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2022年5月1日日曜日

海辺の一角で渾身の一撃を放つ男の、人生のやり直し 映画「アナザーラウンド」('20)   トマス・ヴィンターベア

 



1  ルールを決め、徹底的に飲み明かし、酔い潰れていく男たち

 

 

 

高校3年の歴史を担当する教師・マーティンが、教室に集まった保護者から大学進学への不安を訴えられる。 

マーティン

教室の様子



生徒たちからも、進学への関心の低さと授業内容の意味不明さを指摘された。

 

マーティンは他の教師に代わることも含めて、解決策を検討してみると応えるしかなかった。 



家では、妻・アニカや、二人の息子たちからも相手にされず、教師仲間との交流のみが、マーティンの居場所になっていた。

 

心理学教師のニコライの40歳の誕生日に集まった4人の教師。

 

体育教師のトミー、音楽教師のピーターとマーティンである。

 

会食の場で、ニコライが哲学の興味深い話をする。

 

「ノルウェー人の哲学者がいた。名はフィン・スコルドゥール。彼は飲むべきだと言っている。人間の血中アルコール濃度は、0.05%が理想らしい…リラックスした状態で、気持ちを大きく持てる。体中に力と勇気がみなぎってくるらしい」



「自信とやる気で、人生が上向きになるかも」とピーター。

 

そこで、マーティンに対する保護者らのクレームの一件が話題となり、ニコライがマーティンにアドバイスする。

 

「君に欠けてるのは、自信と楽しむ気持ちかも」

 

一人でミネラルウォーターを飲んでいたマーティンだったが、皆に勧められてウォッカとワインを飲み、涙が潤(うる)む。

 

「妻は夜勤ばかりで、ろくに顔を合わせてない」


「他にいい人、探せば?」とニコライ。

「アニカは子供たちにとって、いい母親だし、父の看病もしてくれた。老後も手を取り合って、生きていこうと約束したが、どうなるやら」 



皆はマーティンを慰め、ダンスを習っていたことを話し、店を出てからも、踊ったり、燥(はしゃ)いだりして、4人で弾けるのだった。

 

翌朝、マーティンは0.05%を試すために、学校で酒を一口飲んで授業に向かう。

 

運転ができないからと、ニコライがマーティンを送っていく。

 

トミーに電話をかけ、ニコライが伝えるのだ。

 

「マーティンが人生を変える一歩を踏み出したんだ」 



トミーの家に集まった4人は、本格的な実験として4人が参加し、心理学の論文を書くことが決まった。 



「人間の血中アルコール濃度は0.05が理想という仮説の検証。飲酒が心と言動に影響を及ぼす証拠を集めること、そして、仕事の効率と意欲が向上するか調べる」 



早速、ニコライがパソコンに実験の主旨を書き込み、飲むのは勤務中だけ、8時以降は禁酒、週末は飲酒禁止とするなどのルールを定めた。 

ピーター(左)とニコライ


効果覿面(てきめん)だった。

 

マーティンの歴史の授業は、今までになく興味深いものになり、生徒たちが強く関心を示し、歴史からの教訓を語る。

 

「いつか君たちも分かるときが来る。世の中は、期待どおりにならない」 



ピーターの音楽の授業も、いつもと違う工夫から生徒たちの心を掴み、活気が生まれてきた。



トミーのサッカーの指導も熱がこもる。 



飲酒の実験以後、4人ともテンションが上がり、授業に手応えを感じるようになった。

 

そんなポジティブな態度が周囲にも波及し、マーティンはアニカとの会話も弾むようになる。

 

かくてマーティンは、もっと効果をあげるために、アルコール摂取量を少し上げることを提案する。

 

そこで、「アルコール摂取量は個人が、適量と判断した量とする」というルールに変更するに至る。 




その結果、マーティンは0.12%にまでアルコール濃度を高めてしまった。

 

足取りが覚束(おぼつか)なくなり、教師たちの見ている前で、壁に頭を打ち付けて、鼻血を出してしまうのだ。 

ふらつくマーティン


それでもマーティンの授業が盛り上がり、ニコライが成功している姿を見て、音楽教師のピーターも絶賛し、自らもアルコール量を上げていく。 




トミーのサッカーチームの試合で、チームメイトから相手にされていなかった“メガネ坊”がシュートを決め、それを見ていた3人がトミーの指導力を称え、喜びを分かち合うのである。 

自信がみなぎるトミー


マーティンは約束通り、家族とカヌー旅行に出かけた。 



その夜、マーティンは久しぶりにアニカと結ばれる。


 

「何かあった?どうしたの?

「泣いてるのか?どうして?」

「壁を感じてたから」

「俺もだ」

「寂しかった…ずっと。長かった」

 

テントの中での夫婦の会話である。

 

ニコライの家に4人が集まり、「アルコールが及ぼすあらゆる影響を調べたい」というニコライは、「飲酒の影響を飲めば飲むほどもっと酒が欲しくなる」という“点火状態”に皆でなりたい」と提案する。

 

「これぞ、究極の精神浄化だ」

 

この提案に、マーティンは参加を断る。

 

「家族との時間を大切にしたい」

 

それに対して、トミーは「やる」と言い切った。 



そして、ニコライの家。

 

妻と3人の子供たちが出かけた後、飲酒パーティーが始まり、ニコライは「血中濃度の最高値を目指したアルコール摂取の実験」と題して、論文に書き込んでいく。 



マーティンは帰ろうとするが、目に付いたグラスの酒を口にすると、結局、その場に残り、音楽をかけ、皆で踊りながら飲酒のループに嵌っていくのだ。

 

徹底的に飲み明かした4人は、町に繰り出し、大騒ぎを繰り返し、酔い潰れ、正体を失くしてしまうのである。 


 

 

2  親友を喪った海にダイブする男の人生が、今、ここから拓かれていく

 

 

 

ニコライはベッドで漏らして、妻に激怒される。 



マーティンは頭を打って路上に寝ているところを人に起こされ、それを見た息子・ヨナスが家に連れて帰る始末。 



アニカに促され、マーティンは「昨日、飲み過ぎた」と子供たちに言い訳をした。

 

「最近、いつも酔ってるよね」と息子。 



アニカは子供たちを部屋に行かせ、マーテインに詰め寄っていく。

 

「どうしちゃったの?あなたが分からない」


「俺も君が分からない。会話もないし…休暇から戻って、また逆戻りだ」
 



その会話の流れで、夜勤と称しての妻の不倫を責める夫。 


「もう待たなくていい。出て行け!」 



そう叫ぶや、テーブルの食事を払いのけ、自らが出て行ってしまうのだ。

 

それでも懲りない4人は集まり、酒に溺れるばかり。

 

しかしニコライは、「“社会的生活に支障が生じ、アルコール依存症になる恐れが出たため”」と、実験の終了を論文に書き留めた。 



その後、校内で飲酒の跡が見つかったという事態を受け、臨時の職員会議が開かれ、そこに泥酔状態でトミーが遅れてやって来た。 



そのトミーをマーティンが自宅に運んで摂食させ、飲酒を止める。

 

「俺のことは心配いらない。自分で何とかする…」 



その言葉を耳にして帰宅するマーティンに、トミーが語りかける。

 

「このままじゃダメだ。素直になれ。俺は君の味方だ。君とアニカを応援してる…二人は切り離せない。愛してるんだろ。勇気を出せ。いつも前向きでいてくれ。君ならできる」


「分かった。ありがとう」
 



まもなく、マーティンはアニカを呼び出し、レストランで会うことになった。

 

「謝りたい」

「やめて」

「長いことギクシャクしてた。時間をムダにしたことを、今は心の底から後悔してる。君に疎外感を与えてしまったのは、一生の不覚だ」


「もう遅い…」

「ただ俺は、君とやり直したいと思ってる。以前のように、君と人生を歩みたい」


「無理よ。もう戻れない…ごめんなさい」

 

アニカはマーティンの手を振り払い、去って行った。

 

一方、ピエールが受け持つ留年中の生徒・セバスチャンが、以前から卒業試験の不安を訴えていた。 



試験当日、落ち着きなくしているセバスチャンに、ピエールは“水”と称して酒を飲ませる。

 

セバスチャンに与えられた課題は、「キルケゴールの不安の概念」について。

 

面接中、言葉に詰まるセバスチャンに、ピエールは“水”を勧める。

 

これも効果覿面だった。

 

「キルケゴールが説いた不安の概念には、失敗との向き合い方が書かれています」


「重要なことは?」と試験官。

「失敗したあと、自分の不完全さを認めること、他者と人生を愛するために」


「例を挙げてみて」とピエール。


「僕も失敗を経験しました」

 

かくて、セバスチャンは試験に合格し、マーティンもまた、担当した生徒らの合格が伝えられ、大いに盛り上がる。 

喜びを分かち合うピーターとセバスチャン(左)


そんな渦中で悲劇が襲う。

 

一方、トミーは愛犬を連れて、海にボートで出て行くが、そこで水死してしまうのだ。 

トミーの死


卒業試験に合格した生徒たちが喜びに沸く校庭で、トミーの死を知らされたマーティンに衝撃が走る。 



「堂々と送り出してやろう」とピーター。

 

葬儀に出席した3人は、トミーの棺を運んでいく。 



トミーが指導していたサッカーチームの子供たちも出棺の見送りに来て、トミーが可愛がっていた“メガネ坊”が棺に花を手向(たむ)けた。


 

アニカからメールが届いたのは、葬儀の後、3人がレストランでトミーを偲びつつ、酒を飲んで会食している時だった。

 

「“私も寂しい…会いたい”」 

アニカからメールが届き、喜びを噛み締める


マーティンも返送する。 


「“トミーは俺たちを、応援してくれてる”」

「“私もそう思う”」

 

港では、合格した生徒たちが酒を飲んで、燥ぎ回って歓喜に湧いていた。 



3人も駆けつけ祝福すると、生徒たちが取り囲み、胴上げされたピエールは、感激に涙する。 



マーティンも生徒たちに酒を振舞われ、胴上げされた。 



「ほら、今こそ、ダンスを披露するときだ」 



ピエールに催促されたマーティンは、躍動感に満ちたダンスを踊って見せるのだ。 



港に集まった全員が踊り、喜びが最高潮に達する中、マーティンは全身で人生讃歌を表現し、最後にトミーが逝った海へダイブするのだった。 



【本作は、映画製作に協力してくれた19歳の娘アイダさんが、撮影4日目に交通事故で亡くした渦中で作った映画だった。だから、ポジティブなラストが待っていたのだろう】

 

 

 

3  海辺の一角で渾身の一撃を放つ男の、人生のやり直し

 

 

 

それにしても、イングマール・ベルイマン(ほぼ全て)、ラッセ・ハルストレム監督(「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」、「サイダーハウス・ルール」)擁するスウェーデン映画と共に、私の好きなデンマーク映画。


バベットの晩餐会」、「誰がため」、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、「ドッグヴィル」、「ある愛の風景」、「ペレ」、「アンチクライスト」、「メランコリア」、「未来を生きる君たちへ」、「真夜中のゆりかご」、「ヒトラーの忘れもの」、「獣は月夜に夢を見る」、「きっと、いい日が待っている」。 

「バベットの晩餐会」より

「誰がため」より

「ドッグヴィル」より

心に残る名画「ペレ」より

「アンチクライスト」より

「メランコリア」より

「真夜中のゆりかご」より

「ヒトラーの忘れもの」より

「きっと、いい日が待っている」より


皆、いい。

 

ここでもマッツ・ミケルセンは文句のつけようがないが、トマス・ヴィンターベア監督、圧倒的に素晴らしい。

 

私が初めて観た「光のほうへ」。 

「光のほうへ」より


打ち震えるような感動が、ずっと残っている。

 

ネグレクトされた兄弟の人生を描く映画のラストに待つシーンは、生涯忘れない。

 

偽りなき者」は大傑作だが、「光のほうへ」が映し出す兄弟のの生きざまが脳裏に焼き付いていて、私の中では、デンマーク映画のナンバーワンの作品。 

「偽りなき者」より


そして、この「アナザーラウンド」。

 

ここではもう、アンチ・ハリウッド的な映画運動「ドグマ95」のテーゼが剥落されているが、映画の出来は上質だった。

 

トマス・ヴィンターベア監督の力量を改めて実感させられた。 

トマス・ヴィンターベア監督


【デンマークのスカーレットプレジャーが歌う劇中曲「Mads Mikkelsen dancing in ANOTHER ROUND」が素晴らしく、この曲を聴きながら批評を書いている。勇気づけられるのだ】

 

―― 以下、批評。

 

この映画のテーマは、「人生はやり直せる」。

 

私の解釈である。

 

これは、序盤の中年夫婦の侘しい会話から読み取れる。

 

「アニカ、俺は退屈な人間か?俺は変わった?」


「出会った頃とは違う」

「ああ、そうだよな」

 

二人の息子を持つ夫婦にはコミュニケーションが決定的に欠如していて、すれ違いの生活の風景は別離の雰囲気が漂っている。

 

妻の不倫と、教師としての意欲の顕著な減退。

 

所謂、「いや、別に。何もない毎日だ」と仲間に吐露したように、「ミッドライフ・クライシス」(中年の危機)である。

 

複数の親友がいることだけが彼の〈現在性〉を辛うじて支えているが、覇気がない授業の内容に父兄・生徒が不満を持ち、校長に呼び出された挙句、教師の仕事のダメだし宣言を受けるのだ。 

覇気がない日常に自己嫌悪する男

同上


この屈辱を抱えた男が、ニコライの40歳の誕生日に涙を流してしまう。

 

「君に欠けてるのは、自信と楽しむ気持ちかも」 


このニコライの指摘が、物語の主人公マーティンの中枢を衝いていた。

 

酒を控えている彼が、酒宴中の仲間に押され、一献(いっこん)傾ける。

 

そんな渦中で話題になったのが、ノルウェーの哲学者の「人間は血中アルコール濃度が0.05%に保たれていると、仕事もプライベートもうまくいく」という仮説。

 

この仮説がニコライから紹介され、それを証明しようと提示される。 


逸早く実践するマーティン。

 

何より、「人生のやり直し」を求めていたからである。

 

かくて成就し、仲間も続き、仮説を証明していく。 



ここで終われば、何も起こらなかった。

 

しかし、人間はこういう時、本来的な脆弱性を曝け出す。

 

個々人で管理するというセカンドステージから、血中アルコール濃度を最高値にするというサードステージの実験にまで膨らませてしまう。

 

それは実験の改変であるが故に、「死に至る依存症」への危うい世界への踏み込みである。

 

だから、悲劇が生まれた。

 

救命胴衣を排除する体育教師、且つ、愛犬と共に暮らす独居中年・トミーの水死である。

 

最後まで飲酒実験に拘泥し、サードステージにまで踏み込んだ男には、マーティンやニコライのように守るべき家庭がないから、完全に非武装だった。 

体育の授業で生徒たちを活気づけるトミー


この非武装さの背景に、独居中年の孤独が横臥(おうが)している。

 

“メガネ坊”を守り、エンパワメントを引き出していく男のエピソードは感動譚に満ちているが、飲酒実験での達成感が随伴するので、男の暴走を止める術(すべ)などどこにもない。 

“メガネ坊”を守り、勇気づけていくトミー


かくて、トミーの水死は「約束された悲劇」と化していく。

 

そんな思いを誰よりも理解しているから、親友を呑み込んだ海へのダイブを断行する。

 

ラストカットのことである。

 

だから、華麗で躍動感に満ちたマーティンのダンスは、単純なパフォーマンスではなかった。

 

マーティンのダンスが開かれ、弾けていくのが、親友を呑み込んだ海を眺め入った直後だったからだ。 

親友を呑み込んだ海を眺めるマーティン


喪った親友に対する思いを、全身で表現する。

 

このダンスの含意が観る者に伝わってくるから、この辛さ・悔しさの表現が、マーティンの渾身の一撃となって海辺の一角を占有したのである。 



そして、そのマーティン。

 

何より、彼には守るべき家庭があった。

 

守るべき家庭を有しながら自壊寸前だったから、その内的時間は物憂(ものう)いに支配されていた。 


そんな男が動いていく。

 

「マーティンが人生を変える一歩を踏み出したんだ」(ニコライの言葉)と言わしめるまでに変容していくのだ。

 

「教えることが久々に楽しいと思えた」 


トミーに吐露したこの言辞が、男の内側で広がっていくのである。

 

「家族との時間を大切にしたい」 


その根柢には、この思いが根強くある。

 

だから、心優しいトミーの援護射撃を受け、自ら破壊した妻の中枢に飛び込んでいく。

 

当然ながら、拒絶される。 

拒絶するアニカ

同上


それでも諦念できない。

 

だが、もう手遅れだった。

 

しかし、諦めない。

 

堅固な意志が男を支えている。

 

親友の死が、男を愈々(いよいよ)、奮い起こさせるのだ。

 

「二人は切り離せない。愛してるんだろ。勇気を出せ」 


親友の遺言になった言葉である。

 

男の無念が男を鼓舞し、後押しする。

 

待つ。

 

どこまでも待つ。

 

「“私も寂しい…会いたい”」

 

斯(か)くして、妻の本音の思いを手に入れたのである。

 

「人生はやり直せる」

 

経験と学習によって得た「結晶性知能」が、この心緒(しんしょ)に振れていったのである。

結晶性知能と流動性知能

 

もう、何もいらない。

 

親友の遺言を推進力にして、海辺の一角で渾身の一撃を放つのだ。

 

「失敗したあと、自分の不完全さを認めること、他者と人生を愛するために」 


キルケゴールの不安の概念を説明するセバスチャンのこの言葉が、本作のメッセージであることを想起させるに充分である。

 

そういう映画だった。 


―― 最後に、投票行動に関わる先入観の危うさについて、マーティンの授業で提示されたエピソードがあるので、そのシーンを再現してみる。

 

以下、生徒に対して、次の三人の政治家の中から誰に投票するかと答えさせるシーン。


 

1 ポリオの後遺症で障害がある。高血圧と貧血を患い、他にも深刻な症状を抱えている。目的のためならウソをつき、愛人がいて愛煙家。 


2 肥満で、すでに3回落選。うつ症状に苦しみ、心臓発作を繰り返している。鼻持ちならない男で、葉巻を吸いまくる。就寝前に酒を浴びるように飲む。 


3 勲章を受けた英雄で、女性に敬意を払う。タバコは吸わず、酒もめったに飲まない。 



この三択の問題に対して、生徒たちが揃って「3」と答えたところで、その政治家の答えを写真で明かすのだ。 


1はルーズベルト。 


2はチャーチル。 


そして、3の政治家こそ、アドルフ・ヒトラーだった。 


驚き、爆笑する生徒たち


マーティンは「世の中は、期待どおりにならない」と表現して授業を括るが、本質的に言えば、「飲酒に象徴されるように、インパクトがある使い勝手(利用可能性の高さ)がいい情報で、人を判断するな」ということだろう。 



―― 以下、余稿として、「心の風景」からアルコール依存症についての拙稿を引用します。

 

【余稿】 アルコール依存症という病理 





アルコール依存症は、逸脱せねばならない者の病理であるとも言う。   

 

では、何からの逸脱なのであろうか。   

 

「習慣性飲酒」の結果、アルコール依存症という深みに嵌(はま)ったりしたとしても、深みに嵌るに足る何某かの因果関係があるはずだ。   

 

それは単に、アルコールを適量で飲むことの、見えない規範からの逸脱だろうか。

 

飲酒そのものが共同幻想を醸成し、その甘美な連帯感に酩酊することへのアンチテーゼとして、孤独なる過飲者を演じ続けるのだろうか。   

 

柳田國男は、「酒の飲みようの変遷」(「木綿以前の事」所収 岩波文庫)の中で、中世以前の酒が不味(まず)かったにも拘らず、人々が酒を飲んだのは、酔って裸になることで共同体内の関係を円滑にしようと考えたからであり、この文化が近代にも継承されたと分析している。   

柳田國男(ウィキ)

飲酒の文化は、コミュニティ維持の潤滑油であり、孤独なる心の癒しの秘薬として、今も有効である。

 

しかしアルコール依存症者は、社交を基本的モチーフとする飲酒の文化に積極的にアクセスせず、総じて孤独に潜り、確信的に適量水準をオーバーフローしていくパターンを残す。

アルコール依存症

 

どう見ても彼らは、一般的モチーフからの逸脱の意思を示している。

 

少なくとも、酒を手段にする一般的モチーフと異なり、彼らの飲酒には酒そのものが目的化したモチーフが潜むようにも見えるのだ。   

 

彼らにとって、酒は社交の道具などではない。   

 

酒というものの代名詞であるアルコール濃度それ自身を、彼らは体内に吸収しようとしている。

 

そう見えるのだ。

 

彼らには、酔うことそのものが目的なのである。

 

別に楽しく酔う必要もない。

 

楽しく絡み合うことを目指さないから、彼らには仲間が不要なのだ。

 

あまりに楽し過ぎて、結果的に適量を超えていく普通の酒飲みのケースと異なって、アルコール依存症者が常に過飲に嵌るのは、日夜飲み続けていれば酩酊ラインが高くなり、酔うことを目指した彼らの飲酒が簡単に落ち着かなくなって、どうしても過飲にまで進んでしまうからである。   

 

彼らをここまで逸脱させるその心の地図には、恐らく、幼少期からの複雑な事情が描き込まれているに違いない。

 

彼らの現在に潜むトラウマや欠損感覚を、圧倒的な「酔いの力学」によって潰しにかかる戦術は、アルコール依存症者という偽装化した方法論であるのかも知れないのである。 

アルコール依存症の状況

死ぬまで酒を飲むことを決意したかのような壮絶な一生を描いて、観る者に劇薬の効果にも似た印象を刻んだ伝記的映像、「リービング・ラスベガス」(マイク・フィギス監督)がそうであったように、彼らはまさに、自己自身から逸脱しようとしているのである。  

「リービング・ラスベガス」より


自己自身からの逸脱であるということは、アルコール依存症が遂に自己を食む恐怖をも内包するだろう。

 

まさしくそれは、典型的な「死に至る疾患」であると言っていいのではないか。   

 

しかも当人は、決して自らをアルコール依存症者であることを認知しようとしないのだ。

 

認知を拒む心理が、その拒絶をも無化するかのように、いよいよ「酔いの力学」で潰しにかかるなら、病識のない彼らの、その深くて重い病理が解き放たれる日はなかなか開かれないであろう。

 

【因みに、アルコールによる酩酊には2種類ある。「単純酩酊」と「異常酩酊」である。前者は、アルコール血中濃度が低度(0.05%程度まで)で、気分の高揚が起こる普通の酩酊であるから何の問題もない。問題なのは後者。これには、人が変わってしまうような「複雑酩酊」と、幻覚・妄想などが惹起するような「病的酩酊」がある。アルコール血中濃度が異常に高くなるこの「病的酩酊」こそ、「死に至る疾患」としてのアルコール依存症者の世界である。映画を観て学ぶのは、気分の高揚感で意欲を引き出す「単純酩酊」こそが、ごく普通の日常を維持するための方略であるということに尽きるだろう】 

酩酊には2種類ある


(2022年5月)

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