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2021年2月13日土曜日

東ベルリンから来た女(‘12)   クリスティアン・ペツォールト

 


<凛として越境し、地域医療を繋いでいく>

 

 

 

1  「私が地方に飛ばされた理由も知っているのね…孤立させてもらうわ」

 

 

 

1980年夏 旧東ドイツ ベルリンの壁崩壊後の9年前。

バルバラ・左遷先の病院の前で
 
新任の女性医師を俯瞰するアンドレ(左)とシュタージの局員・シュッツ


「孤立しない方がいい。ここの職員は敏感だ。首都ベルリン、大病院…みんな、卑屈になる」とアンドレ。

「自分も卑屈になりたくないから、そう言うの?」とバルバラ。 

バルバラ

ベルリンからトルガウ(現・ドイツ東部。ザクセン州の都市)の小児外科病院に左遷されて来た女医バルバラ。

 

その初日の態度を見て心配する同僚医師のアンドレは、彼女を車で送る際での会話である。

 

「道を聞かなくても、私の家へ行けるわけ?私が地方に飛ばされた理由も知っているのね…孤立させてもらうわ」 

アンドレ

そんな物言いをするバルバラが地方へ左遷された理由は、西側への出国申請をしたこと。

 

以来、東独のディストピア(監視社会)の象徴・シュタージからの監視が強化されている。

 

バルバラを監視するシュタージの局員(諜報員)の名はシュッツ。 

バルバラの官舎で家宅捜索するシュッツ



そんなバルバラが、人民警察(東独の準軍事組織)から連れて来られた少女・ステラを診ることになる。 

ステラ(左)を診るバルバラ

「髄膜炎か?ダニかな」とアンドレ。

「たぶんね…草むらに6日間、隠れたって。マダニの生息地よ」とバルバラ。 


処置を終えたステラの病室で、アンドレがバルバラに忠告する。

 

「ステラの入所は4度目で、仮病とサボりの常習犯だ…甘やかしは禁物だ」 



バルバラは自転車で駅に出て、電車に乗り換え、レストランへ行く。 


レストランのトイレで、ウエイトレスの一人から小包を受け取る。 


そこには、待ち合わせ場所・時間のメモ・金が入っていた。 


その小包を、十字架の下の岩に隠すバルバラ。 



夜になって官舎に戻ろうとすると、シュッツが車から声をかけてきた。

 

数時間、行方不明だったという理由で、彼らはそのまま部屋に入って来て、家宅捜索するのだ。 


翌朝、出勤して来なかったバルバラを、アンドレが訪ねて来る。

 

「ステラが君以外の医師の処置を拒んでる」 


童話を読んでもらえる喜びに浸るステラににとって、バルバラの存在は「解放者」として映っているようだった。

 

病院へ向かう車の中で、ステラが妊娠中であることをアンドレから知らされる。

 

以下、病院での短い会話。

 

「妊娠が本当なら、大変なことになる。堕ろさなきゃ」


「本人の希望か?」


「本人は知らない」

 

バルバラは血清の結果を再確認するために、アンドレの研究施設を利用して、自ら確かめる。 

アンドレの研究施設

結果は同じだった。

 

アンドレの医師の技量を認知するバルバラ。

 

「なぜ地方にいるの?人を監視するため?」

「ここが好きだ」


「私を説得する気?」

「何の説得?」

「出国申請を出すなと。“医者になれたのは、労働者と農民のお陰だよ”と」


「確かにそうだ」

 

そんな会話の後、バルバラはメモにあった待ち合わせの森に行く。

 

そこに仲間の運転で、西側の恋人ヨルクがやって来て、束の間、愛し合う二人が、そこにいた。 


【「その車は何キロ出るんだね?」「200だ」/東独の国産車だが、庶民の贅沢品だったトラバント(小型乗用車)に乗った老人が、ベンツを運転する男(ヨルクの同志)に話しかける興味深いシーン】


夜遅く出勤したバルバラは、ステラにいつものように絵本を読んで聞かせる。 

疲弊し切っている状態で、絵本を読むバルバラ

「自分で読めるようになると、作業所に戻される。私を助けて、先生」


「やってみる」

「作業所には戻りたくない。耐えられないの。先生、赤ちゃんができた。何とかして」

「堕ろしたいの?」

「いいえ、違うの。トルガウから逃げたい。この国から逃げたいの」 


疲弊し切っているバルバラを仮眠させたアンドレが、コーヒーを持って入って来た。 


「報告書に書くの?」

「昔、ある病院にいて、ニュージーランド製の機器が入った。未熟児用の機器だ。保育器では助からない子を助ける。取扱説明書は英語で260ページ。読もうと努力したよ。僕には助手がいた。英語が少しできるから手伝ってくれた。疲労困憊の僕に言ってくれた。“やっておきます”。機器の接続を任せた。ところが彼女は、摂氏と華氏を間違えた。異常に圧力が上昇し、2人の網膜を破壊した。名前はマイクとジェニファー。命は助かった。でも光を失った。僕の責任だよ。研究の道は絶たれ、ベルリン行きも消えた。もみ消してやる代わりに、地方で働けと。守秘義務が課せられた。報告の義務も。でも出世欲はない。3年前だ」 

アンドレの打ち明け話に聞き入るバルバラ


この話で、アンドレの置かれている立場が判然とする。

 

二人の会話は、ステラを救助する一件に転じていく。

 

「トルガウ作業所の実態は知ってる?作業所とは名ばかりで、抹殺するための施設よ」 


そう吐き出すステラにとって、ディストピアからの解放だけが拠り所なのだ。

 

しかし、最長2日間しか退院を伸ばせないとアンドレに指摘され、困惑するバルバラ。

 

かくてステラは、人民警察に無理やり連行されるに至った。

 

バルバラの名を呼び、泣き叫ぶステラに近寄り、抱き締めることしかできないバルバラ。 


監視の目を潜(くぐ)り、外国人専用ホテルに向かうバルバラ。 

ヨルクと会うために十字架の下の岩から小包を取り出すバルバラ

恋人のヨルクが、ホテルの窓からバルバラを迎い入れた。

 

「バルバラ、僕が君の所へ来るよ。東で暮らそう。ここで君と幸せになるんだ」


「気は確か?この国では無理」

 

そして、岩場に船で迎えにいくというその場所を指定するヨルク。 


「決行はいつ?」

「この土曜の夜だ」


「勤務日よ。休まなきゃ」

「西に行けば眠れる。僕の稼ぎで十分だ。働かなくていい」

 

ヨルクの言葉には、医師としてのバルバラに対する基本的な認知の欠如が読み取れる。

 

 

 

2  夜の浜辺から戻って来た女

 

 

 

帰宅後、シュッツから家宅捜索を受けるバルバラ。

 

全裸にさせられ、女性の役人に身体を調べられるのだ。 


一方、アンドレは、自殺未遂をして頭蓋内出血している少年マリオを問診し、記憶の回復ぶりを確認する。 

小児外科に搬送されて来たマリオに応急手当(救命処置)を施す


マリオ

食堂で、バルバラはアンドレのテーブルに来て、週末の休暇願をし、許可を得る。 


また、アンドレにマリオを診て欲しいと頼まれる。

 

「なぜか嫌な予感がする。明日、再検査したいんだ。手伝って欲しい」 


バルバラは、明日は休みなので、明後日の11時に手伝うことを約束する。

 

マリオの様子を見に行くと、病室にガールフレンドのアンジーが見舞いに来ていた。 

マリオの病室を覗くと、アンジーが泣いていた

そのアンジーから、マリオの様子がおかしいと聞かされ、自らマリオの様子を確かめると、会話が噛み合わず、脈絡のない返答をするばかりだった。 

アンジーからマリオの様子を聞き、嗚咽の理由が感情が通じないことであることを知らされる


 翌朝、バルバラはアンドレの家を訪れるが、シュッツのところに行っていると聞かされ、市場のカフェに行き、1諧にいるシュッツと会う。

シュッツ

アンドレは末期ガンのシュッツの妻を診ていたのである。 

シュッツの妻を診るアンドレ


往診が終わったアンドレに、バルバラはマリオの状態の深刻さについて話す。

 

「開頭手術しなきゃ。昨日、恋人が来たのに、彼は覚えてないの。記憶はあるけど感情がないの」 


以下、アンドレとの車内での会話。

 

「よくやるの?」

「終末医療を?」

「ゲスの手助け」


「病人なら助ける」
 


改めて、医師アンドレの人間性に触れ、心が動かされるバルバラ。

 

マリオの開頭手術が決まり、麻酔の担当を頼まれ、引き受けたものの、西独への脱出を前に迷うバルバラ。 



アンドレの家に行き、ラタトゥユを作るアンドレにキスをするが、「やっぱり駄目」と言って、去っていく。 



官舎に戻ったバルバラは脱出の準備に取り掛かっていた。

 

その官舎に、脱走したステラが転がり込んで来 


怪我をしているステラに、痛み止めの注射を打つバルバラ。

 

「一人にしないで、一緒にいて」 


懇願するステラに、優しく微笑み返す。

 

バルバラはステラを自転車に乗せ、バルト海へと向かう。

 

一方、手術に姿を見せないバルバラを、アンドレが家に訪ねて来た。 


シュッツもやって来た。

 

「もう戻らない」


「逮捕したのか?」

「家に帰ってろ」

 

待っていたが、バルバラは現れなかった。 


一方、夜の浜辺で待っていたバルバラの元に、ゴムボートが近づいて来た。 


男に金を渡し、ステラをそのゴムボートに乗せ、バルバラは自転車で帰っていくのだ。 


手術を終えたマリオのベッドの脇に座るアンドレ。 


その背後から部屋に入って来たバルバラは、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。 


静かに見つめ合う二人。

 

ラストシーンである。

 

 

 

3  凛として越境し、地域医療を繋いでいく女

 

 

 

「デン・ハーグに行きたい。レンブラントを見に」 

オランダのデン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館に、レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」が収蔵されている

これはバルバラに吐露した、アンドレの言葉。

 

「夜警」と並ぶレンブラントの代表作「テュルプ博士の解剖学講義」(オランダのマウリッツハイス美術館にある。数時間前に処刑された男)の解釈を巡って、バルバラと議論するシーンは本作の肝でもある。 

アンドレの研究室に飾られた「テュルプ博士の解剖学講義」(レンブラント26歳の時の名画)

解剖の図解書を皆が凝視する絵を見て、アンドレは言い切った。 


「我々が見られるのは、あの手だけ。だから医者の目線ではなく、自然と、あの男に目が向く。犠牲者にね。医者の立場から離れて」 


執刀される遺体の左手が右手になっている矛盾を衝き、技術的な視線で解釈するバルバラに対し、アンドレは一貫して、犠牲者(患者)の視線で名画を解釈するのだ。

                   遺体の左手が右手になっている


 この直後の映像が、恋人ヨルクとの逢引きのシーンに繋がることを考えれば、バルバラの内側には、西独への脱出という思い以外にないことが了解できる。

 

しかし、アンドレとのこの会話は、「孤立させてもらうわ」と言い切っバルバラの、その中枢を射抜くに足る内面的伏線になっていく。

 

「西に行けば眠れる。僕の稼ぎで十分だ。働かなくていい」 


これは、外国人専用ホテルで受けたヨルクの言葉。

 

明らかに、ヨルクは、「医師」としてのバルバラプライドを傷つけている。

 

「医師」バルバラの基本スタンスを認知できていないのだ。 

ステラを治療する小児外科医バルバラ

だから、極限状態に置かれたバルバラの、瀬戸際での使命感が全く理解できていないのである。

 

彼女は、矯正収容施設から逃走、バルバラを「救済者」と考えているステラのことを、一人の医師として見放すことができない。 


ステラの「解放」こそ、バルバラの使命感でもあった。 

ステラを解放するために浜辺で船を待つバルバラ


それは同時に、犠牲者(患者)の視線で名画を解釈するアンドレと共有し得る使命感だった。

 

かくて、「デン・ハーグに行きたい」思いを抑え、小児外科医として地に足をつけ、片田舎の一角で〈生〉を繋ぐ男に情動感染した女のコアが遷移していく。 

アンドレの影響を受け、彼が勧める著書を読むバルバラ


「赤ひげ」もどきの寛大な男の懐に、「伴侶」以上の何者かと化して飛び込み、近未来の時間を共有する。

 

それは、飛翔だった。 

煩悶の果てに、飛翔・越境を具現する

凛として越境していくのだ。

 

汎ヨーロッパ・ピクニック・国境から脱出する東ドイツ市民(ウィキ)


「汎ヨーロッパ・ピクニック」など、未だ想像し得ないが、いつの日か訪れるだろう「西」への越境ではなく、「東」の世界に踏み止まって、「この地」で、ステラのような少女の思いを受容し、地域医療を繋いでいく。

 

このことは、「医師」バルバラが、「孤立させてもらうわ」という適応戦略によって、ギリギリに自我封じてきた彼女が、本来的なアイデンティティを復元したことを意味する。 


トルガウで呼吸を繋ぐ「小児外科医・バルバラ」の誕生である。

 

而(しこう)して、時代の暗晦(あんかい)な空気を映しながらも、殆ど予定調和の「基本・エンタメ」の映画らしく、ラストはステラの「解放」と、アンドレへの「復帰」のうちに結ばれるのだ。

 

【余稿】

 

人権抑圧の象徴として国民に最も恐れられ、ナチスのゲシュタポを凌ぐ規模を有した監視国家・東独の秘密警察シュタージ(国家保安省)は、30年以上にわたって権力を誇示したエーリッヒ・ミールケの時代に、10万人の職員を駆使する巨大組織の諜報機関だった。 

ベルリンの旧シュタージ中央庁舎(ウィキ)

エーリッヒ・ミールケ/シュタージ創設35周年祝賀演説をするミールケ大臣(1985年2月6日、共和国宮殿)(ウィキ)


東独の一党独裁制を敷いた、ドイツ社会主義統一党(SED)書記長・ホーネッカー政権下にあって、エーリッヒ・ミールケは、国境警備隊に対し、「ベルリンの壁崩壊」(1989年11月9日)の直前まで、ベルリンの壁を越えて越境する多くの亡命者に射殺命令を下させていて、1200人以上が射殺されたと言われる。 

エーリッヒ・ホーネッカー(ウィキ)

SEDの党大会でのミハイル・ゴルバチョフ(左)と(1986年/ウィキ)

ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民(1989年11月10日/ウィキ)


シュタージが個人データ600万件を保管していた事実は、その解体後にドイツ社会に大きな波紋を巻き起し、その監視体制の高さは、本作や「善き人のためのソナタ」の中でも描かれている。 

人生論的映画評論「善き人のためのソナタ」より

                     


                   

(2021年2月)

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