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2021年6月18日金曜日

映画短評  幸福なラザロ('18)   アリーチェ・ロルヴァケル

 


<不特定他者にまで「安寧」を供給する「善なるもの」は、時代を超えて希求される>

 

 

 

極端なほど善人だが、その「善人性」を認知されても、村の男たちからは尊厳を持って愛されることはない。

 

本来的な善人の使い勝手の良さは、「飛び抜けたお人好し」として利用されるだけだ。 


狼から鶏小屋を守るラザロ



カリスマ性は微塵もない。

 

欲望の欠片(かけら)も拾えず、所有する何ものもない。

 

ただ、言われるままに動く。

 

文句を垂れることもなく、求められるままに働くのだ。

 

違法な小作制度が残存する、現代の文明社会が弾かれたようなイタリアの小村で、前近代的な搾取構造が幅を利かせていた。 



だからと言って、外部世界から隔絶されたことで、無知なる者たちが依拠したコミュニティの風景には、ディストレス状態が染み付いていない。

 

「貧困の平等性」が担保されていたからである。

 

「人間は獣と同じ。 自由にすれば、苛酷な現実が待ってるのを知ることになるだけ。 結局は苦しむのよ。 私は小作人を、小作人は彼を搾取する。 それが世の中の仕組みよ」 

侯爵夫人とタンクレディ(右)

侯爵夫人



土地の所有権のない農民が、地主から土地を借りて耕作する小作制度の主である侯爵夫人が言う「彼」とは、物事を額面通りに受け取ってしまう「飛び抜けたお人好し」・ラザロのこと。

 

侯爵夫人によって小作される小作人が、血縁関係が不分明なラザロを搾取する。

 

小村では、このラザロが搾取構造の最下層にいるのだ。 

ラザロ(中央)とアントニア(侯爵夫人の召使だった頃)

雨の中で空を見ていて、高熱を出してしまうラザロ


それでもラザロには、不遇を託(かこ)っているという意識がない。

 

大体、「善人性」の自覚すらないのである。

 

だから、他者を疎(うと)むという意識など、更々ない。

 

人を信じ切る強さは並外れているから、「兄弟」(「半分・兄弟」)と言われただけで、侯爵夫人の息子タンクレディが仕掛ける、身代金目当ての狂言誘拐に加担してしまうが、疾(と)うに、母親に見透かされているから毒気を抜かれ、成就しない。 

タンクレディ(右)から木製パチンコをもらって喜ぶラザロ

狼の咆哮(ほうこう)を真似するタンクレディと、ラザロ

狂言誘拐をラザロに持ちかけるタンクレディ


しかし、この未遂事件は予想だにしない事態を惹起する。

 

事件によって、タバコ農園での違法な小作制度(実話ベース)が警察に知られ、侯爵夫人は摘発され、全ての財産を失うことになるが、その事実を知ることなく、ラザロは崖から谷底に転落し、絶命する。 

母・侯爵夫人の小作制度を批判するタンクレディと、現実を知らない小作人たち

現実を知ることになる小作人たち


ところが、ラザロの「善人性」を嗅ぎ取る狼(イタリアオオカミ/ロムルスとレムスを育てた建国神話に由来)がラザロを蘇生させる。 


                  イタリアオオカミ(ウィキ)


「ヨハネによる福音書」にある「ラザロの復活」である。 

    キルケゴールも言及(「死に至る病」)した「ラザロの蘇生」(フアン・デ・フランデス)(ウィキ)


友人ラザロの死を嘆き、イエスが彼を蘇生させた奇跡譚がベースにあるが、「聖人・ラザロ」と異なり、小村のラザロには、「善人性」が認知されるだけだった。

 

「小村のラザロの復活」には、2、30年ほどの時間が経由しているが、起き上がっても、今や村は荒廃し、村民も消えていて、外部世界に流れていく外になかった。 

「現在」に向かうラザロの旅



且つ、「兄弟」・タンクレディを探し求めるラザロの旅。

 

それが冗談であるとは考えず、「兄弟」と呼んでくれたタンクレディへの思いは変わらないようである。

 

解放された村民たちは、街の生活に馴染めず、泥棒・詐欺稼業で糊口を凌(しの)いでいた。

 

物理的・精神的に、汚濁された日常を繋ぐ生活風景は、負債を累加させるだけの小作時代よりも惨めに見える。 



ジェントリフィケーション(都市の高級化現象=富裕層の空間占有化)による弱者排除という、作り手のメッセージであると思えるが、ここは、小作時代のコミュニティへの過剰な馴致(じゅんち)に起因する、都市居住への適応能力の致命的欠如と、義務教育の不履行を余儀なくされたこと ―― この辺りに相関関係が読み取れるだろう。

 

すっかり老けた村民たちは、永い眠りから覚めたラザロを認知できない中で、唯一人、侯爵家のメイドだったアントニアは気づき、その相貌が全く変わらない「ラザロの復活」の前に跪(ひざまず)く。 

アントニア

映画の寓話性を、敢えて提示する決定的な描写だった。 

ラザロに優しいアントニア


そして、落ちぶれ果てた狂言男・タンクレディとの再会。 

タンクレディ(左)


銀行に財産を奪われたと言うタンクレディの言辞を真に受けたラザロは、色褪せ、零落(れいらく)した「兄弟」に同情し、目を潤ませるのだ。 



同様に、富裕層の対極にいるラザロが向かったのは、経済活動の中枢スポットである銀行だった。

 

タンクレディの財産を返して欲しいと訴えるが、ズボンのポケットにを隠し持っていると怖れられ、強盗に間違えられてしまう。

 

結局、銃ではなく木製パチンコであると知った客たちに痛めつけられ、抵抗せずに絶命するラザロ。

 

「善」(貧困層)と「悪」(富裕層)の対比が、シンボリックに映像提示されるのだ。

 

再び狼の出番だが、根源的にイノセントなラザロを蘇生させるイメージは、ここでは拾えない。

 

建国神話を象(かたど)って、ロムルスとレムスに乳を与えたローマに向かって走っていくのか。 

               狼の乳を飲むロムルスとレムスの銅像(ウィキ)

ロムルスとレムス(ウィキ)



所有する何ものもなかったラザロの魂だけは、軽々(けいけい)に死滅させるわけにはいかないのだ。

 

貧しい者たちに賛美歌を聴かせない欺瞞的な教会は不要であっても、人々を疲弊させる先の見えない不均衡な時代にあって、不特定他者にまで「安寧」を供給するラザロの魂は、時代を超えて希求されるということ。

 

ムイシュキン公爵を彷彿させるが、それ以上に無知・無垢であったが、「安寧」を供給する「善なるもの」の有意味性は、困難な時代の荒波を潜(くぐ)り抜けていく人々の内側に、何より得難い推進力と化して検証されいくだろう。 

ムイシュキン公爵(右)/ソ連映画『白痴』1958年


少なくとも、これだけは読み取れるラストだった。



アリーチェ・ロルヴァケル監督

(2021年6月)

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