<非在の者が推進力と化し、時間を奪回する旅が、今、ここから開かれていく>
1 「お母さんのこと、話していいんだよ。すずはここにいて、いいんだよ。ずっと」
「お父さんって、結構、幸せだったんだね。たくさんお別れに来てくれて」と三女・千佳(ちか)。
「うん、優しい人だったって、みんな言ってた」と次女・佳乃(よしの)
「優しくて、ダメな人だったのよ。友達の保証人になって借金背負って、女の人に同情して、すぐ、どうにかなっちゃうんだって」と長女・幸(さち)。
右から幸、佳乃、千佳 |
15年前に家族を捨て、失跡(しっせき)した実父の死が知らされ、山形の山深きスポットで悠然と構える旅館にまで足を運び、葬儀を終えた際の香田(こうだ)家の三姉妹の会話である。
旅館を指差すすず |
その帰り際、異母妹のすずが追い駆けて来て、幼い頃の三姉妹の写真を手渡す。
浮気で蒸発した父親が、後生大事に持っていたのである。
すず(左) |
すずは、父の2番目の妻だった実母を既に喪い、喪主である3番目の妻・陽子と、連れ子の弟とは血縁関係がないので、実質的に寄る辺ない状態になってしまった。
葬儀でのすず(中央)と陽子(その左) |
陽子 |
挨拶をして帰ろうとする少女を、幸が呼び止める。
「この町で、一番好きな場所ってどこ?」
少女が連れていった場所は、父とよく来たという海を臨める山の中腹だった。
その眺望は、三姉妹が住む鎌倉に類似していたので、彼女らは直感的に感知するのだ。
「すずちゃん、あなたがお父さんのこと、世話してくれたんだよね」と幸。
頷くすず。
「本当にありがとう」と幸。
佳乃、千佳も続く。
すずの義母の陽子が、逝去した父の病室で寄り添っても、すぐに帰ってしまう情報を得ていた幸が、看護師としての手腕を発揮した言辞だった。
すずは、3人の姉たちから感謝を伝えられる。
駅で帰りの電車を待つベンチで、すずが呟く。
「なんで、お父さんがここに住みたいと思ったのか、分かりました」
姉妹が電車に乗り込み、発車の間際(まぎわ)、幸がすずに声をかけた。
「すずちゃん、鎌倉に来ない?一緒に暮らさない?4人で」
「でも…」
「すぐ、あれしなくていいから」と幸。
「ちょっと考えてみてね」と佳乃。
「またね」と千佳。
ドアが閉まる瞬間、すずが言い切った。
「行きます!」
程なく、すずは鎌倉の家に引っ越し、地元の中学校に入学する。
サッカークラブにも入会し、時を移さず、仲間と打ち解ける。
少女の活発で、明るい性格が、そこに垣間見える。
試合でゴールを決めたお祝いに、千佳が飲ませた焼酎入りの梅酒で酔っ払ってしまったすず。
帰って来た幸が声を掛けると、叫んで暴れるのだ。
「陽子さんなんて、大嫌い!お父さんのバーカ!」
封印されていた少女の感情が解き放たれた瞬間だった。
その後、夫の失跡に続くように、14年前に家族を捨て、行方を晦(くら)ました三姉妹の実母・都(みやこ)が、祖母の7回忌に顔を出すと連絡が入り、大船の叔母の家に泊まり、幸との間で口論になるエピソードがインサートされるが、詳細は後述する。
実母・都(左)が家を売ることを提言し、口論になる |
梅雨が明け、夏が来て、それぞれに花火を楽しむ姉妹たち。
すずは、いつものように、サッカーチームで一緒のクラスメートの風太に、自分が「ここに居ていいのかな」と吐露し、悩みを聞いてもらうのだ。
すずと風太 |
近しい関係を形成し得た二人の中学生。
家に戻り、縁側で線香花火に興じる4人姉妹。
幸がすずを連れ、父とよく来たという海が見える山の上に立つ。
「お父さんの、バカ~!」と幸。
「お母さんの、バカ~!」とすず。
そう叫んだあと、すずも続けて吐露する。
「もっと一緒にいたかったのに…」
幸はすずを抱き締め、優しく語りかける。
「お母さんのこと、話していいんだよ。すずはここにいて、いいんだよ。ずっと」
「うん、ここにいいたい。ずっと…」
すずは嗚咽を漏らしながら、反応する。
その色合いを変えた季節が循環し、少女の気鬱が剥(は)がされていくのだ。
海猫食堂の女主人が、癌で亡くなり、葬儀が営まれ、世話になっていた4人姉妹も参列した。
帰りに海岸に出て、人生の終末や父のことなどを語り合う。
「お父さん、ほんとダメだったけど、優しい人だったのかもね」
「なんで」
「こんな妹を残してくれたんだから」
ラストシーンである。
―― ここで、三姉妹の〈生〉の振れ具合について捕捉しておく。
ホストに振られた佳乃は、それを補填するかのように、藤井との間に男女関係が生まれるが、その藤井は闇金融での借金漬けの弱さを曝け出した挙句、この関係もまた、約束された顛末(てんまつ)をリピートし、あっさり終焉する。
信用金庫の受付の仕事をする佳乃(左)から、金を下ろす藤井。その後ろに闇金の男がいる |
金を毟(むし)り取られただけの佳乃には、男を見る目がないのである。
藤井とレストランで会食する佳乃 |
その後、信用金庫の受付の仕事から一転し、上司と共に外回りの仕事にアイデンティティを確保していく。
外回りの仕事で |
すずの足の爪にペディキュアを塗る |
一方、スポーツ店に勤務する三女・千佳は、アフロヘアーの店長と恋愛関係を柔和に繋ぎ、二人の姉と一線を分けるマイペース人生を送っている。
釣りを教える千佳 |
すずと話すことが多い千佳 |
千佳は上の二人と価値観も趣味も異なり、いつもマイペース |
そして、内科病棟の看護師として堅実に勤務する長女・幸は、心の病で病床に伏せる妻がいる医師・椎名と不倫関係にあったが、帰する所、椎名の方から妻と別れて、小児癌の先端医療を学ぶために米国行きの同伴を求められるが、ターミナルケア(終末期病棟)への転属を決め、男と別れ、家を守り、15歳のすずを育てていく決断に振れていく。
幸と椎名 |
米国行きの同伴を求められる幸 |
米国行きを断るシーン |
家では、実母が家を出て以来、7年前に逝去した祖母の大きなサポートもあり、姉妹の面倒を見るスタンスを崩していない。
口喧嘩を絶やさない二人だが、すぐに復元する(お下がりの勝負服を佳乃に与えるシーン) |
すずの身長を測る幸 |
どこまでも堅実な日常を繋ぎ、クレバーであるばかりか、芯の強い包容力のある女性である。
相関図 |
2 「救いようのない者」が誰一人として登場しない物語
四季折々の風光明媚を見せる鎌倉の、古い家屋に住む四姉妹。
そこには、携帯・パソコン・車もない。
徒歩で散策し、自転車で桜並木を駆け抜ける。
虐めのない学校と優しい教諭、携帯を持たない生徒たちの、転校生への温和なアウトリーチの連射。
すすずは、その日のうちに歓迎される |
四姉妹を従容(しょうよう)たる態度で接する食堂の店主たち。
海猫食堂の店主・さち子(右)と山猫亭の店主(左) |
地元のサッカーチームの監督で、ユーモア溢れる好青年。
サッカークラブの監督 |
古き、良き日本の日常を淡々と切り取っていく。
そこだけ極端に裁断すれば、私の苦手な小津安二郎の世界である。
特段に汚いもの・醜いものが、意図的に削り取られている。
その緊要な一点において、汚いもの・醜いものを残酷なまでに、作品の中に放り込んでしまう成瀬映画(「秋立ちぬ」が典型例)と決定的に分かれるところである。
「秋立ちぬ」より
―― さて、この取って置きの逸品とも評され、頗(すこぶ)る人気の高い「海街diary」について。
それでも、汚いもの・醜いものが意図的に削り取られている「海街diary」は、大袈裟なほど劇的ではないが、ドラマが成立する。
自明のことだが、どの人物にも「人生」があるからだ。
この映画の最大の特徴は、「弱き者」がいたとしても、「救いようのない者」が登場しないこと ―― これに尽きるだろう。
では、14年前に、三姉妹を捨てた実母で、亡き祖母の娘である都(みやこ)の存在を、一体、どう見たらいいのか。
この都こそ、「救いようのない者」の極北の人物ではないのか。
すずを引き取ったことを心配し、姉妹らの大叔母(祖母の妹)の面前で、いつものように、幸と都は衝突してしまう。
大叔母(祖母の妹) |
その確執に終わりが見えないようだった。
―― 以下、祖母の7回忌に顔を出す三姉妹の実母・都に関わる会話を再現してみる。
すずを巻き込んでいるから厄介だった。
「さすがに後ろめたかったんじゃない」と幸。
「もう昔のことでしょ」と佳乃。
「私は昨日みたいに、よく覚えてるけどね」と幸。
「あたし、出てもいいのかな。明日」とすず。
「え?」と幸。
「もし、あれなら…」とすず。
「違うわよ。すずのせいじゃない。あたしたちに会わせる顔がないだけ」と幸。
「お母さん、どう思うんだろうね、すずのこと」と千佳。
「あの人がどう思うかなんて、関係ない」と幸。
お風呂の浴槽に漬かりながら、自分の手を見るすず。
翌日、札幌から大船の大叔母経由で訪ねて来た都が、法事が終わり、香田家に足を踏み入れた際に、庭の手入れなど、管理が大変な古家を売却しようという話題に転じるや、幸が猛反発する。
「勝手なこと言わないでよ。お母さんに、どうこう言う権利なんてないでしょ。庭の手入れなんか、お母さん、一度もしたことないじゃない。管理って、この家捨てて出て行ったのに、何で分かるの?」
「何で、そんなムキになってんのよ。ただ、どうかなって思っただけよ。どうして、あんた、いつもそういう言い方するのよ。悪かったと思ってるわよ。でも、もとはと言えば、お父さんが女の人作ったのが原因じゃない」
「お母さんは、いつだって、人のせいじゃない。私たちがいるから別れられない。お婆ちゃんがダメって言ったから、あたしたちを連れて行けない」
「だって、しょうがないじゃない。本当のことだもん」
「いい年して、子供みたいなこと言わないでよ」
台所で夕飯の支度をする幸と、それを手伝うすず。
「ごめんなさい。うちのお母さんのこと」
「いいのよ、すずには、関係のないことだもん」
「奥さんがいる人を好きになるなんて、お母さん、よくないよね」
それを聞いて、言葉を失う幸。
説明不要だろう。
「ごめんね。あたしたちが、すずを傷つけちゃったんだね」
すずは、首を横に振る。
「でもね。あれはどうすることもできなかったの。誰のせいでもないんだよ」
翌日、雨の中を都が再び訪ねて来て、渡し忘れた4人へのプレゼントを置き、家に上がらずに帰っていく。
祖母のお墓参りに寄るという母に、幸も一緒について行くことにした。
「あたしは、息が詰まるだけだったけど、あんたたちには大切な場所になってたなんて」
「お母さん、何で急に家売ろうなんて言い出したの?」
「もういいわよ、その話は。聞かなかったことにしてちょうだい」
二人は並んで座り、祖母の墓の前で手を合わす。
「長いこと、御無沙汰しちゃって、ごめんなさい。できの悪い娘で」
その横顔を見入る幸。
帰り際、毎年、作り続けている梅酒を母に渡す。
「たまには、帰って来たら」
「うん、今度うちにも、遊びに来てちょうだい」
「うん」
母を乗せた列車を見つめる幸。
かくて、捻(ね)じれた母娘関係が軟着するのだ。
これまでの母娘関係に関わる回想シーンがインサートされていないので、提示された映像から推し量る限り、殆ど迷いなく和解するに至る心的過程が理解できなくもないが、作品のコアになっている「予定調和」というフレームのうちに収斂されていくので、徹底したリアリズムの成瀬映画を好む私には物足りないものがある。
ここで私は、勘考する。
思春期のど真ん中で両親に捨てられたにも拘らず、なぜ、彼女の家庭は「機能不全家族」と化すことがなかったのか。
潰されそうになる思春期自我の土手っ腹に喰らい尽き、払拭し得ない怒りを覚えざるを得なかったに違いない幸を掬い取ったのが、非在なる祖母の存在だったということなのか。
思うに、都は三姉妹のみならず、その祖母=(都の実母)までも捨てたのである。
それでも残された家族を救ったのは、腕力のある祖母の強力なアウトリーチのお蔭だった。
そういうことなのだろう。
「一見ほのぼのとした日常が描かれているように思えますが、姿を見せない人達の存在がすごく重要なんです。例えば、幸(綾瀬はるか)は厳格だった祖母、佳乃(長澤まさみ)には男に頼らないと生きていけない母親(大竹しのぶ)の影が重ね合わせられています。祖母と母はそりが合わないわけですから、当然幸と佳乃も衝突するんですよね。それから千佳(夏帆)には父親を投影しています。縁側を背にあぐらをかいてご飯をかき込んでいる姿は、本人は意識していませんが、父親の影があるんです。それに千佳が釣り好きというのも、父の影の一つです。そしてすずには、幸の子ども時代を背負わせるようにしました。そうやって、姉妹の側にもういない人達の影をそれぞれ背負わせることが、今回の演出の大きなポイントだったと思います」
(是枝裕和監督インタビュー)
是枝裕和監督 |
作り手の言うことは、映画を観ればよく分かるが、ここでも、「厳格だった祖母」の腕力の存在の決定力を認知しているのだ。
それにしても、「予定調和」というフレームのうちに収斂させていく手法は、あまりに綺麗過ぎる。
眩し過ぎるのである。
作り手特有の、腕利きの練達さで纏(まと)まり過ぎているのだ。
敢えて、訝(いぶか)る物言いをすれば、こういうことなのか。
この都を、物語の中で「救いようのない者」として、一時(いっとき)、仮構したのは、この世に「救いようのない者」が其処彼処(そこかしこ)に散在していたとしても、その者への適切なアウトリーチさえあれば掬い取れるという、オプティミスティックな人間観を印象付けてしまうのである。
やはり私には、思うようにならない人間の現実を描き切り、「流れる」、「乱れる」のような、主人公の思いとは裏腹に、酷薄なるカットで閉じる成瀬映画の方が性に合っているようだ。
「乱れる」より |
「流れる」より |
3 非在の者が推進力と化し、時間を奪回する旅が今、ここから開かれていく
非在の者(三姉妹の父と祖母、或いは、すずの実母と父)が物語の根柢にあり、その非在の者が推進力と化して、一人の娘(すず)が物語を動かしていく。
だから、この映画は、鎌倉という限定エリアで、三姉妹を中心に、多くの交流を通して、思春期の只中にある娘の自我が癒されていく物語を構成している。
「仙台にいる時も、山形にいる時も、ずっとそう思ってた。私がいるだけで、傷つけている人がいる。それが時々、苦しくなるんだよね」
少女のこの言葉は、あまりに重い。
まさに、時を喰い潰すようにして、非在の者(すずの実母と父)が少女の自我を覆い尽くしているのだ。
少女を物理的・精神的に掬い上げたのが、本質的に、少女の「母」に自らを変換させることで、自我を安寧に導く「潜在的機能」(意図せぬ結果)を発現させていく。
幸のことである。
彼女もまた、「母」に自らを変換させることで、喰い潰された時間を奪回せねばならないのだ。
祖母の死後、腕力のある祖母に代わって、香田家の家長の役割を担ってきた彼女にとって、今、米国行きを求める男と別れ、人間の死に向き合う終末期医療に関わることで振り幅を広げ、大きく時間を動かしていく。
その選択の根柢には、寄る辺なき環境に追い詰められていた少女の「母」に自らを変換させ、香田家の構築的再生を図っていく彼女の、時間の奪回への意志が読み取れる。
共に、時間を奪回する旅を開いていかねばならないのである。
だから、この上質の映像は、凝縮して言ってしまえば、幸とすずがタイアップし、時間を奪回する旅を開く物語なのだ。
すずによって動かされた幸がすずを掬い上げ、奪われた時間を復元させ、アウフヘーベンしていく物語だったのである。
非在の者が推進力と化した物語が開いた映像は、最後に、それ以外にない言葉のうちに結ばれた。
「お父さんの、バカ~!」
「お母さんの、バカ~!」
非在の者が推進力と化し、時間を奪回する旅が今、ここから開かれていく。
「この『海街diary』は『過ぎ去った時間が時と共に自分の中で形を変えていく話』を描いていると思うんです。特に幸にとっては。反発していた母親に久しぶりに会う。嫌って否定していた父親がすずを残してくれた。そうやって、幸の中で過去が書き換えられていくことが、彼女の成長になっていくというのが、すごく大人の人間描写だと思うんです」(是枝裕和監督インタビュー)
この作り手のメッセージは、この上質の映像のエッセンスを端的に表現していると思われる。
【鑑賞しても、未だ批評に結んでいない映画を含めて、是枝作品の中で、私にとって愛着が深いのは、悲嘆を描き切った「幻の光」と、死刑囚に同化していく弁護士を描いた心理的リアリズムの秀作「三度目の殺人」である】
「幻の光」より |
「三度目の殺人」より |
(2022年1月)
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