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2021年4月30日金曜日

その手に触れるまで('19)   ダルデンヌ兄弟

 


<内実の乏しい観念系で武装した少年が、その曲線的展開の中で決定的に頓挫する>

 

 

 

1  「僕は大人だ。大人のムスリムは女性に触れない」

 

 

 

「さよならの握手は?」


「さよなら」

「私と握手するなと、導師(イマーム)に言われた?」

「僕は大人だ。大人のムスリムは女性に触らない」


「他の子は握手する」

「間違ってる」

 

イネス先生に、帰り際に呼び止められたアメッドは握手を拒否し、そのまま急いで教室を出て行った。

 

兄ラシッドと共に、アメッドは食品店を経営する導師の元に向かい、いつものように、教徒たちが店の裏の部屋に集まり、祈りを捧げる。 

アメッド(左)と食品店主の導師


帰宅すると、先生と握手しないことで、母親がアメッドを叱りつけた 。

 

「イネス先生は、識字障害克服の恩人よ。毎晩、読み書きと計算を教えに来てくれた…導師に洗脳されて以来、部屋で祈ってばかり」


「僕の意思だ」

「一か月前はゲーム三昧だった。それが急に…袖の短いTシャツまで嫌がり始めた。お前たちの従兄みたいな、あんな最期は絶対に嫌よ」 

ラシッド

しかし、アメッドは聞く耳を全く持たず、母親を〈飲んだくれ〉とアラビア語で呟き、反抗する。 


「アラビア語の歌謡曲」の授業を、イネス先生が提案していると導師に伝える。

 

「あの教師は背教者だ。預言者の聖なる言葉を、歌で学ぶなど冒涜的だよ」 


ラシッドは、イネス先生の説明会にはサッカーを理由に、「行けない」と答えるが、この辺りがアメッドと切れている。

 

「信仰よりもサッカーか?あの教師の目的は何だ」 


導師がラシッドを問い詰める。

 

無言だった。

 

「僕らをコーランから遠ざける」 


代わりに、アメッドが答えた。

 

「我らの宗教が消え、ユダヤや異教徒と混ざり合う」

 

導師は説明会に参加して、反対の声を上げさせたいのである。

 

「歌を通じて、使える単語を増やしたいの。コーランに出てこない日常的な単語を学ぶ」 


イネス先生は、参加者に歌の授業の目的を説明した。

 

ここで、参加者から様々な意見が噴出する。

 

「アラビア語を学ぶのは、いい信徒になるため。それ以外のことは、あとでいい」

「カイロにいる姉の子は、モスクと学校両方で学んで上達した」 


そこで、ラシッドが言葉を挟んだ。

 

「イスラム教が廃(すた)れてしまっても、イネス先生はどうでもいいんだ」 


その意味をイネス先生が追求すると、ラシッドは下を向いて答えられない。

 

ここでも、アメッドが代弁する。

 

「先生の新しい彼氏は、ユダヤ人でしょ」


「何が言いたいの?」

 

イネス先生の問いに答えず、二人は説明会から出て行ってしまう。

 

ラシッドはサッカーへ行き、アメッドは導師の食品店の手伝いに行った。 

ラシッドについて不満を洩らす食品店主・導師


導師は、「殉教」したアメッドの従兄を引き合いに出して言い切った。

 

〈邪魔者は殺せ〉 


あろうことか、アメッドにイネス先生の殺害を示唆するのだ。

 

イネス先生が食品店にやって来て、アメッドを外に呼び出したのは、その時だった。

 

「コーランは、他の宗教との共存を説いてる。私は父から、そう教わったわ」


「ユダヤ教やキリスト教は敵だ」

「握手しなくていいから、放課後クラスに来て」 



イネス先生の殺害を決意したアメッドは、自宅でジハード決行のシミュレーションを立て、ナイフを靴下に挟んで、イネス先生のアパートへ向かう。

 

イネス先生の部屋に入ると、〈アラーは偉大なり〉とアラビア語で呟き、ナイフで刺そうとするが、ドアを閉められ、呆気なく頓挫する。


 

アメッドは走って逃げ、導師の元に向かった。 


「殺せとは言ってない…警察が来る前に自首しろ」


「どこかに逃がして」

「急には無理だ…お前が教師を襲ったのは、ネットの導師の影響だ」 


導師は無責任に言い逃れ、かくてアメッドは自首して、少年院での収容生活が開かれていく。

 

 

 

2  「“努力して、真のムスリムになってほしい。そうすれば僕を誇りに思ってくれるはず”」

 

 

 

二度目の面会にやって来た母は、導師が逮捕されたことを伝え、泣きながら訴える。

 

「変わらなきゃダメよ。これが現実なんて思えないし、夜も眠れない」 


その後、アメッドは収容当初辞めてしまった、農場での「更生プログラム」に復帰し、会いたいと伝言してきたイネス先生と会うことを母親に電話で伝えた。 


その電話を受けた母親は笑みを湛(たた)えつつも、落涙する。

 

担当の教育官が酪農家に連れていき、宗教上の理由から、犬との接触を避けるアメッドだったが、その農家の娘・ルイーズと共に、家畜の世話に専心していく。 



それでも、祈りは熱心に欠かさず行うアメッド。

 

教育官は心理士との面会で、イネス先生と会うのはまだ早いとアメッドに伝えた。 

教育官とアメッド


アメッドは酪農家を去る際に、歯ブラシを隠し持って少年院に戻った。

 

そして、金属探知機を避け、持ち込んだ歯ブラシを擦(こす)り、尖(とが)らせる作業を行うのだ。

 

アメッドは、自分が変わったと見せかけ、イネス先生と会い、再び、殺害を決行しようと考えているのである。

 

しかし、この「ジハード」もまた、時期尚早だった。

 

2度目の心理士の面会で、再び、「被害者と会うのはまだ早い」と告げられ、面会は延長される。 

心理士とアメッド


ペンを教官から借り、母親に出紙を書くアメッド。

 

「“努力して、真のムスリムになってほしい。そうすれば僕を誇りに思ってくれるはず”」 


アメッドは何も変わっていなかったのだ。

 

後日、アメッドは担当判事らの立会いの下、イネス先生と面会する場が設定された。

 

警察のボディーチェックを逃れ、トイレで先の尖った歯ブラシを靴下に忍ばせる。 


イネス先生は部屋に入り、アメッドの顔を見るや、取り乱して泣き出したので、担当判事が即座に退出させてしまった。 

担当判事(左)



「君の行為の結果だ。分かるね」


「また会えますか?」
 


心理士に連絡すると答えた担当判事は、アメッドを諭した。

 

「農場の仕事を続けなさい。あれに助けられる若者は多い」 


かくて、農場での生活が続く。

 

真面目に農作業に専念するアメッド。 


一緒に働くルイーズはアメッドに好意を持ち、休憩中にアメッドの眼鏡を外した顔を見たり、眼鏡を借りてアメッドを見たりして、物理的に最近接する。

 

「こっち見て。キスしたい」 


そう聞くと、ニコリを笑ったアメッドにメガネを返した。

 

「ビーツの畑を見る?」

 

「アメッドを信じる」と、担当教育官の許可を得て、二人だけで畑に向かった。 



畑に蹲(しゃが)んで話しながら、ルイーズは再びキスをしようとすると、アメッドは立ち上がって避ける。 


それでも立ち去らないのは、本当はキスしたいからだと、ルイーズは言い寄り、アメッドと口を合わせるが、アメッドは立ち上がって遮断する。 



農家に戻って来たアメッドは、洗面所で何度も口を濯(ゆす)ぎ、礼拝を始めた。 


「僕は罪を犯しました。二度と繰り返しません」 


その直後、アメッドはルイーズの部屋を訪れた。

 

帰り際の挨拶を待っていたと言うルイーズ。

 

「あなたが来た最初の日から、特別な気がしてた。あなたは?」 


アメッドも小さく頷いた。

 

「ムスリムになる気はある?今日、畑でしたことは罪だ…」


「無理強いしたなら、ごめん」

「君が改宗すれば、罪が少しはマシになる。結婚前ってことには、変わりはないけどね…改宗する?」


「断ったら、私とは終わり?」


「うん」

「じゃ、さよなら」

 

ルイーズはそう言うや、その場を去っていった。

 

アメッドは施設に帰る際、教育官に嘘をつき、ルイーズがいる納屋へ行った。

 

「僕が好きなのに、なぜ改宗しないの?」


「強制は嫌い」

「僕は地獄行きだ」

「天国も地獄も存在しない」 


それを聞くや、アメッドは「不信心者!」とルイーズを突き飛ばした。

 

「出て行って!」

 

叫ぶルイーズ。

 

二人の関係が終焉した瞬間である。

 

帰宅途中、アメッドは隙を狙って走行中のドアを開け、車から飛び降りて林へ逃げて行った。 


教育官はアメッドを追い駆けるが、アメッドは林を抜け、バスに乗り込んで去って行く。 



そして、向かった先は放課後教室。

 

アメッドは教室に入る前に、鋭利な凶器を探し、花壇を吊るすフックを抜いて胸ポケットにしまい込んだ。


 

しかし、教室には鍵がかかり、建物の中に入れない。 


アメッドが犯した未遂事件の影響が、そこに読み取れる。

 

外壁を登り、屋根に上がったアメッドは、更に、外壁を伝って窓から侵入しようとするが、その瞬間、背中から落下してしまった。 


ここまで登ったところで落下する


地面に仰向けになったまま、体を起こすことができないアメッド。

 

脊髄か骨折か、判別しにくいが、重傷を負ったのだ。

 

「ママ…ママ…」 


左腕の力で這い、フックで金属を叩いて音を出し、助けを求めるアメッド。 



中からイネス先生が出て来て、寝転んでいるアメッドに気づく。 


「アメッド、聞こえる?」


「うん」

「救急車を」 


立ち上がろうとするイネス先生の腕を掴むアメッド。 


「イネス先生…先生…許して。ごめんなさい」 


そう言って、アメッドはイネス先生の手を強く握るのだった。

 

印象深いラストシーンである。 


 

 

3  内実の乏しい観念系で武装した少年が、その曲線的展開の中で決定的に頓挫する    

 

 

 

完璧な映像だった。

 

殆ど全ての映画を観ているが、ダルデンヌ兄弟の作品は、いつ観ても素晴らしい。

 

人間洞察力の凄み。

 

一切の余分な描写の削り取り。

 

これがある。

 

例えば、少年院で「見せかけの変化」を演じ、ジハード(非ムスリムへの聖戦)の対象人物・イネス先生と会い、導師から与えられた使命を遂行せんとするアメッドが、「会う」と言う意思を有するイネス先生が院内で接見するシーン。 

 

非ムスリムだが、常にアメッドに寄り添い、真摯に対応するイネス先生は、アメッドと目を合わせた瞬間、身震いし、嗚咽するや、面会室を飛び出していく。 


殺害未遂事件に被弾した彼女の心的外傷は、その自我に深々と侵蝕(しんしょく)していたのだ。

 

正直言って、このシーンを、私は想定できなかった。

 

恥じ入った次第である。

 

「識字障害克服の恩人」であるイネス先生=「使命感」で動く、「絶対・善」の象徴的人物として偶像化された存在であると、勝手に決めつけていた不覚を思い知らされた。 


ダルデンヌ兄弟が、こんな安直な脚本を書くわけがないのだ。

 

では、映画では、少年の変容を、どのように描いていったのか。

 

それを考えてみる。

 

何より、この少年はクレバーだった。

 

ジハードの決行に至らなかったアメッドが、イネス先生に面会する前に担当者に渡した、母への手紙を取り戻すワンカットは、その事実を端的に示している。

 

残念ながらと言うべきか、少年のジハードの決行は手応えなく空転する。

 

クレバーであるが故に、セルフ・カモフラージュ(自分偽装術)に長(た)けていたばかりか、豊かな感性にも恵まれていたが、ジハードを遂行するには無理があった。

 

組織的バックグラウンドが脆弱過ぎたのである。 

アメッドと食品店主の導師

イネス先生に対する殺害を示唆する導師


そこに「教育」が入り込む余地がある。

 

少年の自我を、内部から変容させる能力に繋がっていくからである。

 

しかし、容易ではない。

 

それを変える「何か」が必要だった。

 

当然ながら、イネス先生個人の力には限界がある。 



その状況下で、映画が用意したのは、少年の転倒事故だった。

 

メタファー含みで言えば、アメッド少年は、この時、確かに死んだのである。 



ひたすら、内実の乏しい観念系で武装したはずの、「ジハード絶対」の少年の死の代わりに生まれたのは、ごく普通の「子供」の風景だった。

 

「ママ…ママ…」 


「ジハード絶対」の少年が漏らした、この一言は観る者の心を大きく突き動かす。

 

ルイーズとの出会いもあって、思春期自我の緩やかだが、決して無化し得ない内面の揺動が推進力になり、コントロール不能の只中で、ジハードという観念系に必死に身を預け、「信じ切った自己」を演じたつもりでも、不如意な結果に終わるのは目に見えていたのだ。 




突き進む少年が、その曲線的展開の中で頓挫する。

 

決定的に頓挫する。

 

自らが犯した暴走で命の危険に陥って、気づいたのは、この「ママ…ママ…」という言葉。

 

そして、ジハードの対象人物が飛び出して来て、少年を救わんとして動いていく。 


離れていくイネス先生の手を握ったのは、その行為を罪と信じる少年自身だった。 


導師の教えが破綻した瞬間だった。

 

思春期自我が一気に胎動し、「昔の自分」よりも、明らかに成長した「未来の青春」の風景が予約されていくだろう。

 

「イゴールの約束」・「ロゼッタ」・「少年と自転車」など、迷走する少年少女を必ず救うダルデンヌ兄弟。 

                  人生的映画評論「イゴールの約束」より

                   人生的映画評論「ロゼッタ」より

                 人生論的映画評論・続「少年と自転車」より


それでも観る。

 
だから、ラストは予約されている。

 

作品に、ダルデンヌ兄弟の命が吹き込まれているからである。

 

「若者が過激なテロに加わる作品はこれまでにもたくさんあったと思います。しかし、私たちが描きたかったのは、狂信化した人は、どうすればそこから脱することができるのか、でした。少年を選んだ理由は二つあります。一つは成長途中なので、様々なことに影響され、誘惑を受けやすいからです。もう一つは、狂信化したとしても、もとの子どもに戻ることができる、その可能性があると思ったからです」

 

このジャン=ピエール・ダルデンヌ(兄)の言葉が本作のコアにあるが、ここでも、命が吹き込まれている。 

            ジャン=ピエール・ダルデンヌ(左)、リュック・ダルデンヌ(右)



それも、相当の熱量を吹き込んでいると思えるのは、ISによる「2015・パリ同時多発テロ事件」(死者132人、負傷者349人)の深甚なインパクトを希釈化できないと考えられるからだ。 

          「2015・パリ同時多発テロ事件」・突入作戦で集合する警官隊(ウィキ)



そればかりではない。

 

ベルギーとフランスを震撼させた、同時多発テロのテロリストがベルギー出身者であり、ブリュッセルのイスラム移民地区に、銃の入手ルート(「ベルギー・コネクション」)があると指摘されれば、理不尽極まる暴力の問題をスルーできようがないだろう。 

          「ベルギー・コネクション」・容疑者が経営していたベルギーのブリュッセル首都圏モレンベークにあるバー



この現代的なテーマをダルデンヌ兄弟流の筆致で映像化すれば、成長途中の少年を主人公にした鮮烈な作品に仕上がるということである。 

少年院の教育官とアメッド


成長途中の少年なら、まだ救える。


 

この問題意識が、ダルデンヌ兄弟にはある。

 

成人してもなお、愚昧な行動に振れる者は無理だが、少年少女なら、まだ間に合う。

 

そう考えているが故に、「狂信化したとしても、もとの子どもに戻ることができる、その可能性がある」と、熱っぽく語るのだ。

 

そういう映画作家なのである。

 

観る者の中枢を衝く映画を世に出し、一人ひとりに問いかけてくる。

 

だから、熟考する。

 

いい意味で、観る者を選んでしまう作品が提示され、問題意識の共有を迫るのである。 

「ジハード」の際に、眼鏡が落ちないようにゴムで固定する




―― 以下、イスラム教への「無意識の偏見」=「高速思考」を解くために、私なりの問題意識で言及した拙稿である。

 

 

 

3  イスラム教は誤解されている 

 

 

 

ムハンマドの言行録・コーランなどに記された、イスラム世界の法体系「シャリーア」をベースにした社会の構築を具現化する政治・社会運動 ―― これが「イスラム原理主義」というファンダメンタリズム的な概念の基軸にある。 

【犯罪(殺人、強姦、同性愛行為など)を犯した場合は死刑と定められている「シャリーア」。画像は、アフガニスタンで、ブルカ(顔)を開いた理由で、宗教警察によって処罰/ウィキより】



この「イスラム原理主義」のエジプト版「ムスリム同胞団」のメンバーに、サイイド・クトゥブという重要な人物がいる。 

ハサン・アル=バンナー(ムスリム同胞団の創設者)とサイイド・クトゥブ(右)


西洋文明の世俗的・物質主義を拒絶し、「シャリーア」をベースにしたイスラム社会の完全なる具現化を説いた、このサイイド・クトゥブの思想がイスラム過激派の思想的原動力となり、「9.11米同時多発テロ」の首謀者とされ、国際テロ組織「アルカイダ」を設立したオサマ・ビンラディンらに大きな影響を与えた。 

   【9.11米同時多発テロ・ブルックリン側から見たツインタワー南棟(2WTC)の崩壊/ウィキより】

オサマ・ビンラディン(ウィキ)


決してテロリストではなかったサイイド・クトゥブは、エジプト革命を成功させ、大統領になったナセルによって、「ナセル暗殺未遂事件」の首謀者として絞首刑に処されたが、その思想がイスラム過激派に継承されていったのである。 

第2代エジプト共和国大統領・ナセル(ウィキ)


しかし、イスラム過激派はイスラム教の教えを代弁するものではない。

 

イスラム過激派は、世界中に約17億人も存在するイスラム教徒のごく一部にすぎず、その教えもテロリズムに直結しないのだ。 


「アメリカ同時多発テロ事件」(「9.11」)以後、イスラム教徒=過激派=テロリストというイメージが独り歩きしていて、宗教に対する関心が希薄な日本人は、この根拠のない情報に固着されやすくなり、それを否定する少数派の意見は排除されていく。

 

まさに、孤立する少数派の意見は、根拠を持たない多数派の意見に沈黙を強いられ、それが「世論」に収斂されていくのである。

 

ドイツの政治学者エリザベート・ノエレ=ノイマンが提唱した、「沈黙の螺旋(らせん)」である。 

沈黙の螺旋


徹底的に議論する手法・「悪魔の代弁者」(多数派に反対する者/注1)を作らない我が国の政治・文化風土が、そこに垣間見える。

 

話を戻す。

 

イスラム教それ自身は、テロリズムと無縁である。

 

イスラム教は多様性を有する宗教である。 

イスラム教は多様性容認を説く」より


誤解を恐れずに言えば、イスラム教には統一見解が存在しないのだ。

 

元々、イスラム教には教皇(歴史的には、最高権威者の称号=カリフは存在)もいなければ、公会議=宗教会議がないから、「正統教義」としての統一見解を持ち得ないのである。 

                         アブデュルメジト2世/イスラム世界で最後の「カリフ」と呼ばれる(ウィキ)



何より、イスラム教は教会を経営し、布教活動を行う専門的な聖職者が存在せず、その代わりに、コーラン(唯一絶対神のアッラーの啓示の集録で、「クルアーン」とも)とハディース(ムハンマドの言行録)を理解し、イスラム法学を修めたウラマー(知識人)から指導を受けたりするが、基本的に各自の信者が絶対主と直接に向き合っていくことになる。 

メッカを巡礼するムハンマド一行(ウィキ)

ナスフ体(アラビア文字の書体)によるコーランの章句(ウィキ)


【因みに、映画で登場する「導師」は一介の食品店主で、キリスト教で言う、専門的な「聖職者」ではない】

 

信仰心の濃度の差があるが、信徒間は絶対的に平等であるということ ―― これに尽きる。

 

当然ながら、男女も平等である。

 

コーランには、生物学的な違いから男女の役割分担を説き、男女の差異を認知しながらも、信徒間の絶対的な平等を謳っていると解釈し、男女差別を正当化していないと考える専門家もいる。

 

誤解を解くために書くが、一夫多妻制について言えば、一夫多妻制を採用していない国家が存在することでも分かるように、「正統教義」を有しないが故に教徒間でも割れているのが実情なのである。

 

在日イスラム教徒たちも一夫多妻制を否定しているが、一夫多妻制それ自身の根拠について、在クウェート大使館書記官は、「母子家庭が増えるなど結婚できない女性を救うための制度として導入されたという説が有力」(「外務省員の声」より)と説明している。 

外務省員の声 イスラム教徒の結婚 一夫多妻制」より


世界の法系統として、「大陸法」(成文法)・「英米法」(判例法)・「社会主義法」と並んで存在する「イスラム法」だが、そこには、「女性に対する暴力」について規定されていて、中でも、「姦通罪に対する刑罰」・「名誉の殺人」・「女子割礼」という、看過できない問題があるのは事実である。

 

とりわけ、女性への暴力として特に問題となっているのが、既婚者以外の性的関係を厳重に禁じると言われるイスラム法における、レイプ被害者の処刑の問題である。 

姦通罪で石打ち刑を受ける女性


「姦通罪を成立させるには四人の男性の証言か、本人の自白が必要である。姦通罪が成立しない場合、逆に訴えた側が中傷罪として処刑されるのである」(「イスラムと女性の人権一国連での討議をとおして-」より)

 

これはイスラム内部での反発も強く、法改正の動きがある。

 

また、「名誉の殺人」の理不尽さは、よく知られているところである。

 

女性の「不道徳な行為」によって、家族の名誉を傷つけたという理由のみで、未婚女性が家族・親族の男たちに殺害されることだが、これはイスラム教以前からの部族的慣習と考えられていて、イスラム圏外の国家(注2)でも行われている。

親族に殺される女性たち-南アジアの名誉殺人

 


そして、「女子割礼」(女子性器切除)の問題。

 

女性の外性器の一部、全部を切除するという行為で、伝統的助産婦によって、剃刀やナイフ、鋭い石などが使われ、母親や親族の女性に押さえ付けられて行われるで、これも部族的慣習とのレリバンス(関与)との関係が指摘されている。 

女子割礼の風習が残るイラク北部のクルド人自治区

2011年世界における女性器切除の分布図(ウィキ)


アジア、アフリカ、中東の各地で見られる「女子割礼」(約8000万人)によって、出産時の母子死亡率が極めて高いから厄介なのだ。

 

但し、この酷薄な「女子割礼」についての記述もまた、コーランには存在しない。

 

該当国の法的規制の動向を注視すべきだろう。

 

結局、エジプトでの増加傾向をみる時、成人女性へのイニシエーション(通過儀礼)と化し、部族的慣習で延長されている旧来の陋習(ろうしゅう)を打破させるには、人権団体の活動に依拠せず、国際社会が途絶することなく、声を上げ続けるという美辞麗句の連射によって、人々の意識変容に期待するようなパフォーマンスしか方略がないのか。 

なぜエジプトの少女は夏を恐れるのか その1 (CNNより)


至りて、困難である現実に思い及ばざるを得ないのである。

 

しかし、それでも書かざるを得ない。

 

部族的慣習で延長されている旧来の陋習の存在を承知してもなお、イスラム教は「悪魔の宗教」でも「邪教」でもなく、本来的に多様性の容認を説く宗教である。

 

ステレオタイプに基づく理解を盾にした「邪教」非難は、先述した「沈黙の螺旋」の心理学で説明可能である。

 

「『コーラン』の中には、『我らはお前達を男と女に分けて創った。そして、いろいろな種族や部族をなした。これはお互いを知り合うためである』と書いてあります。つまり、それぞれのもつ多様性を認めるのがイスラム教なんです。多様性を通じてのみ、人は自分自身という人間の形と重要性を真に知ることができる。イスラム教では『寛容と多元主義の必要性』を説いています」

 

この一文は、「イスラム教は多様性容認を説く 宗教リテラシー特集(2)」からの引用である。

 

ここで私は、一本の映画を想起する。

 

「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」(フランソワ・デュペイロン監督)である。 

           人生論的映画評論「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」より



この映画で紹介された「スーフィズム」は、イスラム神秘主義として知られているが、どこまでも寛容で、平和主義・人道主義・友愛主義・非暴力主義・多元主義を標榜(ひょうぼう)し、内面の悟り(行法としての瞑想・修行)を主唱する宗教である。

 

回旋舞踊(かいせんぶよう)で有名な「スーフィズム」は異端視され、常識や伝統を逸脱したとして、イランで弾圧される〈現在性〉を可視化してきたが、トルコ民衆に受け容れられ、広く普及している。 

回旋舞踊(同上)


女性の指導者が登場したりするなど(セネガルのニアセン教団)、我が国の親鸞思想が詰まったような、「神の愛(阿弥陀仏の本願)」を味わうことを究極目的とし、個々人の精神的営為をコアにする「スーフィズム」が、新しいイスラムの一つの在り方として存在しているのである。 

スーフィズム(ウィキ)


(注1)「キューバ危機」の際に、時の大統領ケネディが、弟のロバート・ケネディと大統領顧問を「悪魔の代弁者」にして、会議中の「序列無視」、「大統領への配慮の否定」など、複数のルールを決め、「先制攻撃派」と「海上封鎖派」に分かれた意見を徹底的に追及した結果、最終的に「海上封鎖派」を選んだことで、核の危機を回避した。

 

(注2)ヒンドゥー教・カーストとの関連において、インドでまま見られる。また、2008年にはスウェーデンでも起こり、社会問題化した。英独でも惹起され、移民が持ち込んだと言われる。

 

(2021年4月)



2 件のコメント:

  1. すごく緊張感のあるストーリーでした。いつものように一文一文ゆっくり読み進めましたが、最後の方はドキドキしながら急ぎ足になりました。
    10名弱の少ないスタッフで撮影した映画のようですが、その背景や訴えかける内容は、ハリウッドの多額な予算で作られた映画よりも、はるかに広がっていると感じました。
    最近特にたくさんの映画評を読ませていただいておりますが、本当にこちらのブログに出会えたことに感謝しています。
    難しい漢字が少しずつ調べなくても読めるようになる喜びと、わからない内容がまだ時々ありますが、それが確実に減ってきている実感と、何より、映画からさらに深く掘り下げた視点に本当に楽しく触れさせていただいております。
    お体が自由にならない大変な状況の中、また最近は突発的なご病気もされ、本当にどこからこんな力が湧いてくるのだろうと、毎回不思議になりますが、とにかくとにかく楽しく読ませていただいております。
    それ以外は何も言えません。では、また。マルチェロヤン二

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    1. コメント、また気付かずに申し訳ありません。
      ダルデンヌ兄弟の映画は、必ず観ます。
      暫く映画批評から離れていた時期がありましたので、ダルデンヌの作品に注意を払っていなくて、ここにきて慌てて観ました。
      今度ブログに上げる「午後8時の訪問者」、素晴らしかったです。

      体の心配まで案じてくれてありがとうございます。
      最終検査で「悪化した」と言われ、また手術をすることになりますが、残り時間の中で、いい映画を見つけて、批評することのみに没頭します。

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