

1 特段に交叉することなくパラレルに開かれていく群像劇
冒頭のシーンは、多くの仲間の前で、ジェスチャーをしている一人の聾唖の子供の構図。
「一人ぼっち」、「隠れ家」、「ギャング」、「心のやましさ」、「悲しみ」、「刑務所?」。
手話で答える子供たち。
しかし、どれも正解を言い当てることはできなかった。
首を振る |
手話は身振り(ジェスチャー)と似ているが、基本的に違うものである。
手話に馴致した聾唖の子供にとって、その手話でジェスチャーの答えを言い当てることは困難であるに違いない。
重要なのは、このファーストシーンが、ラストカットとの明瞭な齟齬(そご)のうちに判然とするというコンテキスト(文脈)である。
しかし、ファーストシーンの構図が、明らかに本作のテーマに即した映像提示であることだけは疑う余地がない。
その直後に、「いくつかの旅の未完の物語」と題されたサブタイトルが提示される。
一人の女性の日常性を中枢に据えた基本・群像劇が、ここから開かれていくのである。
その一人の女性の名はアンヌ。
多忙を極める女優である。
パリに住むアンヌの元に、報道写真家で、コソボに取材中の恋人・ジョルジュの弟ジャンが泊めて欲しいとやって来た。
「農場を継げ」と言う父との確執で、家出して来たと言うのだ。
アンヌとジャン |
「私じゃ解決できないわね」
そう言って、アパートの暗証番号を教え、部屋の鍵を渡して体良く始末をつけるアンヌ。
一貫して長回しの映像は、アンヌと別れた後の、ジャンの苛立つ歩行を追い駆けていく。
不満たらたらのジャンが、アンヌからもらったパンの包み紙を、路傍に座っている物乞いの女に投げつけたことから、些細な事件が起こった。
ジャンの行為を視認した一人の黒人青年が、ジャンに駆け寄って注意を促す。
相手の指摘を無視したジャンに、黒人青年が詰め寄った。
「イカれてる」とジャン。
「あそこにいた女の人に謝るんだ」
なお詰め寄って、そのまま無視して歩いていくジャンの前に立ちはだかり、執拗に謝罪を求めるアフリカ移民の黒人青年。
「うるせいな」
口汚く言い放って、通り過ぎようとするジャンの体を掴んで、女性のもとに黒人青年は力づくで連れて行く。
「何様のつもりだ、放せ!」
「謝るんだ」
取っ組み合いの喧嘩をする二人。
そこに、アンヌが戻って来て制止するが、黒人青年も感情的になっている。
「口を出すな。関係ないだろ。奴のしたことを?」
そこに、二人の警官がやって来た。
「物乞いの女性を侮辱したんだ」
そう説明する黒人青年だが、偏見視されながら、身分証明書の提出を一方的に求められるばかりで、反発した挙句、警官と揉み合いになって、署に連れて行かれるに至った。

ここで場面は暗転するが、物乞いの女性が、ルーマニアからの不法移民であったことが分明になり、母国に強制送還されるという顛末だった。
黒人青年の名はアマドゥ。
マリからの移民二世である。
ルーマニアからの不法移民である物乞いの女性の名はマリア。
アンヌを中枢に据え、ここに関与した複数の登場人物たちの群像劇が、特段に交叉することなくパラレルに開かれていく。
まもなく、ジョルジュがコソボの取材から帰宅して来て、レストランで仲間との懇談会を設けるが、友人の女性に批判される憂き目に遭う。
以下、コソボで撮った写真。
「戦争の悲惨さを訴えるため、廃墟や死体を撮り、飢餓のために飢えた子供も?思い上がりよ。体験が感じられない写真よ」
ジョルジュ(左) |
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ジョルジュ(左)とアンヌ |
ここまで言われたジョルジュは、「確かに」と答えるばかり。
ジョルジュは、まもなく隠し撮りの挙に及ぶ。
地下鉄で向い合った乗客のポートレートを撮り捲るのだ。
隠し撮りするジョルジュ |
モノクロのポートレートによって写し出された画像のリアリティもまた、不特定他者との内的交叉のない「作品」でしかなかった。
不特定他者との内的交叉を極力、回避するかのようなジョルジュの距離感こそが、彼の個人主義の拠り所なのだろうと思わせる。
不特定他者との内的交叉ばかりではない。
物理的に最も最近接してきたはずの関係においても、大して変わりなかった。
そのことが端的に表れたのが、彼の肉親との関係。
畜産農家を営む父の苦労に対して、まるで他人事なのだ。
結局、ジョルジュの父は、端(はな)から長男に期待することなく、次男のジャンに跡継ぎの負荷をかけていく。
家出したジャンの帰郷後、無言で食事するジャンの父(右) |
嫌々ながら農作業するジャン |
その負荷を軽減しようと購入したバイクも、ジャンの再度の家出によって、懐柔策としての効力をも持ち得ず、遂にジョルジュの父は、手塩にかけて育てた牛を屠殺してしまうのだ。
ジャンの再度の家出 |
ジョルジュ(右)とアンヌ |
「もう、5時に起きなくて済む」
「お前を見て影響された」
ジョルジュの父のこの言葉の重さをも、「戦場カメラマン」のジョルジュは「ジャンはどこに?」などと他人事のように反応するだけで、アンヌと共に故郷の家で漫然と過ごすのみ。
コミュニケーションは「関係が近いと、更に悪い」と言うハネケ監督の指摘は、まさに「肉親関係」において露呈されるに至ったのである。
では、そんなジョルジュと同棲するアンナの関係風景はどうだったのか。
以下、稿を変えて言及していきたい。
2 「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛りが希薄になった先進諸国が内包する危うさ ―― アンヌの虚構の世界の虚しさ
私にとって、本作の中で最も鮮烈な印象を受けたのが、アンヌに関する一連のエピソードである。
ドラマという虚構の世界で他者を演じ、束の間、その内面世界に侵入し得る、女優という特殊な仕事を通じて、アンヌは様々な表現を求められ、それに応えて、巧みに演じ分けていく。
その虚構の世界が切り取ったエピソードの中に重要なシーンがある。
夫との仲睦まじいプールでの遊泳中のことだった。
アンヌの視線に、我が子が風船を見つけて、フェンスの縁に攀(よ)じ登っていく危険な場面が捕捉された。
この家族は、20階の高層ビルに住んでいるのだ。
夫と共に、慌てて駆けつけていくアンヌ。
何とか愛児を救い出した夫に代わって、アンヌは我が子に平手打ちを加え、自分の犯した行為の危険性について厳しく注意した。
しかし、これは劇中劇だったのである。
夫を演じた男優と共に、仲睦まじい風景を見せるアンヌがそこにいた。
恐らくこの時点で、アンヌの心は、徹底的な個人主義者のジョルジュから離反していたのだろう。
しかし、この映画が問いかけるものは、それ以上に深刻な問題提示だった。
他人を演じ分けて、その内面に侵入し、個体内・対人的コミュニケーションを駆使するプロでありながら、現実のアンヌの日常性は遥かにシビアで、陰翳な雰囲気に包まれていた。
アンヌの日常性に襲来し、その風景を陰翳な雰囲気に包み込んだ事件が出来したのは、アンヌがアイロンがけをしている時だった。
テレビから流れてくる機械音ではなく、明らかに、階上から漏洩する児童フランソワーズの悲痛な叫び声。
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アンヌの不安 |
その後、まもなくして、アンヌは児童虐待の現実を告げる一枚のメモを受け取った。
扉に挟まれたそのメモは、アンヌにとって見覚えのある字であった。
アンヌは、ジョルジュに電話をするが不在なため、向かいに住むベッケルという名の老婦人を訪ねていく。
一枚のメモを挿入した主が、その老婦人であると特定したのである。
以下、そのときの会話。
「あなたがこれを?」とアンヌ。
「違うわ。書いていない」と老婦人。
「読んでないのに?」
「メガネがなくて。書いてないわ。こんなメモなんて」
「本当に?何か知ってるなら教えて」
「何のこと?」
「あなたの字かと思って」
アンヌがそう言っても、冷たく扉を閉ざされてしまったのである。
不安な気持ちが晴れないアンヌは、その後、ジョルジュに幼児虐待の一件を相談するが、彼の反応は冷淡なものだった。
「警察に訴えるか、無視するか、子供の両親に」
「どうでもいい?」
「じゃないが、メモは君宛てだ」
「責任を取らないのが楽よね」
「僕は泣き声も顔も知らない。その両親もだ。僕は関係ない。人に頼らず、自分で決める大人になれ」
ジョルジュは、そう言ったのだ。
「ジョルジュ、今まで誰かを幸せにした?」
アンヌは同棲のパートナーに、ここまで難詰(なんきつ)する。
「いない」
同棲のパートナーの答えも、あっさりとしたものだった。
スーパーの中で言い争ったこの一件で、少なくとも、二人の感情の離反はアンヌの内面で不可避になっていったと思われる。
しかし、不特定他者との関係を極力、回避しているような人生を上書きするジョルジュには、アンヌの内面の変容が理解できない。
畜産で苦労する父との関係がそうであったように、特定他者との関係の中でも、相手の内面世界にまで決して踏み込まないから、理解しようと努力することがないのだ。
これは、「善悪論」の問題ではない。
彼には、このような「距離感」を取った生き方しかできないのだろう。
それもまた一つの生き方だが、しかし相当に覚悟を要する生き方であるに違いない。
自分が困った時、誰も救いの手を差し伸べてくれないリスクを抱えているからである。
アンヌの被った事件について、更に追っていこう。
そこに待っていたのが、最悪の事態だったからである。
最悪の事態とは、件の児童が虐待の結果、逝去するに至ったこと。
アンヌの不安が現実になってしまったのだ。
映像の流れを読み解けば、それ以外に考えられない画像が提示されていた。
葬式のシーンがそれである。
「幼いフランソワーズは、主の御国に向かいました。いつの日か、我らにも、彼女同様に永遠の命を与えたまえ」
神父のこの言葉が、全てを物語っていた。
その葬儀にアンヌがいて、老婦人がいた。
葬儀を終えて、二人は無言のまま、帰路に就く。
とりわけ、老婦人の沈痛な表情があまりに痛々しい。
今にも崩れ折れそうな老婦人の瘦身を、アンヌが支えている。
鼻水が垂れそうなその顔からは、幼い命を救えなかった悔いの念が滲み出ていた。
しかし、老婦人は自分の力で出来得る限りの行為を結んだのだ。
自分の力で救えない代わりに、若いアンヌに頼ろうとしたのだろう。
そのアンヌに問われて、嘘をついたとしても、児童虐待の暴力と直接に関与する事態を回避するために防衛的な行動を取っただけなのである。
アンヌもまた、彼女が出来得るベストの行動と言えないとしても、児童虐待の暴力を防ぐための行為に結んだことは事実である。
ドラマという虚構の世界で、我が子に平手打ちを加える「強き、善き母」を演じたアンヌと、何も為し得ず、児童の命を救えなかった現実のアンヌを哀しく映し出した葬儀シーンとの、この対比効果の切れ味はハネケ映像の独壇場だった。
それは、「人間が分かり合うことの難しさ」をも包括して、「私権の拡大的定着」によって、「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛り(倫理感覚)が希薄になった先進諸国の共通する問題が内包する難儀さであると言っていい。
この難儀さが、本作のラストシークエンスの伏線となるが、これについては後述する。
3 太鼓を打ち鳴らす聾唖者らのハーモニーが決定的な調和感を紡ぎ出す
マリからの移民二世アマドゥのこと。
物乞いの女への同情から、持ち前の正義感を発揮して不当拘束された黒人青年である。
移民生活の厳しさを味わって、白人への恨みから愚痴を零す母、白人社会でのタクシードライバーの父の苦労、弟の虐め、聾唖学校に通う妹。
アマドゥの母 |
アマドゥの父 |
父に対して虐めを告白するアマドゥの弟 |
白人社会での適応に苦労する中で、アマドゥだけは積極的に白人社会に溶け込んでいこうとする青年だ。
コソボの写真でジョルジュが批判されるレストランで、白人女性と堂々とデートする。
本作の中で、唯一、「人間が分かり合うことの難しさ」を克服せんと能動的に振舞うが故に、冒頭における正義漢ぶりを発現してしまうのである。
そればかりではない。
妹の通う聾唖学校で、生徒たちと共に太鼓を打ち鳴らす授業をサポートし、見事にハーモニーのとれた音楽の調和感によって、パラレルに進行する物語のラストシークエンスの渦中に、「人間が分かり合うことの難しさ」に打ちのめされたアンヌの、不安と恐怖の閉鎖系のスポットに風穴を開けていくのである。
中央にアマドゥがいる |
聾唖学校の生徒たちが打ち鳴らす太鼓の音だけが、この映画で唯一、心と心が重なり合って決定的な調和感を紡ぎ出していくのだ。
これが、本作のラストシークエンスを支配して、観る者に深い余情を残すに至ったに違いない。
ところで、アマドゥによる正義感の発動によって、図らずも、ルーマニアに強制送還されたマリアについても、簡単に触れておこう。
ルーマニアに強制送還されても、生活の糧となる安定的な収入源がある訳ではない。
マリア |
飲んだくれの夫に代わって、「出稼ぎ」に行く以外にないのだ。
帰郷を果たしても、「パリはどうだった」と知人に聞かれ、「4カ月間、学校で働いていた」などと嘘をつくマリアが、再び不法入国するに至った背景を知れば、もう彼女には、それ以外の手立てが存在しない現実を理解し得るだろう。
不法入国しても、繰り返し、屈辱を味わった体験を話すマリアの心痛が、観る者の心に共振してくるのだ。
結局、再び不法入国した彼女は、屈辱の物乞いに流れていく。
しかし、マリアの視界に収められたのは、かつて、そこで物乞いをしていた小さなスポットを、他の物乞いの女に占有されていた現実だった。
マリアは、自分が占有し得る小さなスポットを求めて、パリの街の一角を彷徨(さまよ)い歩く。
彷徨い歩いた挙句、漸(ようや)く見つけた物乞いのスポット。
だが、そのスポットもまた、店員に目敏(めざと)く目視され、追い返されてしまうのだ。
今やもう、この街にはマリアの居場所が存在しないのである。
既に、物語はラストシークエンスに入っている。
アマドゥ(注)ら父兄らが中枢に位置し、聾唖学校の生徒たちが大きな一団と化して打ち鳴らす太鼓の響きが、映像総体を支配するBGMとなって、マリアの彷徨から、後述するアンヌの閉鎖系への逃避、更に、帰還場所を失ったジョルジュの孤独へと流れていく括りを包括してしまうのだ。
(注)手話を話し、ボランテアと思われる恋人と共に太鼓の指導に参加している様子を見れば、聾唖学校の教師のように思われるが、一切は不分明である。物語のラインの中では、どうでもいいことだからである。
4 「アンヌの地下鉄体験」に集約される、被差別者としての移民に対する反転的な恐怖感
ここから、この映画で最も重要なシーンについて書いておきたい。
それがラストシークエンスの伏線になっているからである。
3分以上に及ぶこの長回しのシーンを、「アンヌの地下鉄体験」と呼んでおこう。
女優業で多忙を極めているアンヌが、アラブ系の二人の移民の若者に絡まれる恐怖体験―― それが「アンヌの地下鉄体験」である。
車両の一番端に座っているアンヌに、この二人の若者は執拗に絡んできた。
「トップモデルだろ?こんな地下鉄に乗ってるなんて。ところでお嬢さん、チンピラと話す?社交界の超美人だろ。反応ねえな。美人で横柄なんで疲れるんだろう」
二人の中でリーダーらしい男が、そんな厭味を言いながら、アンヌの隣りの席に坐り込んでいく。
心中で騒ぐ恐怖感を、できるだけ表情に出さないように努めていたアンヌは、彼らを無視するようにして、車両の反対方向の端の席に座った。
ところが、その男は他の婦人をからかいながら、「かわいいアラブが愛を求めている。他の車両に移る?俺が臭うからか?」などと言って、アンヌの座席の横につけてきた。
「俺が臭うからか?」という言辞には、明らかに、自分がいつも嘲罵(ちょうば)を浴びせられていることへの憤怒の感情の投影だろう。
普段から溜め込んでいたストレスを吐き出す男が支配する車両には、多くのフランス人や移民たちが席を埋めているが、このような時に、いつもそうであるように、自分に矛先を向けられないようにして、彼らは無言の状態を続けている。
チンピラ(右) |
一瞥して、男との距離を確認する人々。
車両内には、アルピニスト風の若くて大柄な青年もいるが、無論、彼は何もしない。
できないのだ。
この状況で推量できるのは、敢えて言えば、相手が複数であるということだが、仮に一人であったとしても変わらないだろう。
それが、普通の人間の普通の反応であるからだ。
見て見ぬ振りをする行為が、日本人の特性のように思っている人が多いが、それは違うと言いたい。
相対的に豊かになり、限りなく自由の幅を広げ、私権が拡大的に定着するような社会になれば、大抵、どこの国でも価値観が相対化し、「他者の不幸」に目を瞑る現象が一般化するのである。
ニューヨーク州キュー・ガーデン地区で、38人の目撃者がいながら、帰宅途中の一人の女性(キティ)が襲撃され、被害女性が大声で助けを求めたにも拘らず、近所の住人の誰一人とも警察に通報しなかったことで殺害されてしまった「キティ・ジェノヴィーズ事件」のことを。
1964年のことである。
最終的に終身刑となった犯人は、事件前から同様の犯行を繰り返していて、「発見者は動かない」という「傍観者心理」を熟知していたと供述している。
それは、人の心が「荒涼化」し、「優しさ」を失ったことを意味しないのだ。
前述したが、「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛り(倫理感覚)が希薄になったことの必然的現象であり、寧ろ人の心はより繊細になり、それ故に、かつて平気で無視してきたような末梢的な「事件」に対して、過剰に「体感治安」が敏感になっていくというのが正解である。
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【日本の体感治安は悪化…半数以上が「悪い」と感じている結果に(2023年調査結果)】 |
思えば、2014年1月に起こった「川崎容疑者逃走事件」(集団強姦などの容疑で逮捕された男が、検察庁から逃走した事件)のように、連日、「劇場型報道」の様相を呈することで、近隣住民が異常に怯える現象を引き起こしたが、これは、確率論的に言えば、「自分の不幸」に繋がる危険性が極端に低いにも拘わらず、人の心が必要以上に反応してしまう事例の典型であると言っていい。
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川崎容疑者逃走事件 |
人の心が「優しさ」を失った時代という決めつけが、如何に乱暴な議論であるか、既に自明の理である。
物語を追っていこう。
車両内の乗客らが驚嘆する事件が惹起した。
再び、アンヌの隣りの席に無言で座っていたチンピラは、次の駅で止まった瞬間、いきなりアンナの顔に唾を吐いて、下車しようとしたのだ。
その時、一人のアラブ系の初老の男性が、男の背後を足で蹴飛ばした。
一部始終を聞いていたこの初老の男性は、アンヌが通路を隔てた自分の横の席に座ったことで、黙って見過ごすことはできなかったのだろう。
彼は、自分の眼鏡をアンヌに預かってもらった上で、ゆくり立ち上がり、男に「恥を知れ!」と一喝したのである。
アラブ人としての誇りを逆撫でする一喝に本気度を感じたのか、「何をしやがる!」と言うだけで、下車できなかったその男は、再び、アンヌの傍らに立って、何もできずに次の駅まで待っていた。
チンピラが何もできなかったのは、相手が同じアラブ系であったからというよりも、初老の男性の落ち着き払った行動にある。
下車できなかったチンピラの前にゆくり立ち上がった初老の男性が、眼鏡を外し、それを傍らのアンヌに渡す行為は、その直後の一喝に繋がることで、男の攻撃性を削り取ってしまったのである。
この辺りの人間洞察力の凄みを見せる映像提示こそ、ハネケ映画の真骨頂である。
この予想だにしない出来事の後の沈黙は、完全に澱んだ空気を支配した初老の男性の、その圧倒的な存在感の大きさを際立たせる効果が生み出したものだった。
電車が駅に着いた瞬間、降車の際に、その男は、「覚悟しとけ、また会おうぜ」と捨て台詞を残した直後、突然、「ワッ!」と大声を上げて、車両内に座っている乗客たちの度肝を脱ぎ、笑いながら下車していった。
「覚悟しとけ」という捨て台詞が、男の敗北宣言であるのは言うまでもない。
然るに、この一件によって、アンヌが被弾した心の傷跡は深く、彼女の内的な生活風景を変える威力があったことは、まもなく証明されることになる。
ここでは、初老の男性に「ありがとう」と言うのがやっとで、啜(すす)り泣くだけだった。
それにしても、ハネケ映画の「描写のリアリズム」には感嘆する。
このような異常な事態に遭遇した二人、即ち、初老の男性とアンヌとの間に、全く会話がないのだ。
元々、見知らぬ他人であっても、異常な事態に関与した者同士が会話を繋ぐが自然であると考えるのは、邦画やハリウッドの限定的世界であると言っていい。
こんなとき、不自然な会話を繋げないのが、人間の心理の自然の発露であるだろう。
なぜなら、アンヌの心は、一方的に被弾された者の恐怖と屈辱の感情に塗(まみ)れていて、とうてい、初老の男性との会話を繋ぐ精神状況ではなかったのである。
「アンヌの地下鉄体験」を精緻に描くこの状況を、映画的に投入された、初老の男性の存在の有無を除けば、先の「キティ・ジェノヴィーズ事件」と同様に、「傍観者効果」の心理学で説明することが充分に可能である。
即ち、「責任分散」(他者と物理的に近接することで責任が分散される)と、「聴衆抑制」(皆の前で恥をかきたくない)の心理学である。
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傍観者効果 |
【「傍観者効果」の対策として、アメリカでは「第三者介入」トレーニングが実施されている】
この「傍観者効果」の心理学に、何をするか分らないと思わせる、複数のアラブ系のチンピラに対する恐怖感が張り付いていて、それで、多くの場合、自分に害を及ぶ危険性を回避しようと動くのである。
この現象は、どこの国でも、いつの時代でも普遍的に起こり得るものだが、この映画では、白人社会の中で差別されている移民に対する、反転的な恐怖感が強調されている点が刮目(かつもく)に値する。
いつもながら、その辺りの乗客心理を巧みに描き切った、ハネケ監督の人間洞察力は出色だった。
5 「コード・アンノウン」の縛りに閉ざされていく
完璧なラストシークエンス。
地下鉄で不良に辱められたアンヌが、沈み切った様子でアパートに帰って来る。
その後、同じ地下鉄車両で、刑法に抵触しないとは言え、プライバシー侵害の隠し撮りをしていた戦場カメラマン・ジョルジュがタクシーで帰って来た。
いつものように、アパートの暗証番号を押すが、扉は開かない。
道路際に下がったジョルジュは、アパートの部屋を見上げて、アンヌが在宅していることを確認したのか、その脚で向い側の電話ボックスに向かった。
その電話ボックスからアンヌの部屋に電話をかけるが、反応がないので諦めるジョルジュ。
結局、ジョルジュは何度も部屋の窓を見上げつつ、タクシーを探すカットが挿入される。
ここで映像は暗転し、物語の終焉を告げていく。
ここで切り取られたフラグメントで描かれたのは、明らかに、アンヌがアパートの暗証番号を変えてしまったという事実である。
地下鉄で被弾したアンヌの恐怖感は、既にトラウマと化していて、完全に、「コード・アンノウン」(言語的・非言語的交通の遮断)の世界を体現するものだった。
彼女の中でジョルジュの存在は、今やもう、その程度の関係にまで降下してしまったのだろう。
この男に何を相談しても、「それは君の問題だ」と突き放されることが想像できるが故に、物理的にも心理的にも最近接の関係であったはずの対象人物との、コードの脆弱さを露わにするばかりだった。
既に、このシーンで、聾唖学校挙げての太鼓のBGMは消えているが、見事に調和された太鼓の律動感がポジティブに、且つ、パリの街の見えにくい排他的な陰翳感を吹き払うが如き、「コード・アンノウン」の縛りを突き抜けていくフォーマットに軟着する、比類なきハネケ映像の洞察力は圧巻だった。
6 手話は言語である
そして、この映像はとっておきのラストカットを映し出す。
それは、一人の聾唖学校の生徒が手話で話すカット。
しかし、これはファーストシーンで映像提示されたような、特定ゾーンで待つ特定他者に問いかける手話ではない。
そこには冒頭のように、手話の問いを受け止めて、手話で反応する聾唖学校の生徒たちが、特定のスポットで呼吸を繋ぐ風景と切れているのだ。
そこには、一人の生徒の手話が収録されているだけで、生徒たちの姿を映さない。
即ち、映像は、手話を言語と認知できない圧倒的多数の私たち鑑賞者に向かって、この極めつけのカットを提示したのである。
ファーストシーンで置き去りにされた聾唖学校の生徒たちの真剣な眼差しは、手話の体現者によって手話による答えが容易に提示されることで、仲間内で自己完結するだろうが、ラストカットの場合は様子が違うのだ。
私たち鑑賞者が、自ら学習努力しない限り、置き去りにされた状態を延長させてしまうのである。
因みに、わが国には「手話は言語である」という法律(「改正障害者基本法」)があるにも拘らず、聾唖学校で手話を教えることはなく、「口話法」(相手の口を見ながら、話の内容を理解する方法)で教えている。
だから、聾唖者の団体(全日本ろうあ連盟)は、「どこでも気がねなく、自由に手話が使える社会環境が作られること」を目的に、世界ろう連盟の運動の結晶であった、「手話言語法」の制定を目指して頑張っているのである。
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世界ろう連盟(ウィキ) |
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全日本ろうあ連盟スポーツ委員会 |
【言語には音声言語と手話言語がある。我が国でも、2006年12月、国連総会で採択された「障害者権利条約」に「手話は言語」と定義されたことを契機に、「手話言語法」の法制化を目指す「手話言語制定法運動」が行われている】
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障害者権利条約 |
ここで、私は勘考する。
本篇は、明らかに、「手話は言語である」という前提に立って描かれていて、それについて全く理解を示さない私たちに、シビアに問いかけてくる映画でもあった。
即ち、聾唖者と健常者との間に横臥(おうが)する、「コード・アンノウン」という状態を延長してはならないというメッセージでもあった。
私はそう考えている。
7 人間が分かり合うことの難しさ
何度観ても、〈状況下の人間〉に関わる洞察力の凄みに溜息が出る。
全てが完成形のハネケ監督の秀作群の中で、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)、「愛、アムール」(2012年製作)と並んで、私に深い余情を残すに至ったこの映画の感動は、間違いなく外国映画生涯ベストテン級の名画である。
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「タイム・オブ・ザ・ウルフ」より |
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「愛、アムール」より |
これほどの名画が、主にDVDでしか鑑賞できない現実に、正直、驚きを隠せない。
いつも書いていることだが、私にとって考えさせる映画は、押し並べて「良い映画」である。
考えさせる映画は心に残る。
心に残るから、もう一度観たいと思う。
そのような映画が最も好ましい。
ミヒャエル・ハネケ監督の一連の作品には、観る者を挑発することで考えることを例外なく迫ってくる。
だからいつも、へとへとになる。
「3部作(注)のテーマはお望みなら、コミュニケーションの不可能性と言ってもいい。そのことは私自身、心の最も深い部分に抱いている想念で、私の映画は常に、その問題に迫ろうとしている。人は会話する。だが伝わらない。(笑)関係が近いと、更に悪い。近くなるほど話さない」(「『71フラグメンツ』ミヒャエル・ハネケ セルジュ・トゥビアナ対談」より)
これは、「71フラグメンツ」ついてのインタビューでのハネケ監督の言葉。
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「71フラグメンツ」より |
「コミュニケーションの不可能性」
ハネケ監督は、そう明瞭に言い切った。
「関係が近いと、更に悪い」という物言いには必ずしも同調しないが、「肉親関係」には大いにあり得ること。
少なくとも、本作では、「近くなるほど話さない」という関係における「コミュニケーションの不可能性」について、存分なまでに描かれていた。
「71フラグメンツ」から、その11年後に製作された、「隠された記憶」(2005年製作)の両方の要素が含まれていると思える、この映画が観る者に突き付けたのは、3部作の延長としての「コミュニケーションの不在」(「不可能性」というよりも)であり、「人間が分かり合うことの難しさ」であると言えるだろうか。
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「隠された記憶」より |
「“現実は断片だ”という考えが、映画の構造にある。断片でなければ、現実は理解できない。断片からでなければ、現実は理解できない。(略)誠実に物語れるのは、断片においてだけだ。小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く。個人の体験に基づいて考える可能性を。つまり、観客を挑発するのだ。感情や思考の機械を回転させる。始動させるのだ。(略)映画を作るときは、常に観客の反応を意識すべきだ。私は誰もがよく知っている断片を描きたい。知っていることと、理解することは別物だ」(同上)
これもハネケ監督の言葉。
「知っていることと、理解することは別物だ」という含意を正確に読み取ることができる者は、困難な「知的過程」を開くであろう。
ハネケ監督は、自らが構築した映像の提示を通して、「知的過程」を開くことで、観る者との「問題意識」の共有を求めているように思われるが、そこには、「啓蒙意識」のような俯瞰的な視線がなく、まして主張を押しつけることがないから、決して「分かった者」の如き説教の欠片すら拾えない。
ともあれ、本作でもまた、「小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かって些かの可能性を開く」という、ハネケ監督の拠って立つ強靭な問題意識のもとに、現代の欧州社会が抱えている移民や人種差別などの深刻な問題も射程に入れているが、そればかりではない。
「近くなるほど話さない」と言うように、心が最も最近接しているはずの関係の、「人間が分かり合うことの難しさ」をも重要な射程に入れていて、それが、ラストシークエンスの炸裂となって噴き上げていくのだ。
圧巻だった。
この作品においても、BGM効果によって観客にカタルシスを与え、浄化させてしまうことで自己完結させる手法を取らなかったが、いつものように、音楽を物語内に効果的に挿入させていく手法は、充分に冴えわたっていた。
恐らく、日本の観客には見向きもされないテーマを敢えて取り上げ、完璧なフォーマットを構築していくハネケ映画の凄みが、この作品にも溢れていた。
「自分を完全な職人だと思う。“自分の仕事をする者”だ」(同上)
このハネケ監督の言葉に深々と共鳴し、尊敬の念すら抱いて止まないほどである。
(注)「セブンス・コンチネント」(1989年製作)、「ベニーズ・ビデオ」(1992年製作)、「71フラグメンツ」(1994年製作)と続く、オーストリア時代に作られた、所謂、「感情の氷河化」の3部作のこと。
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「セブンス・コンチネント」より |
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「ベニーズ・ビデオ」より |
【本稿は、2014年に投稿した批評を再編集したレビューです】
(2025年9月)
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