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2020年2月7日金曜日

バスキアのすべて('10)   タムラ・デイヴィス


 ドレッドヘアのバスキア

<「防衛体力」の欠如によって、最強の毒素に壊されていく>



1  「激情的習得欲求」の自由人 ―― その中枢を動かす推進力





「最初は拾ってきた窓に描いていた。窓枠を額縁に見立ててガラスの部分に描く。拾ったドアにも描いた」

ジャン=ミシェル・バスキアの言葉である。

「(絵の説明について)どう説明したらいいか、分らないよ…ほとんど自動的なんだから」

これもバスキアの言葉。

「無題・テナート」

「ほとんど自動的なんだから」と言うアメリカの画家に、絵画のモチーフを問うことは意味がない。

「激情的習得欲求」の自由人 ―― それこそが、バスキアの中枢を動かす推進力になっている。

だから、彼の作品には「無題」が多いのだ。

そのジャン=ミシェル・バスキア。

1960年に、ニューヨーク市ブルックリンで、二人の妹を持つ兄妹の長男として生まれ、スラムの臭気とは無縁だった。

ブルックリン美術館(ウィキ)

ハイチ系移民の父親は裕福な会計士。

プエルトリコ系移民の母親マチルダは、精神を患っていたと言う。

聖書を絵にするほど美術好きの母親が、幼いジャンを美術館に連れて行った。

この恵まれた環境が、ジャン・バスキアを一代のアーティストを育む大きな要因になっていく。

既に6歳で、母の助力でブルックリン美術館の会員になっていたが、7歳のとき、車に撥(は)ねられ、入院中に、母から「グレイの解剖書」(「人体の解剖学」として知られる医学書)を贈られ、バスキアの絵画にその影響を留めている(「無題(頭蓋骨)」)。

翌年、両親が離婚するに至る。

詳細な事情は不分明だが、離婚後、精神病院に入院するに至る母親マチルダの精神疾患と関与すると思われる。

バスキアの父親
バスキアの母親
6歳のバスキア 
幼児期のバスキア
「無題 頭蓋骨」
「Ⅿater」(母さん)彼の母は精神病院の入退所を繰り返していた 
「グレイの解剖学」https://casie.jp/media/jean-michel-basquiat/

父親に引き取られた17歳のバスキアが、「思春期スパート」の洗礼を受け、裕福な環境を自ら捨て去った。

ブルックリンの家を出たのだ。

その行き先は、「ロウワー・マンハッタン」。

マンハッタン島の最南端に位置するダウンタウンである。

ロウアー・マンハッタン(ウィキ)
現在のソーホー(ウィキ)

多くのギャラリーが集中する「ソーホー」に「拠点」を持つが、殆ど根無し草だった。

このダウンタウンで、スザンヌ・マロックという名の恋人を持ち、彼女のアパートに転がり込み、アトリエとした。

「SAMO」(セイモ)というユニットを作ったバスキアの、天衣無縫な非合法なストリート・アートは、やがて、詩的なグラフィティの制作で名を馳せていく。
恋人のスザンヌ・マロック

バスキアとスザンヌ・マロック
バスキアとスザンヌ・マロック
「SAMO」(セイモ)https://casie.jp/media/jean-michel-basquiat/
バスキアのすべて」より
映画「バスキアのすべて」より

でも、なぜ、裕福な環境を捨ててまで、バスキア少年は、バンクシーより遥か以前に、「サブウェイ・ドローイング」(地下鉄の広告掲示板に絵を描く)で知られるキース・ヘリングのように、スプレーペインティングなどで壁に落書きする、ストリート・アートのグラフティの最前線に立ったのか。

キース・ヘリング(ウィキ)

恐らく、その性格も相似していたであろう、無名な「画家」でもあった母のDNAを継承したバスキア青年は、父親との折り合いの悪さを「自己解放」する。

多くの青少年がそうだったように、バスキア青年の「一念発起」のルーツは、この辺りにあるだろう。

そこに垣間見える、秀でた父親への承認欲求の情感濃度の高さ。

これは、「ドッグイア―」(変化の激しさ=犬の1年は人間の7年)の如き青春を、一気に駆け抜けた彼の「晩年」に、否が応でも検証されることになる。

しかし、バスキア青年を後押しした推進力が、当時の時代状況のうねりと無縁であったとは、とうてい考えられない。

「70年代後半のNYは不況で犯罪が溢れていた。クスリ中毒者に売春婦にポルノ・ショップ。当時のNYは怪しい魅力を放っていた。マンハッタンのダウンタウンは、美大生や家出した若者を引きつけた。そうした状況が渾然一体となった暗くドラマティックに輝く世界は、想像とインスピレーションに満ちていた」

映画で語られた、ナレーション含みのブリーフィングである。

犯罪渦巻く70年代のニューヨーク

感受性豊かな青春が、この渾然(こんぜん)とした時代状況の一角で咆哮(ほうこう)し、目眩(めくるめ)く解放系のスポットを占有するのだ。





2  「彼には荒波を進むための舵がなかった」





「彼には驚くほど、知識や教養があった。10代にしては、自分の立ち位置をちゃんと心得ていて、18歳にして、すでに中心に立っていた。世界でも最先端の音楽やアートのね」(ジェフリー・ダイチ/ロサンゼルス現代美術館館長で、バスキアの初期のディーラー)

ジェフリー・ダイチ
ポストカード
ポストカード

ハイスクールを中退しても、両親から受け継いだ教養の片鱗があったのだろう。

生計を立てていたのは、絵柄を入れたTシャツやポストカードを売り捌(さば)くこと。

そのエリアは、ワシントン広場や「ソーホー」界隈。

その彼のスプレーペインティングが評価され、クラブの常連になっていく。

グラフィティ・アート
グラフィティ・アート
グラフィティ・アート
映画「バスキアのすべて」より /「バスキア、10代最後のとき」
映画「バスキアのすべて」より
映画「バスキアのすべて」より

「同時代のアーティストとして、彼は認められたかった。クラブ通いはプレゼンだ」(友人の一人)

「彼とはマッド・クラブのダンスフロアで出会った。彼は全く金を持ってなかった。私は彼のグラフティを見ていたから、“アート作品を創れ”と言って金を渡した」(ディエゴ・コルテス/キュレーターの友人)

「キュレーター」とは美術館での学術的専門家のこと。

バスキアは、この「キュレーター」から高い評価を受けたのである。

「彼は、その特別な才能で、ストリートのエネルギーを芸術に昇華させた」(アフリカ美術研究家)

「ストリートのエネルギーを芸術に昇華させた」バスキアを囲繞する風景が、眩(まばゆ)いばかりに変容していく。

バスキアの活動総体が、画商のアニナ・ノセイの目に留まり、「もっと大きな仕事」(アニナ・ノセイ)をするために、彼女のギャラリーの地下をアトリエとして提供される。

アニナ・ノセイと・完成した絵の前で
ゲルニカ市にある実物大のタペストリー(ウィキ)

「(初めて強い印象を受けた作品)」たぶん“ゲルニカ”。子供の頃のお気に入りだった」

インタビューでのバスキアの言葉である。

バスキアは、アニナ・ノセイのギャラリーで初の個展を開き、一躍、新人アーティストとして大成功をもたらした。

「アンディもまた、彼に夢中になった一人よ。ゾッコンだったと思うわ」

バスキアを支え続けた恋人のスザンヌ・マロック(現在、精神科医)の言葉である。

「アンディと親しくなるなんて、まさに大事件だ」と言われるほどに、バスキアは跳躍したのだ。

アンディとバスキア

「存在、生き方、考え方、スタイル、人脈などすべてにおいてバスキアの憧れだったウォーホルこそ、アート界の象徴的なキングととらえていた節もあるほどだ」(「バスキアとは何者か? 「黒人アーティスト」というレッテルを嫌った男」)

アンディとの関係の深度が増すほど、バスキアは変貌していく。

人間関係も変化する。

それまで親しかったスザンヌ・マロックや、既存の友人たちとの関係が軽視され、破綻するに至る。

アートの世界においても、ニューヨークでの活動は、バスキアの障壁になっていた。

70年代中頃に高く評価されたアートは、ミニマリズム(「最小限主義」)、コンセプチュアリズム(観念的な側面を重視)で、革新を許容する土壌はなかった。

ドナルド・ジャッドの作品/ミニマル・アートを代表するアーティスト
「コンセプチュアル・アート」の先駆者イヴ・クラインの作品

バスキアは、コンセプチュアル・アートやミニマル・アートを否定するニュー・ペインティング・「新表現主義」の先駆者であり、作品でアートの境界線を壊していくが、一貫して、ニューヨークの美術界のプロは、バスキアのアートを歯牙(しが)にもかけなかった。

この澱んだ流れが、バスキアをして、ニューヨークとロスを行き来させる行動に結ばせるのだ。

ハリウッドの大物たちは、こぞって熱狂的に歓迎する。

作品はオープニングまでに完売した。

ハリウッドの個展で最も売れた絵画
初のメジャー記事がNYタイムズに掲載された 
「自信過剰だった」時代の回想・死の1年前・ビバリーヒルズでのインタビュー

「その辺りから状況が一変。急速に億万長者に」(友人)なっていく。

奇妙な風景が、高々20代のアーティストを囲繞するのだ。

その死に至ってもなお、美術界のプロに認められなかったが、それでも、画商からのオファーは絶えない。

「画商」という名のプロだからだ。

「彼は重圧も相当だった。コレクターや画商に絵を渡さなきゃならないし、すべてが傑作でなきゃならない。国際的な美術界から批評されるからよ。どんどん辛くなっていった。冒険的な20歳と本格的な画家との行き来がね。彼には荒波を進むための舵(かじ)がなかった」(映画「バスキア」を監督したアーティスト・ジュリアン・シュナーベル)

ジュリアン・シュナーベル(ウィキ)
映画「バスキア」より

この心理圧を抑えるために、ヘロインにのめり込んでいく。

「集中力を高めるためだ」と本人は言うが、ヘロインという格好の道具は、「荒波を進むための舵」を持たない若者の、現実逃避の代用品だったと言える。

「彼の立場を想像してみて。まだ若干20~22歳で、ストリート暮らしからわずか2年の間に一転、超有名なアーティストに。順応することがどれだけ難しいか」(スザンヌ・マロック)

スザンヌ・マロック 

そして、差別の前線に四方八方から包囲される、「有名な黒人アーティスト」。

バスキアを囲繞する差別言辞が、「ブラック・ピカソ」という表現に象徴されるように、多くの記事の射程となり、連射されていく。

「有名な黒人アーティスト」の、この「黒人」という記号が、バスキアを黒人差別の被害の範疇に閉じ込めていくのは必至だった。

「僕は白人のエリートの世界にいる」
無題(黒人の歴史)https://www.artpedia.asia/jean-michel-basquiat/

「成功した黒人は白人に恩を感じつつ、いつか落ちるという自覚を」(友人)

「自分は利用されている」と妄想し、不信感が膨張し、精神を疲弊させていく。

「どんどん彼の周りに人が集まってきて、それで被害妄想に。でも薬物のせいでもあるわ」

インタビューでの回想である。

この渦中で、ジャン=ミシェル・バスキアは、ハワイに父を連れて行った。

「恐らく、成功した姿を見せたかったんだろう。父親を感心させて認められたかった」(友人)

笑顔の父とバスキア「恐らく、成功した姿を見せたかったんだろう」

それが正解だろう。

若きアーティストを襲う、信じがたき出来事。

アンディ・ウォーホルとの合作が酷評されたのだ。

一枚も売れなかったのである。

頓挫した合作の個展・アンディとバスキア
アンディとバスキア
アンディの人気は落ちていた

この衝撃に、イエロー・ジャーナリズムが畳み込んでいく。

「バスキアは尻尾を振って、アクセサリーになっている」

こんな中傷記事の情報が、巷間で取り沙汰され、忽ちのうちに共有されていく。

「アンディのペット」と言われる始末だった。

いつの時代も、どこの国でも、イエロー・ジャーナリズムは意気軒昂である。

翌日、LAに行くバスキア。

アンディのもとを去り、もう、アンディと会うことがなかった。

しかし、不幸は連鎖する。

既に体調不良のアンディが、胆嚢手術を受けた直後、急逝するのだ。

1987年2月22日のことだった。

アンディ・ウォーホル(ウィキ)

20世紀ポップアートの旗手の死は、当然、「アンディのペット」と言われた男の中枢を打ち抜いた。

その死を受容できない青春が、それ以前から耽溺(たんでき)していたヘロインに搦(から)め捕られ、「薬物依存症」という名の精神障害に陥っていく。

妄想癖が止まらない。

病識がないから、余計、厄介だった。

ヘロインのオーバードーズを注意されたら、逆ギレする始末。

スザンヌ・マロックも、何度、怒鳴られたことか。

彼女は言う。

「あまりにも大きな痛手から、目に見えて衰えていった」

でも、何もできない。

泣きじゃくるバスキア。

「ジャンは悲嘆に暮れて、泣きじゃくっていた」(友人)

「ジャンは悲嘆に暮れて、泣きじゃくっていた」
孤独の深まり。

人生への絶望。

ネガティブな情感だけが騒いで止まないのだ。

「ある時、オデオン(マンハッタンのレストラン)で昼食を食べている時、彼が“父さんだ”とうれしそうに席に立った。“父さん、元気?友達を大勢連れて来てるよ”。でもショゲて戻って来た。親父さんに冷たくされて」(友人のインタビュー)

オデオン

こんなエピソードが伝えるのは、社会的に孤立しているバスキアの精神状態の、殆ど極限的な様態である。

決して長くないが、一時代を画したグラフィティ・アートの表現者が、ヘロインのオーバードースによって逝去したのは、予約済みだった。

27歳のニューヨークの盛夏だった。
最後の作品になった「死との相乗り」





3  「防衛体力」の欠如によって、最強の毒素に壊されていく




「彼は独立精神が強かった。誰の言うなりにもなろうとせず、思うまま行動した」(インタビュー)

独立精神の強さが昂じると、社会的適応に苦労する。

バスキアも、その例に洩れなかった。

「ほぼ毎日ノンストップで絵を描いていて、壁にはつねに10作ほどが立てかけてあり、数日間は寝ないで仕上げていた」(「バスキアとは何者か?「黒人アーティスト」というレッテルを嫌った男」)若きアーティストは、「テレビは始終つけたままで、ステレオも大音量でジャズのレコードが鳴りっぱなし」(同上)の生活を常態化していた。

自由奔放な生き方を外化していても、「人気アーティスト」という防波堤によって守られているから、この勲章は絶対記号と化す。

「マドンナが愛し、ウォーホルが嫉妬した」
アンディとバスキアhttps://casie.jp/media/jean-michel-basquiat/

しかし、絶対記号と化した勲章は幻想に過ぎない。

「人気アーティスト」という名の、絶対記号と化した勲章が削り取られた時、件の者は、犯罪の臭気を漂動(ひょうどう)させる、厄介な「不良黒人」という相対記号にラベリングされるだろう。

そして、このラベリングが、「人気アーティスト」だった男の生活風景に突として立ち昇り、人を寄せ付けない異臭を撒(ま)き散らしていく。

もう、溶々たるメンタリティとは縁遠い「人気アーティスト」の運命は、単に一過的で、スケールの小さいブームを作っただけの男の孤独をトレースしていくだけだった。

「1983年頃にウォーホルと知り合ったバスキアは、その数年後には共同で絵を制作するまで親しい間柄になっていたのだが、このことはバスキアにとっては大きな出来事だったに違いない。ゆえに、この二人の仲が暗礁に乗り上げたまま先にウォーホルは逝ってしまったことでバスキアは孤独感を深め、精神状態も不安定になり結果的に命を落とすことになった…短略的に聞こえるかもしれないが、これはまぎれもない事実だろう」(同上)

「ドス・カベサス」ウォーホル(左)とバスキア
黒人警察官のアイロニーhttps://casie.jp/media/jean-michel-basquiat/

憧憬の対象だったウォーホルとの出会いと、悔いを残す別離。

いつしか、未知のゾーンに踏み込み、憧憬の対象人物との悔いを残す別離が、未成熟な自我の中枢を空洞化し、寒風に晒された「自由人」の脆弱性を露わにする。

〈死〉の記号であるヘロイン漬けになっていく。

ヘロインの表情が現れている

「快感3点、精神的依存3点、身体依存3点」 ―― これが、薬物評価で負の最高点を示し、〈死〉の記号である唯一の「毒物」・ヘロインの化学的内実である。

〈死〉の記号にのめり込んだ男の心の風景には、以上のような分りやすい情感系の破綻にのみ帰結させることができない。

「毒のオアシス」
「バニー・ヒルの息子の人生」 
「堕天使」

大体、この「若きアーティスト」の脆弱性の根柢には、看過できない自我の未成熟さが揺蕩(たゆた)っている。

「アーリースモールサクセス」(最初の小さな成功)というビジネス用語がある。

この「小さな成功」を累加していくこと。

この「達成」を積み重ねることで、経営の「流れ」を作っていく。

「小さな成功」は、「流れ」を作っていくために重要な「達成」なのである。

「アーリースモールサクセス」という視座で、広義に捉えるならば、「経営」も「アート」も特段に変わりがない。

アーリースモールサクセス

ブログで確かめた一つのエピソードがある。

「22、23歳ぐらいの時、大学のバンド仲間が宝くじで2億円当たったことがあったんです。びっくりしたのが、いきなりロレックスの時計をするようになって、彼女にもヴィトンとか買って、車はBMWのオープンカーになって。彼は半年で5000万円使ったと言っていました。当時付き合っていた彼女と結婚して、家を買って、子供を3人育てています。今はもう、そのお金はほとんどないと言っていましたけど、幸せに暮らしていますよ。大金によって価値観が壊されちゃうと、かなり危ないですよね。何が大事で何が大事じゃないかっていう価値観を持てないままいっちゃうと、ブレたところから戻れなくなってしまうんじゃないかな」(「大金を持つと不幸になる人、ならない人。20代で2億円当たった友人の話から

同上

ここで言う「何が大事で何が大事じゃないかっていう価値観」を持つことが、如何に重要なことであるか。

例えば、大金を持った時に蕩尽(とうじん)する快楽が習慣化・日常化すると、「普通にお金を使う」という感覚を復元できなくなる。

その御仁は、いつしか借金地獄に嵌ってしまう。

この怖さが、人間にはある。

大金を手に入れたから不幸になるのではない。

大金を手に入れた時に、お金の使い方の軸を持っていないから不幸になる。

私は、その現象を「お金の破壊力」と呼んでいる。

これが、心理学的に最も厄介な問題になるのだ。

お金に対する態度が、私たち個々の「倫理的信念」と関連するからである。

「何が大事で何が大事じゃないかっていう価値観」・「お金の使い方の軸」こそ、私たちの「倫理的信念」それ自身に収斂される。

だからこそ、「アーリースモールサクセス」の心理学が要請されるのである。

人間の脆弱性 ―― これを認識・内化できないと、大半の人間は、予想だにしない「不幸」の襲来に対して、愧(は)じるほどに壊れ易くなる。

基礎体力がない現実をまざまざと見せつけられて、自らの体力不足を思い知らされるのである。

この体力を、「防衛体力」と言う。

「防衛体力」とは、「病気に罹患しない基礎体力」のこと。

「病気に罹患しない基礎体力」は、私たちの「倫理的信念」の強化の中で鍛えられるのである。

「若きアーティスト」は、「防衛体力」の欠如によって、正真正銘の〈死〉の記号であるヘロインという名の、人間を解体する最強の毒素の破壊力に搦(から)め捕られてしまった。

1983年、「若きアーティスト」の作品の価格は、5000ドルから3万ドルに高騰する。

「まだ若いし、そんな大金は初めてで、使い方が分らなかったの。使うか貯めるか…銀行口座も持ってなくて、あちこちにお金を隠した」

現在、精神科医である、スザンヌ・マロックの言葉の重さは、「時代の寵児」を目の当たりにした者のリアリティに因っている。

お金を使う能力の高さが、その主体の〈幸福〉の度合いを決定づけるのである。

相対的なものでありながら、「自らのサイズ」に見合わないほど、莫大なお金を手に入れてしまった結果、それが自己膨張してしまったら、その主体の〈幸福〉の度合いが、済(な)し崩し的に自壊する確率を高めていくだろう。

ライフプランニングと無縁な「若きアーティスト」の「不幸」の風景が、ここにある。

「防衛体力」の欠如した「若きアーティスト」は、「防衛体力」のない状態で成功し、自らが憧憬する「偉大なアーティスト」と出会い、評価され、「アンディのペット」と揶揄されるほど抱擁され、弄(いじ)られてしまった。

「天国」にいる気分を味わった挙句、距離の取り方が分らないで煩悶し、急逝によって置き去りにされてしまったのだ。

「お金の使い方の軸」がない。

「何が大事で何が大事じゃないかっていう価値観」がない。

「倫理的信念」がない。

職業的才能があっても、それを有効、且つ、適正に駆使して、「一段超えたアート」に仕上げていく社会的適応力がないのだ。

だから、「自らのサイズ」に見合わないアーティストの、その「現在性」の立ち位置を測定できず、中枢を動かす推進力になった「激情的習得欲求」の自由人の、その本来の馬力を駆使できなかった。

本来の馬力を駆使できなかったら、〈死〉の記号の生贄(いけにえ)と化す外になかった。




これだけは書きたいが、「若きアーティスト」の頓挫と黒人差別の問題を安直にリンクさせるべきではない。

「若きアーティスト」の命を奪ったのは、本質的に、彼自身の「生き方」の脆さであって、その強度の欠如である。

自我の確立運動としての「青春」が負う苛立ち・欠損感覚・爆走。

良いことがあれば、悪いこともあるという「振り子の法則」は、「人生」を繋いでいく者の宿命であり、だから苛立ち、時には爆走する。

悔しいが、相当の我慢も強いられる。

普通に挫折する。

普通に蹴飛ばされる。

普通に爆砕する。

そして、普通に奮い立つ。

挫折し、奮い立って、匍匐(ほふく)していく。

何が起こるか分らないのだ。

単に、運・不運の問題に過ぎないかも知れないのである。

個々のサイズで括った人生を、堂々と引き受ける外にないのだ。

「若きアーティスト」に最も欠けていたもの。

それは、「俺はこういう人生を生きる」という指標ではなかったか。

「低気圧域」
「氷の融点」
「洗礼」
「無題」
「無題」
「無題」先駆者よ、作品でアートの境界を壊した
「無題 赤い男」

【本稿の画像の多くは、テレビ画面から切り取ったものです】

(2020年2月)

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