黙」のイメージこそ、テレンス・マリックの哲学的テーマの重量感を弥増(いやま)していくのだった。

 

だから、テレンス・マリックの作品は最も重い映画になった。 


それは、瑣末な事態に悩み、煩悶する裸形の人間の実存的感覚の乾きを露わにしつつも、それを晒すときの奥にある、容易に答えの出ない人間の根源的問題を継続的に、己が内的行程の時間のうちに収斂させていくのだ。

 

しかし、どれほど偉そうなことをレクチャーしても、所詮、人間は、その人格総体が包含する能力の範囲の中でしか「時間」を切り拓くことが困難であるということ。 

【日本兵に包囲されたウィット二等兵に向かって、日本兵は叫んだ。「降伏しろ・・・お前か、俺の戦友を殺したのは?分るか?俺はお前を殺したくない。分るか?俺はお前を殺したくない・・・素直に降伏しろ。動くな!降伏しろ!」(ウィット二等兵)

「俺は人を殺した!レイプより悪い」

【日本軍との激戦中、自分の手榴弾のピンを誤って抜いてしまったケック軍曹(画像右)は、尻を自爆してしまった。「女房に手紙を・・・“男らしく死んだ”と」その言葉を残して、軍曹は息を引き取った。誰も彼を知らないので、手紙を渡す術がない。戦場とは異界なのだ】


そして、その人格総体の能力の落差など高が知れているということ。

 

それ以外ではなかった。

 

あとは全て、単に「運不運」の問題に過ぎないのだ。 

「どんなに訓練を受け、用心しても、生か死を決めるのは運だ。どんな人間か、タフか、そうでないかは無関係。運悪く、そこにいた奴が殺られる」(ウェルシュ曹長)


「原始なる自然」の世界と切れて築いた文明の、未知なる輝きを目眩(めくるめ)く放つ快楽装置に身も心もすっぽり嵌ってしまった以上、もう私たちには、その世界からの自覚的離脱は相当の覚悟なしに殆ど困難であるということだったのか。 


それが人間であり、「進化」を求めて止まない人間の哀しき性(さが)と言うのか。

 

だからと言って、声高に文明批判を叫ぶことをしないテレンス・マリック監督の客観的な視座は、内的言語による語りの中でのみ、怖れを知る者の心象世界を静かに、或いはしばしば、絶対孤独の際(きわ)にある者の集積された懊悩の深さを刻んでいくのだ。

 

そんなテレンス・マリック監督が描く悠久の自然は、あまりに寛容であった。

 

何もかも呑み込み、何もかも、あるがままに推移する。

 

そんな自然に則して生きる南太平洋の原住民たちが、そこに呼吸を繋いでいたのだ。

 

殺戮に走る者も走らぬ者も、そして彼らを包む大自然もまた、神の創造物ではなかったのか。

 

ハリウッドのスターたちをして、「シン・レッド・ライン」に低報酬覚悟で集合させた求心力のルーツは、世界で絶賛された、この「天国の日々」という秀逸な作品にあった。

 

 

 

2  「悪魔は農場にいた」

 

 

 

「天国の日々」は不思議な映画である。

 

第一次世界大戦の頃が歴史的背景にしているが、ストーリーは単純である。

 

大農園の麦刈り人として雇われた、貧しい一組のカップルがいた。

 

ビルとアビーである。 

ビルとアビー

二人はビルの妹のリンダを随伴させ、恋人のアビー人で各地を転々とする季節労働者。

 

「兄は人にはアビーも妹だと言ってた。その方が世間を渡りやすかった」(リンダのモノローグ/以下、モノローグ)

 

気の短いビルはどこにいっても、些細なことで喧嘩する。

 

ビルとアビーが兄妹を偽装していることで、猜疑心の強い男らから冷やかされたことが喧嘩の契機になることが多いが、根柢には貧しさ馴致(じゅんち)した日常のデイリーハッスル(苛立ち)の累積が渦巻いている。

麦刈りの仕事でもアビーのことをからかわれ喧嘩する

 

貧しさを共有するアビーとリンダはビルの気性に馴致しているから、特段のアクションに振れることがない。

 

「山には火柱が絶ち、海も燃える。人は助けを求め泣き叫び善人は天国に導かれ火を逃れる。でも悪人の声は神に届かない」(モノローグ)


そんな三兄妹は今、一日3ドル程度の報酬で、麦刈り労働者を募るテキサスの農場で働くことになった。 

農場長ベンソン(左)

「日の出から日が沈むまできづめ。休む暇なんかない。働かなければクビだ。代わりは、いくらでもいた」(モノローグ) 


女は余命幾許(いくばく)もない若き農場主チャックから見初められる。 

アビーを見るチャック

アビー



ビルは偶然、農場主の寿命が1年しかない事実を知ることになる。


「彼は自分が死ぬ事を知っていた。人生は1度、生きている限り、悔いなく送るべきだ。農場主は土地もお金もあった」(モノローグ) 


その農場主はアビーに近づき、柔和に誘いかける。


「どうだろう。残る気はない?これからは仕事も楽になる。給料は同じだけ出す。考えてほしい。後で返事を」とチャック。


「行かなきゃ」と言って、去っていくアビー。


「誰」と聞き、向こうで待つ男(ビル)について尋ねる。

「兄よ」 


その「兄」は「君に惚れたな」と一言。 


そう言って、肩を組んで歩こうとするビル。

 

「人が見てるわ」と言って、ビルの腕を外すアビー。

 

「彼も身寄りなし。残ってやれよ」とビル。

「なぜ」

「わからん。何かあるかも」 


無言のアビーに、「わかってる。この惨めったらしい暮らしが悪い。俺達で何とかしなきゃだめなんだ」と吐露するビル。 


言葉を返せないアビー。

 

「残るの?」とリンダ。

「彼女しだい」とビル。

「出たいの?」

「王様になりたい」 


そんな言辞を決然と言い切るビルがそこにいた。

 

「私達はガツガツするのは、もうウンザリだった。運がないのは当人が悪いと、兄は考えた。持てる者と、持たざる者。それが世間を結びつけていると」(モノローグ) 


ビルにとって、アビーに対するチャックのプロポーズはチャンスの到来だった。 


アビーを農園主に嫁がせること。

 

そうすれば、三兄妹共々、貧困から抜け出せるのだ。 


「奴は金を使えん」ビル。

「少しの辛抱って訳?」とアビー。

「片足で綱渡りしてる男だ。2年もしたら、ここを出るさ」

「今までも何度か、金持ちに迫られたわ。でも頑張って…」

「言うな。俺だって君が身を売るのは見たくない…いやだ」 


かくて、「兄と妹も一緒なら」という条件で、農園主チャックのプロポーズを受け入れるアビー。



去っていく麦刈り人と、農園に残ることになったアビーとビル。



直後の映像は、チャックとアビーの結婚式と新婚旅行。     


それを見つめるビル 


新婚旅行を愉悦するチャックとアビー

 

「今までと打って変わった、突然の王様暮らし。働く代わりに冗談を言い、遊んで送った。金持ちって違う」(モノローグ) 


贅沢三昧の日々が続くのだ。

 

「私はこの農場が好きだった。野原で転げたり、何でもできた。眠ると、夢の中で麦畑が話しかけてきた」(モノローグ) 



刈り取った麦畑を歩くビルとアビー。 


その二人を凝視するチャック。 


チャックとアビーがベッドで眠る様子を覗くビル。 


部屋に忍び込み、アビーを起こすのだ。

 

「どうしたの」とアビー。

「寂しい」とビル。 


夜半に外に出て、睦(むつ)み合う二人。

 

朝早く邸に戻って来て、アビーを責めるチャック

 

「どこへ行ってた」

「眠れなくて散歩してたの」


「起こせばいい」

「悪いわ」

 

そう言って、チャックの腕を組むアビーも手慣れたものだった。

 

「誰からも手紙も葉書も来ない毎日。時々、もう人生が終わり、この世にいない気がした」(モノローグ) 


チャックを我が子のように支えてきた農場長のベンソンから、「騙されている」と警告されながらも、アビーを妻と断じるチャックの愛は変わらない。 

ベンソン(右)

「一目見て、君に触れればすべて変わると思った。命を取り戻した思いだ。男は孤独に耐えて生きるものだと信じていたが、今は君の声も呼吸もすべて僕の体に納まっている。何をビクつく」


「許して」

「責めてはいない」

「当然なのに」

「君がわからない」

 

「彼の病気は良くも悪くもならなかった。じわじわと死に向かっていたらしい。医者が時々やって来て、薬か何かを置いていった。捨てれば良かったかも。馬ならひと思いに撃ち殺したろう」(モノローグ) 


チャックの狩猟に随伴したビルが、猟銃の射程をチャックに向けて、累加され尽くした苛立ちを露わにするが、その気配を感じたチャックとの関係が爆裂寸前と化していた。 


チャックがビルとアビーがキスしている姿を見たのは、曲芸団が現れた賑やかな夜のことだった。 

軽飛行機でやって来た曲芸団


「悪魔は農場にいた」(モノローグ) 


就寝中のアビーを強引に起こし、難詰(なんきつ)するチャック。

 

「どういう事だ」

「どうしたの」

「とぼけるな。彼と何をしてた」


「何の話?」


「あれが兄と妹のする事か」

「妹がいるの?いいがかりよ」

 

そう言い放って、ビル元に走り寄アビー。

 

「彼に何か言っ?あんな彼、見た事ないわ。バレたのよ」


「なぜ、気にする。愛してるな」
 


意外な反応だった。

 

富に近づいた二人に束の間、「天国の日々」が訪れたが、かくして、失って初めて知った愛に悩んだ男は、曲芸団の軽飛行機に乗って農園から姿を消すことになる。

 

 

 

3  「完ぺきな人間なんていやしない。皆、半分は悪魔。半分は天使だ」

 

 

 

「兄は悟ったのだ。彼女は農場主を愛していた。彼はピアノを教えてくれた。地球の事も」 



一年後、再び麦刈りの季節がやってきて、ビルは農園に姿を現した。 


「許して」

「謝る事ない。バカだった。今頃、失った物に気づいた。無理強いしたのは俺だ。俺が悪い。手遅れになる前に出て行く」 


ビルとアビーは別離のキスをするが、それを屋上から凝視するチャック 


これで何度目か、二人の関係に猜疑心を募らせるのだ。

 

女の心は既に農園主の愛を受け入れていたが、それもまた、束の間の安寧だったのか。

 

秋に撒いた冬小麦の種が越冬し、収穫の季節になった初夏、麦刈りの季節がやってきて、チャックの農場に麦刈りの労働者たちが戻って来た。 


【テキサス州はグレートプレーンズの最南端に位置し、冬小麦の生産地でもある】 

グレートプレーンズ(ウィキ)

折も折、彼の農園はイナゴの大群に襲撃され、食べ尽くされようとしていた。 



イナゴを駆除するために火を放つチャック。

 

「いぶし出せ」 



「すべてを焼き尽くせ」という農園主の叫びは、破滅に向かう運命への、最初にして最後の宣戦布告だった。 


この騒ぎの只中で、ビルも農園に残っていた。
 

イナゴの大群を見るビル


繰り返されるビルとアビーの密会に対して、今やアンガーマネジメント(怒りの抑制)に頓挫したチャックはアビーを突き飛ばし、銃を手にビルに向かっていく。 


ビルはチャックに銃を突きつけられ、思わず、手に持つ工具でチャックを刺殺してしまう。 


農園が真っ赤に染まった後の風景の片隅で、男を撃ち殺そうとして果たせなかった、若き農園主の人生が呆気なく瓦解してしまうのだ。

 

農場長のベンソンだけが、息子の如き若者の死体と対面する。

 

「話は後だ。もう取り返しがつかない」 


男はそう言って、女と妹を連れて逃走する。

 

アビーが身につけていた宝石がボートに変換され、3人を乗せたボートが川を下っていく。

 

「完ぺきな人間なんていやしない。皆、半分は悪魔。半分は天使だ。彼女はすべて自分のせいだと思っていた。償いをする事しか頭になかった。モヤ越しに見る太陽は幽霊のようだった。揺れる木々は襲いかかる人影のようにも見えた。行く先も何のあてもない。船に乗るのは初めてだった。鳥肌の立つような光景も見た。冷たい手が襟首をつかむ気分。死人が近づいていたのかも。名前はブラック・ジャック。片足でとうに死んでる。きっと彼が騒いでいたのだ」 


このボート上でのモノローグは、観る者に様々なイメージを湧き起こす。

 

ビルの行方を捜していたベンソンは複数の騎馬警官に随行し、銃を持って向かって来るビルを背後から騎馬警官が射殺する。 


川面に浮く男の死体を岸に引き上げ、泣き崩れる女。 


失ってはならない男を喪った女の悲哀が、まるでそれが運命だったかのように拾われたのである。

 

まもなく、女は男の妹を施設に預けて、自ら旅に出た。 


妹を施設に入れた女は、自らの人生を再出発させるために、見知らぬ男たちと共に列車に飛び乗った。 


男の妹は施設を脱出し、農場で知り合った女子と共に、あまりに残り多き人生に向けて旅立っていく。 


「彼女には行くあても、お金も何もなかった。どこかでいい人にめぐり会えてたらいい。彼女は私の親友だった」 


ラスト・モノローグである。

 

 

 

4  約束された悲劇の哀しい物語の収斂点

 

 

 

これだけの話である。

 

この映画は、一貫して男の妹の視線によって語られている。 

リンダ

常に三兄妹の旅をする少女の視線から、理解の届かぬ男女の三角関係が語られ、絶望的な貧しさが語られ、そして、束の間の「天国の日々」が語られる。 


そして最後に、決して忘れないであろう兄の死が語られ、その恋人の旅立ちが語られ、また自らの不安と期待に充ちた、その旅立ちが語られていくのである。
 


この映画の複雑さは、愛も人生もきちんと学習できていない、一人の少女の自我のフィルターを通して、あまりに苛酷な人生の現実の一端(いったん)を映し出そうとした点にある。 


恐らく、テレンス・マリック監督は、人生の現実の厳しさをリアルな視線で捉えるよりも、そこにオブラートを包んだ映像を示すことで、「運命が手繰(たぐ)り寄せた悲惨さ」をできる限り客観化したかったのであろう。

 

約束された悲劇の哀しい物語の収斂点こそ、「運命が手繰(たぐ)り寄せた悲惨さ」のリアルの相貌である。 


それほど悪人でもない者たちが招いた運命もまた、人間社会の、その様々な展開の普通の範疇に属することを認知し、それを受容するしかない人生が其処彼処(そこかしこ)に存在するということ。

 

そしてそれらは、「シン・レッド・ライン」がそうだったように、大自然の悠久なる営為の中に収斂されてしまうということである。

 

―― ここで、本作の基幹テーマの一つである「人間と自然」という問題に言及したい。

 

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」

 

この背筋が寒くなるような言葉の出典は、旧約聖書「創世記」(第1章28節)。 

「創世記」(第1章28節)

「神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた」

 

このあとに続くのが、「地の上を這う生き物を全て支配せよ」という神の言葉になる。

 

更に続く。

 

「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」

そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 

これが天地創造の由来である。 

創世記 2:2-3


―― 以上の思想を貫流しているのは、「神-人間-自然」という序列的な秩序を有する西洋文化に根強い自然観である。

 

絶対的な存在としての唯一神があり、その周辺を人間が取り巻いて庇護されているという思想である。

 

動物同士を戦わせて楽しむ「ブラッド・スポーツ」の発生もまた、この文脈で語られると言っていい。 

ブラッド・スポーツ(ウィキ)

の自然観にあって、狩猟(スポーツハンティング)は、「ブラッド・スポーツ」から興行的な要素を取り除いたものでしかない。

 

近年、年間12万6000頭を超える動物が殺され、米国に持ち込まれたという記事に驚かされたが、下の画像を見る限り、その悍(おぞ)ましさに言葉を失うほどだ。

自らが仕留めた動物たちと一緒に写真に収まる、テキサス州の石油業者で狩猟家のケリー・クロッティンガー氏と妻のリビー。彼のトロフィーハンティングは、多くの人々の怒りを買っている。


この自然観が「保全主義」の発想(人間中心主義=征服の思想)を生んでいく。

 

それに比べれば、自然の猛威に平伏(ひれふ)し、崇(あが)める傾向が強い多神教の日本人には「万物には神性が内在されている」という意識があるから、動物を簡単に殺せない。 

多神教の日本

昨今、問題になっているクマの出没においても、「如何にクマから身を守るか」という対処法が話題になっても、「鳥獣保護管理法」で野生動物は保護されていることもあり、「如何にクマを殺すか」などという議論は聞いたことがない。 

「鳥獣保護法」から「鳥獣保護管理法」へ

地方税法の改正で、ハンター不足に対応する狩猟税を減免しても、ハンター不足の問題を解消できないのだ。 

狩猟税を減免してもハンター不足を解消できず


かつて我が国には、自然の脅威に対する「降伏の思想」が存在するが故に、嵐が収まるまで降参し、ただ祈るのみの時代があり、基本的にインフラ整備するのみで今も変わらない。

 

その土地の神様に工事の安全を祈る、神道儀式の「地鎮祭」(じちんさい)が好例である。 

地鎮祭

ハイパーネットワーク社会になっても、我が国の「降伏の思想」は大して変容しないのである。

 

だから、一度(ひとたび)大自然の猛威を受けたら、逃げることなく「焼き尽くせ!」と怒号する強靭さを剥(む)き出しにする映画には、「神-人間-自然」という序列的な秩序を有する西洋文化に根強い自然観が垣間見えるのだ。

 

スポーツハンティングを愉悦する農園主が、当然ながら駆逐すべきイナゴの被害に遭って、その自然観が露わになったのである。 


【日本には、稲の害虫として苦しめられてきたウンカに対する防除対策として、「ウンカ類飛来予測システム」を利用して、ウンカに負けない稲の品種を作り出している】 

ウンカ類飛来予測システム

トビイロウンカとセジロウンカ


その辺りが、テレンス・マリック監督の基本メッセージではなかったか。

 

ついでに書けば、ヘッチヘッチー峡谷(ヨセミテ国立公園)のダム建設をめぐる論争で明らかになったように、自然保護派とダム建設派の間で対立は、自然を「保全」するという人間中心主義VS「保存」という自然中心主義という構図を炙り出してしまった。 

ヘッチヘッチー渓谷


地域を超える環境問題こそ、現代社会の最も重要な課題になり、食料・水・木材・衣類・医薬品など、私たちの生活に多様な恩恵をもたらす「生態系サービス」としての「自然資本」という概念が生まれるに至ったのである。 

生態系サービス

自然資本

「旅の途中、ディン・ドンという男が話してくれた。この世は今に火の海に包まれ、山には火柱が立ち海も燃える。獣は逃げ惑い、鳥も半分は焼け死ぬ。人は助けを求め泣き叫び、善人は天国に導かれ、火を逃れる。でも、悪人の声は神に届かない」 


万物の滅亡の危機に遭っても、「善」なるキリスト教徒のみが救済されるという思想が揺蕩(たゆた)っているが、これが物語をどこまで支配しているか、一切不分明である。

 

―― ただ、私が4人の主要登場人物による物語の根幹を支配している観念が、「欲望の落差」にあると考えているので、その辺りについて言及したい。

 

「欲望の落差」は、「貧困への耐性の落差」でもある。

 

具体的に書いていく。

 

自らの死を認知しているが故に、残りの人生を悔いなく生きようとするチャックには、物質的欲望の欠落の分だけ、心を癒すことができる伴侶を求め続けていた。 


その伴侶をアビーの中に見つけ、求婚し、結ばれる。 


この時間が恒久に続くことだけが、彼の願いの全てだった。

 

貧困の問題と無縁であった男に残された欲望の稜線は、伴侶の独占の強化という、それ以外にない〈生〉の道筋にのみ膨張していったということ。 



伴侶のアビーもまた、チャックの想いが理解できていた 


理解できていた分、チャックの愛に応えることが可能だった。

 

残りの人生は悔いなく生きんとする、チャックの〈生〉の道筋は約束されていたのだ。 


ところが、その道筋に立ちはだかるビルの存在。 


二者の狭間(はざま)で、複雑な気持ちを引き摺るアビー 


かくて悲劇が起こる。

 

ビルもまた、複雑な気持ちを引き摺っているのだ。

 

「謝る事ない。バカだった。今頃、失った物に気づいた。無理強いしたのは俺だ。俺が悪い。手遅れになる前に出て行く」 


このビルの言葉は本音に近いと思われる。

 

「完ぺきな人間なんていやしない。皆、半分は悪魔。半分は天使だ」

 

このリンダのモノローグは核心を衝いている。

 

悪魔の如き欲望を隠さないビルにも、自省する意識(「天使」)が自我に張り付いているが故に、それを身体化する。

 

イナゴの襲来がなければ、アビーとの永遠の別離が具現化したかも知れないのだ。 


もとより、「王様になりたい」と言い放つビルの欲望の膨張に対して、「あなた変よ」とまで反応するアビーとの「欲望の落差」は明瞭である。 


「貧困への耐性の落差」が、そこに厳然とある。

 

アビーの耐性の強さは、同じ状況下にある者たちのレベルと変わらいから、日々の辛さを大多数の人々と共有できるのだ。

 

アビーとビルの落差は、日々の辛さを共有できる者と共有できない者との差異である。

 

それが二人の「欲望の落差」なのである。

 

かくて、チャックの願いがビルの存在によって解体されるという怖れを感じ、そのリアルを確信した時、殺意にまで膨れ上がり、無残に朽ちていく。 


農園を襲いかかるイナゴという悪魔退治で辛酸を嘗め尽くしたチャックの殺意が、同じ悪魔であるビルに向かったのは必至だった。 


「この男がイナゴを呼んだのだ」という認知に達したのだろう。 


悪魔退治を完了させねばならぬ。

 

悲劇の中枢に、これがある。

 

だから、王様を夢見る男の観念が決定的に頓挫しない限り、約束された悲劇だった。

 

哀しい物語の収斂点は、〈愛〉のみを求める男と、物欲を満たして、一時(いっとき)、王様にまで駆け上らんとする男の全人格的落差を女が認知し得ても、決定的な選択に振れず、煩悶する。

 

約束された悲劇の哀しい物語の収斂点。

 

この物語は、女の煩悶を受け止め切れなかった、住処(すみか)を異にする二人の男の確執と死闘を描いた悲哀極まる映画だったのだ。 


【参照・引用】

ツリー・オブ・ライフ」  「シン・レッド・ライン」  「日本基督教団 八日市教会 創世記1・20~2・4a

 

(2026年1月)

 

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