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2020年3月2日月曜日

万引き家族('18)   是枝裕和




公式サイトより/柴田家の面々

<「負の記号」を集合させて構築した「疑似家族」の「延命」を犯罪で繋いでいく



今回は、詳細な粗筋は省略する。

以下、「疑似家族」を構成する登場人物の紹介。(ウィキ参照)
『万引き家族』の相関図https://fp-ura.com/mannbikikazoku/


柴田治(リリー・フランキー)本作の主人公である東京の下町に暮らす日雇い労働者。


柴田信代(安藤サクラ)治の年若い妻。クリーニング店工場のパート従業員。


柴田亜紀(松岡茉優)信代の妹。JK見学店に勤務し「さやか」という源氏名を使用している。


柴田祥太(城桧吏)治の息子。学校には通っておらず治とタッグを組んで万引きをしている。


ゆり(りん、北条じゅり)治が柴田家に連れて帰ってきたネグレクトを受けている少女。


柴田初枝(樹木希林)治の母。年金受給者であり、夫とはすでに離婚している。





1  寒風吹き荒ぶ極寒の季節を抜けていく





「殺さなかったら、二人ともやられていた」

「殺さなかったら、二人ともやられていた」

担当刑事から痴情の縺(もつ)れと言われたが、取り調べの尋問での、信代のこの言葉を信じるなら、その詳細な関係性の事情が不分明だが、治の手を借りてDV夫を殺害したことで、治と信代が夫婦になり、治の出所後(信代は執行猶予付きの有罪だった可能性がある)、どこかで店を開いて身過ぎ世過ぎを繋いでいたかも知れない。

この「訳あり夫婦」の中に、夫に捨てられ、「独居老人」になっていた初枝が加わっていく。

初枝

手ひどい目に遭った孤独な初枝に、「家族」を持つことへの願望があったと思われる。

「おばあちゃんが一緒に暮らそうと言ってくれた」


亜紀
これは亜紀の言葉。

「捨てたんじゃない。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです。捨てた人っていうのは、他にいるんじゃないんですか?」

「捨てたんじゃない。拾ったんです」

初枝の死体遺棄罪(刑法190条・3年以下の懲役)で逮捕され、単独犯行を主張する信代は、こんな風にも釈明していた。

これは、亭主に捨てられた初枝との共存が具現した事情を、信代なりの言い回しで言語化したもの。

いずれにせよ、ここに「疑似家族」のルーツを見ることができる。

「夫婦の店」については、治の一言に言及されているのみで、これも詳細不分明だが、少なくとも、治の車上荒らしの窃盗犯罪は、生活費の補填として、常習的に行われていたと思われる。

初枝の年金目的の「疑似家族」の形成だろうが、その年金11万6千円を充てにしていても、生計を立てるには十全ではなかった。

また、初枝には、「へそくり」としての「慰謝料」があった。

自分を捨てた元夫の月命日の供養ついでに、血縁のない柴田譲(元夫と後妻との間の子)から3万円程度の金銭(合計15万)を受け取っていた。

月命日の供養
柴田家で
「慰謝料」を受け取る初枝
初枝と亜紀
亜紀を可愛がる初枝

そして、柴田家の長女・亜紀が家出(?)し、その亜紀を初枝は孫として可愛いがっている。

当然、亜紀との血縁がない。

その亜紀が、自分の夫を奪った家族(亜紀の父である柴田譲)から、祖母の初枝が金銭を受け取っていた事情を知らなかった。

聾唖の青年(或いは、吃音症)「4番さん」を常連客にして、風俗で働く亜紀だけが万引きと無縁であったが、両親の愛を妹さやかに独占されたという思いが強く、その感情が初枝に向かったのは必然的だった。

風俗で働く亜紀
「4番さん」

その初枝が金銭目的で自分を利用していたのかと考えた時、何かが崩れた。

崩れたのは、「疑似家族」という幻想である。

亜紀

しかし、これは刑事から意味ありげに伝えられた情報で、それによると、亜紀への「養育費」として柴田譲が初枝に渡していたことになるが、柴田夫婦との会話をフォローする限り、「養育費」=「慰謝料」という説明には無理がある。

警察官の任務の本質は、紛れもない犯罪者である信代を検察官に送検することにあると同時に、当該事件では、「疑似家族」の解体にあるので、児童にはポジティブな情報(施設に行けば学校に通える、両親のもとに戻れば幸せになれる)を流す一方、大人にはネガティブな情報(「あなたが産めなくて辛いのは、分るけどね。羨ましかった?だから、誘拐したの?」)を垂れ流し、「疑似家族」の愛情関係の存在性を破壊すること。

これに尽きると思われる。

「施設に行けば学校に通えるよ」
「両親のもとに戻れば幸せになれるのよ」

更に言えば、警察は信代の単独犯罪でない事実を確信(?)していたにも拘らず、事件を単独犯として処理したのは、児童を証人として出廷させるために調書を作り、裁判でその調書の開示を求められるので、検察官が調書の証拠採用に同意しないと判断したからだろう。

児童を証人にするのは、多くのリスクを伴うのである。

児童の証人尋問の難しさ。

これは、検察官にとって、相当、難儀なことなのだろう。

翔太

―― 批評含みの梗概(こうがい)をフォローしていく。

亜紀の参加によって、「疑似家族」は4人になった。

(時系列で言えば、映画を観る限り、翔太の方が早かったと推定できる)

その前後は不明だが、治の車上荒らしは、思いがけない副産物を生む。

祥太の「連れ去り」である。

これは、拘置所から祥太を呼び出した際に、信代がはっきりと語っている。

「あんた拾ったのはね、松戸のパチンコ屋。車は赤のヴィッツ」

「あんた拾ったのはね、松戸のパチンコ屋。車は赤のヴィッツ。ナンバーは習志野。その気になれば、ほんもんのお父ちゃんとお母ちゃん、見つかるから」
「お前、そんなこと言うために、翔太連れて来いって言ったのかよ」

これは、一貫して、「空気」=「状況」を読む能力が欠如した治の物言い。

「お前、そんなこと言うために、翔太連れて来いって言ったのかよ」

「そうだよ。もう、分ったでしょ。うちらじゃ、ダメなんだよ。この子には」

映画の中で、極めて重要なセリフである。

翔太
拘置所からの「父子」の帰路

警察が望む、「疑似家族」の解体を手ずから表現しているのだ。

それは、後述するが、初枝の死後、次々に現出する「疑似家族」の矛盾を感じた翔太の変容によって、「疑似家族」の基盤は、とうに空洞化し、実効性を失っていた。

パチンコに興じるために、我が子を車内に置き去りにして病死させる親のニュースは、度々メディアに取り上げられるが、幼い翔太もまた、ネグレクトという負の記号を被されていたのである。

この翔太が加わることで、「疑似家族」の世帯は5人となる。

そして、この家族は経済的余裕がないのに、6人目を加えることになる。

アパートから耳に入る怒鳴り声。

団地の外廊下で、冬の寒さで震えていた一人の幼女を見るに見かねて、治が連れて帰ったのだ。


幼女を柴田家に連れ帰って来た治は、嬉々として幼女の相手になる

「産みたくて産んだんじゃない」

夕食後、治と信代が幼女を自宅へ届けようとするが、家の中から聞こえた絶対禁句の声を耳にして、二人は自宅へ連れ戻す。
治と信代

「誘拐だよ、どう見ても」と亜紀。

無論、正論である。

亜紀
幼女を連れ戻して、団欒の一時を過ごす

以下、初枝と信代が交わした重要な会話。

「監禁も身代金も要求してないし。選ばれたのかなぁ、あたしたち」

信代の感懐である。

信代と初枝

「親は選べないからね、普通は」と初枝。
「でもさ、自分で選んだ方が強いんじゃない?」と信代。
「何が?」
「何がって絆、絆」

信代の言葉に、力が入る。

「私は、あんたを選んだんだよ」

初枝の言葉にも、力が入る。

この二人の会話には、「パンと情緒の共同体」としての現代家族の様態が、譬(たと)え「疑似家族」であったとしても、「絆」=「情緒」があるから「優しさの連帯」を可能にしたのだという含みがある。

特に信代には、血縁がなくとも「母」になることができるという思いが強い。

治が連れて帰って来た幼女に「ゆり」という名を与えることで、ネグレクトという負の記号を観念的に無化する信代は、「ゆり」への愛情を存分に注いでいく。



自らもまた、ネグレクトされた過去を持つ信代は今、目に涙を滲ませながら、「そして母になる」をトレースするのだ。

「叩かれるのはね、りんが悪いからじゃないんだよ。好きだから叩くんだよなんてのはね、嘘なの。好きだったらね、こうやってやる」

そう言って、りんを思い切り抱き締める信代。



「疑似母」の涙を拭(ぬぐ)うりん。

事件発覚後、りんが被弾したネグレクトの傷を見て、同様にネグレクトされた傷を見せる信代 


かくて、6人で構成される「疑似家族」は、寒風吹き荒(すさ)ぶ極寒の季節を抜けていく。





2  「母」になろうとして、幼女を抱擁し、存分の愛情を注いだ女の究極の自問自答





日雇い労働の仕事現場で、脚を骨折した治に労災が降りなかったばかりか、信代もまた、勤務するクリーニング工場の不況で解雇の憂き目に遭う。

治の日雇い労働の仕事現場
の日雇い労働の仕事現場(左端が治)
脚を骨折して、同僚に担がれて帰宅する治
クリーニング工場で働く信代

信代の場合、自給の高い二人のうち、ベテランの同僚と自分のいずれかが馘首(かくしゅ)されるというシビアな状況下で、件(くだん)の同僚の恫喝によって、否が応にも、信代が辞職するに至るという経緯を持つ。

信代を恫喝する同僚
「話したら殺す」と言い放って職務を諦念する信代

既に、メディアを介し、「ゆりの誘拐事件」の発覚の渦中にあって、ゆりと一緒にいる現場を目撃されたこと。

これが、同僚の恫喝の内実。

世俗の異臭全開のエピソードである。

事件の発覚で、「りん」という名に変えて、髪を切る
試着室で水着などを万引きする信代と初枝
パチンコ屋で店のパチンコを盗む初枝
盗みを見られた客に対して
無職になってゴロ寝する治

この辺りから、「疑似家族」を囲繞する風景に、微妙な変化が生まれていく。

「おい!これ、やる。妹にはさせんなよ」

駄菓子屋の店主が、翔太に言い放った言葉である。

「妹にはさせんなよ」

万引きの常連と化していた駄菓子屋で被弾したこのシーンは、翔太を変容させていくターニングポイントとなる。

海へ
「父」になりたい男と、「父」と呼べない少年
そして、浜辺を占有し、5人で燥(はしゃ)ぐ盛夏が一気に開かれる。

盛夏の只中で、「疑似家族」は決定的な危機に遭遇する。

初枝の死である。

「ありがとうございました」と呟く初枝。

浜辺で燥ぐ5人を見ながら呟くこの言葉は、初枝のダイイングメッセージであると言っていい。

しかし、葬式ができない。

葬儀費用の問題もあるが、役所に知られることを回避せねばならなかった。

年金受給が不可能になるからだ。

だから、年金受給詐欺に振れていく。

柴田家の床下に埋められる初枝の遺体。

初枝の遺体の髪を梳(す)く
遺体処理を手伝う祥太

「ばあちゃんは、最初からいなかった。俺たちは5人家族だ。いいな」

治が翔太に言い放った言葉である。

「万引きは?」

翔太が信代に尋ねた。

「万引きは?」

「父ちゃんは、何て言ってる?」
「お店に置いてあるものは、まだ誰のものでもないって」
「店が潰れなければ、いいんじゃない?」

それだけだった。

かくて、慰謝料15万を手に入れ、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する夫婦。

それを視認する翔太。


翔太の内側で、何かが壊れていく。

「ねえ、これは人の物じゃないの?」

車上荒らしに疑問を持つ翔太は、治に尋ねたが、明瞭な答えがなかった。


だから、車上荒らしに協力しない。

「万引き」=「店の物は誰の者でもない」という、無理筋で合理化されていた観念が瓦解するのだ。

車上荒らし後、二人で逃げる途中、翔太は治に尋ねた。

「僕の時はさ、助けてくれた時、あの時も何か盗もうとしてたの?」
「あの時は、お前を助けようとしてたんだよ」

事実であるだろう。

治も信代も、愛情欠損の家庭で育ったが故に、ネグレクトされている子供を見殺しにできない性格を備えている。

その言辞に反応できない翔太は、自らを変革させる大胆な行動に打って出た。

スーパーでみかんを万引きして捕まりそうになり、高所から飛び降りるのだ。

誘拐事件の発覚で、りんという名に変えたゆりが万引きする現場を視認した翔太は、自らが囮(おとり)になることで、りんを救済する。

万引きのサインを出すりん
逃走する祥太

駄菓子屋の店主の言葉が、翔太の内側で息づいているのである。

しかし、それだけではなかった。

「疑似家族」の解体。

これが、最も重要なモチーフだった。

かくて、警察に捕まり、病院に入院した翔太を置き去りにして、家から逃走しようとした4人が逮捕されることになる。

逃走できず、逮捕される

呆気なかった。

「疑似家族」の解体によって、何もかも露わになっていく。

冒頭で言及した殺人事件の実態の悍(おぞ)ましさ。

子供に万引きさせる柴田家のネガティブな情景。

子供に万引きさせた理由を問われた時の治の釈明は、国語力の欠如を露呈するが、本質を衝き過ぎていて、観る者を驚かすに充分すぎた。

「俺、他に教えられることが、何にもないんです」

こう、言ったのだ。

「万引き家族」のルーツは、「疑似家族」の形成以前からの延長線上にあったが、車上荒らしの際での翔太の取り込み(救済)を起点に開かれていくことが判然とする。

さすがに、翔太に自分の名前を付けた理由を問われた時の治は、答える術(すべ)を持ち得なかった。

答えられず、沈黙する

翔太との父子関係の濃度を高め、「疑似家族」の幻想を希釈させる願望の強さが、この男の根柢に張り付いているのだ。

だからと言って、「万引き家族」の本格的な立ち上げのためだけに翔太を取り込んだわけではなかった。

退院後、6人の子供たちと一緒に暮らす施設に送られる翔太。

そこから学校に通うことを、担当刑事から知らされる。

「家で勉強できない奴が学校へ行くんじゃないの?」

翔太の反応には、特段の毒がない。

少年なりに、自学自習の習慣が根付いているのである。



そして、実家に戻され、「北条じゅり」という本名を復元させても、ネグレクト状態から解放されない「りん」。

実家に戻された「りん」の幸福を告げる女性刑事に、信代は反駁(はんばく)する。

「そんなこと言わない、あの子は」
「子供にはね、母親が必要なんですよ」
「母親がそう思いたいだけでしょ。産んだらみんな、母親になるの?」
「でも、産まなきゃ、なれないでしょ。あなたが産めなくて辛いのは、分るけどね。羨ましかった?だから、誘拐したの?」
「そうね、憎かったかもね、母親が」
「子供二人は、あなたのこと、何て呼んでました?ママ?お母さん?」


刑事の挑発的言辞に応えられず、涙を滲(にじ)ませる信代。

「何だろね…何だろうね」

この反応こそ、「母」になろうとして、幼女を抱擁し、存分の愛情を注いだ女の究極の自問自答であった。

印象深いラストシーン。

独り身になった治の部屋に泊まった翔太は、拘泥し続けていた疑問を治に問う。

「ねえ、僕を置いて逃げようとしたの?」
「ああ、した。その前に捕まってしまったけど」
「そっか」
「ごめんな」
「うん」
「父ちゃんさ、おじさんに戻るよ」
「うん」

短い会話だったが、翔太の中で合点がいったのだろう。

したり顔で状況を煙に巻くスキルが決定的に欠けていて、常に本音を吐露する治の性格を知り尽くしているのだ。

その翌日。

バス停の前で、翔太もまた、本音を吐露する。

「わざと捕まった。僕はわざと捕まったんだ」
「そっか」

どこまでも、本音で生きる治の性格が露わになっている。

一生、変わり得ない男のピュアな性向は、そのまま、ピュアな翔太の心の内奥に届いたのだ。


「お・と・う・さ・ん」と呟いているように見える

【ラストでの、車を追いかける「感傷系映画」の定番シーンは、いい加減に止めた方がいいと思う】





3  「負の記号」を集合させて構築した「疑似家族」の「延命」を犯罪で繋いでいく







ネグレクト・愛情欠損を被弾した者たちが「家族」を作れば、「負のチェーン現象」など滅多に起こらず、寧ろ、優しさに包まれた「情緒の共同体」が現出するという理念が根柢を支える、如何にも、是枝監督らしい社会派系のヒューマンドラマ

完成度も高い。

感動も深い。

しかし不満も残った。

ここでは、その辺りを拾った批評を言語化したい。

「映画の世界でも実際の世の中でも、僕の価値観を体現した人ばかりが出てくるのは違うから。初枝のようなすごく保守的な人がいたり、そうではない共同体に希望を見出す信代のような人がいたり、何にも考えていないおっさん(治)がいたり...。そうやって多様な人がいるのが自然で、その方がいいと思っています。それを映画の中で描いているつもりです」

これは、是枝裕和監督のインタビューでの言明である。

自明のことである。

「『血縁が無い中で人って家族が作れるのだろうか?』という問いについて考えてみたいということでしょうか。血のつながっていない共同体をどう構築していけるか、ということですね。特に震災以降、世間で家族の絆が連呼されることに居心地の悪さを感じていて。だから犯罪でつながった家族の姿を描くことによって、“絆って何だろうな”、と改めて考えてみたいと思いました」

これも、是枝裕和監督のインタビューでの言明。

是枝裕和監督

「血のつながっていない共同体をどう構築していけるか」という問題意識は、とてもよく分る。

「絆」を描くには、「犯罪でつながった家族の姿を描くこと」という問題提示にも、特段に違和感を覚えない。

とは言っても、「物語」で提示された映像総体に対して違和感を覚えたのは事実である。

以下、要諦(ようてい)のみに絞って、簡潔に批評を繋いでいく。

―― 「負の記号」を集合させて構築した「物語」の振れ具合。

が、この映画を評価できない理由は、ここにある。

「万引き家族」の登場人物の全てが「負の記号」を背負い込んでいるのだ。

これには無理がある。

ネグレクトと愛情欠損。

この二つの「負の記号」が「疑似家族」に集合し、「万引き家族」を引っ張るのだ。

果たして、そんな家族が繋ぐ「全身疑似性」の開展(かいてん)の生命線を保証することが、一体、どこまで可能なのか。

「パンと情緒の共同体」としての現代家族の有り様(ありよう)が、「負の記号」が蝟集(いしゅう)する「情緒」で結束した、この「疑似家族」の最大欠損=「パン」の確保を犯罪で埋めるという方略で、「ミニ共同体」の生命線を繋ぐ手品の駆使のうちに立ち上げられ、昇華され得るのか。

「パン」の絶対的欠損を「情緒」で補う。

これは、全く問題がない。



しかし、その絶対的欠損を万引きで補う。

しかも、「疑似家族」の結束力で補うのだ。

その結束力の生命線には、「時間」という絶対的な縛りがある。

万引きが露顕(ろけん)し、捕捉されるまでの「時間」の縛りである。

その時、「疑似家族」は瓦解する。

この有限性の中でしか生きられない「疑似家族」。

「パンと情緒の共同体」の絶対的欠損を犯罪で埋めるという映像総体の脆弱性。

この脆弱性を浮き彫りにしたのが、矛盾を感受する感性を有し、児童期後期から思春期前期に呼吸を繋ぐ祥太であったという現実の重みは決定的である。

この少年が映画の物語を動かし、支配している。

なぜなら、この賢い少年が、「パンと情緒の共同体」の絶対的欠損を犯罪で埋める「疑似家族」を、ほぼ思春期自我の能力によって破壊してしまうのだ。

少年は、国語の教科書に掲載されている「スイミー」の本質が理解できていた。

「スイミー」

それは、大きなマグロに捕食されることなく、海を泳ぐ唯一の方略が、大きな魚の振りをした小魚たちの集合的、且つ、攻撃的結束力であった。

これを「モビング」と言う。

「モビング」とは、捕食に対抗するための、弱きものたちの「疑似攻撃」のこと。

「モビング」・猛禽の鷹を攻撃するために、多くのカラスが集合し、鷹を駆逐する

弱きものたちが戦闘モードを作ることで、捕食者を追い払うのである。

まさに、「疑似家族」である柴田家こそ、捕食者(身体的・精神的・社会的虐待者)に対抗するために糊塗(こと)した、「万引き家族」という犯罪に大きく振れる、弱きものたちの集合体だった。

集合的、且つ、攻撃的結束力によって大きな魚の振りをし、それが膨張して、「サイン」を起点に平気で盗み(この手法はリスクが大き過ぎると思わなかったのだろうか。リアリティの問題として重要なことだから後述する)、「まだ誰のものでもない」という観念で罪悪感を封じ込め、ゲームの如くリピートしていく。

しかし、祥太の伸び盛りの理性は、「疑似家族」が内包する集合的、且つ、攻撃的結束力の本質に到達する。

そして辿り着いた、「疑似家族」で確保した「パンと情緒の共同体」の欺瞞性の、その恥ずべき面様(おもよう)。

だから、少年は行動に転じた。

賢い少年は勇気ある少年でもあった。

「そうだよ。もう、分ったでしょ。うちらじゃ、ダメなんだよ。この子には」

この信代の言葉を引き出した、祥太の伸び盛りの理性、「善・悪」の観念を射抜くに足る、その思春期自我の形成力。

この関係の微妙な乖離(かいり)の様態が、際立つほどにインパクトのある「物語」に収斂され、観る者の情動の芯を揺さぶっていく。

然るに、最も重要な登場人物である祥太によって露見され、崩壊する「疑似家族」の「物語」を深々と構築したと強烈に印象づけるような、映画の生命線の中枢に極端な設定が踏ん反(ぞ)り返っていた。

一切は、登場人物の全てに「負の記号」を背負い込ませた「物語」の仮構性の、そのエクストリームが作り出した架空の映像世界の所産である。

登場人物の全てに、「負の記号」を背負い込ませることで失うリアリティ。

果たして、「映画の嘘」で「物語」を仮構する意味がどれほどあったのか。

シリアス系の映画が提示した「映画の嘘」のエクストリームに、少なくとも、私はついていけなかった。

「物語」の極端な設定が、「疑似家族」という共同体の「延命」に大きく関わる、映画の生命線の中枢を手応え薄く退色させてしまったのだ。

この一点のみが、頗(すこぶ)る評価の高い、この映画に対する私の最大の違和感だった。

具体的に書いていく。

何より、訳の分らない「サイン」を起点に、平気で万引きをリピートする行動には、ダメ出しするしかない。

それが万引きであろうとなかろうと、「サイン」という「ノンバーバル」(非言語)の仕草は、第三者から、より関心をもって見られやすいので、却って目立ってしまうのである。

増して、リュックサックを背負った少年が、下町のスーパーで、繰り返し「万引き」を繋いでいれば、ほぼ間違いなく、店員の監視の対象になる。











「あなたの店の万引きの25サイン」というサイトを読めば、万引きに被弾するスーパー等の防衛技術の精緻(せいち)さが、手に取るように分るだろう。

例えば、「頻繁な訪問」、「おなじみの顔」、「特大の服やバッグ」、「従業員の常時監視」、「複数の項目を調べる」、「分割グループ」等々。

この難関を突破するのは容易ではない。

不可能であると言っていい。

駄菓子屋にも、二つのカーブミラーが設置されていた事実を忘れてはならない。

駄菓子屋のカーブミラー

それを知っていて、注意する駄菓子屋の心理に横臥(おうが)するのは、幼女の「犯罪」を防止したかったからで、それ以外ではなかった。

言わずもがな、世紀が変わって20年も経つ現在、万引きによるロス率の顕著な高さを考える時、「万引きGメン」を雇うことがなくても、スーパーに防犯カメラがなかったとは考えられないのだ。

防犯カメラは窃盗事件や、トラブル・迷惑行為(商品への異物混入)の抑止力にもなる(録画は証拠提出できる)

そのリスキーな状況下で遂行される「万引き」が、「延命」できるわけがないのである。

気障(きざ)なサインを発案し、プロフェッショナルを気取ったと思えるような治の無能さ。

また、是枝監督が、「ノンバーバル」(非言語)の仕草が第三者の「情動喚起刺激」を惹起するという心理に精通していて、オリジナル作品の中で脚本化したか否か、疑問の余地が大いに残る。

第三者の「情動喚起刺激」を惹起する「ノンバーバル」は、目立ちやすい
「ノンバーバル」

リアリティの欠如は、この「ノンバーバル」の描写で充分過ぎるが、加えて言えば、「ゆりの誘拐事件」の発覚で、「疑似家族」は息の根を止められるはずだ。

テレビで生放送されても、「ゆり」を「りん」という名に変え、髪をカットして済ます一連のシーンは滑稽ですらあった。

「負の記号」を集合させて構築した、「疑似家族」という共同体の「延命」を、犯罪で繋ぐ発想それ自身が気になったのである。





(2020年3月)

2 件のコメント:

  1. 的確なレビューをありがとうございます。

    >シリアス系の映画が提示した「映画の嘘」のエクストリームに、少なくとも、私はついていけなかった。
    同感です。世間の評価(特にカンヌ)と作品の質が乖離しているように思えます。本音を吐露する後半のシーンを説得力のある演技で演じきった役者は見事と言うべきですが、同時に無理のある脚本を演技力でカバーしたドラマだとも思います。テーマを最適な形で料理できなかった意欲作という印象です。

    返信削除
  2. 是枝監督は邦画界において高く評価しているのですが、この作品については拙稿の通り、映画的構築力(構成力と主題提起力)にやや欠けているのが気になりました。いつも読んで下さり、ありがとうございます。

    返信削除