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2026年2月25日水曜日

ぼくのお日さま('24)   代替不可能な「自己効力感」を手に入れた少年の物語  奥山大史


1  「あげるんじゃないよ。貸すんだよ。その靴じゃ、いつまでたってもスピンはできないよ」

 

 

 

北国の雪深い田舎町。 



スポーツが苦手で吃音の少年タクヤの視界に入ってきたのは、アイスリンクでドビュッシーの「月の光」に合わせて、フィギュアスケートの練習をする少女さくら。 

タクヤ

柔らかな冬の外光がアイスリンクに差し込み、流れるように滑る少女を照らし、そこだけが特化したようなスポットは美しい輝きを放ち、雪国の苛酷さを異化しているようだった。


かつて、フィギュアスケート選手として活躍した荒川に個人指導を受けている少女の流線型のフォルムは、満たされている思春期の煌(きら)めきを存分に表現していた。

 

「肩の力抜いて、肘は上げたまんま、肩の力抜く。目、下げない、目、下げない。下、向かない」 

荒川(右)とさくら

的確な荒川の指導に、「はい」と素直に答え、リンクに戻る少女。

 

さくらは掴んだ左足を真上に伸ばし、I字スピンする。 


【I字スピンとは、足を高く持ち上げて回転する姿勢のことで、アルファベットの「I」の字に見えることに由来】

 

瞬きせず、さくらに魅了されるタクヤ。 


優雅なポーズを決めるさくら。 


立ち尽くすタクヤ。

 

さくらが手を下ろし、荒川を探す。

 

その荒川は、さくらに見入っているタクヤを凝視している。 


荒川を見るさくらは視線を落とし、背を向け、力なく滑っていく。 

タクヤに見入る荒川

失望するさくら

力なく滑っていくさくら

日が暮れて、荒川がリンクを見ると、フィギュアスケートの基本・「スパイラル」に挑戦し、転びながら「スパイラル」に何度も挑むタクヤを見て、笑みを零すのだ。 


【スパイラルとは、片足を腰より高い位置にキープしながら滑ること】

 

荒川がタクヤにフィギュアスケート用の靴を与えたのは翌日だった。

 

「あげるんじゃないよ。貸すんだよ。その靴じゃ、いつまでたってもスピン(回転すること)はできないよ」 


この喜びを伝えようとしても、「あ、あ、あ、あ…ありがとう」と吃音になり、荒川はリンクの外に消えてしまった。 


【現在では、吃音は遺伝や脳の発達に大きく関係していることが分かっている。因みに、タクヤの父も吃音症である】

 

以降、荒川はタクヤにフィギュアスケートを教えるようになる。 


まず、スケーティングの練習から始まり、スピンの練習に入っていく。

 

家では、裸で練習するタクヤ。 


最後に回転の練習へと進む。

 

そして、3回転して着地を成功して、荒川と喜びを爆発させるのだ。

 

「できた!」と荒川。


「できたぁ!」とタクヤ。

 

「やったー!」ハイタッチする二人。 


「すごいじゃん。できたじゃん」と大喜びの荒川。 



この二人の様子を、ロッカールームからさくらが凝視し、去っていく。 


タクヤは見る見るうちに上達する。

 

タクヤを指導する荒川はさくらを呼び、野球やアイスホッケーなど、スポーツが苦手なタクヤとでペアを組みアイスダンスに挑戦することを二人に提案した。 


その計らいは、さくらにとっても有効になると考えたからだ。

 

アイスダンスの音楽を聞かせた後、説明する荒川。 


「これが第1プレミナリーの課題『ダッチワルツ』ね。で、これをちゃんとできるようになって、バッジテストに受からないと大会も出れないから。OK?」

「はい」とタクヤ。

「次のバッジテストまで、あと1ヵ月ちょっと。それ逃すと、だいぶ先になるから、やれるとこまでやってみよう」

 

頷くさくら。 


【プレリミナリーとは、主要な段階に入る前の準備のこと。またダッチワルツとは、ワルツの音楽に合わせてリンクを1周すること。更にバッジテストとは、国際スケート連盟が定めた等級であり、初級から1〜8級までの階級があり、数字が上がるにつれて難易度が上がっていく】

 

以降、3人はアイスダンスの練習に夢中になって取り組み、真剣な眼差しでホワイトボードを使って説明する荒川の話に耳を傾けるさくらとタクヤ。 


それぞれ個人練習に打ち込む二人の児童。


ペアを組んでアイスダンスの楽しさを見つけていくのだ。
 


 

 

2  「何かさ、うらやましかったんだよ。ちゃんと恋してるっていうかさ、まっすぐでさ」

 

 

 

今や、着々と上達する二人は氷の張った湖で滑り、荒川共々、夕日が輝きを見せる中、ふざけて遊ぶ余裕を見せるのだ。 



タクヤに親近感を抱(いだ)くさくらは「合わせてみる?」と自ら誘い、誰もいないリンクいっぱいに二人で軽やかに踊り、満足感に浸っている。 



その頃、荒川は自宅マンションの寒さが沁みるベランダで、同性パートナーの五十嵐と1本の煙草を吸い合っていた。 


荒川は、「今日は休み」と言う五十嵐と一緒にスーパーで買い物をした後、青いボルボの車内で、五十嵐が食べかけのアイスを差し出し、じゃれ合っている。 


その様子を怪訝そうに目視したさくら。 


衝撃が走った。

 

まもなく、ボルボがスーパーから離れていく。

 

いつまでも目で追うさくらが、そこにいる。

 

リンクでタクヤを笑いながら指導する荒川 


その荒川をロッカールームから見つめるさくら。 


ロッカールームで帰途の準備をする荒川のもとにやって来たさくらは、思いもしないことを尋ねる。 


タクヤ君のこと、好きなんですか」 



唐突だった。

 

「男の子に、女のスポーツやらせて楽しんでるんですか?」 


「間」ができた。

 

「え。何、言ってんの 


長い「間」を突き抜くさくらの捨て台詞。

 

「…気持ち悪い」 


その場から、一刻も逃げたい少女の心理が透けて見える。

 

動けない男。 


反応する術を知らない男の心が、虚空に宙吊りになっているのだ。

 

その日がやってきた。

 

バッジテストの会場で幾ら待っても現れないさくら。

 

「や…やっぱり、い、い…嫌だったのかな?」 


会場の一角で、タクヤの言葉が虚しく響いた。

 

諦めるしかなかったのである。

 

さくらの母荒川に話しに来ていた。

 

「あの子には、ちゃんとスケート続けさせたいんで、家に近づかないでくださいね。あ…変な意味じゃないんですけど」 


そこまで言って、さくらの母は月謝を払って出ていった。

 

その夜、床に就く荒川は隣の五十嵐に話す。

 

「何かさ、うらやましかったんだよ。ちゃんと恋してるっていうかさ、まっすぐでさ」


「まっすぐ?」と五十嵐。

「うん」

「それ、俺らが、ちゃんと恋してないっていうこと?」

「ううん。そういうことじゃなくてさ」

「…あのさ、こっち来てよかった

「よかったよ…コーチなんか、どこでもできるしね」

「どこでもはできないでしょ。こっちで教える生徒、もう、いなくなったんでしょ

「うん」

「俺さ…親父(おやじ)死んで、あと継ぐって決めて。俺には、もう、ここしかないよ」


「うん」

永士(ひさし)は違うでしょ?」

 

長い「間」。

 

「ここにいて、いいの」と五十嵐。

 

長い「間」。

 

「分かったから、もう寝よ」と荒川

 

荒川は目を開けたまま、じっと動かない。 


空に強い輝きを放つ光が、葉のない木々を照らしている。 


中学生になったタクヤが歩いている。

 

そのタクヤの隣に荒川の車が止まり、荒川の笑顔が覗く。

 

「似合ってんじゃん」


「そうかな。ぶ、ぶかぶか」
 


タクヤが返す。

 

「ぴったりになるよ、すぐ」

 

二人は湖面がすっかり溶けている冬の湖に行き、キャッチボールをする。

 

「うまいじゃん」

「ど、ど、どっか行くの?」 


頷き、ボールを投げる荒川

 

「ん…また帰って来る?」


「どうだろうね」
 


荒川は悪投し、ボールを取りに行ったタクヤは、「、か、か…返さなきゃスケート靴」

 

「あれ、上げる」


「あ、あ、ありがとう」
 



そのあと船に乗り、街を離れていく荒川。 


一方、夕日が反射し、氷が輝く誰もいない広いリンクで、フィギュアスケートを一人で演技するさくらが映し出される。 


ラスト。

 

一本道を「月の光」をハミングしながら歩いているタクヤの前方には、制服姿のさくらが歩いて来る。 


一瞬、足を止めた後、しっかりした足取りでさくらを見る。

 

さくらもタクヤを見て、何か言いかけて止める。

 

二人は向かい合う。



タクヤは何か言おうとする。

 

「あ…あ…あ…」 


微かに笑みを浮かべてさくらを見るのだ。

 

 

 

2  代替不可能な「自己効力感」を手に入れた少年の物語

 

 

 

「気持ち悪い」。 


さくらが呟くように言い放った悪意含みの酷薄なる言葉。

 

異性への憧れは、子供の成長過程で自然発生的な〈生〉の歓びでもあり、人生の肯定感や大人への成長の糧ともなる。

 

しかし、異性愛が当然の文化、社会に育つ子供にとって、同性愛は異質で不純なもの、嫌悪の対象として目に映る。

 

まして、憧れていたスケートコーチの荒川が同性愛者と知った時の衝撃や落胆の反動として、さくらが激しい嫌悪感を抱いたのは想像に難くない。

 

「タクヤ君のこと、好きなんですか?」


男の子に、女のスポーツやらせて楽しんでるんですか?」

 

「気持ち悪い」の前に、さくらが放った言辞である。

 

この二つの言辞には、相当程度のバイアスが内包されている。

 

前者の場合、大人が同性の子供に対して、〈性〉の対象として把握しているという「感情的決めつけ」という「認知バイアス」である。 


後者の場合、フィギュアスケートは「女のスポーツ」であり、男の子が楽しむスポーツではないという「一般化のしすぎ」という「認知バイアス」である。

 

即ち、この田舎町のスケートリンクには男の子が殆どいないから、一般的に言って、タクヤがスケートリンクにいるのは不自然であるという認知バイアスが読み取れる。

 

辛い気分やストレスを和らげ、気持ちを楽にする「認知行動療法」の創始者であるアーロン・ベックによると、この「認知バイアス」は「認知の歪み」と言い換えられる。 

アーロン・ベック

映画の時代背景は分からないが、後者に関しては時代錯誤が甚(はなは)だしいと言わざるを得ない。

 

では、さくらをしてこれらの言辞を言わしめる心理は何だろうか。

 

確かに、〈性〉に対する古典的なバイアスがさくらに垣間見えるが、それと同程度に推量できるのは、荒川への憧憬の念(淡い恋心)を抱くさくらの想いが頓挫したことが少なくないと言えるのではないか。

 

象徴的なシーンがあった。


本稿の冒頭で書いたシーンである。

 

さくらが優雅なポーズを決めて満足した時、さくらが荒川を探すのだ。 

荒川を探すさくら

ずっと見てくれているはずの荒川の視線がタクヤに向かっていたのである。 


それを目視したさくらは視線を落とし、背を向け、力なく滑っていくという小さなエピソードだった。 


「なぜ、立ち尽くしているだけの知らない男児」なのか。

 

さくらは、この構図に納得できなかった。

 

時を経ずして、タクヤとアイスダンスに打ち込むさくらだったが、最後まで、フィギュアスケートは「女のスポーツ」であるというバイアスが払拭できなかったと思われる。 


その「女のスポーツ」を、男の子に対して真摯に指導する荒川の行為は不自然であり、何か特別な感情を抱(いだ)いていると勘繰(かんぐ)ったのだろう。 

即席麺を食べる二人

映画は〈性〉の問題に対して、特段、否定的に描いているわけではない。

 

現代の日本社会で普通にあり得る現象として、リアルにその結末を描いている。

 

結果的に荒川は職を失い、地元で親の家業を継ぐパートナーの元を去り、さくらはスケートを続け、教わった「月の光」の演目を完璧に滑りこなす。 


サクラに行為を抱いたタクヤは、再会したサクラの穏やかな表情と対面し、思いを言葉にしようとして、物語が閉じていく。 


それは、荒川が繋いだ種が芽吹いた瞬間だった。

 

そこで芽吹いたのは、さくらが自立的にフィギュアスケートに打ち込み、自己完結する雄姿を立ち上げていたこと。

 

そして何より、タクヤが手に入れた「自己効力感」は、思春期の男児にとって代替不可能な宝物だった。 

自己効力感

このかけがえのなさこそ、自我の確立運動である青春期を支えるコアとなる宝物で、障害を持つタクヤの青春期に新たな航路を創り出す推進力になっていくだろう。


タクヤが手に入れた「自己効力感」は、中学生になっても延長されていた。


それは、荒川とのキャッチボールするシーンでも明らかだった。



吃音ながらも「ありがとう」と言い切れたのだ。


この「ありがとう」は、タクヤが「自己効力感」を得た所産なのだ。


だから、ラストでさくらに伝えようとした言葉が、「あ、あ、ありがとう」であると言い切れる。


それは「自己効力感」を導き出してくれた荒川とさくらに対する、感謝の気持ちの率直な表現だったのだ。


特にさくらは、積極的にアイスダンスのパートナーになってくれた決定的な存在だった。


さくらの存在は、タクヤにとって、どこまでも「ぼくのお日さま」である所以である。

 

この映画は、代替不可能な「自己効力感」を手に入れた少年の物語だったのである。

 

【「自己効力感」とは、「自分ならできる」と思えるようになることで、心理学者アルバート・バンデューラが提唱した概念】 

アルバート・バンデューラ

―― ここで、我が国における「性教育」の実状について言及したい。

 

〈性〉に関する多岐にわたるテーマを、人間が人間として本来的に有する個人の権利を根柢において学ぶ教育。

 

これを「包括的性教育」と言う。

 

「『包括的性教育』とは、UNESCO(国際連合教育科学文化機関)が中心となり、2009年に発表した『国際セクシュアリティ教育ガイダンス』に沿った、世界標準の性教育のことです」(「包括的性教育」とは) 

包括的性教育

この「包括的性教育」には、8つのコンセプトがあることから確認していく。(「『包括的性教育』とは?ライフダザイン」より) 

包括的性教育

以下、「『包括的性教育』の学習目標『学校で性を語ろう』田代美江子教授に聞く」(西日本新聞社)からの画像の引用。 

「学校で性を語ろう」

―― 以下、日本の性教育は「世界から20~30年遅れている?日本の性教育について考えた」より抜粋する。

 

【日本の性教育について、専門家はどう考えているのでしょうか。

 

立教大学の浅井春夫・名誉教授に話を聞きました。 

「世界から20~30年遅れている?日本の性教育について考えた」

「まともに子どもたちに性教育を提供する期間がない。世界の中でも20~30年遅れているのではないか」と、現在の日本の性教育に対して危機感を示します。

 

では、なぜ日本の性教育は遅れてしまっているのでしょうか。

 

「文部科学省の“子どもを管理したい”という発想が変わっていない。今の性教育は抑制的。教えすぎたら性的な問題が起こると考え、教えすぎない性教育を行っている」と、浅井教授は考えます】 

浅井春夫・立教大学名誉教授

現在の日本の性教育には「歯止め規定」が存在するから、不十分な性教育の実状になっている。 

歯止め規定

歯止め規定

歯止め規定

これを根柢から変えなければ、映画で描かれたさくらの残酷な言辞が生まれてしまうということである。

 

―― 映画を観て改めて感じ入ったのは、池松壮亮の表現力の凄み。

 

役柄を限定しない素晴らしい俳優だ。

 


(2026年2月)


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