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2021年9月19日日曜日

アンダードッグ('20) 前編   武正晴

 


<「何者か」に化け切れなかった男の痛みだけが広がっていく>

 

 

 

1  布団の中で咽び泣く男の、形容しがたい悲哀が晒されて

 

 

 

徹底的に被弾し、タオルを投げられ、呆気なくTKO負けに屈するボクサー・末永晃(すえながあきら)。 

TKO負けする末永晃

同上


裏寂れたジムに所属し、昼間はサウナで働き、夜はデルヘル嬢の運転手で糊口(ここう)を凌ぎながら、アンダードッグ(かませ犬)として、ボクシング人生を繋いでいる。

デルヘル嬢の運転手

 
娘(中央)を連れながら仕事するデルヘル嬢(左)


そんな男の前に、一人の若者が出現する。

 

宅配便の運転手をしながら、別のジムに所属し、これからプロテストを受けるという彼の名は、大村龍太(以下、龍太)。

 

龍太は、7年前の晃のライト級日本タイトル戦を観ていた。

 

「すげえ、いい試合だったよね。そっから全然ダメじゃん。すっかり、かませ犬みたいになって」

龍太

 

黙して語らない晃。

 

「あんたさ、夜中にいつも練習してんでしょ。なんで?…なんとなく、分かるけどね」

 

サンドバッグを叩きながら、それだけ言い捨てて、龍太は出て行った。

 

揺れているサンドバッグに向かい、叩く晃の脳裏に7年前の試合が過(よ)ぎる。 

7年前の試合がフラッシュバックする


壮絶な試合だった。 


インファイトで相手を追い詰めつつも、カウンターを受け、非情な10カウントで沈んでいく。 



これが、アンダードッグに成り果てた男のルーツだった。

 

妻子に逃げられ、共存するギャンブル狂いの父に金を渡す男は、サウナのバイトをし、事務所で麻雀に興じる。 

父に金を渡して、仕事に出かける晃(玄関の向こうに影が見える)

サウナのバイトをする



ボクシングジムの会長が、試合のオファーがあることを晃に伝えた。

 

「もう、止めとけ。前の試合から3週間しか経ってないのに。申し込んでくる方も、どうかしてるけどね」

「やりますよ」

「お前、パンチドランカー(脳障害のボクサー)になるぞ?」


「もう、なってますよ」

「もう一度、輝きたいなんて、思ってねぇだろうな?」


「なんすか?」


「そうやって、道を踏み外してしまう奴を、俺は何人も見たんだ。永遠に輝ける奴なんて、いないってのに、それを勘違いしちまう。もう一度、手に入れたいって、思っちまうんだよ。言っとくけどな、お前は2度と、あの時と同じような、輝きはできねぇぞ。だいたい、お前は、一度も輝いていねぇんだよ。それを勘違いしやがって。ボクサーで輝くのは、世界チャンピオンになった奴だけだ!かませ犬なんて、いらねぇんだよ。うちのジムは!」
 

「ボクサーで輝くのは、世界チャンピオンになった奴だけだ!」



最後は怒鳴り飛ばされながら、帰っていく晃。

 

その「かませ犬」の映像が、繰り返し映像提示される。 



プロテストの日程が決まったことを、知らせに来る龍太。 


テストマッチでの完璧な勝利だった。 


それを、晃は客席から見ていた。

 

帰り際、龍太に声をかけられ、彼の妻が紹介される。 

龍太と妻

そこに、何某かのサブストーリーが垣間見えるが、前編しか観ていないので、一切は不分明である。 

養護施設の子供にボクシングを教える龍太



再び食事に誘われたが、晃は仕事に託(かこつ)けて帰路に就く。

 

ジムの会長から、お笑い芸人の宮木瞬(以下、瞬)とのエキシビジョンマッチ(特例試合)への参戦を促される晃。 



バラエティー番組のコーナーで、プロテストに合格した瞬のマッチが取り上げられているのだ。 


その番組に出演し、シナリオ通りに演じる晃。


宮木瞬


父の出演する番組を見ている息子は、母の佳子に呼ばれ、途中でテレビを消す。

 

大物俳優の息子で、パッとしない芸人の瞬は、親の援助で野放図な生活を送っている。

 

その父から、薬物汚染の芸能界で、「二世タレント逮捕間近か」と報じられた週刊誌を突き付けられ、芸能界から足を洗うことを強く促された。 



そんな瞬は、芸人としての、うだつの上がらなさに苛立ち、夜中に走り込み、ボクシングの練習も真剣に取り組もうとするが、まともに相手にされることはない。

 

スパーリングでフルボッコにされ、遊び仲間が屯(たむろ)して、踊り狂っている自宅に帰っていくこともできない始末。 

踊り狂っている自宅に帰っても空気に合わせられず、ストレスが溜まってしまうのだ(左)


どこにも自分の居場所はなく、洗面所で涕泣(ていきゅう)する瞬。


 

しかし、翌日も、瞬はジムのトレーナーとスパーリングを続ける。 



―― その日がやって来た。

 

試合当日である。

 

前座を務める龍太の試合が始まった。 

龍太(右)


1回戦でTKOし、難なく、デビュー戦を勝利で飾った。

 

そして、テレビが入るエキシビジョンマッチが開かれる。 

派手なパフォーマンスで登場する瞬




客席には、瞬の父親も観戦している。

 

試合が始まると、瞬のパンチは全く当たらない。 


相手はプロボクサーなのだ。

 

第二ラウンドは、シナリオ通り、晃は一度だけパンチを受け、ダウンする。 



そして、第三ラウンドは晃が本気を出して、瞬をKOする番だった。

 

テレビとの約束事が終わったからである。 

「できれば、2ラウンドあたりで一度ダウンとかしてくれれば…」(右)


ところが、晃のパンチをボコボコに受け、何度ダウンしても起き上がる瞬。 



第4ラウンドでは、偶(たま)さか、当たった瞬のパンチに、晃がダウンしてしまうのだ。

 

風景に変化が見える。

 

満遍(まんべん)なく被弾しても立ち上がる瞬に、会場は盛り上がり、「宮木コール」が起こるという異様な景色が広がっている。 


 

まるで宮木瞬は、先制されても、相手に報復攻撃を加える能力、即ち、「第二撃能力」を有しているようだった。 

 

結局、晃は瞬を倒すことができなかった。

 

それをテレビ観戦する息子は失望し、会長は晃に引退勧告し、金銭を無心していた父親に至っては、ボクシングを辞めた方がいいと言う始末。 

最初は、父の強さを見るためにテレビに噛(かじ)り付く太郎

太郎の母はあきらめ顔

失望し、テレビを消してしまう太郎

KOできない晃に呆れて、この直後、引退勧告する会長

「もう、充分、頑張ったろう…」(児童期の晃に、ボクシングを教えていた父)


その夜、布団の中で咽(むせ)び泣く男の、形容しがたい悲哀が晒されていた。 


ラストカットである。

 

 

 

2  「何者か」に化け切れなかった男の痛みだけが広がっていく

 

 

 

この映画を観て、思い出した名画がある。 

 

マイケル・カーティス監督の「カサブランカ」である。 

リック(左)とイルザ


第2次世界大戦中、戦火が近づく仏領モロッコで、思いがけない再会を果たす男と女のラブストーリーとして、人口に膾炙(かいしゃ)されている。

 

女との再会を果たすためにのみ、男は仏領モロッコで酒場を経営するのだ。

 

愛し合っていた二人の関係が、女の突然の失踪によって瓦解してしまった。

 

「なぜだ?」

 

問い続ける男の自我は宙刷りにされ、ただひたすら、女を捜し続けるのである。

 

かつて存在していたはずのロマンスの復元を、その中枢に隠し込んで、執拗に追い求めるのだ。

 

拙稿 人生論的映画評論・続「カサブランカ」でも言及したが、男のこの心理を、私は「ピーク・エンドの法則」で解釈した。 


ピーク・エンドの法則


「ピーク・エンドの法則」 ―― それは、人間の「快・不快」に関わる記憶の多くは、固有の自我の経験の「ピーク時」と「終了時」の、「快・不快」の程度によって決定されるから、多くの楽しいエピソードや、苦痛を感じる出来事が記憶に残されていたにしても、経験の「ピーク時」と「終了時」の「快・不快」の記憶が、言わば、「絶対経験」として、いつまでも自我の奥深くに張り付き、その主体の人生に決定的な影響を及ぼしてしまうという理論である。 

イルザとの「ハネムーン幻想」(「ピーク時」)


これは、「プロスペクト理論」(人間は「損大利小」に振れやすいという心理)で有名な、アメリカの心理学者・ダニエル・カーネマンが、1999年に提示した行動経済学の仮説として知られている。 

ダニエル・カーネマン


この「ピーク・エンドの法則」を「カサブランカ」で援用すれば、酒場を経営する男にとって、経験の「ピーク時」であるロマンスの記憶が大き過ぎているが故に、「終了時」の別離がトラウマと化し、いつまでも、「快・不快」の記憶の圧倒的な落差を埋められないのだ。 

他の女(左)には興味がない酒場のオーナーのリック


だから、女を追い求めていく。
 



ここで、本作の「アンダードッグ」の主人公・末永晃も、同じ文脈で説明できる。

 

「ピーク時」である、「ランカー1位」という過去の「栄光」が、末永晃の「絶対経験」として固着しているから、いつまでも経っても、日本ライト級チャンピオンになれなかった、「終了時」のダークな自己像と折り合えないのである。 



プロ・アマ関係なく、基本的にボクサーは「チャンピオン」になるために試合に臨む。

 

末永晃と同様に、殆どのプロボクサーは「世界チャンピオン」にまで飛翔し得ないから、バイトをしながら露命を繋いでいる。

 

「ボクサーで輝くのは、世界チャンピオンになった奴だけだ!」 


末永晃が所属するジムの会長の言葉だが、ボクシングの世界で、「本物の栄光」を掴むことの難しさを、的確に、且つ冷徹に訓(おし)えている。

 

いずこのジムの会長も、末永晃がそうであったように、可愛がって育てた時代(短い「ピーク時」)が、呆気なく通り過ぎてしまえば、営業リスクとの振り合いの渦中で、当該選手を辞めさせる負荷を課して、「残り時間」の処理に関わる苦労が絶えないのだろう。 

【「あいつら(テレビ局)が言うように、どうせエキシビションだ。八百長と変わりない。それぐらいやってやれ。この際、万が一、お前が負けたところで、お前の価値は変わらねえよ」】


自らの「残り時間」の処理について、末永晃もまた、葛藤する日々を繋ぐ。 


「俺は何者なのか」

「俺は何者だったのか」

「俺は何者に化けていくのか」

 

未来に架橋できない男の内側だけが揺動し、震えている。 



グラスジョー(KO負けが多い選手)に馴致(じゅんち)することを心の中で否定しつつも、試合に臨む末永晃が、「ピーク・エンド」の呪縛に囚われても、なお、止まった「時間」を駆動させようとする、小さいが、しかし、それなしに済まない意思を切断できないのは、男の内側に、こういう意識が張り付いているのではないか。

 

「相手がロープに救われただけで、倒れた自分は運が悪かっただけ」


男の「終了時」に対する、この消し難い意識が違和感を澱(よど)ませ、男の〈現在性〉との乖離を無意識裡に膨張させてしまっている。

 

しかも相手は、世界を制覇するという快挙を成し遂げるのだ。

 

だから、「引き際」という観念が捨てられていた。 

会長からエキシビションマッチを引き受け、引退を勧められる男

「大変なんだよ。ボクシングで生きていくのは」


「自己未完結」のまま、燃え尽きてしまうこともできない男の自我が宙刷りにされ、出口の見えない闇の向こうに呑み込まれていく。

 

かくて、「引き際」という観念を捨てた男が「アンダードッグ」に成り果てていく。 



もう、「運・不運」の問題に収斂されなくなったのだ。

 

そして、もう一つ。

 

これは、「ピーク・エンドの法則」とリンクしないが、トランクスに張り付いている「我が子・太郎」への複層的な思いが、どこかで残像化していること。


 

「お父さんは、『何者か』であり、これからも、『何者か』である」

 

この思いを身体表現したいが、それが儘(まま)ならない。

 

儘ならないこの状況を、ブレークスルーし得ないジレンマを抱え込み、「時間」を駆動させられず、流れいくだけの不具合な現象。

 

だから、沈んでいってしまうのか。

 

止まった「時間」が生む、「空疎な自己像幻視」という厄介なリアリティ。

 

この複層的な情感系が、男の自我の底流に澱(よど)んでいるのだ。 


この辺りが、映画の本線になっている。

 

男が抱えるトラウマもまた、複雑な感情に囚われている。

 

「我が子・太郎」に対する男の屈折的な表現が、長尺な映像の中で拾われていた。

 

以下、公園で久々に会った息子・太郎との会話。

 

「お父さん、いつまでボクシングするの?」

「なんで?」

「だって、お父さんがボクシング止めたら、また一緒に住めるんでしょ?僕、お父さんが強かった時のこと、知ってるよ。iPadで調べれば、お父さんの試合も出てくるし、記事もたくさん見た。だから、もし、子供にいいとこ見せたいとか…もうちゃんと分かってるよ。大丈夫だよ」 


最も答えにくい発問に対し、沈黙の中から言葉を返す父・晃。

 

「お前、いつの間にそんなこと言えるようになったんだよ。え?」

「大丈夫だよ」 


バツが悪いのだ。

 

もう、言葉を繋げない男が、そこにいる。

 

それでも、男は拘泥する。

 

「お父さんは、『何者か』であり、これからも、『何者か』である」

 

【母が待つアパートに帰っていく太郎を見つめ続ける男の表情が、とても胸を打つ】 



かくて、男の身体表現が、ラストを埋めるリングの只中で炸裂せんとする。

 

男は本気だったのだ。

 

テレビの向こうにいる「我が子・太郎」に対してのみ、男のファイトが届けられるのである。 


テレビの「遊びごと」に、ほんの少し付き合うが、それを済ませたら、プロボクサーに化け切っていく。

 

その心積もりだった。 



しかし、男の見る景色は、男の甘い観念を打ち砕いてしまう。

 

思うに、男の相手になる芸人ボクサーもまた、抑えがたい煩悶と葛藤を経由して、後楽園ホールという聖地に立ち、自らを決定的に変えるための全人格的な身体表現を駆動させるという壮絶なリアリリズムが、全開するからである。 

          「もう、止めるか」(セコンド)「止めるわけねえだろう」(瞬)



芸人ボクサーは本気で立ち向かい、リングの中枢で死ぬ気だったのだ。
 



だから、厄介だった。

 

壮絶な殴り合いの様相が、イメージに結ばれる。 



所詮、相手は素人ボクサーであっても、死を覚悟した者のアナーキーな暴走が、リングを血で染め抜いてても、「宮木コール」が響くホールで、風景を一変させていく。 



止まった「時間」を駆動させようとするプロボクサーの本気が、最後に爆裂するが、どうしてもKOできないのだ。 

エキシビションマッチ後には、病院送りになる芸人ボクサー(なぜ、レフリーストップしなかったのか。不思議でならない)


KOできない父親を、「我が子・太郎」はテレビ画面を通し、視認してしまった。 


父親の不甲斐なさだけが、少年の脳裏に焼き付くのだ。 


「お父さんは、『何者か』であり、これからも、『何者か』である」

 

この父親像に、罅(ひび)が入ってしまって、何かが変色し、何かが壊れいく 。

 

どうしても、そこに辿り着かねばならない男の旅は、結局、「『何者か』に化け切れなかった自己像」と出会ってしまったのである。

 

もう、「『何者か』に化け切れなかった」男は、リングから追放されるだろう。

 

「何者か」に化け切れなかった男の痛みだけが広がっていくのだ。

 

男の悲哀だけが晒されてしまったのである。 


それが、ラストカットの意味である。

 

そういう映画ではなかったか。

 

―― 「性」と「暴力」という親和性。

 

この狭隘で、古典的価値観に依拠するだろう発想は、精緻なルールを有する「近代スポーツ」としてのボクシングを、「ファイトクラブ」の如き「命の出し入れ」という観念で疑似武装しているが故に、メディアが主導する信じ難きエキシビションのゲームを、実質、TKOであるにも拘らず、レフリーストップやコミッションドクターの介在の余地のない、焼け野原のボクシングフイールドに変容させてしまった。 


映画「ファイトクラブ」より


繰り返される性描写には、正直、食傷気味。

 

「性」と「暴力」という古典的価値観に依拠しているとしか思えなかった。


エンタメとして、それでいいという括りが読み取れる本篇は、男を演じた森山未来の独壇場の世界だった。 

武正晴監督

武正晴監督(左)と森山未来

(2021年9月)

3 件のコメント:

  1. 毎回楽しみにしております。
    新しくアップされていると嬉しくなります。

    なかなか読み取りづらいストーリーも明快に解説されている点や、とてつもなく深い考察力、そしてなんと言っても人生論的な捉え方。映画のストーリーや主人公に自分を重ねて、反省したり、後悔したり。いろいろと思い巡らせております。

    好きな映画に引っ張られてしまう人生ってあるのでしょうか。私は「黒い瞳」でマストロヤンニが演じた初老のロマーノや「トト・ザ・ヒーロー」で自分の人生を取り返すトマを好きでしたが、その時は映画として単純にその映画を好きだったはずなのに、どうしてか主人公の人生に自分の人生が近づいていっているような気がして、映画のリアリティーさに怖いくらいです。
    「カッコーの巣の上で」を見た時から映画にどっぷりハマっています。まさかマクマーフィーのようにはならないと思いますが、ひどい強迫性障害を隠し持っていて、常につまらない決まり事を気持ちよくクリアするために時間を無駄にしていることを考えると、もしかしたらという気もしなくもありません。
    そんな悲しい人生論しか持っていませんが、こちらをずっと楽しく読ませていただいていることだけは確かな事であります。  マルチェロヤンニ

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  2. いつもコメントをありがとうございます。
    継続的に読んでくださり、とても励みになっています。
    なかなか面白い映画がないと言いつつ、観ればそれなりに人生が語られていて、共感するものが見えてきます。
    「トト・ザ・ヒーロー」は今でも情景が脳裏に浮かんでくる、忘れ得ぬ作品です。「人生だったよ」という一言に全てが集約され、主人公のがストレートに伝わってきて胸を打たれます。私自身は、主人公に重ねることはないのですが、映画の中の人生に触れ、精神浄化しているのかもしれません。

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  3. さようなら この世よ さようなら
    わが町も 元気でね
    お母さん お父さん さようなら
    時を刻む時計も
    ヒマワリも元気でいてね
    おいしい食べ物も コーヒーも 新しい服も
    あついお風呂も
    眠り 目覚めることさえも
    あまりに美しく
    誰もその真価を知らなかった この世よ
    さようなら

    韓国のドラマ「マザー」で、主人公の母親(舞台女優の設定)が病気で亡くなる際、娘が誘拐していた子供を抱きながら、心の中でささやく言葉です。
    戯曲「わが町」の一節ということですが、生きているその時の大切さを実感してほしいというメッセージを超えて、何か伝わってくるものがありました。
    実際、このセリフの後、母親は「お母さん」と最後の言葉を口にしながら息絶えますが、ドラマに全く登場しない、主人公の祖母を想起させることで、さらに深い物語となっていました。

    ご返信ありがとうございました。
    時々、こんな素晴らしい作品に出合えるのが、とてもうれしいです。
    マルチェロヤンニ

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