1 十字砲火
「太平洋戦争中、最大の激戦地の一つとなったガダルカナル。ジャングルに覆われたこの南太平洋の小さな島で、日本軍はアメリカの正規軍と本格的な戦闘を交え、戦いは昭和17年8月から明くる18年2月まで半年間に及んだ。この間、日本軍は3度総攻撃を仕掛け、その都度、同じ失敗を繰り返し、徒に犠牲を積み重ねた。ガダルカナルに送り込んだ日本軍の数は3万1400、内2万人余りが戦いと飢えと病で亡くなった。日本軍はなぜ同じ失敗を繰り返したのだろうか」(ナレーション)
ドキュメント太平洋戦争 第2集 敵を知らず己を知らず ~ガダルカナル~
「日本から直遠距離にして、およそ6000キロ。遥か南太平洋のソロモン諸島に浮かぶ島・ガダルカナル。日米両軍の半年間にわたる激戦は、この島の名もない飛行場を巡って始まった」(ナレーション)
「この場所に、最初に飛行場を作ったのは実は日本軍でした。急拵えの短い滑走路1本だけという状態だったんですが、しかしその滑走路こそ、日本軍の南方での最前線基地であったわけです。そしてその飛行場での日米の戦闘で、それまで不敗を誇っていました日本陸軍は初めて惨敗を喫して、これ以降、日米の形勢は大きく逆転してゆくことになります。このガダルカナルの戦いを巡る戦いに関しては、戦後、色々な角度から敗因の分析が行われているんですが、私たちは中でも、当時の日本陸軍という組織が持っていた体質的な欠陥に注目しました。それは己を過信し、敵を侮り、学ぶことを忘れた体質という欠陥です。その欠陥がガダルカナルを筆頭に多くの悲劇を生み、日米を敗戦へと向かわせる重要な要素になったと考えるからです」(山本肇・NHKキャスター)
「日本軍はなぜ、6000キロも離れた島で侵攻を始めることになったのか。昭和16年12月8日、太平洋戦争開始と同時に東南アジアを攻略、マレー、フィリピンなど一気に占領していった。開戦前の陸軍の計画では東南アジアを占領した時点では持久戦に入り、それ以上、戦線を広げない方針であった。しかし、予想を上回る戦果にあっさり方針を転換した。昭和17年4月、日本軍は海軍の主導のもとに、更に戦線の拡大を決定して、まずアリューシャンとミッドウェー、次にニューギニアとフィジー、サモアの攻略である。ガダルカナルの飛行場は海軍が前線基地として建設した。こうした作戦基地の拡大を始め、太平洋戦争中、日本軍の全ての戦略を決めてきたのは大本営である。大本営は政府から全く独立した天皇直属の機関である。天皇は日本軍を指揮する最高の権限、所謂、統帥権を持っている。その統帥権の行使を直接補佐してたのは大本営で、そのため大本営の参謀たちは作戦決定にあたって、総理大臣でさえ口を差し挟めない強い権限を持つことができたのである。大本営陸軍部、奥の院とも言える一室があった。参謀でもごく限られた人物しか入ることが許されなかった作戦課の部屋である。開戦以来、陸軍の作戦はこの密室で全て策定された。田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、そして辻政信作戦班長。この3人が中心だった。辻はマレー・シンガポール作戦の成功で『作戦の神様』と言われ、相次ぐ戦線の拡大の中、作戦の参謀たちは海軍の基地に過ぎないガダルカナルに誰も注目していなかった」(ナレーション)
「一方、アメリカは日本軍への反撃の第一歩をガダルカナルから始めることに決定していた。上陸部隊の切り札はバンデクリフト少将率いる第一海兵師団であった。海兵隊は1920年代から敵前上陸の専門の部隊として陸海軍より遥かに厳しい訓練を重ねてきた。開戦後、アメリカはガダルカナルを手始めに、大西洋の島々を攻め上って日本本土に迫るという壮大な構想を立てていた。海兵隊は、その作戦において欠かすことができない先兵だった。昭和17年8月7日、激しい艦砲射撃と共に、アメリカ軍のガダルカナル上陸作戦が始まった。第一海兵師団の上陸を援護したのは、空母3隻・巡洋艦12隻など、50隻余りの艦隊。アメリカ海軍は太平洋にある殆ど全ての艦隊を動員したのである。圧倒的なアメリカ軍の兵力の前に、日本軍はジャングルに逃げ込んだ。この時、ガダルカナルにいた日本軍はおよそ2000人。その殆どは飛行場建設のための労働者であった。逃げ遅れた労働者たちはアメリカ軍の捕虜になった。アメリカ軍はその日のうちにガダルカナルを無血占領した」(ナレーション
| 海兵隊 |
| 逃げ遅れた労働者 |
「アメリカ軍のガダルカナル上陸の第一報は直ちに大本営に届いた。しかしこの時、陸軍部作戦課では、ガダルカナルがどこにあるのか、その名前すら知らなかった。当時、陸軍は蒋介石を屈服させるため、100万の大軍を動員する重慶侵攻作戦の準備に追われていた。そのため南太平洋の作戦の兵力は僅か1万だった」(ナレーション)
【日本陸軍は南京を首都にする蒋介石の「国民政府」は降伏すると見通しを立てたが、蒋介石は長江上流の重慶に拠点を移し抵抗を続け、英米も蒋介石率いる中国国民政府を支援するため、ビルマ・ルートなどを通じて軍需物資を中国内陸部へ輸送した補給ルートである「援蔣ルート」を通して支援を続けた。戦争が膠着する中で、1938年1月、近衛内閣は蒋介石政権を見限り、「国民政府を相手とせず」という声明(第一次近衛声明)を発表した。かくて講和交渉を行わず、日本に協力的な新しい政権との関係構築を目指す」と宣言した方針だが、日中戦争の戦争目的が不分明のまま続くこととなり、混迷を深めていた。これが日中戦争の長期化を決定づける大きな要因になっていく/筆者】
「昭和17年8月18日、ガダルカナル奪回のための第1陣が送り込まれ、一木清直大佐率いる一木支隊の先遣隊、その兵力は900人余り。1万人を超えるアメリカ軍に対し、なぜこれほど僅かな部隊しか派遣されなかったのか。元々、大本営はアメリカ軍の本格的な反撃を昭和18年半ば以降と思い込んでいた。その上、敵兵力を2、300人と甘く見積もっていた。一木支隊の誰もがアメリカ軍と戦うのは初めてだった。しかし、不安を持つ者はいなかった」(ナレーション)
「これは開戦前、参謀の辻政信が中心になって書き記した『これだけ読めば戦は勝てる』と題する冊子である。南方作戦に赴く兵士たちに配られたこの冊子には、『敵は中国兵よりも弱虫。武器はあっても、それを使う兵隊は弱いから役には立たない』など敵を侮る言葉が溢れ、ガダルカナル作戦の頃、大本営陸軍部が描いたアメリカ軍の宣伝ビラが、この漫画である」(ナレーション)
「第一海兵師団のアメリカ兵も日本と戦うのは初めてであった。情報将校セイヤー・ソウル少尉。『元々、日本軍のことなど全然知りませんでした。取るに足らない存在だと思っていたのです。でも真珠湾攻撃やマレーの勝利の時からガラリとイメージが変わっていきました。日本人はジャングルで生まれ育つから世界一タフな戦士になれるからとか、死を怖れないスーパーマンなどといわれるようになったのです』。当時、欧米の雑誌に載った日本兵のイメージです」(ナレーション・回想)
「一木支隊は8月17日、タイボ岬に上陸、飛行場を目指し、行軍2日でイル川に到着した。一木支隊がとった戦法は夜間の白兵突撃である。夜陰に乗じて敵陣地に入り込み、銃剣突撃で一気に決着をつける。日本軍が最も得意とした戦法である。この肉弾突撃には機関銃が8丁と大砲が2門あるだけだった。この時、バンデクリフトの海兵隊司令部は一木支隊上陸の情報を既に掴んでいた。正面に塹壕が掘られ、機関銃が300丁、大砲50門など一木支隊の数十倍の火力が配備された。8月21日未明、一木支隊900名は総攻撃をかけた。イル川西岸を目指した兵士たちの目にかつて目にしたことがない光景が現れた。機関銃の十字砲火である。戦いは日本軍の一方的敗北に終わった。夜が明けると、一木支隊は全滅していた。916人のうち777人が戦死。死亡率は85%に達した。以下、情報将校セイヤー・ソウルのインタビュー。『あの光景は、今も目について離れません。あまりに凄まじい光景に、私はそれまで経験したことがない大きなショックを受けました。しかしそれでも、フィルムだけは回し続けました。何しろ太平洋戦争でアメリカ軍が勝った初めての戦闘だったのです。そして、恐らくこれは日本兵の敗れた姿を写し出した最初の映像になったはずです』。バンデクリフトは翌日、海兵隊司令官ホルコム中将に、こう報告した。『私はこんな戦闘の仕方を見たことも聞いたこともありません。日本兵は降伏するのを拒むのです。進んで自爆しようとしたり、手榴弾で粉微塵になろうとするのです』」(ナレーション・回想)
| 一木支隊900名の総攻撃 |
916人のうち777人が戦死。死亡率は85%に 「あの光景は、今も目について離れません。あまりに凄まじい光景に、私はそれまで経験したことがない大きなショックを受けました」
【迫撃砲による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による軽機関銃や手榴弾による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが、自らも命を落とす一木大佐は攻撃を続行した。かくして、機関銃の十字砲火の前に、突撃して戦死するだけの日本兵の映像しか残らない「イル川渡河戦」の凄惨さは、言葉にできないほどに無謀で、アメリカ軍を甘く見た参謀らの無能によって犠牲になった者たちの墓場以外ではなかった。驚かされるのは、突撃して戦死するだけの戦法に固執する参謀らの無能の限りが、なお延長されるという愚かさが太平洋戦争の前線で出来したことである/筆者】
2 白兵突撃
「アメリカ軍を驚かせた白兵突撃という戦法。今の私たちには頭の中で想像するしかありませんが、それでもゾッとするような恐怖感を感じます。しかし夜間の白兵突撃は明治の日露戦争以来、日本の陸軍が最も得意とし、訓練を重ねた戦法でした。その突撃の時に、陸軍の兵士が主に使っていた小銃が三八式歩兵銃と言いまして、日露戦争の直後から太平洋戦争の間まで40年近くにわたって、陸軍の主力銃として使われていました。銃には、ここにある弾倉に弾を5発込めることができるんですが、連続発射ができませんで、槓桿と呼ばれたレバーを操作して、一発目ごとに空薬莢を出さなければいけませんでした。しかも夜間の白兵突撃の時には、敵に気づかれないように射撃は禁止されていました。その際、銃剣を銃の先端に差して、文字通り、剣一つでアメリカ軍の十字砲火の中に飛び込んでいったわけです。極端に言えば、日本陸軍は日露戦争当時と変わらない武器と戦法で太平洋戦争を戦いました。一体なぜ、この時代錯誤に陥ったのでしょうか。当時日本人は大和魂という言葉に見られるように、日本人の精神力だけは特別だと思い込もうとしたことにも、原因の一つがあるように思います。その一つの例として「歩兵操典」があります。天皇の名のもとに定められ、誰もが読まされたもので、白兵突撃を支える精神力が何よりも強調されています。即ち、旺盛な攻撃精神があれば、僅かな兵力で多くの敵を破ることができる。また攻撃精神は能くなど物質的な力を凌ぐことができるとはっきりと謳われています」(山本肇・NHKキャスター)
「夜間の白兵突撃は明治の日露戦争以来、日本の陸軍が最も得意とし、訓練を重ねた戦法でした」
| 弾倉に弾を5発込めることができる三八式歩兵銃 |
「日本人の精神力だけは特別だと思い込もうとしたことにも、原因の一つがあるように思います」
【空薬莢とは、銃で発射された後に中の弾丸と火薬を失い、薬莢だけが残った状態の金属ケースを指し、多くは射撃場や戦場などで地面に落ちているものを言う】
「日本軍は敵が中国からアメリカに代わっても、戦法を基本的には変えようとしなかった。昭和17年8月31日から9月7日にかけて、ガダルカナル奪回の2陣が送り込まれた。川口清健少将率いる川口支隊。今回の兵力は6200人であった。敵の陣地への正面攻撃は、通常3倍の勢力で行うのが常識とされている。川口支隊の兵力はアメリカ軍の兵力の3分の1に過ぎなかった。川口少将は正面突破を試みた一木支隊の失敗を繰り返さないために、途中からジャングル地帯に入り、敵の背後を突く作戦に出た。川口支隊主力は未開のジャングルに分け入った。まともな地図もなく、磁石だけを頼りに道を切り開いていかねばならなかった。60丁の機関銃と20門ほどの大砲が分解されて運ばれた。しかしこれらの武器は、あくまで白兵突撃を援護するためのものだった。最終的に夜陰に乗じて突撃する戦法に変わりはなかった。9月12日夜、各部隊は時刻も場所もバラバラに突撃して行った。再び、十字砲火が浴びせられた。二晩にわたって繰り返された。ムカデ高地は日本兵の血で染まり、のちに“血染めの丘”と呼ばれることになった。二度の失敗を、大本営はどのように受け止めたのか。この時、現地に派遣されていた井本参謀は『敵防御は強く、兵力装備の増強なくば、三度同じ失敗を重ねる』と打電。しかし大本営は、これを弱音としか受け止めなかった」(ナレーション)
川口清健少将率いる川口支隊 ジャングル地帯に入り、敵の背後を突く作戦に出た川口支隊
「ガダルカナルの戦いを前に、日本陸軍は同にような失敗をソビエト軍を相手に経験していた。太平洋戦争前の昭和14年に起こったノモンハン事件である。満州国とモンゴルの国境争いが原因で起こったこのノモンハン事件で、日本軍はソビエト軍が繰り出した戦車や大砲の前に惨敗した。日本軍は日露戦争で勝った相手であるロシアを見下して、同じ白兵突撃の戦法で簡単に勝てると考えていたのである。しかしソビエト軍は、戦法も装備も一新していた。近代兵器が勝利を決した第一次世界大戦の経験を十分に生かしたのだ。日本軍は、世界が近代兵器による次元の違いによる戦いに入っていることを認識していなかった。この戦いで、日本軍の死傷者は2万人近くに上った。ノモンハン事件は日中戦争が泥沼に入っている時期に起こった。当時、大本営中央は事件の拡大を防ごうとした。しかし現地の『関東軍』はこれを無視して戦線を広げていった。この時期、関東軍の作戦参謀だったのは服部と辻であった。二人は事件の収拾の際も徹底抗戦を主張して止まなかった。大本営はこの事件の後、研究委員会を組織し、敗北原因の調査に乗り出した。2ヵ月の現地調査を経て報告書がまとめられた。報告書には日本軍の失敗の核心を衝く提言が盛り込まれた。『白兵突撃より火力を重視せよ 精神力では対抗できない 参謀は独善的な驕りを捨てよ』。小池参謀はこの報告書を参謀総長に提出した。小池参謀はまもなく転属。でも服部と辻は、その後、大本営参謀の要職に就き、太平洋戦争開戦に深く関わることになった。以下、サンディエゴ州立大学日本研究所長アルビン・クックスの回想。『辻や服部などの参謀たちは、ノモンハン事件の失敗を反省しませんでした。自分たちは優秀で決して間違っていない。負けたのは部下が命令通りに動かなかったからだ。悪いのは前線の兵士や連隊長たちで、皆、責任を取って自決すべきだと。現にノモンハン事件では、殆どの連隊長が重圧に負けて自決に追い込まれています。過ちを犯したと思わなければ、同じことを何回も繰り返すのです』」(ナレーション・回想)
異論もあるが、ノモンハンの位置もろくに知らずに、いきなり全面衝突にまで進んだ辻の無責任さによって7700人規模の死者を出した。絶句する(筆者)
| ノモンハン事件についての包括的な研究書を著したことで知られている |
「アメリカ軍は開戦の半年前から、敵・日本を知る準備を始めた。昭和16年6月、サンフランシスコに最初の日本語学校を設立。白人を中心に語学情報将校を養成し始めたのである。当時、日本語に堪能なのは数十人に満たなかった。それを1万人にまで増やすことが目標だった。こうした語学情報将校の第1陣がガダルカナルに送り込まれていった。彼らの任務は、日本軍から捕獲した文書を翻訳し、情報を取ることで、中でも重視したのは日本兵がつけていた日記である。日記には部隊の組織や行動記録など、直接役に立つ情報の他に日本兵の本音が記されている。以下、それらの日記の一部。『昨夜は夕食なし。水があったのは、せめてもの幸い。朝、敵機の爆撃あり。怖ろしく、逃げたい気持ちになる。17時、総攻撃。出発まであと10分。神よ。守りたまえ』。ここで日記は途絶えた。アメリカ軍は日記の中から、日本兵の弱音を拾い出し、情報リポートにまとめた。『日本兵は死を怖れないと思っている者に是非読んでもらいたい。日の昇る国の小男どもが、如何に怖れて絶望しているかが分かるであろう』。次に語学情報将校ロバート・リューリーの回想。『日記には死にたくない。もう、妻の所に帰りたいなどと、本当の気持ちが綴られていました。日本兵は国のため、天皇のためには降伏しないし、怖れないと思っていましたが、アメリカ兵と変わらない、ただの普通の人間だっていうことが分かったのです』。第一海兵師団長バンデグリフト少将は、こう書いています。『日本兵はスーパーマンではなかった。鉄条網や機関銃で捕まえることができる生身の人間だ。これを知ったことは、精神面で大きな助けとなった』。アメリカ軍のもう一つの情報源は捕虜である。語学将校は傷つき、飢えていた捕虜たちに煙草や食べ物を与え、頑なな気持ちをほぐしてから尋問を行った。これもロバート・リューリーの回想。『日本軍は捕虜になったら死ぬしかないのだと教えていたのは、そうでも言わないと、あの無謀な突撃が成り立たなかったからです。つまり突撃のために逃げる道を閉ざすためだったと思うのです。死ぬまで戦って、残るのは名誉だけというのは限界があると思います』」(ナレーション・回想・日本兵・アメリカ情報将校のリポート)
| 頑なな気持ちをほぐしてから尋問を行う様子 |
【死ぬこと以外、何も教えてもらえなかった日本兵が、「生きて虜囚の辱めを受くる勿れ」(「戦陣訓」)という心理的圧力を受けながら、それでも「虜囚」になっても、アメリカ軍の語学情報将校の柔和な尋問の前で、打って変わったように何でも話す捕虜に変容していく経緯は、心理学的にとても腑に落ちる。権力機構からの上意下達のうちに形成され、仮構された「戦陣訓」の観念によって呪縛する自我の裸形の様態が、決して「鬼畜」ではなかった敵の心理的・物質的なアウトリーチに触れることで露わになり、一時の解放感を手に入れることができたからである。これを抵抗不可の「天皇の軍隊」という絶対環境下で「過剰適応」してきただけの状態、即ち「プリゾニゼーション」という厄介な重石を解き放つ「監禁の心理学」によって説明可能である。これが、一部の例外を除けば、普通の人間の普通の行動様態である/筆者】
「昭和17年10月9日。一方、日本軍は2度の失敗を経て、ようやく事態の深刻さを悟るようになった。大本営は遂に、“作戦の神様”辻参謀を現地に派遣した。辻は当時、火砲と弾薬を陸揚げし、正面突破を図ろうとした。しかし、現実はそれを許さなかった。この頃、既に日本海軍は制空権と制海権を失いつつあった。陸軍は輸送船を沈められ、ガダルカナルに孤立していった。火砲の陸揚げがうまくいかず、辻参謀らは川口支隊と同じく、再びジャングルの中を迂回する攻撃に切り替えた。兵力は第2師団と川口支隊の残存兵、合わせて1万5000人である。参謀たちは一度もジャングルに入ることなく、40キロに及ぶ迂回ルートを机上プランで決定した。作戦開始の直前、辻参謀が大本営に送った電報。『密林の障碍の度は予想以上に軽易なり』。しかし険しい山道の行軍は困難を極めた。10月23日、前線の辻参謀の報告。『未だ敵に発見せられあらず。飛行場の敵はテニスをしつつあり』。しかしアメリカ軍は、第2師団の兵力をほぼ正確に掴んでいた。この時、アメリカ軍の兵力は2万6000人。既に防御陣地も補強し終わっていた。川口少将は、前回よりアメリカ軍の陣地が遥かに強化されていることに気づいた。その事実を辻に伝え、攻撃位置を変えるように要望した。だが、進言は退けられ、川口少将は攻撃前日、突然、支隊長を罷免された。10月24日、日本軍は最後の攻撃命令を下した。『天佑神助により一挙飛行場の敵を撃滅せんとす』。そして、攻撃直前の辻の報告。『本夜は確実故次回無電にてバンザイを送る』。日本軍は再びバラバラの状態で銃剣攻撃を決行した。そして、一層激しさを増したアメリカ軍の砲火によって壊滅した。『彼を知り己を知れば百戦して殆うからず』。中国古代の兵法家・孫子は戦術の原則を、こう諭した。日本軍はガダルカナルで、この戦の常道を全く無視し、同じ失敗を3度繰り返したのである。総攻撃に失敗した直後の12月初め、現地の17軍司令部は、敵であるアメリカ軍の戦法について初めて報告書にまとめた。しかし、3度の失敗にも拘らず、その報告書はアメリカ兵は弱いという見方を全く変えていない。また白兵突撃の戦法が決定的威力を持つという自信も変えなかった」(ナレーション・回想)
【第17軍司令部は、ガダルカナル島(現・ソロモン諸島ガダルカナル州)を戦い、ブーゲンビル島(現・パプアニューギニア独立国ブーゲンビル自治州)に侵攻し、ブーゲンビルでの「第二次タロキナ作戦」によって組織的軍事力を失った。そして、1944年6月から7月にかけてのサイパン戦(現・北マリアナ連邦)⇒1944年10月から終戦までのレイテ島戦(現・フィリピン共和国)へと延長され、崩壊するに至った/筆者】

バンザイクリフ(サイパンの悲劇)/追い詰められた日本兵や民間人が身を投じて自決した悲劇の断崖(ウィキ)
3 日本兵の正体
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「辻参謀たちが現地の司令部から送った報告は、強気一点張りの作文に過ぎないものでした。どうしてそんなものが罷り通ったのか。当時、総理大臣だった東条英機自身、かつて参謀の候補だった者たちに、こう訓示しています。『敵情判断に捉われ、敵の行動で自らの作戦を立てるような考えを深く反省を要す』。つまり敵はどうであれ、積極果敢に攻めるという攻撃精神を、東条は強調しているわけです。こうした精神主義は、参謀たちを育てた陸軍士官学校や陸軍大学の教育の中に一貫して流れていて、それが必勝の信念とか攻撃精神を何よりも優先させる風潮をもたらしました。そしてこのことが、デタラメな作文でも『強気であれば罷り通る』という摩訶不思議な現象を生んだと言えます」(山本肇・NHKキャスター/ガダルカナルの森からの撮影)
【敵情判断とは、敵の兵力・配置・行動・企図などを既知の情報から推定し、自軍の作戦や行動方針を決めるために行う判断・評価のことで、敵対者の能力を分析する意味で応用されている。しかし、日本陸軍の致命的瑕疵は「まず、敵を知る」という戦の基本を無視したものだった。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」という、紀元前770年頃から開かれた春秋時代に構築された「孫子の兵法」にすらも届かない時代錯誤のメンタリティで、大規模・機械化された戦争形態が主流の近代戦を戦ったのだ。言葉を失う限りである。因みに、陸軍の士官(少尉・中尉・大尉といった尉官以上の者)を養成するための学校が陸軍士官学校で、陸軍士官の中で、作戦を立案し、方針を決め、判断する「参謀」や、将官(少将・中将・大将)を養成する学校が陸軍大学である/筆者】
【天や神の加護などの人力を超えた何かによって救われるという意味を持つ、「天佑神助」という言葉を振り回す日本陸軍は、こういう観念の暴走によって無数の犠牲を無視してガダルカナルを「血染めの丘」に変えてしまった。餓死者が出ても、一切を兵士の精神の惰弱に責任転嫁して、自らジャングルに入ることなく、大本営から派遣された参謀・辻政信は『密林の障碍の度は予想以上に軽易なり』などと言ってのけたのである/筆者】
「昭和17年11月末、辻参謀は大本営に戻った。この時、大本営では作戦の続行を危ぶむ声が密かに出始めていた。辻は食糧も尽きたガダルカナルの悲惨な現状を報告したが、撤退の進言はしなかった。あくまで奪回しようと言うのか、それとも撤退を決意するのか。大本営の決断は、その後、1ヵ月以上遅れることになる。その間、ガダルカナルの兵士たちは飢えと病に苦しみ、兵士たちの間で広まった生命判断。寝たまま小便する者は寿命あと3日間。ものを言わなくなった者は2日間。瞬きしなかった者は明日。昭和17年12月31日、天皇が臨席した御前会議では、ガダルカナルからの撤退を決定した。だが、その後も服部と辻の責任が問われることはなかった。以下、サンディエゴ州立大学日本研究所長アルビン・クックスの回想。『日本の戦争指導者は、現実的な国際感覚を欠いていました。日本はアジアの小さな島国で、西洋の力をよく分かっていなかったのです。ちょうどペリーが黒船でやって来た時、将軍がどうしていいのか分からなかった時と同じです。日本の軍人は、世界を全体として捉えることができなかったので、いつも行き当たりばったりでした。中国と問題が起こったら、まず中国と戦う。でもその時に、ソ連が気にかかるとソ連とも戦うといった具合に、ただ感情に駆られて戦争を始めただけです。だから、相手のことを十分研究することをしなかった』。昭和18年2月7日、日本軍はガダルカナルからの撤退を終了した。撤退できた兵士は1万655人。この時、一人で歩くことができない兵士は、そのまま島に置き去りにされた。『大本営発表(昭和18年2月9日) ガダルカナル島の作戦中の部隊は、昨年8月以降、引き続き上陸する優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃摧しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり』」(ナレーション・回想)
餓島(がとう)と化したガダルカナルの兵士 ガダルカナルからの撤退を決定した御前会議
「日本の軍人は、世界を全体として捉えることができなかったので、いつも行き当たりばったりでした」 「その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」
【かくてガダルカナル戦は終焉する。ここで重要なのは、「撤退」ではなく「転進」と言い換えた稚拙なトリックである。これは「解任」を「転属」と言い換えたのも、同様の文脈。思うに、ガダルカナルの現状を憂いて、走り続けるしかないバスに乗ってしまった者の、「未知のゾーン」の恐怖を払拭する虚勢でしかなかった。このドキュメントで紹介されていなかったが、私が気になるのは、ガダルカナル島を巡るソロモン海で行われた日米機動部隊同士の海戦、「第二次ソロモン海戦」で露わになる陸軍と海軍の作戦の不一致。ガタルカナル奪回を懸けた一木支隊先遣隊900名の全滅⇒歩兵第三十五旅団長・川口清健少将の指揮する川口支隊5000名の全滅に象徴されるように、空母「龍驤」沈没、艦載機25機損失など日本軍の致命的な敗北の根柢に垣間見える、ガタルカナル上陸を優先する陸軍参謀本部(大本営陸軍部)と、敵機動部隊の撃滅を優先する海軍軍令部(大本営海軍部)との作戦の不一致は看過し難いと言わざるを得ない/筆者】
「ワシントン海軍歴史センター。ここに日本軍撤退した直後、昭和18年2月、ここにアメリカ軍が作成した情報文書が眠っている。そのタイトルは『日本兵の正体』。“我々は遂に彼らの真の姿を捉えた。我々ならば、できる限りの武器を利用して勝とうとするが、彼らにとって武器は単なるアクセサリーに過ぎない。”この背景には精神を重んじる日本文明の方がアメリカ文明より優れているという思い込みがある。これが大和魂の根本を成し、我が国に対する軽蔑の原因ともなっている。こうした日本人の意識も、この戦争を境に変化するだろう。間違いを悟るには、相当の痛手を負わなければならないだろう。ガダルカナル、それはアメリカにとって日本人を知る初めての戦いだった」
“我々は遂に彼らの真の姿を捉えた。我々ならば、できる限りの武器を利用して勝とうとするが、彼らにとって武器は単なるアクセサリーに過ぎない”/画像はワシントン海軍歴史センター
| 「精神を重んじる日本文明の方がアメリカ文明より優れているという思い込みがある」/画像はガダルカナル兵士の遺体 |
4 真珠湾攻撃
【以下、「アジア太平洋戦争」までの簡単な年表と実状】
1931年 9月 満州事変/日本軍が中国の東北部を占領し、満州国を建国
1936年2月 2・26事件
1937年7月 盧溝橋事件によって日中戦争(支那事変)始まる/米英は中国の国民政府に武器を供与したことで日本軍との対立が先鋭化
1939年9月 第二次世界大戦はじまる/ドイツのポーランド侵攻
1940年9月 日独伊三国同盟が締結/東南アジアの資源を確保するためフランス領インドシナ北部(現在のベトナム)に侵攻=(北部仏印進駐)⇒(南部仏印進駐)によって米は対日禁輸政策を発動し、日本は大打撃を受けて太平洋戦争へ/この間、対米交渉が続いていたが、1941年11月、米から厳しい要求が出される(在中・在インドシナ日本軍の全面撤退を求めた「ハル・ノート」)と、日本側は交渉妥結の見込みはないと判断して、最終的に開戦を決定
1941年12月 太平洋戦争はじまる/日本が英国の植民地・マレー半島とハワイ真珠湾を奇襲攻撃(日本は戦争の目的として「自存自衛」、「大東亜共栄圏」の建設を標榜)⇒ラジオから臨時ニュースで「帝国陸海軍は、今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と繰り返し流されて大戦果が報じられ、米英軍との戦力差を全く知らされることも、知ろうともせずに、敵の脆弱さのみ誇張されたことで日本社会の空気は一変した
【以下、「真珠湾攻撃とは|NHK戦争を伝えるミュージアム」より】
「開戦前、社会には閉塞感が漂っていました。中国との戦争は4年以上経っても出口が見えず、国内でも食料や生活必需品が不足、中国を支援するアメリカやイギリスに対する不満が募っていました。米英との戦争は、重苦しい空気を振り払う新しい変化と受け止められたのです。生まれたばかりの子を育てていた30歳の金原まさ子さんは、日記の中でわが子にこう呼びかけています。『血沸き肉躍る思いに胸が一杯になる。(略)“しっかりとしっかりと大声で叫びたい思いで一杯だ。大変なのよ住代ちゃん、しっかりしてね”』。
一方で、行く末に不安を持つ人もいました。作家の半藤一利さんの父親は『バカな戦争なんかはじめやがって。いったいなにを考えているんだ、この国は』と怒っていたといいます(半藤一利 塚本やすし『焼けあとのちかい』大月書店)。しかし、そうした反戦的な言動は法律で罰せられるようになっていました。『言論・出版・集会・結社等臨時取締法』などによって、『人心を惑乱』する言動は禁じられました。
真珠湾攻撃が行われる前まで、日本はアメリカとの衝突を避けるため、日米交渉をつづけていました。攻撃の30分前に交渉打ち切りがアメリカ側に通告される予定でしたが、実際に文書が手渡されたのは真珠湾攻撃後のこと。日本大使館による文書作成の不手際によるものとされていますが、詳しい経緯はわかっていません(現在、日本大使館勤務の外交官の職務怠慢とも言われる)。尚、イギリスに対しては事前の交渉がないまま攻撃を始めています。ハワイやアメリカ本土では、日本軍による次の攻撃があるのではないかと恐怖と混乱が広がりました。各地で空襲警報が鳴り響き、食料買い占めなどのパニックが起こりました。攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は議会で、日本側の通告には「戦争や武力攻撃への警告や示唆はなかった」、日本側は対話をつづけた裏で周到に攻撃を準備していたと激しく非難しました。真珠湾攻撃は『だまし討ち』として、アメリカ国民の激しい怒りを招くことになったのです。一方で大統領は、日米関係の緊張の高まりから、戦争になるおそれを認識していました。ただ、攻撃の日時や場所までは把握できていなかったと、多くの専門家は考えています。
【満州事変からポツダム宣言を受諾までの15年にわたる「アジア太平洋戦争」は、日本人の軍人軍属などの戦死230万人、民間人の国外での死亡30万人、国内での空襲等による死者50万人以上、合計310万人以上(63年の厚生省発表)の犠牲をもたらした。因みに、「アジア太平洋戦争」を、当時の日本政府は「大東亜戦争」と呼んだが、中国や東南アジアも戦場になっていたことから、「アジア・太平洋戦争」が実態を反映した呼び方である。(大東亜とは、東アジアから東南アジアにかけての地域を指す)/筆者】
【拙稿 心の風景「『失敗のリピーター』を止められない日本軍の度し難き生態」 時代の風景「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」を参照されたし】
(2026年5月)








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