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2014年1月18日土曜日

カサブランカ(‘42)      マイケル・カーティス


<プロパガンダ映画の厭味を感じさせない、「大人のラブロマンス」の心理的風景>




1  闇のスポットで虚しく揺曳する、運命的な再開を果たした男と女の残影



本作は、「自由と正義の国・アメリカ」という名の「パラダイス」への旅立ちと、そこでの反独レジスタンスの雄々しき継続という、「明白なる使命感」に結ばれるラストシーンに集中的に表現されているように、どこまでも「悪玉・ドイツ退治」を国是とするルーズベルト政権に対する、ハリウッドの全面協力によって成った典型的なプロパガンダ映画(アメリカ政府の横断的な情報宣伝機関である「心理戦局」が大きく関与)であることを認知しつつも、本稿では、その辺りの言及を一切回避し、比較的良くできた「大人のラブロマンス」の心理的風景を基幹テーマに据えて、批評を繋いでいきたいと考えている。

従って、この映画は、「別離のトラウマ」によって深々と自我が抉られ、そこに張り付いてしまったネガティブな記憶の中枢を、汎社会的な理念の内に自己完結させていく男の物語であるということ。

これが、私の基本的解釈である。

男の名はリック(リチャード)。

「別離のトラウマ」の故に、第二次世界大戦下の仏領モロッコの都市カサブランカで、ナイト・クラブを経営するニューヨーク生まれのアメリカ人である。

このリックが負った「別離のトラウマ」とは、素性の知れない女との「ハネムーン幻想」が、女からの「別れの手紙」によって、一瞬にして瓦解するに至った出来事のこと。

「君は何者なんだ?」

そう言いながらも、「ハネムーン幻想」を愉悦し、凝縮された至福の時間が呆気なく自壊してしまったのである。

イルザ
女の名はイルザ。

リックとイルザの「ハネムーン幻想」が呆気なく自壊してしまった場所は、ナチス・ドイツの傀儡(かいらい)政府であった、「ヴェルダンの英雄」フィリップ・ペタン率いるヴィシー政権下のパリ。

1940年のドイツ軍の侵攻によるパリ陥落直前のパリで、「懸賞金がかけられている」リックは、イルザを待つ駅のホームで、弾丸の雨に濡れながら途方に暮れるばかりだった。

「もう、お目にかかれません。何も聞かないで。”私が愛していることを信じて下さい イルザ”」

イルザからの、信じ難き「別れの手紙」の文面の全てである。

以降、リックは、中立政策を執ったサラザール政権下のポルトガル経由で、アメリカへの亡命を図ろうとする人々でごった返すカサブランカの街の一角で、未来の安全を保障し切れない日々を繋いでいた。

欧州の戦災にインボルブされる事態を忌避した人々は、未だ、ドイツ軍に占領される前のフランス保護領の街に蝟集(いしゅう)していたのである。

そして、遂にやって来たイルザとの再会は、思いも寄らない形で実現した。

 あろうことか、夫と思しき男と共に現われたのである。

男の名は、ビクトル(ビクター)・ラズロ。

 ナチの強制収容所を脱出した過去を持つ、チェコスロバキア出身の、気骨のあるレジスタンスの指導者である。

 彼らの目的は、アメリカへ渡るための通行証を手に入れること。

 後述するが、二枚の通行証を探しあぐねていた二人は、最終的に、ナイト・クラブを経営するアメリカ人が持っているという情報を掴んだので、必然的にリックと会う流れに振れていく。

 そのリックは、通行証を盗んだ常連客のウガーテという闇のブローカーから保管を頼まれ、咄嗟にピアノの中に隠し込んでいたのである。

 殺人容疑で、警察署長ルノーから追われるウガーテが、逃亡に頓挫し、リックの店で射殺されるに至るが、リックに助けを求めるウガーテが捕捉される状況下に立ち会っても、「巻き添えはごめんだ」と言って無視するリックの態度には、一貫して、彼流のニヒリズムが貫流されているように見える。

「君は意外に人情がある」

左からリック、ルノー署長、ラズロ、イルザ
これは、ルノー署長のリック観だが、ラストシークエンスへの伏線にもなっていた。

「ラズロの件なら、私は見物人だ。政治の話はご随意に。私は関係ない」

これは、ラズロに通行証を手に入れさせることなく、仏領モロッコの都市カサブランカに閉じ込めておこうと画策する、ドイツのシュトラッサー少佐に言い放ったリックの言葉だが、この時点で、彼は未だイルザの存在に気づいていない

 以下、そんなリックとイルザとの再会のシーンをフォローしていこう。

昔馴染みのピアニストのサムに、「As Time Goes By (時の過ぎ行くまま)」の弾き語りを求めるイルザ。

歌うサム。

「この曲は、もう弾くなと言っただろう」

イルザとの「ハネムーン幻想」を、忘却の彼方に押し込めたいリックが、サムに注意する。

それが、イルザを視認した瞬間だった。

イルザと目が合って、言葉に詰まり、ただ見詰め合う二人。

ショックを隠せないのだ。

サムの演奏も中断されていた。

しばらく、見つめ合う二人。

それだけだった。

その夜、閉店後の店で、遅くまで深酒するリック。

イルザとの「ハネムーン幻想」
イルザとの「ハネムーン幻想」の、目眩(めくるめ)く愉悦の日々の回想が、「別離のトラウマ」の辛さを、否が応でも引き摺り出してくるのだ。

「世の中には、たくさん酒場があるのに、なぜ、ここに来た」

深酒しながら、愚痴とも思える言葉を吐き出す男。

イルザがリックの前に現れたのは、そんなときだった。

以下、生産性のない二人の会話。

「お話があるの」
「一緒に飲もうと思って、待っていた」
「今夜はダメ」
「今夜だからだ。なぜ、カサブランカに来た?」
「あなたがいるなんて。知らなかったの」
「声は変わらんな。今も耳に残ってる。”リチャード。あなたとどこへでも行くわ”」
「やめて。あなたの気持ちは分るわ」
「気持ちは分る?何日、一緒にいた?」
「数えてないわ」
「俺は数えた。最後の日が最高だ。雨に濡れて、駅のホームに佇む男。ノックアウトされて、バカ面下げて」
「私の話も聞いて」
「結末は?」
「分らないわ」
「話せよ。そのうち見えてくる」
「オスロから出て来た一人の娘が、夢のように著名な人物にパリで会ったの。勇気ある立派な男性。彼は、娘に素晴らしい世界を教えた。娘は生まれ変わったわ。そして、彼に対する尊敬の念を。愛だと思ったの」
「美しい話だ。そういう話はよく聞いたよ。どこかの店のピアノの伴奏付きでな。”若い頃、ある男性に会ったの”。どっちもつまらん話だ。それで、あのときの男は?ラズロか、別の男か?それとも秘密か」

そこまで厭味を言われて、会話の不毛性だけが、色彩のない闇のスポットを暗欝にするばかりだった。

去っていく女。

誰もいなカウンターテーブルに、顔を埋める男。

あまりにも寒々しい風景イメージが、運命的な再開を果たした男と女の、その特化された闇のスポットで虚しく揺曳していた。



2  「ピーク・エンドの法則」で説明される、主人公・リックの「別離のトラウマ」



「経済は感情で動いている 」という視点から、人間の経済行動にアプローチする「経済行動学」の知見に、「ピーク・エンドの法則」という注目すべき仮説がある。

ダニエル・カーネマン
「プロスペクト理論」(人間は「損大利小」に振れやすいという心理を分析した行動経済学の仮説)で有名な、アメリカの心理学者・ダニエル・カーネマンが、1999年に提示した仮説として知られている。

これは、人間の「快・不快」に関わる記憶の多くは、固有の自我の経験の「ピーク時」と「終了時」の、「快・不快」の程度によって決定される法則という風に解釈されている。

たとえ、その経験の中に、多くの楽しいエピソードや、苦痛を感じる出来事が記憶に残されていたにしても、経験の「ピーク時」と「終了時」の「快・不快」の記憶が、言わば、「絶対経験」として、いつまでも自我の奥深くに張り付いてしまって、その主体の人生に決定的な影響を及ぼすが故に看過し難いのだ。

このダニエル・カーネマンの興味深い仮説を援用して、以下、物語の主人公・リックの「別離のトラウマ」について考えてみたい。

何より、リックにとって、自我の安寧の拠って立つ基盤には、それ以外にない結婚相手として考えていたイルザの、その眩いばかりの存在それ自身だった。

言うまでもなく、イルザとの「ハネムーン幻想」こそ、リックの人生の歓喜の「ピーク時」であった。

その「ハネムーン幻想」が、あの雨の日、唐突に崩れ去ったのである。

しかも、「私が愛していることを信じて下さい」などという「心地良き」メッセージを残して、突然、彼女は消えたのだ。

最愛の恋人との別離の理由が理解できずに、「ハネムーン幻想」の「終了時」を経験した残酷さが、リックの自我を襲撃する。

なぜ、彼女は、愛しているのに、私から離れていったのか。

愛しているというのは、単なる口実なのか、

彼女に、一体、何があったのか。

何もかも不分明なのである。

だからこそ、今まで以上に、男は特定の女の行方を求めざるを得ない。

特定の女との別離の理由を求めざるを得ないのだ。

イタリア領東アフリカの、エチオピアの独立戦争の戦士たちに武器を売り、スペインの人民戦線にも参加し、パリでも闘ったことで、ナチス・ドイツのブラックリストに載っているリックが、今にも、ドイツに支配されかねない北アフリカの、無国籍の臭気を漂わせる危うい街の一角で、ナイトクラブを経営するに至ったのは、イルザとの再会を切願する強い思いからであった。

しかし、待てど暮らせど、イルザは現れない。

リックの自我は、いつしか空洞化し、かつての人民戦線兵士とも思えない、底なしのニヒリズムの世界に嵌っていったのは必至だった。

「きのうの夜はどこにいたの?」
「もう忘れたよ」
「今夜、会える?」
「先のことは分らん」

イボンヌとリック
これは、愛人のイボンヌと交わした短い会話。

あまりに有名なリックの「決め台詞」だが、愛人を持っても、心から情動が振れていかない男の自我の表層に張り付いてしまった、心の闇を照射しているのである。

リックの心の闇のルーツ ―― それは、イルザとの「別離のトラウマ」によって被弾した、彼のネガティブな心象風景そのものであると言っていい。

この心象風景が、未だ軟着し得ないリックの人生の、その「終了時」の忌まわしい記憶として、彼の「非日常の日常」の時間が彩る、くすんだ風景のイメージを決定づけているのだ。

前述したような、真摯な会話を求めてきたイルザに対する、深酒の中でのリックの厭味応酬は、彼女に惹起した複雑な事情を聞くに足る、誠実な態度を身体表現することを拒み、ひたすら、「自分を裏切った女」への「怨み節」に終始してしまった心理が発動してしまったものである。

敢えて、攻撃的な態度を目一杯押し出し、彼の自我の表層に張り付いたネガティブな記憶の中枢を吐き出すことにあったが故に、恐らく、それ以外にない屈折した反応に流れていったのであろう。

そこには、攻撃的な態度の押し出しのうちに隠し込んだ、「防衛機制」のメンタリティが潜んでいたとも言えなくもない。

「俺はもう、これ以上、君の言い訳など聞きたくもない」

そんな感情が蠢(うごめ)いて、「話せよ」と言いながら、存分に偽悪的な言辞に振れていく。

その結果、相手の「言い訳」を封じてしまうのである。

しかし、この感情だけは、一方的に吐き出さざるを得ない何かだった。

そういう悲哀を感受させる二人の、どうしても避けて通れないコンフリクトではなかったか。

思うに、そんな態度に終始するだけでは、人生の「終了時」に被弾したリックの、「別離のトラウマ」の甚大さの闇の空洞感を延長させてしまうだけで、その「別離のトラウマ」が軟着し得るレベルの自己完結点に辿り着けないのだ。

だから、リックには、「恐怖突入」が回避できなかった。

酒の力を借りずに、イルザと向き合って話し合う必要があったのである。

それは、今や、再開前のリックが想像する、心地良きイメージと乖離する内実ではないことが織り込み済みであった。

それでも、「恐怖突入」せねばならなかった。

「別離のトラウマ」。

この厄介な異物を浄化することなしに、彼の人生は、「ピーク・エンドの法則」で言う、「終了時」の時間で凍結したままになってしまうのである。

以上の文脈で確認できる、リックの人生の風景イメージ ―― それは、「ピーク・エンドの法則」の「終了時」の破壊力が、如何に、人間の人生に決定的な影響を及ぼしてしまうかということを検証する端的な例であった。
  


3  プロパガンダ映画の厭味を感じさせない、「大人のラブロマンス」の心理的風景



「いずれ、ラズロを捨てて、俺のところに戻って来るさ」

翌日、イルザに昨夜の一件を謝罪しても、なお断ち切れない思いを吐露する男。

「ダメよ。彼は私の夫なの。パリにいたときからよ」

自分を憎んでいるリックの思いを知って、謝罪するリックを拒み、イルザは明瞭にそう言い切った。

再び、去っていく女。

現在のカサブランカ(ウィキ)
衝撃を隠し切れない男。

女に、ここまで言わせた心理的風景には、「怨み節」を吐き出す男に対する不快感もあるが、それ以上に、まだ独軍に占領されていないとは言え、親独の傀儡政府であったヴィシー政権下の、仏領モロッコの無国籍的な臭気の漂う大都市・カサブランカに閉じ込められて、アメリカへ行くビザを取得できない苛立ちと不安感が横臥(おうが)していた。

しかし、男もまた、女との「別離のトラウマ」が浄化できず、夫婦に対する不快感を隠し切れないのだ。

ウガーテの通行証をリックが保管している事実を知ったイルザは、再び、男を訪ねていく。

通行証を求めるラズロの申し入れが拒絶されたので、もう、イルザがリックに懇願するしかなかったのである。

それ以外に、レジスタンスの闘士の命を守る方略がないと、女は意を決したのである。

だから、男もまた、「恐怖突入」から逃げられなくなっていく。

今や、それなしに、「別離のトラウマ」を克服できないからである。

「ピーク・エンドの法則」で言う、「終了時」の時間で凍結したままになる自我の屈折の延長を、男自身が本来的に望んでいる訳がないのだ。

以下、そのときの会話。

「通行証、欲しさに何を言ってもムダだ。うるさくて、かなわんな」

機先を制する男。

「幾らでも出すから譲って」
「もう、話は済んでる」
「気持ちは分るけど、大きなものに目を向けて」
「彼が偉大だって話なら、もう、沢山だ」
「あなたも、同じ目的で闘ったでしょう」
「人のための闘いはやめた。自分のためだけだ」

去っていくいく男を追って、女はパリ時代の話に触れていく。

だから、防衛機制を張る。

「何を言っても無駄だ」

その場を離れる男の後方から、破壊力を増幅させた言辞が放たれる。

「僻んでいるのね。こんなときに、自分のことばかり。女のことで、世界に仕返しするなんて。意気地なし!」

嗚咽の中で、叫ぶ女。

そこに「間」ができる。

「ごめんなさい・・・あなたが助けてくれないと、彼はここで死ぬわ」
「俺もさ」

なお、突き放す男。

「分ってくれないなら、こうするしかないわ」

そう言うや、拳銃で脅す女。

「撃てよ。やってくれ」

男にとって、女の脅迫など、恐れるべく何ものもないのだ。

女も、覚悟を括ったようだった。

男も、もう、逃げられなくなった。

「別離のトラウマ」のルーツの原因を、今こそ、正確に知らねばならないのだ。

ここから、イルザの告白が開かれていく。

「あなたを忘れようとしたの・・・もう、二度と会うまいと、そう思ってたのに・・・」

ここまで吐き出して、女は堪え切れずに、男の胸に飛び込んでいく。
 
「あなたが旅立った日は、とても辛かったわ。どんなにあなたを愛していたか。今でも愛してる」

抱擁し、キスを交わす男と女。

まもなく、落ち着いて、女の話を聞こうと努める男。

然るに、この男は、夫を救うために、自分に銃を向けた女の豹変を信じるほど、非武装までにピュアではない。

既に、この時点で、男は察知している。

夫に対する女の愛が、自分に対するそれよりも遥かに大きく、異質であり、価値のある何かであることを。

それでも男は、永久に自分のもとに戻って来ない女の、予想される告白を受容するしかなかった。

「恐怖突入」の時間を開いてしまったからである。

だから男は、ただ、女の告白を受け止めるためだけに、そこにいた。

「それから?」

一貫して冷静な男の方から、女の告白の継続を促していく。

「結婚後、彼がチェコスロバキアに戻ると、ゲシュタポが待ち構えていた。強制収容所に送られたと新聞で知ったわ。数カ月後に、悪い知らせが届いた。”脱走を図って殺された”と。そして絶望の淵にいたときに、あなたに会ったの」
「なぜ、結婚を秘密にしてた?」
「ビクターが望んだことよ。友人にも知らせなかった。私の身を案じたのね。ゲシュタポに知れたら、同志にまで危険が及ぶわ」
「彼が生きてたことは?」
「パリを出る直前に、友人に知らされたの。パリ郊外に匿われて、病気だったの。もし、あなたに話したら、あなたまで危険な目に・・・あとはご存じね」
「結末がまだだ。今は?」
「今?分らないわ。あなたから離れられない」
「ラズロは?」
「出国させてあげて。運動に命を懸けてるのよ」
「だが彼は、君を失う」
「私、もうダメ。あなたなしで逃げられない。私、どうしたらいいの。あなたが考えて。皆のことを」
「そうしよう。君の瞳に乾杯」
「こんなに愛してるなんて」

左からラズロ、イルザ、リック
ここでリックは、イルザの愛の告白の本質を見抜き、騙された振りをするのだ。

これで、全てが終焉した。

「恐怖突入」の結果、イルザの本音が分ることによって、リックの内側に燻っていた「別離のトラウマ」が浄化され、彼の中で軟着するに至ったのである。

「ピーク・エンドの法則」の「終了時」の時間で凍結した、遣る瀬無くも歪んだ感情が解凍し、浄化されたのである。

「別離のトラウマ」を浄化した男の行動には、今や、選択肢が一つしかなかった。

リックが保管している二枚の通行証を、「大義」に生きる夫妻に譲ること。

それ以外になかった。

そのために、ルノー署長を騙して、ドラマティックなひと波乱を演出するが、そのエピソードは、本稿のテーマから逸脱するので省略する。

当然の如く、ハリウッド流の「予定調和」のハッピーエ ンドに収束されていくのは、この手の映画のルールであるだろう。

「彼女は夕べ、俺の部屋に来て、通行証をもらいに来た。手に入れようとして、愛してる振りさえした。君のためだ。俺の方は信じた振りをした」

 これは、別れ際に、ラズロに吐露したリックの言葉。

 
 「俺たちには、パリがある」

 この決め台詞は、同じように、別れ際に、イルザに吐露したリックの言葉。

 かくて、二人を乗せた飛行機は、宵闇の向こうに消えていく。

「別離のトラウマ」によって深々と自我が抉られたリックは、そこに張り付いてしまったネガティブな記憶の中枢を、今、汎社会的な理念の内に自己完結させていったのである。

―― 以上、プロパガンダ映画の厭味を感じさせない、「大人のラブロマンス」としては、充分に鑑賞に耐えられる作品になっていたと、私は評価している。

最後に一言。

この映画でリックを演じたハンフリー・ボガードの「格好良さ」のみが、「男の美学」として語られてきたことに対する大いなる違和感が、私にはある。

これまで繰り返し言及してきたように、ラズロとイルザ夫妻を、自らの命を懸けて救済するという「美談」には、九鬼周造が「いきの構造」で定義したように、「諦め」という観念が重厚に張り付いていることを認めざるを得ないのである。

主人公リックは、かつて愛した女と、その女の自我の安寧の絶対基盤である男との、分ち難い関係の強靭さを目の当たりにしたことで、彼の自我の表層に燻り続けていた「別離のトラウマ」が自己完結し得たのである。

だから、リックの行為は、決して「やせ我慢」という感情に支えられた、「男の美学」などという、定義困難な理念系によって収斂されるものではないのだ。

(2014年1月)




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