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2022年1月22日土曜日

茜色に焼かれる('21)   石井裕也

 



<負の記号を潰して生きんとする「舐められた女」と、その一人息子との愛と希望の物語>

 

 

 

1  「お金のことは、絶対気にしないで。それで、行けるところまで、行きなさい」

 

 

 

田中良子(りょうこ)の夫・陽一が、横断歩道を自転車で横断中に、赤信号を無視して暴走してきた車に撥ねられ、死亡した。(「東池袋自動車暴走死傷事故」参照) 

陽一


これがオープニングシーン。

 

7年後、事故現場を見つめ、立ち尽くす良子。 

良子


良子はその足で、加害者の老人の葬儀に向かった。

 

「この老人が7年前、アクセルとブレーキを踏み間違えたことで、僕の父ちゃんは呆気なく死んだ」(良子の息子・純平のモノローグ/以下、モノローグ) 



良子は、立派な祭壇が飾られた葬儀会場に入ろうとするところを阻止される。

 

「おかしいですよ。被害者だから何でも許されるわけないんです。何のためにわざわざ来たんですか?父に何を言っても、意味ないじゃないですか。嫌がらせのような行為は止めていただきたい…」

有島の息子


「私はただ、有島さんのお顔を拝見したくて…」


「あなた、おかしです」

 

「かつて偉い官僚だったらしいこの老人は、アルツハイマーを患っているという理由で逮捕すらされなかった。僕の父ちゃんは30歳で死んだが、この人は天寿を全うし、92歳で生涯を閉じだ」(モノローグ) 



家賃27000円の市営団地に、息子の純平と二人で住む良子。

 

純平に「何で、あんな人の葬式に行ったの?」という問いに対し、良子は、「まあ、頑張りましょう」と笑って返すのみ。 

純平

「まあ、頑張りましょう」


「母ちゃんは、時々、意味が分からない。少し難しい人だ」(モノローグ)

 

コロナ禍で、ホームセンターの花屋で時給930円のバイトをしている良子は、家に帰って食事の支度をしていると、純平がどうしても解(げ)せないと、有島の葬式に行ったことに再び疑問をぶつけてくる。 



「加害者でしょ。父ちゃんを殺した奴だよ…何で母ちゃんは怒らないの?」

「まともに生きてたら、死ぬか、気が違うか、そうでなければ、宗教に入るか。この3つしかないでしょ」 


漱石の名作「行人」の一節を引用して、お茶を濁す良子。 

漱石を読むことを勧める母


「まあ、頑張りましょう」

 

いつもの口癖を言って、煙に巻く母。

 

月約36000円の食費で、家計を切り盛りする良子は、コロナ禍で自らが経営する小さなカフェを廃業せざるを得なかった。

 

7年前に賠償金を永久放棄した良子が、有島側の弁護士から呼び出され、葬式に来た一件で警告を受ける。 

アクリル板越しの会話


「私が、お金を受け取らなかったのは、有島さんから謝罪の言葉が一言もなかったからです」 



弁護士は7年前の事故の件は自分には関係ないと言って、良子の「嫌がらせ」だけを一方的に問題にする。 



時給3200円の風俗嬢になった良子。 


6時間勤務で19200円の日給である。

 

同僚のケイから、客に蔑まれていることの不満をぶつけられるが、ここでもまた、良子は「まあ、頑張りましょう」と言って、ケイを抱き締める。 

ケイ

「まあ、頑張りましょう」


一方、学校で、先輩たちに呼び出された純平は、市営住宅に入居していることで、「税金を食い物にしている」と嘲弄(ちょうろう)されたばかりか、母親が売春婦だと詰(なじ)られ、笑い者にされた上に、殴り飛ばされる。 

眼鏡を外して臨む純平



母が風俗で働いている事実を知らなかった純平だが、家に帰り、良子に変な仕事をしていないかと問い詰める。

 

きっぱりと否定する良子。

 

「母ちゃんのカフェは潰れたんだよね?」

「でも、また開くよ。お母さん、人に雇われるの、得意じゃないから」

「ごめん…」

「どんなことでも、嘘をつかないで。これは、お母さんとあなたのルールだから」


「うん」

 

陽一の命日の日、良子は純平を連れ、脳梗塞で倒れ、月165000円の施設入居費の介護施設(義父の年金受給分・65000円を含めて)に入っている義父の面会に訪れた。 


コロナ禍の窓越で、モニターを介しての対面である。 

義父とモニター越しで会話する


その日、故人を忍ぶため、陽一が参加していたバンドのメンバーが店に集まり、飲んで盛り上がっていた。

 

そこで、仲間の一人が、良子にお金の心配をする。

 

「女の人は、最終的に体、売れるから」 


笑みで返すしかない良子。

 

「俺たちは、トップのトップまで行こうとしてたんだよ。聞いてるか?陽一の口癖だったんだよ」


「毎年、聞いてます」

 

うんざりした表情で、そう答える純平。 



そこで、良子がかつて、アングラ劇団の女優で、情念の演技をしていたことを聞かされた。

 

家に戻った純平は、良子に苛立ちをぶつける。

 

「何なんだよ、あれは。母ちゃんのこと『買う』とか言ってたよ。ああいうのは、ヨーロッパ辺りじゃ、セクハラになるんじゃないの。なんで、母ちゃんは我慢できるの?」

「ルールが厳しい国はいくつもあると思うけど、頭の中身はどの国の男も変わんない。他人にルールを求めるのは難しいと思う。自分たちがしっかりしてれば、いいでしょ」

「ムカつかないの?俺たち、何にも悪いことしてないのに。皆から舐(な)められてんだよ。もしかして、何でもないフリしてるの?お芝居?母ちゃんは、お芝居してんの?」


「まあ、たまにね」
 



良子は、純平のシャツに血がついていたのを見て、虐めがあるのではないかと、担任教諭に問い合わせをしていた。 



学校へ行くと、担任は、虐めや暴力事件を把握していないと、取り合おうとしない。

 

「純平に何かあったら、私はあなたを許しませんよ」

 

担任教諭が鼻で笑って返したことで、良子は黙っていない。 


「責任感のない卑怯な人間に限って、そういう愚かな薄ら笑いを浮かべるんです。全く面白くありませんよ」 


息子のことに関しては、良子は本気になるのだ。 

「誰かに何かされた?」(良子)


風俗店の控室で家計簿をつける良子。

 

それを覗き込むケイは、義父の施設費や、夫の愛人のサチコという人物の子供への養育費など、何で良子が払う必要があるのかと、疑問を呈する。 



ケイもまた、一生、インスリンが欠かせない一型糖尿病に罹患し、費用が嵩(かさ)むのだ。 

お腹にインスリン注射を打つケイ


「お母さんは死にました。お父さんは生きてますけど、私、8歳の時から、ずっと、お父さんにレイプされてて。でも、いい人なんですけど、助けてもらいたくはないです…良子さん、大変ですね」 



二人の会話を聞いていた店長が部屋に入って来て、以前、店で働いていた、父親にレイプされ、リストカットを繰り返す女の子の話をする。

 

「取り返しがつかないほどボロボロなのに、何で生きようとするのよ。だったら、死んだ方がいいじゃない。だって意味ないじゃん、苦しんで生きるなら。意味ある?」 

店長


黙って話を聞いていた良子が、急に笑い出す。

 

「分かります。私も風俗やってるから、人のこと言えた義理じゃないけど、死にたきゃ、死ねばいいじゃんって思います。無理して生きている人、バカですよね」 


そう言って、また笑い続けるのだ。 

良子を見るケイ


店から帰る良子とケイは、脇道に逸(そ)れて会話する。

 

「昔から意味が分からないバカな奴だって、言われてきたんですけど、良子さん、何でさっき笑えたんですか?私、良子さんの方が、全然、意味分かんないです…」


「自分でも分かんない。反射的に。雇い主のご機嫌伺うためかな。笑うしかなかったから。今までもずっと。もう、自分がよく分からなくなってるんだけど、ちょっと話していい?」

 

良子は、陽一が車に轢(ひ)かれたとき、現場にいなかったが、死んだときのグチャッという音がずっと残っていると吐露する。

 

「そのグチャッで、旦那の人生は終わり。とにかく、生きてる間は、色んなことにいっぱい悩んだ人だったんだけど、グチャッで、一瞬でお終い…その後の方が、もっとひどかったの。虫けらみたいに扱われたの。もう、人間って、こんなもんかって思っちゃった。ごめんね。私、意味わかんないこと言ってるでしょ。聞かなくてもいいよ。どうせ理解されないから。今までも、ずっとそうだったから」


「同じです。私も同じです」

 

二人は、その足で飲み屋に行った。

 

「じゃあ、お金は一切、受け取らなかったんですか?」

「うん、汚いお金だと思ったから。計算されたよ。年収とかに応じて、3500万円ぐらいだった。うちの人、社会とかにずっと怒ってて、反抗するような歌、歌ってるような人だったから、その妻が納得できないお金はまずいでしょ。私、妻だったから、旦那のこと、全部受け入れなきゃしょうがないでしょ」


「それは、ちゃんとムカついた方がいいと思う」


「謝らなかったからね。一言も。人が死んだことよりも、自分の身を守ることの方が重要でさ、あの人たちは。マスコミ向けのポーズだけは、ビックリするほど上手いの…この前、旦那を殺した人の葬式に行ったんだよ。うちの人と、天と地ほどの差があったよ。規模が全然違うの。豪勢でさ。それ見て、あたし、やっぱりあの人の味方で、ずっといようと思ったよ。だから何?別に意味なんてないの。そうやって、無理して生きてることに何の意味があるのって言われたら、そんなの分かりませんよっていう話でしょ。今だって、マスクしてるけど、色々やってるけど、本当に意味あるのか、誰も分かんないでしょ。でも、マスクはするでしょ。分かんなくても。じゃ、何で生きようとするの。分かんのね、ケイちゃん、分かる?」


「分かりません…良子さん、もっと、怒った方がいい」

「叫んじゃったら、ごめんね。今、無理に抑えつけてるから」

「いいですよ。何したって。何でもしてやってくださいよ。知り合いに、シングルマザーばっかり狙ってる、バカな男がいます…舐められてんのが、ほんとにムカつく」

「ケイちゃんは、いいね。怒れるから」


「あたしも、自分のことじゃ怒れません」
 



良子は話しながら、貧乏ゆすりが止まらない。

 

泥酔した母を迎えに来た純平は、初めて会うケイに挨拶する。

 

「母ちゃんを、よろしくお願いします」


「いいね、そういうの。今度、デートしない?」
 



純平はケイの携帯番号のメモを受け取る。

 

そんな折、中学時代の同級生だった熊木と、偶然、再会した良子は、勝負服の赤を身につけてデートに向かう。 



熊木に抱擁され、心が動いた良子は、程なくして、風俗店を辞めることにした。

 

「店長。恥ずかしいんですけど、あたし今、これから頑張れそうな気がするんです」


「じゃ、まあ頑張れよ。何かあったら、電話しろ。コロナで仕事探すの、大変だろうから」
 



担任教諭から呼び出された良子は、最初に虐め問題のその後の調査について問い質すが、その件ではなく、意外にも、純平の成績が全国でもトップクラスであると知らされる。

 

純平が「トップのトップを目指す」と話していたと聞き、陽一と重ねて、満足げな表情を浮かべる良子。 



帰宅後、良子は純平に、ルールの追加を申し渡す。

 

「お金のことは、絶対気にしないで。それで、行けるところまで、行きなさい。バカなお母さんのことなんて、放っといて、どこでも飛んで行きなさい。その代わり、ずっと健康でいて欲しいの。元気でいて欲しい。だから、危ないこともしない。そのルールだけは、必ず守って欲しいの」 


小さく頷く純平。

 

母の言葉を推進力にして、純平は思い切り駆動する。 



介護施設で捨てられていた自転車で、ケイのアパートを訪ねると、ヒモの男に連れ出され、ケイを強引に車に乗せて出発するところだった。 



その車に追い着いた純平は、男がATMに行っている間に、車の窓ガラスを必死に叩くが、ケイは動こうとしない。

 

「どうせ、何やっったって無駄だから…」 



男が戻って来ると、純平を睨むが、純平はその場を離れ、為す術もなく、立ち竦んでいた。



ケイは妊娠しているが、その男に強要され、中絶する。


 

ホームセンターを一方的に解雇される良子。 



完全に収入源を断たれてしまうのだ。

 

 

 

2  存分に吐き出し切った母が、そこにいて、「明日」を勝ち取る旅に向かっていく

 

 

 

良子が真剣に愛する熊木とベッドを共にする際、風俗で働いていたことを告白する。

 

「言わせて。私、熊木君が好き。今、こんな状況で、こんな気持ちになれた自分にびっくりしてる。気持ち悪いのも分かってる。でもね…」


「ちょっと、待って。いいよ、そんなの。そんなに真剣にならなくていい。風俗?いいじゃん。じゃあ、上手いんでしょ。性病持ってないんだったら、別にいいよ…俺、もっと軽い気持ちでやりたいんだけど…」
 



既婚者で子供がいるといるという熊木は、遊びでしか考えていなかったのである。 

衝撃を受け、涙を滲ませる


良子は居酒屋の隅で泣いている。

 

そこにケイがやって来て、二つの話があると語り始める。

 

「一つ目。もし純平君が大人だったら良かったな。ああいう正義感が強くて、真っすぐな人と一緒になりたい…良子さん、大丈夫?精神状態とかお金とか。もうギリギリでしょ」 



ケイは、子供が育てるのが大変だと分かっているから、サチコの子供の養育費まで払うのかと問いかける。

 

「意地なんですか?子供って、何ですか?」

「旦那の愛人だった人の子供なの。女の子だって。もう来年、高校生…嫌だよ。でも、逃げられない」


「何で?逃げていいでしょ?皆、逃げてるよ。何で、良子さんは怒らないの?あまりにも理不尽だって、何で怒らないの?」

「好きで結婚した人だから。ある程度、どうしようもない男の人だったけど。関係ないよ。好きになっちゃったんだから。どれだけ体売っても、他の人を好きになっても。でも、あの人、平気な顔で空から見てて、嫉妬しないんだろうなって、毎日思うけど。ごめんね。もう一つは?」

「お腹にいる子を、堕ろしに病院に行ったんです。その時に、異常が見つかって、詳しく調べたら、私、子宮頸癌でした…多分、早期発見じゃないみたいです…堕ろした子の父親は、付きあっているかもどうか分からない、ヒモみたいな男なんですけど、検査のこと言ったんです。そしたら、ひたすら殴られました。ウソ―って感じです。でも、いい人なんですけど。純平君によろしく伝えてくれますか?彼を傷つけたかもしれない」


「何で、ケイちゃんが?そんな、いくつもいくつも…そんなこと、ある?」

「そんなことあるってことが、いつも私の人生にはあるんです。良子さん、私、悔しい!」

 

ケイを抱き寄せ、良子はお金を溜めて、カフェを必ず始めると話し出す。 


「誰にも指図されないで、好きなように仕事するの。ケイちゃん、良かったら、一緒にやらない?小さなカフェだけど」


「嬉しい。でも、死んじゃったらごめんなさい」

 

一方、例の悪ガキたちが公営住宅にやって来て、「売春婦」と罵り、純平の自転車を蹴り上げる。 



純平は我慢できずに、傘を持って家を飛び出し、振り回して追い返すのだ。

 

ところが、再び戻った悪ガキたちが、ベランダの下に置いてある純平の本に火を点けて、逃げていく。 



消防車が出動して火は消されたが、二人は市営住宅に住めなくなった。 

火事騒ぎの中で帰宅する良子


「僕たちは、この団地から出て行くことになった。他の住民に迷惑をかけてはいけないというルールに違反したことが理由らしい。僕たちは、いつもルールというルールに裏切られる」(モノローグ)

 

その事件は、放火事件から間もない頃に惹起した。

 

引っ越し先の家から、包丁を持って出かける良子に、純平が心配してついて行く。 


行った先は、熊木と待ち合わせの神社の境内。

 

トイレで口紅を塗る良子は、入って来た良平に言い放つ。 



「悪いけど、お母さんとか、何だってのは、一旦、忘れさせて。私の問題だから」 


現れた熊木に対し、良子は怒りを炸裂させる。

 

「悪いけど、舐められた。あたしは、舐められたと思ってる」 


ニヤけるだけの熊木に、良子は声を荒げる。 


「おい!それについて熊木君、どう思う?」

「止めようよ。そういうの、ちょっと、気持ち悪いよ」

 

ニヤけたまま答える熊木に、良子は大声を浴びせる。

 

「おい!」 


良子が矢庭にず包丁を取り出すと、熊木は一目散に逃げて行く。

 

包丁で追い駆ける良子を、遠くから見ていた純平が阻止し、包丁を取り上げ、自らが熊木を追い駆ける。 



包丁を林間に投げ捨てた純平は、熊木に蹴りを食らわすのだ。 



再び境内に戻った熊木は、今度は良子に拳で殴られ、更に頬を叩かれると、階段から滑り落ちた。 



そこに純平が呼んだケイと店長がやって来て、二人にも殴られる始末。

 

店長は、熊木に「うじ虫」と吐き捨てて、連行して行った。 



家に戻った良子と純平とケイは、ケイのおごりの牛丼を食べる。

 

そこに、店長から電話が入った。

 

「知り合いのヤクザが『オレオレ詐欺』の受け子を探しててさ。必ず言うことを聞くバカが欲しいっていうから、こいつを脅して引き渡していい?」

 

頭を下げ、「今日はありがとうございました」と礼を言う良子。 



この「事件」が「一件落着」し、安堵する純平は、今度は、ケイにお礼を言って頭を下げた。 



 ケイは、純平とのデートの許可を、良子に求めた。


「それからすぐ、ケイさんが死んだ」(モノローグ)

 

ケイの葬儀に行った良子と純平と店長。 



「ケイちゃん、ビルから転落して死んだって。だから、顔があんななってた。病気の治療で、強い薬も飲んでいたし、自殺じゃなくて、事故かも知れないって言われてる」と店長。


「事故です。だって、僕と今度デートするって言いましたから」と純平。
 



店長は良子を呼び出し、ケイに頼まれて預かった、お札の入った分厚い封筒を渡すのである。 


「良子さんと、純平君の将来のために使ってって、そう言ってた。それで、その日に死んだ。あいつは多分、だから自分で死んだ。生きる理由が失(な)くなったんだろ」

 

そして今、茜色の空の下を、良子は純平を後ろに乗せて、自転車を漕(こ)いでいく。


「母ちゃん、俺、負けそうだ」


「私も。でも、何でだろ。ずっと夜にならない。まだ、空が真っ赤っか」


「そうだね。母ちゃんが頑張るなら、俺も頑張る…母ちゃん、大好きだ」
 



それを聞いた良子は、自転車を止め、振り返って純平を見た。

 

「純平、もう一回、同じこと言って」

「嫌だ」

「だよね」 



良子は黙って純平を抱き寄せ、再び自転車を漕(こ)いでいくのだ。 



時が経ち、介護施設で許可を取り、良子がアングラ劇を演じている。

 

そのタイトルは「神様」。

 

母のアングラ劇を、覗き見る純平。 



「本当は、結ばれるべきではなかった。お前、ガゼルとはな。シャー!私は女豹だ。メスの豹だ。シャー!お前は、新興宗教に溺れ、女グセも悪く、よそに子供まで作ってしまった。でも、私は、お前に恋をした…それでも、私にはお前との子供がいる。愛してる!愛してる!生きがいだよ。何が悪い。愛しちゃったんだよ!愛しちゃった。何が悪い!ていうかさ、神様!それ以上に、私に、生きる意味を問うのか!それでも、私が生きる意義を試すのか!あ~~!!」 



「正直、芝居の意味は、全く分からなかったし、なぜ、これがやりたかったのかは、理解できなかったが、何にせよ、この人こそが、俺の自慢の母ちゃんだ」(モノローグ) 



亡夫への複雑な感情を曝け出す良子の、ずしっと重い思いの丈(たけ)だった。

 

存分に吐き出し切った母が、そこにいて、「明日」を勝ち取る旅に向かうのだ。

 

 

 

3  負の記号を潰して生きんとする「舐められた女」と、その一人息子との愛と希望の物語

 

 

 

経済の絶対的安定基盤を持ち得ないシングルマザーにとって、月100000円の施設費・サチコの養育費60000円・家賃27000円・食費約36000円・生命保険・医療保険・雑費・諸経費という、困難を極める生活リアリズムの高いハードルと折り合いをつけるには、「まあ、頑張りましょう」という、リアルを煙に巻く欺瞞便法でしかなかった。

 

「グチャッで、一瞬でお終い…その後の方が、もっとひどかったの。虫けらみたいに扱われたの」

 

そう吐露するシングルマザー・良子が損害賠償を受給しなかったのは、「社会とかにずっと怒ってて、反抗するような歌、歌ってるような」亡夫の「思想」を忖度(そんたく)したからである。 



保険会社から普通に支給され、誰でも自由に受け取れるはずの、逸失保険・慰謝料含めて、約3500万円(金額の査定が低過ぎる)の「自動車保険」を「汚いお金」と決めつけ、至極当然の受給を永久放棄してしまった。 



思い切り勘違いした果ての永久放棄の結果、「まあ、頑張りましょう」という欺瞞便法に則って、陽一が参加していたバンドのメンバーが放った、「女の人は、最終的に体、売れるから」という世界に全身を投げ入れて踏み込み、家計簿と睨(にら)めっこしながら、病気に罹患せぬように日常性を繋いでいく。

 

その良子が負担する月額の重さの中に、亡夫の愛人への養育費が含まれているのもまた、「旦那のこと、全部受け入れなきゃ、しょうがないでしょ」という彼女の懐の深さの故なのか。

 

「女グセも悪く、よそに子供まで作ってしまった。でも、私は、お前に恋をした…愛しちゃったんだよ!」 



その答えが最後まで回収されない映画が提示したのは、良子が表現するラストのアングラ劇のこの台詞だった。

 

「お芝居だけが真実でしょう」 


我が子に放った良子の、この言辞のうちに収斂させる意図は理解できるが、それにしても、無理があるとは思わないか。

 

顔を見たこともないサチコを、同じシングルマザーとして受容したか否かは不分明だが、「女の人は、最終的に体、売れるから」と言い放ったバンドのメンバーの口利きで世話をすることになったであろう養育費が、詐取であるという可能性すら捨てている良子の人の善さを、観る者は素直に受容すべきであるということか。 

              サチコ(右)に養育費の増額を約束するバンドのメンバー



―― 石井裕也監督は大好きな映画作家だが、この映画はダメだった。

 

コロナ禍で「舐められた人々」を描く映画への感情投入が勝ち過ぎてしまっているのか、極めて喋々(ちょうちょう)しい作品の印象が最後まで払拭できなかった。

 

コロナ禍で「舐められた人々」を描く映画が特化したのは、コロナ禍でカフェを失った挙句、浮気夫に先立たれ、シングルマザーとして身過ぎ世過ぎを繋ぐには無理がある家計消費支出(実支出)を抱え、「ルールというルールに裏切られる」(純平のモノローグ)悲哀をも炙り出していた。

 

カフェを手放し、殆ど困難な家計消費支出のために昼夜にわたる仕事に就き、一方(昼)は解雇され、他方(夜)は、恋愛成就への旅に出て、手ずから捨ててしまうことになる。

 

この時点で、家計消費支出の主な財源を失っているのだ。

 

肝心な恋愛成就の夢は、相手の男・熊木が、良子を遊び相手としか見ていなかったことで、彼女の中枢に致命的な罅(ひび)が入り、見当違いの復讐劇に振れていく。 



その復讐劇も、ゴキブリを殺せない殺生禁断的性向を有するかのような彼女の、自己基準のルールの破棄でもあったから、自らの手で、ソフトランディングを困難にしてしまった。

 

思うに、熊木は、「風俗?いいじゃん。じゃあ、上手いんでしょ。性病持ってないんだったら、別にいいよ」などという、この国に山ほどいる男たちの一人であって、腐り切っているが、特段に大騒ぎする類(たぐ)いの人間ではない。 



凡(およ)そ、この映画に出て来る男たちの女性蔑視の腐り様は、風俗を背景にしているので他聞を憚(はばか)る者たちのオンパレード。

 

「お前、コロナじゃねぇだろうな」(客)

「高い金払ってんだから、これで気持ちよくなかったら、責任取って、お前死ねよ」(客)

ケイ

「頑張ります」と答えるケイ


「平均以下の頭の、ただの主婦」(弁護士) 

「平均以下の頭の、ただの主婦です。どうぞ、ご安心下さい」と言って、有島に連絡する弁護士


こんな感じだった。

 

然るに、この映画は、この熊木という男を「舐められた女性たち」のターゲットにして、束になって襲いかかるエピソードを山場にしているのだ。 



良子の一方的な片思いでしかなかったにも拘らず、嘘をつき、良子の体を求めたに過ぎない男は、最終的に、懲役という実刑判決を受ける、オレオレ詐欺の「受け子」にまでされてしまうのである。 



そればかりではない。


片思いの男をヤクザに任せ、犯罪者にするという店長の提案に、良子は同意しているのだ。


それも、殺意があったから当然ということか。


まさにハードランディングだった。

 

ケイのヒモのように、オレオレ詐欺の「受け子」を作るヤクザこそが、コロナ禍で「舐められた女性たち」の供給源になっている現実こそ問題なのに、この映画は、その辺りを一切、度外視する。

 

要するに、この映画は、共に「舐められている」にも拘らず、「愛しちゃった」二人の男を差別化することで、男の価値を値踏みし、「それでも『トップを目指した』亡夫は最愛の男」であったというオチに収斂させたいだけの物語でもあったということ。

 

この不穏な顛末(てんまつ)と軌を一(いつ)にするように惹起したのは、母子が市営住宅を追い出されるという受難。

 

市営住宅を追い出されたのは、この映画のコアになっている、ルール違反(廊下と同じような共用部分である一階のベランダの下に、純平が本を置いていたことだろう)という経緯にしている。 

いつも本を並べて読書する純平


火事の原因が放火であるが故に、当然、警察の調べがあり、純平も聴取を受けたはず。 

必死に消火活動をする純平


その際、苛めに加担した上級生について口に出さなかった可能性が高いが(母に苛めを知られたくないから)、少なくとも、被害に遭ったのは良子の母子家庭なのである。 

                   火事を見て言葉を失う良子



それでも、ルール違反によって、衣食住という生活の絶対条件を失ってしまう母子を援助するのは、熊木をオレオレ詐欺の「受け子」にするヤクザと連(つる)む風俗店長。

 

一体、ヤクザは「いい人」なのか。

 

現に、恐怖に歪んだ顔を映し出しているのに、検査を受けたことで殴り続ける男を、ケイは「いい人なんですけど」などと言ってのけるのだ。 

「堕ろした子の父親は、付きあっているかもどうか分からない、ヒモみたいな男なんですけど、検査のこと言ったんです。そしたら、ひたすら殴られました。ウソ―って感じです。でも、いい人なんですけど」

殴られながら中絶させられるケイと、そのヒモ(右)


それにしても、一人の若い登場人物に、一型糖尿病・父からの性的虐待・ヒモからの暴力・子宮頸癌・自殺という風に、人生の負の記号を束ねて、問答無用の如く被(かぶ)す物語の、その見え透いた仮構性の過剰さに、違和感を覚えざるを得ない。

 

なぜ、そこまでして、「舐められた女性たち」の負のスパイラルを、エクストリーム(過激)なまでに描くのか。

 

―― それでも、「明日」がある。

 

勝ち取るべき「明日」がある。

 

だから、進軍する。

 

ルールに裏切られても、進軍する。 



そのルールに裏切られる144分の長尺の映画が描き出したのは、コロナ禍で無策の政治の現実を抉(えぐ)る「本格・社会派」の物語ではなく、死の際(きわ)にあって、敬愛する母子に対するケイのレガシーギフト(遺産)を精神的推進力に変換させ、勝ち取るべき「明日」を信じ、負の記号を潰して生きんとする「舐められた女」と、その一人息子との愛の希望の物語だった。 

「頑張って探せば、良い神様もいると思う」(「明日」を勝ち取らんとする母の覚悟)



それも正解だが、私には以上の理由で不満が残ったのも事実。

 

この映画は、石井裕也監督が求めたであろう、「大いなる母」を演じ切った尾野真千子の独壇場の世界と化した。 



残念ながら、そんな感懐しか持ち得なかった。

 

 

 

4  エッセンシャルワーカーを人身御供にする社会の理不尽さ

 

 

 

感染力が強くとも、その低い重症化率によって、オミクロン株の登場はコロナ収束の兆しであって、「今年中(2022年)にコロナウイルスは風邪のようになる」という楽観論が出ているが、本当にそうなのか。 

オミクロン株の特徴


宿主がいないと生存できないので、宿主を全滅させないようにして変異することによって生存するウイルスは、その変異を繰り返すことで弱毒化すると言われている。

 

だからと言って、オミクロン株がコロナウイルスの変異の最終ランナーと決めつけるのは、未だ希望的観測に過ぎないと思われる。

 

現に、専門家でも意見が分かれているのだ。

 

例えば、2021年12月1日、WHOで緊急事態対応を統括するライアン氏は、新型コロナウイルスの新変異株「オミクロン株」の出現を受けて、日本が導入した外国人の新規入国を原則停止する措置について「ウイルスは国籍や滞在許可証を見るわけではない」と述べ、「疫学的に理解困難だ」と批判した。(産経ニュース) 

      WHOで緊急事態対応を統括するライアン氏=2020年7月、スイス・ジュネーブ(共同)



人類の英知を結集して取り組んでいるにも拘らず、オミクロン株の出現と、その広がりの速さは不気味でもあり、終わりが見えにくいのである。

 

思うに、人類はウイルスのみならず、細菌を含む感染症との戦争の歴史だった。(拙稿 時代の風景「全人類を餌にする破壊力が爆裂する ―― 人類史は感染症との壮絶な闘いの歴史である」を参照されたし)

新型肺炎の感染(イタリア)


 

この現実を直視する時、「今年中(2022年)にコロナウイルスは風邪のようになる」事態が到来するかも知れないが、どうしても暗晦(あんかい)なる不安を払拭できないのである。

 

コロナ禍にあって、「これでもか」というほど、苦役を課せられる主人公を描いた映画を観て、そう思った。

 

―― 映画がそうであったように、なお終わりの見えない闘いが続くコロナ禍で、最も深刻な影響を受けているのがシングルマザーであることが判然となり、その感染拡大が、女性就業者数が多いサービス産業等々が受けたダメージは、その日常性を剝奪(はくだつ)する破壊力を持ったので手に負えなかった。

 

だから、「女性不況」(男性の約2倍)と言われている。 

女性の不況「シーセッション」(女性不況)が世界で深刻化


「反復」⇒「継続」⇒「馴致」⇒「安定」と繋がる日常性のサイクルが狂い、齟齬(そご)が生じる現象が多発する。

 

DV・性暴力の増加と深刻化によって、2020年10月段階で、850人以上の自殺既遂者が出来した。

 

加えて、エッセンシャルワーカー(医療・介護・保育の従事者)には女性が多いにも拘らず、苛酷とも思える処遇実態には怒りを禁じ得ない。 

エッセンシャルワーカーの処遇実態 


エッセンシャルワーカーを人身御供(ひとみごくう)にする社会の理不尽さ。 

コロナ禍が浮き彫りにした社会的意義と処遇―エッセンシャルワーカー


且つ、介護・育児というダブルケアを余儀なくされる女性にとって、終わりの見えないコロナ禍の時代は、安易に「『ウィズコロナ』と言ってくれるな」と叫喚(きょうかん)したいに違いない。

 

しかし、黙る。

 

「皆、同じなんだ」

 

そんな声が聞こえてくるからである。

 

「緊急事態宣言下の休校・休園は生活面、就労面において特に女性に大きな負の影響をもたらした。テレワークについては、その普及と充実に向けて対応すべき課題は少なくない。女性の家事、育児等の負担増に留意するとともに、エッセンシャルワーカーをはじめテレワークの導入が困難な職業に従事する方々の状況をしっかり受け止める必要がある」(内閣府の内部部局・男女共同参画局「コロナ下の女性への影響と課題に関する研究会」より2020年11月19日)

 

そんなことは、言われなくとも、分かっている。

 

だったら、処遇を改善してくれ。

 

そんな思いだろう。

 

「2022年10月からの介護職員の新処遇改善加算、「2-9月の補助金」を引き継ぐ形で設計―社保審・介護給付費分科会」(2022年1月13日)

 

こんな報告も発信されているが、あまりに遅すぎるのではないか。

 

「社会の機能を守るために最前線に立つ『エッセンシャルワーカー』についても、医療専門職の中の正規雇用を除くと、多くが低賃金で非正規雇用といった不安定な立場です。現場に出ざるをえないがゆえにコロナ感染のリスクも高いのに、コロナ禍で、いざというときに国は助けてくれないことが明らかになりました。今後、エッセンシャルワーカーの分野では大変な人手不足に陥り、介護分野などは維持できなくなる可能性が高いです」(橋本健二・早稲田大学人間科学学術院教授「日本人は『格差拡大』の深刻さをわかっていない」より 東洋経済オンライン2020年6月30日) 

橋本健二/早稲田大学人間科学学術院教授


これも、自明のこと。

 

感染症による差別も報告されている現況において、私たちに何ができるのか。

 

所得再分配を、機動的に行う行政システムの構築が喫緊のテーマではないか。

 

低所得⇒低教育⇒低所得という悪循環=「貧困の罠」を解消するために、いっそのこと、マイナンバーと銀行口座を紐付けて、ベーシックインカムを実験的に導入したらどうなのか。 

ベーシックインカムの導入例


行政システムの信じ難き非効率を是正できるのは間違いない。

 

年金を一気に廃止というのは劇薬過ぎるから、格差問題の最終兵器・ベーシックインカムを導入しながら、少しずつ縮小するというのも一手ではないだろうか。

 

同時に、国際協調を絶対条件として、投機的な金融取引の収益に対する課税・トービン税の導入を提唱する学者もいる。 

トービン税


つらつら、そんなことを考えさせる映画だった。

 

―― それにしても、東京新聞などが報じた「学術会議の任命拒否『もう結論でている』」(岸田首相)、「感染拡大『米軍も要因』地位協定見直しは考えず」(林外相)には、我慢の限界を超えている。

 

特に後者。

 

日米地位協定(新・日米安保条約第6条に基づく)9条 ―― 米国軍人・家族はオールカマーで受け入れ、日本の検疫を受けさせることもできないアンタッチャブルな世界が罷(まか)り通っている。 

クラスターが発生したアメリカ海兵隊基地キャンプ・ハンセン


以上が、米軍基地周辺のコロナ感染拡大に繋がったということ。

 

【因みに、在日米軍の新型コロナウイルスの感染者数が、2022年1月16日段階で6093人

 

これは、地位協定17条1で、「合衆国の軍当局は、合衆国の軍法に服するすべての者に対し、合衆国の法令により与えられたすべての刑事及び懲戒の裁判権を日本国において行使する権利を有する」によって、我が国に刑事裁判権がないことが明記されているのだ。 

日米地位協定:独伊と重大な格差


米国の民主主義を破壊(注)したトランプに代わって、バイデンに代わっても日米地位協定の見直しがないのである。

 

この現実を直視せねばならないと、私は切に思う。

 

(注)2021年1月6日、白人至上主義の極右団体「プラウド・ボーイズ」ら、トランプ支持者の群衆がが起こした「米連邦議会襲撃事件」。 

議会襲撃で海兵隊少佐訴追 米司法省、現役軍人初


(2022年1月)

2 件のコメント:

  1. 以前にご連絡差し上げたメールアドレスにメールをお送りしました。お手数をお掛け致しますが、ご確認頂けますでしょうか?
    zilx〜というアドレスです。よろしくお願い致します。マルチェロヤンニ

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