<「葛藤の行動化」 ―― デンマーク軍曹に張り付く矛盾が炸裂する>
1 空をも焦がす爆裂の恐怖の中で、地雷を除去するドイツ少年兵たちの物語
第二次世界大戦後、ナチス・ドイツが崩壊した1945年5月のこと。
「諸君の任務を説明する。諸君は、このデンマークで、戦争の後始末を行う。デンマークは、ドイツの友好国ではない。我々デンマークの国民は、ドイツ兵を歓迎しない。諸君は憎まれている。諸君を動員した目的はただ一つ。ナチスは我が国の海岸に地雷を埋めた。それを除去してもらう。ナチスが西海岸に埋めた地雷は220万になる。他の欧州の諸国の合計を上回る数だ。連合国軍の上陸を阻止する目的だった」
エベ・イェンスン大尉(以下、エベ大尉)の声が、大きく響き渡った。
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エベ大尉 |
ここで言う「諸君」とは、戦争捕虜となった、大半が少年の12名のドイツ兵。(のちに2名が参加し、14名に)
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前列右からヘルムート(ドイツの将校)、ヴィルヘルム、双子の兄弟(ヴェルナーとエルンスト) |
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命を懸けた地雷除去訓練 |
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地雷除去訓練で、早くも一人の少年兵を喪ってしまうhttp://eiga-blog.hatenablog.com/entry/Under.Sandet |
当然ながら、彼らには、抵抗すべき能力の何ものもない。
そんな彼らを支配し、管理するデンマークの下士官がラスムスン軍曹。
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ラスムスン軍曹と少年兵たちhttp://eiga-blog.hatenablog.com/entry/Under.Sandet |
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ラスムスン軍曹と少年兵たち |
地雷を扱ったことがないドイツ少年兵には、「はい、軍曹」という返答しか持ち得ない。
「黒い旗と小道の間に、4万5千個の地雷がある。全部、除去しろ。除去が終われば家に帰す。それが終わるまでは帰れないぞ。1時間に6個の除去を行い、爆死しなければ、3ヶ月間後には帰れる」
ラスムスン軍曹の声も、大きく響き渡った。
海岸にある、黒い旗との間に埋められている地雷の除去。
これが、少年兵たちが命じられた、途轍(とてつ)もない任務の内実である。
命を懸けた、危険な作業に身を投じる以外の選択肢がない少年兵たち。
かくて、エベ大尉の指導のもと、本物の地雷の除去の訓練を経て、この任務なしに帰国できない状況に置かれた少年兵たちの、絶望と苦闘の物語が開かれていく。
横一列になって、砂浜を匍匐(ほふく)しながら、一本の棒を砂浜に突き刺しながら地雷を捜す。
地雷を発見したら、それを知らせ、衝撃を与えないように、地雷の信管を慎重に抜き取る。
弾薬を発火させる起爆装置=信管を抜き取ったら、それを地図に記入していく。
信管を抜き取った地雷であっても、大量の弾薬を含むので、この危険物も慎重に扱わねばならない。
対人地雷には、ワイヤーによって、ピンが抜かれて爆発する「引張式」もあるから要注意なのだ。
加えて言えば、第二次世界大戦中に独軍が開発した対人地雷・「S-マイン」は、信管を踏むや否や、爆発によって高く飛び上がるので、地雷を踏んだ人物以外にも被害を与えると言われている。
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博物館に展示されているSMi35/爆薬により地中か空中へ飛び出して炸裂する「跳躍地雷」(空中炸裂型地雷)の一種で、通常の地雷と違い、地雷を踏んで作動させた者だけではなく、その周囲にいる者にも被害をおよぼすため、敵歩兵に対し大きな脅威となった(ウィキ)/映画では、「皿型地雷」と「跳躍地雷」の除去を行っている |
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地雷除去は信管をとっても危険に満ちているhttp://eiga-blog.hatenablog.com/entry/Under.Sandet |
この脅威の危険物・4万5千個の地雷の除去が終わるまで、この作業が続くのだ。
訓練中に、既に爆死する現場に立ち会い、地雷の恐怖を知っている少年兵たちには、「その日」の命の保持だけが全てだった。
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ヴィルヘルム |
そして、命を繋ぐ食糧が滞る事態もまた、少年兵たちにとって、何より厄介な問題だった。
少年兵たちの中に、セバスチャンという、寡黙で思慮深い少年がいる。
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セバスチャン |
そのセバスチャンは、2日間滞っている食糧が、いつ届くかと軍曹に尋ねた。
「どうなろうと関係ない。勝手に餓死しろ。ドイツ人は後回しだ」
この一言で、あっさり片付けられてしまう。
「はい、軍曹」
相手の眼を見て、はっきりと返事をすることが義務付けられている少年兵には、返答すべき言辞は一つしかないのだ。
そんな少年兵たちは飢えを凌ぐために、ドイツ軍の少壮(しょうそう)将校だったヘルムートが家畜の餌を盗み、それを食べた少年たちが食中毒を起こしてしまう。
その結果、双子(ヴェルナー・レスナーとエルンスト・レスナー)の弟が、食中毒によって体調を崩し、1時間の休憩を求めても、軍曹に拒否され、作業に戻るように言われるだけ。
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ヘルムート |
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ヴェルナー・レスナー(右・兄)とエルンスト・レスナー |
飢えに苦しむ少年兵たちの中で、事件・事故が起こるのは不可避だったのだ。
最初の犠牲者を出してしまうのである。
食中毒を起こしたヴィルヘルムが、地雷除去の只中で、両腕を吹っ飛ばされてしまったのである。
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最初の犠牲者を出してしまう爆発(手前はセバスチャン) |
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セバスチャンとヴィルヘルム |
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「助けてくれ!」と叫ぶヴィルヘルムの事故を視認するヘルムート/事故直後、食中毒の原因を作って軍曹に謝罪する |
この「予約」された悲劇を知り、救助を求められ、迷った末に、ラスムスン軍曹はヴィルヘルムを救護センターに預けるが、少年の様子が気になった軍曹がセンターに訪ねて行ったとき、既に死亡したことを知らされる。
ラスムスン軍曹が少年たちに食糧を分け与えたのは、この一件を知った直後だった。
センターのパンを手に持ち、帰っていくラスムスン軍曹。
その現場を視認するエベ大尉。
軍曹が率いる少年兵たちによる地雷除去の作業を介して、その関係構造の変化を読み取る将校と、デンマーク軍曹との間に、亀裂が生じていくシーンとして映像提示される。
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エベ大尉 |
エベ大尉によって、軍曹に与えられた任務の遅れを取り戻すためである。
それでも、食糧を得たことで元気を取り戻す少年たちは、帰国後の希望を語り合う時間を共有する。
ラスムスン軍曹の報告で、ヴィルヘルムが帰国を果たしたことを聞いたこと ―― それが、このような時間を可能にしたのである。
この報告が事実でないことは、観る者だけが知っている。
しかし、このヴィルヘルムの一件以降、ラスムスン軍曹の内面に変化が現れてきたことも、観る者だけが知っている。
その契機に、仲間を思う強い思いで、自分に話しかけてくるセバスチャンの存在があった。
そんな軍曹が、エベ大尉から睨(にら)まれていくのは必至だった。
セバスチャンと軍曹との関係が、まるで、親子のような関係に昇華していけばいくほど、英軍将校との対立は深刻になっていく。
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セバスチャンとラスムスン軍曹/軍曹に地雷処理の合理的な方法を提案して、反発されるが、この辺りから二人の関係に変化が現れる |
そんな状況下で、二人目の犠牲者が出た。
作業中、セバスチャンが2個重なった地雷に気付いた時だった。
大声を上げたセバスチャンの注意に気づくことなく、双子の兄のヴェルナーが爆死するに至る。
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エルンスト/セバスチャンの注意を兄に伝えても、聞こえなかった |
敵を油断させて仕掛けた「ブービートラップ」である。
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「ブービートラップ」にかかり、地雷を持ち上げてしまうヴェルナーhttp://eiga-blog.hatenablog.com/entry/Under.Sandet |
この結果、残された弟のエルンストは、その衝撃を受け止められず、一切の拠り所を失い、喪失感を深めていく。
祖国での会社経営を語リ合っていた双子の夢が、瞬時に崩壊するに至ったのである。
この事故は、ラスムスン軍曹が変化していく決定的なモチーフになっていく。
地雷除去の作業に休日を設け、少年たちと共にサッカーに興じるのだ。
映像は、少年たちの笑顔を初めて見せる。
しかし、それは束の間(つかのま)の休日だった。
愛犬が地雷の犠牲になってしまったのだ。
この一件は、ラスムスンを「鬼の軍曹」に戻してしまう。
本作の中で最も重要なエピソードなので、後述する。
少年たちを震撼(しんかん)させる事故が起こった。
海岸沿いに住む農家の幼女が地雷原に入り込み、その母親が軍曹に救助を求めるが、不在だったので、セバスチャンが危険なエリアに入り、幼女の救出に向かう。
しかし、今や、兄を喪ったトラウマで自我が半懐しているエルンストが、危険を顧(かえり)みることなく、砂浜を歩いて幼女に辿り着く。
セバスチャンが幼女を救出した後、エルンストだけが戻らず、海岸に向かっていくのだ。
エルンストに戻るように促す少年たちの声を無視した結果、エルンストの爆死が出来(しゅったい)する。
本質的に、この事故死は、最も信頼する兄を喪い、心的外傷を負ったエルンストの自殺であると言っていい。
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喪失感を埋める何ものもなく、エルンストは砂浜を歩き、爆死する |
悲劇が終わらない。
空をも焦(こ)がす爆裂があった。
信管を抜き取り、地雷をトラックに運んでいた複数の少年兵が、一瞬にして爆死してしまうのである。
先述したように、信管を抜き取った地雷であっても、大量の弾薬を含むので危険極まりないのだ。
誘爆し、大爆発を引き起こしてしまったのである。
もう、限界だった。
今や、生き残った少年兵は4人のみ。
セバスチャンとヘルムートも、生き残った少年兵の中にいた。
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生き残れなかった少年兵・エルンストhttp://eiga-blog.hatenablog.com/entry/Under.Sandet |
ラスムスンは、少年兵をドイツに帰国させようとする。
生き残った4人を救うのは、それ以外の選択肢がなかった。
しかし、生き残った4人ばかりか、ラスムスンも騙される。
エベ大尉は、7万2千個の地雷があるスカリンゲンという、「デンマーク最後の地雷原地帯」と言われる危険地帯に、4人を送るのだ。
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エベ大尉 |
エベ大尉に抗し、ラスムスンは「国に帰してやってくれ。頼む、死なせたくない」と強く申し入れるが、「命令だ」の一言で全く取り合わない将校。
「エベ」と呼び捨てしてまで迫るラスムスンが、最後に選択したアクションは、セバスチャンら4人をトラックから下ろし、「国境は500メートル先だ。走れ」と言って、解放する行動だった。
自らを犠牲にしてまで逃がしてくれるラスムスンに、声をかけられず、後方を振り返りながら走っていくセバスチャン。
いつまでも、少年兵を見つめ続けるラスムスン。
ラストカットである。
空をも焦がす爆裂の恐怖の中で、地雷を除去するドイツ少年兵たちの物語が終焉する。
「2000人を超えるドイツ軍捕虜が除去した地雷は、150万を上回る。半数近くが死亡、または重傷を負った。彼らの多くは少年兵だった」(キャプション)
伏線描写や音楽の多用、「スーパー少年」(セバスチャン)に象徴されるシンプルなキャラクター設定、等々、相当にハリウッド的だが、それでも感銘深い映像だった。
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撤去された地雷群http://eiga-blog.hatenablog.com/entry/Under.Sandet |
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地雷除去の俯瞰(ふかん)http://eiga-blog.hatenablog.com/entry/Under.Sandet |
2 「葛藤の行動化」 ―― デンマーク軍曹に張り付く矛盾が炸裂する
ドイツと同じゲルマン民族であり、映画「誰がため」で描かれた、反独レジスタンス「ホルガ・ダンスケ」のような僅かな例外を除き、防共協定に参加し、「モデル占領国」という呼称に象徴されるように、戦闘なしに占領されたデンマークの現実(ヴェーザー演習作戦)に危機感を抱(いだ)き、連合国側に組み込まれる活動に挺身(ていしん)した、駐米デンマーク大使・ヘンリック・カウフマンによって、「敵国条項」=枢軸国から外されることに成就する。
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ヴェーザー演習作戦・ドイツ軍のI号戦車。デンマークのオベンローにて、1940年4月9日(ウィキ) |
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拙稿 人生論的映画評論「誰がため」より |
元々、呆気なく降参したクリスチャン10世を筆頭に、ナチスの占領に鬱憤(うっぷん)を溜(た)めていたデンマーク国民の「反ナチ感情」を知ったヒトラーは、戒厳令を布告して、ドイツ占領軍を直接統治下に置き、武力支配を強化したが、戦局が枢軸国側に不利になったことで、ヘンリック・カウフマンの戦略が功を奏し、連合国の一員として認められ、国際連合の原加盟国の一つとなっていく。
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クリスチャン10世(ウィキ) |
これが、第二次世界大戦における、「占領下デンマーク」の簡単な歴史的経緯である。
【因みに、「俘虜(ふりょ)の待遇に関する条約」(1929年/ジュネーブ条約の一つ)の中に、「俘虜を不健康又は危險なる労働に使役すべからず」という条文がある(第三十二条)が、カウフマンの活躍があっても、「モデル占領国」と見られていたデンマークにジュネーブ条約が適応されたか否か、疑問の余地が残るところである】
―― 以下、映画の世界に入っていく。
「忘れるなよ。ナチスの罪を」
少年兵たちに人間としての感情を抱いていくラスムスン軍曹に対して、突き放すように言い放ったエベ大尉の恫喝的言辞である。
このエベ大尉の言葉に抗(あらが)うように、ラスムスン軍曹は少年兵たちの小屋の鍵を閉めず、休日を設け、サッカーに興じていくエピソードがある。
この映画で最も重要なエピソードである。
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休日を設け、サッカーに興じていくエピソードが開かれる |
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心理的距離の障壁を縮めていく軍曹と少年兵たち |
ラスムスン軍曹は、彼らとの間に厳(げん)として存在した心理的距離の障壁を縮めていく。
その背景に、セバスチャンとの関係濃度の高まりが大きく関与していたと言える。
しかし、少年兵たちと愉悦の時間を共有する軍曹の内面的変化が、自家撞着(じかどうちゃく)を露呈してしまう。
地雷が除去されたはずの浜辺で、愛犬を爆死させてしまって、ナチスへの憎悪が瞬時に揺り戻されたエピソードが、それである。
その地雷除去地区を担当したルードヴィッヒに対して、ラスムスン軍曹は犬の真似をさせ、怒りを炸裂させるのだ。
「甘やかしすぎた」
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能力の低さでいつもしくじるルードヴィッヒ |
このエピソードは、ナチスの戦争犯罪を少年たちに押し付ける行為に対し、疑問を持ちつつあったデンマーク軍曹の内面の只中で、重くのしかかる葛藤描写だった。
「ナチス」の記号である軍服を着せられた少年兵の存在それ自身が、デンマーク軍曹の射程に入り込み、今や、記号化された少年兵への憎悪だけが膨れ上がってしまった。
抑制系のタガが外れ、アクティング・アウト(葛藤の行動化)に振れるデンマーク軍曹。
軍曹のアクティング・アウトが、暴力的に膨張していくのは不可避だった。
「今から全員で歩いてもらう。腕を組み、一列に並び、除去した砂浜を歩け。地雷が残ってないか、確認するんだ。信じたのが失敗だった。もう信用しない。分ったか?」
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軍曹のアクティング・アウトが、暴力的に膨張していく |
「はい、軍曹!」という、それ以外にない応答の中で、それを拒絶する言辞が軍曹に投げかけられた。
「さっさと銃殺刑にしてくれ」
唯一のドイツ軍少壮将校・ヘルムートの、呟(つぶや)くように吐き出された攻撃的言辞だった。
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唯一のドイツ軍少壮将校・ヘルムート(右) |
ヘルムートの表情に笑みを感じ取った軍曹は、彼を執拗に殴り続ける。
見る見るうちに顔面が腫(は)れていく。
かくて開かれた、「死の行進」(ヘルムートの言葉)。
もう、止められなくなった。
無事に小屋に戻れた少年たちの中で、脱出を強行せんとするヘルムートと、それを拒絶するセバスチャンの対立が開かれていくが、事態の悪化がそれを許されなくなっていく。
先述したように、デンマーク軍曹としての誇りと、その誇りを奪ったナチスへの激越な敵対感情、そこに、ナチスの戦争責任を一方的に押しつけられた、少年兵たちに対する疑問の広がりなどが幾重にも重なり合って、一人のデンマーク軍曹の内面を複雑化し、アクティング・アウトに振れていくのである。
だから、愛犬の死は、デンマーク軍曹にとって、一つのトリガー(きっかけ)でしかなかったと言える。
このエピソードこそ、本作の肝であり、マーチン・サントフリート監督のメッセージであったのではないか。
「葛藤の行動化」 ―― デンマーク軍曹に張り付く矛盾が炸裂する映像の軟着点が、少年兵たちの解放に昇華したことで、一人の軍曹の自我を救ったのである。
自分の行為を正しいと信じ切ることで、自我が救われるという心理 ―― これを心理学で、「自己正当化の圧力」と言う。
この映画は、アクティング・アウトを克服した男の、その複雑な心理の振れ具合を描き切った作品だったのだ。
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デンマーク軍曹カール・ラスムスン |
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「自己正当化の圧力」 |
―― 以下、マーチン・サントフリート監督のインタビューでの発言の一部を引用する。
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マーチン・サントフリート監督 |
「人間は過ちから学ぶのだということと、たとえ自分の信念は正しいと思っていても、その信念とは異なる方向に進んでもいいということを伝えている。
これは、現代においても通じる重要なことだと思う。難⺠に対してどういう態度を取るべきか、国境を開放するのか、または一般的な憎しみや恐怖ということに関してね。
本作においてラスムスン軍曹は、少年兵たちのことを知るにつれて、彼らが自分と同じ感情を抱えていて、同じものを必要としていることに気づく。食べ物だったり愛だったり、そういったものだ。ラスムスン軍曹と同じように、私たちも互いに十分な時間を一緒に過ごせば、相手のことがわかってくると思うんだ。今、私たちが生きているこの世界でもね。
我々みんな、同じ物を必要としているんだ。だから、この作品は昔の出来事を描いたつまらない戦争映画ではなくて、現代にも通じることを伝える作品になってたらいいと思ってるよ」(マーチン・サントフリート監督インタビュー)
インタビューを聞く限り、サントフリート監督のメッセージの収斂点が、「この作品は昔の出来事を描いたつまらない戦争映画ではなくて、現代にも通じることを伝える作品」であることが読み取れる。
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映画『ヒトラーの忘れもの』マーチン・サントフリート監督(左)とローランド・ムーラーhttps://www.flickr.com/photos/webdice/30610094454 |
要するに、デンマークも加盟する、EUに見られる移民・難民排斥(はいせき)運動を積極的に進める右派政党、例えば、「ドイツのための選択肢」・「フィン人党」(フィンランド)・「同盟」(イタリア)、「英国独立党」・「国民戦線」(フランス)・「法と正義」(ポーランド)・「VOX」(ボックス=スペイン)、そして、ドイツと共に、映画の製作国のデンマークにある「デンマーク国民党」などという極右の台頭と躍進に対し、危機感を抱(いだ)いているサントフリート監督の問題意識の共有を、観る者に求めるという読み方が正解に近いのだろう。
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イタリアのサルビーニ副首相(右から2人目)ら欧州の右派4党がミラノに集まった=4月8日、河原田慎一撮影=イタリア政権与党「同盟」党首のサルビーニ副首相の呼びかけでドイツとデンマーク、フィンランドの右派政党がミラノに集まり、4党の結束を宣言した |
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フィン人党の選挙スタンド。青と黄色が党のカラー Photo: Asaki Abumi |
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定員4000人の会場を埋め尽くした極右政党VOXの支持者 |
そのサントフリート監督のメッセージを代弁したエピソードこそ、デンマーク軍曹・ラスムスンのアクティング・アウトの映像提示であったと、私は考えている。
3 ナチスの戦争犯罪の責任を、誰が負うのか
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バスで移送される障害者/精神病患者を根絶することを目的とした「T4作戦」は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策であり、ドイツの戦争犯罪の中で最も重い人道犯罪と言える(ウィキ) |
「新生ドイツの憲法」として、自由主義・民主主義を守る義務を国民に課した「ドイツ基本法」(ドイツ連邦共和国基本法)が、最も民主的であると評価された「ワイマール憲法」(1919年)にも見られない「戦う民主主義」と呼称されるのは、1933年に成立したヒトラー政権に絶対的権限を付与する「全権委任法」(授権法)の制定によって、ナチスの政権獲得を合法的且つ、安易に認知した重い歴史的教訓に因っているからである。
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1949年の基本法原本、署名部分(ウィキ) |
「人間の尊厳は不可侵であり、これを尊重し、保護することが国家権力に義務づけられている」
これが、ホロコーストに典型的に見られる、ナチスの戦争犯罪の重大な反省を踏まえつつ、時代の大きな変化に対応するために、繰り返し改正されてきた「ドイツ基本法」の骨子である。
その「戦う民主主義」の基幹文脈が、一人の著名な人物の演説のうちに表現されている。
今や、知らない人がいないほど名高い、ヴァイツゼッカー大統領演説である。
以下、その一部を引用する。
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1985年5月8日、連邦議会で行ったヴァイツゼッカー大統領演説 |
「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。
罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。
告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。
充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。
この人たちは自分が手を下してほいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。
しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。
全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。
また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。
さようなことができるわけはありません。
後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」(『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(永井清彦編訳)岩波書店)
全文を読み通すと、これほどまでに、人の心に訴えてくる演説も稀である。
「はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております 。
死者への悲嘆、傷つき、障害を負った悲嘆、非人問的な強制的不妊手術による悲嘆、空襲の夜の悲嘆、故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧罪に悩まされた悲嘆、描われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆-こうした悲嘆の山並みです」
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ドイツ東部で、終戦までに約200万人の女性が性的暴行の被害にあったと報告した問題の書・「ベルリン終戦日記―ある女性の記録」 |
この一文は、戦後、ドイツ人であるということだけでレイプされ、復讐的殺人の犠牲になった無数のドイツ人の苦衷(くちゅう)を想起し、「ヒトラーの忘れもの」で描かれた少年兵たちの悲劇を思い出してしまうのだ。
ここで、私は勘考(かんこう)する。
「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」という言葉の圧倒的重量感。
ヴァイツゼッカーは、「罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」と言い切った。
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リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー |
全てのドイツ人が、ナチスの戦争犯罪を、常に「現在性」をもって、個人として思いを巡らせることで、「戦う民主主義」を守っていかねばならない。
そう、言っているのだ。
重要なのは、ナチスの戦争犯罪を、ヒトラーという独裁者一人に帰結させていくことへの戒めであるということ。
ナチス政権のナンバー2のヘルマン・ゲーリング国家元帥、ヒトラーの側近のハインリッヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者、「金髪の野獣」と呼ばれたラインハルト・ハイドリッヒ親衛隊大将、アインザッツグルッペン(ユダヤ人銃殺部隊)の責任者のフリードリヒ・イェッケルン親衛隊大将、「死の天使」と呼ばれたヨゼフ・メンゲレ親衛隊大尉、ヒトラーの個人秘書のマルティン・ボルマン親衛隊大将、ユダヤ人を絶滅収容所へ送り込んだアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐、アウシュヴィッツ第一強制収容所長のルドルフ・フェルディナント・ヘス親衛隊中佐…等々。
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ヘルマン・ゲーリング(ウィキ) |
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ハインリヒ・ヒムラー(ウィキ) |
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ラインハルト・ハイドリッヒ(ウィキ) |
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フリードリッヒ・イェッケルン(ウィキ) |
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子供を守ろうとするユダヤ人女性を銃殺するアインザッツグルッペン(ウィキ) |
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マルティン・ボルマン(ウィキ) |
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ヨゼフ・メンゲレ |
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「石の心を持つ女」イルマ・グレーゼ/ベルゲン・ベルゼン強制収容所の女性看守で、ユダヤ人女性に対する性的サディズムを繰り返し、22歳で処刑された(ウィキ) |
書いていけば切りがないが、戦争犯罪の重大な責任が彼らにあるのは言うまでもないが、殆ど、ヒトラーと同等に重い責任があると思われる政権幹部がいる。
ヨゼフ・ゲッペルスである。
どの国も、必ずと言ってよいほど、メディアが戦争責任に大きく加担している現実があるが(日本の場合、「満州事変」後、世論を煽った商業新聞の国策メディア化)、ナチスの場合、「映画政策」に象徴されるように、国内メディアを吸収・掌握し、政権それ自身が戦争遂行の決定的なプロパガンダの機能を果たしていた。
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満州事変の勃発後、新聞メディアは強硬路線を主張し、世論をあおった |
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ヨゼフ・ゲッペルス(ウィキ) |
これを完璧に遂行したのが、ヒトラーに最も信頼され、47歳で「殉死」するに至った「プロパガンダの天才」 ―― 言うまでもなく、ヨゼフ・ゲッペルス国民啓蒙・宣伝大臣だった。
「帝国国民啓蒙宣伝省」(宣伝省)。
初代大臣に任命されたヨゼフ・ゲッペルスが依拠し、「プロパガンダの天才」の能力を遺憾(いかん)なく発揮した行政機関である。
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宣伝省の建物(1936年・ウィキ) |
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宣伝省の新庁舎(1936年から1940年にかけて拡張された・ウィキ) |
「強制的同一化」という、重要なナチス用語がある。
政治・社会の総体を「均質化」するための根本政策のこと。
ナチス・ドイツの根源的思想を凝縮した政策であると言っていい。
国内の一切の機関を「均質化」する。
ドイツ人の感情系をも「均質化」するのだ。
個々の思考を「均質化」し、ドイツ民族総体の「均質化」を図っていく。
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「強制的同一化」・Ein Volk Ein Reich Ein Führer(一つの民族、一つの国、一人の指導者)のスローガンが掲示されたナチ党の集会。1938年3月(ウィキ) |
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「強制的同一化」・国会で演説するヒトラー。1939年10月9日(ウィキ) |
凄い発想である。
これを本気で考え、実行していく。
その中心にゲッペルスがいる。
「文化的歴史的共同体」としてのドイツ民族は、人種的価値を軽視する「内面的堕落」を削り取り、「世界」を救済せねばならない。
そのために、人間の闘争本能を呼び起こし、精神を武装化する。
「精神革命による国家の改造」を断行するのだ。
この「革命」に同調しない作家・学者の著書を焚書(ふんしょ)処分する。
ハインリヒ・マン、フロイト、マルクスなどの著書は、悉(ことごと)く焼却される。
「終いには、人間をも焼く」と予言したハイネの著書も、当然、焚書処分の対象になる。
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宣伝省による焚書のデモンストレーション(ウィキ) |
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ハインリヒ・ハイネ/M・D・オッペンハイムによるハイネの肖像(1831年)(ウィキ) |
そんなゲッペルスが最強のプロパガンダとして利用したのは、1920年代に、米国の無線技術者のフランク・コンラッドが商業放送局の開設を先導し、商業化に成功したラジオ放送だった。
「国民ラジオ」を大量生産させ、瞬(またた)く間に、ドイツの全家庭にラジオが普及するという離れ業(はなれわざ)をやってのける。
この「国民ラジオ」が、民衆扇動の強力な武器になったのは言うまでもない。
そして、1936年8月に開催されたベルリンオリンピックにおいて、現在に至る「聖火リレー」を導入し、一般大衆の情感系を惹きつけるに十分な、強国ドイツのプロパガンダとして大成功を収める
ここでも、総指揮をとったゲッベルスの演出が際立っていた。
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ベルリンオリンピック 聖火リレー(ウィキ) |
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1936年ベルリンオリンピック(ウィキ) |
「ドイツ民族は偉大である」
一切は、この中枢フレーズに収斂させるためである。
映画会社をナチ党が買収し、ゲッベルスが所管することになり、彼の「映画政策」が、一般大衆の情感系を「均質化」する、「強制的同一化」の有力なプロパガンダと化していくのは自明のことだった。
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宣伝省制作によるユダヤ人排斥の映画『永遠のユダヤ人』の上映館(ウィキ) |
ゲッベルスのプロパガンダに終わりが見えない。
悪名高い「退廃芸術展覧会」の開催である。
各地を巡回して開催した「退廃芸術展覧会」の目的は、道徳的に堕落した芸術を一般大衆に見せることで、ドイツ民族の「精神革命」を加速させていくことにあった。
この主旨から言えば、前衛芸術が格好の餌食になる。
最も興味深い例を挙げれば、ドイツ表現主義の画家として名高いフランツ・マルクの大作「青い馬の塔」について、「青い馬などいるはずがない」というヒトラーが言い放った言葉があるが、その芸術観の狭隘(きょうあい)さに絶句する。
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フランツ・マルクは第一次世界大戦に出征し、ヴェルダンの戦いにおいて戦死し、鉄十字勲章を受けているので、「退廃芸術展覧会」から外される(ウィキ) |
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「青い馬の塔」(ウィキ) |
自ら画家を志し、何百点という作品を描いても売れず、それでも、作品を売って糊口(ここう)を凌(しの)いでいたが、巨匠の模倣に拘ったヒトラーの絵画は、感情表現をコアとする、ドイツ表現主義に象徴される芸術の新鮮なウェーブと切れているから、その屈折が前衛芸術への憎悪になっていたと、私は考えている。(拙稿・人生論的映画評論「アドルフの画集」を参照されたし)
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アドルフ・ヒトラーの絵画 「ウィーン国立歌劇場」(1912年・ウィキ) |
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人生論的映画評論「アドルフの画集」より |
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エルンスト・キルヒナーの「街」(1913年・ウィキ)/ドイツ表現主義の代表的画家・キルヒナーは自分の作品を退廃芸術に指定され、この展覧会に晒されたことに強いショックを受け、自殺している |
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キルヒナー(ウィキ) |
ともあれ、ゲッベルスが主導した「退廃芸術展覧会」は、ドイツの大衆に影響力を与えたという一点において成功裡に終わったと言えるだろう。
そして、ホロコーストの問題を考える時、絶対に看過できない事件が出来する。
1938年11月に起こった「水晶の夜」である。
ドイツ全土で爆裂した、90人以上のユダヤ人が殺害され、2万人以上のユダヤ人が強制収容所に送られたこの反ユダヤ主義暴動こそ、ホロコーストへの重大な転換点となった大事件となっていく。
「水晶の夜」によって、ドイツにおけるユダヤ人差別が加速的に膨れ上がり、ユダヤ人の立場は大幅に悪化していくのだ。
この流れが、「ユダヤ人問題の最終的解決」という、ナチス・ドイツの負の歴史に新たなフェーズを開いてしまったのである。
現在、「水晶の夜」は、ゲッベルスが「突撃隊」を動員して行った犯罪であることは確実視されている。
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放火されたシナゴーグ(ユダヤ教の会堂・1938年11月10日撮影・ウィキ) |
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暴動で破壊されたシナゴーグ(ウィキ) |
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1938年11月10日、逮捕されるユダヤ人(ウィキ) |
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水晶の夜 |
もはや、ドイツ国民の「均質化」が進み、「精神革命」が成就していったことで、「プロパガンダの天才」を不要にしてしまったのである。
なおドイツ国民の間に残っていたヒトラー政権への不満が、景気回復の実感によって削り取られ、ここから、「世界に冠たるドイツ帝国」の絶対的存在として、ナチスを支持する民衆の心理が固結していく。
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1938年ドイツ国会選挙国民投票/この813議席は得票率の99.1%を占める数字で、ドイツが一党独裁の支配下に入ったという事実を示している(ウィキ) |
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ゲッベルスと子供達。1937年(ウィキ) |
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1943年2月18日、ゲッベルスの「ベルリンのスポーツ宮殿おける有名な「総力戦演説」/最後の炸裂(ウィキ) |
「強制的同一化」の完成形が、ここに仮構されたのだ。
同時にそれは、ゲッベルスの理想が具現化したことを意味する。
ゲッベルスの存在価値の低下が、彼が目指した「強制的同一化」の完成形の仮構であったというアイロニーは、ゲッペルスのプロパガンダが如何に驚異的で、凄まじかったという熾烈(しれつ)な現象を示している。
開戦に消極的だったとも伝えられているが、ゲッペルスこそ、ナチスの戦争犯罪の、その甚大な責任を負うべき人物だったとも言えないか。
その意味で、ナチスの戦争犯罪の責任は、ゲッペルスのプロパガンダに吸収され、ユダヤ人差別を身体化していった、当時のドイツ国民の「共犯性」を免罪にすることの難しさを認知せねばならないだろう。
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ポツダムで演説するヨゼフ・ゲッベルス。1942年(ウィキ) |
この人たちもまた、ナチスの戦争犯罪の責任から逃れられないだろう。
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ナチス批判を吸収するためのヒトラー偶像化 |
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仕事があって、パンがある |
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ナチスの「持ち家政策」による新築ブーム |
―― 以上のことを勘考すれば、1933年1月30日段階で、児童期初期の子供に過ぎなかった、「ヒトラーの忘れもの」の少年兵たちに、ナチスの戦争犯罪の責任を負わせるには無理がある。
彼らはただ、ヴァイツゼッカーが言うように、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません」という自戒のメッセージを、今後とも、引き受けていくことだけが求められるのだ。
私は、そう考える。
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リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー |
いつも読ませてもらってます、
返信削除ご存知でしたら恐縮なのですが三宅唱の『きみの鳥はうたえる』という映画の批評とかも観てみたいです…。
読んで下さり、ありがとうございます。その映画は知らないのですが、機会がありましたら。
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