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2021年2月6日土曜日

心と体と('17)   イルディコー・エニェディ



<「個人的主観的リアリティ」を共有する男と女が、立ち塞がる障壁を乗り越えていく>

 

 

 

1  「それでは、今夜も夢で会いましょう」 

 

 

オープニングシーン


ハンガリーのブダペスト郊外(映画では、字幕・台詞の提示なし)。

 

食肉加工工場で、2カ月の産休に入った食肉検査員の代理として採用されたマーリア。

マーリア

 

「気が重い。かなりの堅物で、あれは手を焼く」

イェヌー

エンドレ

社員食堂で、見慣れないマーリアについて尋ねた財務部長のエンドレに対する、同僚の友人イェヌーの言葉である。

 

左腕の不自由なエンドレには妻と娘がいるが、今は、別れて一人暮らしをしている。

 

そのエンドレは、トレーを片手に、食事中のマーリアに近づき、話しかけた。


形式的な挨拶を交わすが、マーリアの反応はどことなくぎこちない。

 

帰宅したマーリアは、調味料入れを使ってエンドレとの会話を再現し、「上手く切り返せれば会話が続けられたのに」などと反省するのだ 


そのマーリアは、食肉牛の検査で片っ端からBランクをつけ、従業員から陰口を叩かれていた。

 

既に、人事部で採用が決まっていた男性を面接するエンドレ。

 

「我々が加工処理する動物に対し、思うことは?」

「特に…何も思いませんが」

「哀れみも?」

「全然ですよ…血も平気です」


「憐れむ気持ちがゼロでは、勤まらない。続かないかも」 


面接の相手はシャーンドル。

 

この面接相手の名は、その後に出来する「事件」の発生によって判明する。

 

面接中に、牛肉のBランクについてクレームの電話を受けたエンドレは、直接、マーリアに聞きに行く。 


「規定より脂肪が厚い」 


これがマーリアの反応。

 

品質の良さは分かっているが、肉眼で僅か2ミリ厚いことで、規定のBランクにしたとのことである。

 

普段の挙動の不自然さもあり、仲間から倦厭(けんえん)されるマーリア。

 

杓子定規の判定を下すマーリアの孤立が、一層、際立っていく。 

一人で昼食を摂るマーリア

そんなマーリアを見るエンドレ


そんな中、牛の交尾薬が盗まれるという事件が惹起する。

 

警察が犯人を特定するために、従業員全員の精神分析を始めた。

 

エンドレは、分析医から昨日の夢について質問された。 


「夢の中で私は鹿だった…森をウロついたり、小川の水を飲んだり…他にも一頭いて、行動を共にしてた」

「オスとメス、どちら?」


「メスです」

「なぜメスと分かった?」

「感じた」

「交尾して?」

「ご期待を裏切るようだが、ヤッてない。2頭で、ただ森をウロつき、肉厚の葉っぱを探し、雪を掘り返した。小川に下り、水を飲みました」 


次はマーリア。

 

「昨夜は、どんな夢を?」

「すごく空腹で…雪を掘り返したけど、食べ物がない。同行者が一緒に探してくれた。厚くておいしそうな葉っぱを彼が見つけて、私に全部くれたので、食べました。味は悪くなかった。少しもたれたけど、やがて奇妙な感覚に」


「夢では動物か何かに?」

「鹿です…小川まで下りてから…」

「交尾はしましたか?」

「ノーです」


 
その後、夢の話を申し合わせたと疑う分析官が二人を呼び出し、エンドレの録音を再生する。 


エンドレの録音の再生を聞くマーリア


そこで、二人は同じ夢を見たことを知る。

 

その夜、マーリアは鹿の夢を見る。 

この夜、マーリアが見た鹿の夢


翌日の社員食堂で、マーリアは自分からエンドレのテーブルにやって来た。

 

「昨夜の夢は?」


「夢は見なかった」


「残念。では席を移ります。食事は一人が好きで」
 


パーソナルスペース(対人距離)の保持に拘泥するマーリアの形相には変化が起こらない。

 

片や、エンドレの元に同僚のイェヌーが来て、犯人はシャーンドルに決まっていると話すのだ。 


エンドレはトレーの片づけをイェネーに頼み、マーリアに向かって、鹿の夢は「毎晩見てる」と伝える。 


その夜も、鹿の夢を見た二人。

 

そして、互いに自分が見た夢を書き出し、交換して読むと、驚くべきことに同じだった。 

夢を書き出していくマーリア

「それでは、今夜も夢で会いましょう」 


そう言って、エンドレは微笑む。

 

頷き、笑みを返すマーリア。 


その晩、エンドレは鹿の夢を見たが、メスの鹿は池の周りにいなかった。 


エンドレは携帯番号のメモをマーリアに渡したが、マーリアは携帯を持っていないと言う。

 

その夜、マーリアの夢にオスの鹿は現れなかった。

 

マーリアは長年通っている精神科を訪ね、精神科医に携帯を持てばいいと促される。 


家に戻り、いつものように人形を駆使し、エンドレとの会話を再現し、自分の本心を探りながら、未来に向けてシミュレーションする。 


翌日、食堂でエンドレに携帯を買うことを告げるマーリア。

 

彼女なりに、エンドレとの距離を縮めようとトライしているのだ。

 

そのマーリアから電話が入り、携帯を買ったこととをエンドレが知らされたのは、別れた妻が訪問中のことだった。

 

「今夜、一緒に夢を」

 

エンドレもまた、トライしている。

 

その夜、二人は同時に眠ることを申し合わせた。

 

「ひとつだけ言っておきたいんのですが、あなたは…私を怖がらなくても大丈夫…」 


常にエンドレは、武装解除を拒むようなマーリアに警戒感を与えないように努めている。

 

そんな中、エンドレは件の精神分析医から、犯人が同僚の人事部長・イェヌーであることを聞かされる。 

イェヌーが犯人であることを伝える

そして、分析医はマーリアと同じ夢を見ることについて尋ねるが、エンドレは二人で口裏を合わせたと誤魔化した。 


話しても理解されないと思ったからである。

 

その様子を見ていたイェヌ―はエンドレを呼び、分析医の判断を尋ねた。

 

彼はシャーンドルが犯人であると決めつけるのだ。

 

しかし、イェヌ―の様子が一変する。

 

良心の呵責に苛まれたのか、イェヌ―は自分が犯人であると白状する。 


事件を公にせず、反省を求めるのみのエンドレ。

 

その直後、エンドレはシャンドールに謝罪し、和解する。 


部下に信頼されるエンドレの人間性が透けて見える。

 

そのエンドレはマーリアを食事に誘い、些かドラスティックな提案をする。

 

「隣同士で眠っては?眠るだけです。同じ部屋で。2人並んで。目覚めたら、すぐ夢の話ができますよ」 


その夜、マーリアはエンドレのベッドに入り、エンドレはその隣の床に布団を敷いて寝た。

 

「眠れません」

「私もです」

 

眠れない二人はトランプに興じる。

 

初めてのトランプだったが、マーリアは抜きん出て巧みだった。

 

驚くエンドレ。

 

記憶力が異常なほど出色なマーリアに、感嘆すること頻(しき)りのエンドレ。 


却って、それが不都合な時もあると吐露するマーリア

 

最近接していく中年男と、年の差が離れた杓子定規の女。

 

「色恋から身を引いて、数年になる…ある時点で、卒業だと自分に言い聞かせた…今さら、一人芝居のピエロにはなりたくない」 


だから中年男も、裸形の自己を晒して見せる。

 

然るに、中年男の吐露には、「卒業だと自分に言い聞かせ」る思いを晒しながらも、「一人芝居のピエロにはなりたくない」と言い添えることで、マーリアへの性愛を抑制する心情が、手に取るように分かるのだ。 


この日は、それだけだった。

 

 

 

2  鹿のいない森の風景がフェードアウトしていく

 

 

 

お互いに強く意識し合うが、距離は容易に埋まらない。

 

接触恐怖症のマーリアは、人に触れられたり、触れることができないのだ。

 

エンドレから思いを寄せられても、それを身体表現できないのである。

 

そんな女が、性愛をフル稼働させるトライ・アンド・エラーの「禁断」の世界に踏み込んでいく。

 

ポルノ動画を見たり、愛を奏でる音楽を聴いたり、公園で愛し合う恋人たちを間近で観察したり、ぬいぐるみを買ってベッドで体を触らせたり等々、様々に努力を積み重ね、少しずつ感情が発動していくようだった。 


一方、エンドレは自分の感情を抑え切れず、日々にフラストレーションを溜め込んでいた。

 

他の女性で性的欲求を満たし、マーリアへの性的衝動を解消するのだ。

 

そんな中、食堂でマーリアから再び一緒に寝る誘いを受けるが、エンドレはそれを断った。

 

「傷つけたくないが、続けても意味がない…考えてみたが、やはり、うまくいかないと思う…親密にはなれなくても、いい友達でいられる」


「もちろんです」

「実際、その方が楽だ。緊張しなくてすむ」

「はい」

 

立ち竦むマーリア。 


明らかに衝撃を受けている。

 

自分は愛されていない。 


そう思ったのだ。


先日、「今さら、一人芝居のピエロにはなりたくない」とまで言った男の心理が、「実際、その方が楽だ。緊張しなくてすむ」という言葉に繋がった心理を理解できないのだ。

 

だから、否定的自己像を一気に膨張させてしまった。

 

最悪の事態に振れていくのだ。

 

その夜、マーリアはバスルームのガラス戸を割り、その破片を持ってお風呂に入った。 


店員に勧められたCDをかけ、手首を切るや、噴き出た血が見る見るうちにバスタブに広がっていく。 


プレイヤーが壊れ、音楽が止まるが、自らの鮮血の赤のラインを呆然と見つめている。

 

その時だった。

 

携帯の音が鳴るや、マーリアは反射的に浴槽から飛び出していく。

 

ダイニングの椅子に座りながら、エンドレからの電話に飛びついていくのだ。


左手首から血が滴っている。 


縋るようにエンドレの話声を聞き、受け答えするマーリア。

 

如何にもわざとらしい、社交辞令的な短い会話だった。

 

電話を切りかけた際に、「間」が生まれた。

 

もう、限界だった。

 

エンドレは恐怖突入する。

 

マーリアに勇を鼓(こ)して告白するのだ。

 

「私は死ぬほど、あなたを愛してます」


「私も愛してます」


「だったら、これから…会えますか?」

「はい。支度します」

 

マーリアは迅速に動く。

 

電話を切るや否や、左手首をテープでぐるぐる巻きにして、真っ先に病院に行き、数日の入院とカウンセリングを勧められるが、マーリアはエンドレの家に直進する。

 

二人は結ばれるが、予備学習しただけのマーリアには、未だ上手く反応することはできなかった。


身体的悦楽に届かずとも、心は充分に満たされている。 


「もう、眠くなりました」

「寝ましょう」 


翌朝、二人は幸せそうに朝食を摂る。 


「夢を見ましたか?私は覚えてない」


「見なかった気がします」
 


鹿のいない森の風景は、フェードアウトしていくように消えていった。


 

〈性〉の象徴である鹿を必要としなくなったからである。

 

二人の近未来のイメージは決して順風満帆ではないだろうが、それでも、「今」・「この時」の至福を感受する。

 

それこそが、意を決して踏み込んだ世界で手に入れた至上なる絶対価値なのだ。

 

 

 

3  「個人的主観的リアリティ」を共有する男と女が、立ち塞がる障壁を乗り越えていく

 

 

 

リアリティには、「社会的公共的リアリティ」と「個人的主観的リアリティ」がある。

 

私見である。

 

精神分析医がマーリアとエンドレの二人が同じ夢を見る現象を、「二人で口裏を合わせた」と決めつけ、誹議(ひぎ)するのは「社会的公共的リアリティ」の視座であり、映画を観る者もファンタジーと片づけるに違いない。

 

それが常識的に意に叶うからである。

 

一方、二人にとって、いつも鹿の夢を見るのは、恐らく、その夢だけが覚醒時に鮮明な印象を残すのだろう。

 

大体、夢を見るのは、「浅い眠り」=「レム睡眠」(「体の眠り」)の状態の時と言われていたが、近年、「深い眠り」=「ノンレム睡眠」(「脳の眠り」)のときにも人は夢を見ることが分かっているが、脳の記憶が曖昧なため、その確認が難しいとも言われる。 

レム睡眠・ノンレム睡眠


いずれにせよ、人間は就眠時に多くの夢を見ているのだ。

 

他の夢は忘れ、覚醒時の記憶から消えていくが、ただ鹿の夢だけが残される。 


それも、毎日、鹿の夢を見ていないにも拘らず、日々、鹿の夢を見ていると考えている。

 

そういう意味で、二人の夢は「個人的主観的リアリティ」の所産であると言える。

 

前述したように、リアリティには、他者と共有可能な「社会的公共的リアリティ」と、他者が決して入り込めない「個人的主観的リアリティ」の2種類があると私は考えている。


無論、本作は映画的に仮構された寓話であって、精神分析医が見立てた通り、二人で口裏を合わせと診るのは常識的に意に叶い、この「社会的公共的リアリティ」の視座は「正解」である。

 

しかし、本作の作り手は、「正解は一つしかない」という「正解主義」を敢えて斥(しりぞ)け、絶妙な「物語」を構築している。

 

仮構された寓話を駆使し、「映画」の独壇場の小宇宙をフルスペックさせているのだ。

 

ではなぜ、作り手は、他者が決して入り込めない「個人的主観的リアリティ」というとっておきの武器を駆使して、このような完璧な映像を構築したのだろうか。

                   

「人間は動物の運命を左右します。我々は食べる為に牛を殺しますが、鹿に対してはそうではない。これは悲劇です。牛と鹿は、とても類似点の多い動物なので、私は鹿を選んだわけです。主人公2人の夢が交差するシーンに鹿が出てくるのは、牛に最も近い動物で、兄弟のような存在だからです。優雅で壮大で魅力的な鹿は、我々人間の家畜ではありません。一方で牛は負荷をかけられ、泥にまみれている。これは我々のせいです。彼らは我々の社会を写す鏡ような存在であり、我々と牛・鹿は対等なのです。我々はこの惑星で同居していて、しかも世界はどんどん狭くなっている。尊厳を持ってどうやって分け合って生きていけるか、我々は学んでいるのです」(イルディコー・エニェディ監督インタビュー) 

イルディコー・エニェディ監督

極めて視界良好なメッセージである。

 

このメッセージは、エンドレがシャーンドルとの面接の際に、加工処理する動物について「特に…何も思いません」と答えたシャーンドルに対し、「憐れむ気持ちがゼロでは、勤まらない」と反応した言辞のうちに表現されていた。 

シャーンドル

シャーンドルの場合、「バタリーケージ飼育」(狭いケージに鶏を閉じ込めて卵を産ませる飼育法)に異論を持ち得ないから、家畜化された食用動物としての牛を「血も平気です」と答えることができるが、アニマルウェルフェア(動物福祉)の観念を有するだろう作り手の場合、その理念がこのようなメッセージに結ばれたのだろう 

バタリーケージ飼育(ウィキ)

アニマルウェルフェア






だから、作り手が「彼らは我々の社会を写す鏡ような存在」と語るように、家畜化された食用動物としての牛と異なり、家畜化されていない鹿の存在の対比が、映画の中で強調されていた。

 

では、家畜化されていない鹿の存在が映像提示され、その「鹿の夢を見る」とは何を意味するのか。 


アニマルウェルフェアの視座から離れて、この映画を私なりに解釈すれば、〈性〉の象徴としての鹿の夢は、まさに、その〈性〉の欠損感覚の充填への欲求をシンボライズしていると捉えている。


寡夫の中年男と杓子定規の女の究極の恋を描くには、〈性〉の欠損感覚の充填への欲求をシンボライズした鹿の夢という設定、即ち、「個人的主観的リアリティ」という「物語」が最強の武器であると考えたからであろう。

 

このように考えれば「個人的主観的リアリティ」という武器を駆使して構築した、映像総体の含意を読み取れると考えた次第である。


〈性〉の欠損感覚の充填への欲求と、その具現化の艱難(かんなん)なる心的行程 ―― これが、「個人的主観的リアリティ」を共有する男と女の交叉の階梯(かいてい)を精緻に描いた映画のコアと言っていい。

 

十重二十重(とえはたえ)に連なる障害・煩労(はんろう)を乗り越え、ステップアップしていく心的行程は尋常ではなかった。

 

マーリアの前に立ち塞がる障壁のことである

 

「アスペルガー症候群」を含めて、社会的適応能力・コミュニケーション能力障害など、発達障害としての自閉症は現在、ICD-10(国際疾病分類)「自閉症スペクトラム症」(ASD)=「広汎性発達障害」(PDD)とされている。(これは、DSM-5と相互補完の関係を成している) 

自閉症スペクトラム

「発達障害」のさまざまな定義や診断基準


長年の間、精神科医にサポートされていた経緯を見る限り、臨機応変な対人関係が極端に苦手ながら、知的レベルが正常であるばかりか、記憶力が人並み外れたマーリアの場合、かなりの確率で発達障害の一つとされる「アスペルガー症候群」であると思われる。 

「アスペルガー症候群」の人たちは特異的な興味を持つ。上の少年は分子構造に魅惑を感じている(ウィキ)


「自閉症スペクトラム症」(ASD) ―― このディスアドバンテージ(不利益)を克服し、完璧なユニティー(統一体)に昇華させることが困難であっても、男との交叉の階梯を通して程々に濾過させ、スキルアップすることは可能であった。

 

本作の核心は、そこにある。

 

「心」の欠損感覚を抱えているが故に、食肉検査員の代理として食肉加工工場に赴任して来たマーリアの仕事のこなし方は、微細な数値への拘泥によって食肉ランクを下げるという行為に象徴的に表現されているように、目立って杓子定規的で融通が利かない振れ具合を全開してしまうから、従業員から敬遠され、排外的嫌悪のターゲットと化す。 

マーリアを見る冷たい視線・後ろにエンドレがいる

完璧な検査をする代理の食肉検査員・マーリア


それを自己認知し得る最低限の能力も具備しているので、人生のベテランである女性清掃員の話に傾聴し、行動変容への意識も捨てていない。 

女性清掃員の話に傾聴するマーリア


その意識をフル稼働させたのが、「体」の欠損感覚を抱えている上級管理職エンドレの存在だった。 


妻子と別れた経緯は不分明だが、エンドレにとって、偶然にも同じ夢を見たマーリアの存在は、運命的な邂逅(かいこう)を具現した特別な何かだった。

 

「個人的主観的リアリティ」を共有する男と女の交叉の階梯を上っていく心的行程が、そこに開かれるのだ。 


かくて、不器用だが、誠実な性格を有する二人が最急接していく。

 

しかし、接触恐怖症のマーリアが、その障壁を超えていくのは容易ではない。 


そのために、自らが保有する時間の全てを、この厄介なバリアを排斥するために埋め尽くす。 

愛を奏でる音楽を試聴するマーリア

観ていて、目頭が熱くなる。

 

彼女は、決めた課題を結果が出るまでやり尽くす。

 

杓子定規の彼女の性向が、こういう時、決定的な推進力になる。

 

この凄みを、「アスペルガー症候群」の恵みとして「神」から授かったのである。 


絶対推進力になったのは、男との「個人的主観的リアリティ」の共有だった。

 

「体」の欠損感覚を抱えているエンドレの存在が、マーリアの障壁超えの最強のサポーターとなり、漸次(ぜんじ)、異性になっていく。

 

共にディスアドバンテージを抱えた者同士が深く自我関与し、相互扶助の関係を構築していくのだ。 


その関係が、単に、相互の欠損感覚の充填以上の何かにまで昇華していくか否か、誰も分からない。

 

しかし、映画は「希望」を与えている。

 

「私が伝えたかったのは『人生は人生だ』ということです。人生は白か黒かとか、悪と善とか、はっきり分けられるものではありません。一番辛い時でも美しい瞬間はあって、それが生きるということ。人生の一番大事なことは、幸せになるためだけではありません。今ここに存在すること、人生を惜しまないこと、自分を偽らず、逃げず、閉ざさず、出かけて、リスクを取ってみてください。人生はアドベンチャーです。冒険してください」(イルディコー・エニェディ監督インタビュー) 

イルディコー・エニェディ監督

このイルディコー・エニェディ監督の言葉を素直に読み取れば、ディスアドバンテージを抱えた映画の男女の行動様態を通して再現されていたと言えるだろう。

 

同時に、多様性への深い理解が、そこに読み取れる。

 

今まで観たことのないラブストーリーの完璧さに心を打たれ、感銘を受けた。


(2021年2月) 

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