<「疑似リアル」の世界で、「生身の日常空間」を異化する少女の「見捨てられ不安」の重さ>
いつも書いていることだが、家族とは、分娩と育児による世代間継承という役割を除けば、「パンと心の共同体」である、と私は考えている。
近代化され、一定の生活水準の高さを確保した社会の中で、家族の役割の中枢は、今や、「心=情緒の共同体」にシフトしてきている。
「情緒の共同体」は、現代家族の生命線なのである。
家族とは、大いなる「安らぎ共同体」であると言っていい。
この辺りの崩れが顕在化したとき、家族は、忽(たちま)ちのうちに幻想=「物語」を剥(は)ぎ取られ、そこに家族成員の確信的で、継続的な努力が傾注されていかない限り、その崩壊を防ぐのは難しいと言わざるを得ない。
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現代家族(イメージ画像)https://jp.123rf.com/photo_33953597_若い、現代家族自宅のコンピューター上.html
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―― ここで、「家族とは社会の核であり、家族を語ることは同時にその集約である社会を描くこと」と語る、ミヒャエル・ハネケ監督の「ハッピーエンド」の中で描かれた、三世帯家族の実相に言及したい。
以下、ホームページから、本篇のストーリーの概略。
「カレーに住むブルジョワジーのロラン家は、瀟洒(しょうしゃ)な邸宅に3世帯が暮らす。その家長は、建築業を営んでいたジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)だが、高齢の彼はすでに引退している。娘アンヌ(イザベル・ユペール)が家業を継ぎ、取引先銀行の顧問弁護士を恋人にビジネスで辣腕(らつわん)を振るっている。専務職を任されたアンヌの息子ピエールはビジネスマンに徹しきれない。使用人や移民労働者の扱いに関しても、祖父や母の世代への反撥(はんぱつ)があるものの、子供染みた反抗しかできないナイーブな青年だ。また、アンヌの弟トマは家業を継がず、再婚した若い妻アナイスとの間に幼い息子ポールがいる。その他、幼い娘のいるモロッコ人のラシッドと妻ジャミラが住み込みで一家に仕えている」
簡単に説明すれば、これが、三世帯家族のアクチュアリティー(現実性)の様態である。
だから、物語の序盤で透けて見えてくるロラン家には、「家族共同体」の自壊現象によって、家族内部の意思疎通(いしそつう)が顕著に剥(は)がされ、殆ど修復の余地がないような心象を、観る者に与えてしまう。
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ミヒャエル・ハネケ監督(ウィキ)
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老いた父の建築業を継いだ辣腕家の姉・アンヌや、リールにある病院の外科部長の任にある弟・トマが、ただ形式的に「情緒的結合力」の表層を装おう努力を繋ぐが、二人がその行動に振れれば振れるほど、ロラン家の「ディスコミュニケーション」の内実が露わにされていくという、トラジコメディ(悲喜劇)の空疎感が漂動(ひょうどう)する。
典型例として映像提示されたのは、アンヌとピエールの母子関係。
食卓を囲む限定スポットで、アルコール依存症とも思しきピエールを、母のアンヌが注意するシーンがあった。
「親子ゲンカは、食後にやってもらうとありがたい」
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左からアナイス、ジョルジュ、アンヌ、ピエール、モロッコ人のジャミラ
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この老父のジョルジュの一言で、言い訳をしながら、「親子ゲンカ」が中断されるという些細(ささい)なシーンだが、この母子関係の歪(ゆが)みは、本篇の最後まで延長されるので、看過できない問題を抱えていたと言える。
建設現場での事故を機に、責任者であるピエールの振舞いの不味(まず)さが、かえって事態の収拾を拗(こじ)れさせ、有能な母から駄目出しされるエピソードの挿入は重要である。
ピエールが事故の被害者宅を訪ね、逆に殴られてしまう始末の悪さは、これで、もう何もできなくなり、〈状況逃避〉するこの男の、融通無碍(ゆうずうむげ)とは全く無縁な、捩(ねじ)れ切った人格像を提示することで了解可能である。
「バカ言って」
「思ってるくせに。会社を継ぐ気がないと分ってるだろ」
「それで、何するの?」
「何かしないと、まずい?」
「自分が可哀そう?殴られて、いじけるなんて、ただのガキよ!」
「いつものママに戻ったね。早く帰って仕事しなよ」
「お手上げだわ」
「その通り」
この会話は、〈状況逃避〉する息子と、建前と本音を分ける母との関係の歪みの本質が、二つの矛盾したメッセージ(メッセージ+メタメッセージ)を送波するダブルバインドの、コミュニケーション状況にある現象を示唆するものだ。
「やればできる。頑張って」と言いながら(建前のメッセージ)、頑張ろうと努力しても頓挫(とんざ)した息子を、「お手上げだわ」という本音を吐露する母。
普段はその本音(メタメッセージ)を隠し込み、「あなたが会社を継ぐのよ」と言いつつも、「能なしで、会社を継ぐ気がないと分ってる」母が、再婚予定の弁護士と共に、建築会社の再興と発展を考えているだろう物語の予想展開は、アンヌとピエールの母子関係が、既に、ピエールの子供時代に淵源(えんげん)することをサゼッションしている。
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再婚予定の弁護士・ローレンス |
だから、ラストでのアンヌの婚約発表のパーティーで、アフリカ移民を連れて乗り込み、母の婚約者を突き飛ばそうとし、パーティーを壊そうとするピエールの稚拙な行動にまで振れてしまうのだ。
どこかで、「見捨てられ不安」とも共存していたに違いない、ピエールの自我の底層に深く張り付く「母の呪縛」という、解決困難な根源的テーマの重さ。
この若者には、カラオケステージで暴れ捲(まく)ることで、辛うじて、自己同一性を保持しているのだろう。
少なくとも、この母子関係の家庭が、「安らぎ共同体」とは無縁だったことは充分に理解可能である。
父の家業を継ぐことなく、再婚相手である、若く心優しい妻・アナイスとの間に幼い息子・ポールを儲け、病院の外科部長の任にあり、何不自由なく暮らしている。
社会人として、有能な姉弟を強く印象づけるが、外科部長の任にあるためか、毎日、帰りが遅い。
このような人物によくあることだが、帰宅の遅さの原因は愛人を抱えているからである。
この映画で印象的に映し出されるのは、愛人とのチャットで「変態プレー」を愉悦するシーン。
シーンと言っても、次々に、パソコンに打ち込まれる文字の氾濫(はんらん)のみ。
例えば、こんな調子。
「何が起ころうと、いつか、あなたが忘れようと、私は永遠に、あなたのものよ。あなたを想い過ぎて、涙が出てきたから」
「君の涙は飲みたいが、泣かないでくれ。僕は苦しみの放尿で、君を慰めよう。君を傷つけたい。君の中に完全には入れないから」「変態セックスの好みがあるなら、私に隠さず、すべて話していいのよ。私の体を利用して」
これは、愛人からのチャットだが、チャットでの卑猥(ひわい)な会話がエスカレートし、変態セックスの妄想のみで性的興奮を高め、満足する様子が手に取るように分る。
後述するが、トマの父・ジョルジュが、自家用車を運転し、自殺未遂と思われる追突事故を起こし、車椅子の生活を余儀なくされる重傷を負った現実の只中でも、トマは、このようなチャットを楽しんでいるのだ。
他人のプライバシーに侵入し、倫理的なジャッジを加えるほど、私たちは気高くないのである。
むしろ、父・ジョルジュの追突事故に関わり、疲弊し切った感情が、愛人からのチャットに性的興奮を搔(か)き立てるような行為に振れたとも考えられる。
恐らく、人間とは、こういう生き物なのだろう。
そして、利便性が高く、瞬時に空間をワープするSNSの閉鎖系の時間を占有し、存分に愉悦する。
現代社会は、ここまで、人間の欲望を解放し、自在な移動を可能にしたのである。
トマの話に戻すが、無論、この時点で、心優しい妻・アナイスは、この事実を知る由もない。
その意味で、トマの家庭が「安らぎ共同体」を保持していると言える。
トマとの間で儲けた可愛い赤子がいて、日々、夫の帰りを待つアナイス。
ところが、呆気なく、この事実が知られてしまう。
この事実を知ったのは、アナイスではない。
これも後述するが、母が入院したことで、実父のトマに引き取られ、ロラン家に厄介になる13歳のエヴである。
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エヴ |
「恐ろしい事態になった。娘がパソコンを開け、このチャットを見た。自殺未遂を起こした。幸いなことに未遂で済んだが、僕たちの会話はすべて消さなければならない。それに、これからは何も保存できなくなる。この先、娘がどんなことを考えるのか、まるで見当もつかない。これからは時間を決めて…」
このトマの言辞の意味も、本作の要諦(ようてい)なので、後述するが、アナイスに知られることを怖れるトマの驚愕(きょうがく)の心情が、透けて見えるのだ。
愛人とのチャットに象徴されるように、この男の存在自身が、ロラン家の「ディスコミュニケーション」の、その空疎な風景の重要な因子になっている事実を炙(あぶ)り出していた。
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トマ |
2 「疑似リアル」の世界で、「生身の日常空間」を異化する少女の「見捨てられ不安」の重さ
ここでは、本作を根柢から支えたエヴについて言及する。
スマホで撮影された縦長の映像を、動画投稿する冒頭のシーンから驚かされる。
撮影するのはエヴ。
13歳を間近に控えた少女である。
抗鬱(うつ)剤を常用する女性で、トマに去られたことで、心の安寧(あんねい)を乱し、「家庭」という中枢スポットを、「侵入禁止」の「獄舎」に変換させ、希薄なる「日常」を繋ぐ印象を与えるが、映像が提示したのは、エヴが切り取った情報のみなので、観る者は、様々に想像を巡らす思考が求められる。
一貫して変わらない、ハネケ監督の創作手法である。
この創作手法が全開する冒頭のシーンは、エヴの実母が消灯するまでの動作を切り取っている。
「吐く。ゆすぐ。うがいをする。吐く。タオル。髪をとかす。ブラッシング。クリームを塗る。肌のチェック。おしっこ。浴室を出る。消灯」
そして、次の動画に切り替わる。
「皆、元気。これ、私のハムスター。飼って一年半。さっき、エサに薬を入れた。ママのうつ病の薬。どうなるかな。ママはマジ、ウザい。泣き言ばっかり。みんなもウンザリ。パパは何年も前に出てった。24時間グチってばかりだから、今は私にブチまける。一丁上がり。これなら効くかも。ママは、これが臭いって。ウソよ。ケージはいつも洗ってる」
意表を突かれる表現ではないが、それでも、強烈な印象を鏤刻(るこく)される。
「ママは自分のことだけ。私のことがよく分らないって」
スマホ動画ではない。
友達に吐露した少女の本音である。
「人を静かにさせるって、簡単。これから救急車を呼ぶ。これで、デカい口は叩けなくなった」
エヴの心の闇を照らし出すような、心胆(しんたん)寒からしめるカットの提示は、ここから、物語が開いていくストーリー展開の伏線描写であることを推し量ると、他を寄せ付けない、BGM不要の「ハネケ映像」の一種挑発的な問題提起に喚起(かんき)され、自らの視覚領域もろとも吸い込まれてしまうようだ。
以降の映像が描出するのは、入院するに至ったエヴの実母が、別れた父・トマの一家(アナイスと赤子)が身を寄せるロラン家に引き取られ、ドーバー海峡の英仏海峡トンネルの拠点都市・フランス北部カレーの街に、母のいない新しい生活を余儀なくされる少女の寡黙(かもく)な内的世界だった。
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ロラン家に引き取られるエヴhttp://kaiyare.hatenablog.com/entry/2018/08/03/031636 |
転校先の学校から下校するエヴを、父・トマが車で迎えに行く。
エヴの母と別れたトマには、母娘の生活の内実を知らない。
母娘の関係の寒々しい様子も、想像すらしなかったに違いない。
まして、娘のスマホ動画など、知る由もない 。
しかし、ハネケ監督が提示したのは、紛れもなく、心の闇を押し込めたエヴの内的世界である。
そのリアルな内的世界の悲痛な振れ具合の本質は、殺意に変換された情動系が、行為に転じた時の一続き(ひとつづき)の行程として、内側から不意に立ち昇ってきた感情を抑制できなかったためである。
当然、そこに意識の反転がある。
エヴにとって、スマホ動画の世界は、どこまでも「疑似リアル」の世界に過ぎない。
その「疑似リアル」の世界で呼吸を繋ぐことで、「生身の日常空間」の不快なるアクチュアリティーから逃げられるのだ。
「生身の日常空間」の不快なるアクチュアリティー。
だから、これを異化する以外になかった。
これが、娘である自分を捨てたと信じる、実母への殺意を育ててしまった。
スマホ動画という「疑似リアル」の世界だけが、常に、「見捨てられ不安」に怯(おび)える少女を救う唯一の「防衛機制」だった。
とうてい受容し難い、「生身の日常空間」の状況を軽減し得る、少女の「防衛機制」の風景の悲哀と暗晦(あんかい)さ。
ところが、転居を強いられて、動けなくなる時がある。
「生身の日常空間」の状況下に呑み込まれて、少女の内的世界が大きく揺さぶられる。
少女の内的世界は、もう、一杯一杯なのだ。
少女の嗚咽は、この内的世界の反映である。
13歳の少女は、今、新しい環境への適応を求められている。
「生身の日常空間」の状況に適応することで、「見捨てられ不安」を解消せねばならないのだ。
しかし、現実は甘くない。
父・トマのチャットを知って、エヴは、またも、「生身の日常空間」の状況の恐怖に慄(おのの)く。
2歳年上の兄を喪い、父に捨てられ、母にも捨てられ、そして今、再び父に捨てられようとしている。
どこまでも、エヴの主観だが、父の失踪(しっそう)が、母の疾病と「家庭の崩壊」を招来(しょうらい)したという心の傷跡を引き摺(ず)っている。
一杯一杯なエヴの思春期自我を、「生身の日常空間」の状況下で襲いかかってくる精神的暴力。
もう、耐えられなかった。
死んだ母の抗鬱剤を過剰摂取し、自殺未遂を冒したエヴがベッドに伏せている。
エヴに寄り添うトマが、エヴに問う。
「なぜ黙ってた?」
「何を?」「何をって…ママがいなくて、独りで寂しいとか、何ていうか、お前の心が見えない」
「だから?」
「何だと?」
「パパが遠い」
「愛してるよ」
目を逸(そ)らし、無表情で頷(うなず)くエヴ。
「信じてくれ。口ベタだが愛してる」
「アナイスと別れたら、私と住む?」
父に顔を向け、エヴが思いも寄らない言葉を発する。
「なぜ、僕が彼女と別れる?」
「私は、あと4年で成人よ。施設には入らない」「何の話だ。なぜ施設へ?」
「分かった」
「何がだ!正気か?誰が施設にやるんだ?変な考えだぞ」
「彼女と別れたら、私と住む?」
ここで言う彼女とは、愛人であることを示唆している。
「住まないよ。彼女と別れないから。まともに話してくれ」
「海岸での電話も聞いたし、あれも見た…チャット」「何のことだ」
「パパ、お願いよ。とぼけないで。パパは誰も愛せない。ママのこともアナイスも、私のことも。別にいいの。施設に入りたくないだけ」
「ママの薬を飲んだな」
「くすねた分を」
「万が一のために?」
「そうよ」
意思疎通(いしそつう)が困難な父と子の暗然たる会話には、物理的・心理的に長く乖離(かいり)していた、埋め難い関係の復元不能な時間が漂動している。
「施設」という言葉の重さは、エヴが負う「見捨てられ不安」の重さである。
まさに、少女エヴこそが、「家族」という、「安らぎ共同体」の片鱗(へんりん)すらも得られない、残酷なる精神的暴力を一身に負っているのだ。
―― ハネケ監督はインタビューで、エヴについて、「承認欲求」の他に、「自分の罪に対する罰を受けたいという欲求があるのではと思ったんです」と語っていたが、少女の内面に「自罰欲求」があることも考えられるが、それでも、自殺未遂に関しては、「見捨てられ不安」が最も重要な心理的背景にあったことだけは否定し難いだろう。
この辺りの心理を憶測することの難しさは、人間の行動に張り付く複合的感情を読み解く難しさに関わるので、事態の因果関係を確信的に特定し、結論を出しにくいのである。
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演出中のミヒャエル・ハネケ監督 |
3 〈死〉の世界に最近接する老人の心の風景
長男のトマに頼まれ、エヴが自殺未遂を冒した理由を、祖父ジョルジュが訊ねた。
答えられないエヴに、ジョルジュは、自分の妻の写真が収まったアルバムを開いて見せた。
病気で苦しむ妻を介護し、自分が縊死(いし)させたことを告白するジョルジュ。
「正しい選択だった。後悔したことは一度もない。これを話したかった。お前の話を…なぜ薬を盗んだ?」
祖父の告白に触発され、エヴは素直に答えていく。
「クラスの友達を毒殺しようとした…パパが出てった夏、ママは私を臨海学校へ行かせた。精神安定剤をくれた。日に半錠飲むのよと。イヤだった。嫌な子がいた。毎日、彼女の食事に薬を。どんどん、おとなしくなるの。ある日、卒倒したので医者が調べてバレた」
「後悔したか?」
「それほどは…したわ。後悔した。あとになって、彼女は悪くなかったから」
毒殺しようとした相手が、自分が考えていた以上に、「悪くなかった」ので後悔したというエヴだが、結局、そのあと自殺未遂のことを訊かれても、それ以上、何も答えなかった。
母親の一件だけは、少女の中で、秘匿せねばならない行為だったからである。
そこに、どこまで「罪深さ」を感じていたか否かについては、先述した通り。
―― ここで、そのジョルジュの心の風景をフォローする。
エヴの「罪深さ」に関して無視できないのは、妻を縊死させたジョルジュが、「後悔したことは一度もない」と言いながら、スイスへの「安楽死旅行」(「自殺ツーリズム」と呼ばれる)を実行しようと考えていた事実である。
これは、アンヌとトマの会話の中で拾われていた(「スイスの一件」という言葉)。
(因みに、スイスでは安楽死が合法であるばかりか、安楽死を幇助するNGO団体もあり、海外からの「自殺ツーリズム」=「デスツーリズム」をも認めている)
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安楽死するためにスイスに行った女性 |
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68歳で末期の膵臓がんだったスウェーデン人のヨーレル・ブンヌ(右)は、取材から16時間後、医師の助けを得て絶命した。(撮影=宮下洋一) |
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恐らく、ジョルジュの自殺願望は、妻を縊死させた後の心の空洞感を埋める何ものもなく、「自分も逝かねばならない」という観念を抱き続けていたのである。
だから、映像でのジョルジュの相貌(そうぼう)には、〈死〉に最近接する魂だけが張り付き、他者の幇助(ほうじょ)を介する「自殺ツーリズム」をも辞さない、強い欲求が偏流(へんりゅう)していた。
夜半に自家用車を運転して起こした事故は、ブレーキ痕がなかったことで検証されるだろう。
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杖をついて、ロラン家の駐車場に入っていくジョルジュ |
不運にもと言うべきか、この事故の頓挫(とんざ)によって、既遂(きすい)できなかった自殺への欲求の強度が益々上がり、あろうことか、車椅子で街を徘徊(はいかい)し、アフリカ系移民に頼んで拳銃を手に入れようとさえするのだ。
当然、この行為も頓挫する。
言うまでもなく、この行為も頓挫する。
だから、最後の手段に打って出た。
同様に、〈死〉の臭気を感じさせるエヴに頼むことになる。
ジョルジュ家で開催された、アンヌの婚約発表のパーティーの場。
ラストシークエンスである。
先述したように、パーティーを壊そうとするピエールの「叛乱」によって、会場がざわめく渦中(かちゅう)で、車椅子に乗ったジョルジュはエヴを随伴(ずいはん)させ、外に出た。
波打ち際(なみうちぎわ)へと続く斜面をエヴに押させて、車椅子は一気に下っていく。
間近に迫る海。
躊躇(ちゅうちょ)するエヴ。
そのエヴを捨てて、車椅子ごと、海の中に入っていくジョルジュ。
殆ど、半身まで浸(つ)かっていた。
もう、自分でできるのだ。
その時だった。
父のいないパーティーで、状況を判断したトマとアンヌが父を視認し、慌てて走っていく。
その状況下で、エヴはスマホで動画を撮っている。
前述したように、エヴには、これしかない。
「疑似リアル」の世界で呼吸を繋ぐという選択肢しかないのだ。
繰り返すが、「見捨てられ不安」の恐怖を救う唯一の「防衛機制」 ―― 「疑似リアル」の世界だけが、常に、一杯一杯のエヴの思春期自我を守ってくれるのである。
それによって、ジョルジュの「生身の死」を異化し、主体としての思春期自我を守る。
「生身の世界」のアクチュアリティー(現実性)から距離を保持すること。
異化である。
想定し得るイメージを言えば、暗澹(あんたん)たる人生に食い千切られるという心像(しんしょう)を持つが、断定してはならない。
「理非曲直」(りひきょくちょく)を弁(わきま)えた大人と出会うことで、エヴが変わる可能性は充分にある。
この映画のモデルとも言える、「静岡女子高生母親毒殺未遂事件」(「タリウム母親毒殺未遂事件」)の容疑者が女子高生であったのに対して、エヴはまだ、思春期前期の13歳なのだ。
そして、もう一人の人物、ジョルジュは、またしても、自殺に頓挫するだろう。
今回の一件で、自殺願望を捨てるかも知れない。
このジョルジュが、エヴを救う「理非曲直」を弁えた大人になるかについて、全く分らないが、そのイメージに近い行為に振れることも考えられる。
元々、ジョルジュ家は「安らぎ共同体」とは無縁だった。
エヴを救うことで、ジョルジュ家を「安らぎ共同体」に変容させると考えるのは、あまりにオプティミスティック過ぎるだろう。
それでも、私は思う。
人間は、どう転ぶか分らない
どこで切り取るかという、「パンクチュエーション」(区切り)によって、人間の評価は変わるのだ。
人生の評価も変わるのだ。
このように、一本の映画によって、様々なことを考えさせてくれるミヒャエル・ハネケ監督の凄み。
今回もまた、勉強になった。
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子供のスマホ依存とどう向き合う(イメージ画像) |
その2 これは、映画とは直接的にリンクしないが、SNSなどにおいて、価値観の似た者同士で交流し、共感し合うことによって、特定の価値観が増幅され、集団分極化しやすくなり、時には、極端な方向に走りやすい「リスキー・シフト現象」の罠に嵌りやすいということ。即ち、「交流」⇒「共感」⇒「共有」⇒「自己閉鎖系な膨張」の流れの中で、誤情報の広がりという危うさを持つのである。これを「エコーチェンバー現象」と言う。
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エコーチェンバー現象 |
また、「エコーチェンバー現象」に似ているが、ユーザーが好む情報のみが選択的に提示されることで、価値観が固着し、社会から孤立する傾向を生む「フィルターバブル」の現象の危うさも指摘されている。
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フィルターバブル |
「インターネットで何でも世の中のことを知ることができる。情報の洪水です。でも、それらは表面的なものだけで、実際に体験したことではない。それはリアリティとはまったく関係がない。結局、我々は何も知らない、見ていないのと同じです」
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インターネットの活用が将来を切り開く(イメージ画像)https://toshi.life/article/fudosantoshi/6165
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このミヒャエル・ハネケ監督の言葉は、映画を代弁するものでもあるが、私も同感する。
ハネケ監督最新作の批評、ありがとうございます
返信削除あなたのファニーゲームに関するブログ記事を観て目から鱗となり、それ以降ハネケ監督のファンになりました
削除監督作品のDVD-BOXを購入し、ハッピーエンドを劇場で観に行きました。
一貫性がなくあやふやな点が多いと思いますが、鑑賞して個人的に気になった点を列記させて頂きます
このコメントは投稿者によって削除されました。
削除このコメントは投稿者によって削除されました。
返信削除・屈折した少年期を送ったピエール
返信削除ピエールの反抗的な態度は「見捨てられ不安」とは思いませんでした。ブルジョワ階級で育てられ、母親との意思疎通が社会的な行為に置き換えられ、不透明になったことに対する屈折したモラトリアム期の裏返しであるように思えました。この母子関係で真っ先に連想する監督作は「ピアニスト」です。物語終盤で娘が母親に性的衝動をぶつけるシーンは、特定の家庭環境で健全な親との衝突が出来ないまま成人を迎えた子供の、なす術が無い感情の発露であると思います(これは全くの私の主観で、考察の余地が残るシーンです)。今回の映画に関して言えば、我が儘ととれるピエールの家出が最後のSOSであり、分岐点であったのではないかと思います。
その行動だけ切り取ればピエールに過失があるのは当然ですが、それまでの仕事に没頭するワーカーホリックなアンヌの描写をみると、息子への社会からの視線を排除した健全な愛情表現が不足していたことは想像に難くありません。優秀なアンヌにとっては仕事の処理で頭を一杯にし、精神を武装することが、ブルジョワ家庭の未来を担うという大役の重圧から逃れる合理的手段であり、その結果息子との適切なコミュニケーションを犠牲にしてきたと考えます。それはピアニストの娘の「母親の夢の実現」という自己像とは異なりますが、仕事以外のコミュニケーションに対する致命的な不器用さ・鈍感さという点では一致していると思います。それは再婚相手を仕事の為に選んでしまう精神の貧しさからも読みとれます(直接の描写は無いですが、愛情表現の描写もまたありません)
SOSである家出をした後、期待が裏切られた息子がアルコールを武器に、いたずらにエネルギーを消耗する「反抗期」を遂げようとするさま。こじつけかもしれませんが、拡大解釈すれば、そのラストは「ベニーズビデオ」の後半の告発に通じるものがあり、さらには現実の身勝手な犯罪のメカニズム(環境因子)を示唆するものと解釈しました
・自殺を遂行する意思があるとは思えないジョルジュの行動の不可解さ
削除最初の自家用車での自殺未遂以降の行為は、あまりに不用意に思えます。そもそもなぜジョルジュは本来の家族ではなくエブに過去の犯行を独白したのでしょうか。ジョルジュ自身の建前と本音がごちゃ混ぜになっており、本人ですら無自覚に言葉を発している気がします。銃を手に入れようとする二回の行動は不用意で、それが家族に知られれば却って目的が頓挫することは明白です。かかりつけの理髪師は家族に知らせる可能性が高かったですが、実際はそうなりませんでした。結局新しく家族に仲間入りした少女エブにそれを独白します。これも家族に知らされることは無かったですが、エブに過去の犯行を知らせるという一つの目的は果たしました。一方で自身の希死念慮を打ち明けてはいません。
ジョルジュの心情を読みよくキーであるエブに対する「なぜやった?」という質問の意図は本作では謎のままです。エブの犯行も衝動的な見捨てられ不安から来る自殺未遂をしたように、ジョルジュも結果を観れば同様の行為を行っているからです。ひとつ気になるのは「なにをやった」ではなく「なぜやった」である点です。この飛躍した言葉はエブからより多くの情報を引き出すためであると同時に、機能不全的な行動を起こすジョルジュ自身が「結果が先行し、常に出口のない自問自答に苛まれている」「行動と普段の思考・心理が乖離している」ことを示唆しています。つまりこの一言が本作ハッピーエンドで葛藤する人物エブ、ジョルジュ、ピエールに共通する点で、本作の基幹メッセーシだと思います。エブの答えは「分からない」です。私もエブの意見と同意ですが、あえて言うなら、このブログで度々挙げられている「コミュニケーションの不可能性」と表裏一体の特定他者からの愛情表現への希求、「誰かに本音を打ち明けたい。切羽詰まった複雑な心情を理解してもらいたい」というSOSの一種だと思います。それはラストシーンまでにジョルジュが遠回しに周囲にアピールするような不可解な行為からも明らかだと思います。ジョルジュの家庭では個人化が進み、打ち明けるべき身内が不在であり、そもそも葛藤がどこまでも個人のものであり、言語化するのが不可能です。しかも殺人という性質上、家族に打ち明けることはより困難になります。それは「家族に相談できずに犯行を完遂してしまった」ジョルジュの体験からも言えることであり、「身近な人であるほどコミュニケーションが困難である」というハナケ監督の主張とも一致します。人間は自我を消耗する程の葛藤の末に、「オートマチック」としか形容できない、周囲から見て不可化な行動に振り切る。その状況を映像で示したと解釈しました。特にエブの手を借りて入水自殺しようとするラストシーンはあまりに突発的で、不可解なシーンでした。「あの家族のメタファーともいえるカットを撮る為」というより、ジョルジュの周囲への「私の荒廃した心情に気づいて欲しい」という抑圧されたSOSが、無意識的に彼を行動に駆り立てたように思えます。パニックに陥ったエブにもそのSOSは当てはまります。最後まで人間の心理と行動の振れ幅の予測不能さを観る側に突き付けているように思えました。
蛇足ですが、ジョルジュに関して個人的に引っかかっているシーンがあります。物語の中盤でエブに対し「お前誰だっけ?」と尋ねるシーンです。鬱による記憶の混乱とは思えず、認知症を連想するカットであると思いました。なぜそのシーンを挿入したのか、あまりに前後との繋がりが無いように思い、未だに意図が見えていません。考えられるのは観た人に対する一種のミスリードです。「ジョルジュは年をとってボケていたから訳の分からない行動をとった」と安易に解釈する余地を与え、一方で思考材料を増やしたのかと思いました。映像は断片的であり、観る側にゆだねていると思います
削除・父トマの不用意な行動
返信削除トマが作中で娘エヴにチャット不倫の事実がばれるまでの一連の行動は、冒頭のエブの送迎のシーンの親子関係を再構築しようと努めるシーンと乖離していると感じました。また、エヴが予想以上に察しが良かったことを差し引いても、社会的身分を考えればあまりにリスキーであることは否めません。私はトマのチャット行為にプライベートの趣味嗜好の枠を超えた必然性を感じました。
作中でトマの性格を決定付ける行動は、ブログの内のご指摘の通り「トマの父・ジョルジュが、自家用車を運転し、自殺未遂と思われる追突事故を起こし、車椅子の生活を余儀なくされる重傷を負った現実の只中でも、トマは、このようなチャットを楽しんでいる」というシーンです。
しかし「むしろ、父・ジョルジュの追突事故に関わり、疲弊し切った感情が、愛人からのチャットに性的興奮を搔(か)き立てるような行為に振れたとも考えられる。恐らく、人間とは、こういう生き物なのだろう」という解釈は少し説明不足に思えます。私が個人的に気になったのはトマの他者に対する共感性・道徳観の欠如とチャット依存との関係性です。トマのチャット行為は意識的・無意識的に関わらず結果としてトマ自身の他者への共感性を薄め、結果的に数々の不用意な行動を招いた可能性があると思います。「道徳脳とは何か(ローレンスR.タンクレディ著)」 8章p.131にソマティックマーカー仮説(情動に関わる部位である辺緑系の活動は前頭葉に影響する。即ち人間の意思決定の大枠に影響する)という理論が挙げられています。そこには性欲ホルモンの脳への影響が大きいと愛情に関わる物質の分泌量が低下し、主に前頭葉の活動である他者への共感も減少する、とあります。トマはエブの送り迎えの際にもらい泣きしそうになる描写があります。サイコパス(周囲への共感性が欠如し、社会を破壊する)であるとは考えにくいですが、性的倒錯を含むチャット依存であることで、慢性的に自己コントロール能力が欠如した状態であったと思います。よって、エヴを家に招いてもチャットの疑似不倫を継続し、ジョルジュが命の危機に遭っても愛情や共感性に欠け、性的衝動を優先していたと考えます。それがトマの生来的な性癖なのか、現実逃避の為の手段に過ぎないのかは分かりません。私は監督作の「ピアニスト」の主人公と共通点があることから、ブルジョワ家庭において両親の愛情を十分に受けずに育ち、自分の領域を確保できないまま大人になった結果、そのフラストレーションが限定的でインモラルな空間に向かい、性的倒錯と家族に隠すスリルで脳を肥大させ、増長した結果、人間関係にトラブルが表出したと解釈しました。家庭環境とSNSの存在が重要な因子の一種だったと思います
コメントをありがとうございます。
削除私が知っている限り、ハネケ監督は、エビデンスの最高レベルであるメタアナリシスの視座によって、観る者に、高みから問題提起するような、一方通行の作品を構築する映画作家ではありません。
一言で言えば、観る者と、問題意識を共有することを求め、「一緒に考えよう」というスタンスを崩しません。
ハネケ監督がヒューマニストである所以です。
だから、観る者にカタルシスを保証しないのです。
カタルシスを保証しないから、否が応にも、観る者は思考を求められます。
この辺りが勘違いされて、「底意地が悪いハネケ」という齟齬が生じます。
「システム1」(ファストシンキング)による「分ったつもり」を、できる限り排除したいのだと思います。
提示した映像に対して、観る者が様々に解釈する余地が生まれるのは、この中枢的文脈に淵源します。
それでいいのだと思います。
それが、映画批評の生命線です。
例えば、本作で言えば、トマの場合、エヴとの関係構造の中でのみ、意味をもたらされ、「キッチュ」という記号を与えられていたと、私は考えています。
だから、トマの存在は、恐らく、それ以上でも、それ以下でもない役割設定であるということです。
ピエールについて言えば、母アンヌとのダブルバインド状況の中で、メタメッセージを被弾し続けたことで、自我の確立運動に頓挫したが、そこに生き残された感情の残滓から、なお母とのシェアリングを断ち切れなかった結果、「見捨てられ不安」が生じたと考えています。
その思いは、自らが取締役から全面的に奪われる事態を感受したことによって、母の再婚のパーティーで爆轟し、炸裂する。
そういうことです。
ジョルジュについて書けば、物理的に、死への最近接を果たし、不履行に終焉する。
そこには、何の含みもない。
ただ、死ぬ。
それだけである。
もとより、死は観念でしかない。
人間は、死を「経験」できないからです。
死への最近接を果たし、不履行に終焉したら、物理的な死は、「非選択的な死」によってしか自己完結できないのです。
それに対して、エヴの場合、ジョルジュの「生身の死」を異化する。
観念としての死が、物理的な死によって自己完結するという本質的理解もまた、エヴにとって、どこまでも観念の延長でしかない。
「見捨てられ不安」という感情系を本質にするエヴの自殺未遂は、自罰性を含みながらも、「疑似リアル」でしか生きられない少女の、観念のゲームの収斂点だった。
従って、「生身の死」に突き進むだけのジョルジュの死は、「生身の死」をも異化するエヴの死との間に、位相の違いを見せている。
この二つの死は、心理の構造性において乖離している。
短い文だが、私は、こんな風に把握しています。
当然、多くの解釈があって然るべきだし、多くの解釈がなければならないとも考えています。
なぜなら、観る者の感情系が複合的であるからです。
寧ろ、そこに「全て同じ」という、感情系の現象が惹起することこそ、サイバーカスケード現象を想起させるので、厄介な事態であると思わざるを得ない。
ただ、問題意識を共有できれば、それでいいのです。
(佐々木良雄)
ご返信、どうもありがとうございます
削除正直、返信して頂けると思っていなかったので、心の整理ができていません。嬉しいやら、反射的に書いた稚拙な文章を後悔するやら、複雑な心境です.
>私が知っている限り、ハネケ監督は、エビデンスの最高レベルであるメタアナリシスの視座によって、観る者に、高みから問題提起するような、一方通行の作品を構築する映画作家ではありません。一言で言えば、観る者と、問題意識を共有することを求め、「一緒に考えよう」というスタンスを崩しません
ハネケ監督が自身の映像構成をドキュメンタリーではなくポートレートと称する通りですね。その問題意識を汲み取れるか否かが重要かと思います
>だから、観る者にカタルシスを保証しないのです。カタルシスを保証しないから、否が応にも、観る者は思考を求められます。この辺りが勘違いされて、「底意地が悪いハネケ」という齟齬が生じます。
同意です。彼の作品が安直なアンチテーゼやカウンターの一種であり、果てはポジショントークや憂さ晴らしのように捉えられるのは余りに発想が貧困だと思います。
>「システム1」(ファストシンキング)による「分ったつもり」を、できる限り排除したいのだと思います。提示した映像に対して、観る者が様々に解釈する余地が生まれるのは、この中枢的文脈に淵源します。
>例えば、本作で言えば、トマの場合、エヴとの関係構造の中でのみ、意味をもたらされ、「キッチュ」という記号を与えられていたと、私は考えています。だから、トマの存在は、恐らく、それ以上でも、それ以下でもない役割設定であるということです
なるほど。あくまでフォーカスの対象はエヴであり、エヴの行動パターンを描くにあたって父親の存在を提示しただけで、トマ個人の心理に触れる必要があったわけではないんですね。そこまで踏み込んでしまうとスローシンキングに切り替わることなく、トマの行動=原因でエヴの行動=結果、という上辺の映像で終始してしまい、冒頭の母親との一連の経緯のカットがあまり意味を為さなくなりますね。監督の考えを背景に説明して頂いたので腑に落ちました。私はてっきりトマも描写した上で遺伝因子・環境因子を含め多軸的に問題提起し「家族以外のSNSという格好の逃げ場所の存在による、(これまでの時代と比べて)問題解決の困難さ」までを視聴者に提示していると思っていました
(ファストシンキングはダニエル カーネマンの著書の主張でしょうか。全くの勉強不足なので後日調べてみます)
息子ピエールと母アンヌに関しても、母は映像構成上ある種の記号的文脈、という解釈なのですね
ジョルジュとエヴの解釈について、個人的にまだ理解が及ばない点があるので、色々考えてみたいと思います。ジョルジュに関して「果たしてそこまでストレートに死に向かえるのか?」という疑問があるからです。
>死への最近接を果たし、不履行に終焉したら、物理的な死は、「非選択的な死」によってしか自己完結できないのです。
という指摘で、私は真っ先に北野武監督作の「ソナチネ」を想起しました。しかし、あれはヤクザが物理的に孤立するという特殊な状況で、ある種の諦観の末に行き着いたラストです。とある、癌を告げられた患者が死に至るまでの心理プロセスが複雑で起伏に富み、周囲との衝突が顕著であるように、一度「死の最接近を果たし」失敗したジョルジュが、顕著な感情の起伏も他者への承認欲求も無く、ストレートに「生身の死」に直行できるのか。私にはそれがよく分からないのです(ハネケ作品に納得を求めるのは間違いですが)
ラストはそれまでと異なり、家族が近くにいる状況での自殺未遂でした。エヴの手を借りており、エヴが急いで誰かを呼ぶ可能性もあります。そこまで不用意な行動を「非選択的な死」と形容するより、「心境はストレートどころか複雑で、死の際でも他者との関係(共感)を頭から排除することができなかったのではないか」と考えました(稚拙な言葉で申し訳ありません。直観的な疑問と捉えてください)
エヴの見捨てられ不安に関しては同意です。自殺未遂は自罰性がメインでは無い点も含めて、異論有りません。「非選択的な死」と「生身の死」という対比の話が非常に興味深かったです
今回も鋭い視点の批評文を書いて頂き、ありがとうございます。また作品を見直す際に違った視点で観られることを喜ばしく思います
今後もブログの更新を楽しみにしています。頑張って下さい!٩( ^ω^ )وワクワク