【震えを覚えるようなハネケ映像の大傑作。本稿では、71に断片化し、提示された映像を順繰りに追っていく】
1 無差別乱射事件を起こした大学生 ―― その収束点に集合する人々の断片的行路
「93年12月23日。19歳の大学生マキシミリアン・Bは、ウイン市内の銀行で3人を射殺、直後に頭を打ち抜いて、自殺した」
これは、本篇冒頭のキャプションである。
1993年10月12日。
川を泳ぎ、オーストリアに密入国した少年が、トラックの荷台に乗り込む。
ここで、クレジットタイトルが出る。
一転して画面は明るくなり、中年夫婦の朝の風景。
39度の熱を出した赤ん坊の泣き声に、嗚咽する母親マリア。
ウィーンに潜入した少年は、ゴミ箱で食べ残しを漁っている。
そして、パズルゲームで、ルームメイトとの賭けに負けた大学生マキシミリアン。
次に映像が提示したのは、児童養護施設を訪問したブルンナー夫妻。
「ブルンナーご夫妻です。アンニに会いに」
子供に恵まれないが故に、養子縁組のために訪れたのである。
そのアンニという名の少女は、俯(うつむ)いたままで挨拶に応えない。
一言も発せずに、妻が渡そうとした服を奪うようにして、走って持ち去った。
「すぐには打ち解けません。あれで普通ですよ」
施設の職員の言葉。
戸惑う妻。
先の中年夫婦の夫は、銀行に現金を運ぶ警備員の仕事をしている。
その銀行では、年金受給の老人たちの行列ができていた。
先頭の老人は、受付の女性の父親で、短い会話を交わす。
マキシミリアンが、寮の窓から飛び降り自殺した同僚学生の落下場所を確認する。
ホームレスの少年が雑誌を万引きした。
既に、常習化していた非行犯罪である。
卓球練習マシーンで、繰り返しラケットを振るマキシミリアン。
ハードな練習に顔も歪んでいる。
それが止め処(とめど)なく続くのだ。
武器庫から拳銃を盗んだ男は、盗難事件の車両検問を受けた。
男が、医務班の任務を負う兵士だったことが判然とする。
学食で、ルームメイトとの賭けパズルに負けた学生が支払いを拒否すると、発作的に食器を引っ繰り返すマキシミリアン。
ウィーンに来てもドイツ語が話せないために、誰ともコミュニケーションを取れない少年は、話しかけた男に煙草を貰い、火を点ける。
1993年10月26日のテレビニュース。
10人の犠牲者を出したIRAの爆弾テロ、エールフランス従業員のデモ、トルコに拠点を持つクルド人組織PKKのゲリラ戦略での犠牲者は42人、等々。
その犠牲者たちの悲しみの様子が画面に広がる。
一人の若者が拳銃を盗んだ男にカフェで会い、金を払う。
リボルバー(回転式連発拳銃)を手に入れたのだ。
そのリボルバーは、同僚の学生の手に渡った。
相変わらず、ホームレスの状態を延長する少年は、地下鉄のホームで、線路を挟んだ向こう側でパフォーマンスする少年をトレースしている。
線路の淵を歩く危険な遊びである。
列車に飛び込むパフォーマンスを見せる少年。
一方、リバルバーを手に入れた同僚の学生は、それをマキシミリアンに渡すのだ。
マキシミリアンは拳銃を手に入れたのである。
そこに特別な意図がないようだった。
自分の部屋を見せてもらい、動物園に連れて行かれても、暗い表情のアンニは、引き取られる予定のブルンナー夫妻の家庭に、相変わらず馴染めていない様子。
「お前は言い訳だらけだ。とにかく、前に出すぎだ。球に食らいついていけ」
卓球の試合でミスをしたビデオを繰り返し流され、マキシミリアンはコーチから執拗に叱責される。
そして、年金受給者の老人の娘との電話。
元々、老人が娘に長々と電話(内容は後述)したのは、身の回りのことができなくなった隣の老人が、“施設に入るぐらいなら自殺する”と言って、子供と同居するに至ったという、自らに関わる身の上話を聞いてもらいたかったからだ。
その後も、娘の亭主の昇進を案じたり、孫のシシーを呼び出したりして、延々と話を繋げようとする老人。
「愛してるよ」と夫。
これは、病気の赤ちゃんを持つ、中年夫婦の夕食での会話の端緒である。
「酔ってるの?」
「うん?なぜだい。少し酔ってる」
「一体、何のつもり?狙いは何よ」
「何をよ」
その瞬間、突として、妻の頬を叩く夫。
無言の「間」のあと、妻は夫の左手に優しく添える。
無言のまま、夕食は続く。 (重要な会話なので後述する)
車上荒らしで手に入れたカメラで、凝視する通行人たちを撮っていると、警官の姿が目に入り、迷わず逃走するホームレスの少年。
警官に追いかけられ、少年はカメラを捨て、走り去っていく。
「いつから、あの家(うち)に住めるの?」
夜、施設職員の部屋を訪れ、小声で尋ねるアンニ。
これが、アンニの率直な思いのように見える。
1993年10月30日のテレビニュースは、警察に逮捕された少年のインタビューだった。
テレビは、異国から来た少年に同情的な視線で、少年の置かれた状況の苛酷さを伝えていた。
そのインタビューで明らかになったのは、両親のいない少年が2年前に施設から逃げ出し、ホームレス集団に加わっていたこと。
友達が2人死ぬなど、施設の状況が厳しくなったことで、少年はルーマニアの首都ブカレストから不法入国を決行したのだった。
そのテレビを見ていた養子縁組を望むブルンナー夫妻は、薄幸の少年に対して深く思いを寄せる。
テレビが伝える不法移民の惨状に心を痛めたブルンナー夫人は、思わず嗚咽するのだ。
かくて、不法移民の少年に同情する夫婦が、アンニではなく、少年を養子に迎えることを決めるに至る。
同情的な視線で放送するテレビニュースの影響力の大きさを、観る者に見せつけるシーンだった。
1993年11月17日。
テレビでは、レバノン内戦でのイスラエル空軍の報復爆撃の様子を伝える。
続いて、ジェノサイド罪で被告となった、ユーゴ紛争時の独裁者ミロシェビッチ(当時、セルビア共和国大統領)らの、旧ユーゴユーゴスラビア国際戦犯法廷が開始されたニュース。
相変わらず、賭けに興じるマキシミリアンとルームメイトの二人。
マキシミリアンは実家の母に電話で近況を話し、父親にも宜しくと伝えた。
実家に帰省するようである。
1993年12月23日。
テレビでは戦闘が続く、サラエボのクリスマスの様子を伝える。
続いて伝えられたのは、マイケル・ジャクソンに関するニュース。
「マイケル・ジャクソンが嘘つきかどうか、テレビ出演がファンの話題を呼んでます。加療中だった数週間の沈黙を破り、自宅から生放送で、児童虐待の疑いを否定」
「“罪人扱いしないで”マイケルは涙ながらに無実を訴えました。警察に性器まで取り調べられたそうです。虐待を受けたとする少年が述べた特徴と…」
早朝から、赤ちゃんにミルクを飲ませるマリア。
「行ってくるよ」
「6時過ぎだ」
「じゃあね」
「ああ」
小さな笑みを浮かべるマリア。
公衆電話で、実家に帰省する電車の到着時刻を伝えるマキシミリアン。
不法移民の少年を養子にしたブルンナー夫人は、車を運転しながら、少年にドイツ語の単語を教えていた。
出勤した警備員の男が、いつものように、銀行の金庫に現金の入ったトランクを交換する作業がモニターに映し出される。
その朝、年金受給者の老人が、銀行へ出かける支度をしている。
マキシミリアンは時間を気にしながら、渋滞の道路を外れ、給油所でガソリンを入れている。
移民の子を連れたブルンナー夫人は車を止め、銀行に入り、二人で順番の列に並ぶ。
ガソリン代のクレジット払いが使えず、機械での現金化を不愛想に言われて、苛立った様子のマキシミリアン。
老人が、バスで銀行にやって来た。
現金支払機が取り扱い中止なので、銀行を覗くマキシミリアン。
「300シリングくれないか」
マキシミリアンは、銀行窓口の男性に矢庭に声をかけた。
「お並びください」
「支払い機がダメで、車は給油所なんだ」
そう訴えたと同時に、その後ろで待っていた男が、マキシミリアンの体を荒っぽく押しのけた。
「並べよ!」
更に男は、マキシミリアンの体を壁の方に追いやり、暴力的に押し倒したのだ。
「出ましょう」
列に並んでいた少年を連れたブルンナー夫人は、そこから離れ、少年を車で待たせた後、銀行に戻った。
銀行を出たマキシミリアンは、一旦、車に戻り、気持ちを落ち着かせようとする。
そこに警備員が銀行窓口に現金のトランクを持ってやって来て、係の者からサインをもらう。
重なり合った躓(つまず)きの連射。
今や実家に帰省できず、身動きが取れなくなったマキシミリアン。
想定外の行動が、瞬時に惹起する。
車から外に出て、銀行に入ったマキシミリアンが、俄(にわか)に、リボルバーで客に向かって無差別に乱射したのだ。
銀行を出て、クラクションを鳴らす車に発砲しながら、通りを渡るマキシミリアン。
自家用車に戻るや、一発の銃声が鳴り響く。
斃れた警備員の体から、どす黒い血が床に広がっていく。
車の中に置き去りにされた少年もまた、養母を喪ったのである。
ニュースは、この事件の様子を実況中継する。
「惨劇の跡も生々しく、遺体が運び出されています。警察は血に染まった銀行内で、動機解明の手がかりを捜索中です。犯人はすでに自殺しています。行内で発砲した後、走って通りを渡り、給油所の車に戻って、頭を撃ち抜きました。犯人は19歳の大学生、マキシミリアン・B。犯行の動機は全く不明です。明らかに銀行襲撃が目的ではなく、犯人と最後に話した一人、給油所の従業員は、“さっぱり、わからねえ。イカれてるよ”とコメント。クリスマスを前に、街は異常な行為に震撼しています」
別のテレビニュース。
「今日、ブリュッセルでは、ボスニア和平案が頓挫しました。話し合いは午後、物別れに終わりました。ボスニア軍の兵士が、国連軍兵士を略取。クリスマス停戦も、両陣営にとっては無効状態です」
反復するラストのニュース映像。
サラエボのクリスマスの様子を伝えた、先述したニュースがリピートされる。
再び流される、マイケル・ジャクソンのテレビニュース。
彼の話の真偽を伝える報道の断片的切り取りもまた、犯人が愉悦していたパズルのピース(断片)を組み合わせるゲームと観念的に同義である。
かくて、マキシミリアンが犯した犯罪は相対化されるに至ったのだ。
2 断片でなければ、現実は理解できない。断片からでなければ、現実は理解できない
ハネケ監督の言葉である。
“かっこ付きの社会”とは、前2作に共通する「コミュニケーションの不可能性」というテーマが、「現代社会」の深奥部にまで広がりを見せる「危うさに満ちたリスキーな社会」である。
「危うさに満ちたリスキーな社会」の本質は、「現実は断片」であり、「断片でなければ、現実は理解できない。断片からでなければ、現実は理解できない」からである。
現実社会の「アクチュアリティ」(現在性)と、そこに呼吸を繋ぐ個々人の生身の行動を断片で切り取り、理解し、それを「社会」・「世界」として受け入れ、認知する。
「社会」・「世界」として受け入れ、認知すれば、少なくとも、自我を安寧に導くことが可能になる。
だから、ここでもまた、「自分が見たものが全て」というトラップに嵌るが、自我を安寧の時間に誘導できるので、その時間の縁(へり)から不必要な情報を断ち截(き)り、観念的に無化できる。
自分が手に入れた情報の真贋性(しんがんせい)を見分ける能力の優劣が勝負を分けるが、その能力の高低の差を希釈化する情報のアナーキーな氾濫が、事態を収束させる手立ての一切を削り取ってしまうのである。
既に廃棄されたジャンク情報も、怒涛のように侵入してくるので、それを処理する私たちの能力が追いつけない状況の、厄介なる不合理の極み。
これが、情報社会に呼吸を繋ぐ私たちの、極めて難儀な問題であるだろう。
増水した本流の流れに堰(せ)き止められ、出口を失った支流が決壊する「バックウォーター現象」のように、常軌を逸して猛(たけ)り狂う情報氾濫の破壊力に、私たちは何もできない。
形状が不規則な塊(かたまり)と化した情報群に立ち向かい、知的に解析し、処理する過程が困難になっていくので、私たちの情報処理は、「単純化」と「感覚的処理」の傾向を弥増(いやま)さざるを得ないのである。
物事を「単純化」し、事態を「感覚的処理」によって、短時間で状況を読み解き、分ったつもりになる。
分ったつもりになれば、本人基準で自己完結する。
分ったつもりになること。
それで充分なのだ。
「社会」・「世界」を説明できる心境に達するだけで充分なのである。
怪しげな陰謀論に身を寄せることも一向に構わない。
「スキゾタイピー」(陰謀論を信じやすい気質)か否か。
こんな議論は知ったことではないのだ。
「確信幻想」を手に入れ、観念系が強化されて得られる心地良き感情。
もう、それだけで充分なのである。
これは快楽である。
不安を除去できるからである。
不安の除去は、ある種の「快楽」となる。
だから、有無を言わさず、切り取られて侵入してくる断片的情報を、社会の「アクチュアリティ」として受け入れ、認知する.
「連日連夜、爆弾による攻撃が続いています。ハンカチを白旗のように掲げた難民の列です。難民の数は依然として10万を越えています。ソマリアの和平交渉は難航の見通し。二つの反対グループのリーダーがアジスアベバ講和会議への不参加を表明しました。休戦合意以来、初めて国連支部への攻撃が行われました。空からは米空軍が大統領の作業実行に苦慮しています。頭上を軍用機が飛び交い、街は戦火に包まれています。心理戦も盛んです。米国人とソマリア人が握手している写真の裏には、”反政府軍は平和の敵”。重装備の米軍戦車や、軍用ヘリを前に、ソマリア人がこれを信じるかどうか。反対派のアリ・マハディは、米大統領の声明を要求。。“部族の武装解除が先決”と述べました。一方、米国側は、早期撤退を目指しています」
この後、ハイチにおける、軍事政権によるジェノサイドに対する米国主体の国連軍の攻勢のニュースを、テレビが伝えるシーンが流れる。
これは、映画の冒頭に流されるテレビニュースの一例である。
家で寛(くつろ)ぎながら観る者は、この断片的情報のみで「世界」を理解する。
「ああ、アフリカやラテンアメリカは大変なことになっているな」
これで自己完結する。
映画の事例を出してみる。
「オーストリアの出来事で、この子と同じ年の少年が、オーストリアに密入国した。一人で国境を超え、誰かに発見された。それを記者たちが報道して、結局、事態は好転した。その子には大宣伝になったわけだ。政府のお偉方は認めざるを得なくなったんだ。少年が養子になり、国内に留まることを。だが、密入国して送還される何百人もの子供たちのことは語れない。この事件が映画のきっかけだ。マスコミ中が騒ぎたてたその少年の物語が」
これも、ハネケ監督の言葉である。
更に続ける。
「少年の人生はそれほど快適じゃない。少なくとも、あの社会に流れ着いて彼が学んだのは、そこは“美”があるということ。偽りの映像が。彼は当然、『社会』に適応しようとする。そこに参加しようとする。その素晴らしき嘘に。(笑いながら身振りしながら)」
実際、少年がテレビのインタビューで吐露した「素晴らしき嘘」に感動し、嗚咽すら洩らしたブルンナー夫人は、アンニに申し訳ないと思いつつも、少年を養子にすることを決めたのである。
そこで映像提示された断片的情報のみで言えば、自分の部屋の様子に強い関心を示したアンニの方が、養子になることを希求しているように思える。
成人との接触が限定的な少女は、単にシャイなだけなのかも知れないのだ。
無論、この私の見方もまた、映像提示された断片的情報のトラップに嵌っているかも知れないのである。
「動物園で、オットセイに餌をあげるのを見物している養女に迎える予定の娘に、手を回す養母の手を払う」
ハネケ監督は、このように説明した後、ドラマツルギーの隘路に言及した。
「ドラマツルギーでとして、人は、明晰な一つの方法を見つけたがる。人はある状況で正確に語るが、そんな典型な状況などあり得ない。指さして“見ろ、これだ”というような状況は。それは“エクリチュール”(書き言葉のこと)の文学の仕事だ」
相当に説得力のある指摘である。
このように、個々人の生身の行動を断片で切り取り、理解する内実においても、「自分が見たものが全て」というトラップに嵌る危うさに満ちているということだ。
映画の中で印象深い事例を、ハネケ監督は提示した。
「何て?」
「何だよ」
「ごめん、今なんて?」
「謝るには及ばん。元気だと言っただけさ」
「9372シリング40になります…忙しいの、パパ。夜に電話ちょうだい」
「わかったよ、それじゃ、お邪魔さま」
これは、年金受給者の老人と、銀行で働く娘との会話の一端である。
この会話の延長上に提示されたのは、件(くだん)の老人が娘に電話する長回しのシーン。
以下、老人の言い分の過半を再現してみる。
「ああ、分かってるよ。そういうことなら、お前にとって、お荷物なのは承知してるさ。いいんだ、いいんだ。自分でも、よく分かってるんだから。逆の立場だったら、私だってそう思うさ。ああ、分かったよ。なぜだ?さっさと言わないと、電話代の無駄だぞ。一日、何をしてるか話そうか。それじゃあ。うん、私もそう思う…そう、爺さんは拗(す)ねているのさ。それで自然だろうが、それなら好きにしろ。私の知ったことじゃない。ああ、悪かったよ…黙っていれば、“冷たい”、何か言えば、“干渉”だ。どうすりゃ、いい?生きてて悪かったな」
「お前も私のようになれば分かる・・・もう一度シシーを。ほんのちょっとだけだ。一家団欒を邪魔はせんよ…」
これも、その一部。
「彼は話し始め、今度は別の話に移り、また前の話に戻る」(監督)という反復的台詞の洪水に、演じた俳優のみではなく、観る者も疲弊する。
これも個人の生身の行動の断片的情報だが、観る者は、老人の〈生〉の軌跡など知る由もないにも拘らず、これだけで老人の〈生〉の全体像を理解するだろう。
もっと興味深い例もある。
警備員の仕事を本業にする中年夫婦の会話が、それである。
「どうしたのよ。酔ってるの?」
「うん?なぜだい…少し酔ってる」
「一体、何のつもり?急に“愛してる”だなんて変だわ。狙いは何よ」
「何をよ」
一瞬の間、夫が突然、妻の頬を叩く。
驚いた妻は、一瞬、席を外そうとするが、そこに留まる。
如何にも、ドイツ系の会話だなと、観る者は考えなかっただろうか。
無論、決めつけ論法である。
以下、ハネケ監督の説明である。
非常に観念的な表現だが、言いたいことは分かる。
「描き出される世界は暗い」が、「観客に神秘への希求をかき立てる」描写があった。
この中年夫が、神に祈るシーンである。
朝早く、彼は寝床から起きて来て、バスルームでひたすら祈る。
「主よ。幼い我が子を、お守りください。私もお守りください。マリアの心が晴れ、私も良い人間になれますように。病気からお守りください。次の世代で第三次大戦や核戦争が起きませんように。苦しみのない世界を。アーメン」
夫婦それ自身と、その化身であると信じる赤ちゃんの救済を希求するこの描写の挿入こそ、ハネケ監督の言う、「現実を解き放った空間の中で精神は具現化される」という、個と、それを包括する世界の安寧への祈りをシンボライズさせるシーンであるだろう。
このシーンなしに、先の夫婦の会話はあり得ない。
粗筋でも書いたが、驚いた妻は、一瞬、席を外し、そこに留まるが、その際、自分の頬を叩いた夫の手に、自らの手を添えたのである。
断片的情報の提示であっても、中年夫婦の苦悩と希求の有りようが垣間見える描写であった。
そして、観る者に鮮烈な印象を残す、長回しによる有名な卓球のシーン。
ハネケ監督は、こう語っている。
「例えば卓球のシーンだ。あの場面が情報として撮られてるのなら、“青年が卓球をしている。1分続くが、終わり”だ。違う。場面はそれが持つ長さだけ続くのだ。それによって人は別のことを理解する。構造の秘密とは長さだ。長さを見つけ出すこと。想像しながら。私が観客ならこれを見て、どう反応するだろうかと。
卓球のシーンの解説 |
私は卓球のシーンを見ている。そして言う。“もう分かった”普通なら次のシーンだ。最初は楽しんで、そのうち腹が立つ。次に飽きてくる。私は言う。“先に進もう”そして、ある瞬間、見つめ始める。それから呼吸するのだ。シーンはそれが持つ長さだけ続く。難しいのはその長さだ。この長回しでも、別の作品の別のシーンでも同じこと。それが秘密。音楽的な問題だ」
長回しによって、観る者に、「なぜ?」と考えさせる。
先述した、年金受給者の老人が電話する長回しと同様に、いつまでも続くようなシーンを執拗に見せつけられて、観る者は作り手の意図について考えざるを得なくなる。
「ある瞬間、見つめ始める。それから呼吸する」という監督の思いを通底するのは、観る者が主体化し、映像総体に侵入することで、断片的情報の提示で構成される物語が問う、問題意識の共有であると 私は考えている。
この問題意識は、「金を賭け、紙のパズルが時間内にできない友人が金を要求され、その紙を千切る。4人の仲間のうち、突然、立ち上がって、テーブルの食事を撥(は)ね退ける犯人。『ごめん』」(監督の言葉)という流れの中で、一定程度、理解可能になる。
これは、冒頭で明かされていた射殺事件の犯人、19歳の大学生マキシミリアンの特徴的な行動傾向を示す事例だが、卓球部のコーチから試合の敗因を指摘され、その度に弁明するマキシミリアンの態度は、ミスを言い訳して誤魔化すという、社会心理学で言う「防衛的自己呈示」であると言っていい。
「弁解」・「正当化」・「謝罪」。
これが「防衛的自己呈示」である。
また、事件に至る経緯をフォローしていくと、マキシミリアンの心理傾向には、犯罪心理学で言われる、犯罪者に往々にして見られる「低自己統制尺度」(自己統制能力の低さ)が染み付いているようにも思われる。
然るに、この分析も、映像提示された断片的情報のみで解釈した内実でしかなく、観る者は、この程度の情報で、彼の「全体」を理解し、受け入れることで、分ったつもりになる。
それにも拘らず、私たちは「断片でなければ、現実は理解できない」(監督の言葉)のだ。
断片からでなければ、現実は理解できないのである。
高度に進化させた人間社会の、その途轍もなく複合的で、多岐にわたって絡み合った関係構図を、言語で説明し切るには無理があると言わざるを得ない。
「映画は“全体”だと言われる。ある人物はこうだと。そうじゃない、こうでもあり得る、こうでもあり、こうでもない。矛盾がある。それが人生の豊かさであり、作品のイラつくところだ。
人は作品の中で答えを与えられることに慣れているが、人生で答えが分かることなど決してない。こうだろうと想像できても、その想像は全く違っている」
ハネケ監督の言葉である。
「君の作品にしばしば描かれるのは、社会の重圧、そこに生きる人間。幸福はやって来ず、もし来ても、とても密やかだ。(ハネケ笑う。同意する)罪悪感があり、重いテーマが…君は普通には描かない」
「そうだ、それはとても単純な手法で、暴力を描写しなければしないほど、ずっと暴力そのものを感じるのに似ている。そして、美と優雅さも…まあ好きに呼んでいいが、直接、描写しないことで、もっとそのものを感じることができる。それらが存在するのは…この場合、それを形而上学的と言ってもいい。思うに、もし今日私がそれを…“美”を描こうとするなら、たちどころに嘘になる。唯一、それを描写しないことで、観客の反応を引き出すことができる」
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描き出さなかったことで、暴力に怯(おび)える心理を精緻に表現する。
「直接、描写しないことで、もっと、そのものを感じることができる」のである。
以下、「悪」に反抗すべき役割こそが芸術であると言明する、ハネケ監督の主張を引用し、本稿を閉じたい。
「例えば今、ある神学の大学が、私に関する2冊目の本を出す。彼らには私の映画が、神学的に興味深いからだ。(笑)それが偶然だとは思わない。だが宗教とは?私はカトリックでもなければ、信者でもない。だが勿論、私の映画は、よりよい世界への希求を表現している。当然のことだ。もし現世に満足なら、芸術は少なくとも、演劇芸術は決して今の状態に満足していなかった。当然だ。偽りに対して常に反抗すべきだ。悪や全てに対して。
では、映画は如何に反抗し、それをどう示すか?欲望をかき立てるのだよ。“別のもの”への。“消耗品”にはしない。悪であれ、暴力であれ、何であっても。一般にメジャー映画がそれをする。世界の最も嫌悪すべき側面であっても、消費しやすくなる
(略)“メジャー映画”だけだよ。何もかも分かっていると言い張るのは。うんざりだね。20世紀の文学においても、少なくとも、20世紀後半には、全体を知っていると主張してものを書く作家はもはや存在していない。
誠実に物語れるのは、断片においてだけだ。小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く。個人の体験に基づいて考える可能性を。つまり、観客を挑発するのだ。感情や思考の機械を回転させる。始動させるのだ。
音楽には一つの主題があり、対立する主題がある。それが音楽の構造だ。その構造によってソナタの世界が開けていく。それと同じだ。ドラマツルギーを持つ作品。もちろん心理的背景も観客はどう反応するか?映画を作るときは、常に観客の反応を意識すべきだ。私は誰もがよく知っている断片を描きたい。知っていることと、理解することは別物だ」
【参照・引用資料】
「ミヒャエル・ハネケ セルジュ・トゥビアナ対談」のインタビュー記事(「71フラグメンツ」のDVDに収録) 心の風景「『自分が見たものが全て』という、視界限定の狭隘さ」
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