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2022年11月15日火曜日

流浪の月('22)  小さくも、誰よりも清しい愛が生まれゆく 李相日

 



1  「お父さんは、お腹の中に悪いものができて、あっという間に死んじゃった。お母さんは彼氏と暮らしているよ…私、ずっとここにいていい?」

 

 

 

10歳の少女・家内更紗(以下、更紗=さらさ)が、公園のベンチで本を読んでいると、大粒の雨が降ってきた。 

更紗

更紗は、そのまま本を読み続けていたが、そっと傘を差し伸べてきた見知らぬ青年に随伴する。 



更紗は今、ファミレスに勤務し、恋人の中瀬亮(以下、亮)のマンションに同棲している。 

更紗


亮の祖母の具合が悪いというので、田舎に様子を見に行くように促す更紗。

 

更紗も一緒にどうかと誘う亮。

 

「二人ともさ。田舎の人間だから、更紗の過去を知ったら驚くだろうけど、それで結婚は反対しないと思うよ。ちゃんと説明したら許してくれるよ」 


更紗は、日曜日はシフトが入っていて、一緒に行けないと断る。

 

「もしかして、怒ってる?結婚の話」


「ううん。ただ、ちょっと驚いただけ」

「俺は、前から考えてたよ。だから、更紗は何も心配しなくていい」

 

二人はベッドで睦み合う。

 

「ねえ、亮君。私、亮君が思ってるほど、可哀そうな子じゃないと思うよ」



「うん、分かってる」

 

回想。

 

傘を差し伸べてくれた青年の名は、佐伯文(以下、文=ふみ)。 


文の名を聞く更紗


その文のベッドで寝入っていた更紗が起きると、文がじっと見つめていた。

 

「いつもあんなに寝るの?」

「最近、よく眠れなかったから。お父さんとお母さんと住んでる時は普通だった。今は、伯母さんちの厄介者だけどね」


「両親は?」

「お父さんは、お腹の中に悪いものができて、あっという間に死んじゃった。お母さんは彼氏と暮らしているよ…私、ずっとここにいていい?」

「…いいよ」

 

現在。

 

バイト仲間たちと飲みに行った帰り、同僚の佳菜子(かなこ)に誘われ、1階がアンティークショップで2階がバーらしきに店に入ると、そこはコーヒーしか置いておらず、マスターは愛想がなかった。

 

その男の声は明らかに文だったが、文が更紗と気づいたかは判然としない。 



その夜、更紗はうなされる。 



更紗は、再びその店を訪れ、アンティークグラスを見た後、2階のカフェで本を読む。 


文が淹(い)れたコーヒーをじっくり味わう更紗。 



そこに亮から電話が入り、慌てて帰宅する。

 

次の日、更紗は店長から、昨日、亮が電話で更紗のシフトを聞いてきたと知らされる。


本当に彼が恋人なのかと案じているのだ。

 

それでも、更紗は文の店を訪ね、コーヒーを飲み、本を読む。

 

回想。

 

寡黙な文との生活を愉悦する更紗。 



そこにテレビから、更紗が行方不明となっており、事件に巻き込まれた可能性を示唆するニュースが流れる。 


テレビを消す文。

 

「私、帰ろうか?」

「帰りたいなら、いつでも帰っていいよ」

「ここにいたい」 


頷く文。

 

「文、逮捕されちゃうかも。いいの?」

「よくはない。でも、色々なことが明らかになる」


「明らか?」

「皆に、バレるってこと」

「何が、バレるの?」

「死んでも、知られたくないこと」

 

晩ご飯の際に、更紗が伯母の家で、息子のタカヒロに性的虐待を受けていることを告白するのである。

 

「止めてって頼んでも、無駄だから。早くいなくなればいいのにって、それだけ考えてた」 



そこまで回想した更紗に、コーヒーを運ぶ文。

 

突然、亮が店に入って来た。

 

更紗にカフェ巡りの趣味があるとは知らなかったと言うや、本格的なコーヒーマシンを買おうとスマホで調べ始めるのだ。 



「亮君、お店に電話したでしょ。何で、私に直接聞かなかったの?」

「最近、更紗、変だから。心配でさ」

「変って、どこが?」

「急に仕事頑張り出したり、カフェにハマったり」

「それって、変な事なの?」


「変だよ。らしくない」

「亮君は、私の何を知ってるの?」

「更紗、変わったな。前は、そんな口答えしなかったのに」

 

亮が会計をして帰る二人を見つめる文。 



その夜、亮が激しく更紗の体を求めてくるが、拒絶してしまうのだ。 



回想。

 

傘を差し伸べた亮は、更紗に「大丈夫?」と声をかける。

 

「帰らないの?」

「帰りたくない」


「家(うち)、来る?」


「うん。行く」

 

現在。

 

あの時と同じように雨が降る中、傘も差さずに文の店を訪ねると、中から女性が出て来て、二人で傘を差して歩き出した。

 

更紗は二人の後を追い、文に声をかける。

 

「あの!私…」 



振り返った文は、「最近、よく店に来てくれてますよね」と返すのみ。

 

二人はまた歩き出す。

 

「誰?」

「お客さん」

 

更紗は後を付け、二人がマンションに入っていくのを見届けた。

 

「良かった…」と嗚咽交じりで帰り、雲間の月を見上げるのである。 



回想。

 

「ねえ、文、ロリコンって辛い?」

「ロリコンじゃなくても、人生は辛いことだらけだよ」 



湖で二人が補足された時のテレビ映像。

 

「文!」と叫ぶ更紗が、無理やり引き離されていくのだ。 



現在。

 

雨に濡れて亮の元に戻ると、「祖母が倒れた」と震えながら言うや、更紗の腕を強く握り、一緒に行かないと田舎に帰らないと迫るのだ。 



結局、祖母は無事で、農家を営む親族に二人で行き、早々に結婚の話が進んでいく。

 

顔を洗っていると、亮の従妹が声を掛けてきた。

 

「更紗さんの、その(腕の)アザ、亮君でしょ。うちの親も、おじいちゃんも、皆、気づいているよ…何だか、身内、皆で騙してるみたいで嫌だから言うけどさ、亮君、前の彼女の時も、そういう噂があってさ。まあ、更紗さんほどじゃないけど、前の彼女も結構、複雑な家庭で育ったみたいで。なんか、亮君、いつもそういう人、選ぶんだよね。そういう人なら、母親みたいに自分を捨てないって思ってんじゃん」


「そういう人?」

「いざって時に、逃げる場所がない人?大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」

 

笑顔で返す更紗。

 

回想。

 

更紗はベッドで泣いている。

 

「止めて、止めて」 

性的虐待を受けていた時のトラウマが夢の中でフラッシュバックする


目を覚ますと、文が傍に立っていて、安堵する更紗。 



現在。


店の同僚とカラオケに、更紗が遅れて入ると、ネット情報で、誘拐事件の際の更紗の顔写真と共に、当時の犯人の顔写真と喫茶店で働く近況の目撃情報の画像を見せられ、近所にいるからと不安視される始末だった。 



もう、限界だった。

 

文に会いにいくのである。

 

その足で更紗は、文の住んでいる古いマンションへ行き、ドアを叩くが反応がない。 



亮がマンションに戻ると、真っ暗な部屋に更紗がうな垂れている。

 

食事の用意をしていない更紗が、コンビニへ行こうとすると、亮が佐伯の所へ行くのかと問い質す。

 

「何で、あいつなんだよ。しれっと、マスターなんか気取りやがって」

「亮君、文のこと知ってたの?」

「あんな奴が、いつまでも隠れていられる訳ないだろ。そのうち、ネットでバラされるのが落ちだって。更紗、いい加減、目覚ませよ。ちゃんと現実受け入れよう、な?」


「もしかして、亮君?文の写真。亮君が撮ったの?」
 



返事がない更紗が「嘘だよね?」と聞くが、やはり反応がない。

 

更紗は亮を睨み、胸倉を掴んで壁に体を押し付け、泣きながら叫ぶのだ。

 

「どれだけ文が辛い思いしてきたか!亮君!自分のやってること、分かってる?やっとだよ!やっと文が手に入れた幸せなのに。何で?おかしい…」 



ガタガタと小刻みに震える亮は、思い切り、更紗の顔面を殴り倒した。 



「文、文、文って、うるせいな!お前ら、どうなってんだ?あいつは、お前を誘拐した変態のロリコン野郎だろうが!」 



亮は何度も更紗を蹴り飛ばし、拳を振り下ろして、激しく殴り続ける。



「何でだよ!お前も裏切んのか!お前も俺を捨てるんか!」

 

更にクッションで叩きつけ、蹲(うずくま)る更紗。

 

我に返った亮が近寄り、抵抗する更紗を暴力的に犯そうとする。 

「止めて…止めて」


必死に掴んだスタンドで亮を殴り、更紗は家を出て、傷ついた体で裸足のまま街を彷徨するのである。 




回想。

 

文が見守る中、水に浮かぶ更紗は、昼間の月を見る。 


「文、見て!月」



返事はなく、文が見ている方向には、警察とマスコミが迫っていた。

 

「逃げて!早く!」と亮の手を掴み訴える更紗の手を、文はしっかりと握り返す。 



「更紗は、更紗だけのものだ。誰にも、好きにさせちゃいけない」 



二人は引き離され、文は警察に逮捕されるに至る。 



青年と児童が邂逅(かいこう)し、今、束の間のハネムーンが閉じていくのである。

 

 

 

2  「苦しい時は一緒に苦しみたい。文だけが私を好きにできる人だから。ただ、文のためになりたい」

 

 

 

現在。

 

更紗が川沿いの歩道で、俯(うつむ)いて腰をかけていると、文が近づいて来た。

 

「大丈夫?」 



更紗は顔をあげ、微笑みながら答える。

 

「見た目ほどひどくないから」


「店に来る?」

「うん、行く」

 

ここで、文が更紗を特定できていたことが判然とする。

 

店につくと、血に汚れた顔を拭いてあげる文。

 

「忘れたフリ、しないの?」


「俺とは関わらない方がいいと思ってた。なのに、すごい有様で現れるから」


「ごめんなさい。もう帰るね」

 

更紗は立ち上がろうとするが、立ち上がれない。

 

「帰るところ、あるの?ここにいればいいよ」

「文、私のこと、憎んでるでしょ」

「何で、そんなこと…」

「だって、私…私が…」

「更紗…」

「あの時、警察で失敗したの。文は何もしてないって言っても、誰も信じてくれなくて、私がちゃんと言えなかったから。あいつのこと、タカヒロにされたこと(性的虐待のこと)、どうしても言えなかったの」


「そんなこと、言えるはずない」

「今だって、私、文に謝らなきゃいけない。文の写真、ネットに載ってる。このお店のことも」

 

泣きながら話す更紗の頭を撫(な)で続ける文。 


「いつか文に会ったら、土下座しなきゃって。死ねって言われたら、死のうって思ってた。生きてても、どうせ、いいことないし」


「でも、俺は生きてたから、更紗にまた会えた」

 

その言葉で、更紗の涙が止まった。

 

「文、私って、どんな子だった?」

「すごく自由だった。ちょっと引くくらい、伸び伸びしていた」

「文は、昔と全然変わらない。中身はすごく変わったけど。大人の女の人を愛せるようになった」 



更紗は、文のマンションの隣に引っ越した。 



公園でスワンボートに乗る二人。

 

「文の知てる私のままじゃ、生きてこれなかったな。一人で生きていく強さもなかったし。自分を好きになってくれる人と、恋もしてみた。そういう人なら、本当のこと、分かってくれると思って。でもやっぱり、人って、見たいようにしか見てくれないのかもね。それに私、ああいうこと、すごく苦手なの」


「ああいうこと?」

「ほら、恋愛関係になったら、しなくちゃいけないでしょ。どうしても、それが嫌なの。そんなこと、言えないし。ずっと気づかれないようにしてきたけど。どうしたって、伝わっちゃう」


「分かるよ」

「どうして?」

「分かるんだよ」

 

文は、恋人のあゆみが求めてきた際に、反応できなかった時のことを思い出す。

 

まもなく、佳菜子が恋人と2泊3日の沖縄旅行に行く間、更紗が娘の梨花を預かることになった。 

佳菜子と梨花(右)


文も一緒に遊び、梨花も二人にすぐ馴染んだ。

 

更紗が事件後、どうしていたかと文に訊ねる。

 

「実家で何年も監視されてた。少年院を出た後、本当は外で働くつもりだったけど、親に呼び戻されて、家に帰ったら、俺専用の離れが庭に出来てた」

「何で?」

「母親は根っから正しい人だから、許せなかったんだよ。本当は、ただ不安だったのかも知れない。食事だけは作ってくれた。毎日。規則正しく。今は自由だ」 



亮が二人のマンションに来て、郵便ポストを漁っている。

 

そこに、更紗がやって来て、亮に捕捉されてしまう。

 

「佐伯と暮らしてんだろ。戻って来て欲しい。今なら許すから」


「許すって、何を?私は、何を許されなきゃいけないの?」

「お前、あの男に何されたのか、忘れたのか?」

「ねえ、亮君、私は可哀そうな子じゃないよ」


「病気だよ、お前。そんなんじゃ、一生、抜け出せないぞ」

「だとしても、亮君に関係ない」

「ふざけんな!」 


そう叫び、殴りかかろうとして、その手を止め、更紗に無理やりキスをする。

 

冷たい目で見る更紗は、何も反応しない。

 

「俺、諦めないから」

「無理だよ、もう。いつも感謝はしてたよ。私を好きになってくれて。だから私もちゃんと、亮君のこと、好きにならなきゃって思ってた」

「誰が感謝してくれって頼んだよ!」 



再び怒鳴り、壁を叩く亮。

 

「ごめん。私もあなたにひどかったね」

 

亮は涙を溜めたまま、帰って行った。

 

更紗はその場で座り込むと、文の恋人のあゆみが「大丈夫」と案じて近づくが、先日、文に声をかけてきた女性であることに気付く。 



その夜の文と更紗の会話。


「彼女は、俺が佐伯文だってことは知らない。事件のこと、何度も言おうとしたけどダメだった。俺は昔と何も変わらないよ。彼女とは繋がれない」


「じゃあ、文はまだ…」


「彼女のこと、大切にしたいとは思ってる」

 

梨花が熱を出し、更紗が出勤する間、文が看ることになった。 



日程を過ぎても帰らない佳菜子に、更紗は何度も連絡を試みるが返信はない。 



更紗の本棚にあった「エドガー・アラン・ポーの詩集」を手に取る文に、起きてきた梨花が話しかける。

 

「引きこもっている間、何してたの?」

「考えてた。昔離れ離れになった人のこと。毎朝、今、どこにいる?何してる?元気かなって。寝る時も」 



梨花がせがむので、文が詩を読んで聞かせる。

 

 “子供の頃から 僕は他の子たちと違っていた

他の子たちが見るように見なかったし 情熱の湧き出る泉も他の子たちとは違っていた

悲しさだって ほかの子たちと同じ泉からは汲み取れなかった

心を喜ばす歌も 皆と同じ調子のものではなかった 

そして 何を愛するときも いつもたった一人で愛したのだ

だから 子供の頃の僕は 嵐の人生の前の静かな夜明けに佇む 

僕は 善や悪の深い淵からやって来た 

あの神秘に心惹かれたのだ 

そして 今もそうなのだ

今も あの早い流れや泉に あの山の赤い崖に 

僕の周りに巡る金色に輝く秋の日に 

疾風のように空を過ぎるあの稲妻に 

雷の轟や嵐に 

そして雲に 魔力ある怪物となった あの雲に

そうなのだ 

そんな神秘に 心惹かれたのだ” 



【これは、『愛の詩集』の一節】

 

文は更紗と離れで過ごした日々を回想する。

 

湖に入り、水に浮かんで月を見る文の耳に、更紗の呼ぶ声が蘇る。 


「文、見える?月」

 

湖面に浮かびながら、啼泣(ていきゅう)する文。 



「禁断の15年愛!?加害者と被害者の驚愕の現在」と題する二人の写真付きのネットニュースを、本社からやって来た社員が更紗に見せる。 



取材依頼が来ていて、「家内さんの勤め先として、我々の会社の名前が出ることだけは避けたい」と言い放たれる。

 

「時々、今すぐ、あの頃の自分に戻りたいって思う。今すぐ、文の望む姿になって、文がしたいことを全部叶えてあげたい。苦しい時は一緒に苦しみたい。文だけが私を好きにできる人だから。ただ、文のためになりたい」 



ベランダのフェンス越しに、更紗の言葉を聞きながら嗚咽する文。

 

二人の距離が縮まりながら、男の孤独が際立っていた。

 

 

 

3  「いつまでも、俺だけ大人になれない。更紗はちゃんと大人になったのに。俺はハズレだから。こんな病気のせいで、誰にも繋がれない」

 

 

 

マンションのポストに、文の顔写真を載せた多数の中傷ビラが投函されていた。

 

慌てて回収する更紗。

 

文が梨花と店に行くと、「ロリコン野郎、変態」などとペンキで塗りたくられているのだ。 


「ロリコンって、何?」

「大人の女の人を好きになれないことだよ」


「じゃあ、文君のことじゃないね」

「え?」

「だって、更紗ちゃんのこと、好きなんでしょ?」

「そうだね」

 

週刊誌にも掲載され、結局、更紗は店を退職することになる。

 

更紗は、チラシを持って亮を訪ねた。 



「まだ、嫌がらせを続けるの?」


「自分にとって都合の悪いことは、全部嫌がらせなんだな。それは俺じゃないよ。お前と佐伯が一緒にいることを気持ち悪く思う人間なんか、腐るほどいるだろ」

 

相変わらず仕事に行っていない亮。

 

「お前といると、つくづく自分が嫌んなる」


「今まで、ありがとう」
 



その言葉を置き去りにして、去って行く。

 

更紗が出て行くと、亮が玄関のドアを開け、更紗を呼ぶ。

 

亮は自傷行為に振れたのだ。

 

刃物で体を傷つけ、血だらけになっていた。


更紗は救急搬送される亮に寄り添い、手を握るが、「もう、いいから」と言って、亮はそれを払う。 



そんな折、文の店に、あゆみが訪ねて来た。

 

週刊誌を見たというあゆみは、泣きながら訴えるのだ。

 

「吐きそうになった。そんな人を好きになった自分にも、ぞっとした。だって、小さい女の子よ。ミナミ(母方の姓)君は、最初から分かっていたのよね。あたしが受け入れられないこと。だから、言わなかったんでしょ。最初から、私のことなんか信用してなかったんだよね」 



帰り際にあゆみが文に問う。

 

「一つだけ、聞かせて?私と一度もしなかったのは、そのせいなの?ねえ、そうなんでしょ?」


「ああ、そうだね。俺は、小さい女の子が好きなんだ。もしかしたら、大人ともできるかなって、試してみたかった。利用してごめんね」
 



その言葉を受け入れられず、去って行くあゆみ。

 

その後、警察署に出向いた更紗は、亮の件ではなく、更紗が梨花を文に「当てがっている」という週刊誌の記事からの疑いをかけていた。

 

一方的な判断で、文は警察に連行され、梨花は保護される。 



引き裂かれた更紗の時と同じことを繰り返すまいと、梨花の手を握るが、抑えつけられ、無駄だった。

 

「もう止めてくれ!離して!離せー!!」

 

更紗は今、湖の畔に佇み、文と固く握り合った手を見つめ、絶望の淵で湖水に飛び込む情景を想念するのである。




実家に帰った文。

 

「子供の頃、お母さんが庭に植えた木、貧弱で育ちが悪くて、とうとう母さん、ハズレだと言って、引き抜いてしまいましたよね」

「成長が止まるって、何?あなたが異常なのは、産んだ私のせいなの?」

「やっぱり、僕はハズレですか?お母さん、ちゃんと僕を見て」 



結局、何も反応しない母親と決別する文。

 

文の店に来た更紗。

 

「私、どうやって文に償えばいいか…私のせいで、文を傷つけて、文の人生、壊した。けど、それでも、離れたくない自分がいる。我がままで、最低だと分かっていても、どうしようもなく、文と一緒にいたかった。あの時、湖で手を繋いでくれたの、覚えてる?私ね、あの時の感触をずっと頼りに生きてきた」 



蹲(うずくま)って更紗の話を聞いていた文が、帰ろうとする更紗の前で、服を脱ぎ去り、告白する。

 

「いつまでも、俺だけ大人になれない。更紗はちゃんと大人になったのに。俺はハズレだから。こんな病気のせいで、誰にも繋がれない」 



更紗が近づこうとすると、服を投げつける文。

 

彼の悲哀が極まった瞬間である。

 

「更紗が近くにいればいるほど…怖くなった。更紗にだけは、知られたくなかったから」 



なおも近づこうとする更紗に物を投げつけるが、更紗は文を抱き締め、二人で嗚咽する。

 

「更紗に、知って欲しかった」



回想。

 

口の周りに広がるケチャップを拭いてあげる文。 



その唇に魅かれる文。 


「ごめん」 



現在。

 

更紗は、眠りについた文の顔を、愛おしそうに見つめる。 



「俺といたら、どこに行っても…」


「そしたらまた、どこかに流れて行けばいいよ」

 

今、二人は深く寄り添い、時の流れに身を預け、揺蕩(たゆ)っている。 


ラストカット

 

 

4  小さくも、誰よりも清しい愛が生まれゆく

 

 

 

完璧な映画だった。


アート性が高く、圧巻の映像美。



俳優は皆、素晴らしい。


松坂桃李は、ここでも傑出していた。



「怒り」の少女のラストの炸裂の余情が、本篇での難役に結実した広瀬すず。


映画「怒り」より



夢と現実の落差で自縄自縛に陥り、崩れゆく男を演じ切った横浜流星、異彩を放っていた。



そして、更紗の少女役を演じた子役の感情表現力が見事過ぎて、眩(まばゆ)い程だった。



―― 以下、批評。


結論から書いていく。

 

一人のペドフィリア(小児性愛者)の絶対孤独の悲哀。 

実家の離れで監禁されていた文

離れ

実家


これが映画の基本骨格を成している。

 

言うまでもなく、佐伯文その人である。 



「死んでも、知られたくないこと」と吐露し、絶対に知られたくない秘密の故に、絶対孤独の〈生〉を選択する。

 

しかし、社会適応を果たさなければ、見過ぎ世過ぎを繋いでいくことは儘(まま)ならない。

 

だから、全人格的にカモフラージュする。

 

一人の成人として振る舞い、一人の成人として「恋人」を持ち、柔和な関係を構築していく。 



柔和な関係を構築していくことで、身近なる特定他者からの信頼を手に入れ、一時(いっとき)の安全・安寧を担保するのである。

 

社会との関係を結(ゆ)い付けていくのだ。

 

然るに、この非日常の日常の時間を遂行するのは、余りに難儀である。

 

常に、「健常者」という仮想敵から身を守る行為を強いられるが故に、累加された疲弊の極みに押し潰される不安に怯(おび)え、まさに、板子(いたご)一枚は地獄の世界なのだ。

 

防衛的自我がフル稼働せざるを得ない〈生〉とは、一体、何なのか。

 

その疑念を抱いたら、自死に最近接するだろう。

 

デッドライン(超えてはならない線)との心理的距離の恐怖と添い寝する男の絶対孤独。

 

これが物語の骨格に横臥(おうが)するのだ。

 

「類宦官症」(るいかんがんしょう)。

 

男の疾病の正式名称である。

 

幸運にも声変わりを通過しても、1日あたり150〜275x106個の精子を作る精巣(睾丸)という生殖器系の発達不全のために、男性特有の二次性徴が発来しない疾病 ―― それが「類宦官症」である。 

男性生殖器


精巣からの男性ホルモン(テストステロン)の分泌がないことで、「男」になれないのである。 

男性のカラダのしくみと男性ホルモン」より


「もしかしたら、大人ともできるかなって、試してみたかった。利用してごめんね」 



「類宦官症」であると告白できず、こんな残酷な言葉を吐かさせて、別離に至る文の悲哀こそ、絶対孤独の極みだった。

 

恋人ばかりではない。

 

実母からも被弾するペドフィリア。 

「お母さん。僕をちゃんと見て」

無視する母


「成長が止まるって、何?あなたが異常なのは、産んだ私のせいなの?」

 

「背後の一突き」と言う外にない。

 

作り手に、この疾病に対する問題意識がなかったとは思えないが、物語のラストから読み解く映画の艱難(かんなん)さを、断じて心理サスペンスにしてはならなかった。

 

この辺りを誤読すると、一切の批評は破綻するだろう。

 

誤解を招かないために一言するが、ペドフィリア=「類宦官症」ではないということ。

 

大半のペドフィリアには生殖器系が備わっているので、子供に淫らな行為に及ぶ可能性を否定すべき何ものもないが、しかし、その手合いは「チャイルドマレスター」(児童虐待者)と呼ばれ、ペドフィリアと一線を画している。 

      ペドフィリア(小児性愛者)とチャイルドマレスター(児童虐待者)



と言うより、現在、「性の多様性」の中に、ロリコン・ペドフィリアの認知を求める意見も出ている〈状況性〉を知る必要がある。

 

ロリコン=犯罪者というラベリングから、私たちは解放されねばならないのだ。



【この辺りについては、ペドフィリアの思いが切々と紹介され、そのインタビュー記事が掲載されている、「『子供に手は出さない』若い小児性愛者の告白 – BBC『ビクトリア・ダービシャー』」というサイトを参照されたし】

 

―― ここで、文に最近接しながらも、ラストまで分かりようがなかった更紗の苦衷(くちゅう)について考えてみる。 




父に先立たれ、母にも捨てられたばかりか、保護してくれた伯母の家でも性的虐待に被弾してしまう少女にとって、唯一の拠り所が文だった。 



文との出会いがなければ、今の自分はないとまで言う少女が成人になって、吐露する。

 

「文の知ってる私のままじゃ、生きてこれなかったな。一人で生きていく強さもなかったし。自分を好きになってくれる人と、恋もしてみた。そういう人なら、本当のこと、分かってくれると思って。でもやっぱり、人って、見たいようにしか見てくれないのかもね。それに私、ああいうこと(セックス)、すごく苦手なの」 



「見たいようにしか見てくれない」とは、自分にとって都合のよい情報ばかりを集める「確証バイアス」のことで、多くの人間が普通に犯す誤謬である。

 

「ああいうこと、すごく苦手」という彼女の思いが、文と最近接していく言辞と化していくのだ。 



「時々、今すぐ、あの頃の自分に戻りたいって思う。今すぐ、文の望む姿になって、文がしたいことを全部叶えてあげたい。苦しい時は一緒に苦しみたい。文だけが私を好きにできる人だから。ただ、文のためになりたい」 



更紗は、文との距離をここまで縮めていくのである。 



文に吐露した更紗のこのような思いが、彼女の失われた15年間を支えてきたことが判然とする。 



文と過ごした2か月間が、彼女の人格総体を支え切っていたのである。

 

それは、水のイメージが少女のコンフォート(心地良さ)となり、至福の時間が凝縮されていたということ。 



このことは、作り手の以下の言葉で了解できるだろう。

 

「文がいる場所のそばにはいつも水があり、水の中は2人が安心できる場所というイメージで、物語に水を介在させています」(李相日監督インタビューより) 

李相日監督



そして、全てが明かされるラストシークエンス。

 

物を投げつけられた更紗が、文を抱き締め、二人で嗚咽するのだ。 



もう、二人の関係を封じ込める何もない。

 

自分の〈性〉の在りようを認知し、受容してくれる対象人格に、生まれて初めて出会ったのである。

 

愛が生まれたのだ。

 

小さくも、誰よりも清(すが)しい愛が生まれゆくのである。 



まさに、ハーピーエンドの映画だった。

 

―― 亮についても言及する。

 

「逃げる場所がない人」という身内の言辞に凝縮されるように、亮の場合、「見捨てられ不安」が根柢にある。 



裏切られることを異常に怖れるのは、亮の自我の底層に「見捨てられ不安」が澱のように粘着しているからである。

 

「お前も俺を捨てるんか!」 


だから、こういう言辞に結ばれる。

 

更紗の不倫を疑い、文の行動を徹底的に調べ尽くし、挙句の果てに、動画を拡散させるのだ。 



仕事もせずに家族からも見捨てられた負荷が加わり、感情のコントロールが不全化した果てに、緊張⇒暴力⇒ハネムーンというDVの構造をトレースしていく。 



そんな男が自傷行為に振れる行為に打って出た。 



周囲の関心を引くために、同情を求めて病気を装ったりする「ミュンヒハウゼン症候群」という疾病があるが、亮の場合、症状が悪化すれば自傷行為に振れたりする、この疾病の発現とも考えられる。 

ミュンヒハウゼン症候群/悪化すれば自傷行為がエスカレートして、最悪の場合は命に関わるような事態にも発展する


境界性パーソナリティ障害(ボーダーライン)。 

境界性パーソナリティ障害


これが亮の疾病ではないだろうか。

 

個人の心の問題を整理し、サポートしていく個人精神療法や、グループでのスキルトレーニング、複数の専門家が援助のあり方について話し合っていくコンサルテーションと言った「弁証法的行動療法」が有効な治療とされるが、無自覚な亮のメタ認知の向上こそが求められる所以である。

 

 

 

5  インターネット社会の闇

 

 

 

映画を通底するのは、匿名性を盾にして、愈々(いよいよ)深刻化するインターネット社会の闇。

インターネット社会の闇

 


度を越えるネット誹謗中傷に被弾しても、明治40年に法定刑になった刑法の侮辱罪によってしか対応できなかったので、1年の公訴時効を有し、せいぜい書類送検が関の山だった。

 

一切は「言論の自由」という名で罷(まか)り通ってきたネット社会の闇に対して、侮辱罪の法定刑は、「1年以下の懲役もしくは金庫もしくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料である」(2022年7月7日施行)という罰則規定を設けるに至った。 

侮辱罪の厳罰化


批判もあるが、侮辱罪の厳罰化は当然のこと。

 

起点になったのは、女子プロレスラーの木村花さんの自殺。 

木村花さん(ウィキ)


韓国では、キーボードで誹謗中傷コメントを書き込み、複数の芸能人の自殺に追い遣ったことで「指殺人」と呼ばれている。

 

何とも厄介な現象である。

 

なぜ、こんな厄介な現象が暴れ捲っているのか。

 

精神科医ゆうきゆうに代表されるように、多くの精神科医が「誹謗中傷は依存症である」という警告の発信が重要なのは、脳科学的な根拠を提示しているからである。 

精神科医ゆうきゆう


「特定他者への攻撃」によって得られるメリットは、ストレス解消と優越意識。

 

特定他者と言っても、誰でもいいのだ。

 

社会のルールから外れた者というラベリングを貼り、極めて分かりやすい攻撃対象を発見し、嘲弄(ちょうろう)するのだ。

 

この嘲弄が快感を生む。

 

即ち、脳内から神経伝達物質ドーパミンが放出されるので、極上の快感を得られるのである。 

依存症はドーパミンを放出する


そして、その快感が忘れられずに誹謗中傷が病みつきになる。

 

誹謗中傷のリピーターになるのは必至である。

 

リピーターになれば快感のハードルが高まっていく。

 

快感のハードルが高まるということは、快感の自己膨張と同義。

 

かくて、この病的なエスカレーションを止められず、依存症の罠に嵌ってしまうのである。

 

この依存症の罠こそが曲者なのだ。

 

ストレス解消という行為の連鎖が、却ってストレスフルの状態に搦(から)め捕られてしまうからである。

 

自尊心の不足と、自分を客観的に見る能力である「メタ認知」の欠落。 

メタ認知


件(くだん)の者に見られるので、それを改善することがテーマになるが、言うは易く行うは難しというところだろう。

 

ただ、この手合いに絡まれたら、無視せずに、訴訟を起こすなどして、毅然とした態度を崩さず、闘うこと。


闘い切る覚悟を貫くことである。

 

それ以外にないと、私は考えている。

 

無視してストレスを累加させることと、対峙して自尊心を保持するという二択のいずれかを選ぶことである。

 

無視した分量だけ、自尊心を擦り減らしていくことを選択するか否か。

 

それが問われている。

 

(2022年11月)
























































































































































































































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