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2022年9月28日水曜日

はじまりのみち('13)  旅に出た若者が「基地」に帰還し、新たな旅に打って出る 原恵一

 


1  「これからは僕がずっと一緒だから、安心してよ。木下恵介から、ただの木下正吉に戻るよ」

 

 

 

静岡県浜松市 米津(よねず)の浜

 

「昭和18年。太平洋戦争の最中、木下恵介は『花咲く港』で監督デビューした。浜松出身の木下は、この場所でもロケを行い、実家からこの浜へ通ったという。木下は、同じ年に、『姿三四郎』で監督デビューした黒澤明と共に、優れた新人監督に与えられる『山中貞夫賞』を受賞。幸福な監督人生を歩み始めた」(ナレーション) 



「花咲く港」から、昭和19年に製作された「陸軍」へと映像が遷移する。 



「しかし、戦局の悪化と共に、国家から国民への戦争協力がより一層叫ばれ、映画界は戦意高揚の作品作りが求められるようになる。木下が昭和19年に監督した『陸軍』は、そういう時代に作られた作品だった。試写を観た内閣情報局の検閲官は、ラストシーンで戦場へ向かう息子を見送る母の姿が女々しく、戦意高揚の役に立たないと文句をつけ、木下の次回作の企画を中止させる」(ナレーション)

 

昭和20年(1945)4月。

 

松竹大船撮影所の一室で、所長の城戸四郎(きどしろう)に、次回作の企画中止を言い渡され、抗議する木下。 



「君だって分かってるだろ。戦局は、ますます悪化して、映画作りも政府の統制下にある。製作本数もフィルムの使用量も、内容だって、我々の自由にならないんだよ」

木下惠介(左)と城戸四郎


「そんなこと、分かってますよ!だからって、親子の情を描くことが、なぜいけないんですか!母親ってそういうもんじゃないんですか!」 



怒りが収まらない木下は「辞表を書きます」と言い放ち、城戸の引き止めるのも聞かず、撮影所を辞めていく。

 

静岡県 気賀町(けがちょう)。 



実家に帰ると、母・たまは、病気で布団に伏していた。

 

「これからは僕がずっと一緒だから、安心してよ。木下恵介から、ただの木下正吉(しょうきち)に戻るよ」 

母・たま(右)と敏三(左)



「昭和二十年 六月十八日 浜松大空襲。その夜、泊まっていた恵介は、炎の中を逃げ惑った」(キャプション) 



【因みに、複数回にわたる「浜松大空襲」は、軍施設・軍需工場が数多くあった(世界有数の航空機メーカー「中島飛行機」など)ことで、米軍の戦略爆撃と英海軍の艦砲射撃のターゲットにされ、多くの犠牲者が出た】 

空襲後の浜松(ウイキ)


父・周吉の店も焼け、無事だった家族全員が集まり、気多村への疎開について話し合う。

 

たまをバスで連れて行くという周吉に対し、正吉は六十キロの道をリヤカーが運んだ方が負担が少ないと主張し、たまもそれを了承する。 

左から周吉、敏三の嫁、敏三、正吉



夜中に便利屋を呼び荷物を引かせ、正吉はリヤカーに母を乗せて、兄の敏三と共に暗い夜道を出発するのだ。 



峠で日の出を拝むたま。 

便利屋(左)


朝焼けに染まり、正吉と敏三も一緒に御来光(ごらいこう)を拝む。 



朝食の休憩中、便利屋が二人の仕事について訊ねると、敏三は浜松で尾張屋という食料品店を営んでいたが、空襲で焼けてしまったことを話す。

 

続いて、敏三が正吉が映画監督であると言おうとすると、正吉が遮り、「今は無職だ」と本人が答えるのみ。

 

それを「映画館」と勘違いした便利屋は、しばらく映画を観てないと零(こぼ)す。 

「今は無職だ」「映画館に務めとったがね」(便利屋)/木陰で休みを取っている


しかし、それ以上に美味しいものを食べていないと、次々に食べたい物を食べる仕草を始める便利屋。 

「(カレーの)あの匂いがいいずら」

剽軽(ひょうきん)な男である。

 

「いつになったら、また食えるようになるんずら。なんか、食う前より腹が減ってきたずら。欲しがりません、勝つまではか。さりとて、腹が減っては戦はできぬだ」

 

その話を聞いていたたまが、自分の握り飯を便利屋に分けることを伝え、正吉に渡すのである。 

右手で音を出し、母・たまが正吉を呼ぶ

握り飯をもらって、たまに謝意を伝える便利屋


厳しい坂道で荷物を運ぶ便利屋が、今から戻って、汽車とバスを使った方がいいと正吉に声をかける。 



「帰りたきゃ、荷物を置いて帰っていいよ」

 

先に進む正吉に、立ち止まって便利屋が反駁する。

 

「映画館勤めの青瓢箪(あおびょうたん)が、舐めたこと、こきやがる。泣き言こくなよ。よからす。やらまいか」 



峠の坂道で往生する一行に、激しい雨が叩きつける。

 

雨の中でリヤカーを先導する敏三の力が抜け、正吉に交代する。 



ようやく峠を越え、宿場町に着くが、どこも満員で、探し回った末に、泊めてもらえる旅館が見つかった。 

「3人さん?」「あと、表のリヤカーに病人が」(正吉)「満員ですで。すんませんな」/病人と聞いて断られる


出発から17時間経っていた。

 

宿に上がる前に、雨で泥が跳(は)ねた母の顔を丁寧に拭き、髪を整えてあげる正吉。 

近くの井戸でタオルを洗って来て、そのタオルで母の顔の汚れを拭き取っていく

髪を梳かしていく


凛とした表情で、それを受ける母と、正吉の母を慮る振舞いに、周囲の皆が胸を打たれ、黙って見つめている。 



空いている部屋が2階だというので、正吉がたまを背負い、一段ずつ上っていく。 



「とんだ、強情っ張り(ごうじょっぱり)だに」

 

便利屋は脱帽するのだった。

 

「脳溢血だがに」と便利屋。

「おふくろは、東京で、こいつのとこにいたんだけんど、去年の11月、東京が初めて空襲に遭った時に倒れてね。家で療養してたんだけんど、今年の3月に強制疎開で立ち退きになって、帰って来たんだ」 



この敏三の話で、言語を失った母たまの疾病が明らかにされる。

 

昭和19年11月29日。

 

その時の空襲のシーンが回想される。

 

空襲警報が鳴り、正吉がたまに声を掛けるが反応はなく、部屋で倒れている母を発見するが、ここでも反応はなく、正吉は警報の中、医者を求めて走り続けるのだ。 



「息子の俺っちが言うのもなんだけどね、家の親はや、二人とも、実にようできた人たちなんだに。苦労に苦労を重ねて店を開いて、実直に商いをしてきただに。毎朝、使用人の誰よりも早く起きて、働き続けてきたし、俺たちは、何不自由なく育てられたんだに。うちの両親より正直な人たちにゃ、おら、会ったことがないに」


「そういう親に育てられると、自然と孝行したくなるだいに…」

「それにしても、お前の頑張りには恐れ入ったよ」

「なかなかのもんだに」

「青瓢箪の割には」と正吉。

 

正吉は一貫して寡黙である。

 

翌朝、トロッコが出ないので、もう一泊することになる。

 

そこで便利屋は帰ると言い出すが、旅館の娘たちが部屋に入って来ると、あっさり前言を翻し、もう一泊すると娘たちに話し、調子づいて布団の片づけを手伝ってみせるのである。 


その可笑しな様子を見て、思わず笑みが零れるたま。 



「お前が羨ましいや。俺は文学が好きだったけんど、それで食っていけると思わなんだ。だで、家業手伝うことにした。けんども、お前は夢を叶えたんじゃないか。その夢、あっさり手放しちまって、ええんか?」


「夢なんて、この国にはないよ」
 



兄弟の会話の切実さが、観る者に伝わってくる小さなエピソード。

 

外の空気を吸ってこいと敏三に言われ、河原に散歩に行くと、旗を振って出征兵士を見送りに行く小学生と教師の姿が目に留まる。 



兄の言葉に押されるように、正吉は、それを指で模(かたど)ったファインダー越しに追い、勇ましい生徒たちとは異なり、憂い顔の女性教諭の表情をしっかりと捉えていた。 



【後の「二十四の瞳」のモチーフとなるショットである】

 

映画を離れても、映画を思う若者の心は変わらないようだった。

 

 

 

2  「いつかきっと、作りたいものが作れる時がきます。木下恵介に戻りなさい。映画を作り続けなさい。それが私にとって、一番うれしいことです」

 

 

 

渓谷の河原で横になっていると、娘たちの遊びに飽きた便利屋がやって来た。

 

「おかみさんにでも睨まれたか」

「あんた変わっとるね。なんかこう、思い詰めとるちゅうか。ま、無職じゃ、しょうもないけど。気の持ちようじゃね。ん、何とかなるら」 



その時、背後に出征兵士を送る歌が聞こえて来た。

 

「あんた、兵役は?」

「行ったよ」

「どこ?」

「中国。中支(中部支那)」

「ふーん。俺もそろそろ、年貢の納め時かいや。家戻ったら、赤紙来てるかもしれんや。本土決戦か…あんた、映画館勤めとったなら、あれは見たかえ。『陸軍』」


「いや」

「最後、戦地に向かう息子を母ちゃんが見送るんだんに。田中絹代が母ちゃんでよ。泣くから見送りに行かんって、家にいたんだけんど、皇軍のラッパの音が聞こえて来たら、たまらくなって、家、出て行くんだいね」 



ここで、戦意高揚の目的のために、軍部の依頼を受けて製作された「陸軍」の印象深いラストシークエンスが映し出される。 



「最後、去ってく息子に、母ちゃんは、こうやって、手合わせる。いや、泣いたね。俺が戦地行く時も、おっかさん、あんな気持ちなんのかやって」 



便利屋の話を聞きながら涙する木下。 


「ああ、君のお袋さんも、きっと同じ気持ちになるよ…僕が戦地に行く時も、あの兄貴が横を一緒に歩いて送ってくれた。行軍する部隊に手を合わせる母親も見たよ。なのに、軍はそれを女々しいという。自分の息子に、立派に死んでこいなんて言う母親はいない!」


「あの『陸軍』ちゅう映画は、そういうことが言いたかったんじゃねぇのかね。ああいう映画、まっつ観たいや」

 

翌朝、旅館に別れを告げ、リヤカーを引いて出発し、トロッコに乗り継ぎ、周吉の家族が待つ山間の家に到着した。 



たまを背負った正吉に、周吉が声をかける。

 

「御者(おんしゃ)、無理だ思うことも、遂にはやり遂げてしまうな。呆れるよ」


「お父さんの言った通り、大変だったよ」と正吉。
 



便利屋は謝礼を受け取り、別れを告げる。 



たまに挨拶すると、体を娘の作代に起こしてもらい、頭を下げ、「ご苦労かけて、すいませんでした」と作代が代弁する。

 

「俺も、家へけえったら、まちっとおっかさん、優しくしてやらんと」

 

大きく頷くたま。

 

便利屋は、正吉に仕事が見つからなかったら、自分のところに来いと誘い、軽やかに山道を降りて行くのだ。 


正吉と敏三が見送り、便利屋との別れを惜しむである。

 

「面白い奴だったに」

「ああ。でも結局、名前も聞かなかった」 



山奥の暮らしが始まり、薪を割っていると、たまに呼ばれ、不自由な手で書いた手紙を渡される。 


「また、木下恵介の映画がみたい。あなたが、私のそばにいてくれるということは、とてもうれしいことです。でも、あなたが居るべき場所は、ここではないやうな気がします。ここには、お父さんも作代も芳子(敏三の嫁)もいてくれます。だから、安心して映画のそばに戻りなさい。今は作りたいものが作れない時代なのかもしれません。ですが、戦争が永遠に続く筈はありません。いつかきっと、作りたいものが作れる時がきます。木下恵介に戻りなさい。映画を作り続けなさい。それが私にとって、一番うれしいことです」 



そして、たまは声を絞り出して、一言一言、正吉に語りかけるのだ。

 

「あんなになりたかった映画監督に、なれたじゃないか。家出までして…やっと、撮影所に入って、辛くて…何度も…辞めたいって言って、それでも、やっとなれたじゃないか…」


「あの便利屋君が『陸軍』観たって。ああいう映画がもっと観たいって言ってくれたよ」

「観たいって言ってくれる人…いるじゃないか…」


「辞めてからも、気がつくと映画のことばかり考えてた。映画から離れたかったのに、こんな物語どうだろう。あんな物語どうだろう。そんなことばっかり考えてた。しかもそれが、今どき作れない映画の話ばかり…長閑(のどか)な牧場で、若い男女が馬車に乗って、歌、歌って、やがて恋敵が現れて…そんな話、もう、絶対作れっこないのに。情けなくて、泣けてくるよ」


「…覚え…覚えてる?『花咲く港』のロケ…」

 

浜松市内 木下家 



デビュー作の『花咲く港』の撮影が上手くいくように、家族がお天道様に向かって手を合わせて祈っていたエピソードを回想する母。 



「監督、木下恵介監督」 



たまが正吉をそう呼び、家族の皆が応援する言葉をかける。

 

「誇りに思うよ」 


黙って頷く正吉。 



「あれは嬉しかった。たった2年前のことなのに。あんな幸せだったのに」


「忘れないで…」

 

たまは、涙する正吉の腕を力強く握るのだ。 



こうして正吉は、山間の家を後にし、トロッコの道を歩いて「木下恵介」へと戻っていく。

 

「木下が撮影所に戻って程なく、日本は無条件降伏し、戦争は終わった。木下は監督に復帰。木下の母、たまは、その3年後の昭和23年10月にこの世を去った。京都で撮影中だった木下は、母の死に立ち会えなかった」

 

ラスト10分、木下の戦後の著名な作品が紹介されていく。。

 

「わが恋せし乙女」(1946年)

「お嬢さん乾杯」(1949年)

「破れ太鼓」(1949年)


「カルメン故郷に帰る」(1951年)


「日本の悲劇」(1953年)


「二十四の瞳」(1954年)


「野菊の如き君なりき」(1955年)


「喜びも悲しみも幾年月」(1957年)


「楢山節考」(1958年)


「笛吹川」(1960年)

「永遠の人」(1961年)


「香華 前篇/後篇」(1964年)


「新・喜びも悲しみも幾年月」(1986年)
 



ラストシーンは、正吉の引くリヤカーで運ばれるたまが、希望を託すかのように、青空の雲を見上げる表情で閉じていくのである。 


 

 

3  旅に出た若者が「基地」に帰還し、新たな旅に打って出る

 

 

 

「これからは僕がずっと一緒だから、安心してよ。木下恵介から、ただの木下正吉(しょうきち)に戻るよ」 


映画監督を辞めた主人公・正吉が帰郷した際に、重い病に伏す母に対して発した言葉である。 

正吉の帰郷


眩(まばゆ)い程に力強い言葉である。

 

不思議なまでに安定感があるのだ。

 

充分な重みを乗せたこのマニフェストこそ、ここから開かれる物語の芯を支え切っているからである。

 

物語の構造は、至ってシンプルである。

 

荷物は便利屋に任せ、重篤な母を二人の息子がリヤカーで運ぶという難儀な行程。

 

それだけだった。

 

それだけなら、地味で暗鬱な物語と化してしまう危うさがある。

 

そのイメージを相対化するために、映像総体を貫流し得るトリックスター(おどけ者)の存在が求められた。

 

地味な物語に風穴を開け、相応の鮮度を保つ役割を担うトリックスターである。

 

便利屋のことだ。 

宿泊する旅館で二人の娘を前でおどけて見せる


「映画館勤めの青瓢箪(あおびょうたん)が、舐めたこと、こきやがる。泣き言こくなよ。よからす。やらまいか」


「とんだ、強情っ張り(ごうじょっぱり)だに」

「あんた変わっとるね。なんかこう、思い詰めとるちゅうか。ま、無職じゃ、しょうもないけど。気の持ちようじゃね。ん、何とかなるら」

「あんた、映画館勤めとったなら、あれは見たかえ。『陸軍』」

 

こんな具合の口舌が連射されるのだ。

 

件(くだん)の便利屋から「変人」扱いされつつも、その「変人」に対する見方が変わる取って置きのシーンがインサートされる。

 

言語を擯斥(ひんせき)するエピソードだった。

 

正吉がが母の顔の汚れを黙々と拭うシーンである。 



それを見入る兄、便利屋、宿屋の家族。 



その直後の映像も凄かった。

 

母を背負って2階に上がっていくのだ。 



このシーンが、本篇の白眉になるのは、母に対する正吉の情愛的な絆の深さを決定的に切り取っているからである。

 

シンプルな物語で描かれるのは、母に対する正吉の情愛的な絆の深さ。



それは同時に、溢れる程の家族愛を有するが故に、如何なる逆境にも屈しない正吉の意志の強さでもあった。

 

「御者(おんしゃ)、無理だ思うことも、遂にはやり遂げてしまうな。呆れるよ」 


難儀な旅を完結させた正吉に対して、疎開先で待つ父が、難儀な旅を終えた正吉に対するこの一言は、木下家の紐帯(ちゅうたい)の強さを率直に表現している。

 

然るに、家族愛に収斂される物語のコアにあるのは、一貫して変わらない母に対する正吉の情愛の深さである。

 

それでも、隠し切れない正吉の映画愛。 



度量の広い母は、正吉の隠し切れない思いを正確に見抜いていた。

 

だから、手紙を書く。

 

「また、木下恵介の映画がみたい。でも、あなたが居るべき場所は、ここではないような気がします。いつかきっと、作りたいものが作れる時がきます。木下恵介に戻りなさい。映画を作り続けなさい。それが私にとって、一番うれしいことです」 


このシーンは圧巻だった。

 

脳疾患で言語を奪われた母が、辿々(たどたど)しくも、一語一語、まさに命を削るが如く、振り絞るように発する言葉に、もう、何ものも太刀打ちできない。

 

鼻水を垂らしながら、母の言辞を天命の如く受け止める正吉には、帰還の旅の重さで拾い上げた〈内なる生〉の熱量を駆動させていくという選択肢しかなかった。 



今、ここから駆動していくのだ。 


常に、母は寛大だった。

 

好きな職業を選択するや、自ら決断し、家出を具現化する。

 

それを抱擁する母の存在が、正吉の推進力となっていた。

 

「監督、木下恵介監督」

「誇りに思うよ」 



家族の応援が、意志堅固な若者の冒険行を後押しするのだ。 



その中枢に母がいる。 


海のようだった。

 

若者にとって、母の存在は、絶対に手放せない「安全基地」なのである。

 

ここで想起するのは、カナダの心理学者メアリー・エインスワースが提示した概念。 

メアリー・エインスワース


ジョン・ボウルビィによって確立された人間の愛着行動に関する概念である。 

ジョン・ボウルビィ


子供にとっての愛着対象が、幼い子供にとって、そこに帰れば心の安寧を得ることができる内的な環境を、メアリー・エインスワースは「安全基地」と呼称した。

 

「安全基地」とは、母親のような特定の対象者との間に結ばれる情愛的な絆のこと。

 

成人になっても延長されるので、こういう物語が成立する。

 

この「安全基地」があるから、自らの〈生〉を切り拓いていくのだ。

 

新たな旅に打って出る行為を担保してくれるのだ。

 

旅に出た若者が「基地」に帰還し、新たな旅に打って出るのである。 


そういう映画だった。

 

正直言うと、BGMが流され続けるので、その情緒過多の映像に閉口したのも事実だが、「木下惠介生誕100年プロジェクト」の一つとして製作されたことを慮(おもんぱか)れば、受容する外にないのだろう。 

原恵一監督



―― 本稿の最後に、木下惠介監督の映画について、正直に吐露する。

 

総じて私は、木下惠介監督の映画が苦手である。

 

多くの作品を観ているが、どうしても馴染めない。

 

だから、人生論的映画評論でも批評したのは「野菊の如き君なりき」のみで、それも、「諄(くど)いほどに流しっ放しのBGMに象徴されるように、大甘なセンチメンタリズム」の作品と、冒頭で書いている。 

野菊の如き君なりき」より

同上


「純愛」を考察する映画として悪くなかっただけに、残念な限りである。

 

例外があることを承知で書けば、「大袈裟」・「諄さ」・「リリシズム」・「BGMの多用」など。

 

【コメディ基調の「破れ太鼓」と社会派系の「衝動殺人 息子よ」は、木下映画の中で私が好きな作品】 

衝動殺人 息子よ」より



(2022年10月)


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