古い一軒家で、一人暮らしをする行助(ゆきすけ)は、不自由な左足を引き摺りながら、自炊し、バスで勤務先の大学の研究室へ通う。
行助 |
行助の楽しみは、露天の骨董品屋で見つけた気に入った物を買い、たい焼き屋の香ばしいたい焼きを食べること。
こよみ |
こよみ(左) |
この日も、大学からの帰り道にたい焼き屋に寄ると、酔っぱらいの客が若い女店主・こよみに話しかけていた。
よろけて招き猫の置物を落として割り、尻もちをつく客を、こよみと行助が起き上がらせると、酔っぱらいは自転車を次々に蹴飛ばして倒していった。
こよみが叱り飛ばし、酔っぱらいを退散させる。
「強いですね」と行助。
行助は骨董品屋で招き猫の置物を買い、たい焼き屋へ届けた。
「どうしてこんなに美味しいんですか?たい焼き。ちょっと、今までに食べたことないくらい美味しかったから」
「腕によりをかけるの。最初は全然上手くいかなかったんだから…あれこれ試行錯誤して、でも結局は、一生懸命作るだけ。魔法なんてないから」
そして、お互いの名前の書き方や、行助の名前の由来の話などをする。
「行(ゆき)さんは、いっぱい愛されて育ってきたんだね」
「そうなのかなぁ。母が小学校に上がる頃に死んじゃったから、話は姉に聞いたんだけどね」
二人の会話が回想される |
帰りが遅くなり、たい焼き屋は店を閉めるところだった。
焦げて売れ残ったたい焼きを、ベンチに並んで座って食べる二人。
翌日、研究室の仕事が早く終わり、こよみの店へ行くと準備中だった。
町を歩いていくと、こよみがコンビニの前で、先日の酔っぱらいの男が酒を買っているのを見ていた。
一緒に酔っぱらいの後をつけ、公園で休んでいる姿を遠くで見て、二人は観察して想像したことなど、他愛のない話をする。
初めてのささやかなデートである。
「何の話?これ」
「…世界の話…あの人のことが知れて良かったって話かな」
「今日はありがとう。楽しかった」
「じゃあ。僕はここで」
石段を上り始めたこよみを呼び止め、行助は電話番号を書いたメモを渡す。
こよみは、行助の額にそっとキスをする。
こよみの後ろ姿を見送り、しばらく立ち竦む行助は、降り出した静かな雨の中で、一歩一歩石段を上る。
ふと空を見ると、満月が輝いていた。
その夜、行助が待ち望んでいた携帯が鳴った。
こよみの事故を知らせる電話だった。
病院へ行くと、医者から「意識が戻ったとしても、何らかの障害が残る可能性があります」と説明を受け、衝撃を隠せない行助。
病室には、こよみの母親が来ていた。
行助をこよみの彼氏と決めつけ、「ちゃんとしたってな。面倒看たってね」と一方的に言い放ち、何かあったら連絡するようにと、名刺を渡して帰って行く。
こよみの母親 |
気持ちが沈むばかりの行助。
「僕は毎日、つまらないよ。お腹も空かない。たい焼き屋が閉まっていて、何を食べても味がしない。肩は凝るし、洗濯物は溜まるし、よく眠れない。もう少し親しければ、色々できたかも知れないのに、目を覚まさないまま、もう2週間が過ぎたんだよ。何かしてあげられることはあるのかな。何か、してもらいたいことはないかい?僕は、こよみさんのことを、何にも知らなかったんだな」(モノローグ)
「目を覚まさないまま、もう2週間が過ぎたんだよ」 |
こよみの病室で、その日も黙々と付き添っている行助。
「行(ゆき)さん」
こよみが目を覚まし、病室から帰ろうとする行助の名を呼んだのだ。
「大丈夫?」
「雨、上がったんだね」
最後に別れた日のことを言ってるのだ。
窓外を見て晴天であることを確認し、こよみの時間が止まっている現実を知らされる |
担当医の言葉。
「古い記憶はしっかりしてます。ただ今のところ、残念ながら、新しい記憶は残らない可能性があります。短い時間しか、新しい記憶を留めておけないようです」
退院したこよみに付き添い、家まで送る行助。
新しい記憶を持ち得ないこよみから電話があり、行助が行くと、石段の途中のベンチに座っていた。
「あの日は雨が降っていたのに、月が出てたね」
「そう。それがとっても綺麗だったから、もう一度見に行ったの」
短い沈黙の後、行助は自分の思いを表現する。
「こよみさん。僕の家に引っ越して来ませんか?」
場面展開は早く、テンポがいい。
薄暗い家にこよみを上がらせ、コーヒーを沸かす行助。
行助は最初から、こよみの部屋を用意していたのである。
部屋を用意され、「好きなように使って下さい」と言われ、満面の笑みを浮かべる |
自分の部屋を見るこよみ |
こよみはアパートを引き払い、行助の家へ引っ越して来ることになる。
ここから、二人の共同生活が開かれるのだ。
2 純愛譚の収束点
あずきを茹で、あんを作り、こよみはたい焼き屋を再開した。
常連客が訪れ、こよみも笑顔で迎える。
「こよみさん、ちょっと長くなるけど、聞いてくれる?」
驚くが、こよみに事情を話そうとする行助 |
「じゃ、コーヒー淹(い)れよう」
これが、日々に繰り返される二人の朝の挨拶である。
店に、常連の高校生がやって来て、フレミングの法則や、サイン・コサインなどを学ぶ意味をこよみに問いかける。
「何の役にも立たない知識をさ、学ぶのにさんざん時間を費やすのってバカげてない?」
それに対するこよみの反応は、黄砂(こうさ)の話だった。
「木村君にとっては、黄砂は授業の知識かも知れないけど、私にとっては、黄ばんだスニーカーや、生乾きの洗濯の匂いだったりするんだよね。世の中にはもっと大変な人がいて、黄砂が降って死んだりはしないけど、お気に入りの真っ白なスニーカーが黄ばんでいく気持ち、分かるかなぁ。私にとっては生活の一部なの。私の世界なのよね」
その話を、後ろで聞き入る行助。
その夜、寝床に入った行助が、こよみが高校生に使った「世界」という言葉の意味を、隣の部屋のこよみに問いかけた。
「あの子の世界に私がいて、私の世界にもあの子がいて、でも、二つの世界は同じものじゃないからさ」
これが、こよみの答えだった。
【「私の世界」で生きるこよみの中に「他者の世界」が入り込んできても、その「世界」は同質ではないという当然過ぎることを言っているが、その文脈には、物語における、行助とこよみの関係構造が、相互に深く知り合えないまま、脳外傷によって「高次脳機能障害」に罹患したこよみと物理的に共存する行助との、異なった二つの「世界」が溶融することの難しさを見据える含みが読み取れる】
いつものように店に行くと、こよみと親しげに話す男がいた。
「無理するなよ」
「ありがと」
その様子を見ていた行助は、昔の記憶はあっても、新たな記憶を共有できない虚しさを感じ始める。
大学の院生にプレゼントされたピアノコンサートのチケットを渡すと、自分もピアノを弾いていたと喜ぶこよみだったが、こよみが作った夕食には、行助の嫌いなブロッコリーが入っていた。
教授(左)と大学の院生(中央) |
「ここ、行さんち?雨あがったんだね」
また、いつもの朝の挨拶が繰り返される。
店に行くと休みで、行助は前日こよみと話していた男に声をかけられた。
男は、5年前まで付き合っていたという元恋人で、こよみの事故を知り、出張のついでに様子を見に来たと言う。
元恋人の牧原 |
「行さんですよね。こよみ、ちゃんとやれてますか?気が強いっていうか、負けず嫌いというか、昔から…」
「大丈夫です!ちゃんとやれてます」
行助は、男の言葉を遮るように言い放った。
「彼女のこと、よろしくお願いします。変わった奴だけど、本当にいい奴なんで」
頷く行助。
薄暮の中、石段の途中のベンチにぼんやりと座っていると、雨が降り出した。
雨に濡れ、重苦しい気分で家に帰るが、こよりはいつものように明るく行助を迎え、食事を用意する。
その夕食の料理には、またも行助が嫌いなブロッコリーが入っていた。
「僕、ブロッコリー好きじゃない」
「そうだったっけ?」
「ブロッコリーなんて、見るのも嫌だよ…この前も言ったじゃん」
泣きながら話す行助。
「ごめん」
「さっき、男の人に会ったよ。こよみさんの昔の彼なんでしょ?」
「牧原さん?」
「知らないよ」
「行さんが、会ったってこと?」
「毎朝目覚めるこよみさんを見る度に、胸が苦しくなるんだ。昨日の僕のこと覚えてないけど、前の彼氏のことは覚えてるんでしょ?」
「どうして、そんなこと言うの?」
「この手料理も、前の彼に作ったの?おでこにキスするのは、いつもしてんの?」
「なんて言えばいいの?」
そう言い残して、こよみは家を出て行った。
頭を抱える行助。
皿を片付けにキッチンに行くと、こよみのノートが目に留まった。
そこには、行助に作る料理や、ブロッコリーが嫌いだという、日付入りのメモが書かれており、他にも焼き芋を食べたことなどがあり、二人で過ごしたエピソードのメモも引き出しから見つかった。
堪らずに行助は家を出て、足を引き摺りながら走り回り、こよみを必死に探し続けるのだ。
まもなく、雨も止み、行助は探し出したこよみと並んで座り、朝焼けの町を見つめる。
家に戻った二人は、ソファに寄り添って座り、語り合う。
「目の色が好きだったんだ」
「目の色?」
「初めて会った時の、行さんの目。半分ずつだった。引き込まれそうな、湖みたいな静かな色なの」
「もう半分は?」
「諦めの色…でもそれが、私は嫌いじゃなかったな…眠りたくない」
「大丈夫だよ」
「大丈夫だよ…」
研究室で、行助は教授に自分の研究テーマを説明する。
「記憶が心臓に宿るって話がありますよね…ちょっと専門外かも知れませんが、腸というか消化器官は、心臓や脳より古くからあるんだから、そこに記憶が宿ったりしないのかなと思って」
そこで教授は、先日、話した日記を燃やした男が実は自分の父親で、認知症になった今でも日記を書いているという話をする。
「でもね。味だけは忘れないの。息子の嫁さんの作ったご飯を食べる度に、これじゃないぞって顔をするんですよね」
認知症になっても、体が覚えている「手続き記憶」だけは忘れないという話だった。
だから、脳外傷で「新しい記憶」を失っても、一個150円の美味しいたい焼きを作るこよみの技術が健在だったのだ。
大学からの帰路、そのたい焼き店に寄った行助は、二人でたい焼きを食べようと誘い、店の横のベンチに並び、温かいたい焼きを頬張りながら、至福の時を共有するのである。
ラストカット |
総合芸術としての映像作品として一級で、極めて良質なマスターピースだった。
しかし、描かれた物語のハードルが高く、二人の主人公が負った〈状況性〉が艱難(かんなん)過ぎていた。
「ユキさん ブロッコリー嫌い」と書いたこよみのメモは、あまりに切な過ぎる。
二人が抱える〈状況性〉を思うと切な過ぎるのだ。
その時は分かっているから、メモを残す。
でも、その記憶を留めておけない。
この辛さを共有することすらできない切なさが、観る者の胸を締めつけてくる。
だから、辛い映画になった。
ーー 脳外傷によって新しい記憶を留めておけないヒロインの疾病は、進行性の障害ではない「高次脳機能障害」だが、精神科医で映画監督でもある和田秀樹によれば、「新しい記憶のみ保てなくなるという病気は実際にはない」ということだが、では、「メメント」はどうなのか。
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和田秀樹教授(右)、中川龍太郎監督(中央)、仲野太賀(左) |
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高次脳機能障害 |
障害以前の情報の記憶障害を「逆行性健忘」と切れ、受傷後以降の記憶を失う疾病としての「前向性健忘」(ぜんこうせいけんぼう)の主人公を描いた映画「メメント」の場合、明らかに記銘力(覚え込むこと)障害であった。
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前向性健忘 |
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「メメント」より |
その意味で、「高次脳機能障害」に罹患した本作のヒロインのケースと酷似しているが、私は専門家ではないので、その辺りについては正直、分からないと言う外にない。
映画の序盤に、印象深いシーンがあった。
大学教授が助手の行助に対して、認知症になった自らの父親(最後に判明する)の状態を話すシーンである。
大学教授 |
「残りの年間、一日も欠かさずに日記をつけている老人がいました。その彼が、ある日突然、それまでの日記を、庭ですべて燃やしてしまったんです。60年分、そのまま。次の日、老人が目を覚ますと、いつもと同じような一日を過ごし、眠る前に、また新しいノートを開いて、その日の行動を克明に書き始めたそうです。そのおじいちゃんの60年は、どこへ行ってしまったんでしょうね。…記憶は、考古学には残りませんからね」
認知症の中核症状である記憶障害の破壊力の一端について言及したエピソードだが、時間の経過につれて進行していく脳萎縮による件(くだん)の認知症者にとって、過去の60年間は捨てられてしまうことを意味する。
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認知症 |
しかし映画のヒロインは、新しい記憶のみ保持できないという症状を呈している。
先の和田秀樹の指摘が正解ならば、この仮構のヒロイン像には無理があることになる。
新しい記憶の保持に限定されるヒロインの症状にはリアリティがないということだ。
それ故にこそか、中川監督はインタビューで、「映画はあくまで寓話、おとぎ話」と語っている。
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中川龍太郎監督 |
然るに、寓話であるが故に、物語のハードルが高くなってしまった。
その日の記憶を保持できないから、こよみは毎朝、決まったように「ここ、行(ゆき)さんち?雨あがったんだね」と行助に話しかける。
行助もそれを理解しているから、こよみの〈状況性〉について話そうとするが、その先に進めない。
「こよみさん。ちょっと長くなるけど聞いてもらえる?」「じゃ、コーヒー淹(い)れよう」という会話が、毎朝リピートされる |
「記銘」⇒「保持」⇒「想起」⇒「忘却」という過程を遷移する記憶の中で、こよみの場合、「想起」に達することのない、新しい記憶の「記銘」と「保持」の機能がダメージを受けているので、脳外傷以前の記憶の世界でのみ呼吸を繋いでいるのだ。
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記憶の過程 |
彼女の記憶の世界で生きる行助の存在は、たい焼きを美味しく食べる温和な青年というエピソード記憶の中でのみ留まり、固着している。
好感を持つが、異性愛にまで進んでいないのである。
それを分かっているからこそ、行助は煩悶する。
自らの存在価値を疑い、5年前に別れた牧原との関係を問い詰めていくのだ。
こよみの書いたメモを見たからである。
その時、行助はこよみの少女時代の話を想起したに違いない。
思えば彼女は、こんな話を残していたのである。
こよみが、小さい頃、飼っていたリスボンというリスの話である。
「クルミが好きでね。あげると一口齧(かじ)って、残りを部屋のあちこちに隠すの」
「隠したものは、どうするの?」
「それが、忘れちゃうみたいんだよね…リスボンが死んだあと、部屋のあちこちからクルミが出てきて、それが見つかる度に悲しかったんだ…」
こよみの悲しい思い出を想起して、もう、動くしかなかった。
不自由な脚を回転させるようにして、「こよみ救済」に動くのだ。
かくて、二人の心は心理的に最近接する。
行助の、こよみの「全面受容」である。
しかし、こよみを受容した行助にとって、彼女と過ごした心地よい「その日々」の思い出は、明日になったら捨てられてしまうのだ。
どれほどの至福の時間も、「その日」限定の時間になってしまう。
ブロッコリーもお膳に出され続けるだろう。
「ここ、行(ゆき)さんち?雨あがったんだね」
この言葉を、日々、受け続けるのである。
要するに、時間を繋げないのである。
時間を繋げないから、共有し得る時間もない。
共有し得ないから、それ以上、関係は深まらない。
物理的共存を果たす者同士の、関係が深まらない事態のやるせなさが、そこにある。
結婚して子供を産み、育てるという幸福をも手に入れられないだろう。
こよみが社会的自立を果たし得ないからである。
要するに、行助は社会的自立を果たし得ないこよみを、生涯を通して介護する立場に置かれているのだ。
行助は、この覚悟を括って、有効期限のある限定的な「共生」に向かうのである。
自らも障害者としてのコンプレックス(注)を有し、それほどまでに、こよみを愛しているのだ。
行助は、そう括ったのだろう。
この映画から悲壮感が伝わってこないのは、観る者が行助の内的時間に易々と侵入することができたからである。
「特に本作は、行助とこよみさんのラブストーリーでもありますから。だからこそ、まずは行助を主人公に据え『行助が成長する物語』という軸を作った上で、こよみさんは一種の精霊、抽象的な存在として描くことにしました」
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「中川龍太郎監督インタビュー」より |
この中川監督の言葉の通りの映画だった。
「精霊」として描かれたヒロインが、「行助が成長する物語」のうちに溶融することで自己完結し、「その日」限定の時間を大切に生きる純愛譚の威力が高度に発揮された映画 ―― それが「静かな雨」という希少価値が高い作品だった。
若き映画作家・中川監督は、二人が抱える〈状況性〉から、共に障害を抱える二人の純愛譚を上手に切り取り、一級の寓話劇に仕立て上げたのである。
【中川監督の映画に2度出演している太賀の作品は、俳優としての彼の最も魅力的な側面を引き出していて、中川監督が俳優を活かす才能に優れていることを強く印象づける】
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中川龍太郎監督と仲野太賀 |
(注)行助のコンプレックスは、こよみに吐露した以下の言葉のうちに表現されている。
「クラスでザリガニ釣りが流行っていてさ。友達とザリガニ釣りに行ったの。でも、ぼくが釣ったザリガニは、ハサミが片方しかないやつで、皆でザリガニ見せ合ったときに、僕は自分のザリガニが恥ずかしくなって、獲れなかったって、嘘ついたんだ。本当は、ずっと飼ってたんだけどね。それが、今でも忘れられなくて」
(2022年6月)
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