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2024年6月10日月曜日

キャロル・オブ・ザ・ベル 家族の絆を奏でる詩('21)   誰にも奪えない少女のイノセンス



1  「見捨てるのか」「渡すものですか。ただ怖いだけ」 

 

 

 

ウクライナの監督によるウクライナの文化と、他国の子供たちの命をも守らんとする、誇り高きウクライナの母を描いた必見の感動譚。

 

「映画では、現在のウクライナがソ連に占領されているときはロシア語、ナチスに占領されているときはドイツ語を話すようにウクライナ人たちは強要されました。本作は、母国の言葉、文化や音楽を維持することの大切さを映し出しています」 

オレシャ・モルグネツ=イサイェンコ監督

オレシャ・モルグネツ=イサイェンコ監督のインタビューでの言葉である。

 

―― 以下、本作の梗概と批評。

 

 

“キャロル 世紀の歌声 1971年2月24日 カーネギーホールにて”と書かれたポスター。

 

ニューヨーク 1978年12月

 

そのポスターにある歌手が、鏡の前に置かれた古い3家族の写真を見つめている。 



ポーランド スタニスワヴフ(現ウクライナ イバノフランコフスク) 1939年1

 

ユダヤ人の一家が住むアパートに、店子(たなこ)としてウクライナ人とポーランド人の一家が移り住んできた。 

ポーランド人将校のヴァツワフと妻ワンダ

「イサクさん、なぜ部屋を貸すことに?」と家政婦のマリア。

ユダヤ人一家の父イサクとマリア

「NYのヨセフが決めた。半分はあいつの家だ」

 

二家族が同時に到着し、初めて会ったウクライナ人一家の娘・ヤロスラワがポーランド人一家の娘・テレサに声をかけ挨拶する。

 

ユダヤ人一家の娘・ディナが玄関から出て来て、ピアノの先生であるヤロスラワの母・ソフィアに抱きつく。

 

「毎日歌って、ピアノが弾ける」

「私もうれしい」

 

その様子を、窓からディナの妹のタリアを抱きながら見ていたイサクの妻・ベルタは、遠くまでレッスンに通わずに済むと喜んだ。 

イサクと妻ベルタ

マリアがソフィアの夫も軍人かと訊ねると、「元軍人だ。今はレストランで演奏を」とイサクが答える。

 

ヤロスラワは新居を気に入り、父・ミハイロと母・ソフィアと3人は喜び合う。 

ウクライナ人一家/右から音楽家の父ミハイロ、母ソフィア、一人娘ヤロスラワ



一方、ポーランド人一家の妻・ワンダは、一階が弁護士事務所で人の出入りが多いことや、隣人が演奏家であることを聞いていなかったと不満を漏らす。

 

「音楽は好きだけど、こういう雑音は嫌い」 


それに対し、夫である軍人のヴァツワフ少佐は、「仮の住まいだ、我慢してくれ」と宥める。

 

早速、ディナの歌のレッスンが始まった。 

ユダヤ人一家の長女ディナ(中央)と、歌唱指導するウクライナ人の母ソフィア(右)

廊下ではヤロスラワとテレサは仲良く歌を歌っているが、レッスンの歌声で読書に集中できないワンダがテレサを部屋に呼び戻した。 


その様子を見ていたベルタがイサクに相談する。

 

「どうかしたのか」

「店子(たなこ)の家族よ。お互いにピリピリしてる」

「私たちには友好的だ」

「そうだけど、鉢合わせしても挨拶もしないのよ」

「どうしろと?ポーランド人とウクライナ人の歴史だ」 


ソフィアはヤロスラワを寝かしつけていると、「明日は公現祭(エビファニー)イブ?」と聞いてきた。

 

ソフィアが子供の頃の「公現祭」の様子を話す。

 

【公現祭とは、ロシア正教会やギリシャ正教会など東方教会の祭りで催されるキリスト降誕祭で、1月6日。 クリスマスの12日後に当たる】 

カトリックの国イタリアでは、1月6日は「公現祭」という祝日。「東方の三博士」(イエスの誕生を予言した3人の賢者)が星に導かれキリストの生誕を祝福しに訪問したことを記念する日である

「お祖母ちゃんの家に集まったわ。夜にはいろんな物でおもしろい仮装をするの…ママもおばあちゃんのショールを巻いて、近所を回って聖歌(キャロル)を歌い、お菓子をもらった。夕食には隣人を招いてみんなで願いごとをしたわ」

「願いは叶った?」

「ええ。ママの願いは、みんなに歌を教えることだったから」

「“鐘のキャロル”を歌ったおかげ?」

「あの歌を聴いたのは、ずっとあと。ママのお父さんが働くキーウ(ウクライナの首都)の大ホールだった。編曲したのはレオントヴィチさん。とてもいい人で、父さんの友達だった。あの歌のおかげでね。音楽家になろうと思ったのは」

ソフィアとヤロスラワ

「明日私も、そのショールを巻いて、“鐘のキャロル”を歌う…私の願いごとも叶う?」

「叶うわ」

 

【レオントヴィチとは、ウクライナの作曲家マイコラ・レオントヴィッチのことで、英語圏でよく知られ、よく演奏されるクリスマスソング「クリスマスキャロル」として有名な「キャロル・オブ・ザ・ベル」は、彼がウクライナ民謡の『シュチェドルィック』を合唱用に編曲した曲に、英語で原曲と異なる歌詞を付けたものである。1921年にソ連のスパイに暗殺され、ウクライナ独立正教会の殉教者としても名を連ねている/ウィキより】 

マイコラ・レオントヴィッチ(ウィキ)


翌日、ユダヤ人一家とポーランド人一家の前で、“鐘のキャロル”を歌うヤロスラワ。 

ポーランド人一家の一人娘テレサ

そして、「夕食会に来てください」と誘った。 

ヤロスラワ

テレサは喜んだが、ワンダは「今日はカトリックの祭日じゃないわ…招くほうがおかしいのよ」と、「行くべきだろうな」と言うヴァツワフの考えを否定する。

 

ミハイロは「どうせ来ない」と言い、イサク一家と夕食会を始めたが、意外にもヴァツワフ一家が訪ねて来た。

 

「テレサ!」と声を上げ喜ぶヤロスラワは、子供たちを別の部屋へ呼んでひそひそと準備をする。

 

ヴァツワフとワンダが食卓の席に着くが、ワンダがナイフを落としてしまい、気まずい空気が流れる。 


そこに、子供たちが仮装をして現れ、大人たちの笑いを誘い、ヤロスラワが“鐘のキャロル”を歌いながら3人で食卓を回る。 

左からディナ、ヤロスラワ、テレサ

三家族は打ち解けていくのである。

 

以降、ワンダが付き添い、テレサはソフィアから歌のレッスンを受けることになった。 


登場人物相関図(公式ホーム)

3家族


1939年9月

 

ナチスドイツによるポーランド侵攻が始まった。 

1939年のポーランド侵攻後、ワルシャワを行進するドイツ軍兵士

第二次世界大戦の戦端が開かれたのである。

 

ポーランド将校であるヴァツワフは、隊の様子を見に出て行き、他の家族は地下に避難する。 

地下室に避難する三家族

外では砲撃の音が鳴り、家族は歌を歌ったり、祈りを捧げたりして身を寄せ合う。 


ワンダがヤロスラワの家に遊びに行ったテレサを迎えに行くと、二人で眠っているので、そのまま寝かしてワンダが家に戻るが、そこにはソ連兵が立って待っていた。

 

15分以内の身支度をするように命令されたワンダは、ソ連兵に頼み、隣人に鍵を預かってもらう許可を得る。 


ワンダが再びソフィアの家を訪れ、ドアを開けるとソ連兵は部屋の中まで入り、子供たちが眠っているのを見つけた。

 

「誰の子だ?」

「私です」 とソフィア。


ワンダは泣きながらミハイロに鍵を預け、娘のことを頼んでソ連兵に連行されていった。 


目を覚ましたヤロスラワは、窓からワンダが車で連れて行かれるのを目撃した。

 

ソフィアはワンダの家で隠されたテレサの出生証明書を探し出し、荷物をまとめさせて、しばらく一緒に暮らすことを告げる。 

テレサ

恐らくヴァツワフは、ポーランド東部を占領したソ連軍の捕虜となり、収容所に送られた後、1940年4月に起こった「カチンの森事件」で殺害されたと思われる。(映画「カチンの森」を参照されたし) 

映画「カチンの森」より

【この間の歴史的背景を補足していく。/1939年8月23日、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンの間で相互の不可侵を要点とする「独ソ不可侵条約」が締結されたが、秘密協定でポーランドの東西を両国が分割占領することを決めた。直後の1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランド侵攻し、第二次世界大戦が始まった。一方、1939年9月17日、ソ連軍のポーランド侵攻の根拠となったのは、西ウクライナのロシア人住民の保護という侵略者の常套句で、現在のウクライナ侵略の大義名分と同じもの。1940年4月、ソ連軍のポーランド侵攻の際、多数の将兵がNKVD(内務人民委員部)によって殺害された「カチンの森事件」が発生する。そして1941年6月、スターリンの予測を超えて、共産主義の絶滅を標榜するナチス・ドイツが「独ソ不可侵条約」を破ってソ連に侵攻し、独ソ戦が開かれ第二次世界大戦が拡大するに至った】 

独ソ不可侵条約/調印するソ連外相モロトフ。後列右から2人目はスターリン(ウィキ)

この時期の内務人民委員部長官ラヴレンチー・ベリヤ

「バルバロッサ作戦」(独によるソ連奇襲攻撃作戦)に従って進撃を続けるドイツ軍


1941年7月

 

ドイツ兵が街にやって来て、鍵十字の旗が掲げられた。 


イサクの一家が占領当局(占領統治の行政機関)に呼び出された。

 

「なぜ家族全員呼ばれたの?」

「登録のためかな。悪い事にはならんだろう」

「胸騒ぎがする」 


出がけに、ミハイロ一家に対して当局に呼ばれた事実を話す。

 

「バンドのユダヤ人も全員呼ばれた。今日は演奏に来ないと聞いている」とミハイロ。

 

ミハイロの話を聞いたイサクは、一瞬考えた後、ベルタに話しかける。

 

「愛する妻よ。娘たちと残れ。私1人で行く」

「私も一緒に行くわ」

 

そう言って、娘たちをミハイロ夫妻に託していくことになる。 

タリア(母ベルタが抱いている。右にディナがいる)


ディナは嫌がったが、タリア(ディナの妹)を頼むと言って、二人は当局に向かった。

 

一晩中待っていたが、イサク夫妻は戻らなかった。

 

ベルタの胸騒ぎが当たったのである。

 

マリアが訪ねて来て、「噂では、今夜ユダヤ人は…」と話し、村の親戚の家を頼ることにしたというマリアは、タリアも一緒にと申し出る。 


しかしソフィアは、「姉妹は引き離せない」と断る。

 

家に戻ろうとしたディナを引き留め、皆で朝食を摂っていると、ドイツ兵が屯(たむろ)しているのが窓から見えた。

 

“本日よりユダヤ人は居住区へ”と貼紙が貼られ、多くのユダヤ人の家族が荷物を持ってドイツ兵に誘導されていく。 


それを目撃したソフィアは、家に戻って子供たちを集めた。

 

「街中にドイツ兵が。今後、外に出るのは禁止よ。窓にも近づかないで。いいわね?…連れて行かれる」


 

子供たちは「分かった」と頷く。

 

【ユダヤ人居住区とは、ユダヤ人を強制移住させたゲットーのこと。最大のゲットーは、ポーランドの首都ワルシャワに設けられていた】 

現在も残るワルシャワ・ゲットー(ウィキ)

街では、“ポーランド人とユダヤ人の集会を禁ず”と書かれたビラが風に舞っていた。

 

ソフィアはディナに「あなたたちを隠さないと。ドイツ兵が家探しを。昨日、3軒先まで来た。今日にもここへ」と告げると、ディナは叔父に教わった時計の裏の隠れ場所をソフィアに見せた。

 

その夜、ソフィアはミハイロに「ユダヤ人を匿うと逮捕されるって」と話す。

 

「見捨てるのか」

「渡すものですか。ただ怖いだけ」とソフィア。 


ミハイロはソフィアを慰め、僅かな稼ぎのためにドイツ兵を相手に店を続けると話す。

 

「奴らの醜悪な顔を見ながら歌うのが楽しいと思うか?…心配するな。ディナは大人だ。力になってくれる」

「戦争はいつか終わる?」

「闘うしかない」


 

いよいよドイツ兵が家探しにやって来たので、ソフィアは急いでディナとタリアを時計の裏に隠し、部屋のタンスなどを探し回るドイツ兵の捜索から姉妹の身を守ったのである。 



1941年12月

 

外に出たいとゴネるタリアは、ヤロスラワらに止められるが、隙を見て外へ出てしまった。

 

ディナは探しに行こうとするが、代わりにテレサが外へ出ると、ドイツ兵にユダヤ人と疑われ連れて行かれそうになる。 


そこに、ミハイロの店から帰って来たソフィアが姪だと主張し、家にある出生証明書を見せることになった。 


突然、ドイツ兵が家に入って来て、部屋の扉を開けたところで、そのすぐ裏で口を押えて隠れるディナ。 


テレサとヤロスラワに名前を言わせ、出生証明書と照合したことでドイツ兵はそのまま帰っていった。

 

直後に叫び声が聞こえ、外に出るとネズミに噛まれたタリアを見つけ、家に戻すことができた。 


ミハイロは店に遅れたことで、支配人から一週間給料はなし、今度遅刻したらクビだと脅される。

 

ミハイロはドイツ将校を相手に、作り笑いをして“リリー・マルレーン”(ドイツの歌謡曲)をギターの弾き語りで歌うのだ。 


【「リリー・マルレーン」は、出征した兵士が故郷の恋人リリー・マルレーンへの想いを歌ったもの。反ナチの思想を有するベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒのレパートリーとしても知られ、連合軍兵士の慰問でも歌われていた】 

「リリー・マルレーン」を歌うマレーネ・ディートリヒ


タリアが熱を出して苦しんでいるのを見て、ミハイロは外出禁止令の只中で医者の家へ向かって助けを求めたが、応じてもらえず、帰って来るとタリアは既に死んでいた。 


極限状態の中で、一人の幼女の命が奪われてしまったのである。

 

 

 

2  「みなさんに喜びを運ぶ歌です」

 

 

 

ニューヨーク 1978年12月

 

テレサとディナが再会する。 

ディナ


1943年12月

 

「時計の裏に隠れるなんて、もう、うんざり」とディナ。

「私はママとパパに戻ってほしい」とテレサ。

「私は…歌いたい。誰の目も気にせずに。大きな舞台で“鐘のキャロル”を歌うの…みんなに、いいことが起きる歌だから」とヤロスラワ。 


アパートにドイツ人の家族が引っ越して来た。

 

ミハイロは、すれ違いざまに「ウクライナに栄光あれ」と小声で口にした男と接触し、家に戻る。

 

「私に何かを隠しているのね」とソフィアに聞かれるが、ミハイロは答えない。



ヤロスラワはベッドに入る前に、「ディナはいつまで隠れ続けるの?」とテレサに訊ねると、テレサは「いい考えが…2階のドイツ人にあの歌を」と耳打ちした。

 

ヤロスラワは、翌日それを実行し、ドイツ人一家の前で、“鐘のキャロル”を歌って見せた。 


慌てたソフィアは2階へ行き、ドイツ語で弁明する。 


家に戻ったソフィアは、ドイツ人にもらったお菓子を取り上げ床に捨て、ヤロスラワを叱る。

 

「二度と彼らに頼みごとをしないで」

「あの歌を歌えば、全部うまくいくと思って」 


「悪いのは私よ。私が頼んだの」とテレサが庇う。

 

「ドイツ人はタリアを殺したのよ。分からないの?」と言って、ディナは部屋を出て行った。

 

「好きなだけ歌える日が必ず来る…だから今は、一歩も家を出ないで」とソフィア。

 

ドイツ人の家族は、軍人の夫が子供の頃の公現祭りを思い出したと話し、妻は息子のハインリヒに歌を習わせたいと言い出すが、夫に反対される。

 

しかし、結局、ハインリヒはソフィアから歌のレッスンを受けることになった。 

ハインリヒ

ミハイロが食事をしていると、ヤロスラワに「パパ、何か弾いて」と言われ、ミハイロのギターでウクライナの民謡を皆で歌う。

 

ソフィアとミハイロは久しぶりに演奏会へ行き、会場で二人が出会った時の思い出を話していた。 


突然、館内放送が流れる。

 

「命令だ。女は全員、家に帰れ。男はホールに移動しろ」 


危険を察知したミハイロは、「愛している」とソフィアに声をかけ、連行されていった。

 

翌日のことだった。


地下組織に関わっていたミハイロはナチスによって公開処刑され、翌日、ソフィアはその凄惨な姿を目撃する。 



ソフィアは激しいショックを受けながら家に戻ると、自分の服を脱ぎ、子供たちの服も脱がせ、それを浴槽で洗濯をして、懸命に感情を抑えていたが、ついに耐え切れなくなって泣き崩れてしまうのだ。 


心配する子供たちが皆ソフィアの元に集まり、慰めるのだった。 


ミハイロを喪い、食べるものにも事欠くようになったソフィアは、アクセサリーなどを売って食品を手に入れていく。 


自らを覆い尽くす悲哀が絶望に流されることなく、子供たちを守り、生きる抜くために動く女性の強さが際立っていた。

 

【ミハイロが関与していた地下組織は、1929年1月、オーストリアのウィーンで結成された反ソ連・反ナチ・反ポーランドを標榜するOUN(ウクライナ民族主義者組織)である】 

ウクライナ民族主義者組織の初代指導者、イェヴヘーン・コノヴァーレツ(ウィキ)


1944年7月

 

ソ連領に代わり、ドイツ人一家がアパートを出て行った。

 

地下室へ子供たちを移動させようとしている時、ドアをノックする音がする。

 

ソフィアがドアを開けるとハインリヒが立っており、ソフィアは思わずドアを閉めた。

 

「ずっと道に迷ってたんだ。他に行くところがないの。ママとパパともはぐれちゃった。鉄砲の音がして、戦車がたくさんいたよ」

 

そう言って泣き出すハインリヒの嗚咽に咽(むせ)ぶ声が聞こえ、ソフィアはドアを開けて階段のところに座っているハインリヒの隣に座って慰める。 


ソフィアがハインリヒを迎え入れると、ユダヤ人のディナが反発する。

 

「その子は人殺しよ。タリアも殺された。追い出して」

「あなたと同じ子供よ。この子は何も悪くない。きっと両親は亡くなった」


「許せって言うの?」

「父親が人を殺したとしても、この子には罪はない」

 

街では、ナチスのシンボル鉤十字(ハーケンクロイツ)に代わって、ソ連の旗に付け替えられていた。 



【独ソ戦の推移を簡単に補足する/1941年9月から1944年初頭まで続き、ドイツ軍の兵糧攻めによって300万人以上の市民が戦争に巻き込まれ、無数の餓死者を出した壮絶な「レニングラード包囲戦」。更に、第二次大戦下における独ソ戦の重大な分岐点となった「スターリングラード攻防戦」。両軍の攻防が1942年6月から1943年2月まで続き、ヒトラーの命令に反し、ドイツ軍司令官パウルスが残兵9人と共に降伏したことで第二次世界大戦の帰趨を決した。ドイツ軍の全面的敗北に終わったスターリングラード(スターリン批判後にボルゴグラードと改名)の戦いの背景には、米軍からの大量の大型車両の支援があったことも見逃せない。そして1943年7月、史上最大の戦車戦と知られる「クルスクの戦い」。攻守が逆転し、戦略的主導権を奪われたドイツ軍の敗北によって、東欧を中心に広い地域がソ連軍の占領地域となった】 

レニングラード包囲戦/レニングラードへ食糧を輸送する氷上列車(ウィキ)

レニングラード包囲戦/1942年 包囲中のネフスキー大通りを歩くレニングラード市民達(ウィキ)

スターリングラード攻防戦/草原を進撃するドイツ軍(ウィキ)

スターリングラード攻防戦/ヴォルガ川から上陸するソ連水兵(ウィキ)

スターリングラード攻防戦/パウルス第6軍司令官(右)とザイトリッツ大将(ウィキ)

クルスクの戦い

クルスクの戦い


子供たちは自由に外に出られるようになり、一緒に遊び、ソフィアがピアノを弾いて皆で歌う。

 

その時、突然ドアが叩かれ、ソ連兵が部屋に入って来て、ソフィアは逮捕されてしまうのだ。 



残された子供たちは孤児院へと送られることになり、連行されるソフィアと引き離され、ジープに乗せられる。

 

その際、ドイツ人のハインリヒだけは走って逃げ去るが、ソ連兵によって後方から銃殺されるに至った。 



映像が直後に映し出したのは、反革命分子の摘発を任務にするNKVD(内務人民委員部)の尋問を受けるソフィア。

 

「ソフィア・ミコライウナ、正直に吐くか?それとも、まだ認めないつもりか?夫の調べはついている。犯罪組織の一員だった。お前も一味か」

「夫はドイツ人が処刑を」

「お前自身は、ウクライナ民族主義者組織に?」

「無関係です」

「何を教えてた?子供たちに」

「歌を…」

「ロシア語を!」

 

大声で怒鳴りつけ威嚇する将校。

 

「合唱を教えていました…主にウクライナの民謡を」 


鼻で笑う将校は、「ウクライナの民謡?そんなものが、あると思うか?ウクライナだと?お前は間違っている」と罵倒し、ソフィアの体を触り、レイプしようとするが、ソフィアは腕を噛み、股間(こかん)を蹴って抵抗する。 


この屈辱に対して、ソフィアは「誇り高きウクライナ女性」に変容し、処刑された夫とラインを成して闘うのだ。

 


ソ連 ウォロシーロフグラード(現ウクライナ、ルハンスク) 1944年12月

 

孤児院の合唱団の教師が、ヤロスラワが歌が上手いのでソリスト(独唱者)にしたいと院長に伝えるが、親が政治犯なので将来はないと却下される。

 

“スターリン同志に 幸せな子供時代を感謝”を舞台で歌う子供たち。

 

その中にヤロスラワはいない。

 

1945年の新年を祝う発表会に列席した共産党の幹部が、新年の挨拶に続いて、「他にも新年の詩や歌を披露したい者がいるのではないかな?」と問いかけた。

 

迷わず手を挙げたヤロスラワは、舞台に上がり、「みなさんに喜びを運ぶ歌です」と言って、目を瞑(つぶ)りながら“鐘のキャロル”を歌い出す。 


♪寛大なる御方よ ツバメが訪れた さえずって家の主(あるじ)を呼ぶ さえずって家の主を呼ぶ 外へ出て小屋をご覧なさい あなたの羊たちが子羊を生んだ おかげでお金に恵まれるでしょう お金が得られずとも 穀物は豊かに実る 美しい妻もいる 寛大なる御方よ…♪ 


ここまで歌って、怪訝そうに顔を見合わせていた幹部たちを横目に、院長がヤロスラワを舞台から引きずり下ろし連れて行った。

 

一緒に歌っていたテレサとディナは、哀しそうな顔をして見送るのみ。

 


ソ連 シベリア流刑地 1944年12月

 

ソフィアは極寒の中、ピアノの鍵盤に見立てた板を弾き、力なく“鐘のキャロル”を歌う。 


それは、尽き果てていく命の限り歌うソフィアの、最後に残された映像だった。

 


ソ連 ウォロシーロフグラード 1945年1月

 

生き残ったポーランド人の母・ワンダが孤児院を訪れ、テレサとディナを引き取る許可を得た。

 

しかし、ヤロスラワは政治犯の子であるばかりか、「加えて彼女はウクライナ人」だからと断られ、引き取ることが叶わなかった。 


「せめて会わせてもらえませんか」


「それは無理ね。少年流刑地に送られた」

「どんな理由で?」

「彼女のような人間にはソ連社会に必要ない」

 

大好きな歌を歌唱しただけのヤロスラワの苛酷な時間が、抑圧のない平等な理想社会を目指すはずの社会から捨て置かれたのである。

 


ニューヨーク 1978年12月

 

手を繋いで歩くテレサとディナが、エスカレーターで上がって来たヤロスラワに気づく。 

ヤロスラワ

テレサ(トップ画像の歌手)とディナ(右)

ラスト。

 

3人は固く抱擁し、40数年ぶりの再会を喜び合い、“鐘のキャロル”を歌うのだった。 


 

 

3  誰にも奪えない少女のイノセンス

 

 




本来は、ユダヤ、ウクライナ、ポーランド人の3家族の子供たちばかりか、ドイツ軍将校の男児をも命を懸けて守らんとした強き善き母・ソフィアの物語として批評すべきだが、ここでは、この3家族が同居する物語の中心で蛍光を発している少女ヤロスラワの視座で物語を考えてみたい。
 

敵のドイツ軍将校の男児ハインリヒをも守るソフィア

ソ連軍からも子供たちを守ろうとして逮捕・連行されてしまうソフィア



ウクライナ⺠謡「シェドリック」=「キャロル・オブ・ザ・ベル」(「クリスマスキャロル」)を大らかに歌う、⾳楽家の両親を持つウクライナの少女ヤロスラワの天真爛漫な笑顔と歌声。 


このイノセンスがあまりにも眩(まばゆ)く映るからである。


特にウクライナ⼈とポーランド⼈の家族が店⼦として共存することの難しさは宗教の違い(注)もあるが、それ以上に大きいのは、第一次世界大戦末期から戦後におけるウクライナ・ポーランド戦争の影響が尾を引き、余燼(よじん)がくすぶっていたこと。

 

だから、ポーランドの音楽家ミハイロと、ポーランド軍将校ヴァツワフが擦れ違っても挨拶もせず、険悪な雰囲気が漂っていた。 

ミハイロ(左)とヴァツワフ

この心地悪さを溶かしたのがヤロスラワの歌声だった。

 

ポーランド人一家の前で、“鐘のキャロル”を歌うのだ。 


ポーランド人一家に対する夕食会への誘いが功を奏したのは、無垢な少女の歌声が内包する固有の熱量と、はち切れんばかりのイノセンス。

 

もとより、常識人である両家の夫婦は狷介固陋(けんかいころう)と無縁なキャラクターの持ち主だから、人種の優越性を押し出す不毛な攻撃性など、更々なかった。 


何より、大人たちの狭隘な観念に染まっていない子供たちの仲間意識の高さが、限定的な住処(すみか)を占有し、緩やかな空気を運び込み、窮屈で尖った感情を希釈していくのだ。 


仮装をして現れた子供たちが大人たちの笑いを誘っていくスポットの中枢に、ヤロスラワの“鐘のキャロル”のイノセントな歌声が迸(ほとばし)っていたのである。

 

「私は…歌いたい。誰の目も気にせずに。大きな舞台で“鐘のキャロル”を歌うの…みんなに、いいことが起きる歌だから」 


不遇を託(かこ)つディナとテレサの前で、こう言い切ったヤロスラワ。

 

だから引っ越してきたドイツ人一家の前でも、「殺さないで」という言葉を添えて“鐘のキャロル”を歌って見せるのである。 


年長のディナと切れて、「敵」という概念が未形成の少女の他者を引き寄せる力の強さは、強く穏やかで心優しき両親から受け継ぎ、歌によって表現する豊かな感性を育んできた所産であるに違いない。 


「二度と彼ら(ドイツ人)に頼みごとをしないで」と母に咎(とが)められても、「あの歌を歌えば、全部うまくいくと思って」と返す少女の一念が、この映画を貫流しているのだ。 


但し、少女の一念が受け入れられるには条件がある。

 

相手が世間並みの常識人であり、窮屈なイデオロギーに縛られず、過度に尖った感情を剥(む)き出しにしない人物であるという条件である。

 

「ウクライナの民謡?そんなものが、あると思うか?お前は間違っている」 


ウクライナの文化芸術を全否定するソ連の芸術フィールドの「立派なお客様」の前で、「喜びを運ぶ歌」としてのウクライナ民謡を歌い切って見せる少女ヤロスラワにとって、ドイツ人夫妻に対してそうだったように、人種差別のない平和への祈りを贈っただけに過ぎなかった。 

ここまで歌って、院長に止めさせられる


大好きな父を喪い、尊敬する母とも引き剥(は)がされ、規律が峻烈(しゅんれつ)な孤児院に収容されても変わらないヤロスラワの、その突き抜けたイノセンス。

 

誰にも奪えない少女のイノセンス。

 

それは、ウクライナ人が理想とする“聖なる幸せ”が凝縮されたウクライナ民謡の体現者として、記号化されたようなヤロスラワのイノセンスであるか否か、私には分からない。

 

ただ、日本公開(2023年)に先立ってインタビューした、オレシア・モルフレッツ・イサイェンコ監督の以下の思いの束は、そのイメージを想起させるに十分だった。

 

「この曲はウクライナ人が理想とする“聖なる幸せ”を歌ったもの。家庭の幸せを一番にし、それを隣人と分かち合う。欲張らず、家族が幸せになれる分だけの喜びを得たら、それを隣人と共有するという意味。度重なる不運に恵まれたウクライナだからこそのメッセージが込められていると思います。ウクライナ語とウクライナ文化は永遠に存在するという証のためにも、私たちはこの歌をずっと歌い続けるでしょう」(監督インタビューより)

オレシャ・モルグネツ=イサイェンコ監督

 

オレシア・モルフレッツ・イサイェンコ監督の思いは、「長年にわたるロシア語優遇政策の結果、ウクライナ語は『田舎の言葉』『無教養な人の言語』とみなされていました」という痛烈な指摘によっても窺える。 

【ロシア帝国の台頭とともに、ウクライナ語版教会スラヴ語はロシア語に取って代わられた。1720年以降、ウクライナ左岸に関するピョートル大帝の勅令は、ロシア語版でしか書物を印刷することを認めなかった。1729年の勅令では、すべての政令や命令をウクライナ語からロシア語に書き換えることが義務付けられた。ロシアから見れば、これは言語の標準化に向けた動きだったが、何世紀にもわたる書物や文学と関係する伝統を持つウクライナのアカデミーから見れば、これは抑圧であり非常に大きな制限だった】

同上

同上

ロシアはウクライナ語を弾圧した」より


作り手の怒りは、プーチン批判にまで及んで封印を解き、今や隠し込む何ものもないようだった。

 

「プーチンは大統領に就任して以来、ソ連を取り戻そうと、ウクライナの文化を“ないもの”にしようとしてきました。まずはウクライナの市場をビジネスで独占し、その次は文化、音楽や言葉。ウクライナに昔からずっと残っているお祭り、郷土料理、民謡などウクライナの伝統文化を盗み、ロシア語に上書きしてロシアの文化にしているんです」 

オレシャ・モルグネツ=イサイェンコ監督(左)/「戦火のウクライナから映画監督がやってきた!」より


他国の主権の侵害の極点は文化の破壊に尽きる。

 

文化の究極な破壊は言語の破壊に行き着く。

 

内モンゴル自治区政府に対する中国共産党政府によるモンゴル語の剥奪と、中国語の強要が常態化しつつある現状を俯瞰する時、権威主義体制の国家で行われているグロテスクなまでの惨状に言葉を失う。 

民族衣装を着た内モンゴルの女性たち/「中国政府にモンゴル語を奪われるモンゴル人の怒り」より

中国・モンゴル語教育削減への抗議に強硬姿勢 内モンゴル自治区、登校ボイコットで逮捕も」より


「ウクライナの民謡?そんなものが、あると思うか?」

 

繰り返すが、NKVDの将校が放ったこの極めつけの暴力性に恐怖感を覚えるのだ。

 

これだけは許せないと言いたかったに違いない、オレシア・モルフレッツ・イサイェンコ監督の思いがストレートに伝わってくるシーンだった。

 

ウクライナのプロパガンダと揶揄・誹議(ひぎ)されようとも、オレシア・モルフレッツ・イサイェンコ監督にとって、ウクライナに対する誤解・偏見が蔓延(はびこ)る昨今にあって、どうしてもこれだけはリリースせざるを得なかったのだろう。

 

個人的に言えば、ウクライナ侵略の前年に製作された本篇には、驚くほど侵略後のロシアの頽廃のリアルが描かれていて、目を瞠(みは)ってしまった。

 

映画的にも良く構成されていて、構築力も悪くない。

 

強き母ソフィアのシベリアでのシーンを観て、感動の余韻が今なお揺蕩(たゆた)っている。


 

ラストの救いが何もかも浄化してくれるとは考えられない作品だったからだ。

 

(注)正教会は世俗権力としての皇帝権の支配下にあり、司祭の妻帯を認めるが、カトリックは世俗権力から独立しているローマ教皇を仰ぐ。他にも教義の違いがある。

 

時代背景の詳細が描かれていないので、以下、公式ホームの年表を列記していく。

 

1917年11月ウクライナ人民共和国の成立

1921年3月ポーランド・ソビエト戦争終結⇒西ウクライナはポーランド領、その他はソビエト領となる⇒ウクライナ人民共和国政府はポーランドに逃れて亡命政府を立てる

1922年12月赤軍勝利によってソ連邦結成⇒ウクライナはウクライナ社会主義ソビエト共和国として一方的に併合される

1929年1月ウクライナ民族主義者組織(OUN)創設

1932年4月〜1933年11月ウクライナで当時のソ連政権による計画された人工的な大飢饉が起こる(ホロドモール)

1939年9月ドイツとソ連によるポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発⇒ソ連はその後ウクライナを占領

1941年6月ドイツのソ連侵攻⇒9月ドイツがウクライナ首都キーウを占領

1942年7月ドイツがウクライナを占領⇒スターリングラード攻防戦始まる⇒10月ウクライナ蜂起軍(UPA)結成

1943年8月ソ連のウクライナ攻勢⇒11月ソ連軍によるキーウ占領

1944年5月ソ連によるクリミア・タタール民族のクリミア半島からの強制移住⇒6月ソ連軍による西ウクライナ制圧、連合軍のノルマンディ上陸

1945年4月ベルリン陥落⇒5月ドイツ降伏⇒8月日本降伏

1954年クリミア半島の帰属がロシアからウクライナに移管

1991年8月ソ連崩壊によりウクライナ独立宣言

 

(2024年6月)

 

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