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2023年7月5日水曜日

ひろしま('53)   怒りを力に変え、その惨状を描き切った唯一無二の幻の名画  関川秀雄

 


1  「僕は原爆の恐ろしさと、あの非人道的なことを世界の人に叫ぶ前に、まず日本人に分かってもらいたいんです」

 

 

 

「1945年8月6日朝、2時45分3機のB29は、テニアンの基地を出発した。指揮官ティベック(ティベッツ)大佐搭乗のエノラ・ゲイ号の爆弾倉(爆弾の収納スペース)には、人類の頭上に初めて炸裂する原子爆弾が重々しく吊るされ、それには、日本の天皇に対するあらゆる種類の罵り言葉が書き記されてあった。基地を後にして全員はそれぞれの行動を開始した。ティベック大佐は操縦者としてのいつもの仕事を熱心にやっていた…4時20分、バンカーク大尉から5時25分、硫黄島到着の予定を言ってきた。やがて東の空が赤く燃え、太陽が昇り始めた。暗い海は生き生きと煌(きら)めき、その壮大にして、しかも崇高な光景は、彼の魂を打った。彼は戦争の中にいることさえ忘れて、しばし、その人間らしい感激に浸った。だが、彼はふと、数時間後の広島市民の運命を思い浮かべ、愕然となった。今の彼の使命は、広島市民の運命に繋がっていた。飛行機の胴体がしっかり抱いているものは、世界の人々が想像もできない爆弾、原子爆弾なのである。この世紀の爆弾の威力は、爆心より1キロ以内では、一人の人間の生存も許されないであろう。更に強烈な放射能による生物の損傷は測り知れないものがある。恐らく広島市街は一瞬にして屍の街と化すであろう。彼はそう考えた時、極度の虚無感に飲み尽くされてしまった。彼はその中で、何者かに縋り付きたいほどの悲哀を覚えた。彼はふと、故郷の母の顔を思い浮かべた。彼の考えは、まもなく彼の行おうとしている使命に戻った。前方の白雲の向こうに敵・日本がある。今から数時間以内に、広島は地図の上から抹殺されるであろう。その広島の誰もが、この運命に気づかないであろう。まさに死のうとしている哀れな奴らに、誰が憐れみと同情を感じよう。いや、真珠湾とバターンの死の行進を考えるならば、なんの同情も起こるはずはない。7時40分、我々は最後の高度に上り始める。さあ、人々よ、もう長くはない。日本までわずか25マイル。刻々目標に迫っている。人々よ、もう間もない。我々が…」

 

高校の英語教諭・担任の北川の教室でラジオ放送で流される、『ゼロの暁』の朗読である。 

北川の教室


【ポール・ティベッツ大佐は、原爆投下部隊である「第509混成部隊」(作戦部隊)の部隊長で、B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長。テニアン島での原爆投下演習を実行していた。また、バンカーク大尉はエノラ・ゲイ号乗組員の最後の生存者として知られ、任務は航空機の針路を測定し、パイロットに助言をする航法士だった。更に「バターン(の)死の行進」とは、日本軍の捕虜となった米兵・フィリピン兵を100キロ余り行進させ、多くの死者を出した戦争犯罪で、本間雅晴中将らが責任を取らされ、マニラ軍事裁判において処刑された】 

エノラ・ゲイ機長ポール・ティベッツ大佐(ウィキ)

原爆投下終了後に、テニアン島に帰投したエノラ・ゲイ(ウィキ)

左からバンカーク大尉とティベッツ(ウィキ)

「バターン死の行進」で死亡したアメリカ・フィリピン兵捕虜(ウィキ)


『ゼロの暁』の朗読を耳にし、苦しそうに聴いていた女生徒・大庭みち子が「止めて!」と立ち上がり、机に突っ伏してしまう。 

大庭みち子


北川が放送を止め、みち子の鼻血を抑える。 

北川


病院に運ばれたみち子は、寄り添う父に向って、「死にたくない」と訴える。 


みち子は白血病だった。

 

【『ゼロの暁』とは米国のジャーナリスト、ウィリアム・ローレンスの著書のことで、『0の暁 原子爆弾の発明・製造・決戦の記録』として創元社から出版されていた】 




北川の英語の授業中に、生徒たちが回していた『僕らはごめんだ—東西ドイツの青年からの手紙』という本を女生徒が落としてしまい、それに気づいた北川は拾ってタイトルを確認するが、そのまま授業を続けた。 


みち子のベッドの周りに集まった生徒らの一人、河野が『僕らはごめんだ』の一節を読んで聞かせる。

 

「…僕は、そして殆ど大多数のドイツの知識人たちは、こう思っているのです。『広島と長崎では結局のところ、20何万かの非武装の、しかも何らの罪もない日本人があっさりと新兵器のモルモット実験に使われてしまったのだ』と。そして、つまりそれは日本人が有色人種だからということに他ならないのです。白色人種に属する僕が、こんなことを言うと、君が不快な感情を抱くかもしれませんが、寧ろ、僕自身が白色人種に属しているからこそ、この問題のこういう点が君たちよりも、もっと本能的、直感的にはっきりと理解できるのです…」 

河野(中央)


それを病室に入って来た北川が聞き入り、教室で原爆について取り上げることになった。

 

北川は原爆を受けた生徒たちに挙手させると、3分の1が手を挙げた。 


 

北川に指名された通院中の女生徒が、記憶力の低下や傷が膿(う)んだり、目も体も疲れやすくなて、特に夏は起きていられないくらいだと発言すると、「夏は誰だってだるい」と男子生徒が揶揄すると、教室に笑い声が広がる。


堪らず、「何が可笑しいんだ!」と立ち上がった河野は、女子生徒の症状は原爆を受けた者がみな苦しんでいることだと反駁する。

 

「口では言わないが、いつ原爆症に命を取られるかと思って、毎日ビクビクして生きてるんだ。そんなことを言えば、君たちはすぐ、原爆を鼻にかけてるとか、原爆に甘えてるとか言って笑うんだ!」 


河野の訴えを受けて、北川は告白する。

 

「白状するなら…大庭があんなことになるまで、原爆がこれほど根深くみんなの体に食い込んでるとは知らなかったんだ。原爆症のことは噂には聞いていた。しかし、そんな人はアメリカのABCCが治療してくれていると思ってたんだ。ところがそのABCCが診察だけで治療はしていないということも2.3日前に知った程度なんだ。広島に来て、原爆のことを勉強しなかったってことは、全く僕自身の怠慢で、その点、諸君にはすまないと思ってる」

「それは、先生だけではありません。広島市民の大部分の人は知らないんです。今、新聞なんか、原爆と平和問題を結び付けて、盛んに世界の人に呼びかけています。僕は原爆の恐ろしさと、あの非人道的なことを世界の人に叫ぶ前に、まず日本人に分かってもらいたいんです。いえ、それよりも、広島の人たちに知ってもらいたい。もっとはっきり言えば、ここにいるこのクラスの人たちに、先生によく知ってもらいたいんです」 



河野のこの力強い発言を受け、北川は白血病のメカニズムと怖さについて学ぶ授業を行った。

 

生徒たちからは、現在、有効な治療法がないことや、原爆を受けた人たちの生活の窮状や偏見についても意見が出て、また原爆で家族を失い、キャバレーで働いて学校に来なくなったクラスメートの遠藤幸夫(ゆきお)を心配したり、広島の街でも「軍艦マーチ」が流れ、再び原爆戦争が始まるのではないかと不安視する生徒など、様々な声が上がる。 

遠藤幸夫

「軍艦マーチ」のメロディから、病室のみち子の回想が開かれて、以下、あの日起きたことが切々と描かれていく。 



【『僕らはごめんだ—東西ドイツの青年からの手紙』は、東西ドイツの青年たちの手紙を集成した著書で、光文社から出版されていた。また、ABCC(原爆傷害調査委員会)とは、原爆による傷害の実態の調査が目的の民間組織で、被爆者の治療にあたることはなかった。因みに、「日本人が有色人種だから」という台詞に象徴される複数の箇所は、アメリカに配慮した配給元の松竹がクレームをつけたが製作側が譲らず、最終的に自主上映になったという経緯がある】

ABCC/1955年頃(ウィキ)

 

 

 

2  地獄の惨状の只中を掻き分ける男の、息子探しの必死の旅

 

 

 

学校では、本土決戦に備えて、生徒たちが疎開作業に勤しんでいた。 



その朝、みち子の家では朝食前に空襲警報が鳴り、みち子は、母・みねと姉・町子、弟・明男と共に、防空壕へ避難する。 

母・大庭みね

お腹が空いたと言うみち子に、「辛抱するんですよ…今日は眠れないかも知れないよ」とみね。 

みち子

「今日は眠れないかも知れないよ」/弟の明男(下)


翌朝7時31分に警報が解除され、明男を連れて疎開作業へと向かう町子たちをみち子が見送る。


原爆投下前に、投下目標都市の一つだったので広島には空襲が殆どなかった。だから市民は安心し、外に出て活発に行動していた。投下目標都市には、捕虜収容所が存在しない京都などと同様に、原爆の効果を知るために空襲を回避していた。1945年5月に、投下目標は京都、広島、新潟だったが、6月に、投下目標地から京都を除き、小倉、広島、新潟を目標に設定。そして7月26日に、広島、小倉、新潟、長崎に投下命令。7月31日に、広島を最優先目標に決定する。

但し、長崎には「福岡俘虜(ふりょ)収容所第14分所」(長崎市幸町)が存在し、英国やオランダなど200人が収容されていて、8人が犠牲になった。2021年5月に追悼記念碑が完成されたばかりである 】 

模擬原爆が投下された18都府県と数


瓦礫を片付ける作業中の女学校教師の米原が、「Bよ」と上空を見上げると、生徒たちも、まだ警報が出ていないにも拘らず、確かに「B」だと同じく空を見上げる。 

米原

その時、激しい閃光と爆風が起こり、巨大なキノコ雲が空を支配し、辺りは闇に包まれた。 


原爆投下の瞬間だった。

 

倒壊した建物から、町子が辺りを見回し、「お母ちゃん」と呟く。 

町子

「お母ちゃん…先生…」と力なく声を上げる、被爆して横たわる生徒たち。 


米原も呆然と空を見上げ立ち尽くす。 



激しく崩壊した家々の中から、瓦から這い出したみねが、子供たちの名前を叫ぶ。 



死体が累々と横たわる街を歩き、息絶えた息子を確認するみね。

 

みち子も瓦礫から這い出て、母の名を叫ぶ。

 

倒壊した家の下敷きになった妻・よし子を助け出そうと、遠藤秀雄が柱を避けようと力の限りを尽くすが助けられず、外に助けを求めに行くが、家は炎に包まれる。 

遠藤よし子

遠藤秀雄

「許してくれ!!」

「子供たちを頼みます!」と最期の声を振り絞る妻の声。

 

学校の教室では、倒壊した校舎の柱に挟まれた教師や多くの生徒たちが、脱出できずにもがいている。 



息子の一郎を探し回る遠藤。 



町は赤ん坊が泣き叫び、被爆した人々が幽霊のように歩き連なり、次々に斃れていく地獄絵図が其処彼処(そこかしこ)に広がっていた。 



米原が生徒たちを誘導し、元安川へと向かう。 


川の中では、一中の生徒たちが教師の呼びかけで、校歌を歌って気力を振り絞る。

 

米原と生徒たちも川に入って行き、肩を寄せ合い「君が代」を歌いながら、次々と川に沈み流されていくのだ。 



【太田川は広島県の西部を流域とする一級河川。原爆の熱線で全身火傷の被爆者が、口々に「熱い熱い」と言いながら川に飛び込んでいくが、命を落とすことになった。元安川(もとやすがわ)は原爆ドーム傍を流れる太田川水系の分流】

 

被爆者たちの群れが、洞窟の防空壕へ向かう。

 

被爆者がひしめく中、明男の亡骸を抱いたみねにみち子が寄り添っている。 


「おばさん、そんなになった子供抱いてたってしょうがないよ。早く焼いてもらうんだ。まだ戦争は済んだんじゃないよ」 


隣に座る男に声をかけられたみねは、黙って虚空を見つめる。 



そこに、遠藤が一郎の名を叫び、探しに入って来たが反応はなく、すぐ出て行き、街の子供の遺骸を見て回わっていると、急に激しい雨が降ってきた。 



埠頭では救助を求め船に乗ろうとする人々が群がる。

 

その中に、みねとみち子もいた。

 

隣に座る目を瞑ったままの少女が、自分の弁当を差し出す。 


「おばさんの子供、ここにいるの?」

「おりますよ」

「これ、あげて。学校へ行く時、持って出たの」

「あなた、自分で食べないの?」

「私…もうダメ。おばさんの子供にあげて」

 

そう言って、倒れ込んだ少女を起こすみね。

 

「おばさん、私の名前言うから、もし、私のお母さんに会ったら言ってね…」 


そう言い残して、少女は息を引き取った。

 

看護を受け、無数の被爆者の中で、やっと柱にもたれ、座っているみねを見つめるみち子。 



全身の皮膚が焼かれた幼い少年が、「寒いよう…寒いよう」と叫び、隣の男に「うるせぇ、黙ってろ!泣いたってどうにもならねぇんだ」と怒鳴られると、今度は、「お母ちゃん…お母ちゃん」と言いながらどこかへ歩いて行った。 



狂ったように奇声を上げる少年が、衛生兵に殴り倒されて絶命し、弟が縋りつくのだ。

 

次々に人が死に、苦しむ姿に恐怖して、みち子が「お母ちゃん」としがみつくと、みねはそのまま倒れ込み、息絶えてしまった。 



産まれたばかりの赤ん坊が泣く声。

 

「ああ、地獄だ!地獄だ!」と男が呟く。 



翌朝、こんな状況下でも軍人は、配給を受け取りに来た市民をメガホンで鼓舞する。

 

「速やかに各職場に復帰せよ!戦争は一日も休止することはない!」 


軍人の鼓舞に誰も耳を傾ける者がいない中、遠藤は遂に一郎の名が刻まれた収容先の学校に辿り着き、大声でその名を呼ぶ。 


一郎の友人がそれに気づくが、一郎は既に事切(ことき)れていた。 


「一郎…間に合わなかった…色々お世話になりましたな。一中も大変でした。わしがこれを探しに行った時は校舎の下敷きになったまま、もうみんな白いお骨になっていましてな。プールは生徒の死骸でいっぱいで…じゃ、頑張りなさいよ」 


そう言って、一郎の友人を優しく励ました遠藤は一郎を背負い、学校を後にする。 


地獄の惨状の只中を掻き分ける男の、息子探しの必死の旅が閉じていくのだ。

 

 

 

3  「昨日のソ連の参戦も、米国の原子爆弾も、何ら恐るるものではなく」

 

 

 

神社では軍幹部たちが集まり、今後の対策について話し合っている。

 

「従って、速やかに被害の現況を把握して、まず民心の安定を図り、逐次、市民生活の復興を図る」と司令官。


「現在推定しうる人的被害は、被災者20万、死者1万、重傷者10万余でありまして…」


「司令官閣下のお言葉にありました通り、民心の安定は先決必須のことと考えられます。従いまして、民心の安定のためには、流言飛語の取り締まりを厳にし、ことに新型爆弾に対しては、防空壕の価値の大なることを強調し、新型爆弾に対しても、何等か手があるという信念を抱かしめ、この際、一層の敵愾心(てきがいしん)を取り起さしめる必要があると考えられます」

 

そして、軍幹部の会議に、仁科博士と共に、大阪帝大の科学者・浅川が出席していた。

 

広島・長崎に落とされた爆弾が、原子爆弾か否かについての調査報告のためである。

 

地上の放射能を測定し、負傷者の白血球の数を測定した結果、彼も仁科博士の意見同様、原子爆弾であると認定した。 


しかし、「原子爆弾だという発表はまずい」という武官の発言に対し、仁科が反論する。

 

「トルーマンが、アメリカは広島に原子爆弾を投下したと世界中に発表してるんです」

仁科博士(中央)と浅川


「アメリカの一科学者は、原子爆弾が炸裂した地上には、75年間生物は生存し得ないだろうということを、発表しておるとのことです」と浅川。

「そりゃぁ、敵の謀略だ。いや、事実そうだとしても、トルーマン声明は、まだ国民に知られておらない」 


別の武官。

 

「私は原子爆弾だとの発表には、絶対反対です。今の戦争の段階において、そのことを国民に知らさしむることは、戦争遂行上、絶対に不利であります」

「不利であるか有利であるかは、軍部においてご判断を願うしか致し方ないんでありますが、アメリカは昨日も長崎にこの種の爆弾を投下しておりますし、更にこれからも投下するのを公表しているのであります。でありますから、我々の考えを率直に申し上げますれば、アメリカに原子爆弾が発明された以上、戦争継続には深甚なる考慮を要すると考えているのであります」と仁科。


「先生のご意見は、学者としてのお考えで、我々にもその限りでは了解できるのであります。しかし、学者と言えども日本臣民であり、陛下の赤子であるのであります。従いまして、皇国の隆替(りゅうたい)を賭けた今時(こんじ)の戦争においては、何人(なんぴと)たりとも戦争に不利なる言動は断じて許されないのでありまして、一億国民は生命は勿論、すべてを陛下に捧げ、皇運を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)るのであります。これが日本民族の信条であり、軍の信念であります。昨日のソ連の参戦も、米国の原子爆弾も、何ら恐るるものではなく…」
 



終始、頭を抱えていた仁科と浅川は下を向き、返す言葉を失っていた。 



こんな威勢のいい軍部の言辞も空しく、結局、日本はポツダム宣言を受託し、8月15日に無条件降伏するに至る。


【「現代物理学の父」と言われる仁科芳雄は理化学研究所(理研)に在籍して、大日本帝国陸軍の要請で日本の原子爆弾開発(「ニ号研究」)に携わるが、その研究も基礎段階のレベルを超えていなかった。且つ、肝心の原料ウランの調達も難しく、加えて理研がB29の標的にされていて、研究員の疎開を余儀なくされていた。また、東京大空襲で熱拡散筒(濃縮ウランを得る分離法)が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となり、仁科芳雄は原爆開発が既に不可能と考えていた。かくて、1945年7月の段階で研究は打ち切らざるを得なかった。更に海軍もまた、「F号研究」に取り組んでいたことが知られている】 

仁科芳雄(ウィキ)

 【ウラン235・プルトニウム239のような「核分裂性物質」が、原子核(原子には原子核と電子で構成)を構成する粒子・中性子を吸収して、核分裂を連鎖反応させることで膨大なエネルギーが放出され、爆風・熱放射・放射線などの作用を破壊に用いる兵器 ―― これが核兵器である】 

核分裂反応の仕組み




4  平和公園へ集まる広島市民の人々の歩みが、大きなうねりとなっていく  

 

 

 

疎開していた遠藤の死んだ一郎の弟・幸夫と妹・洋子が自宅へ戻り、破壊された瓦礫の中から家族のご飯茶碗を探し出したものの、行く当てもなく広島の街を彷徨う。 

遠藤幸夫と洋子


救護所では、日本が無条件降伏し、騙されたと怒り、先行きの不安を訴える被爆患者たちを前に、医師が冷静に、力強く答えていく。

 

「広島の土には原子爆弾の放射能が確かにあります。しかしそれは、ごく僅か、人間に害を与えるほどじゃありません。念のために病院では、庭に大根のタネを蒔いてみました。その芽が出て、大根が育てば、その心配はないわけです。もうしばらく待ってください」 


それ以降、被爆者たちは庭の様子が気になって、窓から覗いている。

 

岡崎看護婦が水をやり、やがて一人の男が「芽が出た!」と喜びの声をあげ、皆、一斉に庭に集まって来た。 



その看護婦も医者にかかり、体がだるく、髪の毛が抜けるようになったと話すと、すぐに喀血が始まった。 



この救護所にはすっかり弱って横たわる遠藤もいて、「子供たちの夢を見た」と付添婦に話す。 



幸夫と洋子が再び家に戻ったところを、その付添婦が見つけ、二人は母と兄がピカで死んだと知らされる。

 

父が待つ病院に連れられて来た幸夫と洋子だったが、遠藤はちょうど喀血したところで、付添婦が子供たちが来たと声をかけても反応がなかった。

 

幸夫が「お父さん」と呼びかけるが、口から血を流し、既に息絶えていた。 


洋子も声をかけるように促されるが、変わり果てた父の姿に、「お父ちゃんじゃない!」と怖がり、走って病院を出て行った洋子は、その後も消息不明のままとなってしまう。 



天涯孤独となった幸夫は浮浪児の仲間を集め、占領軍に物乞いをするために「ハングリー」という言葉を覚えさせ、たくましく生き抜いていた。 


その後、養護施設に収容され成長した幸夫は叔父に引き取られていくが、これまでの間に、施設の子たちは脱走を繰り返し、幸夫も洋子を探しに7度脱走したと施設長が話す。

 

高校生になっていた幸夫は、学校へは行かずパチンコ通いをして、夜はキャバレーで働いていた。

 

近所の片足を引き摺る被爆した恵子を心配する幸夫が、「お嫁さんにしてやるから」と言うと、恵子は顔色を変え、踵(きびす)を返して去って行ってしまった。 

幸夫と恵子

後日、恵子は幸夫を呼び出し、真剣に自分の気持ちを話す。

 

「私、こんな体でしょ?だから結婚のことなんか考えられないの。でも、時々、ふっと結婚のことを考えてたりして、あとで泣いたりするの。ねえ幸夫さん、分かる?私もやっぱり女なの、娘なのよ。バカだと思うでしょうけど。だから、たとえ冗談でも、冗談に決まってるけど、あんなこと言われたりすると、私、本当に悲しくなるの。忘れよう、忘れようとしていること思い出してしまうのよ。ね、幸夫さん、もう二度とあんな残酷なことは言わないで。これ私だけじゃないのよ。私たち、ピカでこんな体になった娘たちは、誰もが同じことなの…」


「僕が悪かったよ。謝るよ」
 

幸夫の手元のパチンコ玉を見た恵子は、「そんな玉が、また鉄砲の玉になるんじゃないのかしら」と不安を口にする。

 

そう言われ、幸夫はパチンコ玉を川に投げ捨てた。

 

一方、みち子が亡くなり、遺影の横には『僕らはごめんだ』の本が添えられている。 



北川とクラスメートが弔問に訪れ、その帰り道で、幸夫がキャバレーを辞め、叔父の勤めている工場で働いていると河野が北川に報告し、喜び合う。 



工場で働く幸夫は、仕事が終わってやって来た平和公園で、観光客に原爆で焼け焦げた瓦を売りつけ相手にされない浮浪児たちに声をかけ、もっといいピカドン土産があると話を持ちかける。 


「原爆瓦」を観光客に売る浮浪児



【「原爆瓦」(被爆瓦)とは原爆の熱線で表面が溶けた瓦のことで、元安川河床に多く埋まっていた。1981年、広島市の高校生たちは、世代を繋ぐために瓦の発掘と記念碑建設に尽力した】

「原爆瓦」(被爆瓦)


夜中に少年らを船に乗せ、アメリカ人に売ろうと、宮島の防空壕の中で被爆して死んだ骸骨を取りに行ったのだった。 



警察に捕まった幸夫は、宮島の土産店で買ったと嘘をつくが、すぐに宮島の防空壕から持ち出したと正直に話す。 


頭蓋骨に貼った紙に、英語で書かれた意味を警官に聞かれ、幸夫が答える。

 

「人類の歴史上、最初にして、かつ最大なる栄光、この頭上に輝く。1945年8月6日」 


警察に呼ばれた北川に、「どうしたんだ」と案じられた幸夫は、工場も辞めたと話す。

 

「工場が、この間、急に今までの仕事止めて、大砲の弾(たま)を作り始めたんです。僕は、そんなものは作りたくなかったんです…僕は工場を止めて、またパチンコばかりしていました。家に帰ると叔父さんに叱られるから、友達のところをゴロゴロしてたんです。先生。僕は『殺人狂時代』という映画を観ました。その戦争で沢山殺した者が英雄になるのに、他の人殺しは死刑になるって言ってるんです。僕は驚きました。本当だと思いました。先生、戦争はまた始まるんですか?戦争が始まれば、今度は僕たちが戦地に引っ張り出されます。そして、何の恨みもない人間同士で殺し合いをさせられるんです。また、なんの罪もない人たちが原爆で、みんなこの通りになるんです」 


そう答えた幸夫は、机に並んだ髑髏(どくろ)を指差すのだ。 



そして迎えた、8月6日の慰霊の日。

 

平和の鐘が鳴り響く中、次々に平和公園へ集まる広島市民の人々の歩みが、大きなうねりとなっていく。 


最後には、原爆で命を落としていった死者たちを慰霊する、平和を希求する力強い行進の姿があった。

 

 

 

4  怒りを力に変え、その惨状を描き切った唯一無二の幻の名画

 

 

 

各国で物議を醸しながら多くの賞を受賞し、今でも評価が高い世界初の原爆映画『原爆の子』を監督した新藤兼人の脚本に対して、不満を募らせた多くの広島市民の批判のコアにあったのは、「これでも、まだまだ物足りない」というもの。 

「原爆の子」より(ウィキ)


要するに、前年まであったGHQの検閲による削除と、文部省特選映画だった「反核映画の第1号」の作品には、「当時の地獄絵図」の深刻さと生々しさが描かれていないということ。

 

この一点に尽きた。

 

かくて、原爆の真実の姿を伝えるべき強固な問題意識を有し、アメリカへの過剰な配慮で全国配給元として交渉していた松竹が政府の圧力で上映を拒否し、その協力を受けられない状況下にあって、4500万の製作費のうち日教組が2500万、総評が450万を引き受け、広島市民の全面的協力の下で制作されたのが本篇である。 

日教組公式サイト


だから、凄い映画になった。

 

被爆の惨状をここまで描いた原爆映画は、後にも先にもこの作品のみである。 



2、30万の人々が一挙に死ぬとはどういうことかを、目の前に繰り広げ、その惨状の実相を描き切った唯一無二の幻の名画。

 

皮膚が溶け、ラインを成して地獄が広がる世界の阿鼻叫喚。

 

もう、絶句する。

 

これが「ひろしま」だった。

 

プロの俳優に交じって、演技経験のない児童・市民らの演技の拙さや、日教組のプロパガンダ性がさして気にならないほど、ここで提示された映像の力強さは類例がない。

 

また、冒頭のシークエンスで高校生の一人(河野)が訴えていたように、わずか7年しか経っていないのに、広島市民ばかりか、原爆症の生徒が三分の一もいるのに被爆の惨状に沈黙している現状に異議を唱える描写には、作り手のメッセージが読み取れるが、この現実は私たち日本人に共通する感情傾向への物言いでもあった。 



当の日本人すら知らないのに、まして、世界の人々が水爆の二百五十分の一の原爆のもたらす惨害の威力すら実感できないのは当然のことである。

 

だからこそ思う。

 

この「ひろしま」の上映運動を国内外で積極的に始め、広めていくべきであることを。

 

動き、広めていくことで、人々は驚きをもって受け止め、感じ入るだろう。

 

核を使ったら世界から孤立し、復元できないほどの制裁を受け、終わりになることを。

 

映画「ひろしま」は、このことを知らしめる効果が最も期待し得る無双の作品だった。

 

―― ここで、信州大学卒業後、関川秀雄監督の誘いで本作の助監督になった若き熊井啓の手記、「映画『ひろしま』ロケ記」の一文を紹介してみる。 

熊井啓監督/1966年(ウィキ)

関川秀雄監督(ウィキ)


それによると、宇品港の空き地にオープンセットが建てられ、電車の走行シーンなどを撮影が行われ、原爆投下シーンは大芝公園にオープンセットが組まれて撮影されたという。 

元宇品地区 〔中央〕 と宇品海岸 〔奥〕(ウィキ)

ところが、嵐に三度襲われて、その度に真夜中にスタッフが出動し、それを防ぎ切ったと記されているのだ。

 

更に困難を極めたのは、「川のほとり」と「川の中」の撮影。

 

何としても、8月6日の「原爆記念日」までに撮り切るために不眠不休の強行撮影が行われ、早朝から日の沈むギリギリまで屋外撮影を実行するという徹夜作業の日々だった。

 

中でも、関川監督は子供たちが川の中に沈み込み、死んでいくシーンの演技ができないので、自ら川に飛び込み沈んで見せて、ワンカットずつ撮っていったそうだ。

 

映画製作には、広島大学理学部が原爆炸裂の技術面を指導し、出場人員はのべ8万人と伝えられている。 

広島大学旧理学部1号館


まさに、ギリギリの製作費で、広島市民総動員の覚悟で臨んだ映画製作の苦闘が手に取るように伝わってくるロケ記である。

 

―― 本稿の最後に、兵庫県出身の大正・昭和期の女流詩人・深尾須磨子が映画に寄せた一文(「『“ひろしま”』の今日的意義」)を紹介したい。 

深尾須磨子

「ああ、一九四五年八月六日午前八時このときから、世界人類のすべては喪に服しているわけであり、人類の心は永遠にケロイドが捺(お)されている。この究極の真理を、私どもは原爆最初の受洗者として、強く主張し、それによって一切の惨禍の源泉である戦争、特に、戦力として絶対的に原爆、水爆を含む今後の戦争を、未然に防ぐ義務と権利を完全に遂行しなければなりません。それによってのみ、日本民族は世界人類の共同責任に生きるといえましょう。

映画“原爆の子”にさえ、あれだけの感動を覚えた立場から、それに勝る大規模な、また現実的な“ひろしま”は、おそらく見る目に辛く、忍びがたいものがあると察しられますが、単に感動したり、恐れたり、涙したりするだけでなく、鋭い理性の目をとおして、それの拠って来る原因結果を、徹底的に認識し、それを人類的に役立てたいと願ってやみません」

 

「日本民族は世界人類の共同責任に生きる」というコア・メッセージを、「人道的アプローチ」として、如何に「かたち」にしていくか。

 

これのみが問われているのだろう。 


【もし良ければ、拙稿・時代の風景「『核兵器のない世界』の具現化は、どこまで可能なのか」を参考にしてください】

 

(2023年7月)

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