毎朝、“ジョージ”になる |
<「悲嘆」の日々を自己完結する男が得た、凝縮した時間の輝き>
1 「この1日を生き抜け」 ―― 「悲嘆」の日々に放つ言葉の収束点
1962年11月30日・金曜日。
その日、ジョージは16年連れ添ったゲイのパートナー・ジムを交通事故で喪った悪夢で目を覚ました。
「目覚めて浮かぶ言葉は、“在る”と“今”。この8カ月、目覚めは苦痛だった。まだ生きていることに、ぞっとする。昔から朝は苦手だ。ジムは元気よく、跳ね起きたものだ。その笑顔を殴ってやりたかった。私は言う。“バカほど朝、元気だ。単純な事実に気づいていない。今は単なる今じゃない。昨日から1日が経ってる。去年からは1年…そして、いずれ、それは来る”。ジムは笑ってキスした。私は毎朝“ジョージ”になる。世間が期待する自分に化けるのだ。着替えをして、まだ硬いけれど、最後の磨きをかけて完成。役どころは心得てる。鏡に映る“ジョージ”の顔には、苦悩の影もない…」
オープニングシーンのジョージのモノローグである。
ジョージは鏡に映る自分に向かって、いつもの言葉を発する。
「この1日を生き抜け」
「芝居じみてる。そしてまた、心が砕けて、沈んでいく。溺れて、息ができない…未来が見えなかった。毎朝が靄(もや)の中。だが今日こそ変えてみせる」(モノローグ)
ジョージは、あの日のことを回想する。
雨の夜、従兄からの電話に出ると、ジムの交通事故死を告げられた。
「葬式は家族のみ」と言われ、出席を断られた。
衝撃を抑えつつ、電話の礼を言葉にするジョージだったが、降り頻る雨の中、傘もささずに元恋人のチャーリーの家に走り、彼女の胸に飛び込み、涙に沈んだ。
ジョージはその朝、拳銃をカバンに潜め、勤務先の大学へ向かう。
時は、キューバ危機の最中のLA。
「人の心配している暇はない」
「そんな世界なら、滅ぶがいいさ」
核兵器の恐怖に怯える同僚との会話である。
学生を前にした講義中も、自分が溺れる情景が浮かんで、脳裏から離れない。
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講義を熱心に聴くケニー・ポッター(以下、ケニー/右)とガールフレンド(左) |
「少数派の話をしよう。特に“隠れた少数派”。少数派全般は多彩だ。金髪とかソバカスとか。だが問題は、世間から脅威と見なされるタイプだ。たとえ脅威が妄想でも、そこに恐怖が生じる。実体が見えないと、恐怖は増す。それで迫害されるんだ。だから理由はある。恐怖だ。少数派も人間なのに…混乱気味?」
無反応な学生たちを前に、授業の主題を離れて、ジョージは自身の考えを主張した。
更に講義は続く。
「恐怖こそ真の敵だ。恐怖は世界を支配する。社会を操作する便利な道具だ…語りかけても通じない恐怖」
講義の終了後、走って語りかけてきたケニー。
「今日の授業は圧巻でした」
そして、メスカリン(危険ドラッグ)の誘惑の恐怖について話し始める。
矢継ぎ早に質問してくるケニーに対し、大学ではすべてを話せないとはぐらかす。
大学のデスクを片付けるジョージ。
隣に住むチャーリーに電話をかけ、7時に行く約束をする。
電話を受けるチャーリー |
車に乗って発車しようとすると、バイクに乗ったケニーがやって来て、飲みに行こうと誘って来た。
ジョージはそれを断るが、ケニーの申し出を好意的に受け止めた。
銀行へ行き、貸金庫の中身を回収する。
そこには、パートナーのジムの裸の写真も収められていた。
浜辺で横たわるジムとの回想シーンが脳裏に浮かぶ。
写真を胸にしまい込み、次に向かったのは銃器店。
そこで銃弾を購入する。
次に酒店に入るが、入り口で、ジムによく似た若いマドリッド出身の美青年と突き当たってしまう。
互いがゲイであることを会話で察知し、好感を持ち合う。
しかし、既に自死を決めているジョージは誘いを断り、帰宅する。
「君のそばで、寝そべってれば幸せ。今、死んでもいいよ」
「僕はよくない…」
ジムの死の直前に交わされたと思われる会話の回想シーンである。
それから、机の上に遺品となる品々を並べ、ベッドに横たわり、銃を口に咥(くわ)えるが、上手くいかいない。
チャーリーから電話が入り、約束のジンを持って家に向かう。
チャーリーは新年の決意を語り、ジョージにもそれを尋ねる。
「過去を捨て去ることだ。完全に永遠に」
2人で冗談を交わしながら食事をし、音楽に合わせてダンスする。
更にツイストを踊って寝転がり、添い寝するが、チャーリーがジムとの関係について触れると、ジョージは突然立ち上がって、逆上した。
「ジムが本物の愛の代用品だったと?ジムはどんなものにも代えられない。ジムの代わりなどいない!」
「ごめんなさい。2人の愛は深いわ。私にはないから嫉妬したの。そんな人、いなかった。夫の愛も偽物だった」
「女として不幸なら、女を捨てろ」
「いつも明快ね」
「過去に生きず、未来を考えろ」
「過去に生きるのが未来よ」
帰り際、チャーリーが尋ねる。
「私のこと本気じゃなかった?」
「努力したよ。ずいぶん昔…でもダメだった」
家に戻り、再び自殺を図ろうとするが、ジムと初めて出会った時のことを思い出し、夜の街へと飛び出していく。
ジム(左) |
バーで酒とタバコを注文すると、そこにケニーが入って来た。
それに気づいたジョージは、二人で飲むことにした。
ケニーはジョージを探してやって来たことが分かる。
「過去は無用、現在は重荷。未来は?」
「核の脅威の未来なんて」
「死が未来か?」
「話が暗いですね」
「暗くない。いずれは誰もが迎えることだから。死が未来だ…現在が苦なら、よりよい未来も信じにくい」
「でも結局は分からない。例えば今夜とか。実際、ほとんどいつも、僕は孤独です…独りだと感じます。つまり人間は、誕生も死ぬ時も一人。生きている間は己の肉体に閉じ込められてる。不安でたまらなくなる。偏った知覚を通してしか、外部を経験できない。相手の真の姿は、違ってる可能性も…」
「私は見たままだ。目を凝らせ。人生が価値を得るのは、ごく数回、他者との真の関係を築けた時だけだ」
「直観どおりです」
「直観?」
「ええ。先生は真のロマンチストだと」
ディープな会話を交わした後、2人は浜辺に出て、裸になって海に飛び込んだ。
ジョージ |
泳いで燥(はしゃ)ぎ、額を傷つけたジョージとケニーは、ジョージの家に向かう。
ケニーが傷の手当てにバンドエイドを取りに行くと、引き出しにジムの裸の写真を見つけた。
ジョージの額にバンドエイドを貼ると、ケニーは裸になってシャワーを浴び、二人でビールを飲んで会話する。
「なぜ来た?なぜ今朝、秘書に私の住所を聞いた?」
「学校以外の場所で会いたかったので」
「なぜ?」
「人と考え方がズレてて、つらいんです。でも、先生となら…それに先生が心配で」
「私が?私のどこが?大丈夫だ…」
そう言った後、酩酊したジョージは意識が遠のき、水中で溺れる妄想に入っていく。
目を覚ますと、ケニーがソファで眠っている。
近づくと、ケニーはジョージの拳銃を抱えていた。
ジョージはケニーから拳銃をそっと取り上げ、毛布を掛け直す。
拳銃を引き出しに仕舞い込み、窓を開けると、一羽のフクロウが飛び立った。
「ごく時たま、非常に明晰な瞬間が訪れる。ほんの数秒だが、静寂が雑音を消し、感覚が冴える。思考でなく、全てがくっきりとして、世界は清新になる。今、誕生したかのように…その瞬間は続かず、しがみついても消えてゆくが、これこそ命の泉。現在への覚醒。何もかもが、あるべきようにある」(モノローグ)
チャーリーへの遺書を燃やし、ジョージは生きることを決意したのだ。
その瞬間だった。
胸の痛みに襲われ、ベッドの横に倒れ込んでしまう。
ジムがやって来て、冒頭のシーンとオーバーラップするように、ジョージにキスをする。
「そして、しかるべく死も訪れた…」
決意虚しく、ジョージは命を散らす運命を負ってしまったのである。
「この1日を生き抜け」 ―― 「悲嘆」の日々に放つ言葉の収束点。
風景の変容は、図らずも、孤独な男の「悲嘆」の日々を溶かしていった。
それだけが、「悲嘆」を自己完結させた男の遺産として輝くのだ。
2 「悲嘆」の日々を自己完結する男が得た、凝縮した時間の輝き
「『シングルマン』は我々全員が感じる孤独を描いている。それは人間性の一部だと思う。人間の魂は肉体によって隔離されている。だから、人は誰かとつながりをもとうとする。この映画のメインメッセージは、“今を生きること”。毎日を最後の日だと思って生きることなんだ。
(略)ジョージは過去に生きていて、人生の変化を経験する。そしてこれからの人生を見失ってしまい、深い絶望感を振り払うことができず人生を終わらせようと決意する。だが最後に彼が目にするものによって、彼は世界を違う目で見始め、ここ何年かで初めて今を生きている自分を見出し、世界の美しさに直面する。これはタイムリーなテーマだと思う。我々の人生に与えられた贈り物に感謝することは、我々全員にとって、今だからこそもっと大切なのだと私は信じている」(トム・フォード『シングルマン』オフィシャル・インタビューより)
このトム・フォード監督の言葉が、映画のエッセンスを語り尽くしていて、そこに加える何ものもない。
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トム・フォード監督 |
ここでは、視座を変え、「悲嘆」を自己完結させた男を囲繞する負の風景について言及したい。
映画の時代背景には、1976年に撤廃されるまで、同性愛行為を犯罪とする「ソドミー法」が、なお猖獗(しょうけつ)を極めていた1960年代の米国。
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ソドミー(男性同性間の性行為)を合法・違法にする国々 |
「共産主義者狩り」に狂奔したマッカーシズムの「同性愛者狩り」を俯瞰しても分明なように、同性愛を敵視し、「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)の歴史の根深さは、行動療法に依拠した「嫌悪療法」による「同性愛は病気」という負の文化が継承されていた。
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【ジョセフ・マッカーシー(ウィキ)とその支持者は、ハリウッドが共産主義者に侵略されているだけでなく、合衆国政府と軍隊に同性愛者が潜入し、彼らの存在が国家安全上深刻な危機を招くものだと論じた/「クイア・カップルの亡霊と遺産」より】
同性の裸体の写真を見せた後、クライエントに電気ショックや、嘔気を催す薬物を与える療法 ―― これが「嫌悪療法」である。
そして、1969年6月28日、ニューヨーク。
後のゲイ・ プライド運動の発端となった「ストーンウォールの反乱」が出来し、同性愛者解放運動が一気に加速するに至るが、ジョージが呼吸を繋いでいた時代には、未だ、その片鱗すらも拾えなかった。
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ストーンウォールの反乱 |
「私は毎朝、“ジョージ”になる。世間が期待する自分に化けるのだ。役どころは心得てる」
毎朝、“ジョージ”になる |
映画冒頭のジョージのモノローグのこの一節は、あまりに重い言葉である。
日々、異性愛者だけがカムアウト(カミングアウトのこと)し続けている「世間」という空間の只中で、カムアウトできないマイノリティ(「少数派」。ここでは「ゲイ」という名のセクシャル ・マイノリティ)にとって、「役どころは心得てる」と言っても、毎朝、“ジョージ”になることの重さは、マジョリティ(「多数派」)に近づく時間が累加した重さである。
セクシャル ・マイノリティのジョージとスペイン人 |
ここで、私は想起する。
カムアウトした明治大学教授・鈴木賢(敬称略)と、文芸評論家・小川榮太郎との、「アベプラ」(インターネットテレビの報道番組)でのトークバトルのこと。(拙稿 心の風景「公権力の行使にとって、LGBTの知識がないことは許されない」より)
「性的指向」と「性的嗜好」の概念の違いすら理解できない文芸評論家・小川榮太郎に対して、鈴木賢は明瞭に言い切った。
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「異性愛者だけがカムアウトし続けているわけです。この人は、異性愛ということをアピ―ルしてるんだなと感じます、私は。我々はそれをできないわけですよ。なぜかと言えば、我々は世間のプレッシャーを感じ、そして、社会や国や、法律が、同性愛者をちゃんと位置付けていないから。だから、我々はそれを言えないできたわけですよ」(明治大学・鈴木賢教授)
カムアウトした者のみが知る、公共のスペースでの強烈な発信である。
ここにも、加える言葉の何ものもない。
【因みに、「性的指向」(sexual orientation)とは、オリエンテーション(方向性)=性的魅力を感じる対象の性別が何かということであって、性的な好み・趣味でしかない「性的嗜好」という概念と決定的に切れている】
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「性的指向」と「性的嗜好」 |
「限りなく『多数派』に近づくこと」 ―― この切実な思いは、カムアウトできない当事者にしか理解困難な事象であるに違いない。
映画のジョージもまた、そうだった。
毎朝、“ジョージ”になり、世間が期待する自分に化けることの重さは、パートナーの葬儀にも出席できず、ただひたすら、「悲嘆」(グリーフ)を繋ぐ時間を累加させていく心的行程の痛苦だった。
ジョージとジム |
「まだ生きてることに、ぞっとする」
この痛苦に耐えられず、行き着くところまで追い詰められたジョージは、ついに括る。
もう、この心的行程を自己完結させること。
愛情の深さに比例する「悲嘆」の痛苦が、「この1日を生き抜け」と我が身を押し続ける時間を破壊し尽くしてしまったのだ。
だから、大学での最後のレクチャーでも、セクシャル
・マイノリティを繋いできたギリギリの辺りにまで踏み込んでいく。
「少数派の話をしよう。問題は、世間から脅威と見なされるタイプだ。たとえ脅威が妄想でも、そこに恐怖が生じる。実体が見えないと、恐怖は増す。それで迫害されるんだ」
すべて、この日、即ち「最期の一日」の究極に限られた時間の中で放出する。
貸金庫の中身の回収・銃弾購入、そして、チャーリーとの別れ。
ジョージの銃 |
そのチャーリーに遺書を残し、あとは自死を遂行するのみ。
ところが、自死の遂行は容易ではない。
覚悟を括っていても、自死を遂行するのは容易ではないのだ。
銃を咥えても、上手くいかない。
だから、夜の街に出て、バーに入る。
講義を熱心に聞いていたケニーが接近する。
ケニーが接近したのは、教授(ジョージ)の様子に異変を感じ取っていたからだ。
彼にとって教授は特別な存在だから、気になって仕方がなかったのである。
このことは、常にケニーが教授を観察していた事実を示唆している。
その教授とのコミュニケーションが生まれたのは、「最期の一日」で、行き場所を求めていたジョージの心の空洞に侵入できたからである。
ではなぜ、ケニーはジョージに対して、それほどの関心を抱いていたのか。
その答えは、ケニーが自分の悩みを吐露する会話の中で判然とするだろう。
「実際、ほとんどいつも、僕は孤独です…独りだと感じます。つまり人間は、誕生も死ぬ時も一人。生きている間は己の肉体に閉じ込められてる。不安でたまらなくなる。偏った知覚を通してしか、外部を経験できない。相手の真の姿は、違ってる可能性も…」
このケニーの言葉の中で重要なのは、「偏った知覚を通してしか、外部を経験できない」という一節である。
ケニーは自分がゲイであるという明確な自覚を持っていないにも拘らず、「偏った知覚」という表現をしているのだ。
その「偏った知覚」によって、ジョージに同様の「性的指向」を感じ取ってしまったのである。
「人と考え方がズレてて、つらいんです。でも、先生となら…それに先生が心配で」
このことは、ケニーのこの言葉で自明であるだろう。
だから、ジョージが隠し持っていたジムの裸の写真を見ても、特段に驚く様子を見せなかった。
ジムの裸の写真を見るケニー |
「性的指向」と言えば、ジョージの「性的指向」もまた揺らいでいた。
これは、ジョージの「性的指向」の揺らぎを理解できないで悩む、元恋人チャーリーとの会話の中で明白である。
「私のこと本気じゃなかった?」と聞くチャーリーに対し、ジョージは「努力したよ。ずいぶん昔…でもダメだった」と反応したのである。
同様に、「偏った知覚」を有し、「人と考え方がズレてて、つらいんです」と吐露するケニーの「性的指向」の揺らぎは深刻度を増していた。
同性愛を禁じる時代に生まれた両者の「偏った知覚」の重さは、先述したように、世間が期待する自分に化けることの重さでもあった。
時代が分娩した重さを背負って生きる者の辛さが、両者を接近させていったとも言える。
或いは、教授が銃販店に入っていた現場を見ていたかも知れない。
だから、ケニーは教授の異変を敏感に感じ取っていたとも言える。
両者が最近接した時、尊敬する一人のゲイの命を、もう一人のゲイの青年が救うに至った。
そういう物語として、私はこの映画を考えている。
だからこそ、この映画を、「限りなく『多数派』に近づくこと」を強いられ、孤独に悩むマイノリティの映画として捉える視座を捨ててはならないのである。
「悲嘆」の日々を自己完結する男が得た、凝縮した時間の輝き。
これが、ケニーとのコミュニケーションを通して、「最期の一日」を生きるジョージが手に入れた、凝縮した時間の輝きだった。
ついでに書けば、「花様年華」に代表されるように、多くの映画音楽を世に出している梅林茂の「George's Waltz (II)」の音楽は素晴らしかった。
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梅林茂(ウィキ) |
【米国精神医学会の理事会はDSM-II(精神障害のための診断と統計の手引き第2版)において、同性愛を削除することを承認し、DSM-III(1973年)では、「人格障害」の分類に含まれていた「同性愛」を精神障害ではないと記述するに至った】
(2021年1月)
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