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2020年5月14日木曜日

COLD WAR あの歌、2つの心('18)   パヴェウ・パヴリコフスキ


<無音の映像が、俗世との縁を切った男と女の「常(とこ)しえの旅」の情景を映し出す>





1  「それでも私は あの人を抱き締め 死ぬまで愛すでしょう」





1949年のポーランド。

オーディションの厳しさを説明するカチマレク(「マズレク」の管理部長)
マズレク音楽舞踊団を率いるピアニストのヴィクトルは、イレーナ(ダンス教師)と共に、才能ある少年少女を発掘するために、片田舎の村を訪ね歩く。

イレーナの消極的な評価と裏腹に、ヴィクトルは少女ズーラを見出し、彼女が醸し出す音楽的・性的表現に魅了され、忽ちのうちに激しい恋に陥っていく。

ヴィクトル(左)とイレーナ
ズーラに対して厳しい評価をするイレーナ
二重唱で歌うズーラ(左)
ズーラ
殆ど運命的な邂逅だった。

「お父さんと何が?」とヴィクトル。
「誰の父親?」とズーラ。
「君のお父さんだ」
「何のこと?」
「何をしたんだ?」
「私を母と間違えたから刃物で。死んではいません…私に興味が?それとも私の才能に?」

それについて立ち入ることなく、ヴィクトルはズーラの音程のレッスンを続ける。

音程のレッスンをしながら、父親との関係を聞くヴィクトル
これが二人の出会いだった。

マズレク音楽舞踊団
ズーラ
二人の関係の断片のみを切り取った映像は、ミニマリズムの表現スタイルを貫流する。

「世界の果てまで一緒よ。白状するね。密告してたの」
「僕のことをか?」


「毎週、カチマレクに。害のないことだけ。あいつ、言い寄るの」
「何を探ってる?」
「色々とね。西側の放送を聴くかとか、神を信じてるかとか。信じてる?私は信じてる…」

それを聞いて、黙って立ち去るヴィクトル。

「分かってる。私は馬鹿よ。執行猶予中だから、命令に従うしかないの…あなたを抹殺できるのよ」

そう言って、追って来るヴィクトルの視界を遮り、川に飛び込み、浮きながら歌うズーラ。

浮きながら歌うズーラ

時の動きは速い。

ヴィクトルは西側への亡命を決意し、今や、実行に移そうとしている。

ズーラと落ち合うために、約束の場所に向かうヴィクトル
ズーラを待つヴィクトル
ズーラが現れず、一人で亡命するヴィクトル

東ベルリンへ向かう列車の中で、ルーラと亡命を約束し合ったが、彼女は現れなかった。

1952年のことである。

この公演で亡命するヴィクトル
西側に入ったヴィクトルは、東側に残ったズーラとパリで再会するが、二人の情愛の深さが空回りするだけで終始し、再度の別離をトレースする。

マズレク舞踏団がユーゴにやって来た。

1955年のこと。

しかし、ここでも相互に視認し合うのみで、何もできず、当局の計らいでパリに戻されるヴィクトルの孤独が印象づけられる。

1957年のパリで、ヴィクトルはズーラと再会し、言葉を交わし、情愛を確かめ合った。

別離と再会を繰り返すたびに、高まる二人の情愛濃度。

再会を嬉々として共有するパリの一角で、ズーラの歌声が響くのだ。


二つの心と四つの瞳

“昼も夜も ずっと泣いている

黒い瞳を濡らすのは 一緒になれないから

2人が一緒にいられないから

お母さんに禁じられたの

あの人を愛してはならないと

それでも私は あの人を抱き締め

死ぬまで愛すでしょう

死ぬまで愛すでしょう“


結局、二人は離れられず、合法的に出国したズーラと共にパリで暮らし始める。

「君にはスラブ的な魅力がある」

「君にはスラブ的な魅力がある」

ヴィクトルはそう言って、大物プロデューサーのミシェルに引き合わせる。

歌手としてのズーラの魅力を売り込むのだ。

「スター性がある」

ミシェルの反応である。

こんなエピソードを挿入しつつ、二人は運命のラストシーンに収斂されていく。

パリでの生活を捨て、帰国したズーラを追って、ポーランドに帰国するヴィクトル。

当然、「亡命した裏切り者」は拘束され、収容所行き。

収容所でヴィクトルと再会したズーラは、ヴィクトル救済に動く。

収容所に行くズーラ

丸坊主になり、昔の面影を失ったヴィクトルの表情は嬉しげだった。

以下、その時の会話。

「懲役何年?」
「15年だ。悪くない。2回、違法に出入国したスパイにしては」

ズーラは看守に金を渡し、10分だけ、二人だけの時間を確保した。

「待ってるから」
「やめとけ。君に耐えられる普通の男を探せ」
「そんな人、いない…助け出すから」

ここから、時は大きく動く。

1964年。

あろうことか、ズーラに横恋慕(よこれんぼ)するカチマレクと結婚し、政権幹部に通じている男の協力を得て、ヴィクトルを救い出すのだ。

出所したヴィクトルは、手助けしたカチマレクと、ズーラがステージに上がるホールで会話する。

「出所できて良かった。苦労したよ。副大臣と親しいんだ」とカチマレク。

カチマレクはズーラとの子供を産んでいて、「この子は人見知りで」と吐露する。

「ありがとう。感謝してる」とヴィクトル。

全ては、愛するヴィクトルを救い出すためだった。

ステージを終え、再会した二人は、洗面所にこもる。

「私を連れ出して」
「そのために来た」
「永遠にね」

バスに乗った二人が向かったのは、廃墟と化した無人の教会だった。

無人の教会

この究極のスポットで、二人は最も重要な言葉を、それぞれ繰り返す。

“私はズーラを妻に迎え、死が2人を分かつまで、共にいます”

“私はヴィクトルを夫に迎え、死が2人を分かつまで、共にいます。神に誓います”

無人の教会での、二人だけの、二人による誓い
結婚を誓い合った二人は、体重に合わせた量の錠剤を飲む。

致死量に達するに足るだけの何某かの錠剤である。

「あなたのものよ。永遠に」

麦畑が広がる外に出て、並んで座る二人。

「向こう側へ。景色がきれいよ」

映像が最後に残した、ズーラの声である。

二人は手を繋ぐ。

観る者の視界から二人は消えていく。

ラストカットである。





2  無音の映像が、俗世との縁を切った男と女の「常(とこ)しえの旅」の情景を映し出す





「我らが人民の文化資産を、よく上演してくれた。祖国を象徴する存立になってもらいたい。新しい題材もレパートリーに加えては?農地改革。世界平和。平和の危機最高指導者の参加もいい。加えてくれたら、支援は惜しまない。そうすれば東ベルリンや、プラハ、ブタペスト、モスクワへも行けるぞ」
「大臣には感謝していますが、私たちは純粋な民俗芸能にこだわっています。田舎の人間は、指導者の歌など歌いません。実現は難しいかと」とイレーナ。
「管理部長のカチマレクです。よろしいですか?同志ヴェレツカ。我が国は地方の人間も無知ではない。むしろ彼らだって、喜んで歌うだろう。彼らにやる気があり、我々の許可と理解もあればね。それが舞踏団の役目だ。以上です」



以上の会話で明らかなように、ソ連にとって最も重要な衛星国となったポーランドにとって、「立派なお方スターリン」というプロパガンダの音楽が流れるシーンに象徴されるように、マズレク音楽舞踊団が果たす役割は、それを管掌する大臣の言葉に凝縮されている。

この大臣の要請に対して、体制迎合派のカチマレクは逸早く賛同するが、「純粋な民俗芸能」に拘泥し、舞踊を指導するイレーナは拒否反応を示す。

「マズレク」の成功を喜ぶカチマレク(右)とヴィクトル

だから、彼女の「マズレク」からの離脱は必至だった。

特段にイデオロギーの濃度の問題ではなく、ただひたすらに、アーティストとしての矜持(きょうじ)が許さなかったのである。

「マズレク」の3人の幹部の中で、ただ一人、ヴィクトルは無言を通した。

この直後のシーンで、スターリンを礼賛する「マズレク」の音楽の指揮を執るヴィクトルが体制迎合派でない事実は、ズーラとの情愛に特化された映画の中で西側への亡命を果たす行為で判然とする。

指揮を執るヴィクトル

しかしヴィクトルが、イレーナのように、ただひたすらに、アーティストとしての矜持のみで動いた男でないことは、民族音楽を披露するための「マズレク」のオーディションでズーラの魅力に囚われ、彼女が父親殺しの執行猶予中の身であるとイレーナから聞かされていても、「マズレク」の団員に入れ、その関係が濃密になり、共に亡命を果たす約束にまで発展していく経緯を見れば瞭然とするだろう。

ズーラ(中央)とイレーナ

ジャズを愛するヴィクトルにとって、西側の世界は「約束の地」だったのだ。

だから、亡命遂行のハードルは、ヴィクトルには障壁にならなかった。

「マズレク」が東ベルリンへ向かう列車の中でのこと。

「劇場から400メートル。ソ連占領地区の端で待ってる」

ヴィクトルはズーラを勧誘する。

二人の情愛に変化がない想いを共有しているので、ヴィクトルは確信的に誘うのだ。

「私は向こうで、どうするの?」とズーラ
「僕と一緒になるんだ…君と離れたくない」
「分かった。行きましょ」

1952年のことだった。

しかし、ルーラは現れなかった。

西側に入ったヴィクトルは、東側に残ったズーラとパリで再会する。

以下、この時の会話。

パリで再会する二人

「いつまでパリに?」
「明日の朝まで」
「ここの生活は?」
「編曲や作曲で生活してる。店で演奏も。楽しいよ」
「恋人は?」
「いる」
「私もよ」
「幸せなんだね」
「宿まで送る」
「来ない方がいい」
「途中までだ。見つかるもんか…あの時、どうして、来なかったんだ?」
「無理だと思った。亡命のことじゃない。未熟だから無理だと思ったの。分かる?」
「何が未熟?」
「すべてのことが、あなたに劣る」
「愛があれば平気さ」
「これからも、私一人では逃げない」

結局、二人は再度の別離に至るが、この会話で判然とするのは、ズーラが執行猶予の身に捕捉されているが故に、体制迎合派のカチマレクの支配下にあって、不如意な状態に置かれた心境を「すべてのことが、あなたに劣る」という言葉に結ばれたと考えられる。

それでも、危険を冒して二人は逢瀬を重ねる

二人の情愛は、こんな時でも変わらないのだ。

思うに、「無理だと思った」と吐露するズーラの心理の中枢には、育った環境の埋め難い落差がある。

貧しさに馴致(じゅんち)したルーラにとって、「ポーランド人民共和国」という国での生活は、政治亡命するほどに苛酷な状況を強いる厄介な負荷ではなかったのである。

亡命を決意できず、煩悶するズーラ
煩悶の直後、カチマレクに呼ばれ、無理に笑みを見せる

価値観の乖離という由々しき関係構造の不合理。

これは否定しようがない。

否定しようがなくとも、繰り返し、再会と別離を繰り返す二人の情愛濃度の高さ。

価値観の乖離を埋めるに足る情愛濃度の高さが、国外での再会という過大なリスクを負って、この撞着(どうちゃく)を突破する。

再度の別離の直後の映像が印象的だった。

パリの粗末な自宅に戻ったヴィクトルが、「女を買ったのか」と問う同棲相手に答えるシーンである。

「そんな金はない。大切な女に会った」
「よかったね。もう寝るわ」

如何なる状況に捕捉されていても、ヴィクトルの想いが変じることはない。

同時に、「大切な女に会った」と言われても、「もう寝るわ」と反応する女との同棲が、「援助」・「依存」・「共有」の次元にも届かない惰性的な関係の域に留まっている現象が透けて見える。

ユーゴスラビアでの再会のエピソードは、もっと興味深かった。

1955年のことだ。

マズレク舞踏団がユーゴにやって来た。

ポスターの中心に、ズーラが占有していた。

「マズレク」公演のポスター
ポスターを見るヴィクトル

その公演にヴィクトルも訪れ、舞踏団の幹部であるカチマレクと再会する。

「前より洗練されてて力強い。君が出て行ったのは残念だ」

皮肉とも取れるカチマレクの言辞である。

舞踏の途中に、ヴィクトルの存在に気づいたズーラは表情を変え、彼を見つめた。

民族舞踊を演じるズーラ
既に、ヴィクトルの存在に気付いている

しかしヴィクトルが、母国への送還を求めていた官憲に捕捉されたヴィクトルは車で連行され、パリへ向かう列車に乗せられた後、放免される。

結局、ズーラとの再会を果たせなかったヴィクトルは、会話を交わすことがなくとも、なお、ズーラとの情愛が継続されている現実を確認するのだ。

それが、2年後のパリで検証される。

1957年のことである。

映画音楽の収録中のヴィクトルの元に、突然、ズーラが現れた。

「結婚したの?」とヴィクトル。
「ええ…あなたと私のため」とズーラ。
「教会では挙げていない」

そう言って、愛を確かめ合う二人。

二人の情愛は、いよいよ高まっていくばかりだった。

セーヌ川の小舟に乗った二人は、パリの夜の風景を見つめる。

パリのバーの中枢で、二人は踊り、ズーラが歌う。

前述した、民族音楽を編曲した叙情溢れる歌である。

結局、二人は離れられず、合法的に出国したズーラと共に、パリで暮らし始めることになった。

物理的共存が心理的距離を強化する。

ズーラがヴィクトルの“愛人”に嫉妬し、アルコールに嵌っていくエピソードは、この命題を検証するだろう。

パーティーの場で、ズーラは彼女が歌う詩を書いたヴィクトルの“愛人”(ジュリエット=著名な詩人)に会い、訳詞の意味を問い質す。

ジュリエット
ジュリエットに会いに行くズー

ヴィクトルに嫉妬感情を叩きつけるズーラ。

「何が比喩よ。バカな女。最低」

洗面所で、酒をラッパ飲みしながら独白するのだ。

パリの生活に馴染めず、仕事優先のヴィクトルに不満を持ち、アルコールに嵌ったズーラの繰り言(くりごと)である。

「ポーランドでは男だったのに、たぶん私の思い込みだったのね」

パリでの不満の鬱積をヴィクトルに投げつけるズーラにとって、取り立てて不満がなかったポーランドにおける生活との乖離は大き過ぎた。

だから、日常生活が乱れてしまう。

ヴィクトルへの情愛の強さが、かえって、彼女の行動を反転させてしまうのだ。

嫉妬・アルコール・華美な都会・劣等感・先端的アート、等々、ズーラの意識と視界の全体が彼女の感性をアナーキーにして、安寧を削り取り、最も身近な男への射程が鋭角的になっていく。

もう、限界だった。

ズーラのパリ生活が限界に達する
ヴィクトルに頬を打たれて、パリ生活は終焉する

ヴィクトルの元を去り、ズーラはポーランドに帰国してしまったのである。

煩悶するヴィクトル

置き去りにされたヴィクトルにとって、想像を超えるズーラの帰還は、今度は、西側の世界に馴致し切った男の中枢を削(そ)いでしまった。

狼狽(うろた)えたヴィクトルが、マズレク舞踏団に電話しても、ズーラは行方不明という素っ気ない答え。

在仏ポーランド領事館に出向くヴィクトル。

「領事館は力になれない。あなたはフランス人でもポーランド人でもない。存在してないも同然です。ここだけの話、パリにいた方が」
「私はポーランド人です」
「お止めください。あなたは祖国を捨て、裏切った。人民を見捨てたんです。愛国心がない。裏切り者です。一つ方法が。あなたが本気なら、パリの芸術界で、それなりの地位におられる。亡命の情報をお持ちで?」

領事から一刀両断されるヴィクトル
辛辣な言辞を浴びせる領事
密告すればポーランド行きを認めると言う領事

裏切り者と嘲弄(ちょうろう)されたヴィクトルは、亡命者の密告を交換条件に提示した領事の助言を無視し、ポーランドへと旅立つ。

1959年のことである。

粗筋で書いたように、ここから、風景は一変する。

「裏切り者」というラベリングへの反発が、ヴィクトルを自壊させる「旅」に誘(いざな)った。

これは事実だろう。

しかし、それ以上に、ヴィクトルの母国への帰還を決断させたのは、決して消えることのないズーラへの情愛の深さである。

収容所での拘禁を覚悟して、ポーランドに行くヴィクトル

母国への帰還の結果、ヴィクトルは収容所に収監される。

演奏者の生命線であるヴィクトルの手は、苛酷な拷問によって復元不能と化していた。

そのヴィクトルを、体制迎合派のカチマレクと結婚してまで、ズーラは救い出す

彼の手は痛めつけられており、音楽家としての道は閉ざされていた。

「私を連れ出して」
「私を連れ出して」
「そのために来た」
「永遠にね」

この短い想いの交叉が、命の交感を描き切った映画の全てである。

覚悟の逃避行は、死への道行きだった。

無音の映像が、俗世との縁を切った男と女の「常(とこ)しえの旅」の情景を映し出す。

風景の静寂は、命の交感を果たした魂の安寧に溶け込み、絶対宇宙を作り出す。

音楽の叙情性が紡ぎ出した物語は、絶対宇宙の静寂に融合する。

もう、何ものにも侵入不可の世界に飛翔してしまったのだ。
COLD WARがなければ添え遂げられた男女の、あまりに潔いラストシーンに心が震えた
パヴェウ・ パヴリコフスキ監督





3  ポーランド ―― その衛星国家への近代史の風景





ここでは、映画から離れて、ポーランドの近代史について、簡単に言及しておきたい。

冷戦の始まり

COLD WAR」というタイトルで判然とするが、ヴィクトルとズーラの情愛の背景に、ソ連の最も重要な衛星国家ポーランドの時代状況が見え隠れするからである。

16世紀後半から18世紀末まで続いた、「二民族の共和国」という呼称で知られる複合君主制国「ポーランド・リトアニア共和国」が、政治的・軍事的・経済的衰退を顕在化するや、近隣の絶対主義国家(露・プロイセン・オーストリア)によって領土分割の憂き目に遭い、国家自体が消滅するに至った。

ミール城/ポーランドとリトアニアの国境に接するベラルーシの世界遺産
プロイセン王国のルーツ・ドイツ騎士団/画像は、「13世紀のビスマルク」と称され、ドイツ騎士団を大きく飛躍させた四代目総長ヘルマン・フォン・ザルツァ(ウィキ)

ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序再建を目的として開催された「ウィーン会議」(1815年)、即ち、「ウィーン体制」によって、「ポーランド立憲王国」としてポーランド国家が名目的に存立するが、実質的にはロシアの支配が続き、歴史上、ポーランドは4度目の分割を余儀なくされた。

ウィーン会議の様子/メッテルニヒ(オーストリア)が主導し、タレーラン(仏)が唱えた「アンシャン=レジーム」(旧制度=正統主義)を復活させ、ナポレオン戦争後の保守反動体制であるウィーン体制が成立(画像はウィキ)
1815年の「ポーランド立憲王国」とロシア帝国(薄緑色)(ウィキ)

ポーランドが実質的な独立を復元したのは、第一次世界大戦後(1919年)のこと。

1919年の「ベルサイユ条約」の結果、ドイツからポーランドに割譲された、400Kmに及ぶ渡り廊下のような細長いエリア(「ポーランド回廊」)によってドイツ領を分断し、ポーランドはバルト海への出口を得る。

「ポーランド回廊」(ポーランド領のうち西北端のバルト海に面した細長い部分)付近拡大図 CORRIDOR:回廊地帯 DANZIG:自由都市ダンツィヒ GERMANY:ドイツ・プロイセン州 EAST PRUSSIA:東プロイセン(ウィキ)

かくて、ハプスブルク帝国の最後の形態・「オーストリア=ハンガリー帝国」の解体に伴って惹起した「ウクライナ・ポーランド戦争」、分割前の領土の回復を狙った、ロシア革命に対する干渉戦争としての「ポーランド・ソ連戦争」を経て、ソ連と厳しく対立するに至る。

1913年の「オーストリア=ハンガリー帝国」の領域/オーストリアにルーツを持つ多民族国家・ハプスブルク帝国の最後の形態(ウィキ)
「ウクライナ・ポーランド戦争」 (1918年―1919年)/黄緑がウクライナ・ピンクがソビエトのロシア・ライトブルーがポーランド/ハンガリー帝国の解体に伴い、ポーランドの西ウクライナの侵攻から開かれた戦争で、ポーランドの勝利で終結(画像はウィキ)
ロシア革命/1917年、レーニンの指導のもと、ケレンスキー政府を倒した「十月革命」(ボリシェヴィキ革命=史上初の社会主義革命)によって、権力を握ったボリシェヴィキが主導権を確立した「ペトログラード・ソヴィエト会議」(画像はウィキ)
「ポーランド・ソビエト戦争」/ロシア革命に対する干渉戦争の一つで、ロシア革命による共産主義から世界を救ったと言われる「ヴィスワ川の奇跡」で有名(画像はウィキ/中央は、1920年8月、ワルシャワの戦いで機関銃の配置につくポーランド軍)

領土の回復・拡張に動いた大戦間のポーランドは、ポーランド軍機動部隊の進撃(「ヴィスワ川の奇跡」)で講和条約を締結し、目的を達成するものの、その後、ナチスの台頭、スターリン体制の確立によって、ポーランドは東西から独ソに挟まれることになり、「ポーランド回廊」の自由通行を求めるヒトラーはポーランドに圧力をかけ、紛争の地となった「ポーランド回廊」が第二次大戦の起因となっていく。

ヨシフ・スターリン/スターリニズムは、恐怖政治・「大粛清」・官僚主義・個人崇拝・一国主義(トロツキーの世界革命論の否定)などを特徴とする全体主義体制(画像はウィキ)

ポーランド共和国の建国の父ユゼフ・ピウスツキ(ポーランド共和国・初代国家元首)が苦労して獲得した共和国は、1939年8月、秘密協定である「独ソ不可侵条約」の締結と、ポーランド侵攻(第二次大戦)によって、3週間でポーランド軍が壊滅させられ(「ポーランド第二共和国」の消滅)、独ソによる分割占領が断行される。

ポーランド共和国 初代国家元首ユゼフ・ピウスツキ(ウィキ)
独ソ不可侵条約/画像は、条約に調印するソ連外相モロトフ。後列の右から2人目はスターリン/ポーランドとバルト3国の分割が付属秘密議定書において取決められた(ウィキ)
ドイツによるポーランド侵攻/画像は、1939年9月1日、ヴェステルプラッテのポーランド軍守備隊に砲撃を浴びせるドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインで、第二次世界大戦の始まりを告げる(ウィキ)
ヴワディスワフ・シコルスキ/ポーランド亡命政府(パリ)の初代首相で、「ヴィスワ川の奇跡」の立役者。「カティンの森事件」でソ連と国交が断絶し、航空機事故死するが、スターリンやヒトラーの陰謀による暗殺説が後を絶たない(ウィキ)

「第五次ポーランド分割」である。

そして、第二次大戦後に独立を回復したポーランドは、ソ連の占領下に置かれた。

1952年、ソ連の支援を受けたポーランド共産党(労働者党)が非共産党勢力を弾圧し、東側陣営の一員となり、「ポーランド人民共和国」が成立し、ソ連にとって最も重要な衛星国となっていく。

ボレスワフ・ビェルト/ポーランド共産党(統一労働者党)の初代書記長で、ポーランド人民共和国首相(ウィキ)

社会主義体制に遷移した「ポーランド人民共和国」は、密告と監視による徹底的な言論統制を断行し、政治のみならず、教育・文化・生活などの領域で、ソ連型構造改革が遂行されていった。

ポーランド共産党(統一労働者党)第10回党大会(1986年7月3日)(ウィキ)
ポズナニ暴動/1956年6月、ポーランド西部の都市ポズナニで起きた大衆暴動。フルシチョフによる「スターリン批判」が東欧諸国に衝撃を与えたという政治的背景がある(画像はウィキ)
ポズナニ暴動/デモ行進する労働者(ウィキ)
ポズナニ暴動記念碑https://4travel.jp/overseas/area/europe/poland/poznan/kankospot/10384128/

この間のポーランドの悲哀は、非共産党勢力のテロリスト・マチェクが屠られる、アンジェイ=ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」に詳しいが、何と言っても、「カティンの森」のラストシーンが、痛切に観る者の情感に訴えかけてくる。

灰とダイヤモンド」より
人生論的映画評論・続「カティンの森」より
「カティンの森」より
アンジェイ・ワイダ監督
ドイツのラジオ放送が、ソ連領内カティンの森でポーランド将校4千人の遺体を発見と報じる

内務人民委員に逮捕されるアグニェシュカが、恫喝する人民委員との命を懸けた会話が鮮烈だった。

それを再現する。

アグニェシュカ/人生論的映画評論・続「カティンの森」より

「真実は大切」
「それは皆が知っている」
「ソ連とドイツは互いの国の犯罪と非難。現ポーランド政府も究明しないまま」
「調書に署名しなさい。”カティンはドイツの犯罪”」
「違う」
「蜂起で誰と戦った?奇跡的に生還したのに。祖国に住みたくないのか?」
「ここは、あなたの祖国」
「生きるのが嫌か?」
「私はドイツと5年間戦った。教えて、私はどこの国にいるの?ここはポーランド?」

これは、アグニェシュカと内務人民委員との、決して睦むことのない不毛な会話が閉じた瞬間だった。

恫喝されるアグニェシュカ/「カティンの森」より
「死の地下室」に下りていくアグニェシュカが凝視する先にある風景には、明らかに、衛星国化された祖国の尊厳を奪った者たちへの怨念を包摂し、彼女だけが一貫して信じる、「祖国ポーランド」の心地良き原像のイメージがある。

彼女が凝視する天井の向こうにあるはずの、「祖国ポーランド」との別離によって、兄ピョトル中尉を含む、「カティンの森」で虐殺された「愛国の同志」と、自らもまた、「死の地下室」で果てる覚悟によって「死の連帯」を果たしたいのである。


カチンの森事件(1943年4月13日)
禁断のカチン 隠蔽された虐殺https://blog.goo.ne.jp/geradeaus170718/e/8734134353bad253b72afaa1ae54510b

(2020・5)

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