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2025年1月9日木曜日

碁盤斬り('24)  絶対正義を埋めゆく男の旅路  白石和彌

 


1  「どうしても死ぬというのなら、この私を殺してから、腹を召されてください!」


 

 

藩を離れ、浪人の身の柳田格之進は、娘・お絹と共に、江戸の貧乏長屋で慎(つつ)ましくに暮らしている。 

柳田格之進とお絹

溜めた店賃(たなちん)を請求に来た大家に、夕刻までには用意すると約束した格之進は、吉原の遊郭・松葉屋の女将のお庚(こう)に頼まれた篆刻(てんこく/印鑑を作ること)を仕上げ、届けに行った際に、お庚に詰碁(つめご/相手の石を取る手筋)を教える。 

吉原の遊郭


「取ったつもりが、逆に切られて…」

「“石の下”です。“石を取らせて逆に相手の石を取る”という手筋です。実践ではこの形になることは、まずありませんが」 

お庚

お庚は篆刻を受け取ると、稽古料も含めて約束以上の一両を格之進に渡した。 


【石の下とは、味方の石が取られた後に相手の石を取り返す囲碁の手筋のこと】 

石の下

その帰りに碁会所に寄った格之進は、席亭(碁会所の主人)から初会(初対面)の源兵衛が賭け碁で次々に常連の腕自慢が破られていると聞かされた。

 

格之進と目が合った源兵衛が一局誘うが、席亭に先生は賭け碁は打たないと言われ、格之進の脇差しだけの姿を見て、「お金にはあんまり縁のないご様子で」と見下す。

 

それに対し、「私でよければ、お相手になりましょう」と格之進は源兵衛の誘いを受けて立った。

 

席亭や客たちが見守る中、じりじりと碁を積み、源兵衛を追い詰めた格之進だったが、最後の一手を指そうとして手が止まった。 

萬屋源兵衛(左)


「これまでです」と格之進は頭を下げ、賭けた一両小判を置いて去って行った。

 

呆気に取られる源兵衛と席亭ら。

 

「なんで投げたんだか、分かんねえな」と席亭。 

源兵衛と席亭(右)

夕方、店賃を取りに来た大家に絹が言い訳をし、親子共々頭を下げて帰ってもらう。

 

「賭け碁に手を出すなど、父上らしくもない」

「すまん」

「またしばらくは、ふかし芋ですよ」 



格之進に賭け碁(かけご)で勝った源兵衛は、両替屋(江戸時代の金融業者)・萬家(よろずや)の店主をしており、金勘定に煩(うるさ)く、使用人たちに常に厳しく仕事を言いつけ、世間でもケチ兵衛と仇名されていた。

 

お絹が縫った着物を取りに来たお庚が、お絹の丁寧な針仕事を褒め、そろそろいい人を見つけて一緒になったらどうかと話す。

 

「父上をほっとくわけにはいきません。だって、一人じゃお湯も沸かせないんですよ」 


格之進は印刻屋に行くが、篆刻の注文を得られず帰るところで、人だかりができた萬家から、一人の侍の怒号が聞こえてきた。

 

奉公人の弥吉が、預けた茶碗が欠けて戻って来たと言いがかりをつけられているのである。 

弥吉

その茶碗は高麗物(こうらいもの)の大井戸茶碗(高麗茶碗の名碗として知られる)だとして、五百両で引き取れと迫り、刀を抜く侍。

 

そこに格之進が割って入って来た。

 

「某(それがし)、書画骨董は目に覚えがございます。ぶしつけながら、目利きさせていただけませんか?」

 

刀を突きつけられても怯(ひる)まず、弥吉の持つ焼物を手にし、「高麗物とは違います」と言い切る。

 

「これは、十文の値打ちもない真っ赤な偽物。家宝が偽物だと世間に知れたら、家名(かめい)の恥。悪いことは申しません。このままお帰りなさいませ」 


高麗物の大井戸茶碗


そう言い切って事態を処理し、帰っていく格之進を弥吉が追い駆け、「主人がお礼を申し上げたい」と伝えたが、「お気遣い無用」と歩み去っていく。 


お礼を要らぬという格之進に対し、番頭の徳次郎は「あの旗本とつるんで一芝居打っているかも知れない」と疑い、源兵衛も同調する。

 

「そうか…恩を売っておいて、あとで大金をせしめるつもりだ」

 

早速、源兵衛は弥吉を伴い長屋を訪れ、格之進に十両を渡そうとするが、それも固辞されてしまった。

 

「父上は一旦、こうと決めたら何があっても後には引きません。申し訳ございませんが、今日のところは、このままお引き取り下さい」と頭を下げるお絹。 


そこで源兵衛は碁会所でのことを訊ねた。

 

「なぜ、勝ちを譲られたのです?…」

「その昔、囲碁で嫌な思いをしたことがありまして。居丈高(いたけだか)な相手の打ちぶりに平常心を失い、相手と諍(いさか)いになったことがありました。その時のことを思い出してしまいまして…」


「では…私の姑息な碁に嫌気が差して、みすみす一両を捨てたと?」

「世知辛(せちがら)い世の中ですが、囲碁だけは正々堂々、噓偽りなく打ちたいと思いますので」

「正々堂々、嘘偽りなく…」

 

唸る源兵衛は、部屋の隅の碁盤を見て、格之進が勝ったら源兵衛は十両を持ち帰り、源兵衛が勝ったら格之進が十両を受け取るようにと、一番勝負を願い出て了承される。

 

長い対局の末に格之進が勝ち、その高潔な態度にすっかり敬服した源兵衛は、以降も場所を選ばす、格之進との嘘偽りのない真剣勝負の対局を重ね、交流を深めていく。 


「江戸に出て、この長屋に暮らすようになって、五年になります」

「それまでは、どちらに?」

「彦根藩の進物番をしておりました」

「どうりで書画骨董に目が聞くはずだ…しかし、柳田様のようなお方が、どうしてまた、このような浪人暮らしを?」


「いろいろとございまして…」
 


【進物番(しんもつばん)とは大名・旗本からの献上品(進物)の周旋を行うことを職務とする】

 

弥吉が源兵衛に格之進から碁を習うよう勧められ、密かに慕うお絹に会えると思い、苦手な碁を習い始めた。 


弥吉とお絹が一局交える様子を見守る格之進。 



ある日、乳飲み子を抱えた女性が、伊万里焼の皿を持って萬家にやって来た。

 

徳次郎が相手は素人だから、十両の価値のある皿を二両で売ればいいと進言するが、源兵衛はそれを窘(たしな)める。

 

「確かに商売というのは、欲得ずくの世界。ですがね。私は、正々堂々、嘘偽りのない商いがしたい。十両で引き取って差し上げなさい」

 

意外な言葉が源兵衛から返ってきた。

 

明らかに格之進の影響である。

 

十五夜の宴に源兵衛から招かれた格之進とお絹。

 

絹は、松葉屋のお庚に帯を締めてもらう。

 

「鬼のケチ兵衛が、今じゃ、仏の源兵衛。鬼が仏になって、利の薄い商い始めたら、逆に店は大繁盛してるそうじゃないか。ふっ、分かんないもんだねえ。世の中ってのは」 


そこに、客と足抜けして捕まった遊女が、男たちに荒々しく中庭に運び込まれて来た。

 

格子窓から遊女たちが不安そうな面持ちで覗く。

 

お庚がすぐさま、その遊女を脅しにかかる。

 

「足抜けしたからには、覚悟ができてるんだろうね。行燈部屋(あんどんべや)で、仕置きしておやり」 


驚いた様子で見ていたお絹に、お庚がぼやく。

 

「ここは極楽みたいなとこだけど、ひとつ裏回りゃ、地獄。因果は商売だよ」

 

竹刀で叩く音と遊女の悲鳴が響く。

 

宴が始まった源兵衛宅で、格之進は見事な四方木口(しほうこぐち/四方の側面が木口=木材の切断面となる碁盤)の碁盤を見せられる。

 

「四方から災いを逃がす縁起のいい碁盤ということで、買い求めました」

 

ここでも二人は、真剣勝負の対局をしている最中、弥吉が客から返済された五十両を源兵衛に手渡すと、それを手に握ったまま源兵衛は碁に意識を集中させている。 


お絹と弥吉も碁を差していると、旅姿の侍が格之進に会いに店に訪ねて来た。 


彦根藩から命を受けた左門という藩士が、格之進が浪人となった事件の真相を伝えに来たのだった。

 

「狩野探幽の軸を進物蔵(しんもつぐら)から持ち出したのは、柴田様でした。殿の使いで柴田様を訪ねた者が、隠し持っていた探幽の軸を見つけたのです。進物番の柳田様に、あらぬ嫌疑をかけるために探幽の軸を持ち出し、殿に讒言(ざんげん)したのです」 

左門

それを聞いた格之進は、怒りを抑えまんじりともせず一点を見つめ、事の始まりについて思いを巡らせる。 


彦根城の一室で、格之進と柴田が碁の対局をしている。 

柴田兵庫(右)

柴田が白の碁で一手打った際に、格之進が柴田の方を見る。

 

「なんだ、その目は。たかが進物係の分際で。少しばかり、殿に気に入れられているからと言って図に乗るな」

 

柳田の落ち着き払った態度が気に入らず、対局の途中で席を立ち、退室した柴田は、城から出て来た格之進を待ち伏せ、刀を抜き斬りつけてきた。 


倒れた格之進も抜刀し、襲いかかる柴田の腿に斬りつけるが、なおも刀を振り上げる柴田を藩士たちが必死に制止する。 


「五年前のあの一件で、柴田様は柳田様を恨んでおりました。探幽の軸を持ち出したのも、柳田様を陥(おとしい)れるため」

「それで、柴田兵庫は?」

「出奔しました…どうやら、賭け碁をしながら中山道を流れているようでございます」

 

左門は、更に驚くべき事実を言い難そうに話す。

 

「柴田様は、柳田様の奥様に懸想(けそう)しておりました。柳田様に嫌疑がかかっていた頃、“潔白を証明してやる代わりに身を任せろ”と迫り…」

「それから…言え!」

「拒み続ける奥様を最後は力づくで…奥様はそれを苦にされて、琵琶湖に身を投げたのでございます…嫌疑が晴れ、殿も帰参を望んでおられます。すぐ国元に戻られてください」


「私は帰らぬ。殿には、そのように伝えてくれ」

 

源兵衛と碁を再開したが、険しい表情の格之進は、荒々しく碁を打ち、いつもと様子が違うのを察した源兵衛は勝負を打ち掛け(中断)とすることを申し出る。

 

雷雨の中を、お絹と帰宅の途に就く。

 

「父上、探幽の軸の嫌疑が晴れたというのに、どうしてそんな暗い顔でずっと黙りこくっているのです?…父上、一体どうなさったのですか?」

「言うまいと思っていたのだが、やはり、お前には伝えておこう」 


翌日、源兵衛は返済された五十両を弥吉から受け取ったことは覚えていたが、対局中に集中してその後の記憶がなく、徳次郎と弥吉が部屋を探しても出てこなかった。 

徳次郎

徳次郎は、部屋にいた格之進を疑い、格之進に尋ねるように弥吉に命じた。

 

一方、格之進は入念に脇差しの手入れをしている。

 

「志乃の仇を討つまで戻らぬつもりだ。草の根を分けても、柴田兵庫を捜し出す」

「どうか、本懐を遂げ、必ずや母上の無念を晴らしてください」 


格之進は長屋を出たところで、走って来た弥吉に声をかけられた。

 

お絹が桶を持って外へ出ると、格之進の「無礼者!」と怒鳴る声がした。 


「私を盗人扱いするつもりか?五十両など身に覚えがない!…痩せても枯れても、私は武士だ。たとえどんなに窮しても、人様のものに手を付けるほど落ちぶれてはおらぬ!」 


激昂する格之進は、自宅へ引き返し、代わってお絹が弥吉を詰問した。

 

「本当に父上がそのようなことをしたと思っているのですか?」

 

返答に窮する弥吉は、深々と頭を下げ立ち去った。

 

深夜、外の井戸で体を拭く格之進。

 

翌朝、格之進はお庚への書状を書き上げ、お絹に届けさせる。

 

怪訝な顔をして受け取ったお絹は、途中でその書状の中身を開けて読んでしまう。 


そこには、格之進が切腹した後、お絹の身の上を託したいという内容が書かれており、驚いたお絹は、踵(きびす)を返し急ぎ長屋へ戻った。

 

刀に懐紙を巻いている格之進を、お絹は思い留まるよう、体で止めた。

 

「こうするしかないのだ!」

「このようなことをしても、世間は“やはり、五十両に手を付けたからだ”と噂するだけではありませんか!母上の仇も討たず、濡れ衣を着せられたまま死んでしまうのですか?」

「しかし、汚名を着たまま生きていくわけにはいかぬ!」

「どうしても死ぬというのなら、この私を殺してから、腹を召されてください!五十両、無くなったというその五十両があれば汚名をそそぐことができるのですね?」 


ほどなくして、お供を連れたお庚が、格之進の長屋を訪れた。

 

「私は九つの春、吉原に売られました。毎日飲んだくれの父親を恨みながら、鬼のような心で、今日まで生きてきたんですよ。ところが、そんな私とは違って、お絹ちゃんは父親のために、自ら女の幸せを捨てようっていうんですよ。その心意気に私は負けました。いえ、お絹ちゃんに惚れたんですよ」 


そこで、お庚は五十両を差し出した。

 

「お絹ちゃんが覚悟を決めて用立てた五十両です。どうかその気持ち、無にしないでくださいな。大晦日までに五十両をお返しくだされば、お絹ちゃんは無傷でお返しします。ただし、こちらも商売。大晦日を一日でも過ぎたら、そんな時は、私、鬼になりますよ。お絹ちゃん、店に出しますからね」

 

格之進はその金を萬家へ行き、弥吉に渡した。

 

「天地神明に誓って、私はあの金を盗ってはおらん。弥吉、金が出てきたらどうする?」


「その時は、いかようにも…」

「ならば、お前の首をもらい受けるが、それでもよいか?」


「…よろしゅうございます」

「一緒に源兵衛殿の首ももらい受けるぞ。私に嫌疑をかけたからには、源兵衛殿にも責めを負うてもらう。よいな?」

「はい」 


その顛末を源兵衛に話すと、源兵衛は格之進に嫌疑をかけたことに激怒する。

 

「柳田様がそのようなことをするなど、万に一つもあるもんか!…よしんば柳田様が持ち帰ったとしても、それは何か、よくよくの事情があってのことだ。あの五十両を何かに役立ててもらえるなら、私は喜んで差し上げるつもりだ」 


早速、源兵衛らは長屋を訪ねるが、二人は転居した後だった。

 

「“人は見かけに寄らぬもの”」と徳次郎の言葉に、源兵衛は反応せず去って行く。

 

そして今、格之進は中山道沿いの碁会所を訪ね、柴田を探す旅に打って出るのである。 


 

 

2  「この首を賭ける。代わりに私が勝てば、お主の首をもらい受ける!」

 

 

 

背丈の大きな男を見つけては、肩を叩くが別人で、いつしか雪がチラつき始めた塩尻宿で、左門が声をかけてきた。

 

左門は柴田を討ち、探幽の軸を取り戻すよう殿に命じられており、格之進のお供を願い出ると同時に、重ねて藩に戻るよう訴える。

 

しかし、格之進は清廉潔白に訴えたことで藩を追われ、苦しい生活を強いられている者たちが何人もいることの責任を語る。

 

「多くの者たちに苦渋を与え、その挙句、この体たらく。父から譲り受けた刀も、とうに売り払い、脇差し一本の食い詰め浪人だ」 



酒を煽って、格之進は店を出ていった。

 

酉の市でお絹を見かけた弥吉が声をかけ、この辺りに住んでいるのか、格之進は元気かと訊ねてきたので、「何をのんきなことを」と、格之進とは離れ離れになったことを伝えた。 


「それもこれも、あなたにあらぬ嫌疑をかけられたせいです…あの五十両を作るために私は…もう金輪際、私の前に現れないでください」

 

お絹は橋を渡り、大門(おおもん)の方へ真っすぐ走って行った。 


呆然と立ち尽くす弥吉。


【大門は吉原遊郭の唯一の入り口だった】

 

左門を伴い訪ねた碁会所で、柴田がいたことを聞き出すが、その柴田は年の瀬の両国の料亭で大きな賭け碁の会に出るため、三日前に江戸へ発ったことが分かった。

 

二人は走り江戸を目指す。 


大晦日の松葉屋では、お絹の身請けを待つ侍がお庚に相談をしている。

 

江戸に着いた格之進と左門は、賭け碁の会が催される料亭へと到着し、碁会を仕切る横網の長兵衛と面会するが、紹介のある者だけに許可していると断られてしまう。

 

格之進はそれを承知で、土下座をして頭を下げる。

 

「仔細は申し上げられませぬが、訳あってどうしても会わなければならないのです」 


格之進の必死の形相に、長兵衛はそれに応えるのだった。

 

「ようござんす。どうぞ、お上がりください」 

長兵衛

格之進と左門は、碁会所の部屋を見て回り、遂に対局中の柴田を見つけ出した。

 

左門が柴田に声をかけると、柴田は振り返って、格之進を視認した。

 

「久しぶりだな。格之進。恨み言でもいいに来たか」

「殿の探幽の軸、返してもらおう」と左門。

「とうに売り払ったわ」

「許せん」と左門。

「許せん?ならばどうする」

「お主を、このままにしておくことはできぬ」と格之進。


睨みつけている。



「その正義漢面を見ると、反吐が出るわ。己(おの)が身の不幸を嘆いておるようだが、お主がどれほど恨まれているか、知っておるのか?お主の殿への直訴によって、役を解かれ、録を減ぜられた者たちとその家族は、日々の生活もままならず、爪に火を灯すように暮らしている。そのような者たちのために、探幽の軸を売ったのだ!」


「よくも抜け抜けと、そのようなきれい事を!」と左門。

「“袖の下”は旧来の習わし。何も贅沢をするわけではない。そうせねば、暮らしてゆけぬから、やむを得ずそうしていたまでのこと!“水清ければ、魚住まず”。お主のせいで、幾人もの才ある者たちが、藩を追われた」

「言いたいことはそれだけか」

「知らぬと思うが、お主の女房は、役を解かれた者が家族から恨まれ、それを苦にしていたのだぞ。馬鹿正直なお主と一緒に暮らしていると息が詰まりそうだと、この俺にこぼしておったわ」


「ならば聞かせてもらおう。志乃は、なぜ命を落とさなければならなかったのか?言え。返答次第では、覚悟がある」


「俺をどうするつもりだ?」

「私と勝負をしてもらう…碁で決着をつけたい」

「お主、正気か?彦根藩一の打ち手の俺と勝負しようというのか?」

「いかにも」

「金は持っているんだろうな?」

「この首を賭ける。代わりに私が勝てば、お主の首をもらい受ける!」

「それでは話しにならん!俺が勝ったところで、何の得もないではないか。そもそも、この俺にお主が勝てるはずもなかろう」

 

このやり取りを聞いていた長兵衛が割って入ってきた。

 

「男が命を賭けると言うからには、よくよくあってのことじゃございませんか。一生一度の命がけの頼み、腕に覚えがおありなら受けてお上げなさいな」

「いいだろう」

「勝負の見届け人は、この横網の長兵衛。どちらが勝っても、遺恨はなし」

 

こうして格之進と柴田の対局が始まった。 


昼から始まった対局は終わらず、陽が傾き始めた。 


碁盤の多くが碁石で埋まり、格之進が苦し紛れの一手を打ったと思われた柴田は、にやりとして余裕の表情で白の碁石を差していく。 


ところが、格之進が差した黒の碁石のあと、柴田の打つ手が止まり、表情に焦りの色が見えた。 


“石の下”だった。

 

日没し、灯篭に火が点(とも)されても、柴田の手は動かかった。

 

すると、水を所望した柴田は、一口飲むや、刀を抜き格之進に振り下ろした。 


碁盤がひっくり返され、肩を斬られた格之進は倒れながら碁石を投げ、刀を振り回す柴田と左門が格闘し、止めに入った長兵衛の子分たちを柴田は次々と刀でかわしていく。

 

子分の一人の胸を刺した柴田に格之進が体当たりでぶつかり、二人は庭に転げ落ちた。

 

長兵衛が格之進に脇差しを投げて斬り合い、池に落ちた格之進に襲いかかった柴田を、格之進がひと斬りして勝負がついた。 

瀕死の重傷を負う柴田

柴田は武士の情けで介錯を頼むと格之進は頷き、一太刀で柴田の首を刎(は)ねた。 


「ご無事でようござんした」と長兵衛。

「見事に、本懐を遂げられましたな」と左門。

 

長兵衛は柴田の預かりものの掛け軸を出した。 


「探幽の軸に間違いない。これを殿に」と格之進。

「とうに売り払ったなどと、真っ赤な嘘をぬけぬけと」

 

一方、萬家では源兵衛が書いた来年の商訓の額と取り換えようと、今年の額を外すと、紛失していた五十両が落ちてきた。

 

お絹の事情を聞いた左門が、五十両はともかく、本懐を遂げたことだけでも伝えに行こうと、格之進を促す。

 

「中引けの拍子木が鳴り終われば、大門が閉じます。門が閉じれば、今年も終わりです」

 

二人は一目散に大門を目指して走り出す。

 

組合の封がある五十両を見せられた源兵衛は、はっと最後に格之進と対局した時のことを思い出した。

 

碁の手に詰まり、次の一手を考えながら厠へ行った源兵衛は、手にしたままの五十両を一旦額の裏に隠して用を足し席に戻り、碁に集中するあまり、そのことをすっかり失念していたのだった。

 

「だとすると、柳田様の五十両というのは、一体…長屋暮らしの身で、五十両という大金を工面するのは…」

 

弥吉がへたり込み、はらはらと涙を零す。 


「旦那様…申し訳ございません」

 

弥吉がその五十両を手にするや、走り出して行った。

 

吉原の大門に、中引き(午前零時)の拍子木の音が響く。 


「待ってくれ!」と叫びながら格之進と左門が駆け付けたが、寸でのところで大門の木戸が締められてしまった。

 

その後ろを弥吉が駆けつけて来て、格之進に「申し訳ございません」と手にした五十両を見せ、頭を擦りつけ土下座して謝る。

 

格之進は涙を浮かべ弥吉に言い放つ。

 

「あの日の約束を忘れておらんな?忘れてはおらんな!」

「決して忘れてはおりません」

 

大門を後にする三人は、急ぎ、萬家へ向かった。

 

源兵衛が頭を下げ、格之進を迎い入れた。

 

「左門、刀を渡せ。男と男の約束だ」

 

刀の鯉口を斬った格之進の前に、弥吉がはだかり、頭を下げる。

 

「私は首を差し出すと約束いたしました。どうぞ、お斬りください。ですが、旦那様のことは私が勝手に約束したことでございます。首を斬るのは、どうぞこの弥吉だけで、ご勘弁ください!」

 

頷いた格之進は刀を抜いた。

 

【鯉口を切るとは、抜刀の構えに入ること】

 

そこに源兵衛が「お待ちください!」と止めに入る。

 

「この度のことは、この私の落ち度がすべての始まりでございます。どうか、弥吉の代わりに私の首でお許しください」


「どうか私の首を…」

「弥吉は、柳田様は、“このようなことをしたとはどうしても思えない…”と申しておりました…どうか、私の首で!」

「旦那様は、身寄りのない幼い私を引き取り、一人前の商人(あきんど)に育てて下さいました。旦那様を死なせるわけにはなりません!」

 

互いに必死に自分の首を差し出そうと譲らず、格之進が痺れを切らして言い放った。

 

「もうよい!そこまで申すなら、約束通り、両名の首を頂く!二人とも、そこになおれ」 


並んで震えながら首を差し出す源兵衛と弥吉。 


番頭た

「覚悟!」と恐ろしい形相で刀を振り下ろす格之進。

 

格之進は刀を左門に渡し、すぐさま帰って行った。

 

首が残ったままの源兵衛と弥吉は顔を見合わせる。

 

その様子を見て左門が去ると、突然、四方木口の碁盤が音を立てて割れた。



碁盤を斬ったのである。

 

松葉屋の正月風景。 


「お庚さん、年が明けました。私は約束通り、店に出ます。覚悟はできています」 


そこに番頭が、格之進が訪ねて来たことをお庚に伝えた。

 

玄関へ走るお絹。

 

左門が柴田を倒し、格之進が本懐を遂げたことを伝える。

 

お絹はへたり込み、涙を流す。 


格之進がお庚に近づく。

 

「私の濡れ衣も晴れました。用立てていただいた五十両はお返しします」

「そうですか。それはようございました」

「申し訳ない。約束の期限に間に合わず…」

「期限?何のことですか?父上がお迎えに見えたんですよ。さあ、帰る支度をなさい!」 


お絹は泣きながら、お庚に頭を下げる。

 

茶屋で、左門の帰藩の願いを格之進は固辞する。

 

「浪々の身は気軽で、これはこれで、なかなか悪くない」

 

諦めて帰りかけた左門を呼び止める格之進は、突然、探幽の軸をくれないかと頼む。

 

「ご冗談を…」

「兵庫は、藩を追われた者たちのために、その軸を売ったと申していた」

「ただの方便でございます…」

「だが、その言葉を聞いた時、私は、嬉しかった。兵庫がそうしてくれていたなら、ありがたいと思ったのだ。左門、頼む」 


その意を理解した左門は店に戻り、探幽の軸を格之進に差し出した。

 

「この軸、私は見なかったことにいたします。それでは、どうか、お体にお気をつけて」 



早春。

 

お絹と弥吉の祝言(しゅうげん)が執り行われている。 


源兵衛は弥吉に家督を譲って、隠居すると格之進に話す。

 

部屋の隅にある、割れたままの碁盤を見ながら、格之進がしみじみ語る。

 

「これほどの碁盤だというのに、打ち初(ぞ)めが、打ち納めとは、気の毒なことをしてしまいました」

「いえ、やはり縁起のいい碁盤でございました。私と弥吉の身代わりになり、命を救ってくれたのでございますから」 


源兵衛が打ち掛けの碁の続きをするために碁盤を取りに行き、格之進はお絹たちの楽しそうな祝宴の様子を伺っていた。

 

源兵衛が嬉しそうに碁盤を持って部屋に戻って来たが、そこに格之進の姿はなかった。 


格之進は、自らに課した贖罪の旅へと出立したのだった。 


 

 

3  絶対正義を埋めゆく男の旅路

 

 

 

これは正義についての映画である。

 

「囲碁だけは正々堂々、噓偽りなく打ちたいと思います」と言う格之進との出会いによって、「鬼のケチ兵衛を仏の源兵衛」に変容させた格之進の実直な人柄は貧乏長屋の界隈では普(あまね)く知られていた。 


囲碁を重ねることで「鬼」を「仏」に変える男の中枢に根を張る正義のエキスは娘の絹にも伝播して、父娘同居の長屋で慎ましやかな日常を繋いでいた。 



萬家の窮地を救っても謝礼を固辞する生真面目を絵に描いたような父と、「父上は一旦、こうと決めたら何があっても後には引きません」とサポートする娘に相通じる正義の信念が炸裂する事態が起こった時、露呈されたのが格之進の正義の過剰なる狭隘さである。 


萬屋から50両もの大金を盗み取った嫌疑をかけられただけで、身の潔白を証明するために切腹せんとするのだ。

 

「正々堂々、嘘偽りなく…」を信条とする父に対して、父の信条を知り尽くしたお絹の正義が炸裂する。

 

「どうしても死ぬというのなら、この私を殺してから、腹を召されてください!五十両、無くなったというその五十両があれば、汚名をそそぐことができるのですね?」 


そう言い切って、お庚のもとに出向き、五十両と引き換えに自らが遊女となる決意を実践するのだ。 



エンタメ時代劇の王道で、些か何でもありのご都合主義主義的展開だが、この間、左門の訪問が同時に出来し、格之進を嫌う柴田の讒言(ざんげん)によって、探幽の軸を格之進が盗み出した嫌疑をかけられ藩を追放される憂き目に遭ったばかりか、柴田に妻を犯され自死に追い遣られた事実を知らされていたので、絹の正義の炸裂は、父の不甲斐ない行為を無化するのに十分だった。

 

かくて格之進の、一度決めたら変えられない狭隘なる「絶対正義」の信条は、自分を疑った弥吉との首を賭けた物騒な約束をして柴田捜しの旅に打って出る。 


「多くの者たちに苦渋を与え、その挙句、この体たらく。父から譲り受けた刀も、とうに売り払い、脇差し一本の食い詰め浪人だ」 



中山道沿いの碁会所を回り、柴田捜しの旅の中で左門に吐露した言辞である。

 

「絶対正義」の信条を具現化したことで、同僚の藩士の不正を藩主に告発して、仲間に苦渋を与えた自らの行為を悔やんでも、もう遅かった。 

彦根藩士時代

正義の実践が自己肯定感を増幅して、正義の膨張が却って不正義になるという「正義の罠」に囚われる男の脆さが、そこに垣間見えるのである。

 

「その正義漢面を見ると、反吐が出るわ。己(おの)が身の不幸を嘆いておるようだが、お主がどれほど恨まれているか、知っておるのか?お主の殿への直訴によって、役を解かれ、録を減ぜられた者たちとその家族は、日々の生活もままならず、爪に火を灯すように暮らしている」 


両国の碁会所で遂に突き止めた格之進に対する柴田のこの物言いは、不正義を貫く本物の悪のみが洞察する本質的な誹議だった。

 

格之進の脆さを衝いているから、「絶対正義」の信条を変えられない男の中枢に肉薄し、大金を賭ける秘密の碁会で「石の下」と言われる手を繰り出して柴田を破り、その柴田を介錯しても記憶に残ることになった。

 

これによって本懐を遂げた達成感が希釈され、もう一つの物騒な約束に相当程度の影響を及ぼすことになる。

 

弥吉との首を賭けた一件である。

 

源兵衛と弥吉が競り合って首を差し出す現場で、刀を振り上げる格之進の行為は、謝罪する良心的な商人の首を撥ねることなどできようがなかった。 


格之進が斬り裂いたのが碁盤であったのは必至だったのだ。 


碁盤がなければ畳を斬り裂いたに違いない。

 

格之進の「絶対正義」の具現化は、このような逃げ場を隠し込んでいたのである。 


「正義の罠」に囚われる男の脆さもまた、完璧な心のシステムを構成し得ていないのだ。

 

それが人間なのだ。

 

サイコパスと無縁な男の行為は、根拠なく人を疑い、首を賭けるという安易な約束することの愚かさを認識させたかったと見るのが正解だろう。 



同時に、「正義の罠」に呪縛されていた己が器量の不足をも断ち切ったと考えられるが、これは推量の余地を超えているので分からないとしか言いようがない。

 

いずれにしても、それを学習した弥吉は、父を反面教師として育ったお絹と祝言を挙げたことで、萬屋を切り盛りする協力なサポーターを得て、「正々堂々、嘘偽りなく…」商売に取り組んでいくことになる。

 

まさにお絹こそ、最強の正義の体現者だったからだ。 


なぜなら、お絹には「正義の罠」に囚われる寸分の観念などと初めから無縁だったからである。

 

そして、意味ありげなラストシーン。

 

源兵衛との打ち掛けを捨てて旅に出るラストの意味は歴然としている。

 

自らの「絶対正義」の奔走によって苦渋を極める旧藩士の経済的援助を果たさんための、まさに自己変革の旅だった。

 

「正義の罠」に囚われていた男の自己変革の旅路だったのだ。

 

ラストで決めるエンタメ時代劇の光芒一閃(こうぼういっせん)。 


限りなく人間的な絶対正義を埋めゆく男の旅路が拓かれたのである。 


(2025年1月)


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