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2022年12月27日火曜日

峠 最後のサムライ('19)  己が〈生〉を、余すところなく生き切った男の物語 小泉堯史

 






1  「武士の世は滅びる…この継之助も滅びざるを得ない。滅びた後、日本の歴史にかってなかった新しい世の中がやってくる」

   

 

 

「我らの見込みは、政権の奉還より外にない。この判断に、神君家康公の御偉業を継承する唯一の道である。幕府を倒そうと事を謀る一部の輩がおるとの噂がある。それを恐れてではない。彼らが何万あろうとも、討つに何の苦労もあるまい。現状を続けるとなれば、政権を投げ打つ以上の改革が必要である。例えば、今のような旗本、大名、全て廃さねば何もできぬ。しかしこれは、我と我が身で、骨や五臓六腑を摘出し切り刻むようなもので、到底できぬ今、天下の大名は戦国の頃のように割拠している。幕府の命令は無視され、このまま行けば、日本は三百の国に分裂し、戦乱に晒され、世は乱れ、国民は安んじ得ない。徳川家が政権を返上さえすれば、それが一つにまとまる。全ては、天下安泰の為である。このこと幸いに朝廷のお許しを頂き、王政、古(いにしえ)に服したと言えども、それにて責任を終えたるにはあらず。諸大名と共に、一大名として、朝廷の為、万民の為、この慶喜なお一層の心血を注ぐ所存。異存はあるか。あれば言え。なければよし。さらば徳川幕府の政権を朝廷に献上する」 

徳川慶喜/政権を朝廷に返還する「大政奉還」の上表





諸藩重臣に対して、二条城・二の丸御殿において、「大政奉還」の意図を伝える徳川慶喜の言辞から物語は開かれていく。 

二の丸御殿



「徳川慶喜公の生まれ育った水戸徳川家には、『大日本史』の編纂(へんさん)に着手した徳川光圀、水戸黄門様以来、云い伝えられた家訓があるそうです。“もし、江戸の幕府と、今日の朝廷のあいだに弓矢(戦争)のことがあらば、潔く弓矢を捨て、朝廷に奉ぜよ”。尊王の思い厚き慶喜公は、幕府の政権を放棄し、朝廷に恭順する道を選びました。1867年慶応三年、王政復古。しかし、薩摩の西郷隆盛、大久保利通ら、徳川慶喜の首を見ねば、維新の大事を成し遂げることはできないとの態度を堅持し、日本中を破壊し、焦土にする覚悟で掛からねばならないと、戦乱の道へと舵を切ったのです。大政奉還は、徳川慶喜公との意思とは異なり、日本を二分し、東軍・佐幕派と西軍・勤皇派の熾烈な戦い、「戊辰戦争」の幕開けとなりました。越後、高田城下に続々と集結した西軍は、そこで二手に分かれ、長岡城下を目指しました」(河井継之助の妻・おすがのナレーション/以下、ナレーション) 



以下、西軍との争いを危惧する川島億次郎(越後長岡藩士)に対する河井継之助の言葉。

 

「案ずることはない。戦(いくさ)はしてはならんでや。あくまで戦いは避ける。政治をもって片づけねばならん。そいは、東軍最大の佐幕派、会津藩の滅亡を目標としている。わしら長岡藩は、いずれにも付かず、両者の調停役になり、会津藩を和平のうちに恭順させ、西軍に対しても、会津藩の申し分を聞き入れさせて、今日の混乱を正す」

河井継之助(右)と川島億次郎



「もし、双方が聞かなければ?」

「その時は、聞かぬ側、それが会津であれ、西軍であれ、討つ。この長岡藩は、それによって天下に何が正義であるかを知らしめる」

「ご家老、あなたはあなたのご信念を、この藩に押し付けられまするか」

「君臣一念。まずは主君と心を一つにする。武士とは身命(しんめい)を主君にとくと奉(たてまつ)り、この世に立つことが根源であろう」 


継之助(つぎのすけ)の信念が判然とする言辞である。

 

おすがに髭を剃ってもらう継之助。 

おすが


夫婦の笑みが混濁した時代の空気を和ませている。

 

継之助は小山良運(りょううん)を訪ね、中立国スイスから来た貿易商の家に逗留(とうりゅう)していた際の、西洋人の語録を訳した書を見せる。 

小山良運


「民(たみ)は国の本(もと)、吏(り)は民の雇(やとい)。…役人は民の使用人か」 



この語に含まれる継之助の理念を理解する良運は、継之助が中央に出て国の方向を示すように勧めるが、継之助は凛として言い切った。

 

「わしはこの藩に閉じこもる。今、この河井継之助が天地に存在しているのは、兎にも角にも地球上から見れば、このちっぽけな越後長岡藩の家老としての立場だからね…わしは貿易商エドワルド・スネル(プロイセン出身の武器商人)から、西洋の列強でも持っていないガットリング機関砲(ガトリング砲)も買い入れた。アメリカ製のもので一度に360発。まるで水を撒くような勢いで弾が出る。こりゃ、驚きだぜ」 



薩長を批判すると同時に、幕府の無力を慨嘆する良運に言を尽くす継之助。

 

「長岡藩は既に自主・独立の体制を整えた。藩自らが唱える発言権を保持し、風雲の中に独立、そう思っとる…万一の場合、お世継ぎにはフランスに亡命していただく。地球は広い。その渡航の手続きは全てスネルと良運さんでやってもらいたい」

「心得た」

 

【良運は長岡藩の藩医で、河井継之助の藩政改革のブレーンとして名を残す】

 

その足で、継之助は藩主の牧野忠恭(ただゆき)に拝謁する。

 

「策はあるか、継之助」

牧野忠恭

「策は、ございません。百の策を施し、百の論を論じても、時の勢いという魔物には勝てません」

花輪求馬(右)

「では、どうすればよいのだ?」

「恐れながら、大殿様。殿様が、こうとお思いあそばせ、その『こう』のために藩士に先駆けて、お死にあそばせ。その気迫だけが我が藩を一つに致しまする」

「わしの腹は決まっておる。時世や理屈はどうであれ、徳川家を疎(おろそ)かにすることはできない。もし、ここで徳川のお家を見捨てたなら、自分はこの家代々の祖霊に合わせる顔がないではないか、継之助。徳川慶喜公の大政奉還は、大いなる功績。賊名(ぞくめい)を被せるなど以ての外(もってのほか)。薩摩長州の振る舞いを見るに言語道断、腹に据えかねる。わしは徳川家の為に体制を挽回せんと欲す」

「御意(ぎょい)にございまする…たとえ一藩たりとも、将軍家の無実の罪を晴らす藩がなければ、どうにもなりません。何の為に平安な300年があったのか。後世の者に笑われまする」 



その帰路、良運の息子・正太郎(しょうたろう)が継之助にお礼を言いにやって来た。

 

正太郎の描く絵を褒め、医者である良運に絵を続けることを勧めたからだ。

 

「武士の世は滅びる…長岡藩の禄を食む者として、この継之助も滅びざるを得ない。滅びた後、日本の歴史にかってなかった新しい世の中がやってくる」

小山正太郎


「それは、いつのことですか?」

「いつというものではない。正太郎の時代がそうだ。そなたには、絵の天分がある。己の好きなところを磨き、伸ばす。それが一番大切なこと。風景も美しいが、人物も描いてごらん…面でこそ、相手の心の機微が分かる」

 

【小山正太郎は近代洋画家として大成する。また岡倉天心の洋画排斥論に反対し、私塾を作り、青木繁を育てた教育者として名高い】 

小山正太郎(右)



その夜、芸者遊びが好きな継之助は、おすがを席に呼んで一緒に飲み、「長岡甚句踊り」を舞い、愉悦に浸る。 

長岡を代表する民謡《長岡甚句》/8月の「長岡まつり」でも民謡流しが行われている



時の流れが速い。

 

継之助は城内に全ての藩士を集め、主君の前で言い渡す。


「今より我々は、他(た)を頼むことはできない。我ら小藩と言えども、他を頼まず、独立自尊、自らの力を信じる以外に藩の生きる道はない!」 



この時、既に鳥羽伏見の戦いが勃発し、慶喜は朝敵の汚名を受けていた。

 

一方、継之助は、「人の心を穏やかにする不思議な機具」というスイス製のオルゴールを、おすがに贈る。 



時も時、東軍が小千谷(おぢや)にまで迫り、継之助は慈眼寺(じげんじ)での会談に向かった。

 

交渉相手は軍監・土佐藩の岩村精一郎。

 

継之助は、意見が二分している藩の意見を統一し、会津、桑名、米沢の諸藩を説得して、朝廷に逆らわぬように申し聞かせ、越後奥羽に戦いが起こらぬよう努める旨を伝えた。

 

そして、藩主からの嘆願書を差し出し、大総督府への取次ぎを申し入れる。

 

岩村は継之助の顔を見ることもなく、端(はな)から聞く耳を持っていなかった。 

岩村精一郎


「取次ぎはできぬ!嘆願書を差し出すことすら、無礼であろう。既にこれまでの間、長岡藩が一度でも朝廷の命令に応じたことがあるか!軍制を差し出せとの勅命に従わず、軍費三万両の献金に応じようともせぬ。長岡藩の誠意はどこにある!」 


岩村は、日延べと嘆願書の取り次ぎという継之助の要請を面罵(めんば)するのだ。

 

「戦いを避けるための嘆願書にござりますれば、是非ともお願い申し上げます…双方にとって、戦いは避けなければなりません」

「もはや、問答は無用である」

「その通りでござる」

「その通りならば、なぜ大人しく引き取らん。もはや、用はないはず」

「…ただ、せめて嘆願書だけは…」

 

傲岸不遜(ごうがんふそん)な岩村は怒り心頭に達し、取りつく島はなかった。

 

「…一人長岡藩のために申し上げているのはなく、日本国中、相和し、協力し、和平のもと、世界に恥じざる強国になれば、天下の幸い。これに過ぎません。詳しくは書中に認(したた)めてござる。伏して嘆願書のお取次ぎを」 


そう言うや、頭を下げる継之助。 



「くどい…帰って戦(いくさ)の用意をしろ」 



継之助は、一旦は引き下がるが諦め切れず、岩村への面会を頼みに行かせ、門前で夜まで待ったが、戻って来た部下が「もはや、万事休すでございます」と伝えることになった。

 

それでも継之助は帰ろうとせず、岩村に会おうと食い下がる。

 

その報告を聞く岩村。

 

「耳なきが如く、帰れ、帰れと言っても聞こえぬ素振りで立ち尽くし、時々、じっと月を見つめたり、歩き回ったりしております」

「追い払え。不貞な奴と言う外ない。あの男の眼中には、朝廷も官軍もない。砲弾を浴びせて目を覚ましてやるしかない男だ。…銃剣で追え」 



遂に継之助は、「己を尽くして、天命を待つ」と言葉を残し、去って行く。 



藩に戻った継之助は、「談判は不調だった」と告げ、億次郎と語り合う。

 

「この上は、武力に訴える外、我が藩の面目、意志あるところを天下に示す方法はない」


「まだ交渉の方策はあるはずです。短気はまずい」

「残る手段が一つある。わしの首と三万両の軍資金を持って、お主がもう一度西軍の元へ行くのだ…それによって和平を買い、西軍に降伏をする。それ以外に道はない」

「待った。待ってください。西軍に降伏することの結果は、降伏するだけでなく、会津藩を攻める先兵を命じられるということですか」

「当然、そうなる。今このご時世の中、日本男子たる者が悉(ことごと)く、薩摩長州に阿(おもね)り、争って新時代の側に付き、侍の道を忘れ、行うべきことを行わなかったら後の世はどうなる。長岡藩、全ての藩士が死んでも、人の世というものは続いていく。後の世の人間に対し、侍とはどういうものか知らしめるためにも、この戦いは意義がある」

「分かりました。美しく砕け散ると。今は是非もない。私は、あなたと生死を共にします」 

 

継之助の覚悟がひしと伝わってくる会話だった。 



【継之助の親友の億次郎は、長岡藩士・川島徳兵衛の養子となり、川島の姓を名乗るが、明治以後は三島億二郎と改名し、長岡藩知事として、疲弊した長岡の復興と近代化に尽力した】

 

その直後の映像は、全ての藩士に向かって、自らの覚悟を表明する藩主。 


「我が命を庇うために、長岡藩の正義を曲げる必要はない。この忠恭は、既に死んだものと覚悟している。継之助の思うがごとくせよ」 

藩主の言葉を受け止める長岡藩士/左から億次郎、継之助、花輪求馬、外山脩造



忠恭に向かって頭を下げる継之助一同。

 

そして、継之助の父・代右衛門がおすがに告げる。

 

「戦だよ。可哀そうに、あいつの夢が破れた」

「夢が、ですか?」

「際どい夢を見ていたんだよ。日本中が京都か江戸に分かれて戦争をしようという時に、長岡藩だけはどっちにも属せず、武力を整え、独立しようと思っていたんだ」

「独立?」


「この小さな藩が独立し、自分勝手な国を作れるかどうか、その際どさに継之助は自分の夢をかけていた」


「継之助さんは常々、戦をしてはならないと」

「これも時世だ。時代の大波が猛(たけ)り狂って、国境に迫っている。時世の咆哮(ほうこう)だ」

「戦をすれば、どうなるのでしょう」

「分からん。継之助に任せるしかない」

 

かくて、自らの思惑と乖離した状況に囲繞され、本篇の主人公は未知のゾーンに踏み込んでいくのである。

 

 

 

2  「世の中、これから面白くなる。長岡のような狭いところには住まず、船に乗って、世界中を周(まわ)れ。武士はもう、俺が死ぬが最後よ」

 

 

 

北越戦争の戦端の火蓋が切って落とされた。 



「榎峠、奪取に成功」(億次郎) 



以降、朝日山(現小千谷市)の戦いを含め、3か月に及ぶ熾烈な攻防戦が繰り広げられていく。



その渦中で、西軍が信濃川を渡ったという情報がもたらされ、継之助は機関砲を持ち出すことを命じる。

 

忠恭を会津に送り、領民を守ることを命じる。

 

【その後、牧野忠恭は北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。享年55】

 

城に戻った継之助は、ガトリング砲を西軍に向け砲撃するが、米沢からの援軍が到着せず、戦いにならないと言うや、城を捨て、ひとまず撤退することを命ずる。 



「会津、桑名、米沢、東軍の総力を結集し、敵の進軍を阻む!本丸に火を点けよ!」 

「城は建物に過ぎん。この建物を守るために我が藩が滅んでは何もならん」



その命で、長岡城に火の手が上がった。 



三藩が集まって話し合い、継之助を総督として反撃体制を整えていく。


 

西軍の陣営の弱腰を指摘し、長岡城の奪回を目指すことを確認する。

 

領民たちの遺体が転がる領地を回り、焼け出された赤ん坊を抱いた老人に、謝罪する継之助。 


「許してくれ…わしは必ず、長岡を回復し、きっとお前たちに報いる。」

 

継之助は、西軍に囲まれている、湿地帯なため通行不能の八丁沖(はっちょうおき)を徒歩で渡る計画を立て、上陸する奇襲作戦を実行し、長岡城の奪還に成功する。 

八丁沖を渡る



所謂、「八丁沖の戦い」である。

 

領民たちは喜び、「長岡甚句踊り」を舞い踊るのだ。 



継之助は、長年仕えてきた村の名代の松蔵を、両親の元に帰そうとするが、松蔵はそれを拒否する。

 

「私が藩の為に尽くす理由はないかも知れません。しかし、旦那様への御恩がございます」 



一方、松蔵の家に身を寄せている、継之助の両親とおすがは、西軍が押し寄せ、松蔵の家に迷惑がかかるので、濁沢(にごりざわ)村にある阿弥陀寺の月泉和尚(げっせんおしょう)の元に移ることにした。 

母のお貞(左)



しかし、継之助は左足に流れ弾を受け、重傷を負ってしまう。 

常に松蔵が勤仕(きんし)している



新発田(しばた/現在の新発田市)藩の裏切りにより形成が悪化し、西軍が大挙して押し寄せて来た。

 

北越戦争の行方が決してしまったのである。

 

「長岡勢が、長岡城を保ちえたのは、4日の間に過ぎませんでした。長岡軍は遂に城を放棄し、領土も放棄し、長い道のりを会津へと退却することになりました」(ナレーション)


 

【越後・新発田藩の裏切りは内戦を決定づけてしまった。藩主・溝口直養(なおやす)を補佐した藩の家老・溝口半兵衛が、高田の西軍と秘密裏に接触を続け、新発田藩が西軍に内応する交渉を進めていて、「八丁沖の戦い」の激戦下で東軍から離脱し、新発田藩領に西軍の増派部隊が相次いで上陸するに至ったからである】

 

 

阿弥陀寺に身を寄せる母・お貞に会津へ行くように促されるが、おすがは両親を守ることが務めだと、凛々しく答えた。

 

お貞は二人を見ていて思うところを語る。 

お貞


「愛するということは、お互いに顔を見合うことではなく、一緒に同じ方向を見ることなんだと」

 

おすがは、月泉和尚に自分の思いを語る。

 

「私は、ご両親様と共に生き抜き、河井家先祖代々の御供養の香華を絶やさぬよう務めるつもりです」

月泉和尚


「今死ぬのは易しかろう。しかし、これからの世、逆賊の汚名を着せられ、継之助の妻として生きるのは大いなる困難がある。悟りとは、如何なる場合にも平気で死ぬことではない。如何なる場合でも、平気で生きとることじゃでな。おすがさん、しっかりと生き抜きなされ」



「はい。河井継之助の妻として恥じぬよう、明るく、淡々と、ありのままに生きてまいります」
 

「たとえ、あなたの夢が破れたとしても、私なき誠を貫き、微動だにせず、侍として過ごされたあなたの真心は、私の誇りです」(ナレーション)

 

【河井すがは「賊軍の首魁(しゅかい)」の妻という汚名を着せられるが、凛として生き抜き、北海道で逝去する。享年61】

 

そして、八十里越(はちじゅうりごえ/会津に通じる峠)を籠で運ばれる継之助は今、配下の者たちに言い放つ。

 

「俺を戦場に置いてけ。この越後に屍(かばね)を捨てろ。戦に敗れたのは、そなたたちではない。継之助、この河井継之助が破れたのだ。責任は全て継之助にある。我が身が死ぬることに何の恨みもない。心さえ死ななくば、この世に思い残すことは何一つない」


 

この言葉に、大隊長・山本帯刀(たてわき)が応える。

 

「総督!侍としての心は、必ず移ります。我らが志、必ず歴史の鑑(かがみ)と」 

山本帯刀


継之助を見送る




山本帯刀は捕縛された後、詫びて恭順すれば命だけは助けると言われても拒絶し、斬首された。享年23】

山本帯刀が眠る戊辰之役戦士墓(ウィキ)



継之助らは翻って、再び越後へと向かい、塩沢の医師宅で手当てを受ける。

 

「修造、この戦が終われば、さっさと商人(あきんど)になれや。世の中、これから面白くなる。長岡のような狭いところには住まず、船に乗って、世界中を周(まわ)れ。武士はもう、俺が死ぬが最後よ」 

外山脩造


時代の先を読む能力に長(た)ける継之助らしい餞(はなむけ)の言葉である。

 

【後に外山脩造(とやましゅうぞう)は、この継之助の言に従って商人となり、アサヒビール等の創業に関わった後、阪神電鉄初代社長となり、関西財界の礎を築いた】

 

続いて松蔵が、おすがに言われた通り、遺髪として継之助の髪を切る。 



奉行格で側近の花輪求馬(はなわきゅうま)が、忠恭より継之助へと羽織を届けに、会津からやって来た。 

花輪求馬


「いずれ、会津は滅びる。奥羽連盟は崩れるであろう。我が藩は、頼る土地もなく、悲運にさすらわねばならぬが、その時は、必ず庄内藩を頼れ。後は頼む」 



その後、継之助は松蔵を呼び、感謝の意を告げる。

 

「長々、ありがたかったでや。わしも、そなたの忠義には叶わん。どうやら、わしは死ぬ。おっつけ西軍が来る。それまでに、自分の始末をせねばならん。わしが死ねば、死骸は埋めるな。時を移さず、火にせよ。急げ。今すぐ、焼くための薪を積み上げよ」 


松蔵は嗚咽を漏らしながら、頭を下げる。

 

「望みをお待ちください!望みを」

「主命である!俺が、ここで見ている」 


松蔵は継之助の命により、薪を燃やすしていく。 



良くも悪くも、一代の風雲児・河井継之助、ここ塩沢村の医師・矢沢宗益宅にて逝去するに至る。

 

享年41。

 

「一年にわたる戊辰戦争の幕は閉じられ、侍の世は終わりました。会津、米沢、仙台を経て、長岡に戻った継之助さん遺愛の方々は、苦難の中、常在戦場の元、心を一つにし、教育をもって戦後の復興に勤めております。継之助さんの旅先からの手紙に、古今和歌集から一首添えられておりました。“形こそ 深山(みやま)がくれの 朽木(くちき)なれ 心は花に なさばなりなん”。その言葉に、今を生き抜く勇気が湧き、心より心に伝うる誠の花になりたいと切に思っております」(ナレーション) 


【“形こそ 深山(みやま)がくれの 朽木(くちき)なれ 心は花に なさばなりなん”の意味は、外見は朽ちた木であっても、美しき花を咲かせて見せる思いは消えていない、ということだろうか】

 

 

 

3  己が〈生〉を、余すところなく生き切った男の物語

 

 

 


「東北戦争」の脆さが炙り出された中で、ただ一人気を吐いた人物・河井継之助。


若き日に佐久間象山(しょうざん)に学び、開国論を唱え、「戊辰戦争」において武装中立策の立場を保持した越後長岡藩士である。 

佐久間象山(写真)/「西洋かぶれ」と決めつけられ、尊攘派の河上彦斎に暗殺された兵学者。享年54(ウィキ)


河井継之助と聞いて真っ先に想起するのは、海外の武器商人(スネル兄弟が中心)から、連発式のガトリング砲(映画ではガットリング砲)や、アームストロング砲・エンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、軍制の近代化を推進したこと。 

1865年型ガトリング砲(ウィキ)

【アメリカで製造された最新兵器・ガトリング砲は、当時3門しか存在せず、そのうち2門を長岡藩が所持していた。河井自身もガトリング砲で応戦したが、野戦でのコスパが悪く、そのの目論見は奏功しなかった】 

映画より


以下、河井継之助記念館がある、只見町公式ホームページの一文を紹介する。 

河井継之助生家跡は「河井継之助記念館」となっている(ウィキ)


「三十九才の時、郡奉行となりその非凡な才能は多くの人の注目を集めた。

 

その後、御番頭、町奉行、御年寄役を歴任し同四年には家老上席となり政務を担当した。

 

継之助は、この間、大いに藩政を改革(賭博の禁止、遊郭の廃止、信濃川の通行税の廃止など/筆者注)し、藩財政を確立すると共に兵制を改革するなど、長岡藩をして奥羽の雄藩としての基礎をつくりあげた。

 

鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、関東、東北、越後に拡大されていった。 

戊辰戦争


朝敵の汚名を受けた会津藩と、その同盟軍は苦しい戦いを余儀なくされた。

 

継之助は、事を平和に解決しようと東奔西走し、小千谷にかまえた西軍の軍監"岩村精一郎"と慈眼寺において談判(「北越戦争」の契機となった「小千谷談判」と呼ばれる和平交渉で、新政府軍との衝突の回避に尽力する/筆者注)したが決裂。 

映画より

継之助が藩主の歎願書を持参し、岩村精一郎と講和談判を行った慈眼寺には、会見の間が当時のまま保存されている

会見の間


ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り、更に奥羽越の諸藩同盟を結成、その総督として善戦したが5月長岡藩が落ちる。 

映画より
映画より

映画より



その後、7月25日の戦いで、河井継之助は負傷する。 

映画より

映画より


継之助は親藩会津に逃れ再起をはかるため、千数百名と共に八十里越を会津に向かった。山越えは難渋を極め、山中に一泊したのち8月5日只見に着き傷の手当てを受ける。

 

8月12日幕府医師、"松本良順"のすすめで会津若松に向けて出発、途中塩沢、"矢沢宗益宅"に投宿した。

 

継之助はすでに死期を予感し、従者松蔵に死期の準備を命じ、その夜、静かな眠りに入った。 

河井継之助の墓

河井継之助終焉の家・矢沢宗益宅跡


時に慶応4年(1868)8月16日であった」


―― 以上、只見町公式ホームページより引用。

 

積極的な開国論に依拠し、遥かに我が国の近代化を考えて学問に励み、実践した武士が、雪深い越後長岡で呼吸を繋いでいた事実は感動的ですらある。 

公式ホーム

【「品川沖から、箱館(函館)を経由して新潟~長岡に戻りますが、江戸で購入した米穀を箱舘で売り払さばき、合わせて江戸の銅銭を新潟で売り裁いて大儲けをしています。『函館で米不足で価格が高騰している』情報と、これは『新潟で銅銭が不足している』情報を事前に察知しての裁定取引でした」(「コラム澤口「立場と役割②」」より)。この一文を読む限り、リスクなしで、利益を確定することができる「裁定取引」を戊辰戦争の只中で実行する男の胆力に度肝を抜かれる。最下層の階級に貶められていた「商」を重視する凄みも圧巻である。「サムライ」と「商」のメンタリティが、その人格のうちに溶融しているのだ】 

映画より


勝てる見込みがないと分かっていながら、「北越戦争」に驀進(ばくしん)せざるを得なくなったのは、「小千谷談判」で見せつけられた、「官軍」という名の西軍のあからさまな威圧的な態度。

 

殆ど「談判」になっていなかった。

 

相手が悪かった。

 

本気で中立論を展開し、「会津藩を説得する」という河井の嘆願を一蹴した若干23歳の岩村精一郎は、木戸孝允から、短気で考えが浅いという意味の「キョロマ」(長州弁)と呼ばれた男。 



「無能で横柄な男」というのが、ドナルド・キーンの岩村精一郎評。


この男に対して、それでも継之助は粘り切ったが、却ってそれが岩村を逆上させてしまった。

 

最後まで「非戦」を貫徹したかったが、もう、万事休す。

 

【この談判で、河井継之助は山縣有朋か黒田清隆との会談を希望していたが、狭量な岩村はこれを拒絶している。反実仮想で言えば、北陸道の北陸道鎮撫総督府の山縣か黒田との会談が実現していれば「北越戦争」が回避された可能性も指摘されるが、継之助が列藩同盟との調停を具現化し得たかについては疑問視されている。因みに「嘆願書」の骨子は、先のコラムを引用すれば、「今こそ、日本国中で協力し、世界の恥さらしにならないような強国をつくり上げることが大切です」(現代語訳)というもので、文句のつけようがない】 

明治初期の山縣有朋(ウィキ)


その後の顛末は、粗筋で書いた通り。

 

「この風が、体を吹き通っているようでなければ、大事はできん。元気の気、勇気の気、その気が歩いているだけだ。体はどこにもない。体には風が吹き通っている。一個の気だけが歩いてる。俺はそれさ」 

「今このご時世の中、日本男子たる者が悉く、薩摩長州に阿(おもね)り、争って新時代の側に付き、侍の道を忘れ、行うべきことを行わなかったら、後の世はどうなる。長岡藩、すべての藩士が死んでも、人の世というものは続いていく。後の世の人間に対し、侍とはどういうものか知らしめるためにも、この戦いは意義がある」 



継之助の堅固な意思を感受させる言辞だから、徹底的に戦い切って散っていくことになる。 

映画より


然るに、僅か1500人足らずの兵を率いて戦った男の正義が強調されるが、地元・長岡市において語り継がれてきた河井継之助像は、相当程度ネガティブである。

 

興味深いシーンがあった。

 

おすがと手を繋いで帰る道で、恭順派の若い藩士たちに囲まれ、暗殺の危機に遭った時のこと。

 

「河井さん、長岡藩を救う方策はあるんでしょうか?」

「救う方策などはない!一つの案を信じる以外に道はない!たとえそれが地獄に落ちる道であろうとも、地獄に落ちるならば、共に落ちようではないか!その不退転の覚悟だけが、藩を救う唯一の道だ」 



継之助の凄まじい気迫に恭順派の刺客が怯(ひる)み、暗殺に頓挫するこの実話は、「武装中立主義」を一貫して曲げなかった男の生きざまを如実に物語っている。

 

近代的な訓練と最新兵器の武装を施し、継之助の巧みな用兵によって開戦当初、互角に戦ったと言っても、絶対的な兵力差が覆い難い状況を認知していたにも拘らず、この「北越戦争」において、長岡藩が命じた人夫調達への反発や、米の払下げを求めた領民らが大規模な世直し一揆が発生するに及んだ事態を無視できないだろう。

 

一揆を起こした領民の弾圧は、継之助の評価を悪化させた一因にもなったのだ。

 

継之助の墓石が繰り返し倒されたという事実もある。

 

家族を無謀な内戦で喪った人々にとって、「武士の信念を貫いた男」の正義など、どうでもよかったのだろう。


それでも書かねばならない。

 

―― 以下、「ウクライナ戦争は私たちの河井継之助の評価を変えるか。映画『峠最後のサムライ』公開で地元から考える」というコラムからの引用。 

河井継之助の墓には、細かい傷跡が多数ある(記事の筆者撮影


【新潟日報の別刷り特集では「英雄戦禍のはざまで 愛憎半ば、揺れる評価」という見出しで「戊辰戦争で長岡が焼け野原となる戦禍を招いた張本人との批判も根強い」といった批判的なエピソードがいくつか紹介されている」。


(略)同記事では、継之助の遺族は「長岡を灰にして恨みを買っている。間違っても長岡で河井と名乗るなと厳しく言われていた」そうで、「近年まで長岡での法要に参列することはなかった」という。北越戊辰戦争後の長岡や周辺地域は、町は戦火で壊滅。藩の財政は困窮を極め、食糧危機もあった。また、「新政府の戦後処理も、元藩士側にはつらく、町民側を優遇するなどにより対立も生じた。廃藩後も周辺では町同士が合併し市が相次いで生まれる中、長岡は戦後の遺恨などを背景に周囲から20年ほど遅れた」という。(福島民報2018年12月)】

 

但し、継之助を語る時、「信念を貫き通した潔い散り際」という言辞で括るには無理があると私は思う。

 

彼の生きざまは、「降伏するだけでなく、会津藩を攻める先兵を命じられる」事態をも受け入れるという地政学的なハンデを負っていた小藩にあって、内戦状態下で非戦と中立の可能性を求め切って、地獄に落ちる覚悟で行動し、闘い切った男の究極の様態を見せるもので、そこには、玉砕的な「散り際」の美学の欠片もない。

 

億次郎は「美しく砕け散る」と言ったが、継之助は、最後の最後まで戦わずして自決するという「玉砕主義」とは無縁な男だった。 

一切の責任を負い、最期まで戦い切って、炎の中に消えていく男/映画より


その死に「美学」を被せるような「サムライ」で括るには、男の思考はあまりに先進的過ぎるのだ。

 

このコラムの御仁は、「徹底して戦う姿勢を貫き続けるゼレンスキー大統領は一気に民主主義の英雄」と記し、ゼレンスキー大統領を誹議(ひぎ)しているが、この物言いは、国連憲章を平気で犯し、侵略戦争という愚に走る、プーチンのジェノサイドに対する自国防衛戦争の、あまりに正当なる自衛権の行使を認知できない強引な論法であると言っていい。

 

難しい問題を簡単な問題に置き換えたり、異なる次元の度合いを揃えて論じたりする、典型的な「レベル合わせ」によるバイアスが全開しているのだ。

 

継之助が負った問題の難しさを、現在の視線と価値観で語ることの艱難さを知るべきである。


以下、あってはならない侵略戦争と戦うウクライナのゼレンスキー大統領の、米上下両院合同会議で演説の一部である。


【「これは欧州や同盟国の一部の領土のためだけでなく、ウクライナや米国の民主主義のための戦いでもある。(略)米国の資金は慈善事業でなく、私たちが最も責任ある方法で使う世界の安全と民主主義への投資なのだ。(略)我々ウクライナ人もまた、尊厳と成功をもって、独立と自由のための戦いをやり遂げるだろう。(略)(最後に旗を広げ)バフムトでの演説中、人々が旗を渡してくれた。ウクライナ、欧州、そして世界を命がけで守る人たちの旗だ」】
(日経/「ゼレンスキー大統領の米議会での演説要旨」より)

 

これだけは留めておきたい。

 

歴史に安直な「善悪二元論」を持ち込んでも、何の意味もない。

 

歴史は人間が創るのだ。

 

その人間は、「完成形」に創られていない。

 

だから、常に誤りを犯し、その度に反省し、後悔する。

 

しかし、その「時」は、皆、正しいと信じて行動しているのだ。

 

人間が創った歴史は、多くの場合、歴史によってしか回収されないのである。

 

返す返す思うのは、「歴史」の結果を知っている現在の視線と価値観で、何が起こるか分らない「幕末」の視界不良の〈状況性〉の総体を、短絡的な「善悪二元論」でジャッジする愚を、厳に慎む姿勢を確保していくことの大切さである。

 

その「時」は、皆、正しいと信じて行動しているのだ。

 

―― 映画について一言。

 

物語が主人公の「生きざま」に特化したことで、「最後のサムライ」という耳心地がいい言葉に収斂されるので、主人公の放つ言い回しの諄(くど)いほどの連射が気になったが、映画的な破綻がなく、寧ろ、その「生きざま」それ自身に驚嘆の念を禁じ得なかったというのが本音。

 

河井継之助は、己が〈生〉を、余すところなく生き切ったのである。 

映画より

 

 

4  幕末動乱の行方

 

 

 

歴史は人間が創る。

 

だから、何が起こるか分らない。

 

「幕末」の視界不良のカオス性は、「幕末」の臭気とは無縁な数多(あまた)の民衆と殆ど情感的に交叉することなしに、その時代の渦の中で煩悶し、柔和に折り合うことなく確執を深め、煮えたぎった情動の炸裂が、それ以外にない収束点に軟着できず、「時」を食い千切り、疾駆する魂の憤怒が集合し、発火していく現象の群塊として、人間が創った、その歴史の中枢で、天に向かって吠える者たちの雄叫(おたけ)びの、アナーキーな狼藉(ろうぜき)たる世界の表現様態だった。

 

いつの時代でも、歴史的大変換の風貌とは、そういうものなのだろう。

 

振れ幅が大きい、そんな時代状況の混沌の中で際立つのは、「禁門の変」によって「朝敵」となった長州藩の激変である。 

禁門の変/蛤御門の門柱に残る弾痕(ウィキ)


「薩賊会奸」(さつぞくあいかん)という言葉が流行したように、長州藩士の間で、「禁門の変」での大敵として、「薩摩=薩賊・会津=会奸」という遺恨が鏤刻(るこく)されていく。

 

一方、御所に向けて砲撃するという、あってはならない事件を起こした長州藩に対する幕府のペナルティが、朝廷の勅命による、2度(1864年・1866年)に及ぶ「長州征討」=「幕長戦争」だった。 

幕長戦争

「幕長戦争」で活躍した長州藩奇兵隊(ウィキ)


倒幕勢力の拠点であった長州藩の命運を握る「幕長戦争」は、「35藩・総勢15万人」の動員を有して、藩政改革に成就した尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)を征討総督とした、「幕末」の最大級のターニンクポイントと言っていい。 

徳川慶勝


幕府の権威の失墜が、いよいよ、民衆の視線に捕捉されるようになり、社会の不安定な〈状況性〉を露呈し、全国各地で、「世直し一揆」を頻発させていくのだ。

 

何より、「幕藩連合軍」の全面敗北の重要な因子には、薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的同盟の存在がある。

 

言うまでもなく、「薩長同盟」(1866年3月)である。 

薩長同盟所縁之地石碑(京都市上京区)(ウィキ)


過激な尊攘思想に洗脳され、藩論を主導した武市瑞山(たけちずいざん)によって結成された、「土佐勤王党」に属する土佐藩士・吉村虎太郎が、急進派公家・中山忠光(ただみつ)を擁立して挙兵する「天誅組の乱」(1863年・武市は事件後に切腹、吉村は戦死、忠光は事件後に暗殺)⇒「禁門の変」(1864年)などにおいて、討幕派を鎮圧していた薩摩藩と、「薩賊会奸」とまで吐き捨てていた長州藩の盟約など、殆ど不可能であった。 

吉村虎太郎(寅太郎)(ウィキ)


その薩長両藩が「政治的・軍事的同盟」を締結したのである。

 

これが決定的に大きかった。

 

かくて、「幕末」の視界不良のカオス性が、中央集権的・国民国家を構築した、日本史上最大の政治的・経済的・社会的・文化的革命=「明治維新」のうちに収斂されていくのである。

 

度外れな攘夷思想に気触(かぶ)れ、鎖国の継続を望んだ欧米嫌いの孝明天皇の急逝を無視するかのように、時代は一気に動いていく。 

孝明天皇(ウィキ)


徳川慶喜の将軍就任から1年も経ない、その年の11月9日、件(くだん)の将軍・慶喜は熟慮の末、朝廷、即ち、睦仁(むつひと)・明治天皇(孝明天皇の第二皇子)に統治権を返上したのである。

 

世に言う「大政奉還」である。 

日本史上最後の征夷大将軍・徳川慶喜(ウィキ)


度肝を抜くほどのグレート・リセットだった。

 

それは、約700年間、連綿として続いてきた武家政治の終焉を意味するのだ。

 

現在、桃山時代の武家風書院造りの代表的な国宝(世界遺産)で、京都観光屈指の名所となっている、二条城の二の丸御殿大広間に40藩の重臣を集め、将軍・慶喜は、朝廷への統治権返上の旨を伝えたのである。 

「大政奉還図」邨田丹陵 筆(ウィキ)


土佐藩士・後藤象二郎(しょうじろう)を介し、国内の英才を登用する政治統合構想・「公議政体論」(龍馬の構想と言われる)を採用した土佐藩主・山内容堂によって、将軍・慶喜に、統治権返上の建白(上役に意見を申し立てること)を提出したことが直接的な契機とされている。 

後藤象二郎


「公議政体論」のもとで、坂本竜馬が起草したと言われる、有名な「船中八策」(せんちゅうはっさく)が新国家体制の基本方針とされるが、その要諦(ようてい)は以下の通り。 

坂本龍馬(ウィキ)


「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」(第1条)

 

これは、「大政奉還」のこと。

 

「上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事」(第2条)=「議会政治」

 

「有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事」(第3条)=「有能な人材登用」

 

「外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事」(第4条)=「不平等条約の改定」以下略。

 

この第2条以下は、新政府の「五か条の誓文」にリンクするので画期的な評価が与えられるだろう。 

幟仁親王が揮毫(きごう)した御誓文の原本(ウィキ)


しかし、徳川慶喜討伐の詔書・「討幕の密勅」の効力を失わせる「大政奉還」を受けて、討幕への意志で固めた薩長や、新政府樹立への中心的な役割を果たしていく、下級公卿出身の岩倉具視らは、御所内の小御所で開かれた新政府初の国政会議・「小御所会議」(こごしょかいぎ・1868年1月3日)で、徳川慶喜を擁護し、後藤象二郎・坂本竜馬らによって提起された議会制度の導入を平和的に目指す、「公議政体論」に依拠する山内容堂らの異議を押し切って、倒幕派の主張が空気を支配し、徳川慶喜の官位辞退・所領返納を決定する。 

京都御所の小御所・現在のものは、鴨川の花火が原因で焼失した小御所を昭和33年に再建(ウィキ)


同時に宣言されたのは、幕府の廃絶・新政府の樹立を謳う「王政復古の大号令」。 

戊辰戦争を中心とした記録をまとめた明治政府のの史料集・復古記


我が国の諸大名・庶民の全てに布告された「大号令」の内容は、以下の通り(ウィキ)。

 

1 (徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。

2 京都守護職・京都所司代の廃止。

3 幕府の廃止。

4 摂政・関白の廃止。

5 新たに総裁・議定・参与の三職をおく。

 

ここで重要なポストは、新政府に設置された官職で、行政の中枢になる「参与」(さんよ)であり、維新政府の実質的な指導部であると言っていい。

 

「小御所会議」によって判然とする、目指すべき国家観・社会観の確執は、江戸幕府の機構を残すことを希求し、「王政復古の大号令」の撤回を要請する慶喜の意を汲んで、一過的に朝廷の援護を得るが、幕府側の強硬派を刺激する薩摩藩の暗躍によって、遂に、京都を舞台にする「鳥羽・伏見の戦い」(「戊辰戦争」の初発点)という名の内戦に突入することになる。 

伏見口の戦い激戦地跡石碑(ウィキ)


この内戦において、武家社会の形成時に、源氏から政権を取り戻す狙いで、後鳥羽上皇が附与して以来(承久の乱)、およそ660年の時を経て、薩摩藩の本営がある真言宗の総本山・東寺(とうじ)に、「錦の御旗」(にしきのみはた)=「錦旗」(きんき)が登場する。

 

「錦旗」を翳(かざ)して旧江戸幕府勢力を「朝敵」にすること ―― これが、想像以上の効果をもたらす。

 

「元江戸幕府将軍」・徳川慶喜らの旧江戸幕府勢力は、朝廷に敵対する勢力、即ち、「朝敵」という烙印を押されるのだ。 

錦の御旗(ウィキ)


この時の京都周辺の兵力において、「伏見の戦い」では、薩摩藩兵を主力とする新政府軍が5000名であったのに対し、旧幕府軍は15000名を擁していたと言われるにも拘らず、「錦旗」を翳(かざ)した薩長軍によって、「朝敵」の「汚名」を受けた幕府軍の動揺は激しく、士気も萎(な)え、大敗する。 

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士の着色写真(ウィキ)


陸軍奉行として旧伏見奉行所を本陣にした旗本・竹中重固(しげかた)は、薩摩藩の砲弾を受け、奉行所が炎上し、撤退して防御線を張った際に、真っ先に戦闘を放棄し、敵前逃亡という重大な軍規違反を犯して、のちに罷免・官位剥奪(はくだつ)される始末。

 

幾つかの例外があるにせよ、これが「錦旗」が登場する前の時点で、優勢な兵力を生かし切れない者が内戦を指揮し、主戦派として出陣した幕府・旗本の実状だった。

 

井伊直弼を輩出した彦根藩の寝返りもまた、内戦の敗北的リアリズムの格好の例証と言える。

 

京都所司代となり、京都の政務を一任されていた老中・稲葉正邦(まさくに)が依拠した淀藩に至っては、藩主・正邦が江戸藩邸にいる時、その淀藩を頼った旧幕府軍の入城を拒絶したのだ。 

晩年の稲葉正邦(ウィキ)


あろうことか、江戸入城を具現できなかった唯一の「征夷大将軍」徳川慶喜が、2人の老中(板倉勝静・酒井忠惇)と、松平容保・松平定敬(桑名藩主)兄弟を随行させ、幕府所有のオランダ製軍艦・開陽丸に乗船し、大坂城から江戸に逃亡してしまった。 

開陽丸(ウィキ)


もっと呆れるのは、土方歳三らと共に蝦夷(えぞ)に渡り、「蝦夷共和国」の総裁となって、戊辰戦争の最後の戦いを遂行した、開陽丸艦長・榎本武揚(たけあき)には、江戸への敵前逃亡の事実を伝えず、肝心の幕臣を戦地に置き去りにした由々しき行為。

 

「朝敵」の「汚名」を受けた幕府軍の、内戦へのリアリズムの崩壊が薩長政権を生むに至ったのである。

 

それにも拘らず、戦(いくさ)は終焉し切っていなかった。

 

秀逸な戦略・戦術・リーダーなき「彰義隊」の「上野戦争」が、英国が開発した速射砲・アームストロング砲を活用した長州藩の天才軍略家・大村益次郎によって、たった1日で壊滅させられても、薩長中心の新政府軍に対抗する軍事同盟、即ち、31藩が加盟する「奥羽越列藩同盟」が立ち上げられていくのだ。 

大村益次郎/エドアルド・キヨッソーネが死後に関係者の説明で描いた肖像(ウィキ)

上野戦争で使用されたとされる佐賀藩のアームストロング砲(ウィキ)


官軍に帰順を嘆願したにも拘らず、「会津追討令」という新政府の方針に反発した、仙台藩と米沢藩を中心とする東北諸藩新政府軍参謀で奇兵隊の幹部だった長州藩士・世良修蔵(せらしゅうぞう)の暗殺を契機に同盟を結び、陸奥国(むつのくに・奥州・東山道に属する)・出羽国(でわのくに・羽州・東山道に属する)・越後国(えちごのくに・越州・北陸道に属する)の諸藩から成る反維新政府的な軍事同盟である。 

奥羽越列藩同盟


会津藩の悲劇の象徴・「白虎隊」という少年決死隊が集団自決するに至った1ヵ月後に、米沢藩・仙台藩が個々に降伏し、軍事同盟としての指揮系統の脆弱さを曝すばかりで、東北地方は新政府の支配下に入った。 

白虎隊像(ウィキ)


3ヵ月にわたる死闘の末、会津若松城は落城する。 

会津戦争後撮影した損傷した若松城(ウィキ)


蝦夷地全島を支配下に置き、未知のゾーンを開いていくという耳触りのいい理念で武装しつつも、軍資金の欠乏を埋めるために、賭博場を黙認したり、売春婦から税を取ったり、という体たらくを見せただけの「蝦夷共和国」を具現すべく戦った「箱館戦争」も呆気なく終結した。 

箱館戦争(ウィキ)


「戊辰戦争」が終焉したのである。

 

ここで想起するのは、井伊直弼のこと。 

「井伊直弼像」 狩野永岳筆 彦根城博物館蔵 万治元年 (1860年)(ウィキ)


どこまでも幕藩体制の劣化を防ぎ、欧米に引けを取らない体制を構築していくには、どうしても、欧米流の近代化の具現化が求められる。

 

果たして、井伊直弼は欧米流の近代化を学び、その技術を受け入れようと考えていたのか。

 

「桜田門外の変」さえなければ、それが可能だったとも思えるし、或いは、幕府(将軍)の「生き延び戦略」にのみ心身をすり減らしていて、頓挫してしまったとも考えられる。

 

少なくとも、「桜田門外の変」の時点において、幕府の「生き延び戦略」どころか、それを再編・強化するという一点のみで動いたと考えられるので、まさに、そこにこそ、彼の「約束された悲劇」があった。 

映画「桜田門外の変」より

外桜田門と彦根藩邸の距離は600m(ウィキ)


なぜならば、既に、この時点で、幕藩体制の劣化を防ぎ得る何ものも存在しなかったからである。

 

強大な権力を行使した大老・井伊直弼は、「強化され、復元した幕府の政治力」を証明するために、惨(むご)いとも思える「安政の大獄」を遂行したと思われる。 

「安政の大獄」で捕捉され獄死した、「戊午の密勅」の首謀者・梅田雲浜(うめだうんぴん・儒学者)(ウィキ)

吉田松陰・安政の大獄に連座し、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された(ウィキ)




そこに、彼の矛盾が集中的に表れている。

 

我が国を真に近代化するには、もう、井伊直弼の政治手法では不可能だった。

 

彼は、その限界を知っていたに違いない。

 

いずれにしても、「桜田門外の変」で斃(たお)れた井伊直弼の存在が、「幕末」の決定的な転換点となっていく。

 

その展開点の重要な要因となった「日米修好通商条約」の締結は、不平等条約であっても不可避だったのである。 

タウンゼント・ハリス/日米修好通商条約を締結したアメリカ全権の外交官(ウィキ)


それが、我が国が初めて体験する、シビアな外交圧力が連射して止まない、「幕末」という名の、極めて難しい歴史的風景だった。

 

だから、そこにはもう、自己基準的な観念論が入り込む余地などない。

 

尊攘急進派のイデオロギーでは、何一つ解決し得ないのだ。

 

「開国・近代のリアリズム」のみが有効だった。 

【日米修好通商条約・第7条には「外国人遊歩規定」があり、外国人との接触を避ける目的で設けられたが、外国人に対してもを厳格に守らせることで、不平等条約が列強側にも不利であると印象づけた(「近代建築を訪ねて」より)】


つづめて言えば、「幕末」とは、尊攘急進派の内向きの観念論が、「開国・近代のリアリズム」に決定的に変換させる時代の初発点だったのである。 

下田開国博物館/条約の締結によって、その最初の数年間、下田は日本が世界に飛び出す役割を果たした



そして、その「開国・近代のリアリズム」の基本方針の具現化を、成功裏に収斂させていくのは、殆ど「時間」との競争だった。

 

それは同時に、その「時間」の弊害となる者たちとの、避けがたい闘争の「時間」との競争だった。

 

自らが拠って立つと信じる、狭隘で、視界不良のイデオロギー=「意味体系」という観念系で「軽武装」した男たちが起こした、「士族の反乱」の制圧する「時間」との競争でもあった。

 

西郷隆盛の征韓論を抑え、「西南の役」(西南戦争)に至る各地の不平士族の反乱を、確信犯的に鎮圧するのである。 

薩軍に投降を促す官軍のビラ「官軍に降参する者はころさず(殺さず)」(ウィキ)

西南戦争・熊本鎮台の指揮官および幕僚・前列左より3人目・谷干城(たにたてき)少将、後列左より3人目・児玉源太郎少佐(ウィキ)


日本の近代化を遅らせるわけにはいかないのだ。

 

だから、幕末・明治日本の「最強のリアリスト」・大久保利通の存在なしに、この「時間」との競争を具現するのは困難であったに違いない。 

大久保利通

「大久保利通暗殺事件」・「紀尾井坂の変」の石碑(ウィキ)


ある意味で、大久保利通は、大老・井伊直弼の「攻撃的リアリズム」の継承者だったのではないか。

 

そして、時を同じくして、「民(たみ)は国の本(もと)、吏(り)は民の雇人…役人は民の使用人」という民主主義の理念を抱懐していた河井継之助もまた、「開国・近代のリアリズム」の体現者であった。 

河井継之助/「つぐのすけ」とも読む


然るに、「官軍」という名でカモフラージュして、「自分以外は全て敵」の論理で爆走する薩長の振る舞いを許せなかった。

 

だから散っていくが、最後まで玉砕主義とは無縁な男だった。

 

生まれた時期が早過ぎたのだろう。

 

地政学的に言えば、生まれた土地が不運過ぎたのだろう。

 

そう思うのだ。

 

参照 拙稿/時代の風景「「幕末」とは何だったのか」  コラム澤口「立場と役割②

 

(2022年12月)

 






























































































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