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2023年1月17日火曜日

ベルファスト('21)   有明の月を目指す家族の障壁突破の物語  ケネス・ブラナー   

 


1  「この街に人生のすべてが詰まってる」

  

 

 

北アイルランドの首都ベルファストの、現代の美しい街並みのカラー映像から開かれる物語は、一転して、1969年8月15日のモノクロの世界へとタイムワープする。 



夕食時の路地で、元気溌剌な少年バディが家に帰るところで目の当たりにしたのは、覆面をしたプロテスト系の武装集団が、カトリック系住民を襲撃するというリアルな現場だった。 

バディ



投石を避けながら、母が「怖いよ!」と叫ぶバディを抱え、家に連れ戻し、テーブルの下に匿う。 

バディの母

更に、兄のウィルを探しに混乱する街路に出て連れ戻す。

 

「母さん、何が起きたの?」とバディ。

 

「じっとしていなさい」と答え、窓から外の様子を窺う母。

ウィル



翌日バディは、壊れた窓を協力し合って修繕する人々や、破壊された街並みを見渡す。 


「襲撃から一夜明けたベルファストの街です。襲われたのは、プロテスタント地区に住む少数のカトリック教徒。彼らは立ち退きを迫られています。人々の絆が強いこの地区に、再び平和は戻るのか?」

 

テレビのニュースが、襲撃の背景と街の様子の映像を伝える。

 

「英本土からも支援部隊が到着しました。外出禁止令も検討されています」

 

ロンドンで大工の仕事をしていたバディの父が事件のことを聞き知り、慌てて家に戻って来た。 

バディの父

これで4人家族が揃うことになる。

 

彼らはプロテスタントであるが、カトリック系住民と親交を深めていた。

 

事件後、街にはバリケードが築かれ、プロテスタントの牧師は扇動的なスピーチを打(ぶ)ちまける。 



嫌々ながら行かされた教会で、その咆哮(ほうこう)を聞かされるバディとウィル。 





それでもバリケード内では、音楽に合わせて踊る父母や住人たちが思い思いに楽しく過ごしている。 


仕事でロンドンへ帰る前に、訪ねて来た伯母夫婦も愉悦するのである。

 

バディは近所の年上の友人モイラに、カトリックとプロテスタントの信者をどうやって見分けるかを尋ね、名前で分かると言われるが、双方に同じ名前もあるとバディに指摘され、答えに窮すモイラ。 

モイラ


バディが一人でサッカーをしていると、ビリー・クラントン(画像)とマクローリーと名乗るプロテスタント過激派の男たちがやって来て、父に対して高飛車な物言いをする。

 

「この地域を掃除したい。協力するよな?拒否すりゃ痛い目に」


「家族に手を出すな」


「俺もお前も同じプロテスタントだ」

 

背後から、伯父が大丈夫かと声を掛けてきた。

 

「この辺りは治安が悪くなっている。カネを払うか、汗をかくか。俺はグループのリーダーに選ばれた」とビリー。

 

心配そうに、その様子を見つめるバディと母。 


「どちらを選ぶか決めておけ、また来る」と捨て台詞を残し、男たちは帰って行った。

 

そんな危うい状況でも、映画を楽しむ一家。

 

「誰かに物を運べとか、伝言とか頼まれても、必ず断れ。必ず母さんに報告しろ」


「わかった」とウィル。


「父さんは明日の朝早いから、お前たちに会えない」

 

その夜、父母が税金の延滞金の支払いの件や、ベルファストからの脱出について話し合っているのを、階段の途中で座り込んで聞くバディ。

 

「街は内戦状態。なのに俺は出稼ぎだ」 


シドニーとバンクーバーのパンフを脱出先として示す父。 



ベルファストの治安は日増しに悪化していく。

 

「労働者階級の人々が住む地区では、脅迫事件が多発し…」

 

このラジオ放送を準(なずら)えるように、バディの目の前で金を払えない家の息子を脅し、連行するビリーは逆らう者に暴力を振るうのだ。

 

それを見ていたバディに対して、ビリーが脅しをかける。

 

「親父に言っとけ。返事しねえとこっちから行くぞ」 


バリケードを出て学校へ向かうバディに、ビリーが執拗に返答を迫る。

 

「兄さんにも放課後、会いに来いと」 



バディは無視して立ち去っていく。

 

そんな重苦しい状況下にあって、テレビで西部劇を見たり、クラスメートの好きな女の子キャサリンに花をプレゼントしたり、モイラに誘われて、お菓子の万引きの片棒を担がせられる羽目になったことで母に激怒されたりという、ありふれた児童期を過ごしていた。 


父に愚痴を零す母の話の傍らで「真昼の決闘」を観て興奮するバディ        


「皆、故郷を捨てる」と祖父。

バディの祖父母

「時代の流れよ」と祖母。

 

時代の変化に動じることなく、普段通りに冗談を言い合う祖父母であったが、炭鉱で働いていた祖父の肺が悪化して、病院へ行くことになった。

 

上司からロンドンに留まり、正社員として家も借りられるという誘いを受けた父。

 

「腕を買われたのね。どうしたい?」

「家族と暮らしたい。お前と」


「あなたと私は、赤ん坊のころからの知り合い。この街に人生のすべてが詰まってる。ご近所の誰もが顔なじみ。それが好きなの。子供たちが遊べる庭?ここなら、街のどこでも遊べるわ。皆があの子たちを知ってて、世話を焼いてくれる。イングランドに行ったら、きっと言葉も通じない。アイルランド訛りをバカにされたり、毛嫌いされたりするわ。だって、ベルファストでは、英軍の兵士が殺されてる。渡したいが歓迎されると?“仕事を横取りしてくれてありがとう”って?」
 


涙ながらに語る母。

 

「状況は変わる」

「そうね。変わってくわ」

「クリスマスまでに決めないと。それまでに決心を」 



その話を聞いていたバディは、父に声をかける。

 

「戻ってくるよね?父さん」


「母さんを頼むぞ」

 

そう言って、バスが発車し、最後尾の窓から妻子を見つめ続ける父。 


二人もまた父を見つめ、静かに見送った。 



入院した祖父を見舞いに来たバディは、ロンドンに祖父も一緒に来て欲しいと抱きつく。

 

祖母も含めた一家全員で「チキ・チキ・バン・バン」の映画を観ている。 

英米合作のファンタジー・ミュージカル映画(1968年)

バディの祖母


それまでもそうであったように、普通の日常を繋ぐ家族の団欒が仮構されているのである。 


 

 

2  「そうよ。行きなさい。振り返らずに。いつも想ってる」

 

 

 

楽しいクリスマスを家族で過ごしながら、イングランド行きに決める時がやって来た。

 

「この件は家族みんなで決めたいんだ」と父。

「…いっそ家族全員で引っ越さない?」と母。

「行きたくない!絶対にイヤだ!友達も、いとこもいない。キャサリンにも会えない!ばあちゃんもじいちゃんもいない!」 


興奮するバディを両親が宥(なだ)める。

 

「気持ちを知りたかっただけ」と母。

「ベルファストにいたい!」

 

バディは疲れて眠り、ウィルは目を瞑っている。

 

朝早く、仕事に出て行く父を見送るバディ。

 

「ベッドに戻れ。2週間後にな」 


バディに手を振る父。

 

3か月後。

 

「この道には、カトリック教徒の家が40軒ほどありました。再建計画もありますが、市内の抗争は収まる気配がありません…政府は地域住民に対して、自宅待機令を出しました」

 

テレビでニュースが流れるや否や、またも襲撃事件が勃発した。

 

今度は事態を理解できないバディが、モイラに連れられて襲撃に巻き込まれてしまうのだ。 


「カトリックは出てけ!」

 

覆面の過激派が大人数で押しかけ、カトリック系のスーパーの窓ガラスを破壊して侵入し、暴力的に店内の商品を盗み出す。

 

バディは「行きたくない!」と、家へ帰ろうとしたが、モイラに引き止められ盗みを命じられると、洗剤を抱えて持ち帰ることになった。

 

「みんながスーパーで暴れてる!」


 

バディが洗剤を盗んだと知り、怒った母は、それを返しにスーパーに行って棚に戻すように命じ、モイラにも叩きのめすと叱りつけるのだ。 

「叩きのめすわよ!」


それを聞いていたビリーが、洗剤を戻すことを禁止し、二人は銃で脅され、暴動を鎮圧に来た軍隊の盾に取られてしまう。 


到着した父がビリーに言い放つ。

 

「二人を放せ!」

「放せば、俺が軍隊に撃たれる!」


「俺が殺す」


「できっこねぇ。人は変化を嫌う。だが、時代は変わった。この街は俺らが牛耳ってる。足を引っ張るな!」

 

ビリーが腰の拳銃に手をかけた瞬間、ウィルがトスしたレンガを、父はビリーに投げつけた。

 

既(すんで)の所だった。

 

バディは母と逃げ、ビリーは軍隊に捕捉される。 



家に戻った家族は、バディが盗んだ洗剤を前に深刻な面持ちで話し合う。

 

「俺が話をつける。手出しはさせない」


「子供たちを連れて店に行った時、ウィンドウに映った自分の顔を見た。家に帰って鏡を見たら、同じ顔がそこに。自分に聞いたわ。“私、何してるの?”…それから吐いた。毎朝吐いてるわ。もう、たくさん。これ以上、この街にいる意味はない。明日、姉夫婦に会ってから、荷造りを始めるわ」
 



父とバディは祖父の病院へ行った。

 

「街を出ろ。奴らは必ず仕返しに来る。今度は本物のギャングが来るだろう。月を目指すんだ。ロンドンは、そのための小さな一歩だ。ベルファストは消えやしない」


「じいちゃんも?」

「どこにも行かんよ」

 

その祖父が死んだ。

 

多くの隣人たちがその死を悼んで葬儀に集まり、家族に見守られ、祖父は静かに埋葬された。 



賑やかに送り出そうと、皆で踊ってパーティを盛り上げていく。 



街を出発するバス停に着いた4人。

 

父に促され、バディはキャサリンに別れの挨拶に訪れる。 



「あの子と僕は結婚できる?」

「できるさ」

「彼女、カトリックだよ」

「あの子がヒンドゥー教でも、パプテルト派でも、反キリスト教徒でも、優しくてフェアで、お互いを尊敬し合えば、あの子も、あの子の家族も大歓迎だ」 


頷くバディ。

 

バスに乗り込んだ息子の家族を離れた玄関先で見つめ、別れの言葉を口にする祖母。 

バスに乗り込む家族

祖母との別れを惜しみ、いつまでも見ているバディ


「そうよ。行きなさい。振り返らずに。いつも想ってる」 



「残った者たちと、去って行った者たちへ。そして、命を落とした者たちへ捧ぐ」(キャプション) 


 

 

3  有明の月を目指す家族の障壁突破の物語

 

 

 

唐突に襲ってきた苛烈を極める人生の重要な岐路に立たされた時、人はどのように振る舞い、身に迫る峻烈(しゅんれつ)な状況を如何にしてブレークスルーしていけるのか。

 

障壁突破の艱難さは尋常ではない。

 

これは、そんな状況にインボルブされた人並みの家族の、その偏流を描く物語が提示した映画だった。 


家族それ自身の身の処し方を描く物語の構造は重層的である。

 

迫りくる激越な状況に対峙し、障壁突破の可能性を真摯に追及し、より良い解決に導かんとする父のシビアな気構え。

 

その気構えを理解しつつも、「この街に人生のすべてが詰まってる」と吐露する母の煩慮(はんりょ)。

 

だから、議論になる。 


「イースターまで様子を見ましょう」

「子供たちも苦しんでる。イースターまでもたない。俺たちもだ」

「じゃ、戻ってきて。一緒に乗り越えて」

「年端もいかない子供たちが街角で殺されてる」


「用心するわ」

「つきっきりはムリだ。こんな子供時代は不幸だ…お前は2人を立派に育ててくれた」

「いきなり何よ?」

「お前が育てた。俺じゃない。お前が一人で育てたんだ。感謝してる。イースターまで待とう」

 

この両親のシビアな話を耳にし、その振舞いを目の当たりにした子供たちの身の処し方には、明らかな差異が読み取れる。

 

状況が内包する事態の厳しさがストレートに侵入してきても、何も成し得ない兄ウィルが寡黙になってしまうのは、有効な対応の術(すべ)を持たないからだ。 

両親の話を聞くウィル


それでも、両親が抱える問題の深刻さが十二分に理解できるから、自らが成し得る行為を引き受ける。

 

選択肢が少ない中で責任感を言語化するのである。

 

「誰かに物を運べとか、伝言とか頼まれても、必ず断れ。必ず母さんに報告しろ」

「分かった」とウィル。 


観る者は、これだけでウィルの心情を了解するだろう。

 

思春期の真っ只中に踏み込んでいる少年にとって、この「分かった」という一語は、限りなくリアリティを有する重量感を一人で抱え込む自覚の唯一の表現なのだ。 

スーパーでの事件で母を守ろうとする少年


その兄と比べると、弟バディの身の処し方は、あまりにも限定的である。 


両親の話を耳にする機会が多くとも、バディが成し得る行為など皆無だった。

 

愛する両親に迷惑をかけないこと。

 

これのみである。

 

状況が内包する事態の厳しさを感受する能力は、当然、具備されている。

 

だからバディなりに心を痛め、悲しみに暮れることもある。 


そんな児童が唐突に大人の世界にインボルブされて、大いに戸惑い、混乱し、思うようにならない状況に苛立ち、叫び声を上げる。 


それでも変えられない世界がある。

 

存分に遊べなくとも、危険な街路を遊技場に変換させてしまう知恵だ。 


エンタメ全開の映画を観て笑い、興奮する。 

ラクエル・ウェルチ主演で大ヒットした英米合作の「恐竜100万年」(1966年製作)


巻き込まれながらも、悪さもする。

 

ペナルティを受け、母の出番も終わらない。

 

まさに、学童期の王道を行くのである。

 

思うに、これらの行為は、望まない環境の決定的な変貌に捕捉された児童が、あってはならない状況に対して無意識裡に適応していくことで、苛酷な事態の急襲を相対化する振舞いであると言える。

 

そこで手に入れるのは、児童期自我の安寧の時間である。

 

祖父母の家に行き来するのは、その時間を限りなく保持する格好の手立てだった。 


祖父母も、それを承知しているから、可愛い孫に緩やかな時間を担保する。

 

特に祖父の繰り出すユーモアの連鎖は、時として禁断なる大人の世界に捕捉されたバディの内的時間を、どれほど豊かにしただろうか。 



詰まる所、これらの振舞いは、バディにとって、それ以外にない適応戦略だったということだ。

 

ケネス・ブラナー監督もインタビューで語っている。 

ケネス・ブラナー監督

「男性か女性かに拘らず、人はある時に大人の世界に踏み入れる時がくる。純真さを失ってしまう日だ。そして、新しい責任や心配ごとが生まれる。これはまさに、その瞬間を捕らえた映画だ」

 

学童期の子供の視座で切り取られた「家族の物語」の本線を貫流する、出力最大の物語を凝縮させる作り手の記憶の束は、決して、「バラ色の回顧」(昔は良かった)に落とし込むことなく、「大人の世界に踏み入れる時」の、その瞬間を映し出していた。

 

競馬で生じた負債のために妻の不興を買い、税金の督促に追われながらも、偏頗(へんぱ)で狭隘な観念系の押し付けを拒絶する意志を毅然と体現し、過激派の暴力に対峙して「俺が殺す」とまで言ってのけるのだ 


一切は「我が家族」を守るため。

 

事態が手強(てごわ)い時にこそ発動するこの強さが、出稼ぎで糊口を凌(ここうをしの)ぐ一家を支え切るのである。

 

そんな父を見て育った子供たちの中枢に、怯(ひる)むことがない父の気質が受け継がれているから、その自我が歪むことがなかった。

 

父ばかりでない。

 

子供たちの「安全基地」の役割を果たした母もまた、気強い女性だった

 

手に余る事件に巻き込まれるや、即座に動き、逃げることなく、決然とした行為に打って出ていくのだ。 

スーパーでの事件を聞き、走っていく母



慈愛に満ちた両親の強さと明るさが、視界不良の時代状況の冥闇(めいあん)の只中で立ち現われる危機を打ち破る推進力と化し、じわじわと忍び寄り、侵蝕(しんしょく)してくる未曽有の恐怖を相対化するのである。

 

アルバート・バンデューラ(カナダ出身の心理学者)が明らかにしたように、いつでも子供たちは周囲の観察を通して学習するのである。 

アルバート・バンデューラの社会的学習理論(モデリング理論)


「時代の流れよ」

 

一人で街に残ると祖母の覚悟の言辞である。

 

「そうよ。行きなさい。振り返らずに。いつも想ってる」 


だから、かくも威風堂々とした別離の言葉遣いに振れていくのである。

 

「街を出ろ。月を目指すんだ」 


死に最近接していた祖父の激励言辞である。

 

この馬力が、子供たちの父を育てたのだ。

 

これは、なお天空に輝く有明の月を目指す家族の、その障壁突破の物語だったのである。 



【ケネス・ブラナー監督の作品の中では、重厚な「ヘンリー五世」 とユーモア溢れる「から騒ぎ」しか観ていないが、この2作は心に残っている】 

ケネス・ブラナーの初監督作『ヘンリー五世』/画像はヘンリー五世を演じたケネス・ブラナー

 

デンゼル・ワシントンが素晴らしかった「から騒ぎ

 


4  北アイルランド問題という厄介な雷管

 

 

 

【以下、簡単な映画の政治的背景】

 

自由党急進派のロイド=ジョージ政権下で、1920年に成立した、「アイルランド統治法」。 

ロイド=ジョージ(ウィキ)


1919年に始まったイギリスからの自治・独立を要求する運動の激化(注)を背景に、プロテスタント系人口が多いアイルランド島北東部を北アイルランドとしてイギリス連合王国(「大ブリテンおよび北アイルランド連合王国」)に吸収し、独自の議会の自治を認知させた法である。 

北アイルランドと南アイルランドの設立(ウィキ)


これによって、アルスターと呼称される北東部をアイルランドから分離させたことで、少数派のカトリック系住民との宗教対立を拡大的に顕在化させていく。 

アルスター地方(ウィキ)

【注/英国からの分離独立を目ざす武装蜂起として知られる共和主義急進派による「イースター蜂起」(1916年)の頓挫後、蜂起との関与が言われるナショナリズム政党の「シン・フェイン党」が活動するが、分裂を繰り返した後、「シン・フェイン党」はIRAの政治組織となっていく。また、アイルランド独立の指導者、マイケル・コリンズはIRA(アイルランド共和軍)の直系の前身組織・アイルランド義勇軍を立ち上げ、対英武装闘争を加速させていくが、内戦の渦中で暗殺されるに至った。因みに、ケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」は、この時期のアイルランド独立戦争を描いた作品として高く評価されているが、英国保守派からIRAを擁護する映画との批判もある】 

イースター蜂起
イギリスからの分離掲げるシン・フェイン党が第1党に 北アイルランド議会選で史上初/画像は、議会の前で、当選した議員らと並ぶシン・フェイン党のオニール副党首(中央)】 

映画「マイケル・コリンズ」(1996年製作) より

映画「麦の穂をゆらす風」(2006年製作)より



北アイルランドにおける、多数派のプロテスタント系統一派(ユニオニスト)と少数派のカトリック系民族主義者(ナショナリスト)との根深い確執が沸点に達したのは、第二次世界大戦後。 

ユニオニストとナショナリスト



1969年1月、ベルファストからデリーへの長距離デモ行進を計画し、両派の激突を惹起した「バーントレット事件」。

 

以降、IRAの武力闘争が本格的に開かれていくのである。

 

そして、反英運動の高まりの只中で起こった「血の日曜日事件」(1972年1月30日)

 

北アイルランドの大都市でナショナリストの拠点・デリー(ロンドンデリー)で、イギリス陸軍の落下傘部隊が公民権デモの行進中の市民に警告もなしに発砲して、カトリックの民衆を14人も殺害するという、あってはならない事件だった。 

血の日曜日事件


「ボグサイドの虐殺」 ―― この事件をカトリック系住民はそう呼ぶ。

 

【ベルリン国際映画祭金熊賞受賞した「ブラディ・サンデー」(2002年)という映画は、この「ボグサイドの虐殺」を描いた作品。犠牲者の半数以上が若者であったことで、現在、ポグサイド地区には慰霊碑が建てられている】 

映画「ブラディサンデー」(2002年製作)より



看過し難いのは、責任者が処罰されなかったこともあり、従来の公民権運動からIRAの武力闘争への決定的な転換点となった歴史的に重要な事件となる。

 

愈々、過激化していったIRAの歴史的経緯は複雑で、フォローするのも難儀になる。

 

武力抗争に反対する穏健派と武力闘争継続派の対立があり、更に正統派と「IRA暫定派」(テロ組織と認定される、俗に言う「IRA」)、そして、停戦合意した暫定派から強硬派が分離し、今なおテロを止めない「リアルIRA」(「真のIRA」)が生まれるというIRAなしに北アイルランド紛争を語り得ないのも事実。 

IRA暫定派のメンバー(ウィキ)


「リアルIRA」(「真のIRA」)



【IRAに関しては、IRAと間違われて投獄された若者を主人公にしたジム・シェリダン監督の「父の祈りを」が有名】 

映画「父の祈りを」(1994年製作)より



この終わりの見えない北アイルランド問題は、イギリス、アイルランド、北アイルランド(シン・フェイン党など各派)三者の間で成立した「ベルファスト合意」によって終結する。 

ベルファスト合意


1998年のことだった。

 

ところが、2016年のブレグジット(EU離脱)は、ユーロ経済圏とシェンゲン協定圏(国境を越えることを認める協定)の参加国から外れたことを意味するので、英国が先行き不透明の状態が炙り出される事態になった。 

2016年6月23日 是非問う英国民投票で、EU離脱派が勝利」より


シェンゲン協定



EU貿易が大幅に減少し、財政の持続可能性が乏しくなり、英国経済の地盤沈下が懸念されている。

 

EUと密接な経済、貿易関係を築き、ブレグジットに反対する勢力が多かったスコットランドでは、スコットランド民族党を中心に独立志向が息を吹き返してきて、この厄介なテーマがリアリティを帯びてきているのである。 

スコットランド議会選で当選したスコットランド民族党のスタージョン党首



北アイルランド問題という厄介な雷管を抜き取ったとしても、影響力がないとは言え、テロ組織「リアルIRA」も完全消滅したわけではないのだ。 

北アイルランド 治安悪化が加速 反英の新IRA、警察狙い爆発物」より



エリザベス女王なき英国は、一体、どこに向かうのだろうか。 

英国会議事堂のウェストミンスターホールで、エリザベス女王のひつぎを囲むチャールズ国王(中央)ら



ウクライナ支援に積極的なだけに、大いに気になるところである。 

英国、ウクライナに主力戦車の供与検討か」より/画像は米軍のブラッドレー歩兵戦闘車

               英国が供与する「チャレンジャー2」(ウィキ)


        リシ・スナク/労働党でも構わないが、今はスナク政権を支持する(ウィキ)



(2023年1月)












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