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2021年2月17日水曜日

ドラマ特例篇 「この戦は、おのれ一人の戦だと思うている」 ―― 「『麒麟がくる』本能寺の変」・そのクオリティの高さ

 

万感の思いで本能寺を見つめる明智十兵衛光秀



1  寂寥感漂う悲哀を映し出す究極の「盟友殺害」の物語  

 

 

 

「『麒麟がくる』・本能寺の変」(最終回)をて、涙が止まらなかった。

 

テレビを観ない習慣が根付いていながら、「麒麟がくる」だけは別格だった。

 

理由は、本木雅弘が斎藤道三を演じるという情報を得たこと。

 

下剋上の象徴の如き戦国武将・美濃の蝮(まむし)を本木雅弘が演じたら、一体、どのような人物像になるか。

 

それが堪(たま)らなく魅力的だった。

 

期待に違(たが)わず、美濃の蝮の独壇場の世界が、大河序盤で全開するのだ 

斎藤道三


庶長子・斎藤高政(義龍)に殺される道三


もう、止められなくなった。

 

正直、主役の明智十兵衛光秀 (以下、「十兵衛」とする)を演じる長谷川博己には、殆ど期待薄だった。 

若き日の十兵衛を演じる長谷川博己

映画を通じて観ていたが、特段に惹きつけられることもなかった。

 

まして、上流層からも招かれる博打好きの名医・東庵(とうあん)、その東庵の助手で本篇で最も重要な役割を担い、「麒麟」という理念の象徴的存在となる駒、家康の忍び・菊丸、旅芸人一座の座長で、関白・近衛前久(さきひさ)や朝廷と十兵衛との仲立ちをする、伊呂波太夫(いろはだゆう)といったオリジナルキャラクターが次々に出て来て、当初は、大河ドラマの創作性の高さに馴染めなかったが、馴致するのも早かった。 

東庵(左)と駒(右)

伊呂波太夫


所詮、テレビドラマであると決め込んでいたからだ。

 

ところが、次第に十兵衛の存在に目を離せなくなってくる。

 

特に、道三の壮絶な死後、信長と十兵衛の関係が描かれていくに連れ、見逃せなくなってきた。 


東京オリ・パラによる5週分の放送休止(全44回に縮小)や、新型コロナウイルス(COVID-19)・パンデミックの怒涛のような激流(実際に、2カ月に及ぶ収録の一時休止)もあり、これまでの「戦国もの」の印象と異なり、定番の合戦シーンと、その行程表現が希薄であった代わりにシフトしたのが、主要登場人物、就中(なかんずく)、十兵衛と信長の関係の心理描写が丹念に描かれていて、「戦国絵巻」の渦中での精緻な人物造形に吸い込まれていくようだった。

 

これが、「『麒麟がくる』・本能寺の変」という、それ以外にない王道の最終篇の中で、埋め草の余情という心像をも超え、決定的に奏功する 

最も切ないシーン・「二人で茶でも飲んで暮らさんか」

「そうか…十兵衛か」と呟くシーンの切なさは、観る者の中枢に喰い込んできた


想像の範疇を超えた圧巻の最終回に心打たれ、絶句した。

 

 「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」と謡って、「敦盛」(幸若舞)を舞うという、あまりに気障(きざ)な「本能寺の変」の定番描写を破壊する演出に驚きを隠せなかった。

「敦盛」(幸若舞)


ここで描かれた信長像が、従来のイメージを完全に払拭し、「非常にナイーブな信長像」(脚本家の池端俊策)として提示されたこと。

 

まさに、意表を突かれた時の心地よい感覚の充足感 ―― これが観る者を衝いてきたのだ。

 

「信長という人物は、戦国時代のスーパーヒーローです。異端児としても知られていますね。側近の平手政秀は信長の奇行をいさめるために腹を切ったといわれるなど、信長の異端ぶりは『信長公記』をはじめ、いろいろと語り継がれています。でも、僕はいままでのような剛直で独裁者風で、偉大な信長ではなかったのではないかと思っています」 

池端俊策

池端俊策の言葉である。

 

「母親は弟の信勝ばかりかわいがって、信長のことはむしろ疎ましく思っていた。母親に愛されなかった信長というのが浮かび上がってきます。少なくとも母親から愛されなかった男の子が抱くコンプレックスはなんとなく想像がつく。その裏返しとして異端児、つまり不良少年のようにふるまうようになったのではないか。そういう人ほど、こころは繊細であることが多い」 

若き日の信長の孤独

これも、池端俊策の信長論。

 

この「非常にナイーブな信長像」を演じた染谷将太が、出色の演技力を炸裂させ、「麒麟がくる」の面白さが全開していく。 


そして、この信長に「麒麟」を見た十兵衛が、足利義昭と信長への両属状態の中で、加速的に存在感を可視化し、まさに長谷川博己のドラマと化した。【因みに、「麒麟」とは優れた王が世を治める、中国神話に現れる伝説上の霊獣のこと】 


明智光秀のイメージが一変するのだ。 


かくて、以下の池端俊策の言葉に収斂されるように、「『麒麟がくる』・本能寺の変」において、十兵衛と信長の心理の交叉は、寂寥感(せきりょうかん)漂う悲哀を映し出す究極の「盟友殺害」でピークアウトに達したのである。 


「光秀は信長を殺したくて殺すわけでもなく、憎らしいから殺すわけでもありません。やむを得ず、自分の親友を殺したんです。ここまで一緒に歩いてきて、一緒に夢を語った相手を殺すのはつらいですから、本能寺で信長を殺しても『やった!』という快感ではなく、悲しさがありますし、大きな夢を持った人間は、やはり大きな犠牲を払わなければならない。その心の痛みを描きました」 


創作性の高さを認知してもなお、「『麒麟がくる』・本能寺の変」が神業級の凄みを見せたのは、撮影カメラが十兵衛の内面の世界に深々と潜り込んで、「盟友殺害」に至る心の振れ具合を描き切ったという一点にある。

 

それが、信長の「是非もなし」という、代用が効かない絶対言辞のうちに極まったのだ。

 

そして、本篇が何より抜きん出ているのは、十兵衛の内面の漂動を精緻に汲み取り、謀反を決意するまでの回想シーンを四つに分断させ、それを駆使した演出のシャープさ ―― これに尽きる。

 

以下、概略をフォローしていきたい。

 

 

 

2  「わが敵は、本能寺にある。その名は、織田信長と申す」

 

 

 

天正10年5月(1582年) 安土饗応。 


「十兵衛、膳が違うぞ!」 


「すぐにお取替えします」

信長の理不尽な言葉から開かれた、武田家滅亡に成就した家康の戦勝祝いの席(饗応膳)での、十兵衛に対する打擲(ちょうちゃく)の惨さ。 


打擲される場を見て、驚愕する家康

平謝りするのみの十兵衛

「饗応役を解く」と言い放ち、十兵衛を罵倒する信長(左は森蘭丸)


この理不尽な打擲の背景に渦巻いているのは、十兵衛と家康が睦む姿を見た信長の嫉妬感である。 

信長の嫉妬

「あれこれ言うたが気にするな。家康が、あの場でどうするか、様子を見ておきたかったのじゃ」 


打擲したら、もう気が済んだ信長は、怒りに震える十兵衛に、こう言い放った後、光秀と縁深く、身内同様に信頼できる四国の長宗我部征伐を命じるのだ。

 

十兵衛の必死の説得に、信長は聞く耳を持たない。

 

「さような大事な話を、私に一度もなさらず」

 

この十兵衛の思いをも無視し、信長は「もう、決めたのじゃ」と言うや、信じ難い言辞を放つ。

 

「毛利攻めについてじゃが、そなたには、やってもらいたい大事なことがある。…足利義昭を殺せ。将軍を殺せ。それは、こたびのそなたの役目じゃ…将軍がいる限り、わしの戦は終わらぬ」 


合理的な思考の産物だが、この下命(かめい)を聞き、十兵衛の震えが止まらない。 


ここで「最終回 本能寺の変」という字幕が提示され、本篇が開かれていく。 


京の館に戻る十兵衛。 


そして提示される、最初の回想シーン。

 

「ここで鯛を釣っていれば、殺されることはないからな。そなた一人の京であれば、考えもしよう」 


                 「そなた一人の京であれば、考えもしよう」


備後(びんご/現在の広島県東部)の鞆(とも)にいる、将軍・足利義昭の言葉を思い出す十兵衛。

 

その義昭を殺すことなど、できよう筈がない。

 

館に戻った十兵衛は、重臣の左馬助(十兵衛の従弟で、明智秀満のこと)に「義昭殺し」を命じられたことを告げ、「わしにはできん」と言い切った。 

十兵衛と左馬助(左)

「わしにはできん」


盟友と信じる細川藤孝に会いたいと述べ、左馬助から彼の居場所を聞き出すや、公家衆たちで開かれた「蹴鞠(けまり)の会」に参加している藤孝に会いに行く。

 

平安時代以降、宮中において催されていた球戯・「蹴鞠の会」で、件(くだん)の藤孝は関白・近衛前久(このえさきひさ)から、信長と十兵衛の関係が悪化している事実を伝えられ、動揺していた。 

                     細川藤孝と近衛前久


「私は明智様に背(そむ)いて欲しい。信長様に勝って欲しい」
 

伊呂波太夫

これは、その近衛前久に、十兵衛の一件を知った伊呂波太夫の物言い。

 

近衛家に拾われ、育てられた捨て子の彼女は、一貫して朝廷を重んじる十兵衛をサポートするのだ。

 

再び、館で想念を巡らす十兵衛。

 

ここで、二つ目の回想シーンがインサートされる。

 

「将軍を殺せ」

「私に?将軍を?」

「そなたと戦(いくさ)のない世を作ろうと話したのは、いつのことじゃ。10年前か、15年前か。そなたと二人で、延々と戦をしてきた。将軍を討てば、それが終わる。二人で茶でも飲んで暮らさんか。夜もゆっくり眠りたい。明日も戦のことを考えず、子供の頃のように、長く眠ってみたい」

「二人で茶でも飲んで暮らさんか」

「長く眠ってみたい」


「私には、将軍は討てませぬ」 


十兵衛を睨みつける信長が、そこにいた。 


ここで現実に還る。

 

十兵衛の館に藤孝がやって来た。

 

十兵衛の次女(実際は三女)で、藤孝の嫡男・忠興(ただおき)の正室・たま(のちの細川ガラシャ)も随伴していた。 

細川藤孝(中央)、忠興、たま(右)


藤孝と二人になって、十兵衛は、「義昭殺し」の下知(げち/
命令)があったことを告げた後、藤孝に共に立つことの覚悟を迫る。

 

「覚悟とは…?  どれほどの覚悟でございましょう」


「覚悟には果てはありませぬ」
 


盟友同士の会話だが、藤孝は十兵衛の意に沿わない行動に振れていく。

 

十兵衛に謀反の臭気を感じ取った藤孝は、秀吉に文(ふみ)を送るのだ。 

秀吉に文を送る藤孝(右)


三つ目の回想シーン。

 

「力ある者は皆、あの月へ駆け上がろうとするのじゃ。数多(あまた)の武士たちが、あの月へ上るのを見てまいった。そして皆、この下界に帰って来る者はいなかった。信長はどうか。信長が道を間違えぬよう、しかと見届けよ」 

「信長が道を間違えぬよう、しかと見届けよ」

これは、正親町天皇(おおぎまちてんのう)と謁見(えっけん)した際に、十兵衛が貰い受けた言葉である。

 

この時の天皇の言葉を反芻(はんすう)し、煩悶する十兵衛。 


現実に還った十兵衛は、幸福な日々を繋いでいる娘たまに、柔和に話しかける。

 

「戦に出ずとも良いようにせねばならんなぁ、そなたは忠興殿と長く生きよ。そのために、わしは戦(たたこ)うと見せる」 

愛娘(まなむすめ)たまへの辞別(じべつ)



父の言葉の含みに不安を覚えるたま


天正10年5月、光秀は本拠地である丹波に入り、愛宕山に籠(こも)った。 

愛宕山に籠る十兵衛


そして開かれる、四つ目の回想シーン。

 

「殿は大きな間違いを犯しておられます。帝(みかど)の御譲位のこと。家臣たちの扱い。初めてお会いした頃、殿は海で獲った魚を浜辺で安く売り、多くの民を喜ばせておられた。名もなき若者たちを集めて家臣とされ、大事に育てておられた。心優しきお方。人の心が分かるお方と思うておりました。しかし、殿は変わられた。戦の度に変わってゆかれた」 


信長に苦言を呈するのだ。

 

そこに、帰蝶(道三の娘で、信長の正室。濃姫とも呼ばれる)の言葉が回想される。

 

「毒を盛る、信長様に。今の信長様を作ったのは父上であり、そなたなのじゃ。その信長様が独り歩きを始められ、思わぬ仕儀(しぎ/事態)となった。作った者がその始末をなすほかあるまい」 


ここで、信長の勁烈(けいれつ)な一撃がインサートされる。

 

「わしを変えたのは戦か。違う!乱れた世を変え、大きな世を作れとわしの背中を押したのは、誰じゃ!そなたであろう。そなたが、わしを変えたのじゃ。今更、わしは引かぬ。そなたが将軍を討たぬと言うなら、わしがやる。わしが一人で大きな国を作り、世を平らかにし、帝さえも平伏(ひれふ)す万丈の主(あるじ)となる」 


この愛宕山において、十兵衛は決断する。

 

帝(みかど)すらも隷属(れいぞく)させるという信長の言辞に、遂に切れてしまったのだ。 

信長を「月に上り、帰らぬ武将」にせんと決断をする男

決定的に、その意志を堅固にしたのである。 


5月29日、信長はわずかの共を連れ、本能寺に入った。(ナレーション)  


京の館で、十兵衛は伝吾(藤田行政)、左馬助、斎藤利三(としみつ)の三人の重臣に決意を告げる。

 

「我らは、備中へいかん。京へまいる。わが敵は、本能寺にある。その名は、織田信長と申す。信長さまを討ち、心あるものと手を携え、世を平らかにしていく。それが我が役目と思い至った」 

「わが敵は、本能寺にある。その名は、織田信長と申す」


十兵衛は立ち上がり、刀を抜いて家臣に問う。

 

「誰でもよい。わしが間違(まちご)うていると思うなら、この太刀でわしの首を刎(は)ねよ。今すぐ刎ねよ」 


十兵衛と心を一にしてきた伝吾は、凛として反応する。

 

「殿。皆、思うところは同じでございまするぞ」 

左から伝吾、左馬助、利三

伝吾

左馬助と利三も頭を下げ、応え切った。

 

「同意でございます」 

左馬助

一切が決まった瞬間である。

 

 

 

3  「この戦は、おのれ一人の戦だと思うている」

 

 

 

その夜、家康の忍びの菊丸が、光秀のもとを訪れた。

 

「今、我が殿は堺にいます。此度、私は家康様の御側付き(おそばづき)を解かれ、十兵衛様をお守りするよう命じられました」 

菊丸

この菊丸に対し、既に文を用意していた十兵衛は、並々ならぬ意志を表出する。

 

「わしはこの戦は所詮、おのれ一人の戦だと思うている。ただ、この戦に勝った後、何としても家康殿のお力添えをいただき、共に天下を治めたい。200年も300年も穏やかな世が続く政(まつりごと)を行(おこの)うてみたいのだ。もし、わしがこの戦に敗れても、後を頼みたいと、そうもお伝えしてくれ。今、堺におられるのは危ういやも知れぬ。急ぎ、三河にお戻りになるのがよい…菊丸も、ここから去れ。新しき世になった折、また、会おうぞ。これは、わしからの一生一度の願いだ」


堺にいる家康

そう言って、菊丸に文を託した。

 

「6月1日夜、明智光秀の軍勢は、亀山城を出発した」(ナレーション) 

 

備中 羽柴秀吉の本陣

 

その頃、備中にいる秀吉は、細川藤孝からの文を読んでいた。 

羽柴秀吉

「明智様が、信長様に歯向かう怖れがあると言う。やればよいのじゃ。明智様が上様をやれば面白い。官兵衛。これ、毛利など相手にしてる場合じゃないぞ。高松城(注)など、さっさと片づけて、帰り支度じゃ。明智さまが天下(てんが)をぐるりと回してくれるわい」  

「明智さまが天下をぐるりと回してくれるわい」

秀吉の表情から笑みが漏れるようだった。

 

かくて、「本能寺の変」を聞き知った秀吉は、毛利方と和睦を結ぶや、「中国大返(おおがえ)し」(軍団大移動)を断行し、「山崎の戦い」(現在、京都府大山崎町)で光秀を破った史実は周知の事実。 

備中高松城本丸址公園(ウィキ) 

秀吉の中国大返し


山崎合戦の地 石碑(京都府大山崎町/ウィキ)

(注)「備中高松城の戦い」 ―― 秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を水攻めにしたことから、「高松城の水攻め」とも呼ばれる。(Wikipedia 

 高松城の水攻め(ウィキ)

天正10年6月2日早暁 

 

十兵衛の軍勢は、本能寺を取り囲んだ。 


「かかれ!」 


この十兵衛の合図で、寝床に入っていた信長を急襲する1万を超える軍勢。 

伝吾

異変に気付き、床から起き上がった信長。 


「いずこの軍勢じゃ」

 

水色桔梗(ききょう)の旗印(明智光秀の家紋)を見て、森蘭丸(近習=諸々の雑用係)から、明智の軍勢であると知らされる信長。 


水色桔梗の旗印を見つめる信長(右は蘭丸)

「十兵衛か…」 


そう呟くや、弓を射られた信長は奥に入っていく。 


「十兵衛…そなたが…そうか…十兵衛か」 


そう言って、大きく笑う信長。

 

その目には涙が滲んでいる。 


「であれば、是非もなし」

 

目頭が潤っている中から、絞り出した言葉だった。

 

信長は、槍と弓で応戦するが、所詮、多勢に無勢。



鉄砲に被弾し、奥に戻り、部屋の前で蘭丸に命じる。

 

「わしはここで死ぬ。蘭丸、ここに火をつけよ。わしの首は誰にも渡さぬ!わしを焼き尽くせ」

 

そう言い放って、信長は部屋の中に入る。

 

これが、十兵衛と共に「大きな国」を夢見た男の、まさに、この男らしい最期の言葉となった。

 

本能寺に火の手が上がり、信長は月に上り、帰らぬ武将となったのだ。 


最後の回想シーン、幾分、叙情的だった。

 

尾張での十兵衛との最初の出会いを、炎に焼き尽くされる中で思い出す信長 


十兵衛との最初の出会い

信長死す

本能寺の炎を凝視し続ける男もまた、今、炎に焼き尽くされる男との思い出に浸っている。 


この男の目頭も熱くなっている。 


信長との最初の出会い

桶狭間の戦いでの勝利の行列で、信長の顔を思い出す十兵衛。 


十兵衛の回想シーンは続く。

 

「大きな国」と言う十兵衛に、笑みを作り、「これぐらいか」と言って、「大きな国」のパフォーマンスをする信長。 


二人で大笑いするのだ。 



「麒麟を呼ぶ人が、必ず現れる」という駒の話を回想する。 

「麒麟」の話をする駒

駒の話に聞き入る若き日の十兵衛


その駒と東庵のもとに、十兵衛の謀反を伊呂波太夫が報告する。

 

現実に還る。

 

本能寺から引き上げていく十兵衛に、伊呂波太夫が近づいて、声をかける。

 

「きっと、こうなると思っていましたよ。帝もきっとお喜びでしょう。明智さまなら美しい都を取り戻してくださると」 


十兵衛も力強く反応する。

 

「美しい都。それは約束する。駒殿に伝えてもらえるか。必ず、麒麟が来るようにして見せると。そう言って頂ければ分かる。麒麟は、この明智十兵衛光秀が、必ず呼んで見せる」 



笑みを残して、去っていく十兵衛。 


それを見守る伊呂波太夫。

 

「この日、明智光秀は天下を取った。『本能寺の変』は人々を驚愕させ、事態を一変させた。織田家家臣筆頭の柴田勝家は、遠い戦地で身動きが取れず、為す術がなかった。光秀の有力な味方と思われていた武将たちは、一斉に沈黙した。徳川家康は次の事態に備えるために、三河へ走った。しかし、光秀の天下はここまであった。6月13日に、西国から思わぬ速さで戻って来た羽柴秀吉が立ち塞がったのである。光秀は敗れた。世の動きは一気に早まった」(ナレーション) 


堺にいる家康の命を懸けた「伊賀越え」

謀反に加わらなかった藤孝

味方と頼んだ筒井順慶も動かず


どこまでも、「おのれ一人の戦だと思うている」という男の戦が、ここに自己完結する。 


 

 

4  「平らかな世」を求めて、広い大地を駆け走っていく

 

 

 

本能寺の変から三年後 天正13年 1585年

 

東庵は、正親町天皇と双六(すごろく/賭博)に興じていた。

 

「これまでも、力ある武家の棟梁が立ち上がっては世を動かし、そして去っていく。世が平らかになるのは、いつのことであろう」 


帝(みかど)の言葉である。

 

一方、駒は、備後の鞆(とも)にいる足利義昭に会っていた。 


「世を正しく変えようと思うのは、志じゃ。わしは大嫌いだったが、信長にはそれがあった。明智十兵衛には、はっきりとそれがあった」

 

この話に耳を傾けていた駒は、驚くべきことを口に出す。 

 

「ご存知でございましょうか。十兵衛さまが生きておいでなさるという噂があるのを。実は密かに丹波の山奥に潜み、いつかまた立ち上がる日に備えておいでだと言うのです」 


義昭と別れた駒は、帰路、十兵衛らしき武士を見て、その後を追う。 


しかし、その武士は人混みの中に消えていく。

 

「十兵衛さま…」

 

呆然と立ち竦み、十兵衛の残像を追う駒。 


ラストシーン。

 

馬に乗って走っていく武士が、大きく映し出される。 


十兵衛である。

 

なお「平らかな世」を求めて、未来に向かう十兵衛が、広い大地を駆け走っていくのだ。 


このドラマは、月に上り、「帰らぬ武将となった男」と、「馬を駆け、『麒麟』を捜す旅を繋ぐ男」の物語だった。 


同時に、このドラマは、「怖れを知る者」が盟友であると信じた「怖れを知らぬ者」を、「おのれ一人の戦」として殺害する物語だったと言っていい。


【群を抜いて優れたドラマは、謀反に至るまでの回想シーンの分断の挿入によって、二人の男の内面的な世界を精緻に映し出し、完成れていったのである。の構築力の高さこそ、本篇のクオリティ高さを裏付けたと、私は考えている。ついでに言えば、「強者絶対」・「弱者横死」を描かなかったこと。これが観る者の琴線に触れる感動のラストに結ばれたのである】

                    愛宕山に籠り、回想する十兵衛



 

―― 以下、「日経BizGate」・「本能寺の変 信長の死角は『ガバナンス軽視』」からの引用である。

 

「『信長の第1のミスは京都に要塞=居城を築かなかったことだ』と桐野氏(歴史研究の桐野作人氏)は断言する。本能寺を取り囲まれた信長は脱出もできず、戦闘は短時間に終了したというのが最近の学説だ。軍事的な拠点で抗戦すれば違った展開もあり得ただろう。この教訓をいかしたのが、後の天下人なった豊臣秀吉だ。光秀に勝利した後は、山崎城、妙顕寺城、聚楽第、伏見城と、晩年まで京都市中か郊外に堅固な城塞を保持した。 

本能寺跡碑(京都市中京区/ウィキ)

もっと大きなミスとして桐野氏は「織田家の領国支配を規定する分国法(法)を制定しなかったこと」を挙げる。ガバナンス軽視だ。稲葉一鉄と光秀がヘッドハンティング巡って争った一因は、織田家に規定が存在しなかったためとされる。戦国大名の武田氏や今川氏は成文化した法律を定めたが、織田家では信長自身が、『法の上の存在』で終生変わらなかった。 

分国法


しかしその結果は、信長の裁定や判断に幻滅し、不信感の増大から信長一人を倒せば良いといった考えを生じさせかねなかった。明智光秀、荒木村重、松永久秀、別所長治、鈴木(雜賀)孫一、浅井長政…統一事業を目指し信長が版図拡大していった途上で、いったんは帰服しながら後に反旗を翻した武将は多い。この点を反省したのが徳川家康だった。家康は大名だけでなく朝廷や公家らも法的に拘束する多くの『諸法度』を定め、約260年間続く徳川幕府の基礎を固めた」 

武家諸法度

【参考資料】 

「麒麟がくる最終回のネタバレ,あらすじ『本能寺の変』」 「大河ドラマネタバレ感想日記」 「<麒麟がくる>衝撃ラストに視聴者騒然 『光秀生存説』に含み ドラマCPは明言せず」 「本能寺の変 信長の死角は『ガバナンス軽視』」 「【麒麟がくる】作者・池端俊策氏が語る 『非常にナイーブな信長像』狂気と紙一重」


2 件のコメント:

  1. こちらのブログにお世話になって、はや6年になります。
    時々(というか半分くらいは)私の理解力を超えていて、そういう時は飛ばし読みせざるを得ませんが、難しい漢字には読み方や説明を欲しいとリクエストした手前もあり、ずっと読ませていただいております。
    人生に迷って誰かにアドバイスが欲しくなった時、身近に頼れる年配者がいないこともあり、いつしかこちらのブログを気づいたら読むようになっていました。
    人生的映画評論と銘打っているだけあって、映画の評論としてだけでなく、私にはちょっとしたセラピーのようなものになっている気がします。
    「思うようにならない人生こそが、普通の人生である。」
    「程度の差こそあれ、温もりのない人生は存在しない。」
    といった言葉の数々に、何度も助けられてきたような気がします。

    前から時々考えることなのですが、映画って、鑑賞されたその時々に、本当の意味で完成するものだと思います。
    もちろん作り手側からすれば、完成したから世に出すわけですが、受け手側である鑑賞者が、鑑賞して初めてその映画の様々なことが決定していく部分が多いと思います。
    同じ出来事でも、受け手によって取り方が色々だからです。
    受け取り方なんて十人十色だから自由だろ、と言えばそうなんですが、やはりそこは正しく受け取りたいからこそ、こっちも鑑賞者としてのレベルを上げていかなくてはならなくなるわけです。10年前には理解できなかった映画が、今はわかるなんてことは、やはりあると思う。
    作り手側と同じ熱量で作品に鑑賞者として対峙できれば一番いいのですが、やはりそういうわけにもいかず、常日頃の自分の力量で作品に臨まなくてはならない。
    つまり何が言いたいのかと言いますと、人生的映画評論を読むことって、私にとっては、自分で映画を見るよりも高い次元で映画に向き合えているような気がして、「もう自分で見なくてもいいか」ってくらい、気持ちいい感じなんですね。本当は半分くらいは理解できていないと分かっていますが、それも今の自分にとっての人生的映画評論が完成する瞬間だと思えば、素直に納得してわからないところはスルーしていきます。
    そういうわけで、これからもよろしくお願いします。

    最後に、私はロドリゴ・ガルシアの「愛する人」という映画がとても印象に残っています。
    うまく言えませんが、私にはとても大切な映画のような気がしました。
    もしまだ見ていなかったら、ぜひ見て欲しい作品です。では、また。マルチェロヤンニ

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  2. マルチェロヤンニさん、お久しぶりです。ずっと読んでくださっているとのことで、恐縮すると共に、感謝いたします。
    観たい映画が見つからず、映画評論を離れていた時期もありましたが、少し間を置いたあと、再び心を揺さぶる作品と出会うことで、また書こうという気持ちが湧いてきました。
    映画作品は作り手のメッセージをしっかり受け止めることは大切ですが、同時に映像はそれ以上のものを表現しているので、自分自身の過去の記憶や感情体験に引き寄せて解釈する余地は多いにあると思います。一定の妥当性の中で、さまざまに考えさせられる作品だからこそ、深く心に刻まれ、自分なりの解釈を映画評論として書いて、長く記憶に残したくなるのです。それを読んで、少しでも共感していただけるのなら、とても嬉しく思います。
    ご紹介の「愛する人」はいつか借りて観てみます。コメントをありがとうございました。

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