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2020年5月24日日曜日

パターソン('16)   ジム・ジャームッシュ


虚脱感から解放され、詩作を最大の趣味にし、いつもの日常性に向かっていくパターソンの中枢が動いていく

<「日常性」の只中で〈私の状況〉を維持し、自己運動を繋いでいく>



1  「白紙のページに広がる可能性もある」







“愛の詩”

我が家には たくさんのマッチがある
常に手元に置いている

目下 お気に入りの銘柄は オハイオ印のブルーチップ

でも以前は ダイヤモンド印だった

それは見つける前のことだ

オハイオ印のブルーチップを

その すばらしいパッケージ

頑丈な作りの小さな箱

ブルーの濃淡と白のラベル

言葉がメガホン型に書かれている

まるで 世に向かって叫んでいるようだ

“これぞ世界で 最も美しいマッチだ
4センチ弱の 柔らかなマッチ材の軸に

ざらざらした濃い青紫の頭薬

厳粛に すさまじくも 断固たる構え

炎と燃えるために

おそらく

恋する女性の煙草に

初めて火を付けたなら”
愛妻ローラ



韻を踏まない、この散文的言語の集合は、路線バス運転手パターソンの詩である。
バスが車庫に入っている時も、作を止めないパターソン(この映画は、全編がパターソンの詩の世界で埋め尽くされている)
ニュージャージー州パターソン市(ウィキ)
ニュージャージー州

感興(かんきょう)の赴くままの詩作を趣味にする彼の住む街は、ニュージャージー州パターソン市。

居住する街と同じ名を持つ彼にとって、その日常性は詩の世界に満ち溢れている。

愛妻ローラと愛犬マーヴィンと暮らす生活の情景は、穏やかな幸福感で充溢していた。
愛犬マーヴィン

「あなたの詩、何とかしたらいいのに。世に出すべきよ」とローラ。
「世に?脅かさないでくれ」とパターソン。
「真剣よ。おバカさんね」
パターソンと愛妻ローラ

この夫婦の会話で分かるように、パターソンにとって、詩作はどこまでも趣味でしかないのだ。

彼の一日は、殆ど規律正しく循環しているかのようである。

夜の散歩にマーヴィンを連れ出し、バーに入る。

「時間通りだな」とマスターのドク。
マスターのドクとパターソン

ここでビールを飲み、帰宅する。

月曜日が閉じ、火曜日の朝がやってくる。
腕時計で確認した時間は、6時15分を指していた。

妻のローラの夢の話を聞くパターソン。

「古代ペルシャにいる夢を見たわ。あなたはゾウに乗ってた。大きくて銀色のゾウよ」

悪夢とは無縁に、常にポジティブな会話に振れるローラにキスをして、パターソンは出勤する。

車庫のバスの中で、冒頭の詩作を繋いでいく。



“初めて火を付けたなら 何かが変わる

そんなすべてを与えよう

君は僕にくれた

僕は煙草になり 君はマッチになった

あるいは 僕がマッチで君は煙草

キスに燃え上がり 天国に向かってくすぶる”



この詩をノートに書き留めた直後、バスの車庫長ドニーに声をかけられ、家族の愚痴を聞かされる。

車庫長ドニー

バスの運転中も、乗客の他愛ない会話を耳にして、ほくそ笑むパターソン。
それもまた、彼の詩のモチーフとなる日常の風景なのだろう。

帰宅後、ローラは二つの話があると言って、パターソンに寄り添って来た。

夫の詩を褒(ほ)めそやすローラは、せめて詩のコピーを取るように夫に懇願する。

「自分でもいつか、発表したくなるかも。なのに作品はまだ、秘密のノート1冊に」

これが一つ。

そして、もう一つのローラの話は、カントリー歌手になるために、ギターを買って練習したいという願いだった。
「年を取ると、チャレンジが大事よ」

ローラの願いを承諾するパターソン。
弾ける笑顔

妻を愛するパターソンには、「専業主婦」という観念が希薄なローラの懇望を拒否するという選択肢などない。

この日もまた、マーヴィンを夜の散歩に連れて行き、バーでビールを飲むが、マリーに振られたエヴェレットの愚痴を聞くことになる。
マリー(右)
エヴェレット(右)


腕時計の針は6時10分。

この日は、コインランドリーで黒人男性のラッパーが、自作の歌を歌っている姿を視界に収めたパターソンが興味を示し、「ここが君のスタジオ?」と尋ねる。

「詩の浮かんだ所がスタジオさ」

これがラッパーの答え。

「詩の浮かんだ所がスタジオさ」

皆、自分の世界を持っているのだ。
帰宅した時、郵便受けが斜めに傾いていて、それをもとに戻すことが習慣化している





“光”

君より早く目が覚めると 君は僕の方を向いていて 顔は枕の上

髪は広がっている

僕は勇敢に君の顔を見つめ 愛の力に驚く

君が目を開けないかとか 脅えないかと恐れながら

でも日光が去ったら 君も分かるだろう
どんなに僕の頭や胸が 破裂しそうか

彼らの声は捕らわれたままだ

まるで陽の光を 見られるのかと恐れる胎児のように 開口部がぼんやりと光る

雨に濡れた青灰色に 僕は靴ひもを結び 階下へ降りて コーヒーを淹(い)れる



この日もグレートフォールズの滝の前で、ローラへの愛を込めた詩作に没我する。

そのローラは、自宅の壁からファブリック(布製品)、服の全てを白と黒の模様にペイントすることに夢中になっている。
白と黒の模様にペイントすることに夢中になるローラ

一方、仕事を終えたパターソンは、帰途、詩を愛する少女と出会い、彼女の書いた詩に興味深く聴き入る。
詩を書く少女との出会い

本物の詩人に会えたと、パターソンは彼女を賛辞するのだ。

「“水が落ちる 明るい宙から”」
彼女の詩を口ずさみながら、家路に就くパターソン。



いつもより早く起きたローラは、カップケーキを焼き、それをバザーで売ると言う。

同時に、先日、注文したギターが届くと欣喜(きんき)し、心弾む気分で充溢している。
その直後のバスの運転席で草稿する、パターソンの詩。

タイトルは“走行”。



僕は走り抜ける

何兆もの分子が 脇へ届いて

道を作っていく中を

両脇には さらに何兆もが 動かずにいる

フロントガラスのワイパーが きしみ始める

雨が上がった

僕も止まる“



そこにドニーがやって来て、例によって愚痴を聞かされ、詩作は中断する。

仕事を始動させるパターソン。

しかし、予期せぬ出来事が起こった。

バスがエンストしたのだ。

電気系統のトラブルが原因である。

バスから乗客を降ろし、代替のバスを待つのみ。
不安を訴える乗客

スマホを持たないパターソンは、乗客の子供から借り、会社に連絡する。
会社に連絡し、代替のバスを要請する

そのパターソンの帰宅を、ローラは心待ちにしていた。

カントリースタイルで待つローラの元に、疲弊し切ったパターソンが戻って来た。

早速、教則DVDで練習したギターで、弾き語りを披露するローラ。
ギターで弾き語りを披露するローラ

ほんの少し、パターソンの日常が乱れ、元気を失った当人は、今夜もまた、マーヴィンを連れ、バーに寄る。

それだけは変わらないのだ。

しかし、ここでも、彼の日常に小さな亀裂が生じる。

マリーを追って来た「恋に悩む男」エヴェレットが、バーの中枢で銃を取り出し、矢庭に叫んだ。

「全員、動くな!」
そう喚くや、自殺しようとするエヴェレットを瞬時に取り押さえたのは、際立って穏健な男・パターソンだった。
軍役のスキルが、彼を動かしたのである。

しかし、蓋(ふた)を開けてみれば、その銃は玩具で、弾も発砲スチロールの拍子抜け。

「愛を失って、生きる理由があるか?」

エヴェレットの、それ以外ない自己表現だった。

こうして、パターソンの日常が、一時(いっとき)揺らいだ金曜日が閉じていく。



この日は、ローラが作ったカップケーキをマーケットに出品する日。

ローラは車の荷台にカップケーキを乗せ、マーケットに赴く。

いつも元気溌剌である。

一方、パターソンはマーヴィンを散歩に連れていく。

“君のような人は ほかにいない”

ローラへの「愛の詩」を草稿していたパターソンの元に、満面の笑みを浮かべた本人が戻って来た。

「信じないと思うけど、286ドルも稼いだのよ!飛ぶように売れて、大人気」
自分へのご褒美のためにと、モノクロの古いホラー映画を観に、外出する円満夫婦。
ホラー映画を観に行くことを決める
同上
映画館で

「事件」が起こったのは、帰宅後のこと。

書き貯めていたパターソンの詩作ノートが、細々(こまごま)に引き千切られ、原型を留めない惨状を呈する。
マーヴィンの仕業だった。
ローラの失意も大きい



身を切るような衝撃を受けたパターソンは、語るべき何ものをも奪われ、うそ寒い日曜日の朝を迎える。

自分の「宝物」を失ったパターソンが手に取ったのは、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの初期詩集。

夫を思いやるローラは、マーヴィンをガレージに監禁する。

獣(しし)食った報いである。

日常性の中枢を崩された虚脱感を引きずって、散歩に出かけるパターソン。

この散歩で、パターソンはエヴァレットと偶然出会い、彼の謝罪を受ける。

「この前は、すまなかった。完全に正気を失っていたよ」
謝罪するエヴェレット(右) 

しかし、普段から寡黙なパターソンの不機嫌な表情を見透かされ、エヴァレットから「元気がないな」と言われ、「昔から言うぞ。“何があっても日は昇り、また沈む。毎日が新しい日”」と励まされてしまうのだ。

そして、いつものように、グレートフォールズの滝の前のベンチに座る。
虚脱感を引き摺って、グレートフォールズの滝を見るパターソン
そこに、一人の日本人がやって来て、パターソンの隣に座った。

バッグから取り出したのは、ウィリアム・C・ウィリアムズの『パターソン』だった。
間(ま)を取った後、その日本人から尋ねられる。

「不躾(ぶしつけ)な質問ですが、このニュージャージー州パターソンのご出身ですか?」

「そうだ。ここで生まれた」とパターソン。
「もう一つ、不躾ですが、パターソンの偉大な詩人、W・C・ウィリアムズを?」
「彼の詩を知ってる」
「すばらしい。…もしかして、あなたもパターソンの詩人ですか?」
「いいや…違う」
「そうですか」

ここでは、間を取って、パターソンが答える。

「僕はバスの運転手だ。ただの運転手」
「とても詩的です」
「そうかな」
「そうです。ウィリアムズが詩に書いたかも」

小さな笑みを漏らすパターソン。

この後、日本人は、気象観測隊隊員でもあった、20世紀のフランスの画家ジャン・デュビュッフェや、ニューヨークの詩人フランク・オハラに言及し、パターソンも頷く。

会話になってきた。
「詩が好きなんですね」とパターソン。
「私のすべてです」
「自分でも詩作を?」
「はい。私のノートです。日本語で書いて、翻訳はしません。詩の翻訳はレインコートを着て、シャワーを浴びるようなもの」
「分かるよ」
笑いを込めて応えるパターソン。
表情に変化が読み取れる。

「不躾な質問だけど、なぜパターソンへ?」

今度は、パターソンの方から問いかける。

「興味深い詩人、ウィリアムズの街が見たかったんです。ここで暮らし、詩作に励んだんですよね?」
「ああ、医師でもあった」
「アァハーン」
「何?」
「アレン・ギンズバーグも、ここの出身です。このパターソンのね」
「その通りだ」
帰り際に、男はパターソンに、「贈り物です」と言って、一冊のノートを手渡す。   

「白紙のページに広がる可能性もある」
そう言ったのだ。

「ありがとう」

パターソンの反応には、感謝の気持ちが籠(こも)っている。

「アァハーン」
去っていく男が立ち止まり、また、この言葉が放たれた。

試作に悩んでいると察知した日本人が、バスの運転手を本業にする、米国の無名詩人に送ったエールだろう。

長い間(ま)の中から、米国の無名詩人の魂が動き出した。

日本人が去った後、ポケットからペンを取り出し、詩作に思いを巡らすパターソン。



“その1行” 

古い歌がある

僕の祖父がよく歌っていた

歌詞は尋ねる

君は魚になりたいかい?

その同じ歌は

同じ質問を繰り返す

ただしロバやブタで

だが時々 僕の頭の中に響くのは 魚の歌詞

ただ その1行だけだ

君は魚になりたいかい?

まるで それ以外の歌詞は 必要ないかのように




今日もまた、いつもの朝が開かれる。

パターソンの日常性には、特段の変化がないようだった。

【ラストシーンの深い感動の余韻が消えない。殆ど代えが利かない、ジム・ジャームッシュ監督の映像宇宙に浸ることができた喜びが、私の皮膚感覚にへばりついて離れない】





2  「詩のフォームをした映画」 ―― 映画「パターソン」の小宇宙





「僕がウィリアムズの詩から感じ取ったのは、こういうことだ。“身の回りにある物事や日常におけるディティールから出発し、それらに美しさと奥深さを見つけること。詩はそこから生まれる”。ウィリアムズはパターソンという街全体を人のメタファーとして書いていた」

これは、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズの詩に共感し、それを現代詩人のロン・パジェットに依頼し、新しい詩を書いてもらい、それが物語の主人公パターソンの詩に結晶したと語る、ジャームッシュ監督のインタビューでの言葉である。
ジム・ジャームッシュ監督
ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(ウィキ)
ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ「パターソン

ジャン・デュビュッフェ(ウィキ)

以下、そのウィリアム・カルロス・ウィリアムズの詩を訳したサイト(「第3回 ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ」)から、長詩『パターソン』2巻(Book Two)のほんの一部を引用させて頂いた。



公園の日曜日     そとに  わたしのそとに  一つの世界があり、 わたしの侵入を受ける、とかれは呟いた ──それは休息している(ようにわたしには見える) 一つの世界であり、

そこに具体的に 近づいていく── 場所は公園で  それは岩盤の上にあり  都市にとっては女性である  ──その肉体にパターソンはかれの考えを(具体的に)注入する   ──時は晩春、  日曜日の午後!   ──そして小道を通って断崖に出る(歩数を数える── 実証する)  自分もひとに混じって  ──小道の石を踏んでいくと  ひとは登りながらその石に足を滑らせている。 先頭に立っているのはイヌだ!

 

「詩人が日曜日の公園で、ひたすら耳を澄まし、古い新聞記事を読み、いっちゃつくカップルなどを横目に、自分の書いた手紙やもらった手紙を密かに読み返したり、近くの山へ登るといった設定で読むだけでも十分に純粋な詩的経験ができます。

(略)読者は詩人と一緒になって、以前の恋文や医学雑誌や古い新聞記事や妊娠を止められなかった牝イヌの飼い主へ出した自分の手紙を読んだり、バッタの群れに出会ったり、恋する若者たちや愛犬を撫でる飼い主を眺めたりするのです」(「第3回 ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ」からの引用)

とても参考になった一文であり、日常のディティールに拘泥した、物語の主人公パターソンの詩のイメージを彷彿させる。

まさに、映画「パターソン」が、「詩のフォームをした映画」(ジャームッシュ監督)であることが分かる。

本作は、「詩のフォームをした映画」 ―― 映画「パターソン」の小宇宙であった。
【ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの影響を受けつつ、人間性の無条件な解放を求め、カウンターカルチャーのルーツとなった「ビート・ジェネレーション」の詩人、アレン・ギンズバーグを生んだニュージャージー州パターソンは、重要なスポットとして、映画に登場するグレートフォールズの滝で有名な都市で、主人公パターソンの詩の供給スポットになっている】
アレン・ギンズバーグ(ウィキ)
ビート・ジェネレーション(ビートニク)/「写真で見るビートニク詩人たち」より
グレートフォールズの滝https://www.travel.co.jp/guide/article/27829/





3  「日常性」の只中で〈私の状況〉を維持し、自己運動を繋いでいく





イメージ画像・「季節のアルバム」より

人間の生存の定常的・反復的で、その生活行動の総体であり、限りなく虚妄を退け、〈私の状況〉を安定的に繋いでいくこと ―― これが「日常性」に対する私の定義である。

「アートが紡ぐ創造的活力」と対比すべく何ものもなく、それを立脚点にすることで、自我を安寧に導く絶対的な時間。

これが「日常性」である。

この「日常性」の只中で〈私の状況〉を維持し、自己運動を繋いでいく。

この自己運動こそ「日常性」の生命線であり、〈私の生〉の推進力である。

〈私の生〉の推進力は「日常性」の只中で分娩され、固有の命を噴き上げていく。
同上

脊損者である私の「日常性」は、他者のそれと比肩する意味を無化し、〈私の状況〉を維持し、自己運動を繋ぐ、唯一、絶対的な時間である。

朝4時前後に起床し、自らに課した教養的な学習を遂行し、8時半に電動ベッドから起き出して、リハビリをする。

リハビリ後の朝食と、30分近い歯磨き。

半年で自動的に抜けると言われているので、歯の寿命を少しでも伸ばすため。

その後は、厄介な排便。

そして、自宅マンションの廊下の歩行リハビリ。

20分かかる。

自宅内での歩行を含めて、8回ほど転倒しているので、凄い集中力が求められる。

転倒したら自力で起き上がれないから、恐怖心との戦いである。
同上

それが終わったら、ブログを書く。

この作業に、ほぼ1日かける。

夜は10時に床に入る。

朝までの間に3回ほど起き、排泄する

何とか5時間の睡眠をとるのが課題だが、眠剤と抗鬱剤の助けを借りなければ難しい。

これが私の「日常性」の内実だが、排泄と学習を除けば、1日4回ほどのリハビリを含め、配偶者の介護なしに私の「日常性」は成り立たない。

私の命より、配偶者の命・健康の方が重要だと思う所以である。
同上

この一蓮托生(いちれんたくしょう)の「日常性」も、5月11日で20年になった。

悔いはない。

日々に、様々な症状に悩まされる私の「日常性」だが、決して、変わらぬ「日常性」ではない。

NHKのニュース以外、テレビを観ない私の唯一の趣味は、ブログの記事を書くこと。

そのために、考えること、勉強することに集中する。

だから、私の「日常性」には、少しばかりの鮮度がある。

この鮮度が、〈私の生〉の推進力になっている。

〈私の生〉の推進力が、それ以外にない自己運動を確保し、それが〈私の状況〉となり、唯一、絶対的な時間として引き受け、絶対的に受容する。

〈私の状況〉に昇華し、自己運動を確保し得た「日常性」は、それを維持する者の内面を豊饒にし、しばしば、「アートが紡ぐ創造的活力」の海原になる。
同上

映画のパターソンがそうであったように、「アートが紡ぐ創造的活力」は「日常性」の対義語ではない。
「アートが紡ぐ創造的活力」は「日常性」と乖離しないのだ。

それが、映画「パターソン」が、観る者に贈り届けてくれた貴重な価値観である。

郵便受けをアタックして、斜めにするなど、愛犬マーヴィンのエピソードをも丹念にインサートするほどに、登場人物の全てが自分の世界を持ち、自分の「日常性」を自己基準で繋ぎ、特段に大騒ぎになることがない程度において〈私の生〉を紡いでいる。
郵便受けが斜めに傾いていた犯人はマーヴィンだった

コインランドリーのラッパーも、秘密のノートに詩を書く少女も、そして、カントリー歌手を目指して、教則DVDで練習したギターで弾き語りを披露するローラも皆、自分の世界を持ち、それが大成するか否か分からなくとも、「日常性」と深くリンクし、〈私の生〉を紡いでいるのだ。
詩を書く少女
ギターで弾き語りを披露するローラ

関係性の濃度の高低があっても、何気ない時間の累積が、それ以外にない〈私の生〉を紡ぎ、交叉し、共感し、パターソン夫婦のように、思いを共有する。

とりわけ、ラストシーンにおける詩人風の日本人との交叉は、この映画の軟着点が決定力を有することを示唆する眩(まばゆ)さに満ちていた。
「詩人」の心が通じ合う
一切の創造的活動が、白紙のページから始まるというメッセージこそ、失われた創造的所産は物理的に消失しただけで、それを創り出した主体のシャープな感性さえあれば、そこから累加された創造的所産が、より価値のあるアートに結実する可能性を高めるのだ。

恋に破れたエヴェレットが、自分の過ちに気づき、それをパターソンに謝罪という形で身体化したように、「人生はやり直せる」という人生訓を内化することができる。
謝罪し、励ますエヴェレット(右)
マリーとエヴェレット

エヴェレットのトラブルは、本作で最も「お騒がせ」のエピソードだったが、そこに脅しの嫌がらせが内包していたとしても、誰も傷つける意図が感じ取れる児戯性によって収斂される、限りなく人間的現象だった。

エヴェレットの「日常性」が非日常に捕捉された一連の行動が、パターソンへの謝罪によって、本来的な「日常性」に復元し、再構築されるという甘い予測が成就するとは考えにくいが、それでも、身近な者たちの悪意の集合によって、悪意のペナルティを被弾することはないだろう。

ジム・ジャームッシュ監督は、そういう映画を構築したのである。

だから、決定力を有するラストシーンの提示で、観る者をも救ったのだ。

パターソンが被弾した傷創(しょうそう)は決して浅くないが、「白紙のページに広がる可能性もある」という同志的激励を見知らぬ日本人から受け、その白紙を埋めていく詩的言語を紡いでいった。

この日本人の登場こそが、ジム・ジャームッシュ監督の、映画それ自身に対する最大の贈り物だった。
ジム・ジャームッシュ監督と永瀬正敏
しかし、この贈り物があってもなくても、パターソンは路線バスの運転手を辞めないし、詩作も止めないだろう。
「バスの運転手」に誇りを持つ男
詩作を止めない男
同上

観る者は、それを確信している。

大袈裟な抑揚のある、起承転結の物語と無縁なジャームッシュ監督の、オフビートの作風に深い愛着を抱いている。

パターソンの「日常性」は、特段に、そのことを意識していない観念の結晶なのだ。
この観念の結晶は、パターソンの人格総体の構築的累加の所産なのである。

思うに、「日常性」こそ、千金に値する創造的活力の源泉になる。
「日常性」こそ、千金に値する創造的活力の源泉になる
ここからパターソンの「日常性」が開かれる
夫婦の「日常性」にも鮮度がある
「日常性」への埋没を嘲弄(ちょうろう)する者は、「日常性」が内包する鮮度に無頓着な者である。

翻(ひるがえ)って、「日常性」の鮮度を知る者は「物語のサイズ」を知る者である。

「物語のサイズ」を知ること ―― それは他者と比べることなく、何ものにも縛られない〈私の生〉を繋いでいくことである。
「物語のサイズ」を知る男

何ものにも縛られない〈私の生〉に昇華し、自己運動を確保し得た「日常性」が最も強い。

最も深い。

最も敏いのだ。

(2020・5)

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