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2019年12月31日火曜日

永い言い訳('16)   西川美和


<男のグリーフワークが、それを必要とする時間を拾いつつ、今、自己完結する>



1  色良い記号を付与された男の商品価値が底を突いていた





「俺のメンツなんか、あなたにどうでもいいだろうけど。じゃ、連続試合出場数の世界記録作った野球選手と同じ名前で生きてみろよ。俺はあの名前でいる限り、永久に『鉄人・衣笠祥雄』のまがい物でしかあり得ないの…どうせ俺は自分のことも、まともに受け入れられない男だよ」

自らが出演しているテレビのクイズ番組を見る妻(美容師)から、いつものように髪を切ってもらっている流行作家・津村啓が、そのテレビを消した後、漢字表記が異なるだけで、本名の衣笠幸夫(きぬがささちお)が同音異字であることを毛嫌いする主人公の自己中心的、且つ、自虐的性格を露わにする、印象的なファーストシーンが暗黙裡に語るのは、作家としての自負が空洞化しているデイリーハッスル(日常的苛立ち)の累加の風景だった。

「自己中心的で歪んだ自己愛を持て余して、自分が生まれ持ったものをいい歳になっても受け入れられない幼稚な人間」

インタビューでの西川美和監督の言葉である。

同時に、学生時代から「幸夫君」と呼んできた妻・夏子との、20年に及ぶ夫婦生活の、その精神的な共存関係の希薄さが露呈されている。

幸夫という人物の外見が恵まれ過ぎていること。

これを絶対条件にしたと、監督は語っている。

二枚目であることが、幸夫の自意識を肥大させてしまったとも語っているが、このことは「美男子・美女の経験値」であると言っていい。

幸夫の場合、この経験値が彼の「不幸」を増幅させた。

「衣笠幸夫」という本名を持つ一人の作家の社会的イメージが、「二枚目の流行作家・津村啓」という色良い記号を付与されたこと。

この記号は、「衣笠幸夫」の自我に、充分過ぎる付加価値を与えている。

「二枚目」であること。

「流行作家」であること。

それだけで、一般読者の視界には、「人気作家」の作品の商品価値性の高さが、さして変わることなく保持されている。

然るに、「充分過ぎる付加価値」は、目利きの鋭いプロの編集者の射程には、「人気作家」の作品の商品価値が値踏みされ、それが低落している現状が捕捉されている。

「ここ3年くらい、先生の書くものって、意欲とか衝動とか感じないんですよ」

宴の無礼講のスポットで、暴走気味に酩酊する幸夫に対し、編集者から辛辣に放たれた攻撃的言辞である。

編集者・桑名

モチーフが枯渇しているのか、筆が乗らない。

作品の商品価値が脆弱になっている。

充分過ぎる付加価値を有するはずの、「二枚目の流行作家・津村啓」という、色良い記号を付与された男の商品価値が底を突いてしまったのである。

これは、本人も分っている。

だから、喧嘩になった。

宴の無礼講の場で暴言を吐く幸夫

今や、「衣笠幸夫」の裸形の自我には、この記号が重荷になったのだ。

なぜ、そうなったのか。

女性編集者との不倫や、その才能を見知って、「作家」になることを後押しした妻との夫婦関係の劣化が考えられるが、理由は不分明である。

ただ、自堕落な生活風景だけが観る者に印象づける。

そして今、凄惨な事故死によって、その妻を喪い、より深刻な精神状態を露わにする。

そればかりではない。

不倫相手の女性編集者からも毒づかれるのだ。

不倫相手の女性編集者

罪悪感に苛(きいな)まれている不倫相手の編集者を抱く幸夫に、「バカな顔」とまで言われる始末。

私にとって、幸夫の表情を映すことないこの一語は、本作の中で最もインパクトのある表現だった。

「先生は私のこと抱いているんじゃない。誰のことも抱いたことないですよ」

エキサイティングな表現に繋がる攻撃的言辞を被弾し、幸夫はセフレもどきの不倫相手まで失った。

それでも、「衣笠幸夫」は、「津村啓」を演じなければならない。

「津村啓」という色良い記号を失ったら、「自分が生まれ持ったものをいい歳になっても受け入れられない」、「衣笠幸夫」という裸形の人格しか残らなくなるのだ。

だから、演技が過剰になる。

「最愛の妻を喪った人気作家・津村啓」の悲劇を演じる男は、記者会見でも、カメラを意識する。

遺骨を抱き、マネージャーの岸本が待つ車が発車したとき、自分の髪型を気にする幸夫が、そこにいる。

それを一瞥(いちべつ)する岸本。

岸本には、何もかも分っている。

「悲劇の人気作家」を演じ切った男は、その直後、パソコンで自分の評価を検索する。

「事故」・「可哀想」・「才能」・「不倫」・「愛人」・「嘘」等々。

「調べる手を止められない自分」(西川美和監督の言葉)の行動様態は、自意識過剰な男の至極当然な日常的風景だった。





2  男のグリーフワークが、それを必要とする時間を拾いつつ、今、自己完結する





親友の夏子と共に事故死した大宮ゆきの夫、トラック運転手の大宮陽一と、母を喪った彼の二人の子供たちと親しくなり、その子供たちの世話を買って出た幸夫が、親子と関係を密にする行程には、それまでに映像提示された男の人格との違和感を否めないが、だからと言って、特段に不自然さを感じさせるわけではない。

人間の複雑で、多様な側面の範疇に収斂されるからである。

幸夫に話しかける陽一。出会いのシーン
最初の出会いでの会食のシーンで、灯がアナフィラキシーショックを引き起こしてしまう
灯と幸夫
真平と幸夫

ともあれ、長距離トラックの運転手の多忙さで、子供たちの面倒を見ることが困難な状況下にあって、中学受験を控えて進学塾に通う真平(しんぺい)が、保育園通いの妹の灯(あかり)の世話をするのは無理があった。

その現実を目の当たりにして、幸夫が慣れない母親代わりになるのも容易ではないが、それでも、一心不乱に援助行動に振れる幸夫の変容には、中枢の空洞化を露わにしている作家活動の停滞という現象に収まり切れないようにも見える。

以下、その辺りを案じるマネージャーの岸本との会話。

「取材ですか、それは?作品の」
「まぁ、追々(おいおい)はそうだね。そういうことの肥やしになっているから、当然」

「間」をとって、幸夫は答えたが、消極的な印象を拭えない。

「困ってんだよ、彼ら」と言い添えて、大宮一家を援助するために、週2回通っていると反応する。

マネージャーの岸本が、自分の家族の写真を見せながら言い切った。

「それって逃避でしょ。子育てって免罪符じゃないですか、男にとって。自分が最低なバカで、クズだってことを全部忘れて。…先生、奥さん亡くなってから、ちゃんと泣きましたか?一度でも。いや、分んないすよ、僕にも。逃げちゃいけないとも思わないんすよ。ただ、今のままじゃ、先生。きっと、ずっと苦しいですよ」

反発しつつ、黙する幸夫の表情は、「津村啓」という記号を希薄化するに足る、「衣笠幸夫」の裸形の相貌が占有しているように見えた。

マネージャーの岸本

幸夫は、夏子の事故現場に奉拝(ほうはい)するという、ドキュメンタリー番組の仕事を自ら求めるように受けるが、タイミングが悪かった。

遠出の準備をしていた前日のこと。

電源が復活した夏子のスマホを手にして、衝撃を受ける。

「もう愛していない。ひとかけらも」

夏子が残した幸夫宛のメールの下書きに、そう書かれていた。

激昂する幸夫。

この精神状態を抱えて、ドキュメンタリー番組に臨む幸夫。

「妻は頭のいい人だから、ちゃんと分ってたんです。死によって苦しめられるのは、本人じゃなくて、残されるほうのこと。だから、最高なんじゃないですか。ある日、突然、最低最悪のタイミングで、僕の目の前からぷっつり消えてやったんだから」

ドキュメンタリー番組に臨む幸夫

ここでカメラに視線を移し、怒号を飛ばすのだ。

「最高だろ。哀れな僕がのたうち回ってよ、思いどうりか、ざまあねぇと言いたいか!」

自己をコントロールできない情動の炸裂は、「津村啓」という記号の中に、「衣笠幸夫」の人格がたっぷり入り込んでいた。

その後、何もなかったように、大宮家に対する「衣笠幸夫」の援助行動が延長されていく。

しかし、この援助行動にも、「衣笠幸夫」の自意識が破裂する事態が惹起する。

鏑木(かぶらぎ)優子。

学芸員(博物館で働く専門職員)である。

姉を亡くした悲嘆を、幸夫が出演したドキュメンタリー番組で勇気づけられたという、穏やかな女性である。
灯と鏑木

学芸員の鏑木
鏑木と陽一が話し込んでいる姿を見る幸夫
鏑木との関係の深まりで、携帯の留守録を消去する陽一

その鏑木が一家と親密な関係になっていく。

灯の誕生日パーティーにも招かれたことで、陽一との関係密度の高さが窺える。

この鏑木の両親が経営する施設で灯を預かってもらうことになり、陽一は安堵するが、それが幸夫の「援助行動」を奪うことになり、大宮家との友好的交流によって手に入れていたアイデンティティが崩れていく感情に捕捉されてしまうのだ。

以下、灯に「何で子供がいないの」と訊かれた際の、幸夫の情動炸裂。

「僕はね、自分の意思(子供を)で作んなかったのよ。こんなろくでもない人間増やして、どうすんだよって思うんだも」
「なっちゃんは絶対、幸夫くんの子、欲しかったんだよと思うよ」
「違う、違う、違う!ねぇ、何が分るんだよ。何が分るんだよ。何が分る!でも、関係性なんて変わるじゃん。頼むから、自分の幸せの尺度だけで、物言わないでよ。あり得ないんだよ。僕の子供なんて欲しくないですよ、あの人は。欲しくないまま死にました」

これだけ言い放って、帰宅する幸夫を走って追いかける陽一。

幸夫に追いついて、話をしようとしても、幸夫から返ってくる言葉は毒気に満ちていた。

「やったんだよ、あの先生と。ゆきちゃんを忘れるには一番の薬だよ」

既に、携帯の留守録に残された妻の言葉で号泣していた陽一が、それを消去した記憶を引き摺っているが故に、「絶対・禁忌」に触れた幸夫への怒りに結ばれたのは必至だった。

陽一は幸夫の胸倉を掴んだ。

ここで幸夫は、封印していた感情を言明してしまうのだ。

「僕はね、夏子が死んだ時、他の女の人と寝てたんだよ。バスごと崖から落っこちて、夏子は凍った水に溺れている時、夏子のベッドでセックスしてたの。やりまくってたの!君とは全然違うんだよ!」

この時点で、幸夫の内面で罪悪感が生まれているのが透けて見える。以降、この感情が肥大化していく。この辺りの心理描写は秀逸

これで、大宮家と訣別してしまうのは自明の理である。

自堕落な生活を送っている幸夫。

これも言わずもがなのこと。

脆弱な男が、その脆弱さの濁流で溺れている。

男も、それが分っている。

だけど、動けない。

物語を通して、男から自発的に動いた行為は殆どない。

多くの場合、男に向かって、特定他者の方から働きかけてくる。

男が大宮家に入り、二人の子供の世話をするのは、陽一からのアプローチが契機になっていて、その陽一が抱える事情を推し量り、援助行動に結ばれただけであり、その行為を通じることで、大宮家との関係濃度が高まったということである。

だから、援助行動で得た蜜な関係濃度が希薄化したと感じてしまえば、もう、ディカップリング(分断)の状態を認知する以外になかった。

男の孤独は予約されていたのだ。

かくて、惰弱(だじゃく)さだけが曝されて、そこに、「明日」に繋がる「日常性」の普通の構築力をも削り取られているようだった。

幸夫が失ったものの大きさ(以下同じ)





幸夫が喪ったもので最も大きい「特定他者」の存在

そんな男のもとに、病院から電話が入った。(ここでも、特定他者からの侵入だった)

陽一が事故を起こして、入院しているという連絡だった。

平からの電話も入る。

陽一の病院に行くために、灯を保育園に送り届ける・冬の朝

父との諍(いさか)いが、父を事故に追い遣ったことで煩悶する少年に、行きの列車の中で、幸夫は語っていく。

「人間の心だからさ、強いけど弱いんだよ。ボキッと折れる時もあるんだよ。大人になっても、親になっても、君らのことを抱きしめても足らないくらい大事でも。大丈夫だよ、真ちゃん。生きていりゃあ、色々思うよ、皆。でもね、自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃ、いけない。見くびったり、貶(おとし)めちゃいけない。そうしないと、僕みたいになる。僕みたいに、愛していいはずの人が誰もいない人生になる。簡単に離れるわけないと思ってても、離れるときは一瞬だ。そうでしょ。だから、ちゃんと大事に握ってて、君らは。絶対」

真平

説明的なセリフが些か気になるが、この映画の中で最も重要なシーンであり、エッセンスであると言っていい。

私自身、とても感動できた。

「説明セリフ」でありながら、観る者の感動を狙ったあざとい描写になっていなかった。

そこがいい。

特定他者からの侵入でありながら、クレバーで感性豊かな少年に、そこだけは自発的に男が語ったのは、まさに、「誰もいない人生になる」自らの負の経験則であった。

この経験則を受け止めた少年は、充分に癒された。

それが、軽傷で済んだ父・陽一との、捩(ねじ)れた関係の決定的な改善に昇華していくのだ。

男もまた、変容の契機と化したこの一件が、自らの負の経験の束と向き合うことになる。

陽一、真平と別れ、電車で帰る幸夫・この電車内で、頬を濡らしながら原稿を書き上げる

男が辿り着いた世界は、特定他者からの侵入であるか否かに拘らず、他者の存在なしに、人間は生きていけないという人生観である。

他者の存在の認知は、最も身近な特定他者の存在を再発見することだった。

それなしに、捩(ねじ)れ切っているが、男が負った「悲嘆」の本質に届かないのである。

男の哀しさ
葬儀に使用された「カリスマ美容師」としての夏子の写真
旅行中の夏子とゆき
旅行中に憂い顔を見せる夏子https://www.sankei.com/entertainments/photos/161022/ent1610220001-p1.html

髪を切ってくれた妻の存在の喪失は、長髪になった男の「悲嘆」が自己完結し得ない物理的な固着点と化し、それを引き受け、内化しない限り、葛藤を乗り越えることが困難になる。

だから、捩れ切った「悲嘆」と向き合う行為の重大さを全人格的に受け止める。

そのために、自己と向き合い続ける

これが、荒れ果てた時間の海に漂動した男の、それ以外にない着地点だった。

「津村啓」という記号を内化した「衣笠幸夫」が今、「永い言い訳」という小説によって文学賞を受賞し、そのパーティー会場のスポットで、中学生になった真平が、父に代わって祝辞を述べる。

「人生は他者だ」

軽傷で済んだ陽一を迎えに、真平と共に訪ねたその日の帰路、電車の中で執筆する文面を括った言葉である。

「自分を大事に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃ、いけない。見くびったり、貶めちゃいけない」

真平に語った言葉の中に、この6文字の意味が凝縮されている。

この6文字を書き留めた「衣笠幸夫」の頬を、一筋の液状のラインが染めていた。

この時、「衣笠幸夫」は、自意識過剰の「津村啓」の記号性を、「再生」に向かう熱量の分だけ希薄化するのだ。

文学賞受賞をした幸夫への祝辞を述べる真平

物言わぬ、印象的なラストシーン。

大宮家と共に、フォトジェニックに映っている夏子の写真を部屋に飾りながら、夏子の遺品を整理する幸夫が、遺品であるハサミを見つめている。

幸夫のグリーフワークが、それを必要とする時間を拾いつつ、今、自己完結したのである。







3  「公的自己意識」と「私的自己意識」 ―― 男を分断する自己意識の内面的風景





自己意識とは、外界ではなく自分自身に向けられる意識のことであり、向けられる自己の側面によって2つに分けられる。ひとつは、他者が観察できる自己の外面(容姿や振る舞い方など)に向けられる公的自己意識(public self-consciousness)、もうひとつは他者から観察できない自己の内面(感覚,感情,思考など)に向けられる私的自己意識(private self-consciousness)である(「自己意識 - 脳科学辞典」参照)

これは、「自己意識」を定義した、守田知代(大阪大学工学研究科特任講師)の文面の一部である。

「私的自己意識」と「公的自己意識」

簡単に書くと、自分自身に意識を向けるのが「私的自己意識」。

自分に向けられる周囲の視線を気にして、他者から見える自分に意識を向けるのが「公的自己意識」。

共に、人間にとって不可欠な意識である。

「自意識過剰」という用語が頻繁に使われるが、これは、自分自身の存在を必要以上に意識することであり、他者の視線を気にする傾向の強さの表れであると言える。

だから、過度に外観を気にしたりして、他人から悪く思われたくないための行動に大きく振れていく。

即ち、「公的自己意識」の強さの発現である。

従って、「自意識過剰」とは、一般的に「公的自己意識」が強すぎる場合を意味するということである。

それに対して、自分自身の思考や感情などを強く意識する傾向が強い場合は、「私的自己意識」の高さの表れということになる。

「自意識過剰」の場合、「公的自己意識」が強すぎるので、「私的自己意識」を意識的に強めていく心的行程が求められる。

但し、「私的自己意識」の強さは、他者の視線を気にする傾向が相対的に脆弱なので、他者を傷つける行為に振れることがあり、このダークな側面を限りなく相対化・客観化する努力が要請されるだろう。

いずれにしても、最も大切なことは、この二つの「自己意識」のバランスの問題に尽きると言っていい。

高度な前頭葉を有する人間にとって、その人間の証(あかし)である「自己意識」の高さは、「人生は他者」という認識を持ち、それを実践に活かすことで、「自己意識」のバランスが適正に保持し得るのである。

映画の主人公・衣笠幸夫は、「自意識過剰」であり、その分、「最愛の妻を喪った人気作家・津村啓」の悲劇を演じる葬儀シーンに象徴されるように、「公的自己意識」が強すぎると言えるが、妻や見知りの編集者の前で嫌味を連射する幼稚さをも曝していた。

また、「私的自己意識」も弱いわけではない。

そこは作家らしく、「自分が何ものであるか」について、決して無知ではないのである。

ただ、「自分が何ものであるか」について分っていても、それを素直に表現できないだけなのだ。

それを誠実に、且つ、冷静に表現したのは、父を事故に追い遣ったことで煩悶する真平少年に語った時だった。

ただ残念ながら、「津村啓」という色良い記号に拘泥した分だけ、「不幸」を負ってしまった。

一切が自己責任でありながら、「津村啓」と「衣笠幸夫」との人格的乖離が簡単に統合できなかったこと。

そこに、この男の「不幸」があった。

「私的自己意識」をフル稼働し、自己と厳しく向き合い、真摯に対峙していく行為からの逃避的だった。

その条件(大宮家との交流)が充分に与えられていたにも拘らず、男は、そこに適正な〈状況〉を構築することなく、逃避してしまった。

その条件は、いい意味での「エコーチェンバー現象」(交流⇒共感⇒共有)でもあった。

エコーチェンバー現象/「自分の声」があらゆる方向から増幅されて返ってくる閉じた空間、エコー・チェンバー(ウィキ)

更に与えられた条件(陽一の事故)によって、男は「私的自己意識」を、ほぼフル稼働する心的行程を具現化し得たこと。

作り手の柔和な眼差しが侵入することで、男は救われたが、だからと言って、男の人生の再構築の可能性が皆無であったと言えないだろう。

様々な矛盾を抱えて、「我が生」を繋いでいくのが人間であり、この男の「我が生」は、私たちのそれと大して変わらないからである。

程度の差こそあれ、男の弱さは私たちの弱さであり、男の過剰な自意識は私たちのそれと同質であり、男の「公的自己意識」は、私たちのそれと特段の落差があるわけではない。

ただ、作家としての記号性が担保する商品価値の崩れを、「私的自己意識」が捕捉した分だけ、「グリーフ」を経由しての「再生」に向き合うに足る、適正な〈状況〉を構築することが叶わなかった。

この内的現象が、終始、男に付きまとい、その崩れを加速させてしまったのである。

男の内面を覆う「哀しみ」。

これを理解することなく、この男の「不幸」の中枢に届き得ないのではないか。

男の哀しさ
いずれにせよ、以上の文脈の中に、この男の克服課題があった。

この映画の基本文脈は、この克服課題の重さを、観る者と共有することにあったと、私は考えている。



最高の演技を見せた本木雅弘の代表作になるだろう
西川美和監督・大好きな「蛇イチゴ」以降の作品の中で最高傑作・且つ、最高の演出

(2019年12月)

2 件のコメント:

  1. いつも素晴らしい記事の更新ありがとうございます。
    世界情勢は依然混沌としたままですが、却って映画のもつ芸術性や普遍的なテーマが重要視される時代のように思います
    私はあなたのブログ活動が多くの人にとって人生の豊かさのヒントになる貴重な記録だと信じています
    どうか来年も良いお年をお過ごしください(/・ω・)/

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  2. コメントに気づくのが遅く申し訳ありません。一時期、観たいと思う映画が見つからず離れていましたが、最近、幾つかのいい映画と出会い、また少しずつ書き始めています。いつも読んで下さり、どうもありがとうございます。

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