


1 「その時、思ったのです。これは何かの啓示で、私の行いは誤りであり、金かは返すべきなのだと」
イランの世界遺産・ペルセポリス遺跡があるシラーズの街。
元妻の兄・バーラムからの借金を返済できずに告発され、刑務所に服役しているラヒム。
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ラヒム |
2日間の休暇で出所したラヒムは、婚約者・ファルコンデが拾った金貨を換金し、バーラムに返して自由の身になることを考えている。
ファルコンデ(左) |
早速、ファルコンデと貴金属店へ換金しに行くが、計算してもらうと返済額の半分にも満たず、後ろめたい気持ちもあるラヒムは、そのまま店を出る外になかった。
姉のマリの家に息子のシアヴァシュと共に住んでいるラヒムは、義兄のホセインに協力を求め、バーラムの店へ行く。
ホセイン(右) |
不在のバーラムにホセインが電話を掛けて、3年越しの借金の一部返済について交渉するが、「奴はペテン師だ。もう話すことはない」と相手にされない。
「全額返せたら、こんな屈辱も受けなかった」
「もし俺が小切手を用意できたら、750万トマンを毎月返せるか?」
「働くよ」
「どこで?」
「どこでもだ」
「その言葉を信じるよ」
「刑務所に戻りたくない」
しかし、バーラムが要求する借金の不足分の返済をホセインが小切手を切って肩代わりする案に、姉のマリは「先に仕事を見つけなさい」と難色を示す。
マリ |
マリはラヒムが持っているカバンと金貨を見つけて不審に思ったのだ。
ラヒムはシアヴァシュを吃音矯正の教室へ連れて行き、そこに言語聴覚士として勤めるファルコンデに「後ろめたい」と告白する。
シアヴァシュ |
「神様への祈りが通じて奇跡が起きたはず」と信じるファルコンデは、今さら何を言うのかと呆れる。
「落とし主を探して」
ファルコンデはそう言い放ち、「君も来てくれよ」とラヒムの呼びかけを無視して去っていく。
銀行へ行くと、バッグの落とし主の申し出はなく、銀行の協力を得て、連絡先を刑務所にした張り紙を作り、随所に貼り出していく。
程なくして、落とし主の女性から電話が刑務所に入り、バッグの特徴などを確認したラヒムは姉の家に取りに行くように伝える。
マリの家に来たその女性は涙を流しながら、バッグを失くした経緯を話す。
「自分が外出中に夫や義兄に見つけられて、勝手に使いこまれるかと思うと怖かったんです。私が金貨を持っていたとバレないように、お金に換えるつもりでした…じゅうたん織で一生懸命に稼いで、内緒で貯めたんです。いつか困った時に使えるようにと」
落とし主の女性 |
落とし主の女性はバッグを受け取り、感謝して帰って行った。
ところが、この話が刑務所で美談として取り上げられ、テレビ局や新聞社から取材に来ると言うのだ。
「持ち主を見つけるために、君は休暇を惜しまず使った」とサレプール刑務所長。
困惑するラヒムは、幹部のタヘリに拾ったのは妻であることを告白するが、そのまま話せばいいと言われ、更に、まだ正式な妻ではなく、名前を出せないと事情を話す。
しかしタヘリは取り合わず、金貨を返したのだから問題ないと言い、早速テレビカメラが入り、取材を受けることになる。
「彼は真面目で正義感にあふれ、頼りがいもある実直な男です」とサレプール。
サレプール刑務所長 |
「彼は金銭的な苦労を抱えていましたが、人は欲望より善意を優先することを今回の行動で示しました」とタヘリ。
タヘリ |
テレビが放送され、囚人たちに交じって、インタビュー映像を笑顔で見るタヘリ。
「なぜ刑務所に?」
「新しい商売を始めるために、融資を受けたんです。でも事業のパートナーにお金を持ち逃げされました。そして肩代わりした保証人に訴えられ服役したんです」
ラヘルがバッグを拾った場所を案内し、落とし主を探す張り紙を写し、所長たちはラヘルが如何に刑務所の文化活動に貢献しているかを称える映像が流される。
それを面白く思わない囚人の一人が「うまくダマしたな」と声をかけ、「奴らのケツ拭き役か…シャクリが自殺した件もお前なら暴露できたろ」と嫌味を言われるのだ。
その直後、タヘリが借金問題を解決するために仲介するが、一括返済を求め、今回の美談が「作り話」だと主張するバーラムと話は決裂するが、ラヒムはチャリティ協会に招待され、シアヴァシュと共に登壇する。
協会長のラドメヘルは、「無償の勇気に対する感謝の証しとして、彼に審議会の職を提供したい」との地方審議会からの申し出を紹介し、表彰状を渡す。
ラドメヘル |
「私は金貨を売る誘惑に駆られました。しかし行った店がまずかったんです。店主が金貨の価格を計算しようとした時、計算機が壊れました。取り出したペンもインク切れでした。その時、思ったのです。これは何かの啓示で、私の行いは誤りであり、金貨は返すべきなのだと」
会場でのラヒムのスピーチである。
万雷の拍手が起こった。
今度は息子のシアヴァシュにマイクが向けられる。
「僕は…お願いします。お金をたくさん借金した…お父さんが…刑務所に…戻らなくていいように、今日も持ってきました。僕の…お金…ここに」
吃音症の息子の父への思いが同情を誘い、多額の寄付が集まる。
この会場にはバーラムも来ていて、チャリティで集まった寄付金と仲間のカンパを足して返済することになった。
しかし、バーラムは1億5000万トマンの借金に対して「3400万じゃ話にならん」と言って席を立つ。(因みに、借金額1億5千万トマンは約400万円)
バーラム |
「女性たちだけでなく、囚人たちまで寄付してくれたんですよ。協力を」
「私をペテン師扱いか」
「彼の行いを評価してあげて」
「…過ちを犯さないことが、なぜ評価される?」
「何が不満なんです?」とラヒム。
「その恩知らずな態度だ」
席に戻ったバーラムは納得できない。
険悪なムードとなって、別室に連れ出されたバーレムは、テレビの取材で電話をかけた際に、「彼の行いに感動して釈放させたと言えば、あなたに対する視聴者の印象も良くなる」と言われたバーラムは、甥であるシアヴァシュの為だと同意する。
ラドメヘルから紹介された審議会の人事部長に面接すると、バッグを返した女性の電話番号や住所、バッグを返した証拠など詳しく質問されるが、ラヒムは何も情報を示すことができなかった。
「作り話かもしれないと…SNSなどでウワサが飛び交ってるんですよ」
「お疑いで?」
「私は信じませんが、問題はその内容です。最近刑務所で起きた自殺事件を隠ぺいするために捏造されたと…持ち主やご家族に来てもらってください。その人たちの証言と署名があれば、騒ぐ連中が来ても安心でしょう。やれますか?」
審議会の人事部長 |
「はい」
かくて、「英雄の証明」への重くて艱難なラヒムの旅が開かれていく。
2 「お金は要りません。名誉が守られれば」
家に戻り、マリが携帯の着信番号に電話をかけるが、出たのは女性を運んだタクシーの運転手だった。
ラヒムはシアヴァシュを連れ、その運転手と落ち合って女性が入ったという貴金属店に行き、防犯カメラの映像を携帯で撮り、運転手に女性が降りた場所まで案内してもらう。
落とし主の女性 |
しかし、その近辺で写真を見せながら女を探したが見つからなかった。
ラヒムはテレビ出演のために出かける準備して、シアヴァシュもインタビューに答える練習をし、服を選んでいたが、テレビ局からラヒムに電話が来て中止を伝えられる。
失望するホセイン |
ラヒムは落とし主の女性を見つけるため、刑務所へ行って電話の着信履歴を調べ、2回ともジュース店からと判明した。
「足がつかないように行動してる」とタヘリ。
所長も、既にSNSで拡散されているように、一連の美談が作り話であるとの疑い始めている。
ラヒムはマリと相談し、ファルコンデをバッグを受け取りに来た女性に仕立て上げ、審議委員会の人事担当者と再び面会をする。
ファルコンデはマリが女性に聞いた話と同じことを担当者に語り、その経緯を書くように指示され、出来上がった書面に証言に来た全員が署名をする。
これで解決したと思ったラヒムは、帰るところで担当者に質問する。
「私の仕事はいつ始まりますか?」
「証言を確認してからです…採用基準もありますし、今は当てにしないでください」
ラヒムは苦労して女性を探してきたと食い下がるが、逆に、金貨を拾ったという休暇日より1週間前に、ラヒムが収監中に囚人の携帯からバーラムに借金の返済の用意があると送信したメールを示し、話の時系列が矛盾していることを指摘する。
更に、ファルコンデに金貨を家から持って来るように指示し、夫を巻き込むわけには行かないと訴えても、担当者は夫に自分が説明すると迫る。
ひどい仕打ちだとタクシーの運転手が非難するが、「証明が足りません」と一切取り合おうとしない。
退出を命じられたラヒムは担当者に言い放つ。
「名誉が汚されるなら、こんな仕事はいらない。あんたらの約束破りを世間に言いふらしてやる」
「お好きにどうぞ」
ラヒムはバーラムの元へ行き、審議会にメールを送ったことを質すが、身に覚えがなかった。
「なぜ俺を追い詰めようとする」
「誤解だ」
「電話したろ」
「してない」
「小切手は用意したのに。あんたのせいで、皆が俺を疑い出して、職も逃した」
「あんたの本性が出たのよ」とバーラムの娘。
「黙りなさい。また、お前に振り回されたな」
バーラムは立ち去り、娘がラヒムを非難する。
「疫病神ね」
「運が悪かったんだ。破産した」
「恩のある父をテレビで悪く言ったくせに」
それでもラヒムはバーラムに「同意したはずだ」と食い下がる。
「嫉妬してるのか…皆が俺を称えてる」
「とんだ英雄だな」
「もてはやされて気に食わないんだろ」
「テレビに出たくらいで思い上がるな…おめでたい奴だ。皆は称えるどころか、お前に同情してる。口のきけん息子を大衆の前にさらして、哀れみを誘った。お前にな…」
ラヒムは感情を抑え切れず、バーラムに殴りかかり、警察へ通報される。
男たちに閉じ込められるが、ファルコンデが駆けつけ、バーラムに交渉してラヒムは解放された。
その後、チャリティ協会に呼び出されたラヒムとホセインは、ラドメヘルの携帯に届いたバーラムの店での暴行事件の動画を見せられ、娘の音声が再生される。
「これは私の父の店で今日起きたことです。動画で父を襲っているのは、数日前、テレビに取材され、”金貨袋を持ち主に返した正直者の囚人“として称賛を集めた男です。当初から父は刑務所にも、お金を寄付した人々にも、この美談はデッチ上げだと主張してきました。しかし彼らは耳を貸さなかったのです。彼の恋人らしき女性がこのあと店を訪れ…」
この動画は審議会にも送られ、金貨を落とした女性がファルコンデと露見し、ラヒムは女性が見つからなかったからと嘘を認めざるを得なくなった。
「動画が出回れば、我々の信用は地に落ちます。支援も無くなる。あなたは協会の全員に迷惑をかけたんですよ」
「弁明します…バッグは彼女が拾ったんです」
「彼女って?」
「動画の女性です。刑務所長たちには正直に話しましたが、取り合ってもらえなくて…」
「ダマしたのか」
「なんてことをしたの」
ホセインは動画を消去してもらうためにバーラムに電話をかける。
「今夜、カネと小切手を渡せば、先方は示談に応じると」
「もう彼にお金は渡せません。寄付金は返すか、別の人に贈呈するか、支援者の選択に委ねられます」
「彼への寄付金だ…とにかく、協会全体の責任だ」とホセイン。
結論が出ず、解散となる。
その夜、シアヴァシュがどうしてファルコンデが金貨を渡したかをラヒムに訊ねる。
「お父さんも…再婚するの?」
「お前が嫌ならしない」
シアバシュはラヒムに背を向け泣き出してしまった。
ラヒムは、取材を受ける発端となった経緯を証言してもらいに刑務所へ行く。
「女房と言ったろ」とタヘリ。
「“再婚相手の女性”と言ったはずです」
「なぜ最初から言わなかった」
「あなたが口止めした…テレビの取材を持ち掛けたのはあなたですよ」
双方の言い分が平行線を辿る。
「望みは何だ?」とタヘリ。
「チャリティ協会に行って、私が今、話したことを証言してください」
「自分で言え」とタヘリ。
「信じてくれないんです」
サレプールが最終的な指示を出す。
「今から貸主に、小切手を渡しに行け。ひざをついて謝って、動画を消してもらうんだ。あとは世間が忘れるのを待つ」
「すべてを無かったことにすると?」
「もともとお前もこの件を公にする気はなかったんだろ」とタヘリ。
「嘘つき呼ばわりは我慢できません」
「自業自得だ」とサレプール。
「お前は意外とバカだな」とタヘリ。
「だから刑務所にいる」
結局、話は噛み合わず、サレプール所長が新聞社にラヘルの話は嘘だったと電話するようにタヘリに指示する。
ラヒムは動画を消してもらいにバーラムの店の近くまで行くが、遠くから見るだけで訪ねることはできなかった。
ファルコンデを連れチャリティ協会へ行き、ラドメヘルにラヒムが囚人仲間の携帯から送ったメールを、貸主が協会に転送したことを質すが、ラドメヘルは否定する。
「バッグを返そうと言い出したのは彼なんです。嘘は言ってません」
泣きながら訴えるファルコンデだが、落とし主が見つからない以上、話は進展しない。
ここでラドメヘルは、死刑囚の妻が夫の死刑免除の為に、ラヒムへの寄付金を賠償金の支払いとして譲って欲しいと連日嘆願しに来ていることを話す。
ファルコンデはラヒムへの寄付金だと訴えるが、支援者は既にラヒムへの贈呈に反対しているとも言い添えた。
ラヒムは子供を連れた死刑囚の妻を目視し、きっぱりと言い切った。
死刑囚の妻 |
「お金は要りません。名誉が守られれば」
「では、寄付金はあちらの女性に。動画の件については、私が先方を説得しましょう。約束します」
二人は協会を出たが、ファルコンデだけ戻って、ラドメヘルにラヒムの名誉のために、寄付金を死刑囚のために譲ったと公にして欲しいと申し出たことで、SNSで取り上げてもらうことになった。
ラヒムの乗った車に戻ると、既に動画が出回っている事実を聞かされる。
ファルコンデが家に帰るや、動画を見た兄がラヒムと会うなと怒りをぶつける。
「彼は私のすべてよ。命もささげるわ」
タヘリがラヒムの元にやって来て、チャリティ協会が発表したタヘリが死刑囚に寄付金を譲ったという美談を、またも動画に撮らせてくれと依頼するのだ。
「お前の功績を宣伝するためだ」
「私は無関係だ」
「今回のことで傷ついた名誉を挽回するんだ」
自宅に戻り、タヘリはシアヴァシュに語らせ、動画を撮り始める。
緊張で吃音が酷くなるのを見ていられないラヒムは、撮影の中止を申し出る。
「お前だけでなく、我々も名誉挽回したいんだ」
「私の息子を利用して?」
無言で帰ろうとするタヘリに、動画を消去するように懇願するラヒムは、応じないタヘリと揉み合いになる。
怒ったタヘリは動画を消去して見せ、「明日、話す」と言い残し、去って行った。
覚悟を決め、沈み込むラヒム。
シアヴァシュを連れたラヒムは頭を剃り、刑務所前で待っているファルコンデと会う。
ファルコンデはシアヴァシュにキスし、ラヒムはシアヴァシュを抱き締めて別れを告げ、二人はラヒムを見送るのである。
ラヒムは刑務所の手続きを待っている間、出所する囚人を朧(おぼろ)げに見ている。
名前を呼ばれたラヒムは、再び収監されるのだった。
3 人間の脆弱性を細密に描いた映画の切れ味
善人だが、不都合な状況に囲繞された時、論理的思考・理解力・想像力の欠如の故に美談に仕立てられた挙句、刑務所に逆戻りする道理が通じにくい男に対して特段に感情移入させない構成で、振れ幅の大きい人間心理の機微を精緻に描いたファルハディ流の映像ワールド全開の秀作。

イスラムの本来的な教えに馴染んでいるからなのか、ラヒムの善人性は序盤のシーンで判然とする。
「後ろめたい」と吐露し、ファルコンデが拾った金貨を銀行にまで足を運び、「カバンを失くした人がいましたか?」と尋ね、落とし主がいないと知るや、銀行でコピーしてもらって自ら張り紙を作って貼っていく行為には、その善人性を疑う余地がなかった。
然るに、落とし主探しで休暇を消化したラヒムが刑務所に戻ってから開かれる劇的な変化が、男を変えていく。
刑務所幹部が主導する美談が、自らの意思とは無縁に展開しつつ、その感情が状況に丸ごとインボルブされ、「正直者の囚人」という「英雄」に仮構されていくのだ。
厄介なのは、状況との束の間の蜜月で得た悦楽が膨張し、テレビのインタビューを受け、囚人の自殺があっても「文化活動に熱心な刑務所の宣伝マン」にまで変貌し、遂にはチャリティ協会の出現によって、吃音の我が子シアヴァシュを巻き込む美談に自らを全人格的に投入してしまうのである。

そればかりではない。
「ラヒムより困ってる人は世の中に大勢いる。彼らは何も盗まんが、それは偉いことか?過ちを犯さないことが、なぜ評価される?」と怒りを露わにする、肝心の借金相手のバーラムに対して、「嫉妬してるのか…皆が俺を称えてる」とまで嫌味を言う始末。
多くの場合、上から目線のこの嫌味には、当人の自信の欠如を隠し込まれている。
嫌味を言われた囚人に対しても過剰に反応したことでも分かるように、ラヒムの心の余裕の欠如を感じざるを得ないのである。
もとより、ラヒムの借金は、事業を立ち上げた友人に金を持ち逃げされたことに起因する。
だから、快く思っていなかったであろう、窮状を訴える妹の元夫に対して大金を融通したのである。
「私だって3年前家族だったこの男のために、高利貸しに保証の小切手を渡した。彼が返済不能になった時も、負債と利息は妻の宝石まで売って、私が払った。それが今じゃ、彼が英雄で、私が悪徳債権者か…なぜなら作り話だからだ」
このバーラムの物言いには、察するに余りあるものがある。
ラヒムの性向を論理的に言えば、相手の立場に立って物事を考えられず、自己基準の感情ラインの狭隘な枠で判断し、事態を押し通すタイプの者が陥る脆弱さである。
この脆弱さはラヒムの事態対応能力の欠如を浮き出させるのみ。
事態対応能力の欠如は人間的未熟さと同義になる。
このことは、ラヒムの採用を決定する立場にある審議会の人事部長の完璧なまでの合理的な発問に対して、相手の感情に訴える頓珍漢な反応に終始するラヒムの対応能力の欠如が露わになっていた。
ネットの噂を問われても、ラヒムは「嘘だと?」としか答えられないのだ。
また、バッグを返した証拠を求められても「チャリティ協会からの表彰状だけです」と答えるばかり。
「確認するのは当然のことでしょう」という人事部長の正当な言辞に対して、感情に訴えるラヒムの事態対応能力の致命的な欠如。
だから、関係者の証言と署名を求められ、金貨の落とし主の電話番号、住所を探すことになっった。
要するに、ラヒムには、自らを囲繞する状況に対する問題解決能力が欠如しているのである。
それでもラヒムには譲れないものがある。
社会的人格的価値としての名誉である。
自らの名誉を守らんとするラヒムのカオスと化した時間の旅の重さは、最終的に刑務所に戻るまでの内的行程の重さに収斂されていく。
「世界のあらゆる場所と同じくイランでもソーシャルメディアは人々の生活の中で重要なものです。この現象は、比較的新しいものですが、それ以前の生活がどんなものであったか思い出す事が困難なほど、強い影響力を持っています」
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「英雄の証明」でカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したアスガー・ファルハディ監督 |
アスガー・ファルハディ監督のインタビューでの言葉である。
SNSの問題を扱っているのは事実だが、本篇がこの現代的に厄介な問題をテーマとしているよりも、この類いの外部状況に囲繞されて翻弄される主人公の振れ幅の大きさを描いた物語であると捉えた方が正鵠(せいこく)を射ているだろう。
「彼には嘘をつく理由がある…別れた義妹が求婚されたと知って以来、彼は私にしつこく連絡するんです。示談を持ちかけてきて早く出所したがる。縁談を壊すために…美談をデッチ上げて自分の汚名を晴らし、嫁を取り戻そうとした」
このバーラムの思い込みを含め、終始、合理的且つ、正当な会話を繋いだ審議会の人事部長を除けば、最も罪深い行為に振れた刑務所幹部を筆頭に、全員が少しずつ嘘や瞞着(まんちゃく)、便法を講じ、自分本位に解釈しているのだ。
サレプール刑務所長 |
タヘリ |
少なくともラヒムに限って言えば、人間とはこんなものなのだと私は思う。
人間が状況を作り、その状況が人間を変えてしまうという自縄自縛のトラップ。
それ故、私はラヒムを笑えない。
寧ろ、我が子の尊厳を守ろうとするラヒムの行為に感銘を受ける。
問題解決能力の不足を補って繋ぐ人生の重さは、彼の善人性が抱える内的行程の重さと化し、躓(つまず)きながらも時間の海を泳いでいくだろう。
彼は彼の〈生〉を生きていく外にないのだから。
思えば、工事中の長い階段を上って義兄のホセインの職場訪ねたラヒムが、休む間もなく階段を下りていく冒頭のシーンこそ、あっと言う間に「英雄」に仮構された男が、天から地へ落とされる物語の構図の象徴だったというわけだ。
―― 「彼女が消えた浜辺」で衝撃を受けて以降、「別離」、「ある過去の行方」、「セールスマン」と観てきたが、一人の男を通して人間の脆弱性を細密に描いた本篇の切れ味を見せつけられ、ここでもまた評価すべき言葉が見つからない。
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「彼女が消えた浜辺」より |
(2023年2月)
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