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2020年7月16日木曜日

ゼイン ―― その魂の叫び 映画「存在のない子供たち」('18)が訴えた「児童婚」・「児童売買」の陰惨な風景 ナディーン・ラバキー


ゼイン ―― その魂の叫び
ゼイン ―― その魂の叫び


ゼイン ―― その魂の叫び



1  「僕を産んだ罪」で両親を訴える少年



レバノンの首都ベイルート。

そこに広がるスラム街に、仲間たちと煙草を分け合い、戦争ごっこに興じるゼインが住んでいた。
ゼインが住むベイルートの貧民街

本作の主人公である。

そのゼインは殺人未遂事件を起こし、5年の刑を宣告され、少年刑務所に収監中。

今、ゼインは手錠をかけられた状態で、裁判所に連れ出され、原告として出廷している。
ゼインと弁護士
ゼインの両親(父セリームと母スアード)

被告は彼の両親。

父母の名は、セリームとスアード。

「ゼイン、君は何歳だね」と裁判長。
「そっちに聞いて」

ゼインが指摘したのは、彼の両親のこと。

「原告には出生証明書がなく、どの公文書にも、記録が一切、存在しません。当の両親でさえ、息子の誕生日を把握していないようです。医師によると、ゼインの年齢は12歳ぐらいとのこと。事件時の年齢です」
医師の説明

ゼインの弁護士の説明である。

「クソ野郎を刺したから」

収監理由を聞かれたゼインは、そう言い切った。

「両親を訴えたい」

この言葉こそ、原告となったゼインが、刑務所内からの電話で、メディを法廷に呼んだ目的だった。

「何の罪で?」と裁判長。
「僕を産んだ罪」

ここだけは、明瞭に答えた。

ここから、両親を訴えたゼインの過去が、回想シーンで流されていく。

ゼインは母スアードの指示で、薬局で嘘の処方箋で薬を受け取り、刑務所に収監中のドラッグ患者に売るために「特製ジュース」という名の薬物を作っていた。

未就学児のゼインは、スクールバスを恨めし気に見つめるだけ。

貧しくても、子供だけは沢山作ってしまう最貧国の日常の風景である。

そんな中、長男のゼインは妹サハルと共に、野菜をカットしてレモンを絞る自家製ジュースを路上で売りさばいている。
自家製ジュースを路上で売る子供たち(左がサハル)

初潮が訪れた妹サハルを狙う大家のアサードに、母がサハルを売ることを恐れ、ゼインは盗んだナプキンの秘密の捨て場所を教える。
サハル(ゼインは妹を守るためにアドバイスする)
ゼインとサハル、左はサハルを狙うアサード
アサードの店
ゼインの脱出計画

サハルを救済するゼインの脱出計画も及ばす、抵抗する二人は両親に抑え込まれ、サハルは父セリームによって、アサードの元にバイクで連れ去られて行ってしまった。
強引に連れていこうとする両親に抵抗するサハル
サハルを救おうとするゼイン
連れていかれるサハルをの手を握るゼイン
オートバイで父に連れていかれるサハル

再び、法廷シーン。

「娘を貧しさから救うためです。私らと暮らしていたら、娘は終わってました。食事も風呂も不十分で、テレビもない。だが、結婚すれば、本物のベッドで眠れる。毛布もある。食事も…思いもしなかった。こんな結果は…息子が人を刺すなんて。全部、私らのせいか?俺だって、別の生き方ができりゃ、あんたらなんか屁でもない…外を歩けば、唾を吐かれ、動物みたいに思われる。こんなつもりじゃなかった。“子供を作れ”と言われた。“子供は支柱になる”と。なのに、苦労と屈辱ばかり。結婚を呪うよ」
セリームの弁明
セリームの弁明を聞くゼイン

涙ながらの、父セリームの長広舌。

愛するサハルを失ったゼインは、ついに家を飛び出し、行く当てのないバスに乗った。

バスの中で出会った奇妙な老人・ゴキブリマン(遊園地の従業員)が下車した遊園地に、ゼインも降り、近辺を徘徊する。

ホームレスになったゼインが出会ったのは、遊園地の清掃員として働くティゲスト。

エチオピア難民である。

ティゲストは今、遊園地の巨大な女性のオブジェの胸を開(はだ)くゼインのヤンチャな行為を、遠見(とおみ)しながら笑みを零(こぼ)していた。
ゼインのヤンチャな行為
ティゲスト(本名ラヒル)

そのティゲストに、遊園地での仕事を求めたり、各商店に職を求めたりして、歩き回るゼイン。

しかし、ホームレスの子供が働く場所など、見つかりようがない。

遊園地で遊ぶ子供たちを見つめるゼイン。

再び、ティゲストの元やって来て、食べ物を乞うしかなかった。

結局、自身も乳飲み子・ヨナスを抱え、困窮するティゲストのあばら家に行き、身を寄せることになる。
乳飲み子・ヨナスに授乳するラヒル

ティゲストの家で、外で働く彼女の留守を預かり、赤子のヨナスをあやすゼインの日常が開かれていく。
ゼインの新たな日常
同上

ところが、ティゲストは不法就労によって警察に拘束されてしまう。

ラヒル ―― これが彼女の本名だった。

「雇い主とモメて、家を逃げ出したのか?殴られた?」と裁判長。
「奥様は親切でしたが、私に恋人ができ、身ごもったので。警察に子供を奪われ、国外退去になるのが怖かったんです」
「ヨナスをゼインに預けて仕事へ?彼は面倒見がよかった?危害を加える心配は?」
「最初の2日間は少し心配でしたが、その後は彼を信頼してました」
「あのような行為は?」(この言葉の意味は、まもなく明らかにされる)
「意外です。2人は兄弟みたいでした。でも、私はゼインを恨んでません。アスプロが悪いんです」
「アスプロとは?」
「身分証の偽造屋です」

以上は、ゼインが起こした裁判でのラヒルの証言の一端である。

ここで出てきたアスプロは、金が用意できないラヒルに対し、ヨナスを養子に差し出せば、偽造証明書を渡すと迫っていた。
アスプロ

どれほど貧しくとも、ヨナスに対する強い愛情を感じさせるラヒルの態度は、明らかに、ゼインの両親の行動と切れていた。
ラヒル
困窮する日々を送るラヒルのあばら家
ヨナスを遊ばせるゼイン(ラヒルから注意される)

しかし、ラヒルの拘束は、彼女を待つゼインの生活風景を一変させる。
ヨナスを残して拘束されたラヒルの慟哭
愛児ヨナス

ゼインは、外出したラヒルの行方を知る由もなく、あばら家に置き去りにされてしまったのだ。

彼女を案じるゼインは、市場に行き、アスプロを訪ねるが、手掛かりは全く得られなかった。

一方、他の難民女性たち共に警察に逮捕・拘束されたラヒルは、愛児ヨナスを想い、嗚咽するのみ。

置き去りにされたゼインは、泣き喚くヨナスのために、食べ物を調達し、必死に生き延びようともがいていく。

そんな中で知り合った、シリア難民の少女・メイスン。

彼女も、市場で物売りをして、その日の糧を食い繋いでいた。

「私は、この国を出る。私がいなくなったら、一人で頑張ってね」とメイスン。
「どこへ行くの?」とゼイン。
「スウェーデン。向こうにシリア人ばかりの地区があるの。安心して暮らせる。私の部屋に入っていいのは、私が許可した人だけ。死ぬときは自然な死に方」
「僕も行く」
「いいけど、お金が要る」
「いくら?」
「高くても300ドル」
「300は大金だ」

メイスンは、アスプロに相談すれば、「弟」ヨナスも一緒に行けると話すのだ。

ヨナスを連れて市場に行くと、アスプロに声をかけられ、ラヒルが戻ったと答える。

嘘をつかねば生きていけない、ぎりぎりの日常を繋ぐゼインにとって、スウェーデン行きのみが唯一の希望だった。

ゼインはトルコかスウェーデンに行きたければ、500ドル用意するか、又は、ヨナスを養子に差し出すこと ―― これがアスプロが提示した絶対条件だった。

そのことをラヒルに話し、説得するようにと、居丈高(いたけだか)に言い放つアスプロ。

ゼインは、古い処方箋を見つけ、両親の真似をして偽造ドラックを作る。

家出以前の行為をトレースするように、トラマドール(快楽をもたらす、オピオイド系の鎮痛剤)に海水を混ぜ、不良少年らに売りさばくのだ。

全ては、スウェーデンへ行くための資金作りだった。

ラヒルのあばら家に戻ると、荷物が外に出され、施錠されていた。

行く場を失い、ヨナスを連れて彷徨(さまよ)うしかなくなったゼインは、ついにアスプロの元へ行く。

泣く泣くヨナスを手放し、約束の500ドルから食事代100ドルを引かれ、400ドルを手にしたゼインは髪を切り、偽装証明書を作るために必要な身分証を取りに、実家に戻った。
ヨナスをも売ってしまい、罪の意識の中で別れの辛さをも味わう

しかし、身分証明書も出生証明書もあるはずがなかった。

出生届を出していなかったからである。

「身分証ナシの人生を受け入れるか、窓から身投げするしかないんだよ。分かったか?俺に殺される前に出てけ!生まれたことを呪うがいい。お前を作った俺がバカだった」

父との無意味な、攻撃的言語の応酬の中で、ゼインは、妹サハルが死んだことを知るに至る。

もう、限界だった。

「死んだ?思い知らせてやる」

泣きながら、引き出しからナイフを取り出して、12歳の少年が叫ぶのだ。

「死ぬべきなのは、どっちか」

両親が追いかけるが、ゼインは、まっしぐらに、アサードの店に突っ走る。



2  ゼイン ―― その魂の叫び



映像は、事件後、拘束されたゼインの収監までの様子をフォローする。

そして、冒頭の法廷シーン。

出廷して証言するのは、車椅子のアサード。

「11歳は結婚に適した年齢だと思うかね?」と裁判長。
「僕の知る限りでは、そう思います。彼女は熟していました」とアサード。

そこに、ゼインが口を挟んだ。

「“熟す”なんて、イモかトマトみたいに言うな!」
「まさか、あれで死ぬとは思いませんでした。近所じゃ、あの年での結婚は普通です。義理の母も同じ年で結婚してるけど、元気で、ここに来てる」
「結婚後、どれくらいで妊娠を?」
「2~3か月です」
「正常だった?」
「最初は正常でしたが、ある時、大量に出血しました」
「その後、何があった?」
「病院に運び込んだけど、玄関先で亡くなった。診断を断られて…」
「なぜ断られたんですか?」とゼインの弁護士。

思わず口を挟む母スアードは、嗚咽含みで激しく反駁(はんばく)する。

「身分証がないから。こんなに苦労している私を裁くなんて。どんな暮らしをしてるか、考えたことある?一度もないでしょ。この先もないわ。あなたなら首を吊るわよ。子供の食べ物がなくて、砂糖と水だけのことも。子供を生かすためなら、喜んで罪を犯すわ。誰にも私を裁く権利はない。血を分けた子よ。分かった?」

映像は、テンポよく遷移する。

勾留されている不法移民の密集した施設に、慰問団がやって来た。

歓喜する難民たち。

勾留施設の中に、生きる気力を失ったかのようなラヒルもいた。

この状況下で、ゼインを呼び出すアナウンスが響き、瞬時にラヒルが気づき、ゼインに声をかける。

「ゼイン!ここで何してるの?ゼイン!ヨナスは、どこにいるの?あの子を誰に渡したの?」

ゼインも気づき、振り返る。

このシーンの意味は、法廷でのラヒルの証言で、既に回収されている。

スアードがゼインとの面会に、菓子を持ってやって来た。

そこで、母親がまた妊娠している事実を知らされるゼイン。

女の子だったら、サハルと名付けると言うのだ。

「胸が痛い。心にナイフが刺さったみたい。もう顔も見たくない。心がないのか」

未だ声変わりせず、低く、くぐもったような声だが、ゼインの心奥から勁烈(けいれつ)な情動が噴き上げた。

この映画の台詞の中で、最も鮮烈な表現である。

そう叫び、差し入れの菓子をゴミ箱に投げ入れ、面会室を出ていくゼイン。

このスアードの一言が、ゼインを決定的に突き動かしていく。

少年刑務所から、生放送のテレビ番組に電話し、両親を訴えると話すゼインの声が反響言語と化し、レバノンの住民たちに伝播されるのだ。

それを見て、歓声を上げる収監中の少年たち。

「生放送だよ。言いたいことは?」と司会者。
「大人たちに聞いて欲しい。世話ができないなら産むな。僕の思い出は、けなされたことや、ホースやベルトで叩かれたことだけ。一番、優しい言葉は、“出ていけ、クソガキ”。ひどい暮らしだよ。何の価値もない。僕は地獄で生きてる。丸焼きチキンみたいだ。最低の人生だ。皆に好かれて、尊敬されるような立派な人間になりたかった。でも、神様の望みは、僕らが、ボロ雑巾でいること…」
ゼイン ―― その魂の叫び
同上
同上
同上

このゼインの憤怒が、両親を訴える法廷のシーンにオーバーラップされていく。

「お腹の子も同じ目に」とゼイン。
「両親への要望は?」と裁判長。
「子供を作るな。子供を作らないで」

ゼインの究極の訴えだった。

人身売買の現場で捕まった、アスプロと不法移民たち。

その中に、ヨナスもいた。

ヨナスは警察に保護されたのだ。

そのヨナスと再会を果たすラヒル。

涙が止まらない。

ラストシーン。

身分証明書用の写真を撮るゼインが、そこにいる。

カメラの前に立つゼインに、笑みを求めるカメラマン。

「身分証だぞ。死亡証明書じゃない」

そう言われるや、恥じらい含みのゼインの表情から笑みが漏れた。

素人の演技を突き抜けた、印象的なラストカットである。



3  「児童婚」・「児童労働」・「児童売買」 ―― 今・ここにある〈現在性〉そのものだった



【同情視線で批評したくないので、ここでは、私たちの世界になお残る「児童婚」の凄惨さと、その背景について言及したい】

子供だけには特権的に占有し得るはずだと信じる、「愛される権利」というものが、実は先進国の1世紀にも満たない過去の歴史の観念的産物でしかない現実を、私たちは知らねばならないだろう。

フィリップ・アリエス(フランスの歴史家)が、「〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活」(みすず書房刊)という極めて刺激的な著作で、恰もフレンドリー化した現代の親子関係を皮肉ったように、私たちの、それほど遠くない過去において、「子供」という名に集約される存在それ自身が、「愛される権利」を含む、何か特別な価値を占有していなかった事実だけは押さえておいた方がいいと思う。

フィリップ・アリエス

子供を多く産んで、運良く成人に達した者を、社会は単に貴重な戦力として受容するという歴史的遷移の中では、子供の人権的配慮など、極めて限定的なものでしかなかったのである。

加えて言えば、今なお発展途上国の人々の家族の実態が多産であるのは、子供を持つことのコスト(養育費)が、単に〈愛情〉という耳心地がいい問題によって説明できない事柄、即ち、「老後の世話」や「労働力」としての、余りあるベネフィットを越えられないからである。
コンゴの家族/イメージ画像(ウィキ)

その意味で、我が子に、「老後の世話」や「労働力」を期待することのない現代人が手に入れるベネフィットは、明らかに自分たちが支払うコストを上回ることがないので、どうしても、「少なく産んで、大事に育てる」という思いに流れていかざるを得ないのだ。

「愛情イデオロギー」こそ、その心理的推進力になっている。

この映画の中に、観る者に鮮烈に印象づける言葉がある。

ゼインの父セリームが、奇しくも、法廷で吐露したシーンである。

収監中の少年刑務所から、「僕を産んだ罪」で両親を訴えるという、異例の裁判の被告になったセリームは、裁判長の問いに対し、こう答えたのだ。

「“子供を作れ”と言われた。“子供は支柱になる”と」
セリームの弁明

そこには、子供を持つことのコスト(養育費)が「愛情イデオロギー」とも無縁であるばかりか、「労働力」のみならず、現在、概(おおむ)ねどの国においても、明瞭な犯罪行為であるとされる「人身売買」もどき(我が国で行われていた「身売り」と同義)の範疇に収斂されるような、「家計の足し」のために、11歳の女子を「花嫁」として売り飛ばすという、とうてい見るに耐えない描写が挿入されていた。

9歳未満で嫁ぐ女児が多い中東・イエメンは例外的だが、イラン、サウジアラビアなど、イスラム世界のごく一部の国では、イスラム法上の結婚最低年齢を、そのまま施行している現状への批判(実際は、大半の人間は20歳を過ぎて結婚している)があるのは事実。
それ故、「イスラムと児童性愛」の問題にのみ帰結できず、非イスラム諸国においても変わらないのだ。(因みに、イスラム教国の大半の法律では、性的成熟をベースにした結婚最低年齢が15歳から18歳程度であるとされる)

国連によると、発展途上国の少女9人に1人が、15歳までに結婚させられていると報告されている。

「児童婚」の慣習は貧困と文化的伝統が背景にあり、通常は、家族によって取り決められる。

身体的にも精神的にも、その少女の人生を狂わせ、本作のように、死に至らしめることすらある。

まさに、初潮まもないサハルの、妊娠初期の破水による出血多量死の悲劇は、この負の文脈をトレースするものだった。

性的に成熟する前に行われる「児童婚」は、多くの初潮期の少女から、喜怒哀楽の豊かさを特徴づける子供らしさを剥奪(はくだつ)してしまうのだ。

貧困、疾病、産婦死亡率、乳児死亡率、女性に対する暴力など、様々な社会問題の根柢に潜む「児童婚」の陰惨さ。
だからゼインは殺傷事件を起こし、少年刑務所行きとなり、その両親が「僕を産んだ罪」の裁判の被告になるに至った。

「難民危機があるからこそ、そういったことはより増えています。幼い女の子たちがレバノン以外でも世界中で、結婚という名目のもと売り買いされている。もっと問題意識をもって皆が話し合わなければならないと思いますが、まだまだ語る人が足りない状況です」

弁護士役で出演もしている、ナディーン・ラバキー監督の言葉である。(「シネマトゥデイ」より)
ナディーン・ラバキー監督

ともあれ、「少なく産んで、大事に育てる」という観念が定着したかのような私たちの近代文明社会は、それ故にこそと言うべきか、〈愛〉を制度化したかのような多様なる仕掛けを作り出してしまっている。

3月の節句、入園、入学式、子供の日、運動会、七・五・三からクリスマス、それに我が子の誕生日を含めた年中行事の大半が子供絡みであることを想起すれば、殆ど「制度化された愛」の検証だけの機能を内包して、それらの行事が自己展開していくさまを見届けることができるだろう。
七・五・三(ウィキ)

そんな些か過熱気味の空気の中で、恰も愛玩用のペットの如く、一方的に把握され続けた子供の自我が記憶してきたものの中枢に、「愛される権利」の占有感情があると言っていい。

愛は権利だから、勝ち取る必要はない。

そこにじっとしていれば、愛は向うからやってくる。

やってこなければならないのだ。

自分だけをビデオカメラで追い駆ける父がいて、自然に小遣いが溜まるシックスポケット(両親と双方の祖父母の財布)がある。

祝福されるだけの10数年が過ぎても、すぐ傍らには、いつも何か言いたそうな母の心配顔がある。

それを振り切れない自分がそこにいて、そこでクロスした情緒の束が、しっかりと自我に張り付いてしまっている。

それはもう、健全なナルシズムの指標値を優に越えるものになってしまったのか、

誰も容易に答えられないでいる。 

愛はリレーされた何かではない。
 
それは、獲得された能力の集合的な何かである。
加速的に定着した文明が、いつの間にか手に入れた、眩いまでに甘美なるもの ―― その中の一つに「愛される権利」という価値があった。

それが、子供という過程的な現象に集合を見せたのは、ある意味で当然のことだった。

その当然なるものの価値は、先進国では「一児豪華主義」の帰結を見た。

それも当然だった。

当然なるものの流れが次々に拓いた地平は、しかし私たちにとって、悉(ことごと)く未知の領域に属するものであった。

映画の主人公ゼインが、仮に、どれほど新しい地平を切り拓いていったとしても、世界4大スラム街(リオのファベーラ、ナイロビのキベラ、ヨハネスブルグのソウェト、マニラのスモーキー・マウンテン)にも劣らない最貧の生活を余儀なくされた家庭にあって、「労働力」としてのベネフィットが、子供を持つことのコスト(養育費)を圧倒的に上回っているので、単に「働く機械」以上の何ものにもなり得なかった。
ファベーラ(ウィキ)
キベラ(ウィキ)
ソウェト(ウィキ)
閉鎖後のスモーキー・マウンテン(ウィキ)

そんな少年に同情し、愛情を注いだラヒルであっても、エチオピアからの不法移民だったので、乳飲み子のヨナスと、赤の他人のゼインの生存を継続的に保証する力など持ち合わせていない。
困窮する日々を送るラヒルと、一時的にその世話になったゼイン

現に、ラヒルが不法移民として逮捕されてからのゼインの日常は、曲がりなりにも、「家族」の形態をぎりぎりに保持していた家出前の時間より、遥かに苛酷な様相を呈する。
不法就労によって拘束されたラヒル
ラヒルの不在により、ヨナスを連れ、食を求めて足掻(あが)く日々
あばら家まで失ってしまうゼイン

それは強いられた「労働力」ではなく、選択的な「労働力」であったとしても、ヨナスの生存を保証するために踏み込んでしまった負の世界。

母スアードのもとで手伝わされていた、トラマドールを原料とする偽造ドラッグの製造である。

薬局で手に入れた錠剤を原料にドラッグを作り出し、それを不良相手に売りさばいていく。

スウェーデンに行くという「新しい地平」への思いが推進力になっていた。

そこは、子供が守られる世界だった。

しかし、現実は甘くない。

最愛の妹サハルの死。

これは、ゼインの思春期自我を決定的に甚振(いたぶ)る事態だった。

「彼女は熟していました」

アサードの物言いである。

単なる「労働力」でしかないゼインと切れ、美形の顔立ちを有するサハルの場合、「労働力」+「高値で売れる売り物」であった。

サハルの「児童婚」は、後者の価値の高さが功を奏して、家賃も払えない一家の家計を救済する。

サハルに目をつけ続けてきたアサードは、11歳の児童を妊娠させ、数ヶ月も経たない時期にサハルの体調を崩し、大量出血死を惹起させた。

アサードの罪は、溜まりに溜まった家賃の代わりに、「高値で売れる売り物」を買い取り、「児童婚」をするや、「熟し切った」という男の主観が膨れ上がっている只中で妊娠させ、それでもセックスを強要し、妊娠初期に破水させてしまった行動総体にある。

言ってみれば、「児童婚」の最悪のパターンである。

それでも、懲りずに子供を産むサハルの親にとって、子供を産むことのベネフィットは、子供を持つことのコストを圧倒的に上回っているのだ。

「児童婚」・「児童労働」・「児童売買」。

これはゼイン兄妹にとって、まさに「今・ここにある〈現在性〉」そのものだった。
ゼインとサハル
同上

【ただ、私が気になったのは、観る者のエモーションを掻き立てるような音楽の導入は不要だったと思う】

【参照・引用資料】
心の風景「愛される権利」 「ナショナル ジオグラフィック ニューストップ」・「結婚を強要される少女たち」

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