

1 「言いなりになるだけ?情けない人」「逆らえば殺されるだけだ」
外界と遮断された城を購入し、結婚したばかりの若き妻・テレサとの理想の暮らしを楽しんでいた中年男・ジョージの元に、逃走中のギャングがやって来た。
ジョージとテレサの城 |
仕事にしくじり、右手を負傷したギャングのリチャードは、相棒のアルビーを乗せた車が故障したため、ボスのカトルバックに助けを求めようと電話を探し、ジョージの城に辿り着いたのだった。
リチャード(左)アルビー |
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リチャード |
浜辺では、湾の向こうの隣人夫妻の息子・クリストファーとテレサが戯れていた。
テレサ(右)とクリストファー |
リチャードは様子を伺いながら城に侵入し、鶏小屋で休んで黙考している。
一方、腹を撃ち抜かれた重傷のアルビーは、車に残ってリチャードの帰りを待っていたが、夕潮で海水に車ごと晒されていた。
寝室でジョージにネグリジェを着せ、女装させて遊んでいたテレサが、何者かがテラスに侵入したことに気づき、ジョージと共に階下へ降りて、カルトバックからの電話を待つリチャードに遭遇する。

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ジョージ(左)とテレサ |
「警察を呼ぶぞ」(ジョージ) |
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ボスのカルトバックに城の住所を伝えるリチャード |
リチャードは二人を恫喝し、海辺に待たせたアルビーの車を押す作業に連れ出した。
海水に胸まで浸かったアルビーの車を3人で浜辺に押し上げ、城まで運ぶ。
そこにカトルバックからの電話が入り、リチャードが懇願して二人を迎えに来てもらう約束を取り付けた。
瀕死のアルビーを3人で抱え、城の中に運び入れ、テラスのテーブルの上に乗せて休ませる。
勝手に鶏小屋を壊して車を入れ、横柄に振る舞うリチャードに対し、苛立つテレサ。
「私が男だったら許さない。やり返さないの?妻を侮辱されたのに」
「侮辱などされてないさ」
口に指を立て、テレサを諫めるジョージ。
寝室まで付いてきたリチャードは、外から鍵をかけ二人を閉じ込めてしまう。
「頭のおかしい危険人物だ。慎重に対処を。鶏小屋は忘れろ。わざわざ鶏の話を持ち出して。犯罪者だぞ。何をしでかすか。人殺しだ!ささいなことでカッとして…よく新聞に出てる。撃ち殺すんだ」
自分の不甲斐なさの言い訳をくどくど並べるジョージに対し、軽蔑の眼差しのテレサはタバコを吸いながら返事もせず聞き流している。
「殺し屋さ。絶対に油断するな。いいか。返事は?」
「今、何時?」
「返事だ!分かったかと聞いてる」
「ええ。その腰ヌケぶりがね。あいつの言いなりで、どこが戦争の英雄よ」
「…武器さえあれば負けんさ」
笑い出すテレサ。
「あおる気か。たきつけて戦わせようと?血に飢えた女め。対決を見物したいか。やってやる。くそ、鍵をかけられた」
そこに、リチャードが鍵を開けて入って来るや、大人しく黙り込むジョージ。
リチャードはアルビーの手当てをするために、布とアルコールを持って再び出ていった。
テレサはダンマリのジョージの様子を見て笑う。
夜になり、テレサは部屋の小窓からテラスに下り、走っていくと、穴を掘っていたリチャードに銃を向けられる。
動くなと言うリチャードは、ジョージも一緒だと思い、暗がりに向かって叫ぶ。
「出てこい、ピエロ野郎。女を撃つぞ」
「脱出は私だけ。彼は臆病者だから無理」
部屋にウォッカを取りに行ったテレサは、リチャードの元に戻る際に、アルビーが息絶えているのに気づき、驚く。
アルビーの死に顔を見て、思わず顔を背けるテレサ |
テレサは墓穴を掘るリチャードにウォッカのグラスを渡し、一緒に飲む。
部屋で眠っていたジョージは、外のリチャードが歌っている声で起こされ、窓の下を見ると、リチャードとテレサが酔っぱらって見上げていた。
リチャードは部屋の鍵を開け、ジョージを連れ出し墓穴を掘らさせ、そこにアルビーを放り投げた。
埋葬が終わり、朝の海岸でリチャードとジョージがまずい酒を飲みながら、ジョージが住む城が11世紀に建てられたことや、ステンドグラスの窓の部屋にはウォルターという作家が住んでいたという話をする。
退屈なテレサは、海へ泳ぎに行ってしまった。
「ベイビー、行かないでくれ。頼むよ、なあ」
「バカ」
「戻ってきてくれ」
突っ伏して泣き出すジョージ。
「ほっとけ」
「くだらん」
「崇拝してる。彼女なしでいられない」
仲間が迎えに来るのを待つチャードは服を整え、髭をジョージに剃らせる。
双眼鏡から車が走って来るのを確認したリチャード。
「仲間のトニーがやって来る!」
歓喜するリチャードは、テレサとジョージを再び部屋に閉じ込めた。
「逆らえば殺されるだけだ」
「逃げるのよ」
「静かに。じきに仲間と消える」
ところが、やって来たのは、ジョージの客だった。
「どうして黙ってた?」
「黙ってたって?」
「客が来た…俺のことをバラしたら、女を殺す」
やって来たのは、ジョージの友人のフィリップと妻・マリオン、息子のホレスに、フィリップの友人のセシルとその妻らで、フィリップはジョージとの再会を喜び、ジョージはテレサを紹介した。
ここから、物語は反転していく。
2 「あいつを殺してやった。さあ、車でひいちまえ…かかってこい。悪党どもめ」
客たちの前でリチャードは、庭師として雇っているジェームスという名に命名され、テレサから下僕扱いで、飲み物を出すように命じられる。
「旦那様から仰せつかった仕事は、庭と鶏の世話だけです」
「たまには手を貸せば?」
「やってますがね。お酒がなくて」
「お酒ならワインセラーよ。よく知ってるでしょ」
ジョージが口を挟み、「僕が行くよ。彼は腕の具合が悪いから」と庇うが、リチャードは自分で酒を取りに行った。
「ジェームス、昼食はチキンよ」
更にテレサが、結婚祝いにプレゼントされた鍋をジェームスに渡すが、「鶏は殺せません。奥様」と断られる。
マリオンがジョージに振るが、ジョージも「いや。ダメなんだ」と反応する。
「鶏を殺せる男が一人もいないの?」とマリオン。
結局、リチャードはオムレツを作ることになった。
その後、城の一角にある作家のウォルターが住んでいた部屋を、訪問客を案内するテレサ。
ジョージの様子がおかしいと感じるフィリップが心配して話しかけるが、ジョージはつれない態度をとる。
「順調か?」
「もちろんさ」
「特に問題もなく?」
「あるわけない。僕は幸せな男さ。事業も引退した。悠々自適だ」
「アグネスは?」
前妻のことを聞かれたジョージはムッとする。
「もし困ったことがあれば、いつでも相談に乗る」
「冗談だろ。一体、何が言いたい?だから工場を売り、気楽な暮らしだ。心配無用さ」
「分かってるとも。ただ助けが必要なら、力になると伝えたかった」
「それはどうも」
そわそわと、窓の外を見ているジョージ。
リチャードの仲間がいつやって来るのか心配なのである。
「待ち人か?」
「ああ。いや…別に待ってはいないが…フィリップ。どうも君にはイライラする」
作家の部屋で、作品についてマリオンらが議論していると、外からホレスを「クソガキ」と叱るリチャードの声が聞こえてきた。
「彼で満足なの?」とマリオン。
「言葉が下品だ」とフィリップ。
「いい庭師が見つからなくて」とジョージ。
リチャードがオムレツを作るのを手伝うテレサ。
「そもそも、食事に誘ったのが間違いだ」
「文句言えた立場かしらね」
「仲間が現れたら?」
「全員を閉じ込めるのに苦労しそう」
「潰して積み重ねてやる」
そこに、おかしげな音楽が聞こえてきて、テレサは慌てて部屋に行くと、ホレスがレコード盤を散らかし、傷をつけていたのだった。
テレサは思い切りホレスの耳を掴んで振り回した。
大声で叫ぶホレスの声で、フィリップとマリオンが駆け付けた。
「フランスのバイタだ」とテレサに指を差すホレス。
「誰がそんな悪い言葉を?」
「ママ」
テラスのテーブルで会食が始まったが、食事を嫌がるホレスはどこかへ行ってしまった。
ボートが近づく音がして、すぐにリチャードが見に行くと、テレサ目当てにやって来たクリストファーだった。
クリストファー(左) |
突然、ホレスがセシルのショットガンを手にして歩いて来たので、慌ててマリオンが制止するが、座っている皆の上方に向かって発射してしまう。
座っていたリチャードが思わず胸から銃を出すが、誰にも気づかれなかった。
バタバタする展開の中で、大声で楽しそうに笑うテレサは、2階の割れた貴重なステンドグラスの作家の部屋をセシルと見に行き、「こなごなよ」と階下の皆に伝えた。
こんな落ち着きのない状況下で、フィリップとジョージの言い争いが始まる。
「ケガ人はいない」
「もう限界だ」
「弁償するとも」
「聖カスバート(7世紀、スコットランドの守護聖人/筆者注)のガラスだぞ」
「最初から迷惑げだ。とっとと帰れと?」
「その通りさ。ムカつく悪ガキめ。訪問の理由もお見通しだ」
今度は、口を挟むマリオンとジョージの言い争いとなった。
「聞いた?」
「アグネス(ジョージの前妻)の時もそうさ」
「イヤミな人」
「減らず口を閉じろ」
「結婚に向いていない」
「くたばるがいい」
マリオンとジョージの対立は先鋭化する。
「ジョージ、付き合いもここまでね。ふしだら女にたぶらかされて。淫売よ。男と見れば誰にでも股を開く」
「よくも妻を侮辱したな。今すぐ僕の…砦から出ていけ。さあ、失せろ…消えていなくなれ」
こうして、ジョージの友人たちは城から追い出されてしまった。
白けたムードの中で、クリストファーはテレサを「エビ釣り」に誘うが、素っ気なく断られ、あえなく退散する。
訪問客が去り、変わらぬ状況に苛立つテレサは、昼寝をしているリチャードの足の指に紙を挟んで火を点け、それに気づいたリチャードは激怒し、テレサを鞭打ちし、顔を殴った。
同じく昼寝をしていたジョージが起きてテレサを助けようとするが、呆気なく投げ飛ばされてしまう。
ジョージに何をされたかを聞かれたテレサは、泣きながら作り話で訴える。
「襲いかかってきたの。私にキスしようとした。みだらなことを…」
テレサに興味がないリチャードは電話機を外して回線を繋ぎ、カルトバックと連絡を取ろうとしている。
リチャードがポケットに銃が入った上着を脱いだのを見て、テレサはその銃を盗み、ジョージに手渡す。
リチャードはカルトバックからの伝言が、“好きにしろ。知るか”という事実を知らされ、助けに来ないことが判明したので、車のキーをジョージから受け取り、左手だけで運転して逃走することにした。
二人を再び閉じ込めようと恫喝するが、それを拒否するジョージとテレサ。
上着を取りに行ったリチャードは銃がないことに気づき、「よこせ」と迫るが、テレサが首を横に振り、ジョージも拒否すると、リチャードは棍棒で襲おうと向かって来た。
ジョージは銃を構えるが、偶然に発砲してリチャードの後ろのオブジェに弾が当たり、更に向かって来るリチャードに、後ろ向きで発砲するとそれが命中した。
ジョージは更にリチャード目がけて3発弾を放った。
重傷を負いながらも、リチャードは立ち上がり、その場を去って行った。
「弾切れだ。一発もない」
「彼を殺した」
「あいつを、殺した?そんな…」
リチャードは鶏小屋に置いてあった自分の車から、マシンガンを取り出し、2人に向かって撃とうとするが、ジョージとテレサがお互いに後ろに隠れようとするのを見て、「ボケナスどもが…」と呟いて、その場で絶命していく。
最後に横たわったリチャードの手に握られたマシンガンが炸裂し、ジョージの車に当たる。
車は爆発し、激しく炎上する。
「終わりよ」
「何が?」
ジョージはリチャードに近づき、優しく名前を呼びかける。
「死んでる」
「逃げなきゃ。仲間が来る」
「カルトバックか」
「警察へ…さあ、ぼんやりしないで。聞こえる?」
呆然と突っ立って反応しないジョージの両腕を掴み、テレサは訴える。
「ジョージ、行かないと。彼の仲間が来る。警察に通報を。仕方なかった。正当防衛よ。どうしちゃったの。ねえ、しっかりして…いいわ。1人で行く」
テレサはジョージから一瞬離れたものの、すぐにジョージの手を掴み、懇願する。
「お願いだから、一緒に行きましょ」
それでも無反応のジョージを、「しっかりしなさいったら!」と平手打ちするが、ジョージは無言のままだった。
その時、車が近づいて来たので、テレサはその場を離れ、ジョージは向かってくる車の前で両手を上げ立ちはだかり、叫ぶ。
「あいつを殺してやった。さあ、車でひいちまえ…かかってこい。悪党どもめ」
しかし、車から降りて来たのはリチャードの仲間ではなく、置き忘れたショットガンを取りに来たセシルだった。
ジョージがショットガンを取りに行き、セシルは燃え盛る車と、リチャードの死体を目撃する。
意気揚々と城に戻ったジョージは、テレサに「君に客だぞ…怖がらなくていい」と呼びかける。
タンスの扉から出て来たテレサは、階下へ行き、セシルと分かると、「一緒に連れて行って」と手を引っ張る。
「なぜ?」
「彼が殺した」
「待って。どこにだね」
「警察よ。ともかくどこかへ」
テレサが懇願している脇をジョージが通り、テレサの荷物をまとめたスーツケースを外に運ぶ。
「来ますか?」とセシルの夫がジョージに話しかけるが、ジョージは気にも留めずに部屋に戻り、ベッドに入る。
外でエンジンをふかす音がして、ジョージは飛び起きて外に出て、車が去って行くのを確認する。
「さっさと出ていけ。消えろ」
テレサを描いた沢山の絵が置かれた部屋で、独り叫ぶジョージ。
「くそ。首をへし折ってやる」
物を壊して暴れた後、夕潮で海水が上がり始めた浜辺を走り続けるジョージ。
そして、小さな岩の上に座って、膝を抱えて泣き出すのだ。
「アグネス…」
ジョージは泣きながら頭を抱えるばかりだった。
「彼女はまだ子供だ。やんちゃ娘さ」
テレサについて、リチャードに吐露するジョージの言葉である。
そんなやんちゃ娘と結婚したばかりの中年男ジョージの履歴について、コメディの筆致で描いたシニカルな映像は詳細に語ることがないが、事業を引退し、自らが経営していた工場を売り、干潮時にしか外界と繋がらない孤島の城で悠々自適の日々を送っていることだけは分かる。
少なくとも、リチャードの闖入以前の日常が、親子ほどにも年齢差があるやんちゃ娘テレサからネグリジェを着せられ、女装して戯(ざ)れ合うジョージにとって、常に時間を持て余すテレサに対する視界は被写界深度を深くするポジションの確保を必至にしているように見える。
テレサが退屈凌ぎでクリストファーと懇ろになっても、それは遊びの範疇を超えるものではない。
だからジョージも、好きなだけ遊ばせる。
ジョージがテレサの肖像画に拘泥するのも趣味のカテゴリーというよりも、やんちゃ娘への被写界深度の深い安定的・継続的な確保の文脈で説明可能である。
もとより、満潮になるや外界と遮断される孤島と化すスポットに、テレサが求めるようにして踏み込んだか否かよく分からない。
それ以前に、テレサ自身、中年男との結婚と孤島での共生にどこまで本気であったか、それすら不分明なのである。
それでもテレサは、このふんわりとした雰囲気の臭気を放つ日常に特段の不満を持っているようには見えない。
これがジョージの至上課題だった。
そんな状況下で出来した厄介な事件。
それは、「ふんわりとした日常」を破壊する不条理なる非日常の急襲だった。
この不条理なる非日常の急襲によって炙り出されたのは、自分に特段の不満を持たせないことで保持された「ふんわりとした日常」の、あまりに脆い裸形の相貌性だった。
銃を所持しているとは言え、肝心の右腕が使えない大男に対して、ジョージは端(はな)から尻尾を巻き、早々(はやばや)と白旗を上げて始末。
それどころか、その男リチャードの事情を過剰に斟酌(しんしゃく)し、言われるがままに振り回されるのだ。
だからリチャードは、孤島の主への乱暴な物言いを連射するが、物理的暴力を加えることがなかった。
それ故、堂々と午睡(ごすい)を貪り、非武装な振る舞いを常とするリチャード。
その傍らでジョージも微睡(まどろ)むという笑劇の構図を、観る者は存分に見せられることになる。
ただでさえ、ホレスにレコード盤を傷をつけられ苛立ちを隠せないテレサも、夫婦が捕捉されている〈状況〉に逆上し、リチャードの足の指に紙を挟んで火を点けるといった理解不能な行動に打って出る。
恐らく被弾覚悟で物理的暴力に振れたテレサにとって、それ以外にない選択肢だったように考えられる。
テレサが仕掛けた博打の如き行動が起点になってリチャードの物理的暴力が炸裂し、一気にラストシーンに雪崩れ込んでいくからである。
「ふんわりとした日常」の、あまりに脆い裸形の相貌性のコアになっているのが、以下の定番的会話。
「言いなりになるだけ?情けない人」
「逆らえば殺されるだけだ」
「逃げるのよ」
「静かに。じきに仲間と消える」
このジョージの言辞が、彼の防衛戦略の核心になっているから、「我が城」を暴力的に占拠された事態に対するリベンジなどあり得ない。
―― ここで、「闘争・逃走反応」と「従順・懐柔反応」について言及したい。
「闘争・逃走反応」とは、身体の健康を維持する生理学的恒常性の機能を「ホメオスタシス」という概念を提示したことで有名な、米の生理学者・ウォルター・キャノンが提唱した仮説であり、簡単に言えば、恐怖に対する動物の本能を説明したものである。
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ウォルター・キャノン(ウィキ) |
動物と同じように、人間にはこのホルモンが生来的に具備されていて、「特定敵対者」に対する恐怖感情を感受すると、視床下部にある交感神経(心身をリラックスさせる副交感神経と共に自律神経を構成)が心臓の心拍数を高め、血圧を上げ、瞳孔を開かせ、筋肉を刺激し、血糖値を上げることで身体運動を活発にさせていく。
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「闘争・逃走反応」 |
この感情の生理過程において、身体の危機を感知したとき、副腎髄質から分泌されるストレスホルモン(コルチゾール)、即ち、アドレナリン(不安の除去)とノルアドレナリン(恐怖の除去)の放出が、「脳内ホルモン」=神経伝達物質として決定的な役割を演じている。
「逃走」を回避し「闘争」に立ち向かうことで、自らを囲繞する脅威的状況を突破していくのだ。
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急性ストレス反応を示す、犬と猫(ウィキ) |
次に、「従順・懐柔反応」について。
例を出せば、なぜ、性被害者は抵抗も逃走もできなかったかという暴論に対する事態への答えが「従順・懐柔反応」。
男性の場合の多くは、「闘争・逃走反応」といって、敵が弱そうであれば闘い、強そうであれば逃げるために、身体の機能を高める反応が起こるが、長期にわたって、支配⇔服従の「権力関係」が続き、そこに精神的・身体的暴力が継続的、且つ、加速的に膨張していく状況が変化しないという意識が刷り込まれてしまったならば、その負のスパイラルの極限的状況下で、自我の被弾を受けた者の免疫力は劣化し、いつしか、「何も為し得ない」脆弱性を露わにするだろう。
加速的に膨張していく緊張状態に、一人の人間の持ち得る自給熱量が枯渇し、無気力の状態にまで下降してしまうのだ。
ストレス処理の困難なディストレス状態に搦(から)め捕られてしまったら自我がフリーズし、その〈状況〉から脱出しようとする努力すらも放棄してしまうのである。
「従順・懐柔反応」 |
ストレス回避の困難な状況に拉致された者の、この極めて凄惨な内的状態を「学習性無力感」と言う。
これも米の心理学者・マーティン・セリグマンの仮説である。
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マーティン・セリグマン(ウィキ) |
犬を用いて行った実験で確認された理論だが、相当に説得力のある仮説であると言っていい。
「犯していないにも拘わらず、なぜ自白するのか」(多くの冤罪事件)、「監禁から脱出できたチャンスがあったのに、なぜ逃げなかったのか」(女子高生コンクリート詰め殺人事件)等々、幾らでも事例があるが、近年、我が国でも、遅ればせながら、権力関係によって惹起する「学習性無力感」の破壊力についての理解が浸透しつつある。
それ故、「虐められたら、なぜ、勇気を出して闘わないのか」という物言いが、如何に暴論であるかということに気づくべきである。(この稿、人生論的映画評論・続「ミザリー」から部分的引用)
―― 本作に戻る。
夫婦の場合、「闘争」という選択肢が殆ど無化されていたから、リチャードとの暴力的な闘いよりも、テレサの言う「逃走」という選択肢が最も妥当であるように思える。
しかしジョージの場合、「特定敵対者」に対する生理過程が委縮したことで「闘争・逃走反応」に振れにくくなり、防衛的自我でのみ観念武装を強いられていた。
「じきに仲間と消える」
これが彼の観念武装の内実だった。
だから、リチャードの仲間の到来を希求するその防衛的自我の過剰さ故に、友人たちの来客を拒む物言いをリピートして、相手を怒らせた果てに強引に帰らせてしまうのだ。
彼が縋ったのが「従順・懐柔反応」であったことは自明である。
極端に弱気で、常にテレサの顔色を窺いながら行為に振れる軟弱さを見せつけられたから、テレサは攻撃に反転する博打に打って出る外になかった。
彼女の強さは、来客の際にリチャードとの権力関係を覆(くつがえ)す大胆な行為にシンボライズされるだろう。
しかし、ジョージが来客を追い出した後、テレサの権力関係の反転が呆気なく終焉する。
庭師からギャングに戻ったリチャードが、難儀な〈状況〉を変えようとするテレサの攻撃への過剰な暴力の応酬後、電話の回線を繋いでカルトバックとの連絡を試みるが、“好きにしろ。知るか”という間接的伝言を受け、救援が絶たれてしまい、自ら左手だけで運転して逃走する事態を惹起する。
ここから、物語が一気に動いていく。
夫婦を再び閉じ込めようとするが、それを拒否するジョージとテレサ。
電話中にテレサがリチャードの脱いだ上着から銃を掠め取ったから、この「闘争反応」に振れたのだ。
このテレサの大胆な行為を止めようとしたリチャードは、相変わらずテレサの顔色で動くので、既に手渡された銃を手に、ここでもなお変わり得ない弱さを引き摺っている。
常にテレサの顔色を確認して動くジョージ |
銃がない事実に気づいたリチャードが「(銃を)よこせ」と迫るが、ジョージは拒否する。
テレサが首を横に振ったからだ。
この時、ジョージはリチャードに銃を返そうとしたのである。
かくて、テレサによってジョージの「闘争反応」が引き摺り出されたのである。
ジョージがリチャードに向かって弾切れになるまで発砲し、リチャードを斃す。
発砲した後もテレサの顔色を確認するジョージ(上2枚) |
ところが、立ち上がったリチャードがマシンガンを手に2人に向かって撃とうとした時、ジョージとテレサがお互いに後ろに隠れようとするのだ。
テレサの後ろに隠れようとするジョージ |
普通の人間の普通の反応だが、ここではジョージの弱さがあからさまに露呈されていた。
結局、リチャードは絶命するが、此の期に及んでも、前線に立てない男の弱さが剥(む)き出しになっている。
そんな男に向かって、二人で逃げることを繰り返し促すテレサの冷静さが際立つ。
二人とも、カルトバックの救援がない事実を知らないのだ。
「ジョージ、行かないと。彼の仲間が来る。警察に通報を。仕方なかった。正当防衛よ。どうしちゃったの。ねえ、しっかりして…」
そう言われても、呆然として動かないジョージ。
一瞬離れたテレサが戻って来て、「お願いだから、一緒に行きましょ」と懇願するが変わらない男。
「しっかりしなさいったら!」と平手打ちされても、反応しない男は、自分がギャングを射殺したことの事態の重さに震え切っているのだ。
その時、置き忘れたショットガンを取りに戻って来たセシルの車が近づいて来た。
テレサはその場を離れ邸に潜り込むが、ジョージは叫びを上げる。
「あいつを殺してやった。さあ、車でひいちまえ…かかってこい。悪党どもめ」
テレサによって引き摺り出された「闘争反応」が全開しているように見えるが、それは単に理性的自我が壊れた男の倒錯的な遠吠えに過ぎなかった。
要するに、〈状況〉に適応できない感情が暴れているのだ。
セシルの出現を恋愛の文脈で捉えたジョージの、その直後の行動は些か異常だった。
テレサの荷物をまとめたスーツケースを外に運ぶのだ。
意に反して、リチャードを殺すことになった事態の原因をテレサと決めつけたジョージは、封印してきた感情が溶解できない内的状況下にあって、彼女への絶対依存の生活に限界を感じたのである。
そう思えるのだ。
二人の共生が破綻した瞬間である。
「さっさと出ていけ。消えろ」
独り叫ぶジョージ。
満潮の浜辺を、泳げない男が走り続け、小さな岩の上に座って前妻の名を呼び、嗚咽するのだ。
1年にも満たないテレサとの共存は、「ふんわりとした日常」の、あまりに脆い裸形の相貌性を隠し込んできた時間でしかなかったのか。
完全に袋小路に嵌った男は自死に向かうのだろうか。
こんな残像を観る者に残して閉じていく映画だった。
―― 今年になり、「水の中のナイフ」、「反撥」、「袋小路」と続く初期の作品を観直して、つくづく人間の心理の複雑さ・脆さ・愚かさをシニカルに描き続けるポランスキーの特異な映像宇宙が、マッターホルンの如くアルプスで切り立つ独峰の煌(きら)めきを喚起させるに十分だった。

(2025年4月)
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