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2023年8月2日水曜日

天城越え('83)   「無常と祈り」の映像風景が揺蕩っている  三村晴彦

 


1  「あたしはハナ」「ハナ?」「そう。咲いた咲いたのハナ。簡単な名前だわ」

 

 

 

現代。

 

静岡県警察本部刑事部嘱託の田島松之丞(以下、田島)が、刑事捜査資料の印刷の依頼で、県内にある港印刷所を訪ね、事務員に名詞と原本を置いて行った。 

田島


病院でレントゲンを撮って会社に戻った港印刷社長の小野寺建造は、その資料を渡されて中をめくると、「天城山の土光殺し事件」に関する記述に目が留まった。 

病院で検査を求められる小野寺建造



それを見て驚きを隠せない小野寺。 



以下、小野寺の回想。

 

「私も川端康成の小説『伊豆の踊子』みたいに、天城を越えたことがある。あれと違うのは、私が高等学校の学生ではなく、14歳の鍛冶屋の倅で、尋常高等小学校高等科の一年生で、朴歯(ほおば)の高下駄ではなく、ゴム裏草履で、小説とは逆に下田から上って峠にかかったことである。そして、家には黙って出て来たことである」(小野寺のモノローグ) 

建造少年


天城トンネル(現・天城山隧道)で


修善寺で印刷屋の奉公をしている兄を頼り、下田の鍛冶屋を家出した建造は、呉服の行商人と語らいながら旅をする。 

呉服屋


途中、行商人と別れ、急に心細くなった建造。

 

「私は後悔し始めていた。知らぬ他国の知らない人間ばかりの中に、一人突入していくことが、空恐ろしくなりかけていた。今から引き返し、夜通し歩けば、朝には下田に帰れる。そう思い始めていた」 



結局、下田の家に戻った建造だったが、母と叔父の情交を見て衝撃を受け、港に行って佇んでいた。 

下田の実家前で


母と叔父




建造に目撃されたことが分かった母は、建造の元に走り寄り、肩を抱いて泣き咽ぶ。 


建造もまた涙を一筋流すのだった。

 

昭和15年6月29日午前10時、県警本部に上狩野村湯ヶ島巡査駐在所より殺人事件の一報が入り、田島は主任の山田警部補と共に、現場の天城トンネル付近の捜索に向かった。 

事件の一報を受ける田島刑事


現場検証に臨む田島と山田警部補(左奥)



河原に散乱する衣類や所持品の遺留品のみで死体は発見できなかったが、少し先の製氷所の氷蔵(こおりぐら)でオガ屑の上に裸足の九文半の足跡が見つかり、男性ではなく、女性のものと判断された。

 

大雨の中、懸命に川底で死体の捜索をするが見つからず、田島らは身元の分からない被害者の遺留品の法被(はっぴ)を手にして、土工風の男の聞き込みをして回る。 


煙草屋で、事件のあった28日の5時頃に、一言も発しない気持ちの悪い40歳くらいの大男がタバコを買って、天城峠の方へ向かい、その後一時間くらいして、垢抜けした玄人風の裸足の女も峠を上って行ったとの証言を得た。 


その男が所持していた傘に記された土屋良作(りょうさく)の名の主を訪ねると、良作らは草むらに寝転がっていた土工に酔っぱらって小便をかけてしまったことを詫び、宿屋へ連れて行ったと言う。

 

田島は良作とその宿屋の主人から話を聞くことになった。

 

「良作さんたちで宿賃出し合って」と宿屋の主人。

「ここんとこ、しょっちゅう雨だしね。あんな体で病気があるみたゃで。朝発つとにゃぁ、まあ念のためだ、声をかけておくれと、俺んちも教えて」と良作。

「そんで傘盗まれて」と良作の妻。 

左から宿屋の主人、良作、良作の妻


田島は宿帳を見せてもらうが、「いくら聞いても、在所も名前も本籍もなんも」分からないので、仕方なく書いたという土工の腕の入れ墨の桃の絵が宿帳に記載されていた。

 

久しく布団に寝たのがないのか、こんこんと眠り、朝も昼も起きず3時ごろ宿を発つとき、宿屋の主人は餞別として、「この人をよろしく」と一円札の裏に赤鉛筆で書いて渡したと話す。 

土工風の男に餞別を渡したことを話す


「情けは人のためならず。この男がもしもどこかで行き倒れても、懐に一文もなしじゃ、弔ってももらえにゃぁだ」

 


程なくして、建造の家に田島が聴き取りにやって来た。

 

「女の人と一緒だったね」


「はい」

「誰?その人」

「知りません」

「君、トボケちゃいかんよ」

 

ここで、建造はハナと会った時の様子を田島に話す。

 

「あたしはハナ」

「ハナ?」

「そう。咲いた咲いたのハナ。簡単な名前だわ」 

大塚ハナとの出会い




ハナとは色々話したが、用があると言うので別れたと話す。

 

田島に大きな土工風の男を見たかと聞かれ、見たと答える建造。

 

「トンネルの中で後ろを見たら…」

 

「出来事の知らせを受けてから、実に12日目の7月10日に死体が発見された。それは山葵沢(わさびざわ)から更に1里ばかり下流の滑沢(なめさわ)の橋杭(はしくい)にかかって発見された。死体は腐乱甚だしく、ひと目では見分けのつかぬ状態だったが、腕の刺青で問題の土工風の男と断定できた。解剖の結果、他殺と断定。犯人は鍛冶屋の倅が見た女を最も有力な容疑者と見、捜査はその女に絞られた」(田島のモノローグ) 

土工の死体が発見される

出征兵士が見送られる下田の港に、ハナを乗せた船が着き、建造は、田島にハナが連行される様子を目の当たりにする。 


「見せもんじゃないよ!」と野次馬に凄むハナ。 


署に着き、田島から名前を訊かれると、「大塚ハナ」と答えるが、現住所は言えなかった。

 

「ねぇ、もういい加減にしてくれない?こんなとこに長居ごめんだよぉ。あたしさ、そんな土工なんて殺してないってば」


「ふざけんな!」

「こっちの言うことだ!」

「証拠がある!」

「どんな証拠だ。見せとくれよ」

 

田島はハナの頬を思い切り平手打ちする。 


建造が連れて来られ、対面すると満面の笑みを浮かべるハナ。

 

「兄(あに)さん」 



田島は建造に質問する。

 

「君は、トンネルのところで別れた時、この人は大男の土工と話をしてた。間違いないね?」

「はい」

 

それだけ聞かれると、部屋を出される建造に、ハナはもっと話をさせてと懇願する。

 

「兄さん、助けてよ!」

 

田島はハナを叩(はた)き、更に、憚(はばか)りに行こうとするハナを抑えつけ、自白を強要する。

 

「事件の時、天城峠には、被害者の土工のほか、お前と今の少年しかいなかった!」


「だったら、やったのあの子だっ…」

ここまで言いかけて、口を閉ざすハナ。

 

黙秘するハナは、夜になり口を開く。

 

「お願い、憚りに行かせて」

「しゃべる気になったか」

「証拠があるなら、並べて見せてよ。そんなもん、あるはず…」

「まず第一の証拠。氷蔵の足跡だ…」


「知るもんか、そんなとこ、あたしが」

「君、足は何文かね?」と山田。

「九文半」

 

氷蔵(こおりぐら)など知らないと言うハナに、当日、雨宿りで中に入ったが、冷えて寝られないので、湯ケ野の旅館へ泊ったと、田島は自身の推理を押し付ける。

 

「お前は、6月28日午後1時ごろ、住み込み先の修善寺の料理店西原方から、着の身着のままの無一文で足抜け逃走した。いい加減に、吐いたらどうだ!」と山田。 


虎の子の一円で泊ったとハナが話すと、田島が「この人よろしく」と書かれた一円札を見せる。

 

「どうしてお前が土工の一円札を持ってた!」

 

ハナは憚りに我慢できずに立ち上がって向かうが、取り押さえられ、田島に殴り飛ばされた。

 

「人でなし…」 


ハナは田島らを悔しそうに睨みつけ、涙を流し、失禁してしまうのだ。 

我慢できず失禁してしまう


その様子を見て、呆然とする刑事たち。

 

一方、建造は母が叔父の下宿先へ行っている間に、匕首(あいくち)を鍛冶場で燃やして叩き潰していた。 


大塚ハナが土工殺しの犯行を自白したと新聞で大きく報道されるに至る。 


それを目にした建造は雨の中を走り抜けていくのだ。 


そこに、ハナのモノローグがオーバーラップしていく。

 

「わたくし、大塚ハナは天城峠付近で被害者と出会い、金を得る目的で自分の方から持ち掛け、交合しましたが、約束通り金を払わないので、カッとなり、兼ねて懐に所持していた匕首を出して斬りつけ、下の谷に転がり落としたところ、本人は絶命していました。そこで、金はないかと思って滅茶滅茶に衣類を脱がしたところ、一円札が一枚出てきたので、それを奪い、死体と凶器の匕首を捨て、逃走しました。胴巻きの中にあった財布は…」(ハナのモノローグ) 


新聞記者たちが群がる中、田島に押送(おうそう)されるハナは、編み笠を振り払い顔を出す。


 

野次馬の中で佇む建造と目が合ったハナが立ち止まって見つめ返すと、建造は立ち所に泣き顔となる。 


ハナはうっすらと笑みを浮かべ、顔を横に小さく振り、「さようなら」と呟いて、車に押し込められ去って行った。 





2  「頼もしいじゃない…あらいやだ、意気地なし」

 

 

 

現代。

 

田島が出来上がった印刷物を受け取りに、小野寺の元にやって来た。

 

「これは、私がまだ二十六、七。刑事になって、初めてぶつかった殺しです…」


「失敗談と申しますと?」

「凶器です。凶器の発見できぬまま、容疑者の押送に踏み切りました。果たして裁判で、大塚ハナが証拠不十分で無罪。本人が自供を翻したこともありますが」

「そう、書いてありますね」

「しかし、最大の失敗は、我々警察が初めっから彼女を犯人(ほし)と思い込んでしまったことです。彼女の自供で本当だったのは、最初の部分。つまり、一円は被害者の土工と売春行為の代償として貰ったという、そこだけで、後は…」


「すると、あなたは無理やり?」

「問題は、氷蔵に残されてた九文半の女の物と思われた足跡。あれはハナの足にピッタリで、おまけに彼女は裸足だった。それでもう我々は、すわこそと。そして実に簡単なことをうっかりとは」

「簡単?」

「九文半は男にだってありますよ」


「男?」

「子供です」 


小野寺の表情が一変する。

 

「14.5歳の少年なら、ちょうど…あの時、ちょうど大塚ハナと天城峠の途中まで同行していた少年がまさに14歳。彼は下田の鍛冶屋の倅で、あの朝、家出して、湯ヶ島の先まで行き、そこから引き返した。そして大塚ハナと偶然出会ってる。ハナとはトンネルのところで別れ、先に峠を下ったと答えてる。ところが、後で調べてみると、少年が下田の家へ帰ったのは、29日の午後なんですな。28日、即ち事件当日の晩、少年は一体どこにいたか?我々がそれを深く追及しなかったのは、14歳の少年だから、事件には無関係だと初めから決めてかかったから。迂闊でした。私は、少年はあの晩、氷蔵にいたと思います」


 

ここで小野寺の表情は固まる。

 

「しかし」

「しかし?」

「なぜ?」


「なぜ?小野寺さん」

「あんな湿った、冷たい氷蔵のオガ屑の上に…」

「あたし、最近面白い話仕入れましてね。信州の方なんですが、天然氷をやってる連中なんか、夏の暑い時、氷蔵の中で昼寝するんだそうです。まず、梯子(はしご)を横にしましてね。その上に板を並べ、そこに寝るって言うんですな。これだと、濡れたオガ屑はつかないし、涼しくて、なかなか快適らしい。そう聞くと、確かあの時も、梯子が氷蔵の隅に立てかけてあったようだし、板切れも2、3枚」


「アイディアですね」

「少年に突っ込んで聞くべきでした。必ず少年は何か…そうすれば、事件は別の解決になったかも。後悔先に立たずです…しかし、いずれにせよ、もう40年以上経った昔のことです。たとえ今頃犯人が分かったにせよ、もうとっくに時効です。殺人の事項は15年。すでにその3倍近い年月が経ってしまってるわけですからなぁ」

「田島さん。時効って、何でしょうか?」

「それは、あくまでも法秩序の安定のために、人間が考え出した制度ですな。つまり、罪そのものに時効なんてない」

 

【以下、法務省の「公訴時効の改正について」より① 法定刑の上限が無期の懲役・禁錮であるものについては,公訴時効期間が30年に, ② 法定刑の上限が20年の懲役・禁錮であるものについては,公訴時効期間が20年に, ③ 法定刑の上限が懲役・禁錮で,①及び②以外のものについては,公訴時効期間が10年に, それぞれ延長されました】

 

少しの間ができる。

 

「大塚ハナは、どうしたんでしょうね?」

「死にましたよ。肺炎でね。無罪にはなったが、大塚ハナは結局、娑婆の空気を吸えなかった。あの女の死顔は、菩薩のように美しかった」 


小野寺は、思わず顔を歪める。 


「私の失敗の罪にも、時効なんてない」

 

田島は印刷物を持って帰ろうとして、振り向きざまに小野寺に問う。

 

「小野寺さん、一つだけ、どうしても私には分からんことが。動機です。もしあの夜、氷蔵に泊った少年が土工殺しの犯人だとして、なぜ、殺したんでしょ?物取りじゃない。どんな理由が、何があって、少年はあんな惨たらしく少年は土工を殺せたのか。この動機の疑問だけが、私にはどうしても解けないんです」 


そう言い残して立ち去る田島が、振り向いて小野寺を見ると、苦しそうに腹を抱えていた。

 

ドアを閉めた小野寺は、嘔吐を抑え、もがき苦しむ。

 

ハナとの出会いを回想する建造。 



建造が家へ帰る道で休んでいると、目の前を妖艶な女性が通り過ぎ、声をかけ、二人は一緒に下田へ向かうことになった。 



滝壺にかかる橋で、建造は自分の名前を言い、女はハナと名乗った。 



暗くなり、建造の足指の付け根の痛みが増し、ハナは煙草に火をつけて、傷口の様子を見る。 


ハナのマッチが点かず、建造は野宿のために持っていたマッチを上げると、ハナが捨てようとするマッチ箱を「ください」と受け取った。

 

ハナは、建造の足を膝の上に乗せ、被っていた手拭いを裂き、丁寧に傷の手当てをしてあげ、その間、建造はハナの脰(うなじ)や唇を見つめ続ける。 


ハナは建造の勃起に気づき、手をやる。

 

「頼もしいじゃない…あらいやだ、意気地なし」  


ハナは、「二人ともおけらパァすけ」と建造の足を抱く。

 

「パァすけ同士、一緒に野宿する?」

「うん。今夜は雨ずら」

「…どこか、濡れない場所探して」 


建造もハナに促され、草履を脱いで歩き出す。

 

ハナが田端義夫のヒット曲『大利根月夜』を歌い出す。

 

「“あれを御覧と 指差すかたに♪”知ってる?」

「“利根の流れを ながれ月♪”」 



2人は夜道を歌いながら歩いていると、前方にぼんやりと大男が目に入る。

 

「あの人、何だろう?」

「流れ者の土工ずら。あいつが変な事したら、僕…」


「兄さん、悪いけど、あんた先行ってちょうだい」

 

建造の言葉に耳を貸さないハナの反応に驚いて、ハナの顔を見る。

 

「あたし、あの人に用事があるからね。暇がかかるかもしれないから、あんた、先行ってよ」


「じゃ、ここで待ってる」

「待ってなくてもいいから。あんた、さっさと先に行きなさい」

 

強い口調に心外な表情の建造に、今度は優しく諭すように話すハナ。

 

「…あたしね、あの人に是非話があるんでね。先行って頂戴。話が済んだら、また兄さんに追いつくから」

 

ハナに押し出され、建造は走って土工を追い抜き、トンネルをゆっくり歩いて後ろを振り向くと、ハナは土工に耳打ちするように立ち話をしている。 



それを見た建造はトンネルを走り抜けると、再びトンネルを走って二人が立っていた地点へ戻り、近辺を探し回っていると、ハナと木工の喘ぎ声が聞こえてきた。

 

建造は恐る恐るそちらの方へ向かい、木陰から二人の交合を覗き見する。 



しつこく纏(まと)わりつく土工に、ハナは「もう、あんた、済んだろ。しつこいのはご免なんだよ」と引き離し、受け取った1円札を振りながら、釣りはないと、さっさと去って行く。 



そこで、建造は土工と目が合ってしまうが、土工はそのまま荷物を抱えて去る。 


建造は手に握りしめた匕首を掲げ、叫びながら座っている土工へ突進してメッタ刺しにし、河原に転がり落ちながら逃げる土工を執拗に刺しながら追い駆けていく。 


建造に服を剥(は)がされた土工は、川に逃げ込み息絶えるのだ。 



現代。

 

手術中の小野寺の手に握り締められていたお守りが落ち、廊下で待っている田島に渡される。 



お守りの中には、ハナから貰ったマッチ箱の貼絵が収められていた。 


それを見た田島は、小野寺のハナへの強い思慕を知り、殺意に繋がる動機を理解したのだった。  


手術中の小野寺の脳裏には、ハナとの出会い、最後の別れとなったハナの表情、事件があった天城峠のトンネルとハナの歌声が、次々と走馬灯のように駆け巡っていた。 


 

 

3  「無常と祈り」の映像風景が揺蕩っている

 

 

 

「僕が 『天城越え』 で描きたかったことの一つは、 無常と祈りです。 この世の中で一番、 残酷なのは時の流れです。 人間は生まれた時からずっと死に向かって歩いていく。 だからこそ、 時の流れは残酷で無常なんですよ。 その無常とそうした人生を歩む人間への気持ちを込めた」(「映画 『天城越え』 についてのインタビュー記録三村晴彦篇 その 2」より) 

三村晴彦監督



三村監督のこのメッセージから、鎌倉幕府が誕生する動乱の時代を生きた鴨長明の「方丈記」の有名な一文が垣間見える。

 

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまる例(ためし)なし。世の中にある人と(すみか)と、またかくの如し」 

「方丈記」


【現代訳/流れる川の流れは絶え間ないが、しかし、その水はもとの水ではない。淀みの泡沫(うたかた=水面に浮かぶ泡)は消えては生じ、そのままの姿で長く留まっていることがない。世の中の人と住まいも、これと同じなのである】 

鴨長明


世の全てのものは常に移り変わり、いつまでも同じものはないという、中世以降に定着する日本人の無常観を凝縮した表現であり、そのコアには仏教的な観念が張り付いている。

 

―― まさに、時の流れは残酷である。

 

戦時下で起こった殺人事件など呆気なくスルーし、マルチスピード化する世界に向かっていく社会の初発点の象徴として、新幹線が走る高速社会に変貌していた。

 

事件の少年は今、何某かの病に罹患しながらも印刷所の社長に収まり、何の不自由もない穏やかな日常を繋いでいるように見える。 


ただ、ラストの外科手術に立ち会ったのが静岡県警の嘱託という肩書きを持つ元刑事の田島のみであった状況から、小野寺建造が家族を持たないか、持っていたとしても既に別れていたとも推量できる。 


このワンカットの含意は軽視得ない。

 

なぜなら、過去を遮蔽し、無化することで時の流れに適応してきたであろう建造が殆ど無意識裡に、特定他者との共存を回避する〈生〉を繋いできたとも考えられからである。

 

事件を起こした少年は、あの時、凶器の匕首(あいくち)を鍛冶場で燃やし叩き潰した。 


これで事件は、少年の記憶から消去されていく。

 

「事件は存在しなかったのだ」

 

そう考えることで、事件を忘却の彼方へ押しやった。

 

殺害した土工に対する罪悪感など皆無である。

 

むしろ、天罰であるとさえ思っているのかも知れない。

 

家出を余儀なくされるほど、母と情交する叔父への憤怒が、精神障害と思しき土工殺しに転嫁されたと推し量るのが自然である。 

建造に縋って泣き続けるばかりの母



そればかりではない。

 

思春期エロスの決定的な対象と化すと同時に、人々に最強の至福を授けてくれる菩薩の如きハナを奪い取ったこの男だけは絶対に許せなかった。 


事件については時の流れに委ねるのみ。

 

南北朝時代の動乱期に、「世は定めなきこそいみじけれ」(この世は無常である)と書き残した吉田兼好の随筆「徒然草」のように、無常なる世の流れに身を任せて、何もかも捨てていく。 

「世は定めなきこそいみじけれ」


観念的には、そういうことだろう。

 

然るに、捨てたくとも捨てられない記憶がある。

 

思春期エロスのそれ以外にない対象となったハナの存在である。

 

同時に、犯人とされ拘束されたハナに対する罪悪感。 


これが少年の自我の底層に澱みながら共存し、漂動していた。

 

それでも、いつしか忘却する。

 

あれほど大きく報道された事件だったから、その後、戦時下で彼女が無罪になった事実を知ったことで安堵したことだろう。

 

このことは、田島から印刷を依頼された事件の資料を読み、無罪と書かれていても動揺しなかった小野寺の態度を見れば十分了解し得る。

 

ただ思春期エロスを激しく揺動させたハナとの交叉は、一種異様な特別な経験だったに違いない。 



ハナに対する深い思いがお守り袋の中に固着して、肌身離さず持ち歩いていた事実の重みは蔑(ないがし)ろにできようはずがない。

 

「さよなら」と小さく呟いて、ハナが残した最後の笑みは、小野寺建造の生涯に大きな影を落とすに足る絶対的なギフトだった。

 

だから、余計に辛かった。

 

これが家族を持たないように見える男の後半生の生活風景の様態だったか否か、知る由もない。

 

ハナとの特別な経験をお守り袋の中に閉じ込め、ハナの後半生が幸(さち)あることを祈ることで、いつしか希薄になっていく。 


時の流れは残酷なのである。

 

三村監督の言う「無常と祈り」の映像風景が、そこに揺蕩(たゆた)っている。

 

この世は無常なのである。

 

無罪になった事実によってのみ救済された少年の罪悪感も、時の流れと共に希薄になっていったのだ。

 

ところが、訪問目的を隠し込んでいた田島の来訪(名目は印刷資料の受け取り)を受け、小野寺建造の人格総体が崩れ去っていく。 


「無罪にはなったが、大塚ハナは結局、娑婆の空気を吸えなかった。あの女の死顔は、菩薩のように美しかった」 


この田島の決定的言辞で、無常なる世の流れに身を任せて呼吸を繋いできた小野寺建造の中枢が穿(うが)たれてしまった。 


男の祈りが絶望的なまでに砕かれてしまったのである。

 

オペ中の回想シーンで映し出されるのは、その「菩薩のように美しかった」ハナが残した最後の笑みだった。 


もう、復元し得ない過去の鮮烈な記憶が蘇生し、男の〈生〉の不安定な現在性だけが、そこに晒されているのだ。

 

男のオペに寄り添う田島もまた、「私の失敗の罪にも、時効なんてない」という言葉を吐き出し、自らを責め続けてきた冥闇(めいあん)なる時間に翻弄されてきた歴程なる個人史がある。 


ラストで、二つの魂が融合した時、何が変わり、何が生まれるのか、誰も知る術もない。

 

そういう映画だった。

 

ーー 昔、テレビで観た時の率直な感懐が失望感しか残らなかったのは、少年を演じた子役の演技が拙すぎたことと、犯行動機が喋々しく思えたからである。


観直してみて、正直、後者の点についても、事件後も少年のアップを強く押し出すことで内面処理する安直な手法が気になった。


先述した作り手のメッセージは理解できるが、ストーリーの核心を、「俺の女に手を出すな!」というレベルの説得力しか持ち得なかったというのが、私の率直な感懐。


映像強度の脆弱性を、田中裕子の圧巻の表現力のみで引っ張るには些か無理がある。


加えて言えば、演出のミスなのか、渡瀬恒彦の老け役が不自然だったことも、最後まで腑に落ちなかった。


ただ、被害者の土工を「悪人」にせず、寧ろ、障害者と思しき同情すべき男として描いた点はとてもいい。

 

少年への不必要な共感感情を掻き立て、勧善懲悪的な愚を犯す作品に堕することから解放されていたからである。

 

それにしても、田中裕子の圧倒的存在感。


若くして、これだけの演技を見せつけられて、プロの俳優の凄みに言葉を失う。

 

さすが、今なお主演を演じ切る日本が誇る大女優である。                                               

 

(2023年8月)

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