田中武志 |
田中光子 |
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「愚行録」の相関図 |
1 女を弄び、腹を抱えて笑う二人の男
我が子(千尋=ちひろ)をネグレクトした罪で、警察に拘留されている妹・光子に、弁護士を随伴して面会する兄・田中武志(以下、武志)。
武志(右)と橘弁護士 |
「あの子、元々食が細いんだよ。普通の家庭がどうしているか、分かんないけどさ。ちょっと育て方が下手だからって、警察の人もひどいよね」
光子 |
この光子の物言いに、弁護士の橘が制止する。
「あたし、秘密って、大好きだから」
そう言って、武志を見つめる光子。
警察署を出た二人
「保護されたとき、千尋ちゃんの体重は、一歳児並みだったそうです。今もまだ、意識が戻っていません。回復したとしても、脳に重い障害が残るだろうって、主治医の先生が…どちらにしても起訴の可能性が高いでしょうね」
橘は光子の精神鑑定を想定しているようだった。
「光子さんの感じ、ちょっと変ですよね。責任を感じていないっていうか、他人事みたいな。彼女…例えば、子供の頃、千尋ちゃんと同じような経験をしていたりとか?」
無言の武志。
雑誌記者の武志は、1年前に惹起し、迷宮入りしていた「田向家の一家惨殺事件」(以下、「事件」)の取材を申し込み、渋々、デスクに許可される。
デスク |
「何でもいいから、何かやってないと、気持ちが持たないだろう」
デスクの醒(さ)めた反応である。
早速、現場となった空家を訪れる武志。
通りがかりの女が、近所の人たちは、皆、引っ越したと話すばかりの殺伐たる空気感。
武志は被害者・田向浩樹(たこうひろき/以下、田向)の大学時代の友人であり、同期入社の渡辺に、会社帰りに会って話を聞く。
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渡辺(右) |
新入社員の歓迎会の飲み会で、田向は隣席だった山本礼子と、その日のうちに関係を持つ。
しかし、田向は酔った気分だったことを渡辺に吐露する。
田向 |
だから、バーで田向からドタキャンされた山本と、偶然出会った渡辺もまた、彼女と関係を持つが、彼の場合、最初からは遊びに過ぎなかった。
「既成事実を作ったところで、仕上げですわ」
2.3回会ったところで、田向と付き合っていたことを持ち出し、山本を責めたてる渡辺。
謝る山本に対し、冷たく言い放つ。
「ごめん、正直、顔見るのもきついんねん」
渡辺と山本(右) |
山本を振った渡辺は、田向と居酒屋で最初は深刻そうに話していたが、堪(こら)え切れずに、腹を抱えて笑い出す二人の男。
「でも、山本さん、エロかったわぁ」と渡辺。
女を弄び、腹を抱えて笑う二人の男。
こんな連中なのである。
渡辺の話が終わり、店を出た武志は、その山本は既婚し、子供もいるらしいと聞かされる。
別れ際に、渡辺は号泣し、振り絞るように語った。
「なんで、あんなええ奴が殺されな、あかんのですかね」
橋の欄干で泣き続ける渡辺の傍で、佇(たたず)むだけの武志だった。
2 気位が高い女たちのコンフリクトの収束点
精神鑑定を受ける光子。
精神科医の杉田に子供の頃、母親に食事も作ってもらえず、兄がいなかったら生きてなかったかも知れないと話す光子。
「お兄ちゃんって、どんな人だったの?」
「人生やり直せるなら、生まれた時からやり直したいけど、お兄ちゃんだけはそのままがいい。私、生まれ変わっても、お兄ちゃんの妹でいたい」
杉田(右) |
武志が次に向かったのは宮村順子(以下、宮村)。
「事件」の被害者である田向の妻・旧姓・夏原友希恵(以下、夏原)の、文応大学時代の友人である。
以下、宮村の話。
文応の女子には、下から上がって来た「内部生」(ないぶせい)と「外部生」の学内カーストがあり、「外部生」は「内部生」の仲間に入ることを「昇格」と呼んでいた。
宮村 |
「私たちのクラスで、真っ先に昇格したのが夏原さんでした。華やかさでは、『内部生』に全然負けてませんでしたね」
夏原 |
夏原の取り巻きは立ち所に増え、「外部生」の拠り所になっていたと言う。
夏原(左から3人目) |
「なんか、聞いてると、ちょっとした救世主みたいな」
「そんな風に聞こえました?そこがズルいというか、怖いところなんですよ。夏原さん、結局、誰も救わないんです。取り巻きに対して、自分の真似は許すけれど、自分と同列になることは認めないんです」
「宮村さん、相当、夏原さんのこと、嫌いだったんですね」
「あ、いえ、嫌ってるとか、そういうことではなくて…ああ、でもまあ、あの世界知らない人にどう言っても伝わらないか…」
「すいません」
その夏原の方から、宮村に近づいて来たと話すのだ。
学生時代の宮村 |
海外暮らしで、英語が堪能である宮村に興味を持った夏原から食事に誘われ、店に行くと、共にバイトをする恋人の尾形がいたので、驚きを隠せなかった。
学生時代の尾形 |
尾形と宮村 |
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尾形と夏原 |
帰路、二人になった際に、宮村は、夏原に対する尾形の態度に嫉妬し、怒りを禁じ得ない情態が露呈される。
宮村の話を聞いた武志は、今度は、その尾形に会いに行く。
「嫉妬しまくってたし、張り合う気満々でしたよ」
尾形の物言いである。
しかし、夏原は全然違っていたと言う。
「女って、基本、自分の話をしたがるじゃないですか。その点、夏原さんは、こっちの話を聞いてくれるんですよね。で、場の空気をちゃんと読んで、必要以上に目立たないし。でも、あれだけ美人なんで、目立っちゃうんですけどね」
斯(か)くして、尾形は宮村から夏原に乗り換えていくという月並みのエピソードに落着する。
以下、武志が聞いた宮村の話。
「夏原さんが、わざとバレるように仕向けたんじゃないかって、思うんです」
「それは、どういう意味で?」
「夏原さんは、あたしに憧れてるみたいなこと言いましたよね。だからなんじゃないかなって、思うんです」
今度は、尾形の話。
「それ、全く逆です。むしろ、淳子が夏原さんになりたかったんじゃないのかな…淳子には、俺から電話で伝えました。もう、ほんと大変でしたけど、まあ、おかげで罪悪感もすっとんだし、結果的には良かったですよ」
人は皆、自分の都合のいいように過去を想起する。
主観が暴走するのだ。
自我を守る無意識の戦略として誰でも駆使する、ごく普通の現象である。
心理学では、これを「記憶の再構成的想起」と言う。
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記憶は望まない記憶を消去して再構成される |
ともあれ、尾形に振られた宮村はバイト先に乗り込んで、思い切り尾形を突き飛ばし、叩くという、ごく普通のオチになる。
「別れたいって、どういうことよ!あの女でしょ!」
それから、パーティーに集合している夏原の元に行き、頬を叩く。
但し、瞬時に、夏原は宮原を叩き返す。
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夏原(右)と宮村 |
プライドの防衛的反応だが、自らを憧憬するだろう女子たちの前で、弱みを露呈するわけにはいかなかった。
不意をつかれたのは宮原だった。
宮原は、夏原を囲繞する自己基準のカーストから、そそくさと逃げだすしかなかったという、これも往々にして見られるオチである。
気位が高い女たちのコンフリクト(確執)の収束点だった。
3 「その人、気づいちゃったんでしょうね。自分はただの入れ物に過ぎなかったんだって」
武志が夜、事務所にいると、「事件」の記事を読んだという女性から電話が入った。
「本当の田向さん、あんな人じゃないです…あたし、田向さんを殺した人、知ってます」
早速、武志が会いに行ったのは、田向の大学時代の恋人・稲村恵美(以下、稲村)。
稲村 |
「日本はね、格差社会じゃなくて、階級社会なんですよ。田向さんは、あの頃、もう肌で感じ取ってました」(注)
稲村は田向と同じ山岳部で、一旦別れたが、田向から呼び出され、稲村の父親が社長を務める商社への就職のコネを求めてきた。
コネを求める田向 |
驚く稲村 |
それに応じる代わりに、ヨリを戻すことになったが、田向は稲村の父の会社には入らず、別の会社に内定していた。
ピンときた稲村は、会社のコネを提供した他の女がいることを言い当てる。
かくて稲村は、その社長令嬢である女子学生・垣内を直撃し、恋人となることで、相手を利用する田向の野心について話しているスポットに、田向本人がやって来た。
稲村と垣内(右) |
「就職って、大学卒業して、初めて社会に出るときって、その出方って、今後の人生を左右する大事な岐路なんだよね。そのときに、やりたいことやらないで、どうするの?あとになって後悔する?俺、絶対やだよ、そういうの。俺は、いい生活を送りたい。そして、そのときに隣にいる人を、どんなことがあっても幸せにしたい。そして、その人の間に生まれてくる子供がいたら、全力で守りたい。絶対に苦労させたくない。だから、そのためにできる努力だったら、何だってする」
「じゃあ、あたしたちって、何?」と稲村。
「うーん、どっちかが将来、隣にいてくれる人になってかも知れないね。もし、今日のことがなかったら」
その話を聞いた女子学生は、笑み含みながら、その場を去って行った。
「あれ?俺、なんか変なこと言った?」
田向という男の一面が露わにされた言辞である。
以下、武志に吐露する稲村の言葉。
「結局は皆、愚かだったんでしょうけど、田向さんの愚かさは、何と言うか、賢さでもあったと思うんです」
ところが、田向は二人の女たちのコネの会社には入らず、実力で今の会社に就職したと言うのだ。
そして、肝心要の「事件」の犯人の名を聞く武志。
「その人、気づいちゃったんでしょうね。自分はただの入れ物に過ぎなかったんだって。その隙間(すきま)を自分だけが埋められないって分かって。壊れちゃったんでしょうね。その人だけじゃないのに。皆、愚かで空っぽなのに」
「壊れちゃったんでしょうね。その人だけじゃないのに。皆、愚かで空っぽなのに」 |
意味深な言葉だが、それ以上の言及はなかった。
ミステリーの要素を残し、物語は転じていく。
(注)王室を頂点に、イートン・カレッジ、ハロウスクールなどという男子全寮制のパブリックスクール⇒オックスブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学)という、超名門の出世コースが厳然と存在する上流階級⇒中流階級⇒労働者階級に大別される英国が典型的な「階級社会」であるのに対して、「学歴フィルター」が存在しつつも、それを嫌う風土が根強く残る日本は、マルクス主義的な「階級社会」というよりも、「地位の非一貫性」や平等志向の強さにおいて、未だ「階級社会」に届かない、中央集権の行財政システムを背景とする「格差社会」という把握が真相に近いのではないか。
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イートン・カレッジ |
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オックスフォード大学 |
4 光子の過去の一端が明らかにされていく ―― 告白する兄妹
武志は橘弁護士に呼ばれ、家族のことについて尋ねられたのは、そのその直後だった。
橘弁護士に、子供の頃のDVについて聞かれる武志。
「世の中、平等にできてるなんて、一度も思ったことありませんけど、誰だって、希望くらい持ったっていいじゃないですか。その希望さえも打ち砕く、悪魔みたいな生き物が、この世にはいるんです」
ここから、映像は兄妹の話を交叉させながら、観る者に提示していく。
杉田に告白する光子。
「うちのお母さん、16でお兄ちゃん産んでるんだよ。子供が子供を産んだようなもんでしょ…実際、父さんとも行きずりでやっちゃったみたいで、それでお兄ちゃん、できたんだし。あたしが思うに、お母さん、お兄ちゃん産んだだけで懲りてたんだと思う。それなのに、私までできちゃったんだよ。計画性ゼロ」
武志と橘。
「妹と親父の間に、そういうことがあるなんて。そっちの想像の方が追い付かなくて」
「確信したのはいつ?」
「俺が 高校にあがって、すぐです」
光子と杉田。
「小学3年生かな。最初は酔っぱらったノリでさ、光子って、じゃれあいの延長みたいで、とても嬉しかったんだけど、それがどんどん。急に私のお腹に顔埋めてさ、襟元に両手入れて、思い切り開いたの。パチパチって。人間、目が座ると、瞬(まばた)きすらしないんだね、動いてる人間なのに、作り物にしか見えないの」
「家族の人たちは、そのことに気づいてくれなかったの?」
「お兄ちゃんは、初めから知ってたと思う。怖くて言えなかったんじゃない?何かって言うと、殴られてたから。でもね、高校の時にね。お兄ちゃん、とうとうやり返してさ」
武志。
「夜中、妹の部屋の方から、泣き声が聞こえてきて、あんな声聞いたの、初めてで。頭、真っ白になって、気づいたら妹のベッドの上で親父に馬乗りになってて」
光子と杉田。
「お父さん、ボッコボコ。フフフ」
「お母さんは、そのこと、いつ頃知ったのかな?」
「次の日、お父さん、一人で出て行ったあと。泣いて説明したら、誘惑したあんたが悪いって、私をぶった。でも、出ていくときのお父さん、一晩でお爺ちゃんみたいになっちゃって、それはそれで、ちょっと可哀そうだったかな」
橘と武志。
「田中さん、千尋ちゃんのお父さんは、御存じ?」
「いいえ」
「光子さん、一人で千尋ちゃんを産んでますよね」
「あいつ、僕にも言ったことないんです。それだけは、どうしても言いたくないって」
一転し、今度は、精神鑑定の部屋で独白する光子が、そこにいる。
「行くなら絶対文応って決めてたの。だって、やっぱり名門って感じするじゃん。そうしたら、この最低な生活から這い上がれるじゃないかって…頑張ったよ。ここが人生の分かれ道だって分かっていたから。あとで後悔するの絶対イヤだったし、将来幸せになるまでに、今できることは、何だってやんなきゃって。自分に言い聞かせてた。でも、行ってみてびっくり。あたしみたいに大学から入った女は、そういうチャンスがないの。何でだと思う?家柄なんだよ。ここまで来て、まだ両親が邪魔するのかって思った。でもね、よく見ると、普通の家庭でも美人でお嬢様、あたし、本当に憧れたな。生まれ変わったら、夏原さんみたいになりたいって。今でも思ってる」
「文応」入学時の光子 |
夏原との出会い |
夏原に利用され続けていた光子の過去の一端が、ここで明らかにされる。
誘惑される光子 |
男と関係を持った朝の風景 |
5 異界に踏み入れた者の異形の情景
武志に、宮村から電話が入った。
「思い出したんです。夏原さんに人生壊された人」
宮村を訪ね、話を聞く武志。
「田中光子さんの不幸は、美人だったことです…『内部生全員』に取り次いだのが夏原さんなんです。『内部生』は彼女を絶対に選ばない。そのことも分かったうえで」
「絶対に選ばない」
「田中さん、片親なんですよ。家柄も普通だし。そういう人と。『内部生』が一緒になるっていうのは、まあ、あり得ませんから。でも、彼女も彼女で、ちょっと節操がなさすぎるって言うか。野心が強すぎるって言うか。ま、それを夏原さんが利用したんですね。で、卒業する頃には、誰にも相手にされなくなって、見なくなりましたけど。ああは、なりたくないなって、思いましたよ。なんか最近彼女、幼児虐待で捕まったらしいんですよね…あたしが、田中光子さんだったら、殺しに行ってるかも」
話を聞く武志 |
そこまで話した宮村は、ドリンクを入れるために席を立った。
武志はアイアンの植木鉢を手に宮村に近づき、頭を一撃する。
更に、倒れた宮村の頭に何度も鉢を振り下ろし、殺害するに至るのだ。
そして、アッシュトレイ(灰皿)に、尾形(宮村の元彼)のタバコの吸い殻を入れる武志。
殆ど確信犯の凶行だった。
次に映像が提示したのは、千尋の死。
ここで、光子の独白が開かれる。
「あたし、ずっと赤ちゃんが欲しかったんだ。私のことを1番に思ってくれる男の人と、その人に似た赤ちゃんを産んで、家族3人で幸せに暮らすの。そんなの誰でも叶えてる夢じゃない。でもね。あの子、笑ってくれないの。抱きしめたいのに、体が動かないの。どうして、こうなっちゃうんだろ。そんな時にね、街で偶然、夏原さん見かけたの」
光子が娘と買い物をして出てくる夏原に微笑みかけると、夏原は光子を無視して、通り過ぎていく。
通り過ぎていく夏原 |
置き去りにされる光子 |
光子は夏原の住む家を、遠くから眺めている。
「あたしはもう、夏原さんにはなれない、はっきり、そう言われた気がした。ずっと頑張って、ずっと我慢して、自分の中でいっぱいいっぱいになっていたものが、プツって切れたの。ああ、もうダメか、もうダメなんだなぁ。チャイム鳴らそうと思ったけど、裏口回ったらドアが開いていて、ちょうどよかった。包丁もすぐ見つかったし…だから、刺したでしょ。ちゃんと、5回、6回、肋骨のガキンって感触。心臓まで包丁届いて、いっぱい血が出てびっくりしたね。それから2階に上がって、夏原さん、子供と一緒に寝るところで、血まみれの女見て、腰抜かしちゃったみたい。だから、簡単だった…お腹までスルッと入って、庇(かば)っている娘まで届いて」
夏原の家族を眺める光子 |
刺殺された田向 |
「事件」で浴びた血痕をシャワーで洗い流す光子 |
「自分の中でいっぱいいっぱいになっていたものが、プツって切れたの」 |
「旦那さん、格好よかったなぁ。そりゃそうよ。夏原さんが結婚する人だよ」 |
ここまで独白した光子の部屋に、杉田医師が入室し、尋ねた。
「誰と話してたの?」
杉田は、千尋が今朝、息を引き取ったことを告げる。
光子は笑い、窓に向かって立ち、「あ~ぁ」と溜息(ためいき)を洩らした。
それだけだったが、それはまるで、非日常の極北・異界に踏み入れた者の、異形の情景を彷彿(ほうふつ)させるに充分だった。
6 「お兄ちゃんだけだよ、あたしの味方。大好きなのはお兄ちゃんだけ」
橘弁護士は、光子と武志の実の母親の家を訪ねた。
現在、再婚した夫と息子の3人で暮らしている。
「今となっては、どうしようもないじゃないですか。前を向いて行かなくちゃ。あの子たちみたいな失敗を繰り返したくないの。今の幸せを壊したくない。それだけなんです」
「だから、妊娠した光子さんが来た時、拒んだんですか?」
「光子が来た時、ちょうど、息子は学校で夫は仕事で、私一人だったんです。誰にも知られずに、内緒で産めるところを知らないかって聞くんです。とにかく、健康で産まれてきてさえくれればいいって、そのことだけをあの子、気にしてました。たとえ、どんな巡り合わせで、産まれてくる子だとしてもね」
「でも、実の父親に、その無理やりされたできた子供でも、そんな風に思えるものでしょうか」
「何か…勘違いしてません?」
「はい?」
「そうですか。知らなかったんですか」
「じゃあ、千尋ちゃんの父親って…」
会話がここで閉じるが、武志と光子のインセストが明らかにされたのである。
武志の2度目の接見。
「誰にも言えない秘密。お兄ちゃんと私の二人だけの秘密があるのって、すごく嬉しいな。あたし、秘密って大好き」
「千尋のことは、俺がちゃんとしておくから」
「でもね、あたし、あの子に手を上げたこと一回もなかったよ。お兄ちゃんがお父さんに殴られているとこ、何回も見てたから、それだけはしちゃいけないと思ってた」
「うん」
「ありがとうね、お兄ちゃん。お兄ちゃんだけだよ、あたしの味方。大好きなのはお兄ちゃんだけ。だから、ごめんね」
これで、破壊的DVを受け続け、世を恨むことで、辛うじて呼吸を繋いできた兄妹の関係の悲哀が括られていく。
帰路、バスの中で妊婦に席を譲る武志が映し出される。
欺瞞性に対する憤怒が切り取られたオープニングシーンと切れ、言語化し得ないほどの、複合的に絡み合っている人間の感情の情態が提示されたのである。
7 状況に馴致することによってしか呼吸を繋げなかった女の悲哀 ―― その異形の情景
「昇格」という蜜を武器に、夏原経由の、「外部生」のパーティーでの光子に対する「輪姦的行為」を描く、この映画の「仕掛けられた3度の衝撃」(公式ホーム)の解読は容易である。
インセスト(兄妹姦)の関係にあった武志と光子が、この冥闇(めいあん)なる情報を秘密裡に共有し、この消し難い記憶と、それを惹起させた破壊的DVのルーツの故に、精気が全く拾えない〈生〉を繋ぐ武志の日常と化しているから、殺人事件の加害者に変貌しても、そのハードルはあまりに低かった。
大人社会の醜悪さ・偽善性を「敵」にしているという意味において、兄妹の意識構造には懸隔(けんかく)がない。
「その希望さえも打ち砕く、悪魔みたいな生き物が、この世にはいるんです」
この武志の言葉が、兄妹の意識構造の芯になっているのだ。
【千尋を喪った事実を知らされて立ち竦む武志のカットは、全てを喪った者の究極の絶望感を表現していて、あまりに痛々しい】
千尋の死を知らせる橘弁護士 |
いつまでも立ち竦む武志 |
ネグレクトによって警察に拘留されている光子を、半年間、交叉しなかった武志が接見したのは、警察経由で光子の事件を知ったからである。
武志が、雑誌ネタにもならず、迷宮入りしていた一年前の「事件」の取材に拘泥(こうでい)したのは、光子の拘留と無縁ではない。
ここで、改めて勘考する。
ではなぜ、武志は、社内でベタ扱いに過ぎない「事件」の取材に拘泥したのか。
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なぜ、武志は「事件」の拘泥したのか |
その答えは、ほぼ確信的に言える。
武志は、迷宮入りしていたはずの「事件」の犯人が光子ではないかと、相当程度の確率で疑っていたこと ―― それ以外に考えられない。
なぜなら、光子が文応に入学した事実を知っているが故に、「事件」との関与を否定できなくなったからである。
だから、雑誌記者という、さして見映えのしない看板を担いで、取材に踏み込んでいく武志。
女遊びを笑い転げて餌にするような、田向とのエピソードを吐き出すだけの渡辺の話の次は、物語で最も重要な情報を提示したのは、カフェのオーナー・宮村だった。
「あたしが、田中光子さんだったら、殺しに行ってるかも」
この宮村の言辞が全てだった。
同情含みながらも、光子を愚弄(ぐろう)する物言いに対する憤怒の炸裂というよりも、「事件」の主犯を知られたことへの殺意が、瞬時に身体化したのである。
尾形のタバコの吸い殻を入れる武志の行為は、彼が「確信犯」であることの証左である。
タバコの吸い殻を入れるカット |
宮村殺害後の武志の「愚行」 |
「田中」という平凡な姓が、武志を救うことになるが、それは武志も承知の上。
それ故、この犯罪を捜査する警察が武志をスルーするとは、到底、考えられず、映画でも、宮村の交友関係が調べられているという新聞記事があったので、尾形経由の捜査の進展の中で武志が特定されるだろうから、早晩、拘束されるだろう。
―― ここで、物語の肝である「事件」に言及したい。
「あたしはもう、夏原さんにはなれない、はっきり、そう言われた気がした」
この光子の絶望的言辞が、映画を貫流している。
千尋の死を知らされた時も、そうだった。
光子は笑い、窓に向かって立ち、溜息を洩らすが、この心理は、ここでもまた、思うようにならない自分の運命を呪うことさえ諦念(ていねん)せざるを得ない現実を突きつけられ、その絶望的な不運を託(かこ)って嘆息したのである。
破壊的DVを被弾し続けた自我の歪みが、「悪魔みたいな生き物」に対する憎悪に膨張し、自らを足蹴(あしげ)にした「理不尽な階層社会」に復讐の刃(やいば)を向けるのだ。
思うに、「愚かさ」が蝟集(いしゅう)する登場人物の、その「愚かさ」は、その仮面を剥(は)げば、大抵、ごく普通の範疇の「愚かさ」である。
拙稿「奇人たちの晩餐会」・「真実の行方」の批評でも言及したが、私たち人間の「愚かさ」は、「程ほどに愚かなる者」であるか、殆ど「丸ごと愚かなる者」であるか、そして稀に、その「愚かさ」が僅かなために「目立たない程度に愚かなる者」であるか、極端に言えば、この三つしかないと、私は考えている。
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「奇人たちの晩餐会」より |
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「真実の行方」より |
ここでの「目立たない程度に愚かなる者」は、前二者の観察力の不足に救われているに過ぎないのである。
その意味で、夏原の目立ったカースト死守の不埒(ふらち)な行為も、夫になる田向の自己基準炸裂の言動と同様に、「スーフリ」の犯罪をトレースしない限り、単に「過剰な上昇志向の愚行」というカテゴリーに収斂されるだろう。
田中光子を誘う夏原 |
中央に光子がいる |
だから、犯罪に振れていく兄妹の性向を、「愚かさ」というカテゴリーに収斂させるのは決して謬見(びゅうけん)ではない。
然るに、彼らは「愚か」な人間であっても、私たちは、兄妹が心身余すところなく破壊された挙句、その深くて重い裂傷のため、アポステリオリに「自我の歪み」を引き摺り、ぎりぎりに〈生〉を繋いできた〈現在性〉について遣り過ごすことなどできようがない。
宮村殺害後の武志の無力感
何より、視座を反転すれば、父親の破壊的DVにルーツを持つ「自我の歪み」に起因する、「パーソナリティ障害=人格障害」という心の病気の被害者でもある。
鮮烈なオープニングシーンの武志の行為は、彼の「自我の歪み」の象徴であると言える。
「席を譲りなさい」と言われ、睨む武志 |
障害者の振りをして、席を譲り、車内で転倒するカットがインサートされる |
障害者の振りをして、バスが遠のくまで歩く武志 |
光子自身もそれを求め、受容したとは言え、「外部生」(外部進学組)の光子を「内部生」(内部進学組)の下半身処理に利用した夏原にも、極めて悪質な「自我の歪み」が見え隠れするが、しかし、その「自我の歪み」は、「パーソナリティ障害」ではなく、優先者の行動原理による支配欲のごく普通の愚行という風に把握できる。
「内部生」の下半身処理に利用され、それを受容した光子 |
以下、夏原に利用され尽くした光子を這う男たちの手。
実際問題、自らの価値の認知を求める「外部生」の、その「承認欲求」を掬い取っていく「内部生」との間に存在する、ヒエラルキー(学内カースト)が存在するのは事実。
富裕層なだけの「内部生」が、圧倒的に偏差値が高い非富裕層の「外部生」を支配するのである。
興味深いが、「純粋培養」の「内部生」が、「よそ者」の「外部生」を支配するという構図は、他者との関係性に必要以上に拘る、如何にも〈時代状況性〉の所産であるだろう。
【例えば、慶応義塾大学では、医学部(どこの大学でも同じで、ヒエラルキーの頂点)⇔看護医療学部などという、各学部内のヒエラルキーがあることは知られている】
かくて、「外部生」の夏原が、向こう意気の強い宮村を従属させようとして頓挫するカットがあっても、ヒエラルキーが守られるのだ。
因みに、夏原に対する宮村の行為は「投影」である。
自らの欠損感覚を認知せずに他者に転嫁するという、これもごく普通の自我防衛戦略である。
本質的に言えば、自分が相手に依存しているにも拘らず、相手が自分に依存していると思うこと(「理想化」と「被害妄想」が共存)によって、自我を防衛するのだ。
「でもあたし、夏原さんが嫌いではなかったですよ。なんて言うか、あそこまで女を出してくるって、やっぱり、すごいと思いません?だから、何か、ああいう死に方って、夏原さんらしいなって、思ったんですよ…あたしが言いたいのは、夏原さんなら、どこでどんな恨み買っていても、おかしくないってことです」
武志に語った宮村の言葉である。
そして、このヒエラルキーの最大の被害者が光子だった。
夏原と再会し、笑みを贈るが無視されてしまうく光子 |
「事件」のモチーフは、自分が叶えられないものを見せつけられたからである。
通り過ぎていく夏原を見る光子 |
夏原の家族 |
ここでも、「自我の歪み」が突発的な感情の変化を誘発し、アンガーマネジメント(怒りの抑制)の困難な性向が炸裂してしまうのだ。
この性向は、兄妹に共通して見られるものである。
兄妹のケースは遺伝的要因ではなく、明らかに、父親の破壊的DVが作り出した「自我の歪み」というネガティブな産物である。
それでも、何とか社会適応してきた武志は、最強の敵であった父親を殴り倒したことで、一定程度、解き放たれていくが、恐らく、母子間の安定的なアタッチメント(愛着)が欠け、父から性的虐待を受け続けたことに起因する「性化行動」(年齢不相応な不適切な性的逸脱行動)が、兄妹のインセストに関与すると思われる。
「お兄ちゃんだけだよ、あたしの味方」
この光子の言辞は、あまりに重い。
父親の性的虐待を被弾し続けて、普通サイズの自我形成など遠く及ばず、圧倒的に不健全な状況に馴致(じゅんち)していくしかなかった。
状況に馴致した娘を、あろうことか、母親から侮蔑され、実質的に縁を切られてしまううのだ。
状況に馴致することによってしか呼吸を繋げなかった光子の悲哀を理解できない限り、この映画は誤読され続けるだろう。
武志が光子を守り、庇うことで、父親の性的虐待の防波堤になった。
留置されている光子の細い手が、目の前にいる兄に向って這っている |
兄妹のインセストは、単に、この理不尽な行程の延長上にあったに過ぎない。
作り手のメッセージとは切れているかも知れないが、「パーソナリティ障害=人格障害」・状況への馴致に因る「性化行動」(これが兄妹のインセストの観念的障壁を希薄化)というキーワードを抑えておかなければ、単に「愚行者たちの愚行の集合」の「暗い映画」という解釈で処理されてしまうだろう。
この辺りの悲哀を描いたロマン・ポランスキー監督の「反撥」(拙稿 人生論的映画評論・続「反撥」を参照されたし)は、「『約束された狂気』のルーツに潜む性的虐待という破壊力」の凄みは、観る者を釘付けにする圧倒的な映像だった。
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「反撥」より |
―― 最後に、本稿を総括したい。
結論から書けば、兄妹の究極の「愚行」=殺人のハードルの極端な低さは、「マルトリートメント症候群」(「不適切な養育」)を遥かに超える、父親の破壊的DV・性的虐待の常態化に起因する「被虐待症候群」が発現し、兄妹の心と脳に大きな傷跡を残したこと。
外界から自分を守ってくれるはずの養育者の激越な虐待が、早期の段階での「脳の可塑性」(脳損傷後の機能回復)を困難にする脳萎縮を齎(もた)らしてしまった。
その精神的後遺症が、兄妹の自我形成に大きな影響を与え、「性格の悪さ」に決して収斂されない、感情コントロールを難しくする、「パーソナリティ障害=人格障害」という精神疾患を現出させたと考えられる。
とりわけ、妹・光子のネグレクトは、「虐待のチェーン現象」であると言っていい。
兄が受けた暴力を視界に収め、自らも性的虐待を受けるという、光子が被弾した底知れない「不適切な養育」が、自らを囲繞する状況に馴致することによってしか呼吸を繋げなかった彼女の、その未成熟な自我を固着させてしまうのだ。
この未成熟な自我が憧憬の念を抱く対象人物(夏原)から、決定的なまでに、人格的に排除される行為を受けたことで、彼女が罹患する精神疾患が極限的に発現するに至った。
それは、専門的な心の傷の治療・ケアを受けられなかった彼女の、浮き足立った人生行程の悲劇でもあった。
同時にそれは、自らも負う精神疾患を身体化せず、辛うじて社会適応していた兄・武志の、あってはならない究極の「愚行」を生む悲劇を惹起させてしまったのである。
【些末なことを指摘すれば、慶応義塾大学を模した文応大学に、光子が入学するという設定には無理がある。
「文応」入学時の光子 |
「頑張ったよ」という言葉では説明出来ないのである。
大体、異常な家庭環境に捕捉された兄妹が、一方が大学出の雑誌記者、他方が名門私立に入学し、相応の立ち位置を確保する。
学習能力が根柢的に剥(は)がされた環境下にあって、その隘路をブレークアウト(突破)し、高額の学費を手立てすることなど、不可能ではないが、殆ど困難であると思われる。
なぜ、精神科医が学費の問題を聞かなかったのか。
また、「夏原さんみたいになりたいって」と答えているのに、「事件」との関係を疑わなかったのか。
「事件」とリンクさせるための御都合主義的な設定であり、リアリティがないのである】
感服させられる映画だったが、不満も残ったのは事実である。
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石川慶監督 |
(2021年7月)
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