1 強い衝撃を与えた小説の残像が張り付き、過去の日々が侵入的に想起していく
ロサンゼルス(以下、LA)。
全裸の肥満女性たちが卑猥な相貌性を展示するオープニングシーンが、観る者の中枢を抉(えぐ)っていく。
アートギャラリーを不満げに見るスーザン |
このおぞましい展示をプロデュースしたのは、アートディーラーのスーザン。
仕事を終え、帰宅するとスーザン宛の書類が届いていた。
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アートギャラリーから自宅に戻るスーザン |
開けてみると、「『夜の獣たち』エドワード・シェフィールド著」と表紙に書かれた小説の校正刷りが入っていた。
エドワードとは、スーザンが20年ほど前に別れた元夫のこと。
“小説を書いた。出版は春だ。君といた頃とは作風が違う。君との別れが着想となった。校正刷りを読んでほしい。仕事で水曜までLAにいる。ぜひ会いたい。連絡を待つ。エドワードより”
添えられた手紙の全文である。
エドワードは現在未婚で、ダラスの進学校の教師をしているというが、数年前にスーザンが電話をかけた際には一方的に切られた経験を有している。
夫ハットンに、そのことを話すスーザン。
彼は妻の仕事に全く関心がなく、週末の誘いにも乗らず、仕事でNYへ行くと言うのみ。
不眠症に悩むスーザンは、常用する眠剤を飲んだ後、ベッドでエドワードの小説を読み始める。
小説の舞台はテキサス(以下、テキサス)。
目的地であるマーファー(砂漠の町)に向けて、トニーと妻ローラ、娘のインディアの親子3人の夜のドライブが始まる。
ハイウェイをしばらく行くと、1台の車が絡んで来た。
絡む車に対し、気の強いインディアが中指を立てた行為(Fuck you=くそったれ)によって、走行を邪魔されるばかりか、車体を激しく衝突させられ、遂に路肩に弾き出されてしまう。
インディア |
車を衝突させた男たちがやって来て、言いがかりをつけるのだ。
言いがかりをつけられ動揺するトニー |
怯える娘を守ろうとする母ローラ |
警察に行くと言うが、トニーの車はパンクさせられていて、身動きが取れない状態。
理不尽なことを言われ、一方的に責められる父トニー |
ローラもまた、不安・恐怖感を隠せない |
タイヤを交換すると言いながら、車からローラとインディアを降ろさせた挙句、激しい揉み合いとなり、二人はならず者たちに拉致され、車で連れ去られてしまう。
残されたトニーは呆然と立ち尽くすのみ。
そこまで読み終えたスーザンは、衝撃を抑え切れなかった。
夫に電話するが、そこに愛人が寄り添っているのが判然として、孤立感を抱くばかり。
テキサス。
置き去りにされたトニーは、残った仲間の一人に指図され、自らが運転して二人の後を追うが、誘導された道の行き止まりに放り出されてしまう。
暗闇の中を歩いていると、ならず者らが車で戻って来てトニーを探すが、トニーは身を隠し、呼びかけに応答しなかった。
夜が明け、ハイウェイに戻り、歩いて走行する車に助けを求めるがスルーされ、民家からの通報で警察に辿り着いた。
事件を伝え、モーテルで休んだトニーは、その後、所轄署のボビー警部補と共に、妻と娘の行方を探すことになる。
ボビー警部補 |
ボビーのパトカーに乗り、元の道を辿っていくと、幹線道路から外れた脇道が見つかった。
トニーとボビーと警官は車を降りて、その奥へと向かう。
その行き止まりでトニーが見たものは、ゴミ置き場のソファに裸体で横たわる妻と娘の姿だった。
小説の世界に衝撃を受けたスーザンは実娘に電話をかけ、その声を聞き、心を落ち着かせようとする。
しかし、スーザンに強い衝撃を与えた小説の残像が張り付き、エドワードと過ごした過去の日々が侵入的に想起していく。
トニーが元夫のエドワードと重なったからである。
ニューヨーク(以下、NY)。
20年前、NYの街角で、コロンビア大学の奨学金の面接で、テキサスの田舎からやって来た小説家志望のエドワードと偶然に再会する。
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エドワードとスーザン |
その頃、スーザンはイェール大学を卒業し、美術史専攻でコロンビア大の修士課程にいた。
いずれも、アイビー・リーグ8校のエリート私大である。
スーザンがエドワードを食事に誘い、レストランでの会話が弾む。
「君は僕の初恋の人なんだ。君に会いたくて、お兄さんと友達に」
「あなたは兄の初恋の人」
「彼がゲイだったとは…僕は悪い友人だ。彼を傷つけたかな」
「あなた、いい人ね。親友がゲイだと知ると、皆、イヤがるのに…両親に勘当され、口もきいてもらえない」
「なぜ?」
「両親は保守的で信心深く、性差別・人種差別主義者。共和党支持の救いがたい物質主義者よ…両親は、私と兄も“同類”だと思ってる。だから兄を認めない。そんなの許せない。私にも古い考えをおしつけてくる。特に母がそう」
「…君の瞳にも同じ“悲しみ”が」
「何のこと?」
「お母さんと同じ」
「変なこと言わないで…もう言わないで。母に似たくないの」
更に会話は、二人の将来の話に展開する。
「なぜ芸術家の道を諦めた?」
「私は物の見方が皮肉すぎるから、芸術家に必要な心の奥に秘めた衝動がないのよ」
「自分を過小評価してる」
そして、スーザンは告白する。
「あなたに夢中だったの」
「知ってる」
テキサス。
「死因が判明した。奥さんは、頭蓋骨、骨折だ。凶器はハンマーか、野球のバット。殴打は1回か2回だ。娘さんは、もっと苦しんだ。窒息による死。片方の腕が折れていた。2人ともレイプされてた」
衝撃を受けて、顔を埋めるトニー。
NY。
将来について母親から尋ねられたスーザンは、エドワードとの結婚の意志を伝える。
当然ながら反対する母親に対し、反発するスーザン。
「私が言いたいのは、あなたはとても意思が強い。でも、エドワードは弱すぎる」
「“繊細”と言うべき。うちの家族にはない感性よ」
「“自分は親と違う”と思うのは間違いよ。数年後、“ブルジョワ的生活”がとても大切に思えてくるわ。でも、エドワードではムリ。財力がないもの。意欲も野心もないわ」
「…でも、彼は強い。いろんな意味で、私より、ずっと…彼の強さとは、自分自身を信じる力よ。そして私を」
「…あなたは彼を傷つけるだけ。やがて彼の長所まで憎むようになる。気づいていないでしょうけど、あなたと私はとても似てるのよ…見てなさい。娘はみんな、母親のようになる」
LA。
「“エドワードへ 原稿を読んでいるけど、圧倒的で、力強い作品よ。すばらしい!火曜日の夜に会いたいわ スーザンより”」
スーザンは、エドワードにメールを送ったのだ。
2 「誰かを愛したら、努力すべきだ。簡単に投げ捨てるな。失えば、二度と戻らない」
テキサス。
トニーは、ボビーからメールで送られた犯人の画像を見ている。
ボビーから電話で確認を求められるが、トニーの記憶が曖昧で混乱している。
NY。
「なぜ、そんなに書きたいの?」
「物事を生かしておくために。いずれ死にゆくものを救いたい。僕が書くことで、永遠に生きるから」
トニーはボビーに呼ばれ、強盗未遂事件の別件逮捕者の面通しによって、犯人の一人を特定する。
その男ルーは、「そんな話も、その人も知らない」と言い逃れるが、トニーが昨夏の出来事を説明すると、顔色が変わる。
それでも嘘を突き通すルーだが、強盗未遂で告訴されることになる。
問題は、今回の事件で3人目の逃走中の容疑者レイである。
この男を探すべく、ボビーは捜査を続けていく。
LA。
以下、美術館の仕事のスケジュールを伝えに来た秘書との会話。
不眠について聞かれたスーザンは、秘書に語っていく。
「別れた夫は私を、“夜の獣”と」
「別れた夫?」
「大学院の時、2年間ほど。最近、よく彼のことを考えてたら、著作が送られてきて、暴力的な物語で、題名は『夜の獣たち』。私に捧げられてる」
「愛してました?」
「ええ、愛してたわ。彼は物書き。でも私は彼の才能を信じず、ひどい仕打ちをした。決して許されないことを…冷酷な方法で乗り換えたの。ハンサムで精力的なハットンに」
会議でのスーザンは、それまで結果を残せない者を解雇してきたが、変化を求め続けることに疑問を呈し、反対の立場を主張する。
小説の影響が、スーザンの内側で、少しずつ変化を生んでいるように見える。
テキサス。
ボビーはトニーを連れ、レイの隠れ家を訪れ、遠くから顔を確認する。
「前科はない。不起訴になった。レイプ容疑だけ」
2人はレイに近づき、連行する。
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大便中のレイ |
パトカーに乗せ、昨夏の事件について質すが、レイは覚えがないと白を切り続ける。
犯行現場のトレーラーに連れて行き、自白を迫るボビー。
「知りたい。妻は何て?娘は何て言った?どうやって殺した?2人の気持ちは?苦しんだのか?答えろ!クソ野郎!」
一向に反応しないレイに苛立ち、怒りを露わにするトニーは、思わずレイを殴り飛ばす。
NY。
エドワードが書き上げた小説を読むスーザン。
「誰でも自分のことを書くだろ」
「他のことをしてみたら?」
「僕を信じてないのか。表情で分かるよ。僕の才能を疑ってる」
「本屋で働いて、小説を書くようなそんな人生でいいの?ロマンはあるけど、ずっと、こういう暮らし?」
「お母さんと同じだね」
言い争う二人だったが、そんな折に、スーザンは大学院の授業でハットンと出会うのだ。
テキサス。
ボビーからレイが証拠不十分で釈放されることになったと知らされたトニーは、急いでボビーに会いに行く。
「俺は肺癌だ。転移もしてる。どうせ1年以内に死ぬ」
レイの弁護人が地方検事と取引し、ボビーを辞めさせるために殺人事件を不起訴にしたのだった。
「どこまで本気で、正義の遂行を望むかだ…俺は失うものがない。最後の事件を邪魔されてたまるか。人殺しを野放しにはしない。法の手続きを無視する覚悟は?」
「あるとも」
NY。
2人の関係はスーザンにより、一方的に断ち切られる。
「私は現実世界で生きたいし、将来性のある人生を送りたい。未来が欲しいの。あなたが望む人になれない」
「今の君でいい」
「ムリよ。私は皮肉屋だし、実利主義者だもの。現実主義者よ」
「怯えるな。乗り越えられる」
「怯えてない。とても不幸せなの。あなたはとても、素晴らしい人だし、とても繊細でロマンティックで…」
「弱い。そうとも」
「弱いなんて言ってない」
「僕を愛してる?」
「関係ない」
「問題はそこだ」
「愛してるわ」
「誰かを愛したら、努力すべきだ。簡単に投げ捨てるな。大切にしろ。失えば、二度と戻らない」
「もう、あなたとはムリよ」
「君は物事から逃げてばかりいる」
テキサス。
ボビーはトニーを連れ、酒場からレイを拉致し、トレーラーの近くの自分の小屋に押し込めた。
ボビーは体調を崩し、銃を構えて、トニーがレイを見張ることになった。
続いてルーが警官に連行され、レイの隣に座らされる。
ボビーが手錠を外し、トニーに尋ねる。
「トニー、こいつらをどうする?」
それに答えず、銃を構えるだけのトニー。
「やれ!」
しかし、ボビーが嘔吐した隙に、二人は外へ走り出す。
立ち所に、ボビーがトニーから銃を取り上げ、ルーを射殺する。
NY。
スーザンはハットンに付き添われ、病院で中絶した。
雨の中、車に戻った際の二人の会話。
「一生、後悔し続けるわ。今も後悔してる。カトリックの私が中絶なんて」
「すまない。力になれなくて」
「彼に合わせる顔がない。エドワードの子を…」
「気づかれないよ」
「私は何て、ひどいことを」
スーザンは泣きながらハットンの胸に顔を埋める。
顔を上げると、エドワードが降りしきる雨の中で立ち竦み、スーザンを見据えていた。
スーザンの幻視である。
テキサス。
「奴を撃ったのはどうってことない!」
そう吐き捨てるや、トニーは絶叫するのだ。
「奴らから妻と娘を守るべきだった!止めるべきだった!阻止すべきだった。僕が止めれば…」
ボビーはトニーを慰め、その後、二手に分かれてレイを追う。
トニーは小屋に入ると、レイがベッドに横たわっていた。
レイはボビーがいないことを確認し、トニーを愚弄する態度を見せる。
「お前の望みは何だ。銃なんか持って。使えねえくせに」
「座らないと殺す」
「女房と娘は自業自得だが、お前は違う。あれは、ただの事故だ。何事も、相手の口のきき方ひとつだ」
「何者であれ、罰を受けずに逃がすものか。誰一人として」
「俺を殺せってんだ。人を殺すのは楽しいぜ」
「楽しいだと?妻と娘の殺しは楽しかったか?立て!」
「お前の女房を覚えてる。お前の女房をヤッてやったぜ。お前は弱すぎる。情けねえほど腰抜けだ」
その瞬間、トニーはレイを射ち抜いた。
同時に、トニーはレイに鉄棒で殴打され、気を失ってしまう。
翌朝、目覚めたトニーは、殴打の傷で目がやられながら、外に出て銃を暴発させて、まもなく息を引き取るのだ。
LA。
小説を読み終えたスーザンは、トニーの死に深く同一化し、「エドワード…」と一言、呟く。
その時、エドワードからメールが入った。
「“スーザン 火曜の夜、時間と場所は君に任せる”」
当日、スーザンは念入りに身支度してレストランへ向かう。
しかし、待ち続けた相手は、遂に姿を現さなかった。
ラストカットである。
3 「自分自身を信じる力」が強い男の強烈なメッセージが、風景を変えていく
「ジャンクヨよ。ただのゴミ。ガラクタでしかない」
「消費文化の行き着く先」を映像提示し、フリークショー(見世物小屋)の如き、グロテスクなオープニングシーンを展示したスーザンのこの言葉のうちに、日夜、眠剤を服用しても眠れない日々を繋ぎ、経済的に恵まれているだけで、愛人を持つ夫との共存・共有関係が破綻し、殆ど自我消耗の〈現在性〉を浮き出させている。
宙刷りにされたスーザンの中枢を穿(うが)つように侵蝕してきた、エドワードのゲラ刷りの小説。
その内容に衝撃を受けたスーザンが回想するのは、自らがエドワードに負わせた心的外傷の罪深さ。
「私は彼の才能を信じず、ひどい仕打ちをした。決して許されないことを」
これが、小説がスーザンに突き付けた彼女の負の記憶である。
だから、妻子を無残に殺害されたトニー=エドワードとして回想されるのだ。
当然ながら、スーザンが回想するNY時代の思い出が、エドワードの創作を誹議(ひぎ)したばかりか、ハットンに心を奪われ、エドワードとの子を中絶したという裏切り行為だけが想起されるのは必至だった。
従って、トニーの心身を食い潰したレイに象徴されるならず者が、スーザン自身であったと回想し、その罪深さに打ち震えてしまうのである。
「自分以外のことを書くべきよ」
これは、「誰でも自分のことを書く」エドワードの創作活動に対して、スーザンが言い放った批判的言辞である。
このスーザンの解釈によって、「夜の獣たち」と題されたエドワードの小説もまた、エドワード自身が負った不幸をテーマにした創作であると、スーザンが決めつけていることで判然とする。
その結果、自らの中絶手術をハットンに対し、「彼に合わせる顔がない」とまで吐露した罪悪感が想起されてしまうスーザンの内的風景だけが、彼女の自我を深々と覆っているのだ。
これは、 以下のトム・フォード監督のインタビューでの言葉によっても了解可能である。
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トム・フォード監督 |
「この物語は僕にとって、人を投げ捨てにしてはいけない、という事を表している。現代、僕らはなんでもかんでも簡単に捨ててしまう文化の世界に住んでいる。すべては消耗品で、人間すらも捨ててしまう。スーザンは自分が求めていたものすべて、外側から見れば自分の理想の人生を手に入れているが、内側は死んでいるんだ。そしてこの小説がきっかけでそのことにはっきり気が付く」
確かに、その通りだろう。
しかし私は、「消費文化の行き着く先」で迷妄し、漂動するスーザンが、エドワードの小説によって自らの人生行路を内省する契機になることが可能であっても、「夜の獣たち」を誤読している事象こそが問題であると考えている。
はっきり書けば、トニー=エドワードではないということだ。
「夜の獣たち」とは、「夜の獣」と呼ばれたスーザンの全人挌が投影された作品なのである。
トニー=エドワードではなく、トニー=スーザンと考えた方が正解であると、私は捉えている。
思うに、数年前にエドワードに電話しても無視された一件が、「夜の獣たち」の送付に繋がったと考えられる。
「彼の強さとは、自分自身を信じる力よ」
このスーザンの言葉通り、「自分自身を信じる力」が強いエドワードは、一心不乱に創作活動に専念し、「夜の獣たち」のような小説を上梓する作家にまで上り詰めたことで、元妻スーザンに対して、以下の強烈なメッセージを送ったのではないか。
「作家としての自己開示」・「NY時代の猛省」・「消費文化に依存する生活総体からの主体的脱却」。
この3つであるが、特に後二者が肝になる。
「夜の獣たち」の世界を占有するのはスーザン以外ではなかった。
「ローラ(小説中のトニーの妻)はスーザンがなりたかった女性であり、エドワードを愛していた彼女自身でもあるの」
車外に出される母ローラ |
イルサ・フィッシャー(トニーの妻を演じた女優)の言葉だが、ローラもまたスーザンであり、加害者のレイもまた然り。
「正義」を観念的に記号化したボビー警部補を除く主要登場人物は、ローラの分身であると言っていいのではないか。
そして、この主要登場人物は皆、死ぬ運命を辿る。
それは、保守的で信心深く、性差別・人種差別主義者・物質主義者の母親から、「娘はみんな、母親のようになる」と決めつけられ、呪縛されたスーザンの人生行路で累加された〈現在性〉の死を意味するだろう。
だから、どこまでも、「夜の獣たち」の世界は、スーザン自身の内的風景の投影だったと言える。
しかし、スーザンは、そう考えなかった。
だから、どうしてもエドワードと再会し、謝罪と「愛の不毛の埋め合わせ」を具現したかった。
エドワードは、そんなスーザンの思いが理解できていた。
ラストシーンが意味するのは、再会を拒むことによって、スーザンに対して、「夜の獣たち」に託したエドワードの真意を再考させ、「消費文化に依存する生活総体からの主体的脱却」を求めたのである。
それは、「ジャンクヨよ。ただのゴミ。ガラクタでしかない」展示に愛層が尽きていたスーザンの、否定的な〈現在性〉の遷移を可能にする何かでもあった。
かつて、エドワードはスーザンに言い切った。
「君は物事から逃げてばかりいる」
そして、このようにも言い添えている。
「誰かを愛したら、努力すべきだ。簡単に投げ捨てるな。大切にしろ。失えば、二度と戻らない」
このエドワードの強い言辞が、本作のメッセージである。
単に本作は、ヘビーなリベンジ劇ではない。
「自分自身を信じる力」が強い男の強烈なメッセージが、風景を変えていくのだ。
原作の設定と異なる本作の凄みに圧倒された。
紛れもなく傑作である。
(2021年1月)
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