1 家族4人が久々に揃った朝餉の風景は、団欒と呼ぶには程遠かった
「皆聞いて。お母さん、話があるから…お母さん、さっき、お父さんを殺しました。車で刎ねてね、殺した。本当は、やっちゃいけない。だからね。お父さんのおじいちゃんとおばあちゃん、死んで誰も悲しまないとこまで、ずっと待った。あんたたちを傷つけるお父さんだから、お母さん、殺ってやった!だから、これから、お母さん、警察へ行きます。学校や生活のこと、会社のこと、丸井のおじちゃんが引き受けてくれるから、大丈夫。どれくらい、刑務所に入るのか分からない。刑期が終わっても、すぐには帰れないと思う。ほとぼり冷めるの考えると、10年、ううん、15年、15年経ったら、必ず戻って来ますから…母さん、そろそろ、行きますね」
弾丸の雨の夜の、母親こはるの衝撃的な告白から、家族の紐帯(ちゅうたい)をテーマにする峻烈(しゅんれつ)な物語が開かれていく。
置き去りにされた3人の子供たち。
置き去りにされた三兄妹(左から雄二、大樹、園子。皆、DVの傷痕が生々しい) |
長男は、後天的な、吃音という発達障害をハンディにする高校生の大樹(だいき)。
次男は、小説家を志す、思春期スパートの渦中にある中学生の雄二。
そして妹は、美容師を夢見る小学生の園子。
家を出ようとする母の腕を掴む園子に対して、母は思いを込めて最後の言葉を残す。
「だあれも、あんたたちを殴ったりしない。これからは、好きなように暮らせる。自由に生きていける。何にだって、なれる。だから、お母さん、今すごっく、誇らしいんだ!」
予想だにできない事態に遭遇して、呆気に取られるだけの三兄妹。
言葉が出てこないのだ。
かくて、こはるの甥である丸井進の軽トラックに乗って、母は「15年の旅」に発っていく。
降りしきる雨の中、雄二の運転で、三兄妹は父親を轢き殺した車に乗って軽トラックを追いかけるが、徒労に終わった。
15年後。
長男の大樹は、電気屋で働く一家の主になっており、美容師を夢見ていた園子は、スナックで働いていた。
一方、次男の雄二は、風俗雑誌のフリーランスのライターになっているが、兄妹との関係は疎遠になっていた。
だから、父親の墓参りに行くのは大樹と園子のみ。
その父のタクシー会社を継いだのは丸井進。
その名も稲丸タクシー。
墓参りの夜、いつものように酔いつぶれた園子を迎えに行ったのは、新人運転手の堂下(どうした)だった。
自宅に戻り、大樹と園子は、母こはるの最後に残した言葉について語り合っていた。
こはるが家に帰って来たのは、そんな折だった。
「約束したから、母さん、戻って来た」
大樹は弟の雄二に、母が帰って来たことを携帯で知らせるが、その態度は素っ気ない。
翌日、タクシー会社のスタッフに、温かく出所と帰還のお祝いを受けるこはる。
出所後、沖縄から北海道まで、各地を転々と仕事をして、ほとぼりが冷める15年を期して帰還を果たした思いを話す、母こはるの晴れ晴れとした様子を視認する大樹と園子は戸惑いを隠せなかった。
次男の雄二が実家に戻って来たのは、その只中であった。
一貫して、素っ気ない態度を崩さない。
かつて暮らしていた家の中に入るや、父親の激しい暴力に晒されていた負の情景がフラッシュバックされる。
「ちょっと、皆いい?お母さんね、時間かけてゆっくり帰って来た。帰っちゃダメだと思ったこともある。このまま、会わずにって。でも、お母さんね…」
その言葉を遮断するように、雄二が口を挟む。
「皆がいいって、思ってんだったら、いいんじゃない」
黙って頷くこはる。
「進ちゃん、私が帰って来るまで、ちゃんと会社守ってくれて。稲村の稲に、丸井の丸で稲丸タクシー。ここは、一つの家族だって。それ聞いて、お母さん、痺れたな」
その母の話を、上の空で聞き流す大樹と雄二。
「雄ちゃんの書いた記事、雑誌に載ってるって、昨日、歌ちゃん(稲丸タクシー所属の運転手)に聞いた。立派な記者になったんだね」
嬉しそうに語る母に、園子は笑みを返すが、雄二は完全に白け切った表情で反応する。
「あの事件で居づらくしてくれたからね。お陰様で、東京に出て頑張れたよ」
「そうか」
一言、返すと、居づらくなった母は、その場を外した。
ぎこちない態度を取り続ける大樹と、反感が強い雄二。
その間に立って、気遣いする園子。
母こはるは、31歳の大樹が結婚し、娘がいる家庭を築いていた事実を知らなった。
しかし、妻・二三子(ふみこ)とは別居状態で、離婚問題の真っ只中にあり、離婚するつもりがない大樹の日常性はダッチロールしている。
また、こはるの帰還は、事件以降、頻発していたタクシー会社への悪質な誹謗中傷ビラや落書きの横行を引き起こすに至る。
母に知られないように、そのビラを剥がしていく大樹と園子。
大樹と園子の行動と切れ、誹謗中傷ビラを携帯で写真を撮る雄二。
「あの人に見せてやろうと思って。あなたのせいで、ずっとこんなこと、されてますよって」
雄二の物言いである。
一方、新人運転手の堂下は、17歳の息子と再会し、食事やバッティングセンターで親子の触れ合いを愉悦していた。
大樹の妻・二三子が会社を訪れたのは、そんな折だった。
初めて、長男の嫁と会うこはる。
大樹に離婚届を突きつけ、追ってくる大樹を振り払い、逃げるようにタクシーに乗り込む二三子。
こはるはタクシー無線を通して、二人で会話させる段取りをするが、話は全く噛み合わない。
折しも、園子は、雄二のパソコンファイルに信じ難い記事を見つける。
『空白の15年 聖母が狂わせた家族』。
これが記事のタイトル。
大樹と園子は雄二をスナックに呼び出し、その件を問い詰め、言い争いになるのは必至だった。
雄二は、母の事件をネタに週刊誌に記事を提供し、それを踏み台にして、小説家になると言うのだ。
「聖母は殺人者だった」という雑誌記事が二三子に知られ、その憤りを勤務中の夫に炸裂させる。
しかし、二三子の炸裂は反転してしまう。
穏やかな大樹が、奥深くに隠し込んでいた暴力性を惹起させてしまうのだ。
「話したら、結婚なんか、しなかったのにってか。子供なんか、産まなかったか!そういうことなら、別れてやるよ」
そこまで怒号する大樹は、別人のようだった。
そんな渦中で惹起した、悪意の集中的な攻勢の被弾。
稲丸タクシーの全てのタイヤがパンクさせられるという、悪意の集合的連鎖が暴れ捲っていくのだ。
いよいよ、こはるには、隠していた雑誌のコピーを見せざるを得なくなった。
「私のせいか」とこはる。
「全部、雄ちゃんのせいだよ。この記事書いたの、雄ちゃんだから」と園子。
その場にいた雄二は、黙って立ち去っていく。
急いで自宅に戻った大樹が、二三子が置いていった離婚届にサインしたのは、その時だった。
追って来た二三子は、それを制止し、「殺人者の孫」と言われるであろう、娘の将来について話すべきと大樹に訴える。
その二三子に、思わず手を上げてしまう大樹。
顔を伏せ、震えながら、大樹はテーブルを強打した。
「二度と来るな!これは稲村家の問題なんだ!」
「あなたに悩みがあるんだったら、それはあたしとミオの問題でもあるでしょ。あたしだって、あなたの家族なのよ。だから、あたしたちのことも、ちゃんと見てよ」
一部始終を見ていたこはるが、ここで口を開く。
「あんた、今何やったのか、分かるの?こんなことして、こんな、あんた、まるで…」
「父さんみたい」
「そうだよ!」
「だったら、何だよ。父さんみたいだったら、母さん俺を、殺すか。母さんは、立派だから、ダメな俺を、殺すか?いつも、立派だから!」
母は、それ以上応えられず、嗚咽し、外へ出ていく。
「お母さん、ねえ、母さん」
園子だけは、こういう時、母に近接し、思いを寄せていく。
「ほっとけよ。兄ちゃんの家族に口出せる立場かよ」と雄二。
「何でよ。何で、お母さんを責めんの。お母さんは、あの人から、私たちを助けてくれたんじゃん!」
「結局、兄ちゃんも、憎んでんじゃん」
「もう、やめろ!」 と園子
風景の色彩が退色し、くすんでしまっていた。
2 「自分にとって特別なだけで、他の人からしたら、何でもない夜なんですよ」
かつて、雄二がエロ本を万引きした店で、こはるは全く同じように万引きをするが、丸井進の謝罪によって解き放たれた。
長男が離婚の危機にあり、自分のせいで会社が嫌がらせを受け、弓の母の葬儀だというのに、自分はエロ本を万引きした。
そんな母こはるは、大樹に言い放つ。
「子供らの苦しみなんて無視して、15年も家を空けて、大樹、これでもお母さんは、立派か!立派なのか!」
度肝を抜く母親の叫喚(きょうかん)に反応すべき何ものもなく、立ち竦む3兄妹。
「雄二、俺、憎んでない。母さんは、母さんだから。俺たちは、俺たちで、変わらなくっちゃ」
「あれから、15年だぞ。なんも変わんねえ」
「変わんなくてもいいんだよ。お母さん、帰って来たんだから、もう、それでいいってことにしようよ」
「変わらなくちゃ、だめだ」
「無理だね」
ここから、この映画は、生真面目な新人運転手・堂下の存在をフォローしていく。
物語の展開の中で既に明らかになっていたが、極道稼業で生きていた堂下が、封印していた過去の腐れ縁から、覚醒剤の運び屋を同乗させる仕事を引き受けることになった。
昔の舎弟に送迎の依頼を受けたからである。
依頼された場所で件(くだん)の運び屋を拾い、車を走らせると、後部座席に乗っていたのは、あろうことか、自分の息子だった。
衝撃を受ける堂下。
「これ運べば、一回20万になるんだよ!」
「気づいたら、廃人だよ」
「だから、何だよ。てめえみたいなクソの子供なんだからよ!全部、お前のせいだ」
もう、これでダメになった。
息子との再会に、あれほどの喜びを噛み締めていた堂下は、今や、完全に自暴自棄となり、禁酒を破り、アルコール瓶を片手に、ラッパ飲みしながら運転する始末。
それは、極道稼業への逆走のようだった。
そればかりではない。
こはるを車に乗せ、暴走するのだ。
それを知った三兄妹は、無線で連絡を取るが、途中で切られてしまう。
急いで、堂下の車を捜すために追いかける3人。
それは、15年前に母を車で追いかけた情景の再現だった。
遂に母の車を見つけ、雄二は必死にクラクションを鳴らして追いかける。
「堂下さん、もうやめよ。帰ろう」
「俺は、あんたがさ、あの家で目の敵にされているのが、我慢ならねぇんだ。だからさ、もういいじゃないか。親なんて必死になっても空回りするだけ。何にも届かず、全部、俺たちのせい…このまま、どぶんと海に消えちゃいましょ」
その海に一目散に突進しようとする車を、3人の乗る車が遮り、激突する。
寸前だった。
母は無事だった。
母を危険に晒し、泥酔する堂下を殴り倒す雄二。
逆に反撃する堂下は、母親を売る記事を書いた雄二を責め立てる。
責め立てられた雄二は、初めて自身の煩悶を告白する。
「どっから、やり直したらいいのか、教えてくれよ!」
号泣する雄二の告白に驚く母と兄妹。
どうしても溶け合えない3兄妹の心が融合した瞬間である。
今度は、息子に対するように語りかけ、慟哭する堂下。
「あの夜は何だったんだ」
「ただの夜ですよ。自分にとって特別なだけで、他の人からしたら、何でもない夜なんですよ。でも、自分にとって特別なら、それでいいじゃない」
その語り口には毒がない言葉を、こはるは静かに添えた。
その夜のあと、雄二は母の事件についての記事のファイルと、15年前に残した母の言葉の録音の全てを削除した。
一切の蟠(わだかま)りが消去したのだ。
―― 雄二が東京に戻る日。
母と3兄妹のみの家族の写真が、思い出の1枚として撮られる。
今、美容師になれなかった園子が、母の髪を切る準備をする。
庭でそれを待つこはるは、空を見上げ、ささやかな幸福感に満たされている。
それを見守る3人の子供たち。
雄二は再び東京へ戻っていった。
3 「自由の使い方」に困惑し、自尊感情の形成・強化の時間を奪われた、三兄妹の再生の可能性
「象徴的なのが冒頭、母親が子どもたちにおにぎりを与える場面。子どもたちはまだ幼いから、無自覚にそれを受け取っていく。そして、そこで『あなたたちはこれで自由なんだ』と告げられる。しかし、無自覚に受け取ったものに対してどこかに戸惑いがあり、やがて人生における障害物になっていく。じゃあそこで誰を恨むのか、と。父親なのか、それとも母親なのか。気持ちの行き先のなさ、そして悲しみに直面します」
白石和彌監督のインタビューでの言葉である。
恐らく、この説明の中に映画のエッセンスが凝縮されている。
これは、普通に考えてみれば自明なこと。
血縁があってもなくとも、成人した大人が子供の自我を作る。
その大人(養親も含めた特定個人)が作った子供の人格性の中枢に、「快・不快」原理で動く行動傾向を、「損・得」(現実原則)原理と、思春期スパートの氾濫期に、決定的な初発点を刻む自我確立運動の渦中で成熟していく、「善・悪」(正・不正)原理に依拠した行動傾向に変容させていく。
単刀直入に言ってしまえば、この辺りまでが親の責任の範疇にある。
「自由」という至極厄介なテーマが顕在化するのは、以上の文脈の中においてである。
即ち、「自由」とは、その使い方を学習し得る能力の獲得が前提条件になっているということだ。
「自由の使い方」を学習内化する能力を獲得していない子供に、「あなたたちはこれで自由なんだ」と告げられ、一方的に与えられても、与えられた子供の未成熟な自我は混乱を極めるだけだろう。
「自由の使い方」を学習内化する能力の獲得は、一にも二にも教育の所産である。
「教育とは、自由の使い方を教えることだ」
この名言は、ルイ・マル監督の自伝的映画として知られる「さよなら子供たち」(1988年製作)の中で、神学校で、命を懸けてユダヤ人を守ろうとしたジャン神父が、自らの信念に基づいて、生徒たちに確信をもって放った言葉である。
ジャン神父は「自由の使い方」を知らない子供たちに対して、真剣に怒って見せた。
「自由」について、これだけ厳しい態度を見せる姿勢は日本人にとって馴染みにくいが、まさに、白石監督が描き出した映像空間では、「自由」の問題は、「自由の使い方」を知らない思春期・児童期の三兄妹が負った最大の試練であった。
なぜなら、三兄妹は「父を殺した母」から、「自分たちを守る」という理由で「自由」を与えられ、それを使い熟(こな)さねばならない理不尽な状況に搦(から)め捕られてしまったからである。
それでなくても彼らは、父親の激越で、終わりの見えないDVの餌食にされたのだ。
児童期(園子)・思春期(大樹、雄二)の自我に襲ってきた暴力の連射によって、兄妹が負った発達の克服課題、即ち、ごく普通のサイズの愛情の被浴をベースにした、自尊感情の形成・強化の時間が剥(は)ぎ取られ、ひたすら、暴力を被弾しないための「適応」の手立て・方略に、この時期の枢要(すうよう)な時間が割(さ)かれてしまったのである。
自らの「夢」を育てていく時間すら艱難(かんなん)な彼らに「自由」が与えられても、何も成し得ない。
時間が固着し、動けない。
自らの意思を推進力にする「自由」への「大いなる飛翔」など、望むべき何ものもないのだ。
かくて、「自分たちを守る」ために「父を殺した母」から、「おにぎり」を与えられたその夜、年端もいかぬ子供たちは置き去りにされ、彼らの〈生〉の様相は酷薄を極めていく。
何年かの刑期を終え、全国を点々とした挙句、「帰宅した母」に対し、雄二は誹議(ひぎ)する。
「兄ちゃんさ、バイト先で二三子さんと会っていなかったら、今もどうなってたか、分かんないよ。吃(ども)りも治んなくて、バカにされて生きてきた。園子だって、人殺しの子供だって、嫌がらせ受けて、美容師の学校辞めた。そのことについて、どう思いますか?聖母なんて呼ばれて、どうでしたか?子供たちの人生が滅茶苦茶になってる時、あなたは何をしてましたか?遠くで見守ってたって、親父が生きている方が簡単だった。暴力に耐えていりゃいいんだもん。あなたは、殺してから、何も分かんなくなった」
母の沈黙。
その意味は、堂下に吐露した、こはるの言葉で明らかにされる。
「凄い人です。罪を犯しても、子供のためだって、自分を信じて疑ってない」
この堂下の言辞に対し、こはるは、そこだけは明瞭に言い切った。
「今ね、自分のしたことを疑ったら、私が謝ったら、子供たちが迷子になっちゃう」
だから、雄二の厳しい誹議を受けても、こはるの態度は変わらない。
「お母さんは間違ってない。お母さんは、絶対に間違ってない」
雄二の眼を凝視するが、何も言わないのだ。
こはるに、残した子供たちの苛酷な状況が理解できていない訳がない。
理解できているからこそ、態度が変わらないのだ。
然るに、彼女は、自分のしたことを疑っていない。
彼女にとって、「夫殺し」という烙印が押されようと、自らが犯した事件に悔いがない。
それ以外に、子供たちを守る手立てがなかったと、固く信じているからだ。
子供たちを守ることは、「家族」を守ることである。
それにも拘らず、招来してしまう負の連鎖。
この「負の連鎖」は、先の雄二の誹議(ひぎ)が全てを語っている。
三兄妹の「その後」は、大樹と雄二の曲折的行程に発現されているように、まさに「負の連鎖」の〈現在性〉そのものなのだ。
「家族」という存在が内包する、複合的な要素に絡みつく様々に厄介な問題は、稲村家にあって、「父を殺した母」の事件を起因にする三兄妹、とりわけ大樹と雄二が背負わざるを得なかった心の闇の深さと、その曲折的行程の行動様態のうちに顕在化するに至った。
大樹の吃音障害は父の暴力と無縁でないだろうし、雄二の屈折もまた同様であるだろう。
加えて、児童期の時点で、自我形成過程が骨抜きにされてしまったかのような園子のケースも然りである。
従って、三兄妹に「自由」が与えられても、時間が固着し、自在に動けないから、「情緒的結合力」が希薄化するのは当然だった。
「情緒的結合力」。
これが、何より至要たる命題なのだ。
思うに、「情緒的結合力」を生命線にするミニ共同体 ―― これが現代家族についての私の定義である。
しかし、稲村家の場合、現代家族の生命線である「情緒的結合力」が自壊してしまっていた。
父母を失った三兄妹が背負い続けた闇は深く、その関係も希薄だった。
彼らの〈生〉は、世間の耳目を集めた事件によって、「無自覚に受け取った自由」(監督)が、「人生における(最大の)障害物」(監督)と化し、その心的外傷は自尊感情の形成・強化の時間を奪い、〈私の生〉の構築を途絶させてしまった。
あとは、「奇蹟」を待つのみである。
映画は、観る者に「物語」の仮構のラインで、「奇蹟」を提示する。
ラストシークエンスにおける、三兄妹による母の救済がそれである。
救済後、雄二の嗚咽含みの告白によって、実質的に、この家族が「情緒的結合力」を復元したことを映像提示したのである。
率直な感懐を言語化すれば、私は、堂下が仕切るこのラストシークエンスに違和感を持っている。
「問題親と被虐児」という視座でトレースした、こはると堂下の関係構図が提示する虚構性の過剰さ。
これが違和感の中枢にある。
極道の過去で犯した罪を背負い続けた息子が、父・堂下のアイデンティティの根柢を破壊する厄介な事態を起点にするラストシークエンスは、三兄妹、とりわけ、雄二による母の救済と、その雄二の号泣(告白=浄化)のうちに収斂させることで、物語を軟着させるが、しかし、この辺りの虚構性の過剰さによって、厳しいリアリズムで構築してきた物語の濃度を希薄にしてしまった印象を拭えないのだ。
商業映画の宿命と言ってしまえば反論の余地を失うが、堂下の人物設定なしに、この家族の変容を、商業映画の範疇で構築することもできたのではないか。
或いは、「予定調和のハッピーエンド」にしなくとも、そこに、ほんの少し近づく構成も可能だったのではないか。
観る者にカタルシスを保証しなければ、今や、「家族」をテーマにする邦画は成立しないのだろうか。
この作り手の力量さえあれば、「家族映画」の最高到達点に届き得る映像の構築が可能であると、私は思う。
いずれにせよ、この映画は、「自由の使い方」に困惑し、自尊感情の形成・強化の時間を奪われ、ぎりぎりの際(きわ)まで追い詰められ、〈私の生〉の構築を途絶させてしまった三兄妹の再生の可能性を描き切った作品だった。
ここまで書いてきたように、違和感を覚える幾つかのシーンがあったものの、この映画は想像以上に秀逸で、人間の心理が精緻に描かれていたので驚きを禁じ得なかったのも事実である。
家族4人の、個々の俳優の演技力は圧巻だった。
(2020年7月)
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