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2025年3月12日水曜日

226('89)  狂い、馬鹿になり、奔騰せんとす  五社英雄

 



1  「ワレ狂カ愚カ知ラズ、一路ツイニ奔騰スルノミ。」

 

 

 

昭和8年、満州への武力進出が問題となり日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立し、国内でも経済不況と農村恐慌が重なって国民の不満と怒りは頂点に達していた。 



陸軍の若手将校たちが昭和維新の断行について議論を重ねていたのは、そんな折だった。

 

「我々の狙いは、昭和維新の志をしっかりと天皇陛下のお耳にお達しすることにあった。それには、ここに集まった同志が立ち上がる以外、道がない。そうだろう、安藤君」(村中孝次・元歩兵大尉)

村中孝次

「しかしなあ。部下の下士官兵まで巻き添えにすることは…」(安藤輝三・歩兵大尉、歩兵第三聯隊第六中隊長)

安藤輝三

「それは違います。彼らのためにこそ起つのです」(栗原安秀・歩兵中尉、歩兵第一聯隊機関銃隊附)

栗原安秀

「あと数か月で、我々は満州に派遣される。日本をこのままにして部下たちを外地で死なさせることできるか」(香田清貞・歩兵大尉、歩兵第一旅団副官)

香田清貞

安藤部下がなければ、兵がなければ、この計画は実現不可能なんだ」(野中四郎・歩兵大尉、歩兵第三聯隊第七中隊長)

野中四郎

「私は単独でも決行しますよ。何事にも時期というものがあります」(河野寿
・航空兵大尉、陸軍飛行学校操縦科学生)

河野寿(ひさし)

「決行あるのみです。昭和維新断行の旗印のもとに結集しましょう」(中橋基明・歩兵中尉、近衛歩兵第三聯隊第七中隊附)

中橋基明

「その時期が早すぎる。失敗したら、逆賊の汚名を着るぞ」(安藤輝三)


「失敗はせんよ、絶対に。真崎大将始め、我々を支援してくれる軍の首脳部が大勢いるんだ」(磯部浅一 ・元一等主計)

磯部浅一

「安藤さん、我々は一丸となって新しい日本を生み出す捨て石になるのです」(栗原安秀・歩兵中尉)


「…」(安藤輝三)

 

この冒頭のモノクロ含みの映像で描かれたのは、秩父宮とも親交があり、部下や同僚からの信望が厚く、統制派の筆頭だった永田鉄山・軍務局長からも信頼される安藤の部隊が、最大勢力である歩3を統率していたので、他の青年将校からの決起参加の打診で迷う姿であった。

 

彼の参加の有無が226決起成就の帰趨を決めたからである。

 

【荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将を中心とする「皇道派」は、「君側の奸を倒して天皇中心の国家とする」という理念を標榜し、直接行動的で過激な考え方を持つ精神主義の派閥であり、且つ、ソ連を敵対視する反共主義の「北進論」を主張したのに対して、永田鉄山(皇道派の相沢三郎中佐に殺害)、東条英機らを中心とする「統制派」は軍部内の統制を重視し、政財界と結んで合法的手段によるドイツ流の覇権確立を目指して、「南進論」による中国への拡大を支持していた】 

皇道派と統制派


そして、その日がやってきた。

 

1936年2月26日未明のこと。

 

河野部隊8名(民間人を主体とした襲撃部隊)が、牧野伸顕暗殺のために湯河原に出発した。 

河野寿(ひさし)

野中が書いた「ワレ狂(きょう)カ愚(ぐ)カ知ラズ、一路(いちろ)ツイニ奔騰(ほんとう)スルノミ。」(注)という言葉で決起への参加を決断(後述)した安藤輝三の部隊は204名。 


次いで、栗原部隊280名、田中勝(まさる)・砲兵中尉の部隊14名、坂井直(なおし)・歩兵中尉の部隊210名、中橋基明・歩兵中尉の部隊130名、丹生誠忠(にゅうよしただ)・歩兵中尉の部隊170名、そして野中部隊500名が「攻撃目標は警視庁!」と言い切って出発する。 

栗原部隊

坂井部隊



(注)「狂人・愚人であっても、ただひたすら自らが信じる道を突き進むだけである」というような意味。 



まず岡田啓介・内閣総理大臣を斃すべく、首相官邸を襲撃した栗原部隊は、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵を岡田と見間違えて銃殺するに至る。 

「岡田総理ですか?」「いかにも」

岡田の身代わりとなって生を終えた松尾伝蔵


【襲撃目標リストは、主に磯部浅一と村中孝次が作成している】

 

中橋部隊は高橋是清・蔵相を殺害し、坂井部隊は無抵抗の斎藤実・海軍大将を惨殺する。


中橋基明



一方、湯河原に向かった河野寿(ひさし)は牧野伸顕の暗殺に失敗し、自らも傷を負って陸軍病院に入院することになり、その無念を野中に電話して、自らを追い詰めていく。 

河野寿(右)

自ら傷を負い、炎の中から脱出する河野



安田優(ゆたか)・砲兵少尉と高橋太郎・歩兵少尉は、渡辺錠太郎・教育総監を寝室に向け機関銃を発射し、銃剣で惨殺する。 


高橋太郎



警視庁に向かった野中部隊は決起趣意書を見せ、警視庁を占拠する。 


【決起趣意書は、時期尚早論を唱える北一輝が大幅に加筆修正しているが、映画では、西田税(みつぎ)と共に死刑になった北一輝について全く触れていない】

 

そして、安藤部隊が襲撃したのは鈴木貫太郎・侍従長。

 

「所属部隊、官姓名を言いなさい」


「自分は麻布歩兵第三聯隊の永田曹長であります」


「話をあるのなら聞こう」

 

それに反応することなく、問答無用に銃撃するが、止めを刺そうとして鈴木たか夫人が庇う。

 

「昭和維新断行のためです」と安藤。


「止めてください。もう長くありませんから、私に任せてください。お願いします」
 


この夫人の懇願を意に汲み、安藤は「鈴木貫太郎侍従長閣下に対して捧げ銃(ささげつつ)」と言って去っていく。 


【一命を取り留めた鈴木貫太郎は、1945年4月に内閣総理大臣に就任し、陸軍の反対を押し切ってポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた】

 

陸軍大臣官邸に赴いた磯部、村中、香田、栗原は、陸軍大臣に面会を求め決起趣意を伝えると共に、陸軍首脳に「国家改造」・「昭和維新」の断行を迫った。 


「我々の決起部隊が義軍なのか、賊軍なのか、速やかに決定すること。これについて天皇陛下に直ちにご奏上の上、ご聖断を仰いで頂きたい」 


自分たちの決起を信じるという確信をもって、真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)・陸軍大将の面前で、自信満々の磯部の言辞である。

 

「諸君たちの気持ちはよく分かる。よーく分かる川島君(注)。参内して直ちに陛下のご聖断を仰ごうではないか。今は一時(いっとき)を争う時だ。何をグズグズしておる!」 

荒木貞夫と並ぶ皇道派の重鎮・真崎甚三郎(左)と川島義之・陸軍大臣

(注)川島義之・陸軍大臣のこと。統制派と皇道派のどちらにも属していなかったために陸相に選ばれた。

 

この経緯を経て、軍事参議官による宮中で非公式の会議の場で、山下奉文(ともゆき)・陸軍少将は「陸軍大臣告示」として明記し、決起将校に伝える旨を確認する。 

山下奉文・陸軍少将(中央)

以下、「陸軍大臣告示」。

 

一、蹶起󠄁ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達󠄁セラレアリ

二、諸󠄀子ノ行動ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁

三、國體ノ眞姿󠄁顯現(しんしけんげん)ノ現況(弊󠄁風ヲモ含ム)ニ就テハ恐󠄁懼(きょうく)ニ堪ヘズ

四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進󠄁スルコトヲ申合セタリ

五、之(これ)以外ハ一ツニ大御心ニ俟(ま)ツ

 

この告示を聞く決起部隊の将校たち。 

山下奉文・陸軍少将と林銑十郎・陸軍大将(右)

「それでは、我々決起部隊の行動は認めていただけたんですか」と磯部。 


それに応えることなく去っていく山下奉文。

 

「それでは我々の取った行動が是であったか非であったか、まるで分らんじゃないですか 


栗原も語気を強める。

 

【「マレーの虎」として知られる山下奉文は、かつて歩兵第3連隊長を務めていた事情から安藤輝三と面識があり、好感を持っていたことで皇道派として目され、安藤に対して「岡田はぶった斬らんといかんな」と言い放ったという。最終的に、山下の説得で決起部隊の青年将校らは自決を覚悟したとも言われる】 

山下奉文/BC級戦犯として捕虜虐待や民間人虐殺などで起訴され、マニラ郊外で処刑(ウィキ)

死刑判決を受けた山下奉文大将の助命署名活動(毎日)


一方、宮中では、陸軍統制派と連携して事件の処理を担っていた木戸幸一・内大臣秘書官長は、昭和天皇を補佐する湯浅倉平(くらへい)・宮内大臣に言い切った。

 

「彼らの掲げた昭和維新の狙いは側近政治の打倒、財閥の解体、農地の解放ですよ。そんなことを受け入れたら…」

木戸幸一(中央)と湯浅倉平

「どのような手を打つかだ」と湯浅

「まず、臨時首相の代理を決め、直ちに軍を全力を挙げて反乱暴徒の鎮圧に集中することです」

 

この結果、戒厳令の御裁可が陸軍中将の杉山元(げん)・参謀本部次長に下され、決起部隊も戒厳部隊に編入された。 

戒厳令の御裁可を得たことを示す杉山元

翌27日には皇道派の香椎浩平(かしいこうへい)・戒厳令司令官から奉勅命令発表され、決起部隊に原隊への復帰が勧告された。 


【香椎浩平は反乱部隊に同情的であり、戒厳司令官に任ぜられた後も天皇から維新の詔を引き出そうと試みるなど、最後まで武力鎮圧を躊躇(ためら)っていたとされる】 

戒厳司令官時の香椎浩平(ウィキ)


奉勅命令が下された事実を知った皇道派の重鎮、真崎甚三郎が、決起部隊も国を憂いて起こした行動故に、武力で抑え込むのは止めることを杉山に求めたのである。 

中央は皇道派の重鎮・荒木貞夫・陸軍大将

真崎に対する杉山の語気を強める反駁を受け、真崎に物言いしたのは満洲事変(1931年)の首謀者、石原莞爾(かんじ)・陸軍大佐だった。

 

「あなたたちは、もう現役ではない。軍の作戦に口を出すのは控えて頂きたい…どうしても何かしてやりたいとお考えなら、あの連中に今すぐ引き下がるように説得してください。そうじゃないと、あいつらと組んで天下を取る野心でもあるのかと痛くもない腹を探られます」 

石原莞爾

この石原莞爾の物言いに、「無礼なことを言うな国を憂うる気持ちは誰も同じだぞ」と一喝した真崎だが、天皇陛下が、自ら指示・命令する「奉勅命令」の重さを知る皇道派の重鎮が腰砕けになっていく実相を、決起部隊の幹部は見せられらることになる。

 

「このような不祥事を起こした諸君たちの推挙で、わしが総理(の座)に就くということはあってはならんことだ」 


事態の収拾を真崎に託す彼らの前で、真崎はこう言い切ったのだ。

 

昭和維新の旗を掲げる皇道派青年将校らの決起が「不祥事」とされた現実に、真崎を信じ切った磯部らは反駁するが事態は変わらない。 


熱(いき)り立った皇道派青年将校らの政治的敗北が決定づけられた瞬間である。 



【史実を書けば、26日午後の時点で、石原莞爾は軍事参議官会議を終えて退出する途中の川島義之・陸軍大臣に対して、事件の飛び火を警戒して日本全土に戒厳令を布くことを強く進言している。更に27日夜、石原は磯部と村中を呼び、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言ったとされる】

 

 

 

2  「俺は日本が変わるまで狂い続けるぞ!狂い続けるしか、馬鹿になり続けるしか歴史は変わらないんじゃないですか!」

 

 

 

「もし逆賊ということになれば、我々だけで腹を切ったらいいでしょう」 


奉勅命令によって逆賊になるというリアルに対して、最も激烈で戦闘的だった栗原の士気も、今や退潮してしまうのだ。

 

そんな空気の渦中にあっても、「同士討ちが何だ。同士討ちは革命の原則じゃないのか。そのくらいのことは覚悟の上で決起したんだろ!今、引いたらおしまいだ。ここが正念場なんだぞ!ここでフラフラしていたら、みんな無意味になってしまうんだぞ」と叫んで、闘争心を捨てない磯部浅一の闘争心だけが暴れていた。 



そして、もう一人。山王ホテルに立て籠っていた安藤輝三。 

安藤輝三。左は坂井直

時期尚早と考え悩み、最後まで決起に異議を唱えた彼の闘争心も延長されていた。

 

2月29日、決起将校に同情的だった香椎浩平(かしいこうへい)が任ぜられた戒厳司令部が、飛行機から「下士官兵ニ告グ」のビラが散布されると共に、東京地方向けにローカル放送される。 


この放送をラジオで聞く決起将校の面々。 


「今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰せよ」

 

加えて首相官邸を襲撃し、岡田啓介の殺害が実は身代わりの松尾伝蔵だった事実を栗原が同志に伝えたのも、この時だった。 


「それでは内閣は倒れんな」

 

野中四郎は、そう漏らした。


【因みに松尾伝蔵は岡田啓介の実妹の夫で、同じ福井出身で、自ら望んで全ての公職を辞して首相官邸に住み込み、岡田の無給の秘書をしていた。その死は映画の通り、中庭に据えた重機関銃で射殺されたが、銃撃を受けても未だ息があり、満身創痍血だらけになっても堂々とした態度で兵士を感嘆させたと言われる。64歳での殉職だった/画像は岡田啓介(左)と松尾伝蔵(右)】 

岡田啓介(左)と松尾伝蔵(右)


更に、「勅命下る軍旗に手向かふな」というアドバルーンが上げられていく。 



坂井直の中隊は部下たちの要望を受け、下士官兵を原隊に復帰させることを決めて実行していく。 

原隊に復帰させる坂井部隊

それを見て意気消沈していく決起将校たち。 


安藤部隊が立て籠る山王ホテルに移動することを唱える磯部一人だけが吠えているが、誰も見向きもしない。

 

「万朶(ばんだ/満開)の桜か襟(えり)の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば  散兵線(さんぺいせん)の花と散れ」という「歩兵の本領」(YouTube)の歌声が聞こえている。 


安藤部隊の下士官兵士の歌声だ。

 

そして今、決起将校が結集する山王ホテルでは、安藤輝三が居並ぶ同志に向かって言い放つ。

 

「あれが聞こえるか。俺の中隊には動揺するような兵隊は一人もおらん。皆、俺と生死を共にする覚悟でいるんだ」 


この凛とした言辞を耳にして、「私も兵を返します」と言う栗原の言葉を耳にする安藤は熱(いき)り立つ。 


「あんたたちも兵を返すつもりなのか。はっきり言ってくれ!」と怒号する安藤。

 

怒号は終わらない。

 

「今になってふらついているのか。奉勅命令が合意されただけで兵を返すなど、腹を切るなど、そんなことなら最初から決起しなければよかったんだ 


安藤はなお、咆哮(ほうこう)を上げる。

 

「天皇陛下が我々がしたことを正しいとお分かりになるまでは…俺は100万の敵がいても、俺は闘うぞ!」

 

沈黙の中で、野中が安藤に応える。

 

「俺たちは国家を救えなかった。せめて部下の兵隊の命と名誉だけは守ってあげよう。責任は俺たちが取り、有終の美を飾ってあげようではないか」 


この野中の言葉に、遂に安藤の怒りは噴き上げてしまう。

 

冒頭で、野中が書いた「ワレ狂カ愚カ知ラズ、一路ツイニ奔騰スルノミ。」の紙を面前に見せつけ、「これは、あんたが書いた字だ!俺はこの言葉で動いた。この言葉で起ったんだ!俺は日本が変わるまで狂い続けるぞ!狂い続けるしか、馬鹿になり続けるしか歴史は変わらないんじゃないですか 


「狂い続けるしか、馬鹿になり続けるしか歴史は変わらないんじゃないですか!」

誰も答えられない。

 

咆哮と沈黙。

 

この空気の乱れを誰も鎮められない。

 

直後、移動する安藤部隊の前に、安藤輝三大尉の直属上官の伊集院兼信(いじゅういんかねのぶ)が現れ、安藤を止めた。 

伊集院兼信



原隊復帰するように説得するが、安藤は拒絶する。

 

「返せません。今更、兵を返せとは何ですか。こうなるまであんたは大隊長として、一体、何をしてきたんだ


「だから…俺は死ぬ」

「俺は死にません」

「安藤、引き際だけは間違えるな。俺が言いたいのはそれだけだ」

 

そう言って、去っていく上官に向かって、安藤は咆哮した。

 

「私は死にませんよ!」 


ここまで言い切る安藤輝三の気迫だけが天を衝く。

 

まもなく、奉勅命令の下、決起将校が山王ホテルから、一人一人、野中と安藤に敬礼をしながら出ていく。 


完全な終戦だった。

 

安藤は部下たちの前で、最後の訓示をする。

 

「我々のしたことは永遠に正しいことだったんだ。このことは、必ず歴史が答えを出してくれる。皆とはこれでお別れだが、最後に中隊長から頼みがある。諸氏は胸を張って、前を向いて堂々と行していってくれ。そして、『昭和維新の歌』を元気一杯に歌ってくれ。出動依頼、寒空の中をひもじい思いに耐えて、よく頑張ってくれた。中隊長は心から礼を言う」 


昭和維新の歌」(YouTube「瑞鶴の海鷲」よりを歌う兵士らの堂々と行進が開かれていく。

 

汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ

巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ

混濁の世に我立てば

義憤に燃えて血潮湧く 


一人残る安藤の元に永田曹長が戻って来て、「中隊長殿、絶対、死んだらいかんきいね」と涙ながらに思いを吐露する。 

永田曹長


頷く安藤。

 

涙が滲んでいる。 



天の怒りか地の声か

そもただならぬ響きあり

民永劫(たみえいごう)の眠りより

醒めよ日本の朝ぼらけ

 

功名何ぞ夢の跡

消えざるものはただ誠

人生意気に感じては

成否を誰かあげつらう

 

安藤はその場を動かず、「昭和維新の歌を口ずさみながら、銃を喉元に向け、発射する(未遂)。 


【史実に沿って書けば、ここで歌われたのは「昭和維新の歌」ではなく、「吾等の六中隊」という中隊歌である。「『汨羅』とは、屈原が国を憂いて投身した汨羅江であり、これに続く「巫山の雲」とは、一般に男女の契り、すなわち性行為を表す慣用句である/ウィキ」また安藤自決未遂については、磯部が背後から抱きついて安藤の両腕を羽がいじめにしたが、「幕僚どもに裁かれる前に自らを裁くのだ。死なしてくれ磯部 !」と言ってピストルの引き金を引いたと言われる。その時、下士官兵、同志らは号泣し、これほど部下に慕われる男を死なせるわけにはいかないと、磯部は改めて感じ入ったという。結局、左顎下からこめかみ上部にかけての盲貫銃創で陸軍病院に運ばれ、一命を取り留めたとされる】

 

次いで、栗原部隊も原隊復帰する。 


それを見る野中四郎は遺書を書いて陸相官邸で拳銃自殺し、残る将校らは午後5時に逮捕され、決起という名の反乱は呆気ない最後を迎えた。 


血染めの遺書


一方、入院中の河野寿の元に兄が見舞いに来たが、腹を切りたいので果物ナイフを用意してくれという弟の言葉に愕然として帰途に就く。 


まもなく遺書を書き、河野寿は果物ナイフで自決するに至る。 



ラストは、「天皇陛下万歳」と唱えて銃殺される安藤輝三の声だった。 

処刑前の回想

同上(ラストカット)

 

二・二六事件

 


3  狂い、馬鹿になり、奔騰せんとす

 

 

 

2点について言及する。

 

1点目

 

本作を一言で言えば、安藤輝三の映画であるということ。 


だから映画のクライマックスは、「君側の奸を除く」という一連の決起のシーンではなく、寧ろ、決起に頓挫し、項垂(うなだ)れる同志たちに対して、安藤が激しく誹議(ひぎ)・怒号するシーンであると考えている。

 

中でも、「ワレ狂カ愚カ知ラズ、一路ツイニ奔騰スルノミ。」と書いた野中への怒りは尋常ではなかった。 


「俺はこの言葉で動いた。この言葉で立ったんだ!俺は日本が変わるまで狂い続けるぞ!狂い続けるしか、馬鹿になり続けるしか歴史は変わらないんじゃないですか!」 


狂い、馬鹿になり、奔騰せんとす。

 

映画的にはそういうことだ。

 

この勁烈(けいれつ)な情動が、ギリギリのところで映画を支えている。

 

自分の部下を安直に、命の遣り取りをする決起の最前線に立たせるわけにはいかないのだ。

 

それでもった。

 

この覚悟を括り切って起った。

 

起った以上、彼ら(下士官兵)を同志と認め、共に狂い、馬鹿になり、奔騰せんとする。

 

思うに、安藤には将校と下士官兵を分ける思考はなく、そればかりか、ある意味で、彼らを決起の同志とさえ見做(みな)していたようにも思えるのだ。

 

なぜなら、彼らの生活状況の救済こそ、冒頭での栗原と同様に、安藤の226決起の本義のように考えられるからだ。

 

その観念を幾許(いくばく)かでも共有する、歩兵第三聯隊第六中隊に属する下士官兵たち。 


そうでなければ、あれほどの結束力が生まれなかっただろう。

 

そう思わせるほどの第六中隊の集団凝集性の高さ。

 

そこだけは輝く安藤輝三の狂愚の爆裂。 


三浦友和、圧巻だった。

 

2点目

 

この映画で執拗に描かれている、決起将校の夫婦愛・家族愛のシーンの感傷性。

香田清貞

香田夫人

丹生誠忠夫婦

田中勝夫人

野中四郎夫婦

安藤輝三の妻子

安藤輝三


センチメンタルな構成に違和感を持つが、中でも、その一人、妻の風邪を案じる河野寿が決起の只中で帰宅するエピソードがある。

 

これだけが回想シーンでなかっただけに、殊の外(ことのほか)気になった。

 

河野は愛妻に、こう言ってのけたのだ。

 

「今日はゆっくりもしておれん。29日には必ず帰る。陸軍大学の受験もあるしな。そういつまでも、バタバタもしてられん…今度帰って来る時には宮廷場所で乗り付けられるからな」 




この信じ難きエピソードの背景には、五・一五事件で犬養毅首相殺害の一人である三上卓・海軍中尉が、禁錮15年の判決を受けたにも拘らず、その6年後には恩赦による減刑を重ねて4年9か月で仮出所したという悪しき前例がある。 

上卓・海軍中尉(ウィキ)

5.15事件/東京朝日新聞 号外(昭和7年5月15日付/ウィキ)

だから甘く見た。

 

「君側の奸」と、それを支える警護の人々を殺戮したとしても、軍が認知してくれると楽観視ばかりか、天皇も「決起の趣意」を受容してくれると思い込んだ。

 

かくて、決起将校の多くが嫌っていた陸大受験も可能となる。

 

これが史実だから遣り切れないのである。

 

彼の自我に能天気な観念が渦巻いているのだ。

 

それは、「君側の奸」を屠る「純粋無私なる青年将校」の観念の暴走に対する、私の大いなる違和感でもあった。

 

【因みに、「昭和維新の歌」を作詞したのは三上卓である】

 

 以下、拙稿「『雪の二・二六』 ―― 青年将校・その闘争の心理学」からの一文です。


 

4  日本型短期爆発のドラマ展開のフレーム



叛乱軍将兵。左手前は丹生誠忠陸軍歩兵中尉(ウィキ)

決起者としても、確信犯としても何かが足りない若き将校たちの、あまりに血生臭い野外劇の幕は僅か四日間で下りるが、その日本型短期爆発のドラマ展開のフレームは、ここでも踏襲されている。

まず、憤怒を溜め込む時期がある。

この国の人々の燃焼発火点は必ずしも低くないが、青年将校のケースは甘えの構造にどっぷりと浸かっていたので、耐性形成が脆弱で、外部情報からの刺激に極めて敏感になっていた。

就中(なかんずく)、民衆とのビビットな繋がりが欠如し、物事を観念的に捉える傾向への抑制が多分に劣化していたと言える。

その分、情報を一元的に濾過するスタイルを定着させていき、そこに、自らの人格像を滑稽なまでにトレースしていったのである。

厖大な選民意識を懐に抱えて、軍服をまとった「葉隠武士」が誕生したのだ。

青年将校の外部情報からの刺激に対する発火点の低さは、疑う余地もなく構造的なものであった。
映画「226」より

次に、内側に溜め込んだ厖大な憤怒を一気に激発させるという跳躍に繋ぐ行程に、何か心地良い観念が強力に媒介するときには、その観念を合理的に組織し、方向性を持たせ、その闘争主体をウィナーに導く確率を、より高め上げていく戦略によって武装するという類の、知的過程が伴走するのが通常だが、残念ながら、この最も中枢的な過程の形成が脆弱であるというのが、我が国の多くの決起者に共通して見られる現象であると思われる。

戦略を高度に練り上げていくときの持続性は、そのような思考なしには生きられなかった危機感覚のリアリズムが、人々の自我に張り付いていない限り、恐らく、容易に保障されにくいのだ。

日本人には、この危機感覚のリアリズムが比較相対的に不足を来しているのであろうか。

武器を取ったら、それを巧妙な戦術の中で効率的に活用するスキルは、むしろ、得意であるように思われる。
映画「226」より・鈴木侍従長宅を襲撃した安藤隊

しかし、そこまでなのだ。

その先が不足しているのである。

そこにこそ、由々しき問題が横臥(おうが)していると言えるだろう。

確かに、我が国が欧米列強に大きく立ち遅れるという時間限定の制約下で、本来的な「摂取・改造能力」(それもまた、「創造力」の範疇に存する)の際立った才能によって、パッチワーク的な彩りを垣間見せつつ、我が国の近代社会を構築した明治の気骨ある為政者、軍人、更に、「苦学の精神」を持って時代の空気の只中に飛び込んでいった多くの無名の民たちの、稀有な「進軍」が有効であった稀有な時代の烈風が、なお追い風となっていた只中では、大国ロシアとの戦争において、必死の特攻精神を支える極めて合理的で高度な戦略、例えば、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中できるようにして、敵艦隊の各個撃破を図る戦術(「T字戦法」)が、充分にその輝きを放っていたであろう。
「T字戦法」

ただ、このような評価は些か褒め殺しの嫌いがあることも事実。

実際、我が国の場合、欧米列強との絶対的落差を埋めるためには、短期間で近代国家の構築が強いられていくという歴史的要請から逃れようがなかったので、言葉は悪いが、殆ど、付け焼刃的に臣民の思想を定着させる必要があったと言えるだろう。

ここで、近代日本の最高規範として起草され、発布された「教育勅語」について言及したい。

その経緯は、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という一文で有名な、例の「教育勅語」の普及のプロセスを見れば一目瞭然である。

「国家の危機に身を捧げ、永遠なる皇室の運命に尽くします」といった主旨である。

自由主義的色彩の強い井上毅(こわし)と、儒教的・皇室絶対主義で国家主義的色彩の強い元田永孚(もとだえいふ)の対立などを経て、1890年に発布されても、「内村鑑三不敬事件」(明治天皇の直筆の御名に最敬礼をしなかったことで、教職を追われた事件で「第一高等中学校不敬事件」とも言われる)を惹起させるような空気感が残っていて、結局、御真影(ごしんえい・天皇・皇后の写真)と共に奉安殿(学校内の特別な保管室)に収められ、一般的に神聖化されるようになったのが、発布後30年以上経た後の、昭和時代に入ってからという事実の重みは無視し難いだろう。
井上毅(ウィキ)

元田永孚(ウィキ)

第一高等中学校本館(ウィキ)

若き日の内村鑑三



要するに、天皇制絶対主義の思想の浸透に相当の時間を必要とされるほどに、我が国の一般大衆の天皇観が稀薄な内実であったということである。

それは、自由民権運動の最高到達点と言われる、1884年の「秩父事件」で、「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」と糾合した雰囲気が、なお、日本社会に残存していた事実を能弁に語るものだったのだ。
秩父事件/秩父困民党無名戦士の墓(ウィキ)


しかし、日本が欧米列強の暴力的な展開に呑み込まれる恐怖の中で、欧米列強の暴力的な軌跡をなぞるようにして、時代は確実に動いていく。

動いていった先にあるものの歴史的分析が本稿のテーマではないので、その辺の言及は避けるが、良かれ悪しかれ、「大日本帝国」の土台を構築した、明治の屈強なる者たちが歴史の表舞台から消えていくこととパラレルに、知能抜群だが、相対的に胆力(恐怖支配力)が不足するエリート軍人の巣窟(そうくつ)となる、陸軍大学という名の参謀将校の養成機関の存在が巨大化していくことで、「天保銭組」と呼ばれる陸大出身者が、この国の権力の中枢に群れを成していったのである。
1930年代前半頃の陸大卒業者(ウィキ)

この国を動かすに至る陸大出身者には、軍事戦略に長けているだけで国際政治状況を広角に把握する視野に欠ける者が多く、上級幹部の選抜システムとして機能するだけのエリート教育の弊害を全人格的に晒していった。

席次による軍部の官僚化と政党政治の腐敗。

そして、その対極にある民衆の塗炭(とたん)の苦しみ ―― 決起参加者の大半が陸軍士官学校出身の青年将校には、この構図が許し難き社会の有りようのイメージとして把握され、そのイメージラインの延長上に分娩された観念の結実が、「五・一五事件」以降、青年将校らの間に流布された「昭和維新」の断行以外ではなかったであろう。
五・一五事件で暗殺された犬養毅・内閣総理大臣(ウィキ)

古賀清志/五・一五事件の首謀者の一人で、三上卓らと共に5年後に仮釈放(ウィキ)


殆どスローガンの範疇を越えないような、独善的な観念を短絡的に身体化する行為こそが「昭和維新」の断行であり、政党政治の解体であったと言える。

そこには、政治の複雑な事情を斟酌する余地は全くなく、国を憂うる志士である軍人の直接行動主義のみが価値を持ち、その行動の先にある政治状況の収拾という基幹テーマは、青年将校たちが畏敬する皇道派の将軍たちによる、「正義」に則った「天皇親政」に委ねてしまうこと以外ではなかったのである。

だから彼らには、「やる」ことが全てであり、「やらない」者たちは、有無を言わせず排除する。
「226」より


それだけだった。

そして、彼らの脳裏には、海軍の青年将校が先鞭を切って成功したと信じる直接行動主義(「五・一五事件」)の、必ずしも、心から喜べないモデルが記憶されていたのだ。

軍人が先鞭を切って政治の腐敗を糺(ただ)すという、直接行動主義の本質的な危うさへの認知の欠如 ―― それは、政治の困難さを大局的見地から合理的に把握する思考の欠如であった。

少なくとも、その辺の困難さを理解し得る能力を持つ安藤輝三のような存在は、直情径行(ちょくじょうけいこう)的な他の青年将校から見れば、単に臆病で、優柔不断な将校という固定的なイメージのうちに把握される何かであったと言えるだろう。
安藤輝三


国際政治の困難な状況を広角的な視野を持って把握し得る、過不足なく透徹したリアリズム精神の致命的な欠如 ―― それは殆ど病理の様態を晒していた。

いつも、どこかで、少しずつ、しかし、確実に不足していくものが累積されていって、その不足を常に補填する何かが内側に要請されていくとき、そこに過剰だが、それ故に若い自我が抱えた鬱積を払拭するに足る、極めて形而上学的な文脈が分娩されていったのである。
映画「226」より

「昭和維新」という心地良き言葉が放つラインに収斂されていく、「確証バイアス」(自分に都合のいい情報ばかりを集める誰でも犯す心理傾向)の濃度の高い精神主義的な文脈である。

そこで分娩された、「やる」ことだけが全てであるという観念的文脈のうちに、特徴的な感情傾向の形成を見ることができるだろう。

「起(た)ったら還るな」という、片道切符の特攻精神がそれであり、それがまもなく、捕虜になることをも拒む玉砕思想に下降・収斂されていって、しばしば、「滅びの美学」というレトリックを纏(まと)うことにもなる。

この上意下達的なエートスは、実際の所、「武士道」という幻想的理念系にも届かない、「葉隠」精神の残滓(ざんし)を強引にリンクさせる文脈以外ではないだろう。

事実、江戸農民の一揆者は、程々に闘った後、平然と生還するというケースも多々あり、まるで、狐につままれたような偶発事として処理されるケースも少なくなかったとも言われている。

むしろ、そこにこそ、この国の短期爆発型のエッセンスを読み取ることが可能なのだが、被写界深度の浅いアウトフォーカス的な戦略を精神主義で補填するスタイルは、近代に至って、より人工的に、且つ、強力に下降されていったと考える方が、恐らく合点がいくであろう。

人工的に作られた部分は、システムの変更によって、ほぼ脱色する。

しかし、日本人的な情緒・感受性をベースにした「精神主義」で「戦略」を補填するスタイルは、儒教や仏教などが入ってくる以前の、日本人の本来的なものの考え方である「大和心」というメンタリティに起因する部分が多く、変更されたシステムの中で、常に、一定の影響力を確保していると見た方が無難である。
【本居宣長は、日本人の情緒・感受性の高さを象徴する「もののあはれ」の代表として「源氏物語」を提唱した/画像は、江戸時代の絵師 土佐光起筆『源氏物語画帖』より、『源氏物語』第5帖「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった紫の上と、柴垣から隙見する光源氏】


更に始末が悪いのは、こうしたメンタリティの中に、どっぷりと甘えが浸透してしまっていることだ。

その甘えの集中的表現が「二・二六事件」だった。
映画「226」より

そして、決起者の野外劇のクライマックス。

蜂起である。
映画「226」より


然るに、それは多くの場合、クライマックスであると同時にフィナーレともなる。

彼らの激発には、クライマックスの後の「夢の続き」という風景があまり見られないのだ。

激発したことで自己完結してしまうよう淡白さが、この国の決起者の特徴的な感情傾向であり、むしろ、その気風を積極的に容認する空気が、そこに貫流していると言っていい。

この空気は文学的・思想的に純化していくと、紛れもなく、「美学」という、訳の分らない域にまで昇華するだろう。

この国の闘争者は、退場の時機を間違えたら観劇者に何を言われるか分らず、その戦々恐々とした気分によるプレッシャーが、かえって、闘争者から持続のエネルギーを奪い取って、一切の政治的手法の柔軟な選択の可能性を悉(ことごと)く無化していくのだ。

この国では、いつの時代下にあっても、政治家は毛嫌いされるのである。
暗殺された高橋是清大蔵大臣(ウィキ)


そこに、「美学」にまで昇華した「純粋無私」のメンタリティへの「信仰」が、なお健在だからである。

件の青年将校たちは、この「美学」の強迫が沸騰していた時代の中で、御多分に洩れず、その蠱惑(こわく)的な芳醇(ほうじゅん)溢れる「美学」をけばけばしく身体化しただけで、状況が作り出すリアリズムの連射によって、簡単に出口を拾えない空洞化した自我が、重い空気感を一身に被浴しつつ、時間の海の中を漂流する以外にないのだ。
映画「226」より


最後には、遂に満足し得る軟着点を手に入れられなかった自我が、そこに置き去りにされた「美学」の残滓(ざんし)を張り付けたまま、変容した物語を何とか繋いで、一応の自己完結を図るようにして散っていく。


この国の短期爆発者の多くがそうであるように、言外の情趣(余情)をたっぷりと残しつつ、散っていくのだ。(この余情が文学の中で更に純化され、それが大衆の感覚に架橋されるときには、もう、どこかのエリアでは、「~詣(もう)で」という世俗的現象が始動するという具合である)

一体、このような空気が支配する世界で、闘争の持続がどれほど可能なのか。

もう、そこに添える言葉は何もない。

若者たちの尊い命を無駄にするだけの、この国の戦前の歴史が全て教えてくれるのだ。

【映画「叛乱」は優れているので推奨します】

映画「叛乱」より
映画「叛乱」より


(2025年3月)






 

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