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2019年8月27日火曜日

セールスマン  アスガー・ファルハディ監督


エマッドと妻のラナ

「報復権」を解体できない男の最終的焼尽点 ―― その内的風景の痛ましさ



1  事件の破壊的トラウマが関係を食い潰していく ―― その1





「皆逃げて!」
「アパートが壊れるよ!」

大声が飛んだ。

アパートの倒壊危機の状況下で、「何があったんです?」と尋ねても、埒(らち)が明かなかった。

エマッドは妻のラナを呼び、逃げることを促し、アパートの住民は性急に避難する。

アパート住民が、逃げ場を求めてパニックになっている、この冒頭のシーンの混乱は、ショベルカーの映像提示によって、都市を再開発し、高級化する「ジェントリフィケーション」の様態と切れ、高い経済成長を実現しつつある「中進国」にあって、近代化の急速な膨張による、杜撰(ずさん)な工事の悪しき所産であることが判然とする。

エマッドの怒りは、近代化と、北部中心に進む歪(いびつ)さを見せる都市化が急速に進むイランの現状を炙(あぶ)り出していた。

イランの首都テヘランは、1400万弱の人口を抱える同国最大の都市である。

テヘラン市街(ウィキ)
テヘラン市街のバザール(市場)http://worldtraveling.hatenablog.com/entry/tehran
テヘラン市街https://4travel.jp/travelogue/11267249

イスラム教の第4代正統カリフ(マホメット=ムハンマド死後の国家指導者)のアリ―(ムハンマドの父方の従弟)の子孫のみが、「ウンマ」(イスラム共同体)の指導者とするシーア派の拠点国家であり、「中進国」イランのテヘランは、このシーア派住民の文化的中心地でもある。(イラン人は、サウジアラビアのようなアラブ民族ではなく、ペルシア人であり、言語も、ユーラシアから西アジア、南アジアに広く分布する、インド・ヨーロッパ語族のペルシア語である)

シーア派とスンニ派の違い
アリー(19世紀絵画・ウィキ)

その文化的中心地として急成長を続けている、イラン北西部・テヘランに、国語教師のエマッドと妻のラナが住み、共に、小劇団に所属して、今、アーサー・ミラーの代表的戯曲「セールスマンの死」の舞台稽古で、老いた主人公夫婦を演じ、精を尽くしている。

アーサー・ミラー(ウィキ)
「セールスマンの死」(1951年の映画・営業成績の不振で過去の幻想を追うウイリー・ローマンと、夫への尊敬の念が強いリンダ・ローマン)

そんな渦中で惹起したアパートの倒壊事故によって、居住スポットを奪われた夫婦は、同劇団のババクが紹介してくれたアパートに移住する。

「最低な街だな。全部壊して、やり直した方がいい」とエマッド。

「やり直した結果がこれだ」とババク。

ババク
壁に裂け目ができているアポートの部屋

管理人のいない、移住先のアパートでの会話である。

ところが、この移住先がとんでもない代物(しろもの)だった。

そこに住んでいた、前の住人所有の多くの荷物が無造作に残っていたからである。

アパートの住人の話では、前の住人(ラナとの電話のやり取りがあるが、基本的にマクガフィン)は、引きも切らず、異なる男が訪ねて来て、「ふしだらな商売」をしていた女性であると言うから、余計、厄介だった。

そして迎えた、「セールスマンの死」の公演。

事件が起こったのは、その夜だった。

夫より先に帰宅したラナが何者かに襲われ、浴室でレイプの被害に遭ったのだ。

相手の顔を見る余裕すらないパニック状態の只中で意識を失い、事件を知った隣人のサポートを得て、浴室から病院に連れて行かれ、ERで治療を受けていた。

夫の帰宅と誤って、玄関の扉を開けてしまったラナの行為に全く落ち度がない。

だから、事件を知ったエマッドが、ラナを誹議(ひぎ)することはない。

それでも、この理不尽な事件を悲憤慷慨(ひふんこうがい)する、エマッドの怒りの感情は収まらない。

ラナのX線写真を見るエマッド

それは、事件の破壊的トラウマによって、「男性恐怖症」(恐怖対象が男性である対人恐怖症)に陥り、身動きが取れないラナと、そのラナを襲った男に対する感情が膨張し、復讐的暴力の忿怒(ふんぬ)を抑えられないエマッド。

まさに、瞋恚之炎(しんいのほむら)である。

そんな二人の会話。

「一人は怖いの」とラナ。
「警察に行こう。告発すれば、犯人が見つかる」とエマッド。
「どういう風に?」
「奴のトラックがあるから。携帯もあったが解約されていた」
「誰なの?」
「前の住民は、ふしだらな女だったそうだ。犯人は彼女の客らしい」

顔に傷を受け、記憶を失っているラナの内側では、極度に「男」を怖れる感情だけが漂動(ひょうどう)していた。

「髪を触られ…あなただと思って、あとは何も覚えていない…」

嗚咽しながら、必死に、それだけを話すラナ。

「セールスマンの死」を演じるラナは、もう、リアルな演技を演じ切れない。

だから、代役を立てられる。

「セールスマンの死」の主人公夫婦の役柄を演じる二人

「一人が怖いの」
「しばらく実家に帰るか?」
「この顔で?」
「今朝、決心した。警察に行くか、忘れるか、どっちかに」
「すべて忘れて引っ越しを」
「分った。だが、その前に。君がしっかりしてくれ」
「私のせい?」
「きちんと薬を飲んで、夜はちゃんと寝てくれ」

一貫して、自室の浴室でシャワーを浴びることを拒むラナに対して、苛立(いらだ)つエマッド。

「君が分らない。夜は、そばに寄るな。昼は、そばを離れるな。どうすればいい?」
「死ねばよかった…」

一人で仕事に向かおうとするエマッドは、部屋の隅で項垂(うなだ)れているラナに気づき、傍(かたわ)らに座り、「よせ」と一言。

エマッドにとって、強姦された妻への復讐の情動を抑え、事態の収束を警察に委ねようとするが、その合法的選択肢をも拒絶するラナを目の当たりにして、もう、何も言えなかった。

責めているのではない。

気持ちも分らなくない。

それでも、内側に累加されたストレスを処理できず、思わず、不満を洩(も)らしてしまうのだ。

思うに、エマッドの行動原理のうちに、被害者遺族の「報復権」という、暴力的な観念が張り付いていて、これが彼の復讐的暴力の忿怒の心理的推進力になっていた。

教師を本職にするエマッド

教師でありながら、授業中に居眠りをしてしまうほど疲弊し切っていくエマッドの心身は、妻ラナと異なる次元で、ウエルビーイングの状態から完全に乖離(かいり)していた。

まるで、事件の破壊的トラウマが、二人の関係を食い潰していくようだった。





2  事件の破壊的トラウマが関係を食い潰していく ―― その2





ラナを襲った犯人と思われる男が残したトラックを、エマッドはアパートの駐車場に移動させていた。

犯人を自らの手で、取り押さえるためである。

そのトラックを、ラナは駐車場の外に移動させてしまう。

アパートの住人が駐車場に来る度に、トラックを動かすのが面倒臭いと思ったからである。

犯人を特定する重要な手掛かりになるそのトラックが、ある日、突然、姿を消してしまった。

エマッドは、父親が警察の交通課に任務する教え子に依頼し、トラックの持ち主を割り出した。

エマッドがトラックの持ち主と睨(にら)んだのは、パン屋で働く若い男。

その男に、エマッドは荷物の運搬をゴリ押しで頼み込み、了解を得た。

エマッドが待つのは、引っ越し前に住んでいアパートの部屋。

当然ながら、犯行現場である現在のアパートに呼び寄せることなど、できようがない。

ところが、やって来たのは、相当に年配の男。

若い男の代理で、仕事に来たと言う。

シナリオが狂ったが、エマッドはストレートに事件について話し、老人の娘婿(むすめむこ)が犯人であると断定する。

娘婿の名はマジッド。

当惑する男。

義父である。

娘婿マジッドに携帯で連絡して、ここに来るように命じるが、そのマジッドに電話をかける義父の一言に、エマッドは疑念を抱く。

マジッドが老人の電話番号を知らなかったこと。

「婿があんたの電話番号を、なぜ知らない?」

老人が、携帯を新しく変えた事実を追求していくエマッド。

「靴を脱いでくれないか。足が見たい」

一切の妥協を許さないエマッドの態度に抗(あらが)えず、靴を脱ぎ、靴下をも脱がされていく。

その靴下に、血の跡が生々しい包帯が巻かれていたことで、この老人こそ、妻ラナをレイプした犯人であると分り、その違和感に当惑し、深呼吸して、感情を必死にコントロールするエマッド。

エマッドの追求と、老人の弁明が続く。

「人違いと分って、すぐ逃げた」

犯行を認めようとしない老人に、エマッドは彼の妻を呼び出すことを求める。

「恥をかかせないでくれ」

老人が先に手を出した行為に激昂(げきこう)したエマッドは、老人を狭い部屋に閉じ込めて、舞台の公演に出るために、慌(あわ)ただしくアパートを後にした。

老人を逃がさないためには、閉じ込めるしかなかったのである。

公演を終え、急いでマンションに戻るエマッド。

ラナも駆け付けた。

「許してくれ。ひどいことを」

追い詰められて、初めて、犯行を認める老人。

「なぜ、浴室に入ったんだ」
「そそられたんだ」

一切を理解したエマッドは、老人に対して、家族の前での告白を命じるのみ。

それを耳にしたラナは、強く反対する。

ショックで心臓発作を起こした老人に、トラックの車内からニトログリセリン(狭心症の薬)を持って来て、それを飲ませる。

老人の家族が到着したのは、その直後だった。

老人の妻と娘、そして、その娘との結婚間近なマシッド。

この3人である。

老人の妻は、「仕事」で出かけていった行動を責めながら、「私の命」とまで叫んで、号泣する。

息を吹き返し、立ち上がった老人を視認し、安堵(あんど)する家族。

老人と娘、マシッド

救助してくれたエマッドに、「命の恩人」と呼び、感謝の言葉を述べていく。

この難しい状況下で、ラナはエマッドに、「話したら、私たちは終わりよ」と最後通告する。

この直後に、エマッドが取った選択肢は、別室に老人を呼び寄せ、老人が残していった紙幣などを入れたビニール袋を渡すという行為だった。

それだけではない。

老人の頬に、一発、張り手をを浴びせたのである。

この状態で、部屋を出ていった老人の足取りが乱れていく。

荒廃したアパートの狭いスポットで、家族の悲鳴が劈(つんざい)いた。

心臓マッサージをしながら、救急車を呼び、その指示に従う家族の面々。

救急車が到着した時には、心肺停止の状態にあった。

老人が昇天していくという事態を印象づけるカットが挿入され、このシークエンスは閉じていく。

そして、ラストカット。

翌日、公演前のメイクをするエマッドとラナ。

いつものように、「セールスマンの死」を演じるためである。

鏡に映る、メイクの顔を見つめる二人が、そこにいた。





3  「報復権」を解体できない男の最終的焼尽点 ―― その内的風景の痛ましさ





演出中のアスガー・ファルハディ監督

アスガー・ファルハディ監督
演出中のアスガー・ファルハディ監督

第69回カンヌ国際映画祭において。左からシャハブ・ホセイニ(男優賞)、アスガー・ファルハディ監督(脚本賞)、タラネ・アリドゥスティ

「私は学生の時に、『セールスマンの死』を読み、とても胸を打たれました。(略)重要なポイントは、都会であるアメリカの突然の変化によって、ある社会階級が崩壊していく時代の社会批判です。急速な近代化に適応できない人々が崩壊するのです。その意味で、この戯曲は、私の国イランの現在の状況をうまく捉えています。物事が息つく暇もないほどのペースで変化しています。そこにある選択肢は『適応』するか、または『死』です。この戯曲の根幹である社会批判は、今のイランにあてはまるのです。

(略)舞台では、夫のエマッドと妻のラナは、セールスマンとその妻をそれぞれ演じています。そして彼らの実際の生活でも、気づかぬうちに、セールスマンとその家族に直面していき、セールスマンの運命を選択しなければならない状態となります」(「セールスマン」アスガー・ファルハディ監督インタビュー)

「街の様子が恐ろしいほどの速度で変化しています。古いものや果実園、公園が取り壊され、そこにビルが建設されています。まさに戯曲のセールスマンが住んでいた環境なのです。それは、また映画と戯曲との新たな類似点でした。テヘランは、狂乱的に、無秩序に、そして理不尽な方法で変化しています」(「セールスマン」アスガー・ファルハディ監督インタビュー)

アスガー・ファルハディ監督

このアスガー・ファルハディ監督のインタビューで、「テヘランは、狂乱的に、無秩序に、そして理不尽な方法で変化しています」という説明は、冒頭のシーンで映像からダイレクトに伝わってくるが、「夫のエマッドと妻のラナは、(略)セールスマンの運命を選択しなければならない状態となります」という説明には、観終わっても、腑(ふ)に落ちなかったが、エマッドの内面描写を思考していく中で、自分なりに納得することができた。

以下、このテーマで言及していく。

先(ま)ず、「セールスマンの運命」とは、「都会であるアメリカの突然の変化によって、ある社会階級が崩壊していく時代の社会批判です。急速な近代化に適応できない人々が崩壊するのです」という、アスガー・ファルハディ監督の他のインタビューでの説明で理解すること。

この前提に立って考えると、エマッドの内面の変容の核心に横臥(おうが)する観念が、前述したように、「報復権」の遂行という由々しき行為に関わる文脈で説明可能である。

ここで、「報復権」と位相が異なる「名誉殺人」について言及したい。

親族に殺される女性たち-南アジアの名誉殺人。パキスタンで横行する「名誉殺人」
妊娠中の娘を両親兄弟が殺害・パキスタン「名誉殺人」。パキスタン北東部パンジャブ州の村で、家族の反対を押し切って結婚し、2人目の子どもを妊娠していた女性(22)が、両親と兄弟によって殺害された。パキスタンでは親が認めない相手との交際などで家族の名誉を汚したとして女性らが殺害される「名誉殺人」が後を絶たないhttp://shock.doorblog.jp/archives/48875787.html
「名誉殺人」の恐怖に怯(おび)える女性たち(イメージ画像)https://forbesjapan.com/articles/detail/18472

「スウェーデンを悩ます『名誉殺人』とは何か」(内海夏子)によると、先進国のスウェーデンでも起こっている「名誉の殺人」は、移民が持ち込んだ犯罪として社会問題化しているが、縮小傾向にありながらも、まさに、現代史レベルの看過できない問題であるという認識が求められる。

「02年の『国連の女性に対する暴力についての特別報告書』によると『名誉殺人』の存在が確認されているのは、パキスタン、トルコ、ヨルダン、シリア、エジプト、レバノン、イラン、イエメン、モロッコ、ペルシャ湾岸諸国である。多くがイスラム圏の国々だが、同様の主旨で殺害を行なうキリスト教徒もいる。ヨーロッパでは、イギリス、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、オランダ、ドイツ、フランスに住む前記国からの移民の一部が行なっている」(「スウェーデンを悩ます『名誉殺人』とは何か」)

スウェーデンの場合、被害者はすべて女性。

本作で言えば、ラナが「名誉の殺人」の対象になる。

例えば、映画の中に、こんな重要なセリフがあった。

「警察に行かないとか?いい判断だ。警察は役に立たん。あなたも男を中に入れた理由を聞かれるし、裁判になれば、何を言われるか分らん。すべて無駄だ。男が現れたら教えてくれ。変態男の顔が見てみたい」

意識を失っているラナを救済した、引っ越し先の隣人の言葉だが、イランに象徴されるイスラム社会下での、女性の人権の顕著な侵蝕(しんしょく)の度合いが読み取れる。



同性愛者の公開処刑・イランでは、イスラム法(シャリーア)によって同性愛が禁止されている

同性愛者も対象となるイランでは、どうしても根源的に変わり得ない観念が、根強く残る重い社会的テーマなのだ。

男性が対象となる事例は稀だが、本作では、本来、「名誉殺人」の対象になりやすいラナを、近代的観念を保持し、誠実で明朗な印象が強い夫のエマッドは、逆に、ラナに代わって、そのラナを凌辱(りょうじょく)した老人に対する、「報復権」を犯す行為に大きく振れていく。

そして、エマッドの「報復権」の本質は何か。

「名誉」を守るためなのか。

「名誉」を守るためなら、誰の「名誉」か。

エマッド自身の「名誉」であると言っていいのか。

女房が凌辱されても、「何も為し得ない男」になりたくなかったのだろうか。

然るに、映画を観る限り、エマッドの行動は衝動的ではなく、一貫して抑制的だった。

例えば、相手が心臓病を患う老人であると知った時、エマッドは「右顧左眄」(うこさべん)する。

深呼吸するエマッド。

内側から噴き上げてくる感情の混乱を、必死にセルフコントロールするのだ。

ここで思うに、エマッドは、老人の娘婿マジッドとの、いずれかが傷つく危険性がある「直接対決」を覚悟していたことを思えば、その暴力性の発現の高い「直接対決」によって、自己完結を果たすというシナリオが、彼の中で把持(はじ)されていたと考えられなくもない。

しかも、仕事目的で来るだろうマジッドが想定もしていない状況下で、堅固なスタンスを確保し得る分だけ、有利に立っていたエマッドは、一切の「武器」の類(たぐ)いを用意していなかった。

仮にマジッドを倒し、「直接対決」を制覇(せいは)したなら、老人に言い切ったように、彼の「家族」(結婚予定の女性や義母・義父だが、この時点で、エマッドには知る由もなかった)を呼び寄せ、自らが犯した犯罪を暴露させたのだろうか。

この想定のハードルをクリアするのは、容易ではなかったであろう。

更に言えば、この「直接対決」で、暴力的に打ち負かされたとしたら、一体、どうなったのか。

「報復権」の自壊現象が、そこに露わにされ、エマッドの心身は砕かれて、惨めな様態を晒(さら)すことになるだろう。

それでも、この「前線」を突破せねばならなかった。

如何なる結末が待機していようとも、命を懸けた、この「前線」を突破せねばならなかったのだ。

その時、ラナの「男性恐怖症」は延長されるが、「勇敢」なエマッドの人格総体を、彼女は包摂(ほうせつ)し、より深い夫婦関係を繋いでいくかも知れないのである。

要するに、相手次第で、どのようにでも〈状況〉が遷移(せんい)し、動き、混乱を極める可能性があったということである。

ファルハディ監督の映画は、このように、想像を逞(たくま)しくする魅力に満ちているが、物語のコアとなるこの場面では、想像を巡らす余地がない。

物語の解釈の横滑(よこすべ)りを許さないのである。

なぜなら、ここだけは、「セールスマンの死」との関連によって限定されているからだ。

―― 老人と知って、エマッドが「右顧左眄」する場面に、話を戻す。

先に相手が出して、一瞬、激高し、老人を小部屋に閉じ込めるエマッド。

「閉所恐怖症」の老人の叫びを耳にして、電気をつけて、舞台に駆け付けた。

凌辱事件が出来(しゅったい)し、エマッドは、「男性恐怖症」になったラナの思いを受け、当初は警察に任せようとした。

「復讐的暴力」という名の「報復権」に振れていないのである。

恐らく、そのような、煮え切らないとも思える態度に苛立(いらだ)ち、心身共に疲弊し切っていく。

この宙吊(ちゅうづ)りにされた感情が変わっていくのは、犯人のトラックが消えた事態が発生したこと。

これで、エマッドは決定的に変わっていく。

「報復権」の遂行にのめり込んでいくのである。

これでもう、止められなくなった。

エマッド自身の「名誉」を守るための「報復権」の遂行。

それしかなかったのだろう。

近代的観念を保持し、一貫して抑制的だった彼もまた、旧来の陋習(ろうしゅう)に呪縛されていくのである。

この辺りが、アスガー・ファルハディ監督が指摘する、先の説明で相応に納得できる。

要するに、「急速な近代化」という、突然の変化に十分に適応できない「セールスマンの運命」に重なっていくのだろう。

「何も為し得ない男」になりたくないばかりなのか、「報復権」に振れていくエマッドもまた、「名誉殺人」を変異させたかのような、イラン社会のゴールデンルール(黄金律)を踏襲していく運命から解放されなかった。

しかし、エマッドの「報復権」は不完全履行(ふかんぜんりこう)に終わる。

自分を襲った男が、ほんの「出来心」(できごころ)で、如何(いかが)わしい行為に振れた老人だったという事実を知った時、「男性恐怖症」が瞬時に払拭(ふっしょく)されたラナとの関係を壊したくなかったからである。

壊したくないが、疲弊し切った心身が、唯一、縋(すが)っていた「報復権」を解体するのは容易ではない。

だから、一発、手を出して、老人の残した一切の痕跡(こんせき)を、抉(えぐ)り取らねば済まなかった。

自業自得(じごうじとく)ではないか。

「出来心」で済まし、自分だけ逃げるのは赦せない。

だから、最初から殺意はないが、「精神的暴力」という「報復権」の行使によって、相手が最も怖れ、その事実を知られたら生きていけないと思わせる行為に、殆ど、確信犯的に踏み込んでいく。

それで自己完結するのだ。

ところが、その行為も遮断(しゃだん)される。

万事休すである。

自己完結させねば、何もかも、立ち行かなくなってしまう。

極度に捻(ね)じ曲げられた「報復権」の行使。

それしかなかったのだ。

結果的に、相手を死なせる羽目になったばかりか、ラナをも失うトラップに嵌(はま)ってしまったが、自分より若い「犯罪者」との「直接対決」を覚悟し、命を懸けた〈状況〉を引き受けた男が、「報復権」を解体することなど不可能だった。

復元しなかった関係幻想
復元しなかった関係幻想
同時に、ラナの気持ちも、とてもよく分る。

見えない暴力の瞬時の破壊力によって、自死に最近接した彼女には、もう、これ以上、「加害者」と「被害者」が発生する、侵掠(しんりゃく)的暴力の爆轟(ばくごう)など見たくもない。

「被害者」であったラナのような女性が現出する、「名誉殺人」の理不尽さ・不毛性・非合理性。

婚前・婚外交渉を持った女性が家族に殺されるという、部族的因習が生き残されている社会のシステムそれ自身が、破壊的暴力の温床になっているのだ。

だから、この破壊的暴力の連鎖を断ち切るために、エマッドは老人を解放せねばならない。

赦さねばならない。







これが、事件で最も被弾したラナの収束点だった。

痛いほど分る

痛いほど分るが故に、辛いのだ。

巷間(こうかん)にあって、多くのヒューマニストは、「赦しなさい」と簡単に言うが、件(くだん)の紳士たちは、この「赦し」の艱難(かんなん)さを知悉(ちしつ)しているのだろうか。

―― ここで私は、「心の風景」で言及した「赦しの心理学」について、書き添えておきたい。

「赦し」には、「赦しの行程」という難儀(なんぎ)なものがある、と私は考えている。

そして、その「赦しの行程」には、四つの微妙に異なる意識がクロスし、相克し合っている。

これを図示すると、以下のようになる。

    (感情ライン)   赦せない    ⇔     赦したい

                ↑       X      ↓

    (道徳ライン)  赦してはならない ⇔  赦さなくてはならない 


感情ライン(赦せない、赦したい)と道徳(=理性)ライン(赦してはならない、赦さなくてはならない)の基本的対立という構図が、まず第一にある。

次いで、それぞれのラインの中の対立(赦せない⇔赦したい、赦してはならない⇔赦さなくてはならない)があり、この対立が内側を突き上げ、しばしばそれを引き裂くほどの葛藤を招来する。

「赦しの行程」は、この四つの感情や意識がそれぞれにクロスしあって、人の内側の時間を暫く混沌状態に陥(おとしい)れ、そこに秩序を回復するまで深く、鋭利に抉(えぐ)っていくようなシビアな行程であると把握すべきなのである。

赦したいという感情には、憎悪の持続への疲労感がどこかで既に含まれているから、この感情が目立って浮き上がってきたら、早晩、赦さなくてはならないという理性的文法の内に収斂されていくであろう。

しかし、その感情の軌道は直線的ではない。

時間の経過によっても中和されにくい、濃密で澱(よど)んだ感情がしばしば疲労感を垣間見せても、自我に張り付いた赦し難さが、束の間訪れる気まぐれな感傷を破砕してしまえば、赦しを巡る重苦しい心理的葛藤は振り出しに戻ってしまって、またぞろ、内側で反復されていくだろう。

時間の中で何かが迸(ほとばし)り、何かが鎮(しず)まり、そしてまた、何かが噴き上がっていくのだ。

厄介なのは、赦せないという感情が、赦してはならないという理性的文法に補完されると、感情が増幅してしまって、葛藤の中和が円滑に進まず、秩序の回復が支障を受けるという問題である。

「赦しの行程」では、赦せないという感情の処理が最も手強(てごわ)いのだ。

以上が、私が考えている「赦しの行程」についての要諦(ようてい)だが、この行程を自己完結させていくことの難しさだけが、強烈に印象づけられてしまうのである。

「赦し」をテーマにした映画「息子のまなざし

―― 本稿の最後に、もう一度、エマッドの内的風景を凝縮(ぎょうしゅく)すると、こういう風になるだろうか。

エマッドの最終的焼尽点の風景。

見るに忍びないが、しかし、それだけは手放せなかった。

痛ましいのだ。

エマッドの内的風景の痛ましさ。

失ってはならないものを失った男に、もう、我が身を預ける安寧(あんねい)のスポットはない。

この内的風景の痛ましさ。

「報復権」を解体できない男の最終的焼尽点 ―― その内的風景の痛ましさ。

そういうことだろうか。







(2019年8月)

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