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2022年1月15日土曜日

全篇にわたって心理学の世界が広がっている 映画「空白」 ―― その半端なき映像強度 𠮷田恵輔

 




1  何もかも空転しているようだった

 

 

 

父と別れて再婚した母・翔子(しょうこ)に買ってもらった携帯を、父・添田充(そえだみつる/以下、充)に取り上げられ、窓外に投げ捨てられてしまった娘・花音(かのん)。 

携帯を捨てられ、何も言えない花音


漁労を生業(なりわい)にする充は荒っぽい性格で、仕事場でも、娘にも威圧的な態度で接している。 


充と弟子の野木(手前)


「ちょっと学校のことで話したいことがあるんだけど…」

「何?」


ある日、スーパーでマニュキアを見ていた花音の手を、いきなり店長・青柳直人(以下、直人)が掴み、万引きの疑いで事務所に連行したが、花音はそこから全速力で走って逃げて行った。

万引きする花音
 



それを追い駆ける直人。 



花音は直人に捕捉される寸前に、道路に飛び出し、停車しているトラックの陰から出て来た女性ドライバーの車に衝突してしまった。 


車を運転していた中山


血を流し、起き上がろうとした矢先だった。 


今度は、走って来トラックに跳ねられ、圧死するに至る。 

路傍に血痕が残る


トラックに引き摺られたことで、損傷の激しい遺体と化した娘と対面し、号泣する充。 



安置所に翔子が駆けつけ、花音との対面を求めるが、充に止められる。

 

「見ない方がいい。頭、潰れちまってんだ」 

翔子


テレビでは、万引きをした少女を追い駆けた事態に行き過ぎがなかったか、店長の人物像について、「不愛想で、何考えているか、分からない人」と近隣住民のインタビューを取り上げるなどして、悪意ある報道が過熱していく。 



閉店して自宅アパートに籠(こも)る直人だったが、花音の葬儀にやって来たところ、充に問い詰められる。

 

「うちの店は、以前から万引き被害に悩まされていまして、できるだけ万引きを減らす努力もしていたのですが…」


「うちの娘が、以前から万引きしていたって言いたいのか」


「いえ、万引き対応していれば、予防できたわけでありまして…」

「あのよ、俺は娘が万引きしたって思ってねぇんだよ。なんか、証拠あるのか」

 

弱気な直人を怒鳴り散らす充の大声に、メディアの記者たちが気付き、こぞって集音マイクを向けてくる。

 

「あんた、本当はいたずら目的で、万引き犯に仕立て上げたんじゃねぇのか!」 



そう言って、直人の胸倉を掴む充。

 

それを止める弟子の野木(のぎ)だが、充は手を離さない。

 

その乱暴な様子を放映され、充の家には、「スーパーに謝罪しろ」・「自業自得」などの張り紙がされる。 



一方、スーパーにも、「ロリコン野郎」・「性犯罪者」・「人殺し」などと落書きされ、それを黙々と掃除する直人。 



充は、中学校に乗り込み、教頭と担任の今井に誰かに指示されたとか、虐めがなかったかと問い質し、詰め寄っていく。 

今井教諭(右)


充の乗り込みは、花音が化粧とは無縁であると決めつけているからだ。

 

「虐めがないって言うなら、担任のあんた、証拠出せよ。虐めがなかったっていう、証拠、証拠だよ!」

 

その後、今井は、花音について部活で一緒だった美術部の生徒に聞き込みをすると、全く目立たず、印象がない子だったと知る。 


友人もなく、目立たない花音


以下、線香を上げに来た祥子と充の会話。

 

「花音はな、死ぬ前に俺に相談しようとしてたんだよ。学校のことで、話があるって。深刻な顔して言ってたのに、俺は聞いてやれなかった。だから、せめて、せめて花音の無念を晴らしてやらなきゃいけねぇだろ」


「学校のことって?」

「虐めに決まってるだろ」

「それね、三者面談のことよ。花音、三者面談はあなたじゃなくて、私に来て欲しいって」


「そんな小さい話じゃねぇだろ。あんな深刻な顔して」

「小さい話でも、深刻になるようにしたのは、あなたのせいじゃないの?普通に話せる関係を作れなかった、あなたのせいでしょ」

「ふざけんなよ」

「やめてよ、あんたが騒げば騒ぐほど、花音まで悪く思われるんだから」

「やめねぇよ、バカ野郎、お前にはガキがいるからいいかも知れねぇけどな、俺には花音しかいねぇんだよ。喪っても生きていくしかねぇんだ、俺は」

「あんた、花音しかいないって言うほど、あの子の、何知ってるの?何かしてきた?花音が盗んだっていうマニキュア、何色か知ってる?透明だったって。気にしたことないでしょ。花音の爪に艶(つや)があるとか。あたしだって、万引きしたって思いたくないけど…」


「帰れ」

 

充が家を出て歩いていると、前方に花音を轢いてしまったドライバーの女性・中山と、その母がやって来て、泣きながら謝罪する。 



「邪魔だよ、どけ」

 

充は女性を払い、車に乗り込んだ。

 

再び学校へ行った充は、生徒たちのアンケートを見せられるが、異口同音に印象にないと書かれているだけだった。 


充は直接、生徒に話を聞かせろと迫るが、教頭から、3年前に生徒の姉が店長から痴漢にあったという情報を得るに至る。 



決定的な「戦利品」を得て、充は帰って行く。 



学校でも、今井は自分が花音を何度となく、自主性がないなどと叱っていたと打ち明けるのだ。 

自発性のない花音を説諭する今井教諭(トップシーン/事故死後、今井はこのことを気にかけていた)


「…もしかして、本人なりに努力していたんじゃないかと。いくらやる気があっても、努力しても、周りからはそう見えず、認められない子っているんじゃないでしょうか。本人的には、頑張っても、頑張っても、いつもやる気ないとか言われ続けたら、それって…」 



言下に、美術部の顧問が反駁(はんばく)する。

 

「先生、それはズルいよ。今になって、理解者ぶるのはズルいですよ」 



今井の行為は、限りなく自己を相対化する努力の現れだったが、それを共有する何ものもない学校サイドの隠蔽気質が露呈されるのみ。

 

一方、ワイドショー番組の取材を受け、インタビューに答えた直人だったが、それがサウドバイト(発言の恣意的切り取りで、主に政治家の言動)の餌食にされ、謝罪する前の万引きされる店側の言い分と、インタビュー後の笑い顔だけが放送され、全く反省していないと印象操作されてしまう。 



それをテレビで見た充は、スーパーに乗り込むや、直人の見てる前でマニキュアを盗み、花音の万引き行為をトレースする。 

わざと万引きする充


「戦利品」を得た充の確信犯的行為である。

 

店から出て来た充を捉えて、テレビのレポーターが声をかけるが、振り切られると、わざとらしく転び、その姿をテレビに流し、匿名者の証言まで添えて、充の暴力性を煽るワイドショー。 



スーパーの店員で、常々、直人の味方になり、善意の押し付けをするかのような草加部(くさかべ)が、今度はメディア批判のチラシを駅前で配る行動に振れていく。 

草加部(左)と、困惑する直人


直人が花音に悪戯しようとしたと信じる充は、常に、直人を店の近くで監視するようになっている。

 

スーパーには嫌がらせが絶えず、この日も、誰も呼んでいない救急車が到着した。

 

草加部は充の仕業と思い、近づいて抗議する。

 

「うちの店長は、誰よりも誠実で真面目な人なの。あなたが思ってるようなことは、一切ない」

「これは俺とあいつとの問題だ。部外者は口出すな」

「あなたは間違ってる。大人なら、もっと正しい行動しなさいよ」


「何言ってんだ。俺はただ、本当の話が聞きたいだけだ!」

「あなた、きっと心が腐ってる!」

「何だと、この野郎!」

 

ここで、救急車を呼んだのが、いたずら電話の主と分かり、直人が草加部を止めに入るが、二人の言い合いは止まらない。

 

「さっきから偉そうに、人のこと、どうこう言ってるけどな、あんたは、そんなに正しい人間なのか!」


「少なくとも、あなたより正しい行動をしてます。毎日、人のためを思ってボランティア活動だって、ちゃんとやってるんだから」
 



不毛な口論だった。

 

漁を続けたいと言っていた野木を辞めさせ、久々に、一人で漁に出た充だが、手に怪我をする始末。 



何もかも空転しているようだった。

 

野木が、テレビレポーターが充に近づくのを体を張って阻止し、怒鳴り返している。 


それを見る充。


 


スーパーで万引きする女子中学生を直人は見逃すが、草加部が捕捉し、事務所に誘導する。

 

いよいよ、草加部の行動もヒートアップしていく。

 

直人に付きまとい続ける充は、閉店後に待ち伏せ、花音が命を落とした事故現場で、直人に轢断(れきだん)の如き状態を再現させるのだ。

 

憔悴し切った直人は、トラックに身を投げ出そうとするが、充に阻まれる。 


「死ぬんならな、他人に迷惑かけず、一人で死ね」

 

その後も、スーパーへの嫌がらせは続き、ボヤ騒ぎにもなり、直人は警護のために店に残る。 



直人は買ってきた「特選」のり弁当が、「普通の」のり弁当だったことで、店にクレームの電話をかけ、苛立ち、切れてしまう。

 

「てめぇ、殺すぞ!ぜってぇ、ぶっ殺すからな!」

 

そう言って、弁当をぶち撒(ま)けるのだ。

 

その後、直人は散らかった弁当を掃除し、弁当屋に電話をして、嗚咽を漏らしながら謝罪する。

 

直人は、首にタオルを巻き、自殺を図るが、未遂に終わる。 



自殺を図った直人を、草加部が止めた。

 

直人に対し、草加部が力強く鼓舞するが、もう、限界だった。

 

直人の自我の消耗が激しく、未来に架橋する一筋のイメージをも剝奪(はくだつ)されているのだ。

 

 

 

2  それでも、父娘は時間だけを共有していた

 

 

 

充のもとに、花音を轢いた中山が自殺したという知らせが入る。

 

悲嘆に暮れる中山の母。

 

その葬儀に向かった充。 


「何言ったって、謝んねぇぞ」

「本当に、申し訳ありませんでした。謝って、どうにかなる問題ではないことは、分かっています。事故を起こした責任も、こんな形で逃げ出してしまって、本当に申し訳ありません。これも、全部、心の弱い娘に育てた私の責任です。本当にすいません。これから負うべき責任は、私が背負ってまいりますので、どうか、娘を赦していただけないでしょうか。心の弱い娘です。無責任な娘です。でも、優しい娘だったんです。いつでも明るく、何にでも大笑いする、本当に愛しい娘でした。なので、花音さんを喪った悲しみや苦しみは、よく理解しているつもりです。だからと言って、罪が軽くなるわけではありませんが、どうか、娘を赦して下さい。赦して下さい…」 


そう言って、啜(すす)り泣きしながら、深々と頭を下げる母。

 

絶句する充。 



家に帰った充は、花音が着用していた服を段ボールから引っ張り出し、花音の描いた絵を取り出して見る。 



充の船にまた乗りたいと、野木が訪ねて来た。 



その野木をモデルに、充は花音が使っていた画材でカンバスに絵を描いていく。 

「これは空飛ぶトカゲですか?」(野木)


しかし、「絵心がない」と言って続かず、今度は漫画を読み始める充が、そこにいる。 


花音の好みを知るためだった。

 

力尽き、直人のスーパーが閉店した。 



「元気印」を体現する草加部と、「元気印」と無縁な直人が顔を合わせる構図には、寒々とした風が吹き抜けている。 



充は引き続き、花音の部屋にある写真を見るなど、娘の世界を理解しようと努めている。

 

そんな折だった。

 

そこで、クマのぬいぐるみの背中に、ぎっしり詰まったマニキュアが見つかったのである。 


花音の万引きが判然とした瞬間だった。

 

慌ただしく、それらを袋に入れ、公園のゴミ箱に捨てに行く充。

 

そして今、花音の納骨のあと、充は野木と翔子の3人で会食をする。

 

野木に産まれてくる子について聞かれた翔子は、女の子と分かっていて、名前を“あかね”にすると言う。

 

夫から茜色の“茜”ではなく、花音から取って、“明花音”とすればいいと言われ、涙が出たと話す翔子に対し、充が面白くないと言って、突っかかるのだ。

 

「大体、お前の旦那さ、人の命を軽く考えてねぇか。大丈夫かよ、そんな浅い奴が、人の親になれんのかよ。安い工場勤めで、あとは定年待つだけだろ」


「その少ない稼ぎつぎ込んで、何回も不妊治療して、やっとできた子なの。できる保証もない中で、節約して、お金も借りながら、やっとできた子なんだよ。うちの旦那は、あんたなんかに、軽いとか、浅いとか言われる人じゃない。八つ当たりするの、もう止めれば?赦せないのは自分自身のくせに」
 



翔子は充に毅然と言い放ち、帰ろうとする。

 

「待ってくれ。悪かった。俺が悪かった。羨ましかったんだよ。その子、明花音、幸せにしてやってくれ」 


翔子を呼び止めた充は、涙ながらに語り、深々と頭を下げた。 



帰りのタクシーの中。

 

充は、海岸沿いの道を歩く、制服姿の中学生を見ながら呟く。

 

「皆、どうやって折り合い付けるのかな」 

花音を幻視する


翔子はそっと充の手に、自分の手を添える。 



程なくして、無事に「明花音」(あかね)は産まれた。

 

充と野木の乗るトラックが、工事中で塞がれた道路で止まり、いつものように怒鳴る充を諫(いさ)める野木。

 

近づいて来た警備員 ―― それは直人だった。 



相変わらず、平身低頭の直人に対し、充は静かに話し始める。

 

「あれから色々考える時間もあって、少しは、頭も冷静になったと思うんだ…今は、花音が万引きしたのかも、とも思ってる。でも、花音が逃げ出したのは、お前が何かしたからじゃないかっていう疑念が晴れないんだ」


「いや、それは本当に…」


「いや、何度言われても、靄(もや)が取れないんだ。俺は娘を喪(な)くした。でも、あんたも大事なものを失くした。正直、あんたに対して、申し訳ない気持ちがある。でも逆に、苛立ちもあるんだよ。そりゃ、あんたも同じだろ」


「俺は、分からないんです」

「そうか。でも、もし同じなら、あんたは、何度も俺に謝った。俺は、一度もあんたに謝罪してない」 


それを聞いて、首を横に振り続ける直人。

 

「今まだ、謝ることは、とてもできないよ。ただ、少し時間が欲しいんだ」

 

そう言って、充が煙草を取り出そうとするバッグの、花音の学生カバンに付いていたチャームが目に留まり、直人は反射的に謝罪を言い続け、頭を地につけ、ここでも土下座するのだ。 



「いや、責めようって気持ちは、全然ないんだよ」


「すいません、すいません…ごめんなさい…」

「だから、違うんだって!話、聞けよ!」

「ごめんなさい、ごめんなさい…」

 

タバコを逆(さか)さまに火を点けた充は、呟く。 



「疲れたな…」 



この一言が含む意味は、あまりに痛々しく、辛過ぎる。

 

その後、直人が警備の休憩時間に弁当を食べていると、スーパーをよく利用し、焼き鳥弁当が大好きだったという若者に声を掛けられた。

 

「なんて言っていいか、分からないですけど、今までありがとうございました。で、本当にお疲れさまでした…いつか、弁当屋でも開いて、焼き鳥弁当、また食わして下さいよ」 



若者が去った後、涙を溜めて、何度も頭を下げる直人。 



一方、充の家を、担任の松本が訪ねて来た。 


美術室に残されていた、花音の描いた絵を届けに来たのである。

 

その絵を受け取り、抱き締める充。

 

充は、花音が描いた街並みなどの作品を、一枚一枚、丁寧に見ていく。 



最後に、充が目にした一枚は、充が描いた絵と重なるような、海の上に浮かぶイルカの形をした雲の写生画だった。 


自分の絵と見比べる



父娘とも、同じ風景を見て、ただ、時間だけを共有していたのか。

 

万感の思いで、その絵を見続ける充。 


ラストカットである。

 

 

 

3  全篇にわたって心理学の世界が広がっている

 

 

 

身震いした。


深い感動で、涙が止まらなかった。

 

描写に無駄がない。


そこがいい。

 


―― この映画は、殆ど心理学の世界である。

 

自分が信じたものがすべて。

 

その頻度が決して少なくない程度において、こういう人物が、この世に五万といるに違いない。

 

主人公の添田充(そえだみつる)は乱暴な挙動に走ってしまう。 



彼の挙動それ自身が暴力性に満ちているのだ。

 

頭が潰れている娘・花音(かのん)の遺体を直視した充にとって、性格的に過剰な行動に振れていくのは自明だった。 



だから、彼の暴力性によって傷つき、精神的に追い詰めてられていく特定他者が現出する。

 

その特定他者の筆頭が、元来、気の弱いスーパーの店長であった。 


「今はただ、全部が苦しいんです」 


草加部から言い寄られ、それを振り払った際の店長・直人の言葉である。

 

脆弱過ぎる直人にとって、充の存在自身が暴力性に満ちていたのだ。

 

ではなぜ、そこまで充は、直人を追い詰めていったのか。

 

これも自明である。

 

娘の死を単に「事故」ではなく、「事件」と考え、信じているから、「本当のこと」を知りたいのである。

 

そう信じる男は、スーパー店長によって生徒の姉が痴漢されという、3年前の「事件」の情報を手に入れたこと。

 

その情報を提示したのが、一貫して防衛的に振れていく学校サイドだった。

 

これが、終わりなき「事件」の戦利品と化したことで、両者の関係を、深い泥濘(ぬかるみ)の底にまで侵蝕(しんしょく)していく。

 

「自分が信じたものがすべて」という狭隘な思考で〈生〉を繋いできた充にとって、「店長=痴漢男」という情報は、その狭隘な思考をいよいよ強化させていく厄介な何かだった。

 

自分が信じたものを補填する情報によって、充の狭隘な思考は固まっていくのだ。

 

だから、終わらない。

 

充の暴力性に、終わりが見えなくなるのである。

 

充の暴力性によって精神的に追い詰めてられていく直人の場合、「自分が信じたものがすべて」という狭隘な思考を持ち得ないが故に、却って難儀だった。

 

事故現場の土下座と、二度に及ぶ自殺未遂を図るのだ。 



それでも、いや、それだからこそ、男は許さなかった。

 

自殺=状況からの逃避と考えているからである。

 

「本当のこと」を言わないから、許さないのである。

 

然るに、直人は「本当のこと」を言っても許されないから、出口が完全に塞がれてしまっていた。

 

「万引き」については、確信している。

 

更に、目の前で起こった少女の事故死もまた、少女の飛び出しが原因であり、二台の車には全く責任がないことも分かっている。 

事故死を目前で見る直人


ただ、悔いも残る。

 

少女を追い駆けた結果、事故死させてしまったからだ。

 

この悔いが、直人の脆弱な自我に澱んでいるから、それが弱みと化し、充の暴力性に被弾することになる。

 

その風景の悲惨さが、物語を占有するが故に遣り切れないのだ。 

事故現場で充の前で土下座する直人


この遣り切れなさが、観る者にダイレクトに伝わってくるから、言葉を失ってしまう。

 

「今はただ、全部が苦しいんですよ」 


草加部に放った、この直人の言葉が映画を貫流していて、その悲哀が胸を打つ。


カーネマンが言う「自我消耗」。


セルフコントロールの資源が枯渇してしまうこと。


これが直人の自我を食い潰していたのである。 



―― ついでに書いておく。

 

「自分が信じたものがすべて」という狭隘な思考を、映画の中で体現した人物がいる。

 

草加部である。

 

ボランティア活動に熱心な草加部の一連の行為は、特定・非特定他者を救うことでアイデンティティを確保するという、「メサイアコンプレックス」という心理学概念で説明可能である。

 

このことは、落ち込んでいる直人を慰撫(いぶ)するのみならず、「愛する店長」に頬を寄せ、キスしてしまう行為で、排斥(はいせき)されるシーンの中で表現されていた。 



「ごめん。こんなオバさん気持ち悪いよね。…何か気が変になってた」

 

そう言ったあとも、草加部の「正義」の説法が止まらない。

 

「ダメだよ!正しいことは、正しいって伝えていかないと。直人君は、正しいんだから」

「もう、止めて下さい…正しいとか…善意の強要は…苦痛でしかないんですよ」

「迷惑?直人君は、あたしのこと偽善者だと思ってるんでしょ…あれでしょう。あたしが若くてキレイだったら、そうは思わないんでしょ。あたしがキモイんでしょ!キモくて迷惑なんででしょ!」

「あたしがキモイんでしょ!」


「そういうことじゃないんです…今はただ、全部が苦しいんですよ…すいません」

 

嗚咽する草加部。 



要するに、相手の心情より、自分の思いを表現するばかりの物言いが、ここで根柢的に自壊した瞬間である。

 

そこに、失恋の痛手が絡んでいるのは自明だった。

 

些か極端な人物設定だったが、彼女の社会的活動の根っこには、自己肯定感を高めることで、「結婚できない年増」というコンプレックスを埋めるという、ごく普通のサイズの観念が隠し込まれていたのである。

 

にも拘らず、スーパーの閉店後、意欲満々だった彼女の社会的活動は、「口煩(うるさ)い年増」と化し、自らが誘ったボランティアの若い仲間のミスを誹議(ひぎ)する行為に振れたあと、嗚咽する悲哀を映し出す。 

「毎回、毎回やる気あんの!」



言うまでもなく、直人に失恋した後遺症だった。

 

この後遺症によって、「自分が信じたものがすべて」という思考が瓦解する危殆(きたい)に瀕し、彼女の拠って立つ自我の行方が朦朧(もうろう)と化した今、そこに埋める何かを作らなければならないだろう。

 

人はこうして〈生〉を繋ぎ、生理的寿命を食い潰していく。

 

それだけだが、どれほど無様(ぶざま)であっても、思うようにならない私たちの〈生〉の様態を曝し、今日という時間を生き、明日に架橋していくのである。

 

―― もう一つ、重要な問題を指摘したい。

 

「自分が信じたものがすべて」という狭隘な思考には、相手を「敵」か「味方」かの二分法で決めつける観念が、ベッタリと張り付いていること。

 

これが厄介なのである。 

 

「敵」を仮構し、仮構した「敵」を、物理的・心理的に追い詰めていく行為に結ばれるからだ。

 

この充の行動傾向を、「自己正当化の圧力」という心理学の概念で説明できる。


自らの行動を正しいと信じることで、自我を安寧に導くという意味である。


特定他者=「敵」を仮構することで、その者を徹底的に甚振(いたぶ)っていく。


内深く抱え込んだ「悲嘆」(グリーフ)を、束の間、忘れさせ、厭世的に立昇ってくる烈しい情性を抑え込んでいくのだ。


件(くだん)の「敵」こそ、直人だった。



だから、暗晦(あんかい)なる風景が可視化されてしまうのである。


誠実だが、脆弱であるが故に追い詰められる青年と、仮構した「敵」を追い詰めていく中年男が絡み合って映し出す陰鬱なる風景 ―― そこに加える何ものもない。

 

「お前だけは味方だと思った」 


野木に放った充の言辞であるが、漁に出ず、野木解雇してしまうシーンが印象に残る。

 

この映画を通して、花音の思いに理解を示した野木は、充に向かって言い切った。

 

「花音ちゃんだって年頃だし、化粧品興味ゼロってことないでしょ。それに俺だって中学の時、万引きとかしましたもん…別に敵じゃないですけど。俺、正直、充さんが親だったらキツイっす」 



それでも、他の誰でもなく、充の下で働き、漁に出ることを望むのは、粗暴だが、そこに悪意の欠片(かけら)もない充の性格を理解しているからである。

 

しかも、充が父親ではないこと。

 

これが大きかった。

 

しかし、充を夫にした翔子は違った。

 

その暴力性で鬱状態になったと思われる彼女にとって、別れるという選択肢以外に「普通の〈生〉」を繋げなかったのだろう。

 

花音を連れて行きたかったが、充の猛反対で望みを絶たれたに違いない。 


だから再婚し、不妊治療して「我が子」を持つに至る。 


本当の幸福感を手に入れたのである。

 

そして何より、充の暴力性の最大の被害者こそ、一人娘の花音であった。 



娘にとって、「父」は耳を貸さない巨大な権力そのものだった。 


三者面談があっても、実母に頼る外になかったのだ。 

父に話せず、三者面談のことで、実母・翔子に相談する花音

花音を勇気づける翔子


父に、その話をしようとしても、携帯を取り上げられ、外に放り投げられてしまう始末。

 

そんな父に、一体、何を求められるのか。

 

花音の万引き行為は、封殺された少女の思春期自我の歪みが惹起したものだった。

 

ただ、ひたすら、美術室に残された絵画に打ち込むこと。


 

それだけが、少女のアイデンティティだったのか。

 

その少女の理不尽な死を認知しない父は、モンスターペアレントと化し、学校での虐めを問題化する。

 

もう、手が付けられなかった。

 

そして、遂に男の暴走に歯止めがかかる。

 

男の暴走に歯止めをかけたのは、花音を撥ねた中山の母親だった。

 

男は耳を貸すことなく臨んだ弔いのスポットに侵入したが、見当違いも甚(はなは)だしかった。

 

彼女は自死に振れた娘の葬儀に参列した男に近づき、嗚咽を漏らしながら、決定的な言辞を吐露したのだ。

 

「これも全部、心の弱い娘に育てた私の責任です」 



この言葉が、返答に窮する男の中枢に、深々と喰い込んできた。

 

子を喪った親の辛さこそが、男の辛さを代弁しているからである。

 

もう、向かっていくより手立てがなかった。

 

「我が娘・花音」とは、何だったのか。

 

男の「空白」を作ったこの作業に向かう、一人の中年男。

 

結局、何も分かっていなかった現実を突きつけられるばかりだった。

 

然るに、この内的時間が男を変えていく。 




全てが変わっていくほど、人間はクレバーではないが、それでも、今まで累加された「我が娘・花音」との「空白」を、ほんの少し埋めることができた。

 

その分だけ、男の視野が広がったのである。

 

前に進めたのだ。

 

それでよかった。

 

「赦せないのは自分自身のくせに」 


元夫を知悉(ちしつ)している翔子の、この一言が、充の「空白」の本質を衝いていた。

 

もう、男は謝罪する外になかった。

 

男は、ここまで変容し得たのである。

 

―― 以降の心的状態は粗筋で書いた通りだが、深甚なる心的外傷を負った男が〈生〉を繋ぐ行程の渦中で、苛酷な〈現在性〉との折り合いをつけるには、未だ不透明だが、それでも時が緩やかに動く内的時間の遷移に委ねる外にないだろう。

 

後述するが、「自分が信じたものがすべて」という思考が相対化されつつある、男の「赦しの心理学」の構造は、攻撃的な感情ラインが下降し、漸次(ぜんじ)、柔和な道徳ラインが立ち上ってきて、両者の攻防が最近接する風景を垣間見せている。

 

にも拘らず、男が負った心的外傷を浄化させるには、時が癒す内的行程の流れに身を任せる以外にないのだ。

 

人間とは、そんな生き物なのである。

 

心の問題に折り合いをつけることの艱難(かんなん)さ ―― 途轍もなく人間的過ぎるのだ。 

「皆、どうやって折り合い付けるのかな」


一方、「自分が信じたものがすべて」という思考で武装し得ない元店長の心的外傷の重さは、その著しい憂苦(ゆうく)の状態において半端ではなかった。 



観る者は、二人の思わぬ再会後の世界を、真摯に想像する営為が求められる。

 

切に求められるのだ。

 

そんな映像だった。

 

描写に無駄がなく、全篇にわたって心理学の世界が広がっている映画の切れ味は鋭く、感嘆する。

 

【本作には、神田沙也加さんの自殺の過熱報道に象徴されるように、メディアスクラムや決めつけ報道、そして、メディアのサウンドバイトの実態がより強調されて描かれていたが、メディア批判が映画の趣意ではなく、単に、主要登場人物の行為に変化を与える存在として嫌味たっぷりに拾われていたに過ぎないだろう】

 

―― 以下、稿を変え、参考までに、「赦しの心理学の難しさ」について言及した拙稿(心の風景「赦しの心理学」より)を引用します。


【なお「赦しの心理学」は、「我が子を殺した少年を赦せるか」という重いテーマを描いた、ダルデンヌ兄弟の名画「息子のまなざし」の批評を参考に、再編集したものです】 

「息子のまなざし」より

同上



4  赦しの心理学



人が人を赦そうとするとき、それは人を赦そうという過程を開くということである。

 

人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。

 

人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。

 

私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。

 

これが、とても難儀なことなのだ。

 

相手の行為が、私をして、相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、或いは、無関心であるかのいずれかである。

 

相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程を、それ以前に開いてしまっているのである。

 

この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ、赦すという行為の全てである。

 

赦しとは、自我が空間を処理することではない。

 

自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、諒解・受容できるラインまで引っ張っていく苦渋な心的行程の別名である。

 

従って、笑って赦そうなどという欺瞞的な表現を、私は絶対に支持しない。

 

笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。

 

赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な心的行程の媒介が内包していないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いのうちに掬(すく)い取られてしまっている。

 

あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだろう。

 

人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっているのだ。

 

この赦し難さを、内側で中和していく行程こそが、赦しの行程だった。

 

もう少し、掘り下げて分析してみよう。

 

この赦しの行程には、四つの微妙に異なる意識がクロスし、相克しあっている、と私は考えている。

 

これを図示すると、以下のようになる。

 

 

(感情ライン)   赦せない    ⇔     赦したい

            ↑     X        ↓    

(道徳ライン)  赦してはならない ⇔  赦さなくてはならない 

 

 

感情ライン(赦せない、赦したい)と道徳ライン(赦してはならない、赦さなくてはならない)の基本的対立という構図が、まず第一にある。

 

次いで、それぞれのライン内の対立(赦せない⇔赦したい、赦してはならない⇔赦さなくてはならない)があり、この対立が内側を突き上げ、しばしば、それを引き裂くほどの葛藤・軋轢(あつれき)を出来(しゅったい)させる。

 

赦しの行程は、この四つの感情や意識がそれぞれにクロスし合っている(赦せない⇔赦さなくてはならない、赦してはならない⇔赦したい)ので、いよいよ難儀になる。

 

赦しの行程とは、それらが人の内側の時間を混沌に陥れ、そこに秩序を回復するまで深く、鋭利に抉(えぐ)っていくような、途轍(とてつ)もなくシビアな行程であると把握すべきなのである。

 

赦したいという感情には、憎悪の持続への疲労感がどこかで既に含まれているから、この感情が目立って浮き上がってきたら、早晩、赦さなくてはならないという理性的文脈の内に収斂されていくであろう。

 

時間の経過によっても中和されにくい、濃密で澱んだ感情が、しばしば疲労感を垣間見せても、自我に張り付いた赦し難さが、束の間、訪れる気まぐれな感傷を破砕してしまえば、赦しを巡る重苦しい心理的葛藤は振り出しに戻ってしまって、又候(またぞろ)、内側で反復されていくだろう。

 

時間の中で何かが迸(ほとばし)り、何かが鎮まり、そして又、何かが噴き上がっていくのだ。

 

厄介なのは、赦せないという感情が、赦してはならないという理性的文脈に補完されると、感情が増幅してしまって、葛藤の中和が円滑に進まず、秩序の回復が支障を受けるという問題である。

 

赦しの行程では、赦せないという感情の処理が最も手強いのだ。

 

赦せないと思わせるほどの感情の澱みは、何ものによっても中和化しづらいからである。


トラウマを負った自我が、果たして、自らをどこまで相対化できると言うのだろうか。

 

赦しの行程を永久に開かない自我が、まさに開かないことによってのみ生きてしまう様態もまた、「赦しの心理学」の奥行きの深さを物語るもの以外ではない。

 

それも、仕方のないことだろう。

 

強いられて開いた行程の向こうに、眩(まばゆ)い輝きが待っていると語ること自体、既に充分に傲慢なのだから。

 

この辺に、赦しの困難さがある。

 

重さがある。

 

辛さがある。

 

それでも多くの場合、赦しの行程を開くことなしには秩序を手に入れられない人々の、溢れるような切なさ、哀しさが虚空に舞って、鎮まれないでいる。

 

赦す他ない辛さを抱える自我が、最も厳しいのかも知れない。


身の竦む思いがする。


【最後まで読んで頂いて、ありがとうございました】


(2022年1月)

 

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