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2023年5月4日木曜日

百花('22)  複層的に覆う負の記憶が解けていく 川村元気



1  「息子がね。また迷子になってしまったんですよ」

  

 

自宅の団地でピアノ教室を開く葛西百合子(以下、百合子)が、シューマンのピアノ曲「子供の情景 7番 トロイメライ」を弾いている。 

百合子

玄関の音がしたので立ち上がると、百合子が一輪の花を持ってキッチンに入って来た。

 

再び「トロイメライ」が聴こえてきて、部屋を覗くと百合子がピアノを弾いているが、途中でメロディが乱れる。

 

百合子が見える世界の再現である。

 

大晦日の夜、音楽ディレクターをしている息子の葛西泉(以下、泉)が百合子を訪ねて来たが、真っ暗な部屋に百合子の姿がない。

 

泉は慌てて外に出て、夜の町を走って探し回り、公園のブランコに座っている百合子を発見する。 




「半分の花火が見たいの」と呟いている百合子に、「母さん」と声をかけると、立ち上がって、「寂しかったわ」と泉の胸にもたれかかってきた。

 

思わず「やめてよ」と言って、泉は百合子を突き放し、我に返った母は、買い物に行こうと思ったと弁明し、家に戻って年越しの食事を支度する。

 

新年の挨拶を交わし、ソファの隣に座った百合子は、「今日、泊っていくんでしょ?」と甘えるように泉の腕を掴むので、ちょうど妻・香織(かおり)からの電話を取り、仕事のトラブルだと嘘をつき、泉は早々に帰って行った。 



香織の妊娠検査に付きそう泉は、百合子から電話があったことを聞かされる。 

香織

その際に「半分の花火」の話をしたと言うが、泉はその言葉に覚えがなかった。

 

泉と香織が勤めるレコード会社に共に出勤し、バーチャル・シンガーKOEのプロジェクトに出席する。

 

「KOEは記憶のアーティストです。楽曲・歌声・容姿…1000人以上のアーティストから学習させています。加えて感情を育てるために、様々な記憶をデータ化し、KOEにも体験させています。ディープラーニング(機械学習の発展形)によって人工的に外見を作る際に…人類の記憶の中にある理想のアーティストを目指して調整を重ねている段階です」(チームの田名部のアナウンス) 

泉(左)と香織(右)


その頃、スーパーで買い物をしている百合子が、楽しそうに走り回る二人の少女に、「走ると危ないよ」と声をかけ、再び買い物を続け陳列棚を一回りすると、また少女たちが走るので声をかけるという動作を繰り返す。 


通路の先に一人の男性が立っているのを見つけた百合子は、「浅葉さん!」と呼びかけながら出口に向かう男を追いかけ、買い物かごを持ったまま店の外に出たところで店員に捕捉されてしまった。

 

仕事中の泉に電話が入り、万引きで警察沙汰となった百合子を引き取りに行く。

 

そこで泉が香織の妊娠を報告すると、手を叩いて喜ぶ百合子。

 

病院でMRIを撮り、医師から進行性のアルツハイマーと診断され、薬で進行を遅らせることはできるが効果は限定的との説明を受け、泉はショックを受ける。 


泉は、百合子と楽しく過ごした少年時代を思い出していた。

 

「これからが大変だと思います。お母さんをしっかり支えてあげてください。認知症になったからと言って、何もかもを忘れたり、分からなくなったりするわけじゃありません…敬意と愛情を持って接してあげてください」 



百合子は傘を持って雨に打たれながら泉を探し、団地の階段を何度上がっても同じ2階のドアに突き当たり、その部屋に上がって通路を進むと、泉が「走れメロス」を音読している教室に入っていく。 

迷路になった団地の中を彷徨う


豪雨の中、ヘルパーが目を離した隙に、百合子がいなくなり、泉は「お母さん!」と呼びながら必死に母を探す小学生の自分と重ねながら、走り回るのだ。 

警察から連絡を受ける

警察に保護された百合子は、泉の顔を見ると、「どこに行ってたの?ずっと探していたのよ。でもよかった。やっと見つけた…」と言って、満面の笑みを浮かべる。 


「息子がね。また迷子になってしまったんですよ。もう暗くなるし、雨も降ってくるし。泉はね、傘を持ってなかったんですよ。どこかで凍えてるんじゃないかって心配で…」

 

夏になり、産休に入った香織と共に百合子を訪ねる。 

二輪挿しのヒマワリを買おうとする香織に対し、「うちは昔から一輪挿しだけなんだよ」と言って一輪を戻す泉


道すがら、香織は百合子との同居を提案する。

 

「でも、もう決めたから」


「泉と一緒にいたいんじゃないかな」

 

まもなく、百合子を海辺の介護施設に入所させることになった。 


百合子は気に入った様子だったが、帰り際、バスに乗ろうとする泉の手を引っ張り、「お花、買ってきてね」と手を握る。 


泉はその手を振り切り、バスの後部座席に座ると、母を振り返ることもなかった。 



実家に戻り、テーブルや冷蔵庫のゴミの片づけをする泉。

 

小学生の時、母に置き去りにされ、満足に食事も摂れず、祖母に電話をかけた過去の記憶が蘇る。 

「お母さん、帰って来ない…」


百合子の部屋のベッドの傍らに認知症の本が置かれ、複数のメモ用紙が挟まれていた。

 

食材や自分の名前、ヘルパーさんの名前や来る時間など、忘れないように書き留めていた百合子の、認知症の進行に抗う努力を目の当たりにして涙する泉。 


直後、ベッドの下から手帳が見つかり手に取ると、思わず嘔吐する泉。 


若い頃の百合子が、神戸の阪神電鉄のすぐ横に走るアパートで、浅葉(あさば)と同棲生活を始めた。 

浅葉

母の手帳には、その時の様子が書かれていたのである。

 

浅葉は百合子のピアノの生徒で、家族を残して神戸の大学に教授として単身赴任する際に、百合子を誘ったのだった。 

浅葉との出会い

「好きな曲が一緒だったと分かった時、うれしかったなぁ」(浅葉)


浅葉は1月1日の百合子の誕生日にプレゼントを忘れなかったが、仕事で帰れないこともあり、百合子は「寂しかった」と身を寄せる。

 

それは、認知症になって無意識的に想起されるエピソード記憶だった。

 

【記憶には基本的に、意味記憶、エピソード記憶、手続き記憶という 3種類の長期記憶がある】 

エピソード記憶


浅葉が不在の夜明け、阪神大震災の激しい揺れに襲われた百合子は、ベッドから起き上がって浅葉の名を呼び、倒壊した街を彷徨う。 


走り出して海に出た百合子は、朝陽を浴びながら、「泉」の名を呟く。 

「泉…泉…」


浜辺で、小学生の泉と海を見る情景が浮かんだ。 


いつしか、「泉!泉!」と海に向かって絶叫するのだった。

 

 

 

2  「何で忘れてんだよ。こっちは、忘れられねぇんだよ!!」

 

 

 

香織を連れ、百合子のホームにやって来た泉は、百合子に訊ねる。

 

「あの時さ、なんで俺を置いていったの?」 


答えられない百合子に、職員が来て、お天気なので庭に出ることを促す。

 

香織が手を繋いで歩いていると、突然、百合子が告白する。

 

「私、泉に許してもらえないでしょうね。とても苦しめたと思うの。きっと恨んでるでしょうね」


「そんなこと…」

「でも私…後悔してないの」

 

帰りのバスを待ちながら、体調のいい百合子を外出させる話になる。

 

「どこか、行きたいところありますか?」と香織。

「花火…半分の花火、見たい」


「半分?」と泉。

「お義母さん、今度調べておきますね」

 

バスに乗車しようとする泉を、百合子が唐突に抱き締めた。

 

「ごめんね…愛してる」 


泉は無言でバスに乗り込む。

 

遠ざかるバスを見つめる百合子。

 

「お義母さん、元気そうだったね」

「でも、もうすぐ俺のことも分からなくなるよ」

「私、妊娠した時、あんまり嬉しくなかったんだよね。このまま働けるかなとか、お酒飲めないんじゃんとか、そんなことばっかり考えちゃって」


「そっか…母さんさ、1年ぐらい家にいなかったことがあったんだよ。俺が小学生の頃。なんか、男と一緒にいたみたいで…もしかして、知ってた?」

「まあ、なんかあったんだろうなとは思ってたけど…だって泉とお義母さん、ちょっと変な親子だもん」

「変か。そんなんで親になれんのかな。生まれた時から父親いないし、母親は子供を捨てて出ていくし…」

「親だからって、ずっと正しくいられるわけじゃないし。私だって、いつか逃げたくなるかもしれない。お義母さん、ずっと謝ってるよね。ごめんねって。いつまで謝らせるの?」

「どうせ、すぐ全部忘れるよ」 



香織がスマホで「半分の花火」を探し出し、泉が百合子を花火大会へ連れて行った。 


「泉、ありがとう。連れて来てくれて」

 

その瞬間、花火が弾ける大きな音がする。

 

湖面いっぱいに、「半分の花火」が広がる。 


「こんなにキレイなのに、いつか忘れちゃうのかしら…」

 

一瞬の隙に、百合子の姿が見えなくなった。

 

人混みを探し回る泉が、再び、少年時代の自分と重なる。

 

会場の外れで佇む百合子。

 

「あなた、すぐ迷子になるんだから」

「それは、母さんの方だろ」

「知ってるのよ。あなたは私に捜して欲しくて、わざと迷子になってたんでしょ?私、半分の花火が見たいの」


「母さん、今見たばっかりだよ」

「違うの。半分の花火をあなたと見たいの」

「お願いだから、もうちゃんとしてよ!」

「見たい見たい!半分の花火を見たいの!」

 

百合子は地団太を踏んで、錯綜する過去の出来事を話す。

 

「もう落ち着いて」と言う泉の顔をまじまじと見る百合子。

 

「あなた、誰?」

「え?母さん、俺だって」

 

百合子は湖の中に逃げていく。

 

「母さん、俺だって!」

「イヤ!イヤ!」

 

泉が近づき腕を掴むと、激しく抵抗する百合子。

 

「もう、いい加減にしろよ!」

「誰?」

「何で忘れてんだよ。こっちは、忘れられねぇんだよ!!今見た花火も、あんたに捨てられたことも…勝手に忘れられちゃ困るんだよ」


「ごめんね…私、半分の花火が…見たいの」

 

後日、百合子がホームでトロイメライを弾く。 



出産する香織の手を握り、産まれたばかりの赤ん坊を抱いて涙する泉。

 

実家の荷物を整理する泉が、娘を抱いて百合子を見つめる。

 

「結局、全部忘れちゃったな」


 

香織が百合子に挨拶をするが、見向きもしない。 



縁側に座る百合子の隣で横になった泉が目を覚ますと、夜になっていた。


 

起き上がって目にしたのは、団地の建物の上に見える「半分の花火」。 


「キレイ!今まで見た花火の中で、一番キレイ」


「そう?」

「こんなにキレイなのに、いつか忘れちゃうのかしら」

「忘れないよ。だって半分だもん」

「そうだね」

 

二人で笑い合った少年時代の泉と百合子の会話だった。

 

「あ…母さん、俺すっかり忘れてたよ…母さん、見える?半分の花火だよ。ねえ、見える。母さん…ごめん…」 


今や何も反応しなくなった百合子の手を握り、涙する泉。 


少年時代の楽しかった母との思い出と、ホームでピアノを弾き終わった時の百合子の笑顔が映し出され、ラストカットは、百合子が望んだ二人で「半分の花火」を見る後ろ姿だった。 


 

 

3  複層的に覆う負の記憶が解けていく

 

 

 

認知症の問題が主題になっていない物語のコアにあるのは、どこまでも、母子の関係の捩(ねじ)れの克服の可能性。 


一人息子・泉を置き去りにした過去の罪悪感。

 

これが百合子の心に溜まる澱(おり)となっていた。

 

この罪悪感が認知症に罹患してから、少年時代、しばしば迷子になった泉を案じて探しに出るという行為に結ばれる。 

「どこに行ってたの?ずっと探していたのよ」


泉に対する彼女なりの贖罪だった。

 

そして、泉を置き去りにする以前の、心安らぐ時間を共有したであろう過去の思い出を再現することで、澱みと化した罪悪感からの解放を無意識裡に切望する。

 

それが「半分の花火」を二人で見ることだった。

 

「半分の花火」という映画的な記号表現には、この含みがある。

 

一方、泉には、児童期の1年間、母からネグレクトされたという、妻・香織にも話せない強烈なトラウマを内深く抱え込んでいて、成人期になっても解放されることはなかった。 

冷蔵庫を漁る泉少年
帰宅しても母がいないので、「母さん、母さん」と叫ぶ泉少年


これは嘔吐のカットで自明である。 

母の手帳を読んだ直後、嘔吐することになる


この記憶は泉の自我を複層的に覆っていた。 



あれほど愛情豊かに接する母の思い出と共に、母を探し続ける不安と恐怖に苛まれた記憶が、認知症になって徘徊する母を探し歩く行為にオーバーラップし、煩悶するのだ。

 

母の記憶から全てが失われようとするまさにそのとき、自分のトラウマを訴え、難詰(なんきつ)することさえできない感情の束を母に対峙し、噴き上げてしまうのだ。 

認知症になった母を探し続ける


しかし、もはや手遅れだった。

 

妻の香織との間に子供が生まれ、家族を持った泉は、母との蟠(わだかま)りも薄れ、解けていた。 


複層的に覆う負の記憶が解けていくのだ。

 

母が一番大切にしていたエピソード記憶が蘇生し、リピートされていく。

 

それは、自分が覚えていなかった、二人で団地の「半分の花火」を見た思い出だった。 


母の内側で保持され続けてきたこの記憶に触れた時、泉は根源的に救われるのだ。 


母の泉への愛情の深さを知ったからである。

 

ここで、頓挫したKOEのエピソードが想起される。

 

「いろんな記憶ゴチャゴチャ詰め込んだけど、結局、何者でもなくなっちゃったっていうか。忘れる機能をつけりゃよかったんですかね、KOEに。そっちのが人間らしくなったのかもって」 


プロジェクトのスタッフのぼやきであるが、人間らしくするには「忘れる機能」をつけると吐露するのである。

 

これが逆説的な言い回しであることが自明である。

 

その含みは人間の記憶の束の複雑さを意味し、それ故に必ずしも他者と共有し得ない情報量の在りようが、却って人間が抱え込む問題の解決を難しくする事態を示唆しているように思われる。

 

だから、物語の母子が抱え込む問題の解決の難しさもまた、相互に共有し得ない負の記憶のみが膨れ上がって、「追い詰める子」と「謝罪する母」という関係構図だけが二人の中で特化されていった。

 

それを解いていったのが、我が子が忘れていた「半分の花火」の思い出の記憶だったというわけである。

 

(2023年5月)

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