1 「私が怖いのは、あなたと離れることです。私の望みは、ただ、あなたといることなんです」
一九四〇年 神戸生糸検査所
英国人のドラモンドが、軍機法(軍機保護法)違反で憲兵たちに連行された。
ドラモンド(中央)と文雄(右) |
貿易会社を経営する優作の元に、取引先の友人でもあるドラモンドがスパイ容疑で逮捕されたと、優作の幼馴染の泰治が報告にやって来た。
神戸憲兵の分隊長である泰治は、外国人を相手に仕事をする優作と、共通の幼馴染の妻・聡子の先行きを心配し、警告する。
泰治と優作 |
神戸の豪邸に住む優作は、趣味である8mmフィルムの映画を製作し、妻・聡子にスパイ役を演じさせていた。
8mmフィルムの映画での聡子(さとこ) |
優作が多額の罰金を払い釈放されたドラモンド(右)が、自宅を訪れ上海に発つことを夫婦に告げる。
その優作は、大陸を一目見たいと、趣味の映画の撮影機材を持ち、甥の文雄を連れて、満州へ旅発った。
聡子が女中を連れ、山に自然薯(じねんじょ)を掘りに行くと、天然の氷を取りに来た泰治と偶然出会い、自宅に来るよう誘う。
福原邸に呼ばれた泰治は、ここでもまた、洋装し、舶来のウィスキーを飲む暮らしを享受する聡子に警告する。
予定より遅れて帰国した優作を出迎え、抱き締める聡子。
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優作を出迎える聡子
しかし、優作が一人の女を連れて帰って来たことに、聡子は気づかなかった。
草壁弘子 |
昭和15年、福原物産忘年会の場で、優作が制作した映画が上映された。
社員全員に砂糖と餅が支給され、一年の勤労が労われた。
その場で、文雄は小説を書くために会社を辞め、有馬温泉に籠ることを発表する。
「大陸で、実際の戦争を目にして思いました。いつ呼ばれるか分からぬ身ですから、そうなる前に、何か一編でも後世に残せるようなものをしたためておきたい」
会社に残る聡子と優作。
「文雄さん、どこか前と変わってしまった」
「冒険心に火が付いたのさ。満州で…聡子、僕はアメリカに行くかも知れない」
対日輸出制限をしたアメリカが敵になる前に、渡米すると言うのだ。
「見ておきたいんだよ。もう一度…摩天楼を見ないで死ねるか!」
後日、優作が帰国の際に連れてきた女・草壁弘子の水死体が見つかった。
この件で、泰治に呼び出された聡子は、優作の斡旋で、弘子が文雄の逗留する旅館に女中として働いていたことを知らされた。
殺人事件に優作は関わっていないが、文雄との痴情の縺(もつ)れが疑われているようだった。
「お呼びしたのは、あらかじめ、心構えをしていただきたかったからです」
「どんな心構えを?」
「あなたと、あなたのご亭主が、これからどう振舞われるか、我々はそれを注視しています」
何も知らされていなかった聡子は、食事中に優作を質した。
「お願いです。本当のことをおっしゃって下さい。こんな気持ちは結婚以来、初めてです。私は急にあなたのことが、分からなくなりました」
「問わないでくれ。後生だ。僕は断じて恥ずべきことは何もしていない。ただ僕は、君に対して嘘をつくようにはできていない。だから、黙るしかない」
「そんなの、嘘と変わりません」
「君がどうしても問うなら、僕は答えざるを得ない。だから、問わないでくれ。僕という人間を知ってるだろ。どうだ、信じるのか、信じないのか」
「卑怯です。そんな言い方」
涙声で反駁(はんばく)し、黙考した聡子は、優作の問いに答えた。
「信じます。信じているんです」
「この話は、これで終わりだ。いいな」
その夜、聡子は悪夢にうなされた。
優作が聡子と泰治の関係を疑い、死んだ弘子と一緒に、優作の嘘の上手さを笑っているという夢だった。
優作の遣いで、旅館の文雄の元にやって来た聡子は、事実を聞き出そうとする。
「あなたは何も分かっていない。あなたが、安穏と暮らすために、おじさんがこれまでされたご苦労を、何もご存じない!」
「おっしゃってる意味が、分かりません!」
「その通り!あなたは、何も見なかった。あなたには、分かりようがない!」
そう叫んだあと、胸を抑える文雄は、今度は静かに吐露する。
「失礼しました。何も知らない者にこそ、わずかな希望があるのかも知れない」
そう言って、紙包みを聡子に渡す。
「これをあなたに託します。決して開封せず、おじさん以外の誰にも渡してはいけない…英訳がやっと終わった、おじさんにはそのように」
聡子は、文雄から預かった書類を優作に渡す際に、封を開けて中身を見てしまう。
「やはり、知らなければ、何も信じることはできません」
優作は聡子に、これまでの経緯を説明する。
満州へ行った優作と文雄は、医薬品の便宜を打診するために、関東軍の研究施設に行くことになった。
道すがらに、電車の中から、人間の遺体が焼かれる小山をいくつも目撃する。
それはペストによる死体の山で、関東軍の細菌兵器の犠牲者であった。
関東軍が秘密裏に、生体実験が行なっている事実を内部告発しようとする軍医は処刑され、その愛人であった看護婦である弘子にも身の危険が迫り、優作たちは行きがかり上、彼女を救うことになった。
弘子は、その軍医から動かぬ証拠として、生体実験を詳細に書き残したノートを託されていたからだ。
聡子が文雄から受け取った書類は、その実験ノートと英訳した書面だった。
そこには、ペスト菌の散布だけではなく、捕虜を使った生体実験の様子まで克明に記録されていた。
「こんなことは、決して許されるものではない!」
優作の話を聞かされた聡子は、この文書をどうするのか尋ねた。
「英訳したノートをどうするおつもりです?」
「この証拠を、国際政治の場で発表する。特にそこがアメリカなら、戦争に消極的なアメリカ世論も対日参戦へと確実に導くことができる」
「アメリカが参戦すると、どうなります?」
「日本は負ける。遅かれ早かれ、必ず負ける」
「それでは、あなたは売国奴ではありませんか!」
「…僕は、コスモポリタンだ。僕が忠誠を誓うのは国じゃない。万国共通の正義だ。だから、このような不正義を見過ごすわけにはいかない」
「あなたのせいで、日本の同胞が何万人死ぬとしても、それは正義ですか?私まで、スパイの妻と罵られるようになっても、それがあなたの正義ですか?あたしたちの幸福は、どうなります?」
「不正義の上に成り立つ幸福で、君は満足か」
「私は正義より、幸福を取ります」
話は平行線だった。
「あなたを変えたのは、あの女です。あの女がその胸に棲みついたんです!」
聡子は、優作不在の会社に行き、倉庫の金庫に保管された実験ノートを持ち出し、あろうことか、それを神戸憲兵の分隊を仕切る泰治に差し出したのだ。
満州で撮ったフィルムを盗み見る聡子 |
泰治に渡したノート |
ノートを読んで驚く泰治 |
文雄は逮捕され、激しい拷問を受けるに至る。
優作もまた憲兵に連行され、文雄は自分がスパイであることを認め、実験ノートの持ち出しを単独で遂行したという自白の事実を聞かされる。
そして泰治は、優作の掌(てのひら)に、拷問で剥(は)がされた文雄の両手の爪を、散り散りに載せたのである。
「誰が通報した?」
「あなたもよくご存じの方だ。私はその人を不幸にしたくない。まだ間に合います。心を入れ替えて、お国のために励みなさい。それで、この件は終わりだ」
爪が載せられたた掌で動けず、正面の文字を見る |
自宅に戻った優作は、聡子を嘲罵(ちょうば)した。
「密告屋!しかも、泥棒まで。君は、幼馴染の口車に乗って、僕ら二人を売った。よくもまぁ、そんな涼しい顔をしてられるな!」
「文雄さんは、あなたを守る。私はそれに賭けました」
文雄の両手の爪を見せられた聡子は、平然と言ってのけた。
「大きな望みを果たすなら、身内も捨てずにどうします?」
「君のせいで、文雄は地獄行きだ」
「大望を遂げるための犠牲です。文雄さんも、お分かりでしょ。だから、あなたも帰ることができたんです」
そう言いながら、聡子は残る英語版の実験ノートを取り出した。
しかし、原本がなければ信用されないという優作。
「あなたが私を責めたいのは分かります。それでもあなたは、私を信用くださらなくてはなりません。もう、あなたには私しかいないんです」
こう言うや、優作に厳しい視線を放った聡子は、窓を閉め、優作が持ち帰ったフィルムを上映した。
そこには、実験ノートの原本の中身と、研究所の建物、実験の様子、犠牲者の捕虜とその死体が映し出されていた。
最も重要な情報を共有せざるを得なくなった優作は、正直に吐露する。
「関東軍による人体実験記録フィルムを再撮影したものだ。弘子に入手させた。帰国と交換条件で」
「このフィルムと英訳のノートがあれば、あなたの志を果たすことができます。アメリカへ渡りましょ!私たち二人で」
情報を共有した夫婦は、証拠の品を廃屋に隠した。
「僕はスパイじゃない。僕は自分の意志で行動している。スパイとは全く違うものだ」
「どちらでも結構。私にとって、あなたはあなたです。あなたがスパイなら、私はスパイの妻になります」
映画館での日本軍の仏印進出のニュースを見た後で、バスに乗る二人の会話。
「アメリカがとうとう石油の対日輸出を禁止したそうだ。ABCD包囲網の完成だ。これで、正規の手段では、アメリカへ行けなくなった」
「優作さんは、あの女とアメリカへ行くつもりだったんですか?」
「まさか。単に保護者のフリをして、二人分の渡航申請をしただけだ。その方が怪しまれない。行くのは彼女一人だけだ」
「本当ですね?」
「もちろん」
「では、やっぱり、優作さんと行くのは、私ということになりますね」
「だが、どうやって。方法は一つしかない。亡命だ」
自宅に戻ると、早速、出国の計画を話し合う。
優作が提案したのは、危険を分散するために、二手に分かれて渡米するということだった。
聡子はフィルムを持って貨物船のコンテナに隠れて2週間を過ごし、優作はノートを持って上海に行ってドラモンドに託した人体実験の映像フィルムを買い戻し、最終的にサンフランシスコで二人が落ち合ってから、ワシントンへ向かうという計画だった。
「君にはフィルムを持って貨物船に乗ってもらう」 |
一人で行く不安を訴える聡子に対し、船長も懇意で十分な手配をする説得を試みるが、不安を払拭できないと言う聡子。
「どこかで、誰かを信じるしかない。この大仕事を二人だけで やり遂げようとしてるんだ…強くなってくれ」
「捕まることも、死ぬことも怖くありません。私が怖いのは、あなたと離れることです。私の望みは、ただ、あなたといることなんです」
かくて、夫婦の亡命作戦が開かれるのだ。
2 「これで、日本は負ける。戦争も終わる。お見事です」
夫婦の亡命作戦は呆気なく頓挫する。
車で家を出た二人は、優作が先に降りて、聡子は埠頭(ふとう)へ行き、貨物船に乗り込んだ。
ところが、コンテナに身を隠した聡子だったが、乗り込んで来た憲兵たちに、船長は匿う約束をあっさり翻意させられ、当局に連行されてしまうのだ。
「機密漏洩、国家反逆、外患陰謀(外患予備・陰謀罪のこと/外国と通謀して武力行使させる国家反逆罪)、あなたにかけられた嫌疑は立証されれば、全て死刑です」
泰治は、聡子にこう宣告した。
ところが、聡子が持っていたフィルムを上映してみると、それは何と、優作が制作した聡子が主演のスパイ映画だったのだ。
夫の意図を理解したのか、聡子は走ってスクリーンの前に立ち、大笑いした。
「お見事!」
その瞬間、聡子は倒れ落ちた。
直後は、上海に向かう小舟の上から帽子を振り、別れを告げる優作の姿だった。
一九四五年 三月
聡子は精神病院の大部屋にいた。
そんな彼女に面会者がやって来た。
優作も旧知の野崎医師であった。
更に、ボンベイを出て、ロサンゼルスに向かったアメリカの客船が、日本の潜水艦によって撃沈されたという情報があると聞かされるのだ。
野崎は、聡子に精神病院を出られるよう手配し、野崎の家で療養するよう申し出る。
「それには、及びません。いいのです。何だか、ひどく納得しているのです。先生だから申し上げますが、私は一切狂ってはおりません。ただ、それはつまり、私が狂っているということなんです。きっと、この国では」
これが、映像が提示した聡子の究極のメッセージとなった。
神戸の夜に、激しい空襲があった。
53万人の罹災者と約7500人の死者を出した、三度に及ぶ「神戸大空襲」(Wikipedia)である。
逃げ惑う患者たち。
火のついた病室に、ぼんやり立っている聡子。
「これで、日本は負ける。戦争も終わる。お見事です」(モノローグ)
聡子は、一人、夜の浜辺に出て、大声で泣き叫ぶのだ。
一九四五年 八月 終戦
「翌年、福原優作の死亡が確認された。その死亡報告書には偽造の形跡があった。数年後、福原聡子はアメリカに旅発った」(キャプション)
3 「コスモポリタン」を無化した女の情愛が、地の果てまで追い駆けていく
男は一体、何者だったのか?
映画を観ていて、終始、思いを巡らせたのは、この問題意識だった。
二人で映画を観ながら、配偶者に台詞を書き起こしてもらい(手が不自由なので)、それを読み返し反芻(はんすう)しても、この問題意識のみが膨らむばかりだった。
なぜなら、脳裏にこびり付いて引き剥(は)がせない、映画の中枢人物・優作の物言いがあったからだ。
夫婦の会話の中で放たれたその言辞を、もう一度、起こしてみる。
「この証拠を、国際政治の場で発表する。特にそこがアメリカなら、戦争に消極的なアメリカ世論も対日参戦へと確実に導くことができる」
「日本は負ける。遅かれ早かれ、必ず負ける」
「…僕は、コスモポリタンだ。僕が忠誠を誓うのは、国じゃない。万国共通の正義だ。だから、このような不正義を見過ごすわけにはいかない」
「不正義の上に成り立つ幸福で、君は満足か」
以上の物言いである。
後述するが、「私は正義より、幸福を取ります」と言い切った聡子の心の風景は、狂気を漂わせるほど一貫しているので分かりやすいものの、優作の言辞だけは観る者を惑乱させ、厄介極まりなかった。
ダークパターンとまでは言わないが、観る者をトラップに嵌めるような優作の一挙手一投足を、作り手が映像提示した範疇で消化すればいいということだろう。
以上の問題意識で、映画の構造を考えてみた。
そのコアが、優作の行動分析であるのは言うまでもない。
ここで、二つの仮説を提示したい。
一つは、優作が「コスモポリタン」だったらどうだったかという仮説。
既に死語になっていると思われる、「コスモポリタン」という懐かしい言葉に出会って違和感を覚えたが、実は今でも、「個人対個人として誰とでも対等に付き合おうという世界市民主義」(「Book Japan 下り坂のコスモポリタン」より)というような意味合いで、ネットなどで使われているらしい。(脚本を主筆した、「寝ても覚めても」の映画作家・40代の濱口竜介監督にとって、鮮度の高い概念なのだろうか)
ともあれ、「公精神発祥の地」とも言われ(「近現代神戸の観光空間」より)、1940年の「自由・神戸」のイメージを被(かぶ)した街の中枢にあって、優作は満州行によって「コスモポリタン」として自らを立ち上げるに至る。
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昭和11年。戦前の神戸 |
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20世紀初めに生まれ、「東の浅草、西の新開地」と称される「新開地」は神戸の中心的市街地(ウィキ) |
8mmフィルムを趣味とする優作が、甥の文雄を連れて踏み込んだ満州行の只中で、医薬品の便宜を打診するために、関東軍の研究施設に行き、関東軍の細菌兵器の犠牲者(「731部隊の人体実験」)を目撃する。【731部隊については、拙稿 時代の風景「『状況が歴史を動かす』 ―― 『731部隊』とは何だったのか」を参照されたし】
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「731部隊」秘密研究所の当時の写真
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「関東軍防疫給水部本部」=「731部隊」ボイラー棟建物(ウィキ)
満州から帰還時に、草壁弘子に目配せする優作 |
その後の経緯は、梗概で先述した通り。
どこまでも、「偶然」と「成り行き」だった。
しかし、文雄の変容を問う聡子に対し、優作は明言する。
「僕は、君に対して嘘をつくようにはできていない」
そう言い切ったあと、「信じるのか、信じないのか」と追い詰めて、聡子の自我を宙刷りにする。
「信じます」としか答えられない聡子 |
自分に対する聡子の「絶対愛」を微塵に疑わない夫婦関係の、その感情の落差が垣間見えるシーンだった。
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優作と別れる辛さを訴える聡子(最後の別れ)
一人の貿易商人であるに過ぎない男が、関東軍による人体実験記録フィルムと、文雄が英訳した実験ノートという決定的な「証拠」を最強の武器にして、「戦争に消極的なアメリカ世論も対日参戦へと確実に導く」と言い放ち、「コスモポリタン」として立ち上げた拳を手放さないどころか、「正義」の遂行にコンセントレーション(精神集中)していく。
スーパーマンの誕生である。
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兵の行進に背を向け、尾行から身を隠す「コスモポリタン」 |
然るに、このスーパーマンに抜かりがなかったか。
人体実験記録フィルムと英訳ノートによって米国世論を変えられると、本気で考えたのか。
第一次世界大戦の帰趨(きすう)を決定づけたアメリカの参戦が、128名の米国人が犠牲になった「ルシタニア号事件」(Uボートによる撃沈事件)であった史実を想起すれば、米国世論の「数多の理不尽なる死体が出なければ動かない」という現象(「原則」と言ってもいい)を排除し得ないのである。
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雷撃を受けたルシタニア(ウィキ) |
この現象は、「ルシタニア号の沈没」という世界初、且つ、本格的なアニメ映画(1915年~1918年制作)の制作動機が、ウィンザー・マッケイ監督が米国の参戦を鼓舞することにあった事実で検証できるだろう。
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アニメ「ルシタニア号の沈没」より |
1823年を起点にする「基本・不干渉=孤立主義」で有名なモンロー主義の伝統が、第一次世界大戦への参加を惹起させた、セオドア・ルーズベルト大統領の「棍棒外交」の強権的な外交姿勢の展開によって、孤立主義を転換させつつも、ウィルソン大統領の国際連盟への不参加に象徴されるモンロー主義への回帰を思い返せば、「数多の理不尽なる死体が出なければ動かない」という米国の世論の手強さが容易に理解可能である。
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ジェームズ・モンロー大統領/1823年、「モンロー教書」の中で示した米国の外交理念の提唱者(ウィキ) |
それにも拘らず、一介の貿易商人は、米国世論の革命的遷移を信じ、疾駆(しっく)する。
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「亡命」を決意し、聡子と共に準備を怠らなかった(現金を貴金属に換えている)
ナイーブ過ぎないか。
そうではない。
未曾有(みぞう)の地平に立ち、エピゴーネン(追随者)を否定し、独立峰としての「コスモポリタン」であることの使命感を身体化するのだ。
その身体疾駆の総体が、男のアイデンティティに収斂され、決定的に昇華されていく。
それで充分だった。
一介の貿易商人の絶対命題が自己完結するからである。
あまりに眩(まばゆ)いが、しかし、愛する妻を道連れにするには忍びない。
だから、妻に趣味で作ったフイルムを持たせ、密告した。
愛する妻を「コスモポリタン」の同伴者にするのは危険過ぎる。
再会できない不安を訴える聡子に、「志を果たすことと僕たちの再会は全く同じことだ」と言って励ますが、同伴者にさせられないと考える優作 |
愛する妻を守れない男に、「コスモポリタン」としての価値がない。
その防波堤として用意したのが、野崎医師であったということだろう。
かくて、貿易商人・福原優作は、独立峰としての「コスモポリタン」の使命感を自己完結する。
以上、些か穿(うが)った言及だったが、福原優作=「コスモポリタン」という視座で提示した仮説である。
ここで、もう一つの仮説を提示したい。
「アメリカのスパイ」だったらどうだったかという、危うさに満ちた仮説である。
結論を言ってしまえば、この仮説も弱いが、言及していく。
優作の満州行は、一介の貿易商人に成り済ました男の計画的行為だった。
まず、これが前提になっている。
そこで、関東軍の細菌兵器の完成度の高さを調査する。
調査目的は、中国及び、仏領インドシナからの全面撤兵の提示を求め、日本への最後通牒となった「ハルノート」を突き付ける前の米国が、開戦を想定し、日本の戦力の総体を把握する必要があったこと。
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コーデル・ハル国務長官(ウィキ) |
米国では不可能な細菌兵器の人体実験の情報は、絶対的な価値になる。
既に、米国陸軍による仮想敵国との戦争シミュレーションとして有名な「カラーコード戦争計画」や、米国海軍の戦争シミュレーション・「オレンジ計画」に集約されるように、対日侵攻戦略が練られていた史実は無視できないだろう。
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オレンジ計画 |
言及を続ける。
8mmフィルムの映画製作は、満州行のカモフラージュである。
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主演・聡子、相手役・文雄、監督・優作 |
英国人のドラモンドも、重大な情報を共有するスパイの可能性が高いが、優作に多額の金銭を要求するシーンがインサートされているように、単なる「協力者」であったと考える方が妥当だろう。(しかし、これは優作の話が事実であることを前提としている)
ドラモンド |
では、文雄は何者だったのか。
私を悩ませた人物だが、文雄=スパイであると断定できないのだ。
なぜなら、聡子に対する感情的反応のシーンがインサートされていたからである。
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英訳ノートを渡す前に感情を激発させた文雄 |
スパイの行動の範疇から逸脱してしまうのだ。
ただ、文雄が「冒険心に火が付いた」英雄などではないとは言えるだろう。
優作と文雄が、「生死」で繋がる同志的関係であったことは疑えないと思われる。
だから私は、文雄が「協力者」であったと考えている。
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泰治に敬礼のポーズをとる文雄(左) |
それも、満州行以前から、優作に洗脳された「協力者」だったのではないか。
ここでまた、疑問が残る。
単なる「協力者」が、苛烈な拷問を受けても、優作を庇い続けるだろうか。
根っからピュアな人間だったということか。
ところが、優作の渡米は、思いも寄らない事態に遭遇する。
「見ておきたいんだよ。もう一度…摩天楼を見ないで死ねるか!」
対日輸出制限をしたアメリカが、リアルな敵になる前に渡米すると吐露した男の意味深の言辞が、ここでは重要な伏線になっている。
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対日輸出制限 |
これが自壊の危機に陥ったのである。
憲兵分隊長・泰治への聡子の密告と、禁断のノートの提供。
あり得ないことだった。
その結果、文雄の「殉教」が約束され、泰治の渡米に赤信号が点滅する。
更に、日本への石油の禁輸が発動される。
スパイ行為の範疇で聡子を愛しつつも、彼女を利用し、単独渡米を目論んだ優作は、「夫婦の亡命」というレッドラインを偽装した行為に振れていく。
しかし、どこまでも優作の渡米行は、危険ながらも、単独行でなければならなかった。
聡子との別れを告げるカット |
夫婦行には利得があっても、「優作絶対」の聡子は危う過ぎるのだ。
だから、偽装した。
そして、聡子の逮捕。
優作の密告。
その代わり、聡子を救う行為に振れる。
聡子は、その意味を理解する。
これが、「お見事!」という言辞に結ばれる。
「お見事!」と言う前の聡子の表情 |
「お見事!」 |
前述した通り、聡子にとって、優作がスパイであろうがなかろうが、どうでもよかった。
精神病院の大部屋にいた聡子を、野崎医師が訪問する。
そこで野崎医師は、優作の死を仄(ほの)めかす。
これは、野崎医師に依頼した優作の行動の一環であると思われる。
従って、野崎医師もまた、「単独スパイ」優作の「消極的な協力者」であった可能性があるが、一切は不分明である。
野崎医師 |
ここでまた、疑問が生じる。
なぜ、「単独スパイ」優作は、聡子に「コスモポリタン」であると告げ、大胆な計画を暴露してしまったのか。
聡子を「協力者」にする心積もりであったとしか考えられない。
しかし、この戦略は、それこそ「見事」に頓挫する。
聡子に英訳したノートを知られ、草壁弘子との関係を問われたからだった。
「スパイの妻」であってもいいと考えるほどに「優作絶対」の聡子なら、裏切ることはないと信じた優作は、あまりに意外な聡子の行動を全く想定していなかった。
「単独スパイ」優作の甘さが露呈するのである。
かくて、アメリカの禁輸の発動もあって、亡命作戦を計画し、聡子を置き去りにした作戦を具現する。
以上が、「アメリカのスパイ」という仮説である。
言及してきたように、極めて脆弱な仮説である。
本作の作り手が、優作=「アメリカのスパイ」、それとも「コスモポリタン」説を採用しているかについては不分明である。
映画を観ていて、私が「アメリカのスパイ」説を採用せざるを得なかったのは、聡子が夫を誹議(ひぎ)したように、日本の同胞が何万人死ぬことが想定される「敗戦のための米国参戦」をも覚悟した優作の、あまりに大胆な行動に対する違和感があったからである。
それでも本作は、「夫婦の騙し合い」(黒沢清監督の表現だが、正確に言えば、聡子は優作を騙したわけではない)という要素をふんだんに盛り込むことで、面白い映画に仕立て上げていた。
一切は、「優作絶対」のヒロインの情愛を描き出すこと。
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「私が怖いのは、あなたと離れることです」 |
これが全てのように思われる。
驚くべきことに、このヒロインは、文雄が拷問を受けても冷淡なのだ。
「大きな望みを果たすなら、身内も捨てずにどうします?」
文雄の両手の爪を見せられた際の、聡子の言葉である。
文雄の殉教が約束させた女には、狂気が棲みついているのだ。
そう考える以外にないだろう。
―― しかし私は、それでも優作が「アメリカのスパイ」であったと考えている。
「夫婦の亡命」という、途轍もないレッドラインを越えてまで実行するプロセスの中で描かれる優作の確信的言動を見る限り、彼がスパイであったとしか考えられないのだ。
だから、「翌年、福原優作の死亡が確認された。その死亡報告書には偽造の形跡があった」という、最後に提示されたキャプションに結ばれたのではないか。
これが、私の結論である。
―― 最後に、映画のコアメッセージについて触れておきたい。
「コスモポリタン」を無化した女の情愛が、地の果てまで追い駆けていく。
これがラストシーンの意味である。
本気で「スパイの妻」であろうがなかろうが、どうでもよかった女の情愛の凄み。
ここに、映画のコアが読み取れる。
要するに、この映画は、女の情愛の凄みを描き切るために、優作を「絶対正義のコスモポリタン」として、泰治を「発狂した女を救う神戸憲兵の分隊長」として最大限に利用した、「基本・エンタメムービー」だった。
しかし、映画的には、最高のエンタメムービーだった。
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黒沢清監督 |
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「スパイの妻」の優秀なスタッフ。左から野原位(のはらただし/脚本担当)、黒沢清監督、濱口竜介(はまぐちりゅうすけ/脚本担当) |
「基本・エンタメムービー」のストーリーラインを理解できるにしても、草壁弘子を簡単に逃がした関東軍や、優作について聡子を追及しなかった憲兵の甘さは大いに引っかかる。
一切が、女の情愛の凄みに収斂されるということか。
(2021年4月)
ひ弱な私は、困難につきあたる時、誰かを頼ってしまいます。今日も何故かここに来させていただきました。
返信削除読んでいるうちに、拝見しているうちに、大げさな物言いになりますが、何かしらホッとして息が継げる気がします。
有難うございました。
読んでくださり、感謝いたします。
削除コメントをどうもありがとうございました。