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2023年1月3日火曜日

大河への道 ('22)  「奇跡の旅」を受け継ぐ名もなき者たちの物語  中西健二

 


1  「伊能忠敬は日本の地図を完成させてない。だから、大河ドラマにはならないんだよ」

  

 

 

伊能忠敬(いのうただたか)の死から開かれる物語。

 

千葉県香取市の市役所の総務課主任の池本は、市の観光振興策を決める会議で、「大河ドラマ」で郷土の偉人・忠敬(ただたか/香取市では愛情を込めて、“ちゅうけい”と呼んでいる)を取り上げて欲しいと提案する。 

池本(中央)と観光課の小林(右)、木下(左)


その場では不評だったが、県知事から「香取で大河にチャレンジしてみてくれないか」と観光課に直接連絡が入り、担当の小林から池本が指揮を取るよう言い渡される。 



早速、池本は知事が指定した脚本家の加藤浩造の自宅を訪ねたが、本人から「加藤は死んだ」と繰り返され、取りつく島がない。 

加藤(右)

役所に戻り、そのことを報告すると、加藤について安野(あんの)がネットで調べる。 

安野(右)

「2000年を最後に、もう20年、何も書かれてないみたいです」

「残念だけど、他の人に代わることも考えた方がいいかも知れないね」と課長の和田。

「ダメっすよ、そんなの。知事がその人がいいって言ってるんですから」と木下。 



池本は再度、加藤宅を訪ねるが相手にされず、その後、何度も足を運び、諦めて帰ろうとした時、目に付いた家の前の破れているゴミのネットを直していると、加藤から声をかけられ、自宅で話をすることができた。

 

知事が加藤のファンで、どうしても書いて欲しいと、かつて加藤が手掛けたドラマの話になるが、本人はその作品を納得していなかった。 


「ただの人情話書いてしまった」

「それが何か、とっても良かったと思います」

「あれがお好きとは馬が合うとは思いませんな。どうぞお引き取りを」 


池本は知事の意向を必死に訴える。

 

「俺が何を書くか決めんのは俺だ」


「何を基準に先生は、書くものをお決めになるんですか?」

「鳥肌だ」

 

まもなく、伊能忠敬の出身地である小関村の九十九里の浜辺に立つ加藤に、忠敬について解説する池本。

 

「幼名は三治郎。忠敬さんの自然への興味は、この浜で生まれたのではないかと」 



次に池本は木下を随行させ、「伊能忠敬記念館」へ加藤を案内する。

 

「忠敬さんは元は商人で、本格的に天文学を勉強し始めるのは何と50歳の時。そのために、自分よりも二回りも年下の天文学者高橋至時(よしとき)に弟子入りをするんです…初めから地図を作りたかった訳じゃないんです。そもそもは、地球の大きさを知りたかった。そのためには、まず、赤道から南北に延びる『子午線一度の距離』(後述)、この距離が分かる必要があった。それさえ分かれば、それを360倍すれば、地球の大きさが出ることが、江戸時代の彼らも知っていたんです」 


池本は、自分で描いたノートの図を加藤に見せながら説明を続ける。

 

「…でも、当時の日本では、許可なく関所を越えて自由に歩き回ることができなかった…そんな時に、幕府が蝦夷地の正確な地図を欲しがっていたということを知って、忠敬さんが『私に作らせてくれませんか』って、作ることを願い出たんです」 


加藤は、衛星写真を基に作成された最新の日本地図と、忠敬が1871年に作った地図が殆ど重なる掲示板を見て、鳥肌が立つ。 


「200年前に…」

 

その後、シナハン(ロケーション・ハンティングのこと)として、「記念館」の展示を見て鳥肌が立った加藤は、池本と木下の測量の実施を見ながら、企画書の構想を練っていく。 



旅館で加藤は、忠敬は何であんな地図と作ったのかという疑問を投げかける。

 

「忠敬は17年に亘って、都合10度測量に出かけてる。しかし、2度目の時に既に子午線一度の距離は算出できてたんだよ。つまり、忠敬は本来の目的を果たした後も、地図作りを止めなかった。それはどうしてなのかってことなんだよ」 


想像を述べるだけで正確に答えられない池本は、逆に加藤に質問する。

 

「先生は何で20年間、脚本を書かれなかったんですか」 


それには答えない加藤。 



加藤を役所の会議室に招いて、「シノプス(あらすじ)を頂けますか?」と言う木下に対して、「書いていない」と答える加藤。 


「地図を書いてないんだ、忠敬は」

 

加藤は年表を示し、伊能忠敬は1818年に没し、『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成した1821年に、その死が公表されたと指摘する。

 

「伊能忠敬は、日本の地図を完成させてない。だから、大河ドラマにはならないんだよ」 


呆気なかった。 


 

 

2  「我ら伊能隊一同、明日より大急ぎで『大日本沿海輿地全図』を完成させたいと思います」

 

 

 

文政元年 1818年 江戸 


ここで、ファーストシーンが再現される。

 

忠敬の死の床に集まる家族と弟子たち。 


「ご無念でございましたやろなぁ、伊能先生」と吉之助。

吉之助(左)と友蔵(右)

「何か、言い遺されたことはないのか」と格之進。

格之進

「昨年の伊豆の測量で、数箇所合点がいかぬところが見つかった故、何とかせねばと。それが最後のお言葉で…」とトヨ。

トヨ

「では、今しばらく先生には、生きていてもらいましょうか」と綿貫。
 

綿貫


そこに、高橋景保(かげやす)と又吉が弔問にやって来た。

 

景保は忠敬が弟子入りした至時の子で、天文学者である。

 

「綿貫殿、お上への伊能先生の逝去知らせは、私の方からするが、よいか」

高橋景保(左)と又吉


「若先生、伊能先生が亡くなりましたこと、しばし、伏せてはいただけませぬか。今、先生が死んだことをお上に知らせれば、これを機にと、地図作りは取り止めを命じられるに違いありません…莫大な掛かり(費用)を要する地図作りは、今やただの金食い虫と見做(みな)す向きもございます。日の本全土の地図が出来上がるまでは、もうひと踏ん張り。今、目先の掛かりによって取り止めてしまうのは、必ずや悔いる時が来ると思うのです」

「とは言え、いくら何でも先生は、金と時を掛け過ぎた」


「なれど、しばし、しばしでございます。どうか、我らに地図を仕上げさせてもらえませぬか」


「あと、何日ほどで出来るのだ」

「3年ほどで」

「3年?」

 

景保は立ち上がり、綿貫の申し出に応えず、又吉を連れ帰って行った。

 

忠敬の元妻で、地図作りに協力して、その後、失踪したエイが景保の前に現れ、伊能家に置いてきた本を持って来て欲しいと頼むのだ。 

エイ



景保が書庫を探しているのを手伝うトヨが見つけた本と一緒に、景保の父・至時の忠敬への100両の借金の証文が出てきた。 


これにより、景保は弟子たちの地図作りの続行を認めざるを得なくなったという顛末である。

 

まずは、生前の忠敬の願いであった至時の墓の隣に、忠敬の草鞋(わらじ)と共に無縁仏として埋葬し、供養する。 


「我ら伊能隊一同、明日より大急ぎで『大日本沿海輿地全図』を完成させたいと思います」

 

一同が手を合わせ、祈念する。 


「これで本当に良かったんですかね、父上」と景保。


「これより、一蓮托生(いちれんたくしょう)であります」とエイ。
 


いつの間にか、エイも伊能隊に戻っていた。


【エイが本を頼んだのは、景保に伊能隊に協力してもらうための方略だった】

 

現代。市役所の会議室。

 

「それで、どうなったんですか?」と木下。


「彼らは、全力で残りの地図作りに取りかかる」と加藤。

 

かくて、名もなき者たちの「奇跡の旅」が拓かれていくのである。

 

 

 

3  「何があろうが、後の世のために、これはやり遂げるべき、受け継がれるべき志だと、そう考えていたからではないのか?」    

 

 

 

江戸。


残りの地図作りに取りかかる伊能隊。


「1番から2番。北からの角度65度」



この声を受けて、吉之助が分度器を合わせる。


「距離70間(けん)」(1間は約1.82m)


「測量したデータを下図に落とし込み、点と点と結んで海岸線を描くことから始まる。その下図が繋ぎ合わされ、畳一畳ほどの寄せ図となり、後にはそれを写し、色を付け、地名や記号を入れたものが大図(おおず)と呼ばれる日本全土214枚もの地図となるのだが、その一方で、彼らは忠敬の死を隠すための偽装工作にも取り組んでいく」(ナレーション)

点と点と結んで海岸線を描く

下図が繋ぎ合わされる

畳一畳ほどの寄せ図となる

乳鉢(にゅうばち)で顔料を刷る

        


大図と呼ばれる日本全土214枚もの地図となる


【伊能忠敬の測量は三角関数を利用して、川幅など容易に測定されたばかりか、富士山の高さも何カ所かで測られている】 

三角関数の基本は直角三角形/木からの距離と、木の頂点との角度が分かれば、木に登らなくても高さを計算できる】




一方で、忠敬の死を隠す偽装工作も続いた。 

「先生の洗い張りは、これで終わりかい?」とトヨ


景保は勘定奉行の佐伯に呼ばれ、忠敬の体の状態が回復したことを報告し、全国各地を測量しに回っていることを説明する。 



「景保らは、忠敬の影武者を立てて、できるだけ江戸にいないように取り計らい、のらりくらりと幕府の目を欺き続ける…時は流れ、早2年が過ぎた頃…」(加藤のナレーション) 

忠敬の影武者



遂に、将軍・家斉(いえなり)も痺れを切らせていると佐伯に迫られ、景保は頭を下げて忠敬に伝えると引き下がる。

 

佐伯は何かおかしいと、景保らに張り付くことを神田に命じた。

 

折も折、綿貫から忠敬の影武者が失踪したとの知らせを受ける景保。

 

景保は測量中の綿貫を訪ねると、影武者は見つかったが、降りたいと言うので、次の影武者を探す必要を訴えた。 


「いっそ、この此度(こたび)の測量中に先生はお亡くなりになったことにしては。実は、勘定方もかなり苛立ってきておってな。ここらで切り上げねば、お調べなどが入り、それこそ、皆死罪などという話にもなりかねん」


「潮時と?では、此度の測りを終え、江戸に戻る道中に亡くなるという筋書きでよろしゅうございますでしょうか」


「かたじけない」

「それはこちらの言葉にございますよ。若先生、今までありがとうございました」

 

一歩ずつ歩き、測量を続ける伊能隊。 




苛酷な測量を終えて、宿に戻るや、計算して地図を書き上げる弟子たち。 


計算が合わぬと苛立つ格之進。 


綿貫の作業を替わると声をかける景保。

 

「何故そなたらは、ここまでやるのだ。身を粉にして、かようなる危ない橋を渡り、何故、地図を作り続ける」

「そもそも、伊能先生は、子午線一度の距離を掴めば、地図作りから手を引くつもりだったと思うのですよ。まぁ、乗りかかった船なれど、引き際を見計らっておられたと言いますか。ところが、蝦夷のあちこちで、ロシア船に襲われるという事件が起き、測量の場で世話になった人足の中にも命を落とす者が出ましてな。それから先生は、自ら進んで地図作りに心血を注ぐようになられた。足取りは強くなり、一歩一歩、歩み測り、歩み測り、まずはこの国の正しい姿をきちんと形にすることが、異国から身を守る初めの一歩なんてことをお考えになったんじゃないでしょうかね」


「そんな先生の思いを、ここで途絶えさせるわけにはいかないということか」

「まあ、そうとでも思わなきゃ、やってられませんよ。あのオヤジ」

「どれくらいかかりそうだ、地図が仕上がるまで」

「あと半年程あれば、何とかなるのですが」

「では、今しばらく、伊能先生には生きていていただきましょうか」 



「こうして、景保が心を解いたことで、ようやく伊能隊の足並みが揃い、地図作りの旅は続いた…しかし、彼らはこの男に追い詰められていくことになる」(ナレーション) 

神田


その男・神田三郎がトヨに忠敬の様子を伺い、その神田は佐伯の屋敷から来たと知り、伊能隊は対抗策を練る。

 

トヨは、神田に忠敬は既に死んでいると密告し、その証拠が欲しいという神田は、忠敬の墓に埋められている草鞋(わらじ)が、トヨに紹介された祈祷師により、九十九里の浜の松の木であると教えられる。 



神田は早速、九十九里浜へ行くが、数多ある松の木から埋められた草鞋を探すのは至難の業であった。 



次の祈祷で別の場所が特定されたが、そこで祈祷師が伊能隊のエイであることが分かり、神田が乗り込んで来た。

 

エイを捉え、刀で脅し、忠敬をどこに埋めたかを聞くが口を割らず、そこで景保が忠敬は生きていると断言したことで、神田は引き下がっていく。 

伊能は生きております


「もう、白状してしまいましょうか。さすがに、罪人を出してまでは、先生もお喜びにはなりますまい」と綿貫。 


皆も異口同音だった。

 

ここで、景保が長広舌(ちょうこうぜつ)を振るうのだ。

 

「伊能先生が亡くなられて3年。あの日、この企みを始めたのは信じておったからではないのか。伊能の地図を作り上げれば、必ずやこの国に大いなる恵をもたらす。先生と同じく、皆そう信じていたからではないのか。何があろうが、後の世のために、これはやり遂げるべき、受け継がれるべき志だと、そう考えていたからではないのか?我らが為すべきは、あの男(神田)が先生が亡くなった証しを得るよりも先に、地図を完成させる。それだけだ!さすれば、後の世に、こう記されよう。文政4年、伊能忠敬の手により『大日本沿海輿地全図』完成される。開始から17年、忠敬自ら歩きに歩き、測り上げたその地図は、幕府から津々浦々の民に至るまで、大いなる利をもたらした。しかし、その寸分の狂いもない地図をお上に披露したその日、伊能忠敬は深い安堵の中、息を引き取ったと。享年76。ここまで来たのだ。堂々とやり切ろうではないか!」 


この話を受け止めた伊能隊。

 

早速、地図作りに専心していくのである。 

格之進


吉之助


その中に又吉もいた。


顔料の補充作業である。


一方、その地図作りを見て、エイは自らの仕事を終えたことを実感し、景保に飛び切りの贈り物を渡すのだ。



「どうか、伊能も連れてってやってくださいな」



そう言って、偽物に代えて墓から抜き取った忠敬の本物の草鞋を、景保に渡すエイ。


幕府の密偵・神田を欺くための工作を完了した彼女の別れの儀式である。

 

そして今、遂に完成した地図を景保と又吉が荷車で運ぼうとすると、綿貫らがお供すると集まっていた。

 

「分かっておるのか!神田の目をかわしたとはいえ、何が起こるか分からん。お披露目がそのままお白州(しらす)に変り、皆に死罪になるやも知れぬのだ!」

「いや、たとえそうなろうとも…」

「その時には、冥途への道を皆で測りましょう」と友蔵。 

友蔵



景保は、もう反駁(はんばく)すべき言辞を持ち得なかった。


命を懸けた本物の勝負はここから始まるのだ。

地図を運ぶ伊能隊/運び役の又吉も気合が入っている



そして、目的を達したエイは、置手紙を置いて去って行った。 



文政四年 1821年 江戸城 



いよいよ将軍家斉に地図を見せるという段で、勘定奉行の佐伯が、伊能が既に3年前に死んでいると訴える。

 

「こやつらは、伊能殿の死を伏せ、恰(あたか)も生きておるように振舞い、素知らぬ顔でお上より、莫大な掛かりをせしめ取ったのでございます。我らを、ひいては上様を謀(たばか)っておったのでございます!」 

佐伯


その訴えに、家斉自らが景保に詰問する。。

 

「高橋、そなたは余を謀ったのか?答えよ」

 

即答に躊躇(ためら)う景保は、引っ立てられる既(すんで)の所で口を開く。

 

「伊能は、次の間にて控えておりまする!上様をお待ち申し上げております」 


大広間いっぱいに広がる日ノ本の地図。 


それに見入る家斉。

 

「高橋、これが余の国か」

家斉


「はい」

「そうか。余の国は、かような形をしておったのか」


「はい」

「美しい。美しいのう。高橋、伊能はどこにおる」 



景保は懐に抱いていた忠敬の草鞋を差し出すのである。 


「伊能は、ここにおりまする」

 

家斉がしゃがみこみ、草鞋に語りかける。 


「伊能、余が見えるか。余には見えるぞ。よう、ここまでのものを作り上げた。若くはない身で。どれほどの難儀であったことか。まこと、大儀であった。後は、ゆるりと休むが良い」 


頭を下げて肩を震わせる景保は、堪えていた涙を零れ落とす。 


「高橋」

 

顔を上げた景保に、家斉は笑みを浮かべ、黙って頷く。

 

「恐悦至極に存じまする」

 

その様子を控室で聞いていた伊能隊の弟子たち。


感極まって涙を流す者もいた。


名もなき者たちの「奇跡の旅」が終焉した瞬間だった。 

綿貫


格之進

 

吉之助


友蔵


 



4  「大河ドラマ『伊能忠敬』、不肖私めが挑戦したいと思います」

 

 

 

現代。

 

加藤の話を聞き終わって、木下の涙が止まらない。 

「泣き過ぎだよ」(池本)



「まあ、こういう話だったら書けなくもない」と加藤。

「ええ、いいですよ。いいじゃないですか、これで行きましょうよ」と池本。

「じゃ、いいんだな。大河ドラマは『高橋景保』で」


「…ちょっと、仰ってることの意味がよく分からないんですけど」

「物語の初めで伊能忠敬は死んでしまう。だから、伊能は出て来ない」

「何で?」

「何でって、これは、伊能忠敬の遺志を継いだ高橋景保たちの物語だからよ」

高橋景保って、どこの人?」と池本。

「大阪です」



携帯で調べながら、そう答える木下。


「あの、忠敬が地図完成したってことにしちゃダメなんですか?」と木下。


「ダメに決まってんだろう。そんなこと!」

「…でも俺、見たいんですよ!先生が20年書かなかったのは、とにかく受けるものをって言われるうちに、何見ても何聞いても鳥肌立たなくなったからなんですよね。それが忠敬さんの地図で鳥肌が立った。もう一度書いてみたいと思った。違うんですか?」


「忠敬さんって、ホント凄いと思うのよ。雨の日も風の日も、コツコツ歩いてあんな地図作っちゃってさ。日本を植民地に出来るかもと思ってやって来たイギリスなんか、あの地図見て、ビビッて止めたんだから。この国は凄い国だって。ホントに、ホントに偉人なんだよ、忠敬さんって人は。だけど、その偉業を支えていたのは、名もない、名前すらろくに残っていない伊能隊の連中だったってことが分かってさ。伊能忠敬を大河ドラマにしたいっていう奴が出てくる。きっと、出てくる。だけど、景保たちのことなんか、俺以外誰も書こうと思わない。この名もない奴らのことなんか、俺が書かないと、この世から消えてしまうんだ。忠敬さんが地図を残したかったように、俺は、この名のない連中のことをこの世に残したいんだよ」


「先生、楽しみにしてます。大河ドラマ『高橋景康』。僕らは僕らで頑張りますんで」
 



池本と小林が千葉県庁へ行き、知事に会って一連の成り行きを報告する。

「こちらとしましては、知事の御心一つと考えています」(小林)


 

在任中の大河は難しいと言う知事に、池本が方法があると言う。

 

「知事に、ご再選を目指していただければ」


「それが私の『大河への道』ですか。仰る通りですよ。では、それを目指し、仕事に励むことにしましょう」
 



加藤が脚本を引き受けないとなった今、池本は何とかすると言い切った。

 

「忠敬さんは、最初の一歩を踏み出した時、あんな正確な日本地図を作り上げるとは思っていなかったんです。でも忠敬さんは、考え苦悩しながら、やり遂げた。一歩一歩、コツコツと。我々がやろうとしているのは、そういう人物の物語なわけですから、何と言いますか、あの…」


「まずは歩き出し、歩きながら考えていこうということですか、忠敬さんのように」

「そのような所存にございます」

「じゃあ、皆で力を合わせて、『大河への道』を歩いていきましょう」

 

知事がガッツポーズをし、呼応して池本と小林もガッツポーズする。 



その後、池本は再び加藤の家を訪ねた。 



「大河ドラマ『伊能忠敬』、不肖私めが挑戦したいと思います。弟子にしてください」 


ラストシーンである。

 

 

 

5  「奇跡の旅」を受け継ぐ名もなき者たちの物語

 

 

 

想像を超える完成形のエンタメ。 



中井貴一、素晴らしい。

 

コメディの「間」の取り方が絶妙過ぎる。

 

池本と景保の演じ分けも秀逸だった

 

また、殆どアドリブではないかと思わされる松山ケンイチの台詞回し。

 

演技が自然過ぎて、中井貴一との掛け合い漫才は堂に入っていた。 



俳優が皆いい。

 

個々の俳優の良さを引き出す演出力が際立っていた。

 

映画の出来栄えは、私の中では満点に近い。 



ただ気になったのは、エンタメ的には末梢的なことだが、伊能忠敬についての知識を存分に有する池本が、地図を完成させずして忠敬が逝去した事実を知らなかったという一点だけは納得できなかった。

 

池本が香取市総務課に勤務していて、観光課ではなかったということに収まるのだろうが、それなら木下と同様に、「これから勉強します」という設定にすればよかったのではないだろうか。

 

しかし、この映画は、物語総体の面白さ以上の感動譚に仕上がっていて、「伊能は、ここにおりまする」と言って、幕府の第11代将軍・家斉に忠敬の草鞋を差し出すシーンでは、史実ではない創作(注)であると分かっていても、溢れる涙を抑えられなかった。

 

好感含みで言えば、完成形のエンタメなのだ。

 

然るに、このクライマックスシーンは映画の収斂点であり、メッセージではない。 



本作のメッセージは、このクライマックスシーンに至るまでの景保の長広舌にある。

 

そこで、居並ぶ伊能隊の命知らずの勇者に対して、景保は何を語ったか。

 

「何があろうが、後の世のために、これはやり遂げるべき、受け継がれるべき志だと、そう考えていたからではないのか?」

「ここまで来たのだ。堂々とやり切ろうではないか!」 


この景保の言辞は勁烈(けいれつ)だった。

 

測量の継続に慎重だった男が檄を飛ばしたのだ。


それを受け止める伊能隊の面々。 

綿貫


格之進


友蔵


吉之助


トヨ


又吉


エイ



これで決まった。

 

もう、戻ることはない。

 

前に進むだけである。

 

自ら梯子(はしご)を外した伊能隊の命懸けの地図作りが、完成されるその日までノンストップで走り続けていくのだ。 


格之進


また、完成した地図を運ぶ景保の行動に、綿貫らがお供すると言った時、「皆に死罪になるやも知れぬのだ!」と戒めた際には、一言も喋らなかった友蔵が反応したのである。

 

「その時には、冥途への道を皆で測りましょう」 



だから、『大日本沿海輿地全図』の完成という、それ以外にない報酬を得る。 



名もなき者たちの「奇跡の旅」の収束点だった。

 

これは、尊敬する師・伊能忠敬の意思を継いだ、名もなき者たちの「奇跡の旅」の物語だったのである。 



(注)以下、「読売オンライン」の【「映画『大河への道』が描く伊能忠敬と高橋景保…「隠居」と「現役」が地図作りに込めた使命感とは」】という記事からの引用です。

 

【史実ではこの時、江戸城大広間に広げられた地図は第5次測量以降に描いた西日本の地図で、老中ら幕閣しか見ていない。「大図」と呼ばれる基本地図は214枚もあり、日本全国をつなげて並べるには江戸城大広間でも狭すぎたし、家斉は東日本の地図が納められた文化元年(1804年)にすでに地図を見ている。景保が幕府上層部にも忠敬の死を報告せず、将軍から完成の遅れや忠敬の不在を詰問されたというのはフィクションで、精密な地図を完成させた景保の評価はむしろ上がったのではないか】(2022年5月25日)

 

―― 「シーボルト事件」(1828年)に連座した景保について、簡単に言及したい。

 

鎖国下にあって、オランダ商館付のドイツ人医師・シーボルトが、高橋景保から贈られた『大日本沿海輿地全図』の縮図を国外に持ち出そうとして、国外追放された「シーボルト事件」によって、景保は投獄され、獄死するに至った。 

シーボルト(ウィキ)


国禁に触れたからである。

 

景保の子供らも遠島処分を受ける。

 

惨いのは、獄死後も景保の遺体は塩漬けにされたばかりか、改めて引き出され、斬首刑に処せられている。 

上野源空寺にある高橋景保墓(左手前)。奥に高橋至時・伊能忠敬の墓が並んでいる(ウィキ)


ナレーションで、この点に全く触れなかった映画は正解である。

 

【但し、シーボルト事件の時の幕府の将軍が、側用人(そばようにん/将軍の側近の役職)・水野忠成を老中首座に任命し、側近政治を断行したことで「大塩平八郎の乱」(1837年/幕府に対する反乱)が起こり、自らは大奥に入り浸っていて「俗物将軍」と渾名(あだな)され、在職期間50年という、歴代の征夷大将軍の中でも最長記録を有する家斉であった事実も触れないわけにはいかないだろう】 

徳川家斉像(ウィキ)


【大坂町奉行所の元与力の陽明学者・大塩平八郎/「救民」の旗を掲げ、幕府の元役人が幕府の直轄地・大坂で起こした反乱の衝撃は甚大だった。同様の決起を誘発し、各地で一揆や打ちこわしが相次ぐに至った。また、この事件で、朝廷が豊作祈願の祈祷とその費用の捻出を幕府に従わせるに至り、幕府の権威を低下させる一因となる(ウィキ)】

 

【幕府老中首座・水野忠邦/大塩の乱の影響下で幕府の支配力を強化しようと、厳しい倹約・奢侈禁止を命じた「天保の改革」を断行するが大名・旗本、庶民の反感を買い、水野忠邦は失脚し、改革は頓挫する(ウィキ)】





6  人生を無駄にしない男・伊能忠敬の軌跡

 

 

 

『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかいよちぜんず)。 

【「大図」214枚の全景 (レプリカ)。写真右下は屋久島、左奥は北海道と国後島(ウィキ)】


映画より



1800年、55歳の時だった。

 

自らが率いる測量隊を随行し、頬は痩(こ)け、歯は抜け落ち、老いた体で風の日も、雪の日も、日本全国をひたすら歩き続け、17年にも亘る測量の旅を敢行した男の命が江戸・八丁堀の自宅で尽き、男を慕う弟子たちの壮絶な努力によって完成させた、我が日本列島の地図の名称である。

 

歩いた道のり、およそ4万Km。

 

奇(く)しくも、地球一周と同じ距離だった。 

地球一周の距離



この地図こそ、私たちが今日使っている日本地図の基礎となっていることに驚きを禁じ得ない。

 

1821年のことである。

 

図法は、面積関係が正しく表されているだけでなく、全ての緯線上と中央経線上では、長さも正しく表されている「サンソン図法」。 

サンソン図法/外形は膨らんだ紡錘形(円柱形で両端の尖った形)となり、赤道付近と中央子午線(その国の標準時を決める経度を示す腺)付近の形は真形に近く表現されるが、縁辺部では形がひずむ



残念ながら、江戸時代には一般に活用されることはなかったが、この地図は極めて精度が高く、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降、軍事・教育・行政用の基本図の一翼を担ったことは遍(あまね)く知られている。

 

シーボルトが高橋景保を介して得た、この測量図によって外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになったと言われる程だ。

 

見える角度の差と距離から、地球の大きさを計算しようとする壮大な夢を具現化せんとする男の旅は、幕府が求めていた「蝦夷地の正確な地図」を作ることを名目に、測量の旅の許可を得て、猛烈な好奇心を推進力に開かれていくのである。

 

男の驚異的な測量は、測りたい地形などに沿って曲がり角など適当な地点を選び測点を決め、測点には杭を打ち、「梵天」(ぼんてん)という棒(目印)を立て、鉄鎖で直線距離を測量する導線法を使用した。 

梵天(中央)および測量方の旗(右)

鉄鎖

導線法説明

勾配測量の様子

量程車(りょうていしゃ)/この道具を地上に置いて曳いて歩くことにより、量程車の下部についている車が回り、距離を表示する数字のついている歯車が回るという仕組みで、正確な距離が表示される機器】



その間の距離を、一歩一歩、歩いて測っていく。 

富岡八幡宮の伊能忠敬像



そして、方位磁石を細かく使って、正確な方位を導き出す。 

杖先につけた方位磁石盤/伊能忠敬が測量にあたり、最も使用した器具



歩くことができない険しい海岸は、船から海に縄を渡して測量し、緻密な線を描いていくのだ。 

海岸線の測点設置


伊能忠敬が富士山の標高を測った事実も知られている。

伊能忠敬「大日本沿地全図」による富士山付近


象限儀(しょうげんぎ)/坂道の傾きを測る器具




映画は男を慕う弟子たちの果敢な物語だったが、全ては男のポジティブな〈生〉の軌跡をルーツにする。

 

言うまでもなく、この奇跡的人物の名は伊能忠敬。 

伊能忠敬像 千葉県香取市伊能忠敬記念館所蔵



ここに至るまでの忠敬の軌跡を、簡単にフォローしていく。

 

1745年、上総国小関村(現在の千葉県九十九里町小関)で名主の子(幼名は三治郎)として生まれた忠敬は、6歳のとき母を亡くし、祖父母の下に残った。

 

県北東部の横芝光町(よこしばひかりまち)で児童期を過ごし、17歳の時、佐原村(現・香取市佐原)で酒造業や米穀売買業などを営む伊能家に婿入り婚するに至り、伊能家当主となる。 

伊能忠敬旧宅(ウィキ)


伊能忠敬旧宅



この佐原村で、36歳で名主、38歳で名字帯刀(名字を名乗り、刀を腰に差す武士の特権)を許され、村方後見(名主の上座=かみざで、村の全体を監督するトップの役職)に就き、家業を順調に繁盛させていく。

 

佐原村での忠敬の凄さは、繰り返される利根川の大洪水に際し、困窮する農民に対する貧民救済を惜しまず、その現状を調べ上げ、身銭を切って救済したことで、一人の餓死者も出さなかったり、江戸を中心に、1787年に全国各地で起こった「天明の大飢饉」と称される、江戸時代最大級の「天明の打ちこわし」では、役人に頼らず、農民に金を与えて、村内の打ちこわしを未然に防ぎ、困民救済に積極的に取り組んだりした業績に現れている。 

天明飢饉之図(ウィキ)



そして、49歳の時、家督を長男の景敬(かげたか)に譲るが、その際の家訓が知られている。 

家訓書碑(旧宅敷地内)


「身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし」。 

家訓



要するに、如何なる人の意見でも、役に立つことや正しい意見なら守りなさいということ。

 

更に、「篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず」という家訓は、読んで字の如くの内容。

 

人との無意味な争論は、人生を無駄にするということなのだろう。

 

商家当主から引退し、名主としての職務を全うした忠敬が、自らの関心を具現化していったのが50歳の時だった。

 

既に村役人時代から、暦学や天文学を勉強し、旅行の際にも測量や天体観測を行っていた忠敬の夢の実現が叶ったのである。

 

江戸に出て深川黒江町に家を構え、天文学者・高橋至時(よしとき)に弟子入りしたのである。

高橋至時の墓


 

それまで使われていた「宝暦暦」(ほうりゃくれき)は、月の運行のみを基本とする太陰暦であり、時の幕府も、より正確な改暦作業に取り組んでいても人材不足の状態下にあって、 民間で特に高い評価を受けていた高橋至時が、盟友の間重富(はざましげとみ)と共に幕府から出府(江戸に出ること)を命じられ、幕府天文方となっていた。 

間重富の墓



【改暦作業は、「宝暦暦」に代わって、高橋至時と間重富らによって、西洋天文学を取り入れた画期的な暦法「寛政暦」が1842 年の「天保暦」の制定まで使用される】 

寛政暦(ウィキ)



19歳も年下の天文学者に入門した忠敬は熱心に勉学に励みながら、「地球や日本の大きさ」を知ることの重要性を認知していく。

 

正確な暦を作るためだ。

 

自宅に天文台を作って観測を行うほどの熱意は、一貫して変わらない、学問に対する忠敬の態度である。

 

何より、北極と南極を結ぶ天球上の大円(地球が球であること)である子午線の長さが、極付近で最大となり、赤道へ近づくにつれて短くなるという知識を、蘭学を通して得ていたこと。

 

これは大きかった。

 

だから、地球の大きさを知るには、北極星を2地点から観測し、見上げる角度の違いから緯度の差を割り出す。 

北極星の高度は青色の角


伊能忠敬は日本の様々な場所で北極星を観測し、見える角度の差と距離から地球の大きさを計算しようと考えた



2地点の距離が分かりさえすれば、地球の外周の長さが分かる。

 

そう考えた忠敬は、至時のアドバイスを受け、江戸から蝦夷地までの測量の旅に打って出た。

 

当時、帝政ロシアの圧力を受けていた幕府が蝦夷地の正確な地図を求めていたこともあり、蝦夷地の測量の許可を出すに至る。 

蝦夷全図


1800年、伊能忠敬は蝦夷地の実測を現在の函館山を基点として行った。1957年、その記念に山頂に設置された


寛政十二年測量小図(伊能忠敬が最初に測量して作った実測図)



至時は幕府の求めに合わせるように忠敬を推薦したことで、測量の旅が開かれていったのである。

 

第一次測量(蝦夷地)から第十次測量(江戸府内)にわたる旅は、艱難汝(かんなんなんじ)を玉にすると言ったら大袈裟かも知れないが、少なくとも、「地球の大きさを知る」という壮大な思いを抱懐して動いた男のスケールの大きさに感嘆すること頻(しき)りである。

 

人生を無駄にしない男・伊能忠敬の軌跡。

 

「偉人」という名称を嫌うので、「人生を無駄にしない男」の軌跡には学ぶことが多過ぎるというのが、私の率直な感懐である。

 

【因みに、第二次測量(伊豆・東日本東海岸)において、子午線一度の距離を28.2里(約111km)と導き出した。また、伊能忠敬の一歩の歩幅は約69cmで、測量に関わる者は皆、この歩幅になるように訓練されていた】 

銚子測量記念碑/第二次測量・伊豆・東日本東海岸



測量に対する幕府のスタンスについては、以下のWikipediaの記事『大日本沿海輿地全図』で了解されるだろう。

 

【高橋(至時)は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためである】 

千葉県香取市の観福寺にある伊能忠敬の墓(ウィキ)

国の史跡に指定されている、源空寺(台東区)の高橋至時(左奥)と伊能忠敬(手前) の墓(配偶者撮影)

高橋景保の墓(同上)


(2023年1月)

















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