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2023年4月5日水曜日

わたしは最悪。('21)   終わりが見えない「自分探し」の旅に終止符が打たれいく  ヨアキム・トリアー

 


1  「あなたは説明したがるけど、私は、ただ素直に感じたいの」

 


  

序章

 

「ユリヤは失望した。集中できない。成績はいいのに、次々と入る情報で気が散る。世界では解決できない問題が山積。不安な時は、猛勉強や“デジタル漬け”で紛らわそうとしていた。これは自分じゃない。医大は成績優秀者にふさわしい進路だ。それだけの理由でユリヤは医学を志した。その時、分かった。自分が好きなのは魂だ。肉体ではない…」(ナレーション) 

ユリヤ


「私が好きなのは、人間の内面や感情なの」

 

ユリヤは心理学の授業を受講する。

 

「同級生は皆、未来のカウンセラーだ…ところが、また詰め込み教育。私の人生は、いつ始まるの?…彼女は視覚の人間だった」(ナレーション) 


今度は、写真家になると言い出す。


 

「学生ローンは、カメラ代で消えた。逃げも尻込みもしない。アルバイトをしつつ、写真家の道へ。新たな出会い。これぞ天職。今やオスロは違う街。新しい場所。新しい友達」(ナレーション)

 

そこで性差別表現のある作品で有名な「ボブキャット」の作者、アクセルと出会う。 

アクセル


ユリヤは恋に落ち、年の離れたアクセルと共同生活が始まる。

 

 

第一章     ほかの人々

 

アクセルの兄弟たちが子供を連れて集まり、休暇を共に過ごす。

 

活発に遊ぶ子供たち中心の集まりに戸惑うユリヤは、その夜、アクセルが子供を欲しいという話になり反発する。

 

「もうすぐ30歳だ。子供がいてもいい。僕は44歳だ。先の人生を考えるさ…」

「休暇も、そっちの仕事の都合に合わせてばかり…」

「子育てには僕も参加する。僕は子供が欲しいんだ…君なら、いい母親になるよ」


「私もいつかは子供が欲しいけど、今は分からない…」

「産む前に、何かを待ってるのか?」

「何かは分からない…あなたの都合と希望に合わせるのは嫌よ」


「分かった。なら、君の希望を聞こう」

 

ユリヤはそれには答えず、ベッドに入る。

 

 

第3章 浮気

 

アクセルの出版記念パーティーから先に家に帰るユリヤは、夕陽を眺めながら歩き、涙ぐむ。 



通りがかりのパーティー会場に入り込み、ワインを飲んで見知らぬ男性に近づき、性的な会話を交えて接近するが、結局、朝まで何事もなく過ごし、別れ際に互いに名前を訊ねる。 

アイヴィン

「ユリヤ」


「僕はアイヴィン…」

「…さようなら」

「これ、浮気?」

「違うわ」

「だよな」

 

 

第3章 MeeToo時代のオーラルセックス 



ユリヤは「#MeeToo時代のオーラルセックス」というテーマで文章を書いている。

 

それをアクセルに読んでもらうと、「独創性がある」と褒められる。

 

「“#MeeToo時代のオーラルセックス”はネットで公開され、反響を呼び、議論となった」(ナレーション) 


 

第4章 私たちの家族

 

30歳の誕生日のお祝いで、アクセルと共に実家を訪れるユリヤ。

 

来るはずだった父親は腰痛で行けないと言う。

 

「母エヴァは30歳で離婚。ひとりでユリヤを育て、出版社で経理を担当…祖母は30歳の時、3人の子を持ち、イプセンの演劇に出演した。曾祖母は30歳で夫を亡くし、4人の子供を育てた。曾祖母の母親は子供が7人。2人は結核で早世。その母親は商人の妻で、子供は6人、愛のない結婚だった…」(ナレーション) 



後日、父の再婚先の家を訪ねるユリヤとアクセル。

 

アクセルが父を自宅へ誘うと、腰痛を理由に煮え切らない応答を繰り返す父。 


父との関係がしっくりいかないユリヤに対し、帰りのバスでアクセルは、「君も自分の家族が要る」と本音を吐露するのだ。

 

 

第5章 バッドタイミング

 

勤務先の書店に、アイヴィンが恋人を連れやって来て、ユリヤは時めく。 


「サングラスを忘れた」という嘘を言って、戻って来たアイヴィン。 



「君のことをずっと考えてた。でも幸せな君を困らせたくない…だた、会って話したかった。いや、気にしないでくれ。でも、また会いたい。会うだけだ。湾岸エリアの“オープン・ベーカリー”で。僕の仕事場だ」 



アクセルが兄夫婦と映画作品について議論しているが、全く興味を持てないユリヤ。 



翌朝、アクセルがユリヤのコーヒーを入れる際、電気のスイッチを入れた途端に時間が止まる。

 

オスロの街中の時間が止まった中、ユリヤはアイヴィンの元へ走って行く。 


アイヴィンが勤務先のベーカリーに到着し、二人は止まった時間の中で夜まで時を過ごす。 


ベンチで朝を迎えた二人は別れ、ユリヤは再び走って自宅に戻り、電気をスイッチを切ると、時間が動き出した。

 

「話があるの」

 

「ユリヤは言った。“ずっと考えてた。あなたは悪くない”…」(ナレーション)

 

「あなたのせいじゃない。あなたは悪くないけど…」 



「昔からある議論だ。2人とも分かっている。“タイミングが悪い。人生のステージが違い、求めるものも違う”」(ナレーション)

 

「求めるものも違う」

「別れる気か?」

「そう。終わりにしたい」

「そうか…分かった。それって本当に君の本心か?」


「どういうこと?」

「本当に分かってる?何をしてるのか、何を壊そうとしてるのか」

「もちろんよ。だから苦しいの」

「どこに住む?」

「分からない」

「分からない?」

「母の家とか」

「実家か」

「家を見つけるまで」

「分かった…待ってくれ」

「終わったの。それだけ」

「何か嫌なことがあって別れたいと?」

「違う。ずっと考えてて、確信に変わった」

「誰かと出会った?」

「違う」

「ユリヤ。勘弁してくれ。耐えられない。もういい。分かった。出て行けばいい。支度してくれ。歩いてくる」 


「“あなたに合うのは、地に足がついてて、子供を望む人。信頼出来てテキトーじゃない人”」

「テキトーなところがいい」 


「彼は言った。“テキトーな君に救われてる。仕事の息抜きになる。子供の件だけど、君を失うくらいなら子供は要らない”」(ナレーション)

 

「子供のことじゃないの」

「じゃ何だ?」

「私たちの人生を考えた結果よ」


「君は人生の危機にいるんだな…もし、まだ愛があるなら、やり直そう」

「愛してるけど、愛してもない」

 

「この言葉、この言い方から、ユリヤは彼と続けるのは、やはり無理だと感じた」(ナレーション)

 

「私の人生なのに傍観者で、脇役しか演じられない」

「行き詰って、変化が欲しいのは分かるけど、別れて解決するか?」

「そうやって私の気持ちを、すぐ上から決めつける」

「君がやることは、お見通しだ…君は父親に向き合うフリをしてるけど、本当は僕を利用している。哀れだな」

「私たちは、そこが合わないの。あなたは説明したがるけど、私は、ただ素直に感じたいの。あなたは強くあろうとする。言葉で説明するのが、強さだと思ってるんでしょ。人の心の中まで分析するのが強さだと。そんな見方ができない私は、あなたより弱いのね」 



「ユリヤは言った。“別れたあと、独りになるのが怖い。氷上の小鹿みたい。だからこそ別れなきゃ”と。彼の言葉は聞き取れなかった。彼女は思った。“30歳の自分を小鹿に例えるなんて”と」(ナレーション)

 

「いてくれ。後悔するよ」

「絶対後悔する」

「そのうち君も子供が欲しくなるかもしれない。恋人だってできるだろう。僕らの関係の貴重さに、その時気づく」

「いつか、また元に戻るかも」

 

「そして続けた。“本心よ”」(ナレーション)

 

「本心よ」

 

 

第6章 フィンマルクの高山

 

アイヴィンと恋人がフィンマルクを登山し、テントを張って眠る。

 

翌朝、アイヴィンはテントから出て、トナカイに近接する恋人を凝視する。 



「彼には“楽しい体験”だったが、彼女は深く感動した。何かに目覚め、彼女は名字を探した。祖父は北の出身らしい。DNAサンプルをアメリカに送って判明した。サーミ人の血が3.1%流れていると判明した彼女は、幻覚を起こす物質や儀式に傾倒。彼もそれを支えた。気候変動の現実を見て、彼女の意識は高まった。イヌイットは食料を失い、氷の融解がトナカイを脅かし、オゾンホールでアボリジニは皮膚がんに。アイヴィンはNY旅行を諦めた。もっと誠実で持続可能な生活を、もっと努力を、もっと原材料に注意を、環境負荷を考えて買い物を。プラスチックは海を殺す。国産タラは中国で加工。コバルト鉱山はコンゴを食い尽くす。“西洋の罪”が昼は彼の横に座り、夜はベッドで一緒。大義に勝るものなし。恋人やサーミ人への裏切りだ。自分が最悪の人間に思えたが、抗えなかった」(ナレーション) 



アイヴィンは恋人に寄り添う疲弊感の中、パーティー会場でユリヤと出会い、恋をした。

 

これが、アイヴィンとユリヤの出会いの初発点だった。

 

 

第7章 新しい章

 

ユリヤとアイヴィンは、新しい生活をスタートさせた。

 

「環境悪化や人口増大の問題は深刻だ。次世代は苦労する。彼も子供は望まなかった。彼は明るいのに悲観的で、そこも魅力だった。魅かれた理由はほかにもあった」(ナレーション)

 

ユリヤはアイヴィンの携帯で元恋人のヨガサイトをフォローしていることを質す。

 

「環境関連のリンクに飛べるからさ。連絡は取り合っていないよ。フォロワー数は3万以上だ」


「彼女をフォローしても別に構わないけど、私には無理。セクシー路線でフォロワー集め」

 

そんな会話に終始した。

 

 

第8章 ユリヤのナルシスなサーカス

 

遊びに来た友人がマジック・マッシュルーム(幻覚作用を起こす毒キノコ)を見つけ、4人でそれを口にする。 

マジックマッシュルーム(ウィキ)



激しい幻覚に襲われるユリヤ。 


全裸になり暴走し、幻覚から覚めたユリアを優しく包み込むアイヴィン。

 

「あなたとだと、自然体でいられる」

「そう思うの、初めて?」

「初めてじゃないけど、無理してた。出会った頃のままでいようと」

 

ユリヤのナルシスなサーカスが、アイヴィンとの関係のピークアクトと化す章が閉じていく。

 

 

 

2  「君は生涯の恋人だった。君は最高だ」

 

 

 

第9章 ボブキャット Xマスをぶち壊す

 

ユリヤがジムでランニングをしていると、ラジオ番組でアクセルがフェニミストの女性と議論している。

 

「今、この時代に読むと、非道徳的な描写ばかりで、吐き気がします。あのキャラは女性を貶めることで人気を得ました。不快です」


「なるほど。アートは心地よくあれと?」

「…読者の中に、近親相姦やレイプの被害者がいる可能性も」

「読者が不快にならないよう、創作をやめろと?不快なものを描くと射殺されるから?」


「あなたはムハンマドの風刺画と巨乳の女性や近親相姦の絵を同列に?」

 

ユリヤはマシンを降り、テレビモニターに近づき、釘付けになる。 


「読むか読まないかは、あなたが選べます。これは世代にもよります。僕だけの責任じゃない。アートは汚く、自由じゃなきゃいけない。危険だから面白いし、アートは“癒す場”であってほしい。そこで僕は独り言を言い、許されない考えやダークな衝動を吐き出す」

「男性の特権で弱い女性を笑うの?これはアートでもユーモアでもないし、風刺と呼ぶには知性がない」

「僕個人とは切り離して欲しい。創造の対象は別人格だ…この会話をコミックにすると、作中の僕はあなたと“娼婦”と呼ぶ。でもそれは。僕自身の意見ではなくて、自信のない男のパロディーで…」


「“娼婦”ですって?」

「あなたは真意を無視してる…ポスト・フェミニストは、自分が正しいと思ってる!」 


議論は噛み合わないまま終わるが、ユリヤの目は輝いていた。

 

 

第10章 文化への不満

 

書店で仕事をしていると、アクセルの兄が来店し、ユリヤが声をかけ、アクセルが病気であると知らされた。

 

すい臓がんだった。 


それを聞いたユリヤは、ショックを受け考え込んでしまう。 



帰宅し、ユリヤがゴミ箱に捨てた原稿を読んだアイヴィンは、「すごくいい」と褒めると、どこがいいのかと突っ込み、アイヴィンがうまく表現できないことに苛立ち、「駄文よ」と原稿を取り上げるのだ。

 

「急に文学好きになったのね。最後に読んだのは、いつ?」


「どうした?」

「何が?」

「何でも気に障るみたいだ…落ち着いてくれ」

「じゃ、落ち着いて50歳までコーヒーを出してれば?私はご免よ!」 


アイヴィンは言葉に詰まる。

 

「僕にはどうしようもない」

「そうね」

 

二人の関係の溝は修復できないようだった。

 

 

第11章 陽性

 

ユリヤが妊娠した。 



帰って来たアイヴィンに告げることができず、その足でアクセルの病室を訪ねた。

 

古い映画を繰り返し観たり、以前は聴かなかった古い曲を聴いたりしているというアクセル。

 

「まるで隠居した老人だ…ガラクタの知識と記憶だ。役立たずだ」


「それは違う。あなたのコミックがある。私はあなたの才能が羨ましかったの。何の迷いもなく、描くべきものを描ける」


「僕は死ぬんだ。昔を振り返りたくもなる…今は、ほかに何もないし、未来もない。振り返るだけ。でも、これは郷愁とは違う。死への恐怖がそうさせるんだ。アートとは関係ない」


 

「昔、言いたい放題だった私を、あなたは責めなかった。懐の深い人だから」(ユリヤのモノローグ)

 

「あなたのように、話せる相手はいない。もう一度、私に言ってくれる?昔は嫌だった言葉を。“いい母親になる”」

「妊娠した?…祝わないとな。どんな気持ちだ?」

「分からない。本当に。できちゃったの。不注意だったんだと思う。本当に欲しかった?」

「僕だって不安だったし、疑いもあった。でもそれを見せないようにしてた。でも君は、いい母親になる。君は自信なさそうだったけどね。僕に後悔があるとしたら、それは、君に自信を持たせてやれなかったことだ…産むんだろ?」


「分からない」

「僕は失敗を恐れてばかりで、時間をムダにしてきた。でも不安なことって、案外うまくいくものだ。だから、彼がいい人なら産みなよ…」

 

二人は病室に戻り、更に会話を繋いでいく。

 

「僕が死んだら、君との記憶も消える…聞いてもいい?僕と別れる前に、今の彼と出会ってた?」


「ええ」

「なぜ隠してた?」

「分からない。言えなかったの」

「彼と別れる?」

「いいえ。何で?」

「妊娠を喜んでなさそうだから。行き詰まると、君は別れる」

 

ユリヤは立ち上がり、きっぱりと言う。

 

「妊娠して嬉しい」

「そうか。悪かった」

「いいの」

「…一番大事な関係だった。何も言わなくていい。そう思うのは僕だけだ。それでいい。君は先が長いんだ。分かってるけど、伝えたかった。君は生涯の恋人だった。君は最高だ」 



家に帰り、アイヴィンに妊娠を告白する。 


「欲しくないでしょ?」

「まあね」

「産むのを迷ってる。私には無理って気がするの。新しいものに、すぐ目移りするから。時間が欲しいの。私たちのことも考えたい」

「いいよ」

 

 

第12章 すべてのものに終わりがある

 

ユリヤはアクセルが8歳の頃から住んでいたアパートを一緒に訪ね、思い出話を語るアクセルをカメラで捉える。 


街を見渡すアクセル


「元気を装うのに疲れた。痛みがひどい…僕のことは忘れてくれ。声で残るのはご免だ。アートの中で生き続けるのもだ…僕のアパートで君と幸せに生きたい」 



書店でアクセルの容態が急変した知らせを受け、病院へ歩いて向かうが街を彷徨い、そのまま海へ出て、泣きながら朝焼けを見つめるユリヤ。 



自宅でシャワーを浴びていると、血が流れ出て、流産したことを知る。

 

 

終章 

 

ユリヤはカメラマンとなり、映画撮影を終えた女優のスチール写真を撮っている。 


ふとみると、女優を迎えに来たのは赤ん坊を抱いたアイヴィンだった。 



自宅で画像処理するユリヤ。 


ようやく、自分が求める方向性を見出し、地に足をつけ歩み始めているのだった。

 

 

 

3  終わりが見えない「自分探し」の旅に終止符が打たれいく

 

 

 

「集中できない。成績はいいのに、次々と入る情報で気が散る」

 

冒頭のナレーションで紹介されたように、あまつさえ、「レガタム繁栄指数」で生活レベルが最高とされる国にあって、パンの心配のない先進国の、比較的豊かな階層で呼吸を繋ぐ社会が生む、余りあるほどに選択肢の多い時代の、この贅沢なる状況性。


【一言で言えば、「レガタム繁栄指数」とは物質的・精神的・社会的満足感のことで、ノルウェーは常にトップ争いをしている】


「選択肢の多い時代」の価値を苦痛にする状況下にあって、「これは自分じゃない」と言って、確たる自己像を持つことなく、自分が何を求めているのかさえ分かっていない主人公ユリヤ。 



且つ、「私の気持ちを、すぐ上から決めつける」ことを極端に嫌悪するそんなヒロインが依拠するのは、自らの感情の在りようのみ。

 

「私が好きなのは、人間の内面や感情なの」「私は、ただ素直に感じたいの」 



自らのメタ認知能力の欠如を、相手の想像力の欠如に転嫁してしまう発想の幼稚さが、自分と感覚的に合わない対象を拒絶し、逆に自分に合うと感じる対象に対しては好感を持ち、顔を輝かせて恋に落ちていくという行為に振れていく。 



そのハードルがあまりに低く、自己中心的であり、稚拙なために、自他を傷つけ、「私は最悪」という情態を自ら誘起している。

 

しかし彼女が、自ら抱える「分からなさ」の中で、感覚的に拒絶したり、接近したりしつつも悩み、何かを掴もうと藻掻(もが)いているリアルな情態を否定すべくもない。

 

「何者か」になることへの素朴な憧憬と言ってもいい。

 

では、彼女は何と葛藤し、藻掻いているのか。

 

一つは職業的に自立することである。

 

もう一つは、自分が納得できるライフスタイルを獲得することである。

 

それは、アクセルが望むように、良きパートナーと結ばれ、子供を産み、子供中心の家庭を築くという幸せを求める生活様式を否定しないが、だからと言って、そこにのみ一点集中的に没我することはできない。 



何より、自分自身が何をしたいか、どういう生き方を構築するかについて把握し得ない限り、選択肢に包含される術(すべ)がないのだ。

 

だから、それを押し付けてくるアクセルを拒絶するのは至極当然のことだった。 


置き去りにされるアクセル


但し、それを跳ね除けるほどの確固たるライフスタイルを確立していない自分は、信念に基づくアクセルの仕事ぶりや識見に、劣等コンプレックスを抱くだけで対等に抗うことができない。

 

その現実を素直に認め、自己研鑽するのではなく、ただ単に「絶対後悔する」と反応しながら、「合わない」と言い添えて去っていくのみ。

 

「愛してるけど、愛してもない」

 

この時、吐露した彼女の言辞こそ、「絶対後悔する」と「合わない」という矛盾する二つの表現の本質を衝いている。

 

ライフスタイルの押し付けへの反発と、被弾する知的言辞への劣等コンプレックスを露呈しながらも、彼の人間性への愛慕と異性感情を捨て切れない思いの束が葛藤しているのだ。

 

このことは、アクセルとの物理的距離を確保することで、彼の存在の重さを知らしめられることになる。

 

然るに、ユリヤは自分の全てを受け入れてくれる誠実なアイヴィンに身を投げ入れていく。 



彼こそ自分に「合っている」と思い込み、「あなたとだと、自然体でいられる」と吐露してパートナーを乗り換えていくが、それも幻想に過ぎなかった。 



アクセルに抱いた劣等コンプレックスの裏返しとして、優越コンプレックスをアイヴィンに剥(む)き出しにするという、最悪な内面性を曝け出してしまうのだ。

 

「急に文学好きになったのね。最後に読んだのは、いつ?」「じゃ、落ち着いて50歳までコーヒーを出してれば?私はご免よ!」 


最低・非道の侮蔑言辞である。

 

「何でも気に障るみたいだ…落ち着いてくれ」と言って慰撫(いぶ)せんとする優しいアイヴィンに対して、却って膨らんでしまう優越コンプレックスという厄介な劣等コンプレックスの亜種。

 

アドラー心理学の世界が縦横に展開しているのである。 

アルフレッド・アドラー



【優越コンプレックスとは、自らの優越性を表現することで内なる劣等感を希釈する心理。オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーが提示した重要な概念】 

優越コンプレックス



だから、恋人がエコに関心を持ったら、譬(たと)え疲弊感を覚えても、環境負荷を考えて買い物をすることなどで恋人に合わるばかりか、ゴミ箱に捨てたユリヤの「駄文」を読み込んで褒めちぎるように、何でも相手に合わせていくアイヴィンへの感情が一気に醒めてしまった。 



要するに、他者に押し付けられることもダメだが、それ以上に、自分に合わせてくるだけの男を受け入れられないのである。

 

これがユリヤ基準なのだ。

 

モニターに映し出される凛としたアクセルの持論に聞き入り、アクセルへの思いを復元させたのは、そんな折だった。 



持論を押し付けるアクセルが苦手だった彼女が、アクセルに回帰していくのは、「愛してもない」思いよりも、「愛してる」思いの方が強かったということ。

 

彼との物理的距離の確保が、彼に対する心理的距離を縮めていくのも必至だったということである。

 

「いつか、また元に戻るかも」というユリヤの言葉は、彼女の内側で堅牢に固着していたのである。

 

その意識が自我の底層に根付いていたからこそ、この表現に結びついたとも言える。

 

この分かりやすいユリヤの心理の振れ具合が物語の本線になっていたので、批評の余地がないほど分かりやすい映画になっていた。

 

そして、アクセルとの再会に待機していた、彼の重篤な疾病。 



これが、彼に対するユリヤの心情を決定的に変えていく。

 

その思いの辛さを全身で受け止めたことで、終わりが見えないようだった彼女の「自分探し」の旅に終止符が打たれるに至ったからである。

 

「昔、言いたい放題だった私を、あなたは責めなかった。懐の深い人だから」

 

アクセルの持論への感情的振舞いを受容する懐の深さ ―― これがユリヤの中枢に広がっていたのだ。

 

「僕は失敗を恐れてばかりで、時間をムダにしてきた」

 

死に直面するアクセルの、この吐露を全身で受け止めたユリヤの時間が変移していく。

 

「時間のムダ」

 

この一言が、ユリヤの中枢を衝いてきたのだ。

 

自分もまた、「時間をムダにしてきた」のではないか。 


そんな思念が膨らんだ時、彼女の時間が変移していくのだ。

 

かくて、時間を止めて自由を満喫するシーンに象徴されるように、自らのペースで生きる場所=〈生〉の拠点を求め続けたユリヤは、求めるべき自己像の正確な認知に届き得なくとも、純粋に一個の人格として、差し当たって今、納得し得る職業を獲得する。

 

それが、対象が表現する、その一瞬の時間を切取る「魂を捉えるカメラマン」だった。


それは、「僕が死んだら、君との記憶も消える」と吐露したアクセルの記憶を残す手立てでもあった。 



この着地点は、それまで等閑(なおざり)に付していた対象と正対し、真摯に向き合う作業への怠惰を認知し得たことの所産だったとも言える。

 

対象と正対し、真摯に向き合う作業は、自己の〈現在性〉と向き合うことと同義になるからだ。 


それでも、この立ち位置が起点となって、これまでの風景と折り合うことが難しい局面に対峙しつつ、「何者か」を目指す彼女の〈生〉の曲線的な航跡は、その時間を繋いでいくのだろう。

 

作り手のインタビュー記事を読む限り、私の読み方と必ずしもマッチしないが、少なくとも、私にとって、本作はそういう映画だった。 

ヨアキム・トリアー監督




(2023年4月)

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