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2023年11月3日金曜日

小林多喜二('74)   闇があるから光がある  今井正

 


1  「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ、一番本当の光のありがたさが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているもんではないんだ」

 

 

 

一九三三年(昭和八年)二月二十日 東京・赤坂・福吉町

 

日本共産青年同盟の詩人・今村恒夫と共に、赤坂の連絡場所に訪れた小林多喜二が、特高に捕捉され、名前を自供しない多喜二に写真を見せたところで、毛利特高課長が取調室に入って来た。 

小林多喜二(右)と今村恒夫


「よう、小林。とうとうふん捕まったじゃないか。恐れ入ったろ」

「こうなったら仕方ない。元気でやろうぜ」 

毛利特高課長(左から三人目)


多喜二が今村に声をかけるや、それぞれ別の取調室に入れられ、多喜二への言語に絶する拷問が始まった。 


木刀で激しく殴打され、大腿部を踏み潰された挙句、天井に吊るされた多喜二の太腿にキリを刺し込み、更に木刀で強打され続け、絶命するに至った。 


「1933年月20日、小林多喜二は築地警察所で、拷問のため29年4カ月の生涯を閉じた。安らかに眠り続ける彼の墓前に、一束の小さい、しかし真っ赤な花束を捧げる。思いを込めて。今ここに彼の生涯を…この画面に蘇らせて、あなたに送る」(歌によるナレーション) 


ナレーターが、多喜二の遺体に真っ赤な花束を載せた。

 

「小林多喜二は、明治36年10月13日、秋田県北喜多郡下川沿村(しもかわぞいむら/現大館市)川口に生まれた。秋田の村で過ごした幼年時代の思い出は、多喜二の作品の中で、こんな風に描かれている」(ナレーション)

 

『転形期の人びと』より

 

野良仕事で帰って来た父親が、土間で寝転び、幼い多喜二の手を胸に当てさせると、心臓が時計のように鳴っていた。

 

そこに母・セキが帰って来て、心臓が弱っている父の草履を取り外す。

 

「父ちゃんは働くために生まれてきた、仏さんみてぇな人だもな」 

左から父、母・セキ、多喜二少年


「多喜二はまた、こんなことも書いている。私の母は、毎年十二月の二十何日かには決まっておこわを作って、その日になってたくさん雪が降ってくると喜んだ。これで安心したと言う。しかし、折角おこわを作っても、雪の降らない年があると暗い顔をした。母はいつか、そのことの由来を話してくれた…昔、昔、母の生まれた村にたくさんの子供を抱えた小作が住んでいた」(ナレーション)

 

「おど(父)さんは、毎日毎日、ずぶん(自分)ではひとつもまんまも食わんで、子供だちばっかに食わしてきたんだが、それでもどんずまりまで来てしまった。おどさんは、とうとう『神様、私はこの10何日のうち、ひとっつぶのまんまも食わねでやってきました。それだのに、子供だちはもう死にそうです。私は決心しました。今夜、子供だちを助けるために、地主さんのとこさ、盗みをしにまいります』。それが十二月の二十何日かで、おどさんが米俵背負(しょ)って出ていくと、神様の助けが、雪がどんどと降ってきて、歩くあど(あと)からあどから、おどさんのあすあと(足跡)を消してくれたんな」(母のナレーション)

 

「一家をあげて、北海道の小樽に移住したのは、多喜二満4歳の年の暮れ、大雪の降るある夜のことだった…冬が近くなると、『ぼくはそのなつかしい国のことを考えて、深い感動に捉えられている。そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある。そこでは、人は重っ苦しい空の下を、どれも背をまげて歩いている。ぼくはどこを歩いていようが、どの人をも知っている。赤い断層を所々に見せている階段のように山にせり上がっている街を、ぼくはどんなに愛しているか分からない』」(ナレーション) 

小樽の運河

パン工場で働きながら、伯父の援助で小樽の商業学校へ通えることになり、多喜二は泣いて喜ぶ。

 

「中学へ入った頃の思い出を、多喜二は後でこう語っている。『早く卒業して月給取りになり、貧乏な親たちを助けたいと思っていた』学校に通う長い道を、鉱山を発見して、母を人力車に乗せてあげることばかり考えていた。上級生になると、彼は絵を描き始め、子羊係というサークルの中心メンバーになった。往来の露店からは、北海道名物トウモロコシを焼く芳ばしい香りが入ってくる…彼の才能は当時の地方新聞からも認められていた」(ナレーション)

 

伯父からは勉強を優先し、絵を辞めるように言われ、それから多喜二は文学に親しむようになる。 

伯父(左から二人目)と多喜二少年(右)


多喜二は、伯父の援助で更に小樽高等商業学校、現在の小樽商科大学に入り、そこで文芸評論家の大熊信之に教えを請い、熱心に質問をしていた。 

小樽高等商業学校(小樽高商/ウィキ)


その様子を見ていた、のちに作家として大成する伊藤整(せい)が多喜二との思い出を書いており、思想も立場も異なってはいたが、多喜二の死を悼んで文学碑を建てるために尽力した。 

「チャタレイ裁判」で知られる作家・伊藤整

多喜二の文学碑


大正13年、21歳で小樽高商を卒業した多喜二は、北海道拓殖銀行に入社し、勤務の傍ら、職場の女性たちに協力してもらいながら小説を書き始める。 

複数の女性の協力を得て、小説を書きながら北海道拓殖銀行に勤務する


多喜二が21歳の暮れ、同僚に誘われた「やまき屋」で、酌婦のタキと出会い、生涯の恋人となる。 

タキとの出会い


「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ、一番本当に光のありがたさが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているもんではないんだ」と、タキへの手紙に綴る多喜二。

 

『その出発を出発した女』より

 

【女(タキのこと)は受け取った手紙を読んでいないと言う。

 

男(多喜二のこと)は愛を告白するが、女は「恐ろしい」と受け付けない。

 

「あなた、私みたいな商売の女、嫌でしょ?」


「多分ね」

 

店の外に出て、男は本心を聞き出そうとするが、「もう少し待って」と答える。

 

「待つのはいいよ。じゃ、約束する」

「私、あなたの…そんな資格なんかないの」

 

男はそれを遮り、「約束したよ」と念押しして帰って行った】

 

後日、多喜二とタキは小樽の海辺で会い、砂浜に大仏の絵を描いたり、啄木の詩集を読み合ったりして愛を育くむ。 



大正14年、22歳の多喜二は友人たちに借金し、母の許しを得てボーナスもつぎ込み、遂にタキを酌婦から身請けして自宅に招き入れた。

 

母と弟と、タキと多喜二と4人の生活が始まり、小林家に春がやって来た。 

弟の三吾(左)


そんなある日、多喜二がタキと「やまき屋」の息子との関係の噂を聞いてタキを問い詰める。

 

「許して」と言って事実を認めたタキは、この家で良くしてもらって、それが辛い、と泣きながら訴えるのだ。

 

「あたしみたいな女、やっぱし出たほうがいんでないかしら…」 


そんなタキを多喜二は優しく抱き締める。

 

その頃、多喜二の母校・小樽高商では軍事教練反対闘争が起きて、大凶作に襲われた北海道では小作争議が激化した。

 

「こうした時代の鼓動は、青年多喜二の胸を激しく打った。持ち前の努力と情熱を持って、社会科学の学習を始め、次第に政治的実践に近づいたのは、昭和2年、多喜二24歳の頃だった。一方では、タキへの愛に悩みもした。彼女は一片の書置きを残して、家を出てしまった。多感な青春の日々を、彼は、同人雑誌『クラルテ』で仲間たちと語り合い、文学の勉強にも打ち込んでいった。特に志賀直哉の作品に傾倒した…」(ナレーション) 


そんな折、志賀の親友である里見弴(とん/有島武郎の実弟で白樺派の小説家)と芥川龍之介を迎えて文芸講演会が小樽で開催された。

 

多喜二は宴会の席で、里見を捉まえて志賀作品の持論を展開し、友人に諫められる。

 

芥川はこの後、時を経ずに自殺する。

 

「昭和3年1月1日の夜、25歳の多喜二は日記にこう書いた。さて、新しい年が来た。昨年は何をやった。タキが『復活』のカチューシャと同じように、自分から去って行った。思想的に断然マルキシズムに進展していった。俺たちの時代が来た。我ら何を為すべきかではなしに、如何に為すべきかの時代だ」 



初の普通選挙実施で小樽にやって来た労働農民党の山本懸蔵候補の演説会に参加する多喜二は、選挙応援活動に奔走する。 

山本懸蔵

【山本懸蔵は古参のコミュニストで、スターリンの大粛清時代に野坂参三の密告によってスパイ容疑で逮捕・処刑され、自らも複数の同志を密告して死に追いやった】

 

『東倶知安行』(ひがしくっちゃんこう/倶知安町はニセコ町と隣接し羊蹄山がある)より 

『東倶知安行』


「娘を売り飛ばし、子供を工場へやり、自分の作った米を食えず、イモとカボチャばかり食っている。その生き血のような金が銀行の手に入り、そしてそこから株主、その偉い金持ちの懐にたんまり入って行く。もう誤魔化されてはならない!」 

演説する多喜二


しかし、山本懸蔵は落選し、当時の田中義一内閣は治安維持法(1925年)を発動し、選挙戦に奮闘した労働者、農民、知識人を弾圧。

 

【田中義一は各大臣を歴任した陸軍大将で、張作霖爆殺事件(満州事変の遠因となった事件で関東軍の謀略)の責任を負わされ内閣総辞職した。また治安維持法は、日本共産党を中心とする共産主義活動を抑圧するために制定され、ファシズムの初発点となる思想弾圧の法と化す】 

田中義一(ウィキ)



昭和3年3月15日の午前4時から始まった一斉検挙で捕らえられた者は全国で約1700人、共産党関係者488人が起訴された。


 

世に言う3.15事件である。 

3.15事件


章を変えてフォローしていく。

 

 

 

2  「誰か、身体全体でぶつかってやる奴はいないかな…死ぬ気で書く奴はいないかな」

 

 

 

多喜二は「一九二八年三月一五日」でその検挙の様子を書いた。

 

「嵐は木を鍛える。選挙闘争の体験と、3.15の見聞は多喜二を逞しくした。その年5月、多喜二は東京へ出た。約1週間の慌ただしい滞在中、芝増上寺付近の蔵原惟人(これひと)の家を訪ねた。蔵原は26歳。多喜二は24歳」(ナレーション)

 

「『戦旗』五月号の『プロレタリア・リアリズムへの道』ですが…」

「あれ、読んでどうです?」

「いや、考えさせられました。第一にプロレタリア前衛の目を持って世界を見ること、第二に厳正なるリアリストの態度をもって、それを描くこと」

蔵原惟人(左)


「プロレタリア文学にも、随分いろんな作品が出てきたが、もっと何て言うか、そう、これからは時代をもっと大きなスケールで書かなきゃ駄目だと思うんだ。それが一言で言うと、あの論文なんですよ」

「時代を、大きなスケールで…」

「何も長編ばかりでなきゃいけないとか、身辺的なものはダメだというんではなくて、仮にそういうものを書く場合でも、時代を背景にして、その中心的な問題を頭に置きながら書くっていうこと」

 

多喜二に深い感銘を与えた会話だった。

 

【蔵原惟人は中野重治らとナップ(全日本無産者芸術連盟)を結成し、日本のプロレタリア芸術運動の理論的指導者として活躍した文芸批評家。蔵原の『プロレタリア・リアリズムへの道』はプロレタリア文学においてのリアリズムの主体に共産党の観点を踏まえた理論】 

ナップ


『一九二八年三月一五日』より

 

検挙された共産党員・渡(わたり)が、竹刀で激しく打ち叩かれ気絶した後、水を掛けられ起き上がった渡は、不屈の精神で立ち向かう。 



「いくら拷問したって、あんたらの腹が減るぐらいだよ。断然何も言わないから」


「もう、みんなこっちでは分かってるんだ。言えばそれだけ軽くなるんだぜ」

「分かってもそれでいいよ。俺の罪まで心配してくれなくたって」

「渡君、それじゃ困るな」

「俺もさ。俺は拷問には免疫なんだから」

 

今度は首を絞められ倒れたところをバケツの水をかけられる。

 

「いくらお前が拷問に免疫になったって、東京からはもしなんなら、ぶっ殺したっていいって言ってきているんだ」


「そうか。そりゃいいこと聞いた。殺されたっていいよ。それで無産階級の運動がなくなるとでも言うなら俺も考えるが…」

 

屈しない渡を天井に吊るし、足にキリを刺し込むと、激しい叫び声が上がる。

 

「殺せ!覚えてろ…」

 

渡は意識を失う。

 

この渡の拷問のシーンを書いた多喜二は、回想する。

 

「当時、私は本当のことを言って、尊い血を流している同志たちの言おうとして言い得ずにいる憤怒を、そのただ代わりになって書いているに過ぎない、従って、それは私自身と言えども、何か粗末にしてはならないものだと考えていた。その年の8月17日、いよいよ出来上がった時、私はこの作品には安易な題をつけてはならぬと考えた。そして、『一九二八年三月一五日』と決めた時、私はこれは恥ずかしくない立派な題だと思った」(多喜二のナレーション) 



この作品を発表した『戦旗』は直ちに発禁になったが、巧みな配布活動によって多くの人々に読まれ、小樽が生んだ青年・小林多喜二のプロレタリア作家としての活動が開かれていく。 

『戦旗』

続いて、代表作の一つ『蟹工船』や『不在地主』も発表された。 

『蟹工船』と『不在地主』


【『戦旗』とはプロレタリア文学の作品を掲載する文芸雑誌だったが、1931年に、日本プロレタリア文化連盟(コップ)へと発展的解消を遂げて、終刊するに至った】

 

昭和5年3月に上京した多喜二は、4月、作家の江口渙(かん)の家で歓迎会に招かれ、中野重治(しげはる)、書記長の立野信之(たてののぶゆき)、村山知義(ともよし)、壺井繁治(しげじ)・栄(さかえ)夫妻、などが紹介される。 

江口渙(右)

村山知義

壺井繁治・栄夫妻

【江口渙は小説家でプロレタリア作家同盟の中央委員長。多喜二の葬儀委員長/中野重治はナップ⇒コップ(日本プロレタリア文化連盟)を結成した日本共産党の詩人/立野信之は『叛乱』の小説家/村山知義は前衛芸術家として活躍/壺井繁治は詩人で、妻の栄は『二十四の瞳』の作者として知られる小説家】

 

多喜二は官憲が監視する中、戦旗の講演会で弁士として登壇するが、矢庭に官憲の妨害を受ける。

 

それでも聴衆は官憲を「横暴だ!」と抗議し、何とか演説を聴こうと会場内は熱気に包まれていた。 



その後も多喜二は江口らと弁論活動を続け、関西方面へも巡回して、一時大阪で検挙され、すぐ釈放されるが、東京杉並の立野信之宅に寄宿中、立野と共に捕まってしまう。 

立野信之


『蟹工船』が不敬罪に問われ起訴され、収監されていた多喜二の元に、上京していたタキが面会に来た。

 

タキは美容師の学校に入って、安定した職業に就こうとしたのである。 


その後、出獄した後も多喜二はタキを励まし続け、結婚を申し込むが、彼女は父の死で幼い兄弟たちを養育する責任があるからと言って断った。

 

多喜二に負担をかけることを躊躇したからである。

 

多喜二が死んだ際、駆けつけたタキは枕辺に泣き伏した。 


タキは多喜二の一周忌にも招かれ、友人から見せられた多喜二の写真をタキは望み、生涯所有することになった。 


以上がタキに関わるエピソード。

 

時代は遡及する。

 

昭和6年に出獄した多喜二は、密かにソ連から帰国していた蔵原惟人と、二人の協力者だった村山籌子(かずこ)が動いて、再会を果たした。 

左から村山籌子、多喜二、蔵原惟人(変装用に髭をつけている)、立野信之

【村山籌子は村山知義の妻で児童文学作家として知られる】

 

「蔵原は、落ち着いて話を進めた。プロレタリア文化運動は、工場、農村の文化サークルを基礎に、その組織を整備する必要があること、科学、芸術分野を通じてプロレタリア文化団体の連携を強め、協議会を結成することなどがその内容だった。多喜二は熱心に質問し、討論した」(ナレーション)

 

「…昭和6年秋、共産党は文化運動に党組織を確立する方針を立てた。多喜二は進んでその求めに応じて入党し、生涯を党の事業に捧げることになった」(ナレーション)

 

この時期に、奈良の志賀直哉を訪ね、奈良公園や仏像見学を案内される。 

志賀直哉


多喜二の思想に違和感を持つ志賀だったが、彼の死に接した際、弔文を母セキに送り、日記にも「不図(ふと)彼らの意図ものになるべしといふ気する」と記している。

 

多喜二の元に、藤倉電線に勤務する青年が訪ね、首切り反対闘争の集会への参加を依頼してきた。

 

そこに集まった労働者たちに、自分たちのことを小説に書いて欲しいと求められた多喜二は、「今度の首切りなんか、君たちが真っ先に立って反対するんだね。そうすればオジさんだって、藤倉の従業員はこんなに偉いんだと大威張りで小説に書くよ」と若い労働者を鼓舞するのだった。 


この労働者との交流は、後の小説『党生活者』(地下生活者としての体験を通して描いた名作)の貴重な素材となった。

 

そして、昭和7年春、プロレタリア文化運動始まって以来の最大の弾圧が始まる。

 

同年4月3日、多喜二は宮本顕治・百合子夫妻を訪れ、中野重治が築地署へ連行されたことを報告すると、百合子は中野の妻・原泉(はらいずみ)が出演する築地小劇場に電話をかけて知らせた。 

宮本顕治・百合子夫妻

原は既に中野の逮捕を知っており、不安を隠せなかった。

 

【原泉は通称「はらせん」と読ませ、北林谷栄・浦辺粂子らと並ぶ老け役の女優として有名で各ドラマに出演】

 

その4日後には宮本百合子も検挙され、暴圧は更に広がり、多喜二は宮本顕治らと共に地下活動に入り、闘争を続けていく。

 

更に、蔵原惟人も検挙され、壮絶な拷問を受けたことを多喜二が報告し、それを受けて宮本は、自分たちの覚悟を確認し合った。

 

「ここでもう、正式に決定しようじゃないか。検挙されても、必ず頑張り抜くこと。奴らは党組織の追及に手段を選ばない。特高のテロに新しい事実の一つを出せば、必ず次の事実を引き出される。だから何も言うな」 



【宮本顕治は文芸評論家として名をあげ、日本共産党スパイ査問事件で逮捕され無期懲役となるが、GS(民政局)が解放。戦後、日本共産党の最高指導者となる。妻の宮本百合子は『貧しき人々の群』で注目された小説家で、代表作は『伸子』。プロレタリア文学運動に参加し、日本共産党に入党】

 

満州事変が勃発し、多喜二は小説を通して、侵略戦争を批判する活動に情熱を注ぎ込む。

 

そんな多喜二が、地下生活中に銀座の図案社に勤めながら、刺繍の勉強をしている女性・ふじ子と結婚した。 

ふじこ

ふじ子の母も同居して、その結婚生活の詳細が分かっていないが、多喜二の小説では、妻を「協力者」として描いている。

 

そのふじ子は、昭和8年1月、銀座の勤め先で突然検挙され、自宅も特高に家宅捜査された。

 

多喜二は不在で辛くも検挙を免れたが、帰宅して慌てて荷物をまとめて逃走した。 

ふじこの母(右)


一方、ふじ子は、2週間後に釈放されたが、常に警察に監視され、多喜二と一緒に暮らすことはできなくなり、多喜二は家庭教師という触れ込みで、次の隠れ家を見つけた。

 

ふじ子が多喜二と再会したのは多喜二の通夜のことだった。

 

「悔しい」と泣き崩れるふじ子に、多喜二との関係が知れると警察の拷問を受けるからと、すぐに帰るよう仲間が促す。 



昭和7年中頃、厳しい地下活動の中で、多喜二は母や兄弟と会うことができた。

 

以下、『党生活者』の中で描かれた母との会話。

 

「俺な、4年でも5年でも帰られないからね」

「分かってる」


「俺が帰られなくしているのは、この運動をしてるからではなくて、金持ちの手先の警察なんだから。俺を恨むんじゃなくて、この逆さになってる世の中を…」

「分かってるって…お前と会うまでは、いてもたってもいられなかったど。こうして会っているど、こったらことしてる時におめぇが捕まるんでねぇかと思って気が気でねぇ…おら、もう六十だ。明日にでも死ぬことあるかもしれねぇ。ひょっとしておめえが家さ来たりすると、危ねぇからな。死んでも知らせねぇことにした…」 


母との最後の別れとなった


想像を絶する非合法活動の困難な日々が続き、『党生活者』の中で、「私には、ちょんびり(少し)もの個人生活が残らなくなった。今では季節、季節さえ、党生活の中の一部でしかなくなった…私は雨が降れば喜ぶ。しかしそれは、連絡に出かけるのに傘を差していくので、顔を人に見られることが少ないからである」と記している。 



いよいよ地下活動が厳しくなり、警視庁では、未決で収監されている中野重治、坪井繁治ら面会と差し入れの許可を申し出るプロレタリア作家同盟の中心人物・江口に対し、多喜二と連絡を取っているのではないかとの疑いをかける。

 

「小林の野郎、潜っているいやがるくせに、あちこちの雑誌に小説なんか書きやがって。如何にも警視庁を舐めてるじゃないか!今度連絡があったら、はっきり伝えてくれ。いいか、我々は天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。そんな逆賊は、捕まえ次第、ぶち殺してやっても構わないことになってるんだ。小林多喜二も、捕まったら最後、命はないものと覚悟していろと、君から伝えておいてくれ」 

江口渙

その警視庁では、またも新聞に多喜二の『地区の人々』(絶筆となった小説)が掲載されているのを見て、怒りを募らせる。

 

蔵原に3カ月で捕まると言われていた多喜二は、地下活動に入ってから11カ月間捕まっていないと指折り数えてみせ、プロレタリア文学活動への思いを吐露する。

 

「文学をやる人はたくさんいる。だがみんな、手の先か体のどこかで書いている。体だけはちゃんと大事にしまっておいて、頭だけはちょっと突っ込んで。皆そうだ。誰か、身体全体でぶつかってやる奴はいないかな…死ぬ気で書く奴はいないかな」 


多喜二の言葉が虚空を舞っていた。

 

 

 

3  「も一度、立たんか!皆さんのめぇ(前)でもう一度立たねぇか」

 

  

 

拷問死した多喜二の遺体が運ばれる。

 

「1933年2月20日午後7時45分、小林多喜二は、ここから担架で近くの前田病院に運ばれて、その不屈の生涯を閉じだ。一説によると、この留置場ですでに息絶えていたとも言う」(歌によるナレーション)

 

「いずれにしても、完全に意識を失っていた最後の瞬間は、眠るように安らかだったと言う。当夜、この留置場に居合わせた解放運動関係者たちは、赤旗の歌で彼の担架を送った。それは勿論、低く、抑えた歌声ではあったが」(ナレーション) 



そして、毛利特高課長の記者会見。

 

「あまり突然なんで、もしやと心配したが、調べてみると、拷問したっていうことは決してない。まあ、あまり丈夫でない身体で、必死に逃げ回るうちに、心臓に急変を来したもので、警察の処置に落ち度はなかったわけだ。ま、その辺のところは、どうぞ一つよろしく」 

毛利特高課長(右)

続いて築地警察署長の会見。

 

「殴り殺したなんて事実は全くない。当局としてはできるだけの手当てをしたんだ。長い間、捜査中だった重要な被疑者を死なしたことについては、実に残念だと思っている次第です」

 

遺体が杉並の自宅に戻り、家族に見守られ永眠する多喜二を多くの同志たちが囲む。

 

「お母さん、気を丈夫に持ってくださいね」と宮本百合子。

原泉(宮本百合子の左)

「はい。大丈夫す。すんぞう(心臓)悪いって、どこすんぞう悪い。うちのあんちゃはどこもすんぞう悪くねぇっす。すんぞう悪けば、泳げねぇはずだす。うちのあんちゃ、つぅっせえ(小さい)時から、よく泳いでだす。どうすて息つけんようになった。なにも殺さねぇでもいいものを。なんつぅことした。どうして、息つかねぇか?も一度、立たんか!皆さんのめぇ(前)でもう一度立たねぇか」
 



この母の胆力が多喜二を生んだと思わせるセキの圧倒的存在感が、途轍もなく目映(まば)ゆ過ぎる。

 

医師の安田徳太郎が多喜二の下着を切り、激しい拷問の痕跡が露わになる。 

安田徳太郎



「下半身が一面に赤黒く腫れ上がっていて、よほど多量の内出血と見られます。ここまでやられたら、無論、腸も破れているでしょうし、膀胱だってどうなっているか分かりません。解剖したら、腹ん中は、出血でいっぱいでしょう」

 

そして、解剖を依頼した大学病院に遺体を運び込んだ。

 

「お電話では肺炎というお話でございましたので、解剖をお引き受けしたのですが、死亡診断書を見ますと心臓麻痺となっておりますので…」


「誰が肺炎なんて言うもんですか!ただ、遺体を解剖してくれと頼んだら、お引き受けしますって言うんで持って来たんです!」と江口渙。

江口渙(左)と安田徳太郎


「肺炎なら解剖するが、心臓麻痺なら解剖できないと言う規則が、この大学にはあるんですか?」と安田徳太郎。

「小林多喜二さんの御霊体とは存じ上げませんでしたものですから、つい…」

「警察から禁止命令が出たんですか?」

「どうしても解剖ができないのなら、参考の為に、ひと目この遺体を見て置いたらどうですか?そうすれば、あなたの社会観もいっぺんにひっくり返りますよ」

 

多喜二の事件で衝撃を受けた支援者らは、死体の解剖を東大・慶応・慈恵医大の病院に頼んだが、どの病院も特高警察を恐れて多喜二の遺体の解剖を断ったのである。(ウィキ参照)

 

【安田徳太郎は同年、共産党シンパとして検挙された後、ゾルゲ事件に連座し逮捕され、有罪判決を受けた医師】

 

多喜二の自宅での葬儀では、警察の検問所が設けられ、弔問客を次々に検束していく。

 

弁護士の青柳らも、警官に太政官布告で凶悪犯人の葬儀は禁止されているという理由で阻止された。 

青柳弁護士

「作家同盟の江口渙、演劇同盟の佐々木孝丸、この二人の委員長だけは親戚扱いで通してある。二人以外はたとえ弁護士でも通っちゃならんぞ」

 

弁護士の青柳とは青柳盛雄のこと。共産党系の弁護士団体「自由法曹団」として三・一五事件や四・一六事件などの弁護活動で奔走し検挙され、弁護士資格が剥奪された。戦後、日本共産党公認の衆議院議員を務めた。 佐々木孝丸はプロレタリア演劇運動の中心人物であり、立野信之原作・佐分利信監督の『叛乱』や、黒澤監督の『蜘蛛巣城』でも有名な俳優】 

叛乱』より

佐々木孝丸/『蜘蛛巣城』より


宮本百合子が赤い花束を持って自宅へ向かおうとすると、警察に阻まれる。

 

「小林は共産党員じゃないか!人をバカにするな!」

「それより前に、立派な作家ですよ」 


百合子は検束され、花束だけは届けられる。

 

多喜二の棺にその花束は置かれ、次に壺井栄からも赤いカーネーションの花束が届けられた。 


それらの花束が小林セキ名義で、収監されている作家同盟の蔵原惟人、中野重治、村山知義らの元に届けられた。 

蔵原惟人

中野重治

収監者らはその意味が分からなかったが、面会に来た家族や支援者によって、多喜二が殺されたことを知った。 



拘置所の庭で体を動かしていた村山が、ふと見ると、拘置所の窓辺に赤い花が横一線に飾られ、多喜二の死に弔意が示されていた。 

村山知義



そして、今なお小樽の多喜二の文学碑には、赤い花束が供えられ続けているのだった。 


 

 

4  闇があるから光がある

 

 

 

「私の犯した最も大きな誤りであった」

 

これは東京帝国大学文学部美術史科に在学中に、「滝川事件」への反対デモ参加を理由に検挙され、80日近く拘留された後、転向手記を書かされた際の今井正監督の述懐である。 

今井正監督


この悔いからは、今井監督が戦争中に国策映画を撮らざるを得なかった事実に向き合った含みが読み取れる。

 

共産党員でありながら、イデオロギーに呪縛されることのない作風の背景が垣間見える所以である。

 

東宝争議の只中にあって、CIE(民間情報教育局)の検閲下で公開され記録的成功を収め、戦後民主主義を高らかに謳い上げ、十分に明快、且つ、健康的な作品だった『青い山脈』(1949年)と切れ、独立プロでの初発点となり、社会の最底辺で呼吸を繋ぐニコヨン(日雇い労働者)らを描いた『どっこい生きてる』(1951年)は、資金難や検閲を乗り越え到達した今井監督の社会派リアリズム・ヒューマニズムの原点であると言っていい。 

『どっこい生きてる』より


小林多喜二という、凄惨な拷問死を遂げたプロレタリア文学作家としてあまりに名高い歴史上の人物を描く本作もまた、一貫して感傷に流さず、徹底的に客観化した物語の構成力において際立っていた。

 

多喜二の人生をギターの弾き語りを交えてフォローしていく横内正のナレーションこそ、その証左であった。 


神妙且つ、スマートな筆致で生き方の英雄的特異性を、別段強調することのない演出には異論が噴出するだろうが、私は違和感なしに受容できた。

 

【東宝争議とは、1948年に発生した、東宝株式会社の共産党員など大量解雇反対争議として知られる。争議団は撮影所を占拠する事件を起こし、占領軍が戦車を動員して退去させたほど争議は長期化した】 

東宝 来なかったのは軍艦だけ


思うに、多喜二は聖人君子とは無縁であった。

 

貧困故に、それ以外の選択肢がない酌婦(娼婦)タキを責める男の物言いには、酌婦を蔑視する視線が見え隠れする。

 

それでも純粋な青年はタキを愛し、身請けし、不幸な境涯から救い出したのである。 


恋に燃える若者の一途な行為がフル稼働するのだ。

 

多喜二21才の時だった。

 

「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ、一番本当の光のありがたさが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているもんではないんだ」

 

本稿でも紹介したが、タキに宛てたラブレターにある有名な一節である。

 

その誠実で明るい性格から、彼を好きになるタキの想いの強さが十分に理解できる。 


そんな若者が変容していく。

 

共産主義への傾倒と、その実践的航跡。

 

更に、ハウス・キーパー(女性党員)を抱えての地下活動での著作活動。 



一体、小林多喜二とは何者だったのか。

 

共産主義に殉教した男。

 

即ち、襲い来る危険を認知し、それを回避する最大限の配慮をしつつも、自ら抱懐する理想社会を信じ、その具現化に動き、奔走した挙句、虐殺された男 ―― 単純に言えば、そういうことだろう。 


では、この映画は何を描きかったのか。

 

「なぜ多喜二は、特高の拷問で非業の死を遂げたのか」

 

この問題意識をコアに据え、そこに流れ着くしかなかった一人のプロレタリア作家の、その劇甚なる軌跡を限りなく客観的に映像提示すること。

 

観る者の情動に訴え、心揺さぶるようなセンチメンタルを排し、透徹した視線で描き切ること。

 

「天皇制・絶対」という名で重武装した権力が、それに抗う者たちの人格総体を抹殺すること。

 

その悍(おぞ)ましさを可視化すること。

 

かくて、拷問死を常態化していた時代状況の闇を描き出していく。

 

それ以外になかったのではないか。

 

青春が束の間手に入れたロマンスという眩い光の有難さが、時代の闇に押し潰され、その闇からの脱出を困難にする状況性それ自身を描き切った稀有な作品 ――  それが本篇だった。

 

ではなぜ、特高が、かくまでに多喜二への憎悪を滾(たぎ)らせていたのか。

 

まるで憎悪の爆轟(ばくごう)のようだった。

 

オルグ(活動の指導)のために「地区」に入った党中央が、地区活動家との交流をテーマにした『地区の人々』という絶筆小説に対して、怒りを吐き出す特高のシーンは映画でも描かれていたが、これが多喜二虐殺への最終的発火点になったと思われる。 

『地区の人々』


「一体バカにしてる!三・一五、四・一六、十二・一と続いて、こゝが全く火が消えてしまってるとでも思ってるのか!そんなことを考える奴がいるとしたら、そいつはプロレタリアの政治家としてはニセ物だ!バカにしてる。此処を一体何処だと思ってるんだ。三田村や山縣が心血を注いだところなんだ!それが一寸やそっとで無駄になってたまるもんか!」(『地区の人々』より/四・一六とは前年の三・一五事件に続いて行なわれた日本共産党大量検挙事件)

 

絶筆となった小説に描かれた、党中央に対する地区活動家の周囲を黙らせる一喝である。

 

共産主義の勢いが多くの地区にまで張り巡らせている実態をリアルに伝える描写の凄みに、プロレタリア小説の検閲担当官を通して知ったのか、特高の忿怒(ふんぬ)が炸裂したであろうことは疑えない。

 

事もあろうに、この小説を特高の射程を掻い潜(かいくぐ)って、多喜二は地下活動の見えないスポットで上梓(じょうし)したのである。 

『地区の人々』の発表を上司に見せる刑事


「ナメやがって!」

 

そう思ったに違いない。 

「小林多喜二も、捕まったら最後、命はないものと覚悟していろと、君から伝えておいてくれ」


然るに私は、この小説以上に、特高の忿怒を滾(たぎ)らせた小説に注目したい。

 

雑誌『戦旗』に掲載され、実質的なデビュー作になった『一九二八年三月十五日』である。 

『一九二八年三月十五日』


この作品に出て来る不屈の闘士・渡(わたり/小樽合同労組組織部長の渡辺利右衛門という名の実在人物)についての描写こそ、特高の逆鱗に触れたと思われるからである。

 

以下、些か長いが、渡と特高との遣り取りの部分をインサートした描写を、青空文庫から読みやすく切り取ってみたい。

 

【太字にした語は、当時の検閲で伏字・削除された箇所である】

 

「渡は口笛を吹いて歩きながら、板壁を指でたゝいてみたり、さすつてみたりした。彼は實(じつ)になごやかな氣持だつた。監獄に入れられて沈んだり憂鬱になつたりする。さういふ氣持はちつとも渡は知らなかつた。然(しか)しもつと重大な事は、自分達は正しい歴史的な使命を勇敢にやつてゐるからこそ、監獄にたゝき込まれるんだ、といふ事が渡の場合苦しい苦しいから跳ね返す、跳ね返さずにはゐられないその氣持と理窟なしに一致してゐた」(「小林多喜二  一九二八年三月十五日 」より/青空文庫)

 

こんな凄惨な描写もあった。

 

「渡は、一言も取調べに對(たい)しては口を開かなかつた。

「どうぞ、勝手に。」と云つた。

「どういふ意味だ。」


司法主任と特高がアワを食ひ出した。


「どういふ意味でゝも。」

拷問するぞ。」

「仕方がないよ。」

「天野屋氣取り(注)をして、後で青くなるな。」

「貴方達も案外眼がきかないんだな。俺が拷問されたら云ふとか、半しにされたからどうとか、そんな條件付きの男かどうか位は、もう分つてゐてもよささうだよ。」


彼等は「本氣」にアワを食つてきた。】 


(注)天野屋とは、赤穂浪士を支援をした「義商」として知られている架空の人物。奉行所での苛酷な詮議の際に、「天野屋利平は男でござる」と答えた啖呵で有名。

 

【水をかけると、息をふきかへした。今度は誘ひ出すやうな戰法でやつてきた。


「いくら拷問したつて、貴方達の腹が減る位だよ。――斷然何も云はないから。」


「皆もうこツちでは分つてるんだ。云へばそれだけ輕くなるんだぜ。」

「分つてれば、それでいゝよ。俺の罪まで心配してもらはなくたつて。」

「渡君、困るなあ、それぢや。」

「俺の方もさ。――俺ア拷問には免疫なんだから。」


後に三四人拷問係(!)が立つてゐた。


「この野郎!」


一人が渡の後から腕をまはしてよこして、しめにかゝつた。



「この野郎一人ゐる爲めに、小樽がうるさくて仕方がねエんだ。」


それで渡はもう一度を失つた。


(略)次に渡はにされて、爪先と床の間が二三寸位離れる程度に吊るし上げられた。



「おい、いゝ加減にどうだ。」


下から柔道三段の(以下、二十六字削除/注)


「加減もんでたまるかい。」

「馬鹿だなア。今度のは新式だぞ。」

「何んでもいゝ。」


彼は強烈な電氣に觸(ふ)れたやうに、自分の身体が句読点ぐらいにギュンと瞬間縮まる、と思った。彼は吊されている身体をくねらし、くねらし、口をギュッとくいしばり、大声で叫んだ。


殺せ殺せ――え、殺せ――え(感嘆符二つ)」



それは竹刀、平手、鐵棒、細引でなぐられるよりひどく堪えた。


渡は、拷問されてゐる時にこそ、始めて理窟拔きの「憎い――ツ(感嘆符二つ)」といふ資本家に對する火のやうな反抗が起つた。


拷問こそ、無産階級が資本家から受けてゐる壓迫、搾取の形そのまゝの現はれである、と思つた。


針の一刺し毎(ごと)に、渡の身體は跳ね上つた。


「えツ、何んだつて神經なんてありやがるんだ。」


渡は齒を食ひしばつたまゝ、ガクリと自分の頭が前へ折れたことを、意識の何處かで意識したと思つた。


「覺えてろ!」


それが終ひの言葉だつた。


渡は三度んだ。


を三度目にふき返した。」】 

 

(注)以下二十六字削除とは、「巡査が、ぶらんと下がった渡の足を自分の手の甲で軽くたたいた」という一文。

 

拷問という語が繰り返し出てくるが、感嘆符も伏字にされ、「感嘆符二つ」などと原文の説明書きがあった事実に思わず笑ってしまった。

 

特高を舐め切ったような渡と、舐められた特高の対比が鮮烈に表現されているのである。

 

ここにこそ、多喜二の反骨精神が凝縮されている。

 

だから、とんでもない映画になった。

 

商業映画と段違いに一線を画すこの作品が、一般受けせずに長くDVD化されなかった事情がここにある。

 

イデオロギーに縛られることなく、徹底的なリアリズムに拘泥したことで、解放同盟との確執があっても名画『橋のない川』を完成させた今井正監督の真骨頂が本作にも貫流されていて、その変わらぬ作家精神に脱帽する限りである。 

橋のない川』より


その作品が多くの人に観られるべき映画監督であると、常々思うところである。

 

 

 

5  負の歴史の相続放棄は許されない

 

 

 

本稿の最後に、客観的資料・論説を提示しておきたい。

 

以下、「しんぶん赤旗」からの転載。

 

【小林多喜二の死は、翌21日の臨時ニュースで放送され、各新聞も夕刊で報道しました。しかし、その記事は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」(毛利基警視庁特高課長談)など、特高の発表をうのみにしただけでした。そればかりか、特高は、東大・慶応、慈恵医大に圧力をかけ、遺体解剖を拒絶させ、真相が広がるのを恐れて葬儀に来た人を次々に検束しました。

「検事局は、あくまでも心臓マヒによる病死と認める。これ以上、文句をいうなら、共産党を支持するものと認めて、即時、刑務所へぶちこむぞ」と、検事の一人が大喝して電話を切ったという事実も書き残されています。

 

戦前でも、拷問は禁止されており、虐殺に関与した特高警察官は殺人罪により「死刑又は無期懲役」で罰せられて当然でした。しかし、警察も検察も報道もグルになってこれを隠し、逆に、天皇は、虐殺の主犯格である安倍警視庁特高部長、配下で直接の下手人である毛利特高課長、中川、山県両警部らに叙勲を与え、新聞は「赤禍撲滅の勇士へ叙勲・賜杯の御沙汰」と報じたのです。1976年1月30日に不破書記局長(当時)が国会で追及しましたが、拷問の事実を認めず、「答弁いたしたくない」(稲葉法相)と答弁しており、これはいまの政府に引き継がれています/「小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったの?」2007・2・17】

 

【拷問を認めた制度は、徳川時代の幕府法令による「拷問法」を手直ししただけで、明治政府になってからもつづいていました。近代国家の警察として自白絶対必要主義を証拠主義に改め、拷問を禁止したのは1879年10月でした(太政官布告「拷問無用、右に関する法令は総て削除」)。この太政官布告と刑法による拷問の禁止は、法律的には敗戦後まで存続していました。

しかし実際には、拷問は、日常茶飯事におこなわれていました。とくに1928年3月15日の共産党弾圧の後は、拷問の目的が自白強要だけでなく、小林多喜二や岩田義道(日本共産党幹部で34歳で拷問死。多喜二同様に心臓衰弱とされた/筆者注)のときのように、虐殺を目的にした行為に変質しました。戦前、特高の拷問で虐殺されたり獄死したりした人は194人、獄中で病死した人は1503人にのぼります(治安維持法国家賠償要求同盟調べ)。/「戦前も拷問は禁止されていたのでは?」2006・3・15】

 

拷問死したのは小林多喜二だけではなかったのである。 

小林多喜二

岩田義道/研究会がまとめた冊子を紹介する宮崎会長


1503人という数字には驚きを禁じ得ない。

 

何より看過できないのは、この国の政府は多喜二の拷問の事実を認めていないということ。

 

そればかりではない。

 

関東大震災での朝鮮人の虐殺についても認めていないのだ。 

歴史を相続放棄する国でいいのか


「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」

 

松野博一・内閣官房長官の記者会見での答弁である。 

記者会見する松野官房長官(8月30日、首相官邸)


以下、これも長いが、日経の記事からの転載。

 

【政府として何ら論評しないという姿勢には驚かされる。公的な資料がないとしても、おびただしい数の被害、加害、目撃証言が残されている。民間には虐殺事件を調査、研究した書籍、文献がそれこそ山のようにある。近現代史には日中戦争時の「南京虐殺」のように、事実関係をめぐって論争が続いている事案があるが、震災での虐殺事件に関しては従来そのような議論はほとんどなく、実証的歴史学では確定されたことだった。

 

(略)虐殺は日本人として目を背けたい事実である。「認めたくない。何か正当な理由があったはずだ」と考えたい心情は理解できなくもないが、そう主張するなら歴史の検証に堪え得る根拠を示さなければ、それこそ現代の流言になってしまう。 

関東大震災直後に強制連行される2人の朝鮮人(中央の白い服)の様子を描いた絵巻の一部=共同


(略)想起されるのが2015年の安倍晋三元首相による戦後70年談話である。その中に「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉があった。自分が生まれるはるか前の出来事で頭を下げ続けることを「理不尽」と感じる国民が多いのも事実であろう。ただ、注意すべきは、「謝罪」と「不都合であっても事実を検証し、教訓として次世代に継承する」ことを混同してはならないということだ。談話の言葉を〝誤解〟すると、不都合な歴史は引き継がなくていいということになり、形を変えた歴史修正主義になってしまう。 

戦後70年談話を発表する安倍首相(2015年8月、首相官邸)


(略)民法には負の遺産を引き継がなくてよいとする相続放棄制度がある。たとえば親に多額の負債があった場合、子は相続放棄を申し出ることによって、借財の負担を回避できる。ただし、この制度を利用すると、親が所有する預金、不動産などプラスの遺産も相続できなくなる。相続とは、正も負も併せて受け継ぐことであり、負の遺産を放棄して、正の遺産だけ都合よくもらい受けることはできない。それが人間社会のルールである。歴史にも同じことがいえるのではないだろうか。 

「関東大震災韓国人殉難者追念式」で式辞を述べる韓国の尹徳敏(ユン・ドクミン)駐日大使(9月1日、東京都千代田区)


(略)われわれ人類は生まれた時点でゼロからスタートするのではない。先人が築いてきた歴史を土台として新たな社会、文化、文明を作り上げてきた。人の長所、短所は表裏一体という。歴史の正も負も同じであり、不都合な歴史に目をつぶることは、誇れる歴史をも脱ぎ捨てて、丸裸の根無し草になるに等しい。

 

(略)松野官房長官のノーコメント姿勢が「歴史相続放棄」戦略だとしたら、過去の政治家の歴史認識発言のような物議を醸すこともなく、世の関心もほとんど引かなかったので、ある意味、功を奏したといえるのかもしれない。

 

(略)日本人の戦争記憶の形成を検証した「『八月ジャーナリズム』と戦後日本」(米倉律著)では、過去の戦争をめぐるメディアの報道が、日本人は戦争の被害者だったとする「受難の語り」に偏り過ぎ、負の側面の「加害」の視点が欠如していた問題を指摘している。広島、長崎の原爆被害と非核の訴えが世界、とくにアジア諸国に響かない要因もそこにあるという。地元広島での主要7カ国首脳会議(G7サミット)で核廃絶を世界に訴えた岸田首相はそのことをどう考えるだろう。/「歴史を相続放棄する国でいいのか」2023年10月30日】

関東大震災直後の状況

                    

「小林多喜二」という映画の中で、私たちが絶対に目を背けてはならないシーンがある。

 

多喜二の死に関して当時の特高課長であった毛利基(もうりもとい)の記者会見でのことである。

 

拷問の事実を完全に否定し、その死の原因を「心臓に急変をきたしたものだ」と説明した後、「ま、その辺のところは、どうぞ一つよろしく」と言い切ったのだ。 


初代特高課長の毛利基が多喜二虐殺に直接手を下したとも言われているが、それを検証する資料がないので、これ以上の言及はできない。

 

何より見過ごせないのは、特高とメディアの癒着を示すこの言辞にこそ、私たちが絶対に目を背けてはならない負の歴史の一端が窺えるということ。

 

「日本共産党潰滅・国家治安維持の功績によって昭和天皇から勲五等旭日章を受け勲章と杯が下賜された。終戦直後には東久邇内閣から『功績顕著』として特別表彰を授与された」(ウィキ)

 

毛利基が叙勲したこの事実が示す通り、共産党狩りに奔走した男の「仕事」は英雄的なことだった。

 

それをなお、我が国の政府が相続していない現実の重さ。

 

目を背けたい歴史であっても、私たちは負の歴史をも相続していかねばならないのである。

 

正の遺産だけ都合よくもらい受けることはできない。

 

負の歴史の相続放棄は許されないのだ。

 

それが人間社会のルールであるからだ。

 

(2023年11月)

 

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