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2025年4月7日月曜日

あんのこと('24)  絶対孤独という地獄の淵で  入江悠

 


1  「去年捕まって、多々羅さんに出会って、止めるきっかけをもらいました。私みたいなバカでも、いつも優しく迎えてもらって、本当に感謝してます」

 

 

 

ラブホテルで身体を売る前に、オーバードーズの男に金を要求して揉み合いになり、倒れた男を放置して逃げ、警察に逮捕された杏。 


売春と違法薬物の常習犯である。

 

彼女の取り調べを担当したのは、多々羅(たたら)。

 

「令状持ってこいよ」と迫る杏に対して、多々羅は、「令状取ったら、即逮捕。情状酌量の余地が減る」

多々羅

 

「学校出てねぇから、難しいこと分かんねぇし」


「警察でも力になれることはある。シャブ止めたいなぁっていう気がちいとでもあんなら、ここで話した方が楽になる」
 


多々羅は、取調室で突然ヨガの音楽をかけ、ポーズを取り始めた。

 

「集中…脱力…放出…集中…お前もやれ…ヨガがいいんだよ、ヨガが。シャブ抜くには、規則正しい生活と適度な運動だ」 



その様子を見る杏が笑みを漏らす。

 

すぐに釈放された杏を待つ多々羅はラーメン屋に誘い、食べながら、シャブを抜くための自助グループ「サルベージ」のパンフを渡す。 

パンフを読みながらラーメンを食べる杏


古い団地のゴミだらけの自宅に戻るや、母親・春海は、「バアさん、ママ帰って来たよ」と寝たきりの祖母に声をかけると、這って出て来た。 

杏の母・春海/娘のことを「ママ」と呼ぶ

「お帰り」と祖母。

祖母

「ただいま」と杏。

 

何処に行っていたかを訊ねられた杏が、「ちょっと」と答えると、春海は激しく杏を折檻する。

 

「ババア、餓死させんのか!シャブ打つ金あるなら、家に入れろっつってんだろ!もっと、稼いで来い!早く、売って来いよ!」 


散々蹴られ、卓袱台(ちゃぶだい)を投げつけられる杏。

 

まもなく多々羅は杏を連れ、福祉事務所で生活保護の申請をするが、家族構成から皆で働けば家族分は稼げるはずだと断られる。

 

「生活保護は皆さまの税金を使わせて頂くわけなので」

「あんたも税金で給料もらってんだろ!俺もだよ!困ってる人間助けるのが、俺ら公務員の仕事だろが!ちゃんと仕事してくれよ」 


散々喚き散らした多々羅は、表に出たところで、杏にとりあえず売春を止めるようにと話す。

 

「薬抜くには、自分を大事にするとこからな。なんか、夢中になれるもの探せ…シャブ止めてんだよな」


「うん」

 

「サルベージ」に見学に来た杏は、グループの人たちの体験談などの談話を聞き、多々羅がインストラクターを務めるヨガを見ている。


ヨガが終わると、多々羅が参加者たちに訴える。

 

「20年30年止められても、たったの1回が命取りになった奴を、俺はたくさん見てきた。だから、まずは今日。それから、明日。クスリを使わなかったら、日記に〇を書け。一日一日の積み重ねだ。ちっちゃな一日が一週間になり、一か月になり、一年になる。いいか。積み重ねだ」 


多々羅の話を傾聴していた杏に、多々羅と親交があり、全国の更生施設を取材している週刊雑誌記者の桐野(きりの)が近づき、名詞を渡す。 

桐野

杏は介護老人施設で働き始め、初めてもらった安い給料で、日記帳とヨガマットを買った。 

介護老人施設で働く杏

祖母にケーキを買って帰り、食事の支度をしていると、泥酔状態の春海が男を連れ込んで来た。 

祖母にケーキを渡す

祖母を居間から連れ出した杏は、杏の給料袋やヨガマットに手を出す春海と揉み合いになり、鼻血を出す春海を面白がる男の手を払う。 



降り頻る夜の雨の中、杏を探す多々羅は傍らに座り込んだ杏を見つけ出し、泣き叫ぶ杏を「よーしよーしよし…大丈夫、大丈夫」と言いながら抱き締め、多々羅も涙を流す。 


サルベージでの多々羅と桐野の会話。

 

「なんで、介護施設じゃないと駄目なんですか」

「バアさんの介護できるようになりたいんだってよ。ガキん時、母親の暴力から守ってくれたことがあって、バアさんのことは好きだって言ってたよ」


「前に取材でお世話になったとこあるんで、相談できるか連絡してみますよ」

「頼むよ」

 

物語の展開は早い。

 

紹介された介護施設で採用が決まり、初任給を受け取ったは、多々羅と桐野と一緒に焼き肉店で食事をする。 


バッグから出した日記帳に、給料の“給”の漢字を桐野に教わり、書き込む杏。 


DV被害者が身を隠すシェルターに引っ越すことになり、自宅に戻ったが、ここでも母・春海と揉み合いになり、それを振り切って多々羅と桐野の元に足早に走っていく。 

意を決して自宅に戻る杏

杏を待つ多々羅と桐野

真っ先に多々羅が杏に気づき、「やったあ」と呟く杏を「よし、よし!よし、よし!」と言って受け止めるのだ。

走って来る杏
 


「やったあ」「よし、よし!よし、よし!」


シェルターに入り、杏はひらがなだらけの日記を書き続け、そこに多々羅に言われた通り、「〇」をつけている。



そして今、サルベージで初めて自分のことを語る杏。

 

「お金がなかったから、毎日スーパーを順番に回って万引きをしていました。それが学校にバレて、噂が広まって小学校に行かなくなりました。売りをやったのは12の時で、相手は母親の紹介でした。“私もやってんだから、ママもやってよ”って言われて…ママっていうのは、私のことで、母親が時々、私のことをママって呼びます。覚醒剤は16の時に、ヤクザみたいな男から勧められて、警察には捕まらなくて、止めるきっかけもなかったし、そのままズルズル使って。でも、去年捕まって、多々羅さんに出会って、止めるきっかけをもらいました。私みたいなバカでも、いつも優しく迎えてもらって、本当に感謝してます」 


杏は「ありがとうございます」と言って立ち上がり、頭を下げる。


仲間の大きな拍手が起こり、多々羅が「よく話した!」と繰り返して、杏を抱き寄せるのだ。 



働きながら、サルベージでヨガに打ち込む杏。 


そんな折、春海が杏の働く介護施設に乗り込んで来た。

 

入り口で保護者の自分に杏の給料を払えと騒ぎ立て、職員と揉めていることに気づいた杏が行くと、春海は杏に殴りかかる。 


いつも世話をしている老人が、杏を助けようと「止めてくれ~!!」と叫び、車椅子で突進するが、春海はその老人に襲いかかる。

 

杏が春海を引き剝がし、社長が大声で怒鳴ると、春海は一瞬ひるんだ。

 

「出ていけ!ここは俺の会社だ。出ていかないなら、警察に通報するぞ…110番!」 

介護施設を運営する社長


しかし、それでも春海は杏の腕を強引に引っ張り、「止めてよ!」と払われ転倒する。

 

「帰ってよ」

「バアさん死んだら、お前のせいだからな」 


春海は杏に捨て台詞を残して帰って行った。

 

桐野が慌てて駆け付け

 

社長は、雇用契約書に書いてあった実家の住所に給与明細を送って、杏の所在が分かってしまったと弁明する。

 

ロッカーから荷物を出して帰ろうとする杏を、社長が引き止めた。

 

「すいません…すいません」と涙を拭う杏。 


「あなたは母親と別々人間だ。あなたが母親の問題を背負う必要はない。あなたは自分が一番やりたいと思うことをやりなさい」

「はい」

 

杏は夜間中学に入学し、小学4年以来10年ぶりに公教育を受けることになった。 


早速、見学で授業に参加し、クラスメートと共に給食を食べる



杏の中で、何かが大きく変わっていくようだった。

 

 

 

2  「彼女は…クスリを止められていたんです…彼女はクスリを止められていたんです!彼女は…」

 

 

 

熱心にサルベージに参加していたが、最近辞めてしまったミヤビから連絡を受けた桐野は、喫茶店待ち合わせて話を聞く。

 

男を連れてやって来ミヤビは、LINEでの多々羅とのやり取りを見せた上に、携帯の録音声を聴かせ、入会カ月頃から多々羅よりセクハラを受けていた証拠を桐野に示した。 

ミヤビ


サルベージで多々羅の行動を注視する



その証拠の録音声を聞いた編集長。

 

「まるで昭和の悪徳刑事だ…リーク通りだ。多々羅は、サルベージ赤坂を私物化して女性に手を出してる。あと、人は被害者見つけて証言取るぞ」 



程なくして、新型コロナウィルス感染爆発が起こり、介護施設の非正規職員は自宅待機となり、夜間中学校も全国一斉の休校となった。 



桐野は多々羅を公園に呼び出し、ミヤビが提供した証拠を突きつけ本人確認をすると、多々羅は全ての質問に「ノーコメント」と返した。 


桐野は「一個人として」と前置きをして、杏との関係も問い質すが、逆に、多々羅も「一個人として」と言って桐野に訊ねた。 


「その記事が出たら、サルベージは終わる。通ってた奴らはどうなる。集まりを支えにして、クスリ止めてた奴らは」

「脅迫ですか?」

「最初から記事書くために近づいたのか」 


まもなくサルベージは閉鎖され、事件の記事が週刊誌に載った。 


桐野から週刊誌を渡され、杏はその記事に見入る。 


「杏ちゃんは、こういうの要求されなかった?」

「警察、警察はどうなんの?」

「多々羅さんは辞表出した。職務中の事件だから、多分、逮捕されて裁判になると思う」

 

杏は雑誌を桐野に突き返し、黙って去って行った。

 

杏は一人でいつものラーメン屋に入り、日記を書き、シェルターに戻って漢字の練習をする。 


隣室で子供の泣き声と母親の叱る声が聞こえ、集中できない。

 

翌朝、乱暴に玄関ドアを叩く音で起こされた杏が開けると、いきなり隣室の女が泣き叫ぶ男児・隼人を押し付け、1週間で戻るからと言い残し、一方的に金を渡して走り去って行った。 


泣き止まない隼人を抱えて、走ってドラッグストアに駆け込み、オムツを買ってその場で交換する。 


杏は店の前に置いてあったベビーカーを盗んで隼人を乗せ、帰宅した。 


隼人を公園で遊ばせ、食事を作って食べさせ、杏は隼人に愛情を注いでいく。 


杏が隼人を連れ散歩に出たところで春海が現れ、祖母がコロナに罹ったからどうしたらいいか分からないと、家に帰るように懇願する。 

【「バアさん、コロナ罹ったかも知んなくて、すげえ咳してるし、奥の部屋で寝てるから入れないの」と噓をついて、祖母のために介護施設に勤務した杏を戻す】


隼人を連れ実家に戻るや、晴美は泣き叫ぶ隼人を引き離し、刃物を出して金を作って来いと杏に命じ、「ガキ(隼人)殺すぞ!」とまで言って恫喝するのだ 

「ガキ殺すぞ!」

無理強いされた杏は、売春して稼いだ金を持って家に戻ったが、隼人の姿が見えない。

 

眠っている春海を起こすと、泣き止まないので児相を呼んで連れて行ってもらったと返答。

 

呆然とする杏は、「ほんと?ほんと?」と問うが、春海は「あっち行けよ」と足で杏を押し返す。

 

納得がいかない杏は、台所へ行って包丁を手にし、タバコを吸っている春海の前に立つ。

 

「お前、親刺せんのか?やれるものなら、やってみな」

 

杏の手から、包丁がずり落ちていった。 


街を彷徨う杏は、途中、電柱で飛べないカラスを見上げる。 



シェルターに戻った杏は、シャブを打つ。

 

隼人と遊んだ玩具を片付け、日記帳に向かうが耐えられなくなって、泣きながら過呼吸になる。 


泣きながら過呼吸になる杏

日記帳をレンジで燃やすがいったん止め、ページを破った後、再び日記帳を燃やす。 


杏はそのページを大事そうに胸に締め、ベランダに出て飛び降りてしまうのだ。 



現場に駆け付けた桐野は、その場に座り込む。 



桐野は接見室で多々羅と面会し、項垂(うなだ)れた。

 

「俺が、あの記事書かなかったら、多々羅さんが逮捕されなかったら、彼女は、まだ生きていたんですかね。サルベージも続いていて、多々羅さんがここにいなければ…杏ちゃん、死ぬ前に相談できたんですかね」


「…分かんねえよ、そんなことは」

 

嗚咽する桐野。

 

「これまで、見てきた経験上、薬物のせいで自殺する人は、殆どいないですよ。死ぬより、また使いたくなるからです…彼女が…彼女が死んだのは…彼女が死んだのは…それまで積み上げてきたものを、自分で壊してしまった自責の、自責の念だと思います。彼女は…クスリを止められていたんです…彼女はクスリを止められていたんです!彼女は…」 


多々羅の嗚咽も止まらない。

 

警察で、隼人の母親は杏の遺体の傍にあった日記帳の1ページを見せられた。 


「見覚えありませんか?」

「いいえ」

 

回りが焼け焦げたそのページを目にした母親は、その内容が理解できた。

 

「これ、隼人がダメなものです。アレルギーとか」

 

傍らにいる隼人に、「いっぱいご飯作ってくれたんだね」と声をかける。

 

「隼人と今、こうして一緒にいられるのは、杏ちゃんのおかげです。恩人です」 



情緒的なラストで、物語は閉じていく。

 

 

 

3  絶対孤独という地獄の淵で  

 

 

 

多々羅と出会わなかったら、光彩を奪われた閉鎖系の物理的時間の闇に、止むことなく押し込められていただろう。


多々羅と出会わなかったら、この閉鎖系の物理的時間の非日常の日常から、束の間、解放系の〈内的時間〉の生気が胚胎することなど思いも寄らなかっただろう。


 

心理学的に言えば、こういうことである。

 

希望すら持ち得ない非日常の日常の中枢に、唐突に侵入してきた時間の変容という、未だ手に入れたことがない〈内的世界〉が胚胎(はいたい)したことで、虐待サバイバーだった杏の中で希望の片鱗が表象化されてしまった。

 

多々羅との出会いによる表象化されてしまった〈内的世界〉が伏流となって動き出した時、もう、光彩を奪われた絶対閉鎖系の物理的時間を普通に繋ぐ行為に混迷が生じる。 


万引きの習慣を引き摺ることなく、安い給料で買った日記帳とヨガマットを、男を連れ込んだ母によって無碍(むげ)に弄(いじ)られ、かつてない怒りを覚えた杏が降り頻る夜の雨の中に打たれている。 

それまでの習慣で、日記帳とヨガマットを万引きしようと考えたが、思い止まった



〈内的世界〉が動き出したことで、絶望という異質の感情が暴れているのだ。

 

杏を探し出した多々羅は、泣き叫ぶ少女を抱き締め、「よーしよーしよし…大丈夫、大丈夫」と受け入れながら、共に涙を流す二人の心は溶融している。 


この映画で、最も重要なシーンである。

 

杏の「時間の変容」の胚胎をシンボライズする画が、そこに提示されたからだ。

 

ここから「時間の変容」が連射されていく。

 

クスリを止められた日に「」をつけていく日記の存在が、俄(にわ)かに不可欠なアイテムと化していく。 


ありのままの自分を受け入れてくれる自助グループの片隅に居場所を得て、生まれて初めて〈自己〉を〈開示〉する行為の決定力は、多々羅との出会いの最強の所産だった。

 

「毎日スーパーを順番に回って万引きをしていました。それが学校にバレて、噂が広まって小学校に行かなくなりました。売りをやったのは12の時で、相手は母親の紹介でした。覚醒剤は16の時に、ヤクザみたいな男から勧められて…そのままズルズル使って。でも、去年捕まって、多々羅さんに出会って、止めるきっかけをもらいました。私みたいなバカでも、いつも優しく迎えてもらって、本当に感謝してます」 


「よく話した!よく話した!」と繰り返して、杏を抱き寄せる多々羅。 


自己開示する心と、それを受け止める心が融解して、物語の一つの結晶点となる。

 

「よーしよーしよし…大丈夫、大丈夫」から「よく話した!よく話した!」までの長くて重い時間の遷移の中で、より重要なのは、杏が欠かすことなく日記をつけていたという行為である。

 

日記を綴ることで自己の内部に向かっていくのだ。 



自らを客観的に振り返るスキルであるメタ認知能力が生まれ、自我を確立していくことの革命的な「時間の変容」

 

〈内的時間〉の胚胎こそ、杏の革命的な「時間の変容」の須要(しゅよう)だった。

 

母によって歪められ、蝕(むしば)まれた思春期自我の生気が多々羅によって引き出され、可視化されていく風景が侵し難き身体言語と化した時、それ以外にない絶対言語となり、杏の〈内的世界〉を広げていくのだ。


 

日記を綴り、解放系の〈内的時間〉を自己運動化していく。

 

「職業」という異界に踏み込み、「学校」という別天地に身を預ける。 



そして何より、「サルベージ」という、感性の共有スポットが精神の成熟を約束する〈内的時間〉となる。

 

一貫して自分を守り切ってくれた多々羅の存在が〈内的世界〉の崩壊を防ぎ、崩されゆくことのない砦として機能していた。

 

多々羅の体温だけがの中枢を温めている。

 

そんな杏が多々羅を失ってしまう。

 

多々羅が抱える裏の顔を桐野から知らされるのだ。

 

自らが書いた週刊誌を見せつけられ、「職務中の事件だから、多分、逮捕されて裁判になると思う」と言われ、何も答えず、その週刊誌を突き返す杏。 


多々羅の裏の顔を暴くために更生施設を取材しながらも、彼との友情を繋いできた桐野にとって辛い伝達だったが、立ち所に知れる情報なので回避できなかった。

 

多々羅の裏の顔を知らされても、包容力のある多々羅の性向を疑わないには、最も信頼する男が消えていく現実だけは受け入れ難かった。

 

自己の中枢にが空いてしまう辛さは尋常ではなかった。

 

多々羅の二面性は、些か極端だが、ごく普通の人間が普通に抱える人間の様態であり、この人間の裸形の様態を否定し、複合的な人間を一元的に解釈する思考の誤謬・危うさに届かなくとも、多々羅によって形成された杏の〈内的世界〉が背負い込む時間の痛みを浄化するには、失った事態の早急な補填だけが求められた。

 

コロナ禍に遭って職と学校をも失ったばかりか、サルベージという絶対スポットすらも失ってしまうのだ。

 

更に、一方的に預けられた幼児・隼人の世話によって一時(いっとき)手に入れた至福の時間すらも奪われて、絶対孤独という地獄の淵に追い詰められていく 



母への殺意にまで振れても、その気力すらも絶え絶えになっていた。

 

求めても弾かれる杏の地獄巡りの行路が、ここから一気に、あってはならない収束点に向かっていく。 


心の負担の重さがマキシマムに累加され、極点に達した時、絶望を知った少女は今や、寄る辺なき境遇にあって、助けを求めるようにクスリに手を出し、僅かに残された体力・気力を総動員して、絶対孤独という地獄の淵自らを投げ入れていく。 

助けを求めるようにクスリに手を出す


映像が最後に提示したのは、嗚咽の中で漏らす多々羅の言葉。

 

「彼女は…クスリを止められていたんです…彼女はクスリを止められていたんです!彼女は…」 


最後までクスリに手を出さなかった

 

日記を綴り続けることで、少女の〈内的世界〉が保持されていたのである。

 

日記を綴ることを止めたとき、杏は絶対孤独を実感し、地獄の淵に身を投げ入れていった。

 

ここで、どうしても想起してしまうのは、子供は周りを見て学習してしまう(他者の行動を観察し、それを模倣する)というバンデューラの「社会的学習理論」(モデリング理論)である。 

バンデューラの社会的学習理論(モデリング理論)

バンデューラのボボ人形実験


杏の場合、万引き・売春・覚醒剤とエスカレートする不行状(ふぎょうじょう)は彼女の母の振る舞いを過剰に学習した結果であり、それが「ママ」とまで呼ばれて絶対依存される存在になり、暴力性をも帯びる関係を作り出してしまったから、風変わりな刑事・多々羅のような男と出会わなかったら「時間の変容」は困難だったように思われる。

 

その多々羅の後押しによって、日記を書き続けた杏。

 

シャブに手を出し、絶対孤独という地獄の淵に投げ入れていく直前まで、杏は日記を残していったのだ。 


これが堪らなく胸を打つ。

 

その杏の辛さを最も理解できた多々羅

 

多々羅は自らが全身で放出する体温で、杏を欲得なしで守り切り、彼女の〈内的世界〉への変容の伴走者になった男なのだ。 


多々羅の嗚咽は、最後まで杏を守り切れなかった男の無念の思いの発露である。

 

慚愧(ざんき)の念と言ってもいい。

 

この映画は、求める杏と、受け止める多々羅の物語だったとも言える。

 

(2025年4月)

 

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